科学と神学――科学者/神学者ジョン・ポーキングホーンの見る相互作用

Interaction of Science and Theology—A Scientist Theologian John Polinghorne’s Case

                                              本多峰子

 

 科学と神学との相互作用というと、まず、中世の宗教裁判を思う人は多いであろう。神学の、宗教に対する無理解な弾圧や真理の歪曲を思い、宗教は科学を曲げない限り生き残れないもの、つまり逆に言えば、真の科学時代には信じ得ないものと考える人は少なくないであろう。あるいは、科学と宗教は二つの完全に異なる領域のものであり、同じ平面上では考えられないと、両者の相互作用を否定する向きもあるかもしれない。たとえば、科学は客観的真理を解き明かし、宗教は、道徳倫理や心の問題にかかわる主観的な問題であると考えるなどである。しかし、実際には、そうであろうか? 

 ジョン・ポーキングホーンは英国ケンブリッジ大学の理論物理学名誉教として、世界的な量子物理学者である。しかし同時に、彼は、英国国教会の牧師でもあり、科学と宗教の相互作用や両者の学問的性質について述べている。『科学と神学』[1] は、特に、科学と神学の性質の類似点と相違を明らかにし、両者の相互作用や接点を考えることで、科学と神学が決して相矛盾する営みでも無関係な営みでもないことを示そうとする今日的営みの代表的な著書として、意味深い。以下に考察してゆくように、彼は、科学にも主観的な判断が入っており、完全に客観的とは言えないこと、また、神学も、人間の宗教的体験をできるだけ客観的に解き明かそうとする試みであり、決して主観的ばかりとは言えないことを、主張している。

 彼は、

 

 私が正しいと思う神学研究は、聖アンセルムスの「知識を求める信仰 fides quarens intellectum」という名言に要約されます。このように考えると、神学は宗教体験に関する考察であり、私たちの理性やものを秩序だてる能力を用いて、私たちと物事のあり方との相互作用において特別の役割を果たしていると言えます。[2]

 

と言っている。つまり、神学は(宗教的神秘主義や神秘体験と混同してはならないが)あくまでも、理性的営みであり、その点では、科学と共通なのである。また、それゆえ、この学問が人文科学といわれたのであろう。これは、scienceのもともとの意味、つまり知性で知ることを、神学も求めているということを表している。

 現在、科学と神学との関係を考えることは、宗教と言うもののあり方を考える上で、2つの意味で意味深いと思われる。

 二十世紀のはじめには、科学が進歩すれば、すべての真理が解き明かせ、生活も便利になり、人間は科学によって幸せになれると信じる人がいたであろう。英国の、小説家、英文学者、キリスト教護教家のC.S.ルイスは、繰り返し、科学万能主義に対する警告を発し、小説『かの忌まわしき砦』That Hedious Strength, などで、科学はそれ自体害のないものでありながら、万能ではなく、絶対化されモラルを忘れて力と結びつくならば、科学技術を握る少数の人間が多数の民衆を支配抑圧することにつながるであろうと、示している。これは、当時、科学に対する一般の無邪気な信頼がいかに強かったかのひとつの指標になる。しかし、二十世紀には、そうした楽観的科学万能主義は破綻した。今日では、かつての楽観的な科学万能主義者はもう、ほとんどいないであろう。二つの大戦では大量の科学兵器が用いられ、とくに、原爆という、恐ろしい破壊力を持つ武器による大量殺戮によって、人類は、過った科学の使用の恐ろしさを見せつけられた。また、遺伝子操作によって、農作物から時には動物にいたるまで、人間が品種<改良>と称して人間に都合のよいように自然を変えて商品を生み出していった結果、さまざまな悪い影響が人間自身の健康や環境に出てきている。そうしたことから、科学と倫理の問題は切り離せなくなっている。ただし、倫理が宗教と無関係に存在しうることは明らかで、それは、たとえば、無神論の人道主義者や、無神論でも道徳的に優れた人々を見れば明らかである。また、逆に、神を信じるように見えても、悪魔のような振る舞いをする人々もいる。そうしてみると、神学をすることは、道徳的実践とはまるで関係がないかのようにさえも思われる。しかし、宗教的な立場から見れば、特にユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教の立場から見れば、道徳や善悪の基礎付けは、神がなしたものであり、神学の営みと、道徳とは、切り離せないものである。そうした意味で、神学と科学の相互作用を考え、科学時代に神学は成り立ちうるかを考えることは、科学と倫理の問題に取り組む上で、ひとつの意味がある。

 また、現代は、科学万能主義への反動で、再び、霊的なものに対する関心が高まっている時代でもある。一方で宗教的なものを、何かきな臭く、怪しげに思う風潮は確実にあり、宗教の自由、信教の自由という法律は、人々が互いの宗教を尊重しながら、自分の信仰を公に告白することを自由にするというよりは、むしろ、人が自分の信仰を他に伝え、布教活動をすることを何かおしつけがましく悪いことのように思わせていないであろうか。キリスト教やその他の伝統的な宗教が、日本では、世間の表に出てきていない。たとえば牧師や僧がマスコミで語るときなども、できるだけ、キリスト教、仏教を信じない人にもすんなりと受け入れられるような配慮がなされるように見える。キリスト教や仏教は、文化、教養としてならばよいが、宗教としては信じられないし、押し付けられたくはないという人々がいかに多いかは、ほとんどどのカルチャー・センターにも設けられている聖書、キリスト教、仏教についての講座の数を見れば一目瞭然である。しかし、伝統的な宗教が積極的な布教を控えている間に、カルト宗教、新興宗教は、確実に日本でも力をもっており、オーム真理教の事件などは記憶に新しい。良識的な者たちが、霊性に対する偏見や遠慮に妨げられて、宗教的なもの、霊的なものに対する正しい認識を深め社会に訴える努力を怠っていれば、誤った認識にたつオーム真理教のようなカルト宗教を真の宗教と思い違えて入信する人々は、さらに増えるであろう。今、伝統的な宗教の側から、真理を追求する営みとしての神学の位置付けを新たにしておくことは意味がある。

 

 『科学と神学』で、ポーキングホーンは、まず、歴史的に、科学と神学とが接点を持った二つの大きな事件、ガリレオ・ガリレイの天動説と、ダーウィンの進化論が出されたときの宗教界と科学界の態度を振り返る。そこから、彼は、科学の性質と神学の性質をそれぞれ考察し、両者の方法論と認識論を比較検討し、その共通点と相違、相互作用の可能性を概観し、次に、われわれ人間には、科学と神学がどのようにかかわっているか、人間という存在に対する科学と神学とのさまざまな取り組みを考え、批評している。さらに、彼は、神の性質についての考察に進み、科学的洞察と神についての洞察の関係を考え、特に有神論での神の行為についての考え方を量子理論と混沌理論という、物理学の概念とのアナロジーを用いて考えている。ここでは、悪の問題、つまり、世界は善なる万能の神に創造されたのならば、なぜ悪があるのか、という問題も考えられる。さらに彼は、焦点をキリスト教に絞り、その中心にある三位一体論や復活の教義を科学者の目で語り、その後、世界の諸宗教に枠を広げて、エキュメニカルな観点から、諸宗教の出会いの場としての科学を考える。最後に、科学から生じる倫理的問題を論じて、彼は、今日の神学が社会において果たす役割を考えるのであるが、本論では、彼の論考の筋を追いながら、考えていきたい。

 

相互作用の領域

 科学は生活の多くの面を便利にし、多くの知識を得させてくれるが、科学によって答えられない問いもある。たとえば、宇宙の歴史の背後には、何か目的や意味があるのか、それとも、物事はただ何も形而上学的な意味などない宇宙で偶然に起こっているだけなのだろうか? 死はすべての終わりなのか、それとも私たちは死を超えた運命に希望を持つことができるのだろうか? などは、科学の問いではなく、伝統的には宗教が答えてきた問いである。しかし、科学の時代に、われわれは宗教を誠実に、真にまじめに考えられるのだろうか? 科学と宗教は対立するものなのか?それとも、補い合うものなのか? それを考えるひとつの道は、歴史上の事例を見ることである。

 ひとつの例は、ガリレオであろう。彼は、コペルニクスの地動説の正しさを確信するに至り、地球は動いていないとするプトレマイオスの宇宙観が聖書に支持されていると信じるヴァチカンの権威者たちと、論争になった。結局ガリレオと彼を批判するヴァチカン側のベラルミン枢機卿との間に何らかの形で和解が結ばれ、ガリレオは終身刑を免れ、自宅軟禁となったが、結局、ガリレオが折れ、知的な自由が制限されたことにはかわりがない。

ただし、ポーキングホーンは、この事件は、科学の問題であるだけでなく、ガリレオとベラルミン枢機卿の、聖書と科学理論とに対する形而上学的前提の問題でもあることを示している。ガリレオは、聖書を尊重はしていたが、聖書から高度の物理的法則を読み取るろうとすることを誤りと考え、もし、聖書の言葉の表面的な意味と科学の結果とのあいだに矛盾があるように見えるのならば、該当の聖書の箇所から読み取るべきは、科学を超えた深い意味であり、科学的法則ではないと、考えていた。それに対し、ベラルミン枢機卿は、数学的理論は、コペルニクスの理論と同様、単に「見かけを説明する」ためだけのものだ――つまり、計算上の道具に過ぎず、必ずしもまじめに文字通りに受け取ることはないという考えを、ガリレオに押し付けようとしたのだと、ポーキングホーンは指摘している。(p.6)これは、科学の哲学におけるひとつの根本的な問題に関わる問題である。それは、科学理論はただ、便利な「語り方」に過ぎないのか、それとも、物理的世界を、ありのままに描写するものなのか、という問題であり、さらには、物理的世界のありのままの姿は果たして認識可能なのかという問題にもつながる。それは、科学の性質を論じるときに戻って考えることになる。

 第二の例は、1859年にチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版した後の、宗教界と、科学界の両者の反応である。英国学術協会の会議の席で司教サミュエル・ウィルバーフォースは、進化論を支持するトマス・ハクスレーに、お前は祖父の側を通して猿から進化したのか、祖母の側からかと尋ねたと言う。ハクスレーは、真理に向かおうとしない司教よりは先祖に猿を持ったほうがましと、批判をしたそうである。この話がどこまで真実かは、疑問が残るというが、宗教界の中に、ダーウィンの進化論をまじめに受け取りたがらない空気があったことは事実であろう。しかし、宗教の側が、ダーウィンを完全に無視したり、否定し去ったりしたということも、ないようである。ウィルバーフォース自身も、科学的問題には真の興味を持っており、『種の起源』の書評を書いたが、その指摘は、ダーウィン自身も、彼の理論の問題点を突いていると認めていると、ポーキングホーンは報告している。(p.7)また、教会側にも、進化論を受け入れる者がおり、たとえばチャールズ・キングズレーは、自然淘汰を、神の創造の業の方法であると考え、ただ、進化論は、創造が一瞬にしてなされたという考えに取ってかわり、被造物はまず存在させられ、その後自己形成の力を与えられているという理解につながるとしたのである。

 科学界の態度も一致していたわけではなく、当時、自然淘汰による進化の考えには、生物学や、地球の年齢などを考えた年代の考察などから、批判が出たという。それゆえ、これは、単に単純な、科学対宗教の対立ではなかったのである。そして、両者が自分の考えを修正することによって、結局、落ち着いたのであると、ポーキングホーンは示しているが、相互作用によるこの修正は、ひとつの重要な事例であろう。

 ポーキングホーンの指摘として、さらにもう一つ重要なことは、古代ギリシアや中世の中国が非常に進んだ学問を持っていたにもかかわらず、近代科学が起こったのが17世紀のヨーロッパだった理由が、創造の教義を信じていためだということである。創造の教義には、次のような含蓄があるからである。

 

     世界は秩序だっている。神は理性的だからである。

     創造主がどのような創造の形式を選ぶかには、前もって何も拘束がなかった。それゆえ、神が自分の意思で選んだものが何であるかは、見てみるしか(つまり、観察と実験しか)ない。

     被造物はそれ自体は聖なるものではないから、それを調べることは不敬虔ではない。

     世界は神の被造物だから、研究する価値がある。

 

こうしてみると、科学の基礎には、宗教的信念があることになり、宗教と科学は決して対立しないことになる。実際、ニュートンが優れた聖書学者であり、自分の科学者としての仕事が、神の世界を明らかにする宗教的営みであると考えていたことは知られている。

 

 科学の性質

 

 多くの人たちは、科学がどのように進歩するかを、あまりに単純に思い描いています。科学の発見というものは何かはっきりとした必然的な予測があり、それを曖昧さの残らない決定的な実験結果に照らしてなされるものだ、そして、予測と実験結果と予測がぴったりと合った時、それは、難攻不落の科学的真理として確立する、と考えるのは、間違った誇張です。実際には、またもや、現実はもっと複雑でもっと興味深いものです。(p.9)

 

 彼は、科学において、理論と実験が一般の考えているようにははっきりと切り離すことが出来ないこと、理論に用いられるいわゆる<事実>は、測定されたデータであり、そのデータ自体にすでに解釈が入っていることを示す。第一に、現代の、原子より微小な粒子を調べる実験では、生のデータは、実験装置の内部での光や放電の閃光として表れ、その、肉眼で見た出来事を、ミクロの世界の実体に移しかえる作用があるが、それには電磁作用についての、詳細な理解に頼らざるを得ないと、彼は言う。第二に、実験では、必要なデータが純粋な形で得られるわけではなく、いわゆる「背景」の問題がある。(P.10)摩擦や、サンプルの純粋さや、温度変化や、競合する作用などの影響が、観察結果の性格をゆがめてしまうということである。そうした影響を考慮して、データを読み取るには科学者の経験と洞察による判断が必要なのである。第三に、科学理論がもとづく経験(実験結果など)は、すべての事例を網羅することはできず、必ず推論が入るのである。

 科学は、不動の真理を得たと主張することは出来ないであろう。むしろ科学の世界では、しばしば抜本的な改訂が起こっている。新しい領域、たとえば、より高エネルギーの領域やより低温の世界が、実験できるようになったときなどである。たとえば、二十世紀の物理学では量子論と相対性理論が生まれたが、ここには日常生活の世界から、原子以下の世界に移ると、ニュートン理論で説明される確定的な世界が溶解し、量子理論での曖昧で発作的な動きを始めるという発見がある。同様に、粒子が光に比せられるほどの速度で動くと、その体積はもはや一定せず、動きの速度が増すにしたがって体積も増すという発見から新しい理論が生まれた。トマス・クーンのいわゆる「パラダイム変換」である。ニュートンのパラダイムとアインシュタインのパラダイムは、同じ標準では測れず接点がないながら、どちらの当てはまると見られた。しかし、今では、ニュートンの古典力学が、相対性力学の限られた場合であって、速度が光りに比べて非常に遅い場合には充分適切なのだということが知られている。「科学理論は、物理世界の地図を作っているのだと、考えられるでしょう。地球について言える事をすべて語っている地図はありません。尺度を変えれば、新しく予期しなかった様相が見えてくることも充分ありえます。けれども、地図は重ねてみることができます。そして、それらが互いにどういう風に関係するかも理解することができます」(pp.11-12)と彼は言うが、科学理論は積み重ねで真理に近づくものであるという考えは、重要である。

 科学には客観的真理を得ることが出来るか、ということに関しては、科学界の中にもさまざまな見方があり、科学は「見かけを説明するだけの」もの、つまり、物理世界の「ありのままの」姿を描写しているかどうかに関わらず、実験結果に合致する説明をするだけであると考える消極的な見方さえある。ただし、ポーキングホーンは、これは科学者が自分たちの発見に対して抱く実感、発見しているという喜び、とは矛盾すると言う。消極的見方をさらに進めるのは、科学は、すべての例を実験して何かを実証することは出来ないが、反証するにはただひとつの例をあげればよいことである。そこから、科学が得られる知識は、真理についての知識ではなく、誤りについての知識でしかない、と見る者さえいる。

また、科学の実利主義も、実際の科学者の営みとは矛盾する。真の科学者は、世界の仕組みを知りたいと言う欲求に突き動かされて研究を進めるのである。そのたとえとして、ポーキングホーンは、仮に気象庁の人々が天気を確実に当てる機械をもらったところで、その仕組みが分からなければ、満足しないだろうと言う。彼らの望みは、単に天気を予測することではなく、天気を理解することだからである。

 

 

 科学の限界や動機をこのように認識した上で、ポーキングホーンは、いわゆる「批判的実在論」 (P.17)を提唱する。それは、物理世界の性質について、ますます真理に近い知識を得ていると主張している点で、<実在論>の立場にたち、その知識が、起こっていることを見てじかに得られるものではなく、解釈と実感の間に微妙で創造的な相互作用が必要だという点で、<批判的>である。

 

この幾分間接的な認識法をみとめるならば、科学がある程度、人間の行う他の形の探求と似通っていることが分かるでしょう。科学は明確で疑いのない事実を扱うもので、他の学問は曖昧な私見で満足するべきなのだ、とは考えられません。それどころか、人間の知識はすべて個人的な知識であり、ただ、科学は研究対象を操り実験にかけることが出切るという点で、他の経験領域にはない確証の手段をもっているだけです。他の経験領域の、たとえば、人との個人的な出会いなどでは、相手の誠実さに敬意をはらって、もっと控えることが必要になります。……批判的実在主義は、ものごとはこうあるべきだという抽象的な要請ではなく、科学界の実際の経験に基づいた哲学的立場です。哲学者仲間の中にはこの見方に批判を向ける者がいますが、このように経験に基づいているからこそ、圧倒的多数の現場の科学者たちが、意識的にしろ無意識にしろ、この立場を取っているのです。(P.17)

 

ポーキングホーンが科学の分野から出す、神学に相通じる概念は、「共存」の概念である。これは、ことに彼が量子の世界に見た、波性と粒子性の同時存在からひきだされる。粒子は小さな弾丸のようであり、波は広がりはためくようなものなので、そのような動きは古典物理学ではまったく理解できない。現在の物理学者は、波と粒子の二重的性格を、共存原理、つまり、ひとつの波のような状態は、無数の粒子を含むという原理によることだと理解していると述べながら、ここでポーキングホーンは、この共存性にニールズ・ボーアの出した概念である「補完性」を見ている。それはつまり、波・粒子の組み合わせにおいては、波性と粒子性がおのおのそれ自体で完結していながら、同じ現象に当てはまることが可能だということである。またもう一つの例として、量子論では、粒子の場所か運動量の両方を同時に図ることは出来ない。位置を測る測定が運動量に影響を及ぼすなどの作用があるからである。ただし、その量子系の反応を、場所的な観点から描写するか、運動量の観点から描写するかどちらかならば可能であり、ここでも、共存原理と補完性が見られる。

 ポーキングホーンの指摘する共存原理と補完性は、キリスト教の三位一体を非科学的と退ける者に、訴えかけるものはないだろうか?

 

 神学の性質

 ポーキングホーンは、ジョージ・リンドベックを参考に、神学の営みを「認識論的」方法、「経験・表現的」方法、「文化・言語学的」に分けて考える。

「認識論的」方法は聖書や伝承などを基礎として神についての命題を述べることに関わる。「経験・表現的」方法は、人格的な神との出会いという経験から、神と向き合う方法である。これは、科学がリアリティーを対象(「それ」)として扱い、世界と、非人格的な向き合い方をするのと対照的であり、対象とする神を人格的「あなた」として認識する。「文化・言語学的」では神学は、共同体内での行為や話法の権威ある指針を特定するものとみなされ、人々が生きるうえで、自分の経験を評価する視点を与える。宗教が、共同体内に共有される生き方を提供することになる。それぞれには、危険があり、認識的なやり方は、月並みになってしまう危険があり、しかも、神が存在し、その神と結びつかなければ意味がない。経験的・表現的やり方は、感傷的な道徳主義に堕しうる。文化・言語的やり方は、「私たちが物事を行っている仕方」をただ承認するだけにもなりうる。

 このように、神学にも、対象に向かう方法論と、それぞれに限界があることをポーキングホーンは示すのだが、結局、科学と神学との関係において彼が言いたいことは、両者が、対象は異なるが、同様に、真理を求める探究であり、どちらも絶対的にはなりえないが、両者とも、しかるべき学問であるということである。

 

 科学と同様、いえ、それにも増して、神学でも、真実に出来る限り近い知識を得ようとする探求は微妙で、多面的です。単純で平坦に言い表せる性格のものではありません。どちらの学問にも、批判的実存主義は、発見するべき真理があるということを認めながら、その一方で、その真理は、単純で特定可能な技術を適用して発見できるものでもないということにも気がついています。どの学問も、動機付けられた信念を探求するものですし、その理解は、解釈された経験を源とします。その過程での必然的な円環性は、神学では、驚くべきことでも、困惑させるものでもありません。アウグスチヌス以来、人は、理解するためには信じなくてはならないし、信じるためには理解しなければならないということを知っている。

 科学に何か科学だけが持っている優れた「科学的方法」で知識に到達する特権的な道があるわけではない。そして神学にも、疑問の余地のない「啓示」などという、神学だけの特権的な道があるわけではない。どちらも、多面的な真理と出会い、その出会いの意味を把握しようとしているのである。違いは、科学の場合には対象となるリアリティーが物理的世界であり、人間がそれを超越して実験にかけることが出来るのに対し、神学の場合には、それは、神のリアリティーであり、私たちを超越しており、私たちは畏れと従順さで、そのリアリティーと出会うしかないということなのである。ポーキングホーンは、その区別さえ理解できれば、この二つの学問が、対照的な対象のせいで異なる点はあるが、知的には親戚関係にあると、強調している。

 

さまざまな相互作用

 科学と神学の学問を、二つの独立した学問とみなす見方は強い。この見方を表すのによく言われるのは、一連の二項対立で、「科学は<どのように>と問い、宗教は<なぜ>と問う」、「科学は客観的で非人格的なものを対象にし、宗教は主観的で人格的なものを対象にする」といったことである。しかし、ダーウィンの進化論が創世記に対する神学の見方を変えたように、両者が共通の興味を持つ現象については、二つの学問は互いに言い合うことがある。つまり、宇宙の歴史や、生命の出現や、人格としての人間の性質や、心と体の関係などについてである。ポーキングホーンは、科学と神学が、それぞれしかるべき自立性を保っているが、両者がなす陳述は、互いの共通領域では適切に調和しなければならないこと、つまり、「どのように」と「なぜ」は、無理なく適合しなければならないこと指摘する。たとえば、長く忍耐強い生物の進化の過程を、常習的に気まぐれでな力で働く神という神学的概念と調和させるのは、難しいであろう。またさらに、彼は科学と神学の概念を最大限に結合させる試みを、同化として考える。ここではどちらも完全に相手に吸収されることはないが、両者は緊密な関係におかれ、たとえば、科学の進化論の立場から、イエスの地位を理解して、イエスを、人間の潜在性がさらに花開いた「新しい創造」の例として見る。

 

モデル、メタファー、シンボル

 ポーキングホーンが、量子力学者であることは、彼に、科学も神学も、見えないリアリティー(量子、神)を語らなければならないときには、単純な、当たり前の記述は出来ない、また、どちらも、非常に複雑な事柄について話す状況では、ある程度の選択的単純化が必要な場合があるということを強く感じさせている。かれは、科学と神学はどちらも、思索的な議論を行うときには、類推的な手段、つまり、比喩やモデルを用いることが必要になるということを指摘している。これは、神学と科学の真理の性質、あるいは、表記の性質を考える上で重要である。科学では、分子や、運動、気体の状態を現わすのにモデルを用いるが、モデルの成功は、いつでも、限られたものであり、部分的な類似性を利用したものに過ぎず、ひとつのモデル、たとえば気体について放電があるときの反応の特性を示すために使ったモデルは、他の特性を説明することは出来ないと、彼は言う。時には、異なる特性を説明するために、一見矛盾するモデルが用いられることさえあると、彼は指摘する。これは、分子モデルなどが、分子の実際の形を現わすと考えがちな一般人に、科学の表記が決して、リアリティーのありのままを表すものではないということを知らしめる。神学が、しばしばモデルを用いることは周知である。神学では神を、厳しい裁判官や慈悲深い父として語る。そしてその選択は、神とのどのような出会いを理解しようとしているかによる。ここでもやはり、いかなるモデルについても本質的には十分だということは出来ず、異なる二つのモデルの間の緊張は、それらが当てはめられる異なる経験(人間の改悛/ 裁きの際の神の受容/ 父なる神など)を考えることによって、解かれるべきものだと、彼は言う。同様に、メタファー、比喩、なども、そうした類推的手段を用いる以外には完全にあらわし得ないような、しかもひとつの領域にだけは限定されないやり方で、二つの概念を明らかにする解き放たれた力を持った結びつきを生み出していると考える。特に、神学では無限のものに関する経験を有限な言語で表そうとする際の助けとして、メタファーの開かれた性質をうまく利用することが出来る。ポーキングホーンは、特に、象徴が神学的言語に果たす役割を重視し、それが文学的な性質に限ったものではなく、表すリアリティーに参与する力を持つと言う。「象徴は、秘蹟に近づき、生命の通った性質があるために、神学的表現には不可欠」(p.24)である。その特に力強い形は神話であると、彼は考える。そうして見ると、神話とは、「それよりも文字通りの意味では十分に表現できないほど深い真理を表す話」(p.24)という意味であり、単なる作り話と受け取るべきものではない。作り事という意味合いはない。

 このように、神話に真理を表す力を見る考え方は、神学の側からは、今世紀にはG. K.チェスタートンによって示されている。神話は、表しようのない真理を、出来る限り描き出そうとする試みであり、科学的理性とは異なる、想像力を用いた真理へのアプローチである。チェスタートンは、原始的神話を非科学的で誤っているとする向きを批判して、こう語っている。

  

作り話が劣ったものであったにしろ、それは科学によって正しく判断できることではない。神話によっては荒削りで奇妙なものもある。子供の初期の絵のように。でも、子供は絵を描こうとしているのだ。それを、その絵が図形であるかのように、あるいは図形を意図して描かれたものであるかのように扱うのは、負けず劣らず誤ったことだ。学者は野蛮人に対して科学的言説は下せない。野蛮人は科学的に世界を語っているのではないからだ。[3]

 

そして、ポーキングホーンは、科学にも、想像力を用いたモデルや比喩が必要であることを認める点で、注目に値する。[4]

 

人間性

人間性についての考察は科学と神学とのもうひとつの大きな接点である。科学は、人間を還元論的に物質として扱い、神学は精神として扱う、という単純な二分法を、ポーキングホーンは取らない。科学にも、心理学、社会学、その他あり、人間を全体論的に扱う領域や科学者はいる。極端な還元論、つまり、ポーキングホーンの言う成分還元論は、全体を部分に分けてゆけば、その結果できた小片の中にある程度までは全体を構成する実体が見出せるという主張であり、人間も、その成分に分けて考えようとする。しかし、これは、人間に命を与える要素、たとえば、「生の躍動」とか生気といったものの余地を残さない。なぜ人間に命があるのかを説明できないのである。ただし、そこまで行かなくとも、還元論には実際どおりではなくても、原理的には、人間性は、還元的な記述で完全に表せる、という考え方もある。

 問題は、物質と精神というようにつながりのない領域が、どのように関係しあって人間としての高度な統一体を作るのかである。たとえば、人間が自分の腕を持ち上げたいと考える精神的意図は、どのようにして腕を動かすという物理的行動になるのかである。精神と肉体の単純な二元論は薬物や大脳障害が精神的プロセスに及ぼす影響や、人間の世界と宇宙が精神のないエネルギーのクォーク・スープだった原初の時代とが断絶なくつながっているように見える歴史を考えれば、受け入れ難い。

 機能主義者はしばしば、精神と大脳の関係を物質主義的に、大脳のコンピューターモデルによって表現する。彼らは、人間の神経組織はコンピューターの組織と類似しており、ただ、頭脳のほうが、目下作られたいかなるコンピューターよりもはるかに複雑で、はるかに連結性が高いのだと見る。しかし、ポーキングホーンは、この見方に対し、もし、大脳がコンピューターならば、それにプログラムをしたのは何か、と問わねばならない、と言う。進化の必然が、生存に必要な条件にあわせて大脳の神経作用を形成したのだろうと、考えられるかもしれないが、これで、人間の精神的能力がすっかり説明できたとは信じられないと、彼は言う。

 

 私たちの知的力は、自然淘汰によって必要とされると信じられる度合いをはるかに超えています。たとえば、人間が原子以下の量子の世界や宇宙空間の構造を知ることに、生存に必要な価値があるでしょうか。この、非常に過分な理性の力を、ただの幸福な偶然や、もっと平凡な必要物に付随する単なる副産物とみなすことは、奇妙に説得力がありません。人間の洞察力の他の形を説明するにも、同じような難しさがあります。(p. 59)

 

 

 ポーキングホーンは、人間の精神や意識は、その起源も大脳との関係の本質も、分かっていないと認識しながら、二面性一元論、つまり、人間を精神と物質を併せ持つひとつの全体としてみる見方が可能であろうと考える。そして、精神と物質は、補完的関係にあるのではないかと、見るのである。

ポーキングホーンが、還元主義的、物質主義的見方を受け容れられないのは、反証があるからではない。その点で、信仰、形而上学的なレベルの信念とみなせる。しかし、そのことは、それ自体、肉体と精神の問題が、科学の範疇だけでは解決がつかないということのひとつの証言ともなる。

 

有神論

 神の概念は、宗教、民族によって多様である。ポーキング・ホーンは、リチャード・スウィンバーンに習って、本書では、西洋の宗教的伝統で理解された神の概念を、全知全能の完全に自由な人格に結びついたもの考えている。神の存在を証明しようとする試みには、長い歴史があり、さまざまな理論があるが、反論の出ないような確定的な理論として成功したものはいまだかつてない。

その中でポーキングホーンが本書で注目しているのは、「自然神学」である。これを、彼は「理性を働かせて世界を吟味するといった一般的な技法で神について知ろうとする試み」(p.69)としており、通常存在論といわれる、アンセルムスの議論(神を、「これよりも偉大なものは考えられない」存在と定義し、存在しているほうが存在していないよりも偉大に違いないゆえに、神は存在する、と結論する弁証法)もこれに入れている。自然神学の例でもうひとり、彼が上げるのはトマス・アクィナスである。アクィナスの自然神学は、彼のいわゆる「五つの道」で表されているが、これは、世界の一般的な性質を見て、そこからその背後に神の必然的な存在を識ることが出来ると主張する理論である。とくにその五番目の道は、生物の適正さに認められる設計に訴え、それは神という設計者の目的の表現である、と見るもので、このように世界の構造に神の設計を見る議論は、18世紀の十八世紀の終わり頃からキリスト教の自然神学で再び隆盛を見た。その代表的はウィリアム・パーレイで、動物の目の仕組みや人間の手がいかに適切に出来た機械のようであるかに注目し、機械には必ず設計した人がいるように、世界にも設計者がいるに違いない、それが神であると見るものである。しかし、この議論は、1859年に、チャールズ・ダーウィンが出版した『種の起源』で終わる。これが、設計者の直接の行為に訴えたりしないでも、自然淘汰によるわずかな差異の積み重ねで、設計があるかのような複雑な生物の進化の可能性があると示したからである。

 しかし本書で、ポーキングホーンは、今日物理学者などから出ている新しい形の自然神学を提唱する。

 

 この自然神学は、過去のものよりもつつましい主張しかしません。 陳述は、論証ではなく洞察としてなされます。神の存在が論理的にうむを言わせぬように証明出来るとは(神が存在しないこともですが)言いません。ただ、有神論をとったほうが、無神論よりも、世界や人間の経験の意味が良く理解できると言うのです。それは、神の存在を信じない人が愚かだというわけではありませんが、神がいると信じる人のほうが多くのことを説明できる、ということです。(p.71)

 

 ここで彼は、神がいると信じるほうが多くのことを説明できる、と言うが、これは実際、今日、神の存在証明の試みが言える最大限のところであろう。ただ、神が存在しないことも証明できないことは、忘れてはならないことである。神が存在するとしないとでは、人間の生き方は異なってくるであろう。つまり、われわれは、神が存在すると考えて生きるか、神が存在しないと考えて生きるか、選ばねばならないのである。そうしたときに、ポーキングホーンが言うように、神がいるというほうが、世界や人間の意味がよく理解できると認めることは、無意味なことではない。

このあたらしい自然神学は、科学の領域を越えたところで形而上学に向かい、科学と補完的役割を果たそうというものである。その問いは形而上学的で、科学的経験から起こるのだが、科学的知識の領域を越えている。世界はなぜ存在するのか、という、宇宙論的議論の根底にある大きな問いに関わるものである。「自然の法則の形は、科学の力で答えられる領域を越えた問いを起こし、さらに深く、より包括的な理解が必要であると指し示す」と、彼は言う。(p.72)その問いとは、「なぜ、物理世界はわたしたちにこれほど理解可能なのか?」、「なぜ、物理世界の法則は実り豊かな歴史を可能にするほどによく微調整されているのか?」、より簡潔に言えば、「なぜ科学は可能なのか?」と、「なぜ宇宙はこれほど特別なのだろうか?」(p.72)という問いである。

 特に、ポーキングホーンは、世界の理解可能性、つまり、宇宙が驚くほど、人間の理性で見とおせるように、人知に開かれているということに、注意を促す。なぜ宇宙が人間に理解できるものなのかということについては、論理的に決定的な答えはないと、断りながら、彼は、もし、世界が理性的な神に創造されたものならば、そして、もし私たちが神の似姿に造られたものならば、宇宙に秩序が合って、それを私たちが頭で理解できるということも、完全に理解できると言う。(p.73)

 

人類原理

 ポーキングホーンは、宇宙が、現在のような人類の進化を可能にするものであるということに、科学だけでは解き明かせない力――つまり、神――の介在があるという可能性を見る。彼はビック・バン宇宙論をとっているが、ビック・バンによる宇宙の膨張の効果と、物質をひきつけあう引力の結合力がほとんど釣り合っていた結果、宇宙が、あまり急速に薄まることもなく、急速に縮んでつぶれてしまうこともなかったことが、生命を可能にしたと、指摘する。そのような釣り合いの取れた宇宙でしか、その構成要素の間に十分な相互作用もありえず、その相互作用が十分に永い歴史の間続いて地上の生命の出現のような実り多い発達が出来ることもありえなかった。また、存在する元素の構成や、重力や電磁気の固有な力など、世界の物理的構造を決める量がほんのわずかでも変わっていたら、人間は存在し得なかったであろう。

 

炭素を基礎にした生命が進化することの出来る宇宙は、実に特殊な宇宙であるということです。基礎的な物理的作用の性質が「微調整出来た」宇宙、とでも言えましょう。この驚くべき洞察は、「人類原理」と呼ばれます。(p.36)

 

このような特殊な宇宙があり、われわれが生まれたということの説明は二つあると、彼は言う。宇宙が多数あるという説明と、神の意思という説明である。非常に多くの異なる宇宙があり、それぞれ独自の物理的法則や環境があれば、偶然に、そのうちのひとつで条件が、われわれのような生命の進化に適合したものになる可能性がある。他方、宇宙はひとつだけで、その、微調整された物理的構成が、創造主によるものと考えることも出来ると彼は言う。この見方は、宇宙や人体の精巧な仕組みに神の設計を見る宇宙論的神の存在証明の流れを組む見方である。このどちらの説明が正しいかは、形而上学的性質の問いであり、科学的にそのどちらかを証明することはできない。ただし、多くの世界があり、その中のひとつが人間に適していたと考えるよりも、神によってこうした世界が意図され、創造されたという説の方が納得がいくと、ポーキングホーンは言う。単なる確率の問題として考えるならば、その中で人類に適したものが起こると説明できるくらい多くの種類の宇宙があると考えるためには、常識で考えられない数の宇宙を想定しなくてはならなくなるからである。彼は、多くの世界も創造も、同じだけの信憑性があると認めながら、ここでも、創造の説の方が、より多くを説明する、という理由から、こちらを取るのである。

 

創造の原理は、神の存在の累積的な証明の一つとして見なされるならば、宇宙の理解可能性を根拠にした議論も証明の一環として貢献し、さらに強い支持を得られるでしょう。一方、他に多くの宇宙があるという想定は、人類に都合の良い偶然を理解したいという望みからしか出てきません。(p.76)

 

 神の創造は、最初の一瞬だけのことではなく、生命の進化や、この世の継続を支える持続的力として、ずっと続いていると考えられ、聖書の「創世記」の記述を文字通りの真実としてとる必要はない。

 

宇宙論

量子の真空は、何もない空っぽの空間ではなく、変動するエネルギーに満ちた活発な環境です。私たちの宇宙が膨張によって非常に膨れ上がった真空状態の変動から生まれたということも、まったく考えられないことではありません。(p.35)

 

 こうしたビック・バンの宇宙論は、科学と神学の相互作用の領域では、キリスト教の<無からの創造>の教義を考えるときにことに興味深い。現在の旧約聖書学のテキスト解釈では、旧約聖書の冒頭「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり…」(創世記 1.1-2。日本聖書協会『新共同訳』の訳による)は、「神が天地を創造され始めたとき、世界は混沌であった」と、訳す方が良いとされているという指摘がある。それは、文法的な解釈に関わる問題であるが、この、混沌からの創造が正しい読みだとすれば、上でポーキングホーンが示したような、現代宇宙論の宇宙の始まりは、聖書の創世記の物語と酷似していることになる。聖書では、闇の中にまず「光」が作られるが、これはビック・バンの爆発の光に相当する。そして、次に、夜と昼が創造されるが、これは、太陽の周りを回る地球が(自転によって昼と夜を持つ)できたこと、そして海と空だけだったところに、陸が出来、植物が創られ、動物が創られるということは、決して、科学的世界観と矛盾があるわけではない。ポーキングホーンはここまでは言っていないが、ビック・バンの宇宙論は、科学時代を経て、旧約聖書とまた結びつく円環をなしているようにさえ思える。聖書の天地創造の6日間を、人間の24時間の1日を基準にして理解する必要はないであろう。神と人間の時間の基準が同じであると考える必要はないからである。(火星と地球でさえ、1日の長さは変わる。)

 少し横道にそれたが、ポーキングホーンの考えに戻りたい。

 

 神議論

 神議論の問題、悪の存在の問題については、彼は、伝統的な神議論の二つの見方として、「悪は<善の欠如>である」、という見方と「悪いことは他の非常に善いことをもたらすのに必要な代価として起こる」と主張する見方とがあると指摘し、神議論の議論は、深い苦難の謎を完全に説明すると主張することは出来ないと、認めている。

 しかし、彼は、悪の存在を可能にする自然の要素に、神の恵みを見ており、その点では、伝統的議論の後者に属すると見られる。第一に、自然を作る偶然と必然である。歴史の偶発性は、被造物に自己形成の力を与える。また、法則に従った必然性は、信頼性という、神の贈り物であると、彼は言う。実り豊かさと挫折は、偶然と必然の相互作用の結果であり、たとえば癌の存在も、神の力不足や無神経さのしるしではない。第二に、恩寵と自由意志の問題もある。神は、行為するが、強制的な支配はしない。悪は神の意思と反するが、宇宙の暴君によって創造されたのではない世界では、悪が起こることも、神に許されているのである。「神は、創造された他者に余地を残すように手を放し、自由なプロセスや人間の自由意志の行使から生じた結果を受け入れているのだ」(p.95)と、彼は言う。

悪と苦難の問題にはさらにまだ特別のキリスト教的見方がある。ポーキングホーンは、神自身がキリストを通して痛みを伴った創造のプロセスに参与しており、また、死を超えた運命の中で癒され成就する希望を与えられていると、考えているのだが、これは、キリスト教徒としての彼の信仰から来るものである。

 

主な世界宗教

 今日、世界の諸宗教を、宗教多元的な視点を意識して論じる動きが出ていることは周知のことである。この点でポーキングホーンは、キリスト教共同体の内部でのエキュメニカルな議論さえも遅々としてしか進まないことを考えれば、世界の諸宗教がその対話においてかなりの進歩を遂げるまでには、何世紀もかかるであろうと述べながら、世界宗教に共通している点として、「聖なるもの」(これは、直接ふれる日常的なものを超越したリアリティーとして理解される)との共通の出会いを、指摘している。(p.120)神秘経験の報告は、どの宗教的伝統で起こったものにもみな類似性があると言える。

 諸宗教間の不一致を複雑にしているのは、各々の宗教自体の中にかなりの相違があることや、それぞれの宗教の古典的な形が出来た文化的背景が異なることである。

 そこで、宗教が他宗教に対して取りうる立場は、排他主義、多元主義(すべての宗教的伝統を本質的にはみな同等の位置に置く)、抱合主義(他宗教を認めながら、最終的救いは自己の宗教によると考える。カール・ラーナーが他の宗教の信望者を「無名のキリスト教徒」と呼んだのは、その有名な例である)、などがあるが、本質的に解決はしていない。

 

接触点としての自然科学

そうした状況で、ポーキングホーンは、自然科学が、諸宗教に共通の対話の場を提供できると考える。そこで論じられることの可能性としては、「物理世界の性質とそれに対する私たちの関係をどのように理解できるだろうか?」「宗教の形而上学と、量子理論との関係はどのようなものだろうか?」「一五〇億年にわたる宇宙の進化の歴史や、四〇億年にわたる生命の進化の歴史は、宗教的伝統のさまざまな創造神話とどう関係するのか?」「物理世界の深い理解可能性は、宇宙に<精神>が存在するしるしであろうか?」「人類原理に沿ったこの宇宙の自然法則の微調整はこの宇宙に目的があることを示す印であろうか?」「神経生理学や心理学や精神哲学は、どのように人格としての人間についてのわれわれの理解に影響するだろうか?」「宇宙が最終的につぶれるか崩壊するかについての科学の予言の意義はなんだろうか?」「宗教生活における認識的な理解、表現、共同体に導かれる生活などを科学的に見た社会との類似で考えることで、何か洞察は得られるだろうか?」「科学者が証拠から理解を導く際に非常に自然に行う下から上への思考法は、宗教の主張に知的考察を加える際にどのような役割を果たすだろうか? 」などである。

 また、彼は、最後に、科学と神学の相互作用の起こる今日最も重要な領域として、科学技術の使用における、倫理性の問題を挙げている。原爆を作った科学者が、引き返せない瞬間になるまで自分たちの行っていることが何なのかを真剣に考えなかったことを指摘し、彼は、科学技術のプロジェクトに関わる専門家は、新しい発展が持ちうる長所と短所を評価することが出来る人間として、公正で周到な助言をなす倫理的義務を負っていると、訴えている。それは、原発から、環境保護の問題に至るまで、広く当てはまる。

「科学と神学の相互作用の、最も意義深いひとつの面は、科学や科学技術の偉大な試みが正しくなされるには不可欠の倫理的指針の根拠を神学が供給することなのです」(p.133)と、彼は言う。科学が神学的理解を助ける可能性を、量子物理学や宇宙論から引き出すと同時に、このように、彼は、神学が科学の指針になる領域も指摘し、両者が、相補ってともに必要であることを論じているのである。

 

終わりに

 このように、ポーキングホーンの議論を概観した。結局、彼が訴えたいのは、科学も神学も、ともに真理を求める学究的営みであり、どちらも絶対的な真理を主張することは出来ないが、補完的な関係を持って、ひとつの真理に近づくことができるということ、どちらも相手に言うべきこと、言えることがあり、両者ともに重要だ、ということであろう。たしかに、神学の有効性、有意義性を、いかに理論で述べても、頭で理解したことは、必ずしも信仰を深めはしない。けれども、知的理解は、信仰を深めることもある。そして、科学が今日の精神性、宗教性、モラルに果たす役割や義務を考えることは、科学技術が重視され、先進技術が未来を創ってゆこうとしている今日、重要なことである。

 本論の論旨とははずれるが、ポーキングホーンが読者に訴えるひとつの力は、彼の、キリスト教徒としての感性である。本書には「世界の痛みや苦しみにもかかわらず、人間は深いところで直感的に、最後にはすべて絵が良くなるであろう、究極的には歴史は意味をなすだろうと感じます。……夢にうなされて目を覚ました子供を慰める親は、「大丈夫よ」と言って安心させますが、その安心感は……人間経験のつらさにもかかわらず人の心の奥にある希望の徴なのです」(p.82) という言葉があるが、それを、彼は他のところで、次のように言っている。それを持って本論を閉じたい。

 

物理的宇宙の美しい構造への驚きを感じることは、科学者にとってあまりにも基本的な経験でもあり、科学研究に付き物の、あらゆるうんざりするような労働に報いるものですが、これは、創造主の心を認知することなのです。私たちの美の体験は、創造における神の歓びへの参与です。私たちの倫理的洞察は、神の善と完全な意志を知らせてくれるものです。……宗教体験の一般的性格をふたつ、確認しておこうと思います。一つは、崇拝、つまり、恐れと栄誉にふさわしい価値のある<実在>Realityとの出会いを、どれほど断続的でかすかであろうとも、認めることです。もう一つは希望です。この世のあらゆる苦い苦難にもかかわらず、人間は心の奥深くで、直感的に知っているのです、<真理>Realityは信頼できるものであり、動揺した子供を慰めるのは愛情からの嘘の芝居ではなく、真の洞察をはっきりと語り聞かせていることなのだと。[5]



[1] John Polkinghorne, Science & Theology, an Introduction (SPCK, 1998).以後、本文( )中の引用ページは特に断りがない限り、本書からの引用である。

[2] ジョン・ポーキングホーン『科学と宗教』本多峰子訳 (玉川大学出版部, 2000) p.57.

[3] G. K. Chesterton, The Everlasting Man (Image Book, 1955), p.105.

[4] 創造力を用いた真理の探究および比喩・メタファーなどの働きについては拙論「知覚及び思想伝達の機能としての想像力論:比喩、アレゴリー、神話、シンボリズム等を中心に」『二松学舎大学国際政経論集』第2号(1994)で考察してある。

[5] John Polkinghorne, Quarks, Chaos, and Christianity, (Triangle, 1994), p.14.