No.139
炎の中の思い出
飯田 れい子
 大分前のこと、小学1年生だった次男が、書きものをしている私の傍に来て「ママ、こんなもの捨てちゃいなよ、僕が買ってきてあげるよ」と言う。見ると直径1センチ位の丸くなった消しゴムを取り上げようとしている。「アラ駄目よ、まだ使えるのだから大事にしなくちゃ」と言ったら、子供は怪訝そうな顔をした。上の子のおさがりの消しゴムで、消し味(?)が良く、ずっと愛用していて、小さくなってしまったのだが、戦時中の耐乏生活の経験がよくよく骨身にしみていたものとみえる。そう、戦時中、私達が使った消しゴムときたら、真っ黒いタイヤのゴムみたいで、薄っぺらなザラ紙のノートに使うとたちどころに穴があき、鉛筆は削っても削ってもポロリポロリと芯が折れ、やっと書けるかと思うと鉄筆のようにノートをかするだけの代物で、使いものにならないのが多かった。それが今では、オレンジ、パイン、グレープと美味しそうな香りと色のついた消しゴムが出ていて、子供の筆箱にも3つ4つごろごろしているのだから、隔世の感がある。

 終戦の時、私は小学5年生だったが、それより3月程前の5月に、夜、東京の渋谷で空襲に遭い、焼け出されてしまったのだった。
 その日、空襲警報のサイレンと同時に消燈して、3,4本のサーチライトの交叉する明かりに照らし出されたアメリカの飛行機が、女子挺身隊の狙い撃つ高射砲にうたれ、火だるまになってきりもみしながら落ちて行くのを、家の縁先で見上げて眺めていると、突然眼の前の庭に、もの凄い轟音と共に焼夷弾が炸裂して、真っ赤な火柱が上がり、一瞬何事が起きたのか信じられない気持ちだった。
 恐怖心を通りこして、気が遠くなりそうなのをやっとこらえ、夢中で縁の下へ逃げ込んだ愛猫を呼んだが、おびえてしまって出て来ない。母にせがまれて仕方なく、祖父母と母と手を取り合って路上に出ると、大変な人の波だ。炎の燃えさかる阿鼻叫喚の中を泳ぐようにして、家から2キロ程離れた高等学校の庭へ。ここも人が一杯で、既に校舎も紅蓮の炎に包まれていた。
 いつの間にか、祖父母と離ればなれになって母と二人きり。「もう他に行く処がない。ここに居ましょう。れい子、死んでもいいね」と母にのぞき込まれるように言われ、そんなに簡単に死ねるものだろうかと、子供心に反発を感じたのを今でも覚えている。

 終戦の玉音放送は、被災後に疎開した青森県(当時SLで丸2日2晩かかった)の弘前城の近くのお寺で。難聴の私には何のことやらさっぱり解らず、友達に聞いて戦争の終結を知り、小林時子さんと同じように、どうして神の国日本は負けたのだろうと不思議に感じた。
 ついこの間、生死に関わる恐ろしい目に遭ったというのに、何とまァお目出度い人間であることか。そして、南方のニューギニアに出征していた父は生きているのだろうかと、ふと思い出したのを記憶している。
 その父も1年後に復員して、現在75歳となり、年に1度の戦友会に出かけたり、折にふれては、本家さんの書かれたように彼の地での体験を、私らに話してくれる。

 今夏、中学生の次男が図書館から、部厚い広島の原爆写真集を借りてきた。私も見せて貰ったが、原爆投下の際の火傷で身体の皮膚がむけて、雑巾のようにぶら下がった人の身体の余りのむごたらしさに、思わず目をそむけた。戦争の悲惨さを知らぬ子供も、「戦争は嫌だ」とつぶやいたのだった。
大学生の長男も、時折、主人と世界情勢について話し合っては、日本も徴兵制度になったら御免だと言う。そうならないように、これからの次代を担う人達が結束して、戦争の愚かしさを認識し、平和の尊さを自覚して、極力回避するための努力を惜しまずにいて欲しいと心底から願うのだが。

                       いいだ れい子(東京都葛飾区)
                    1982年『みみより』誌 No.290号掲載

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