No.140
艦砲で受けた心の痛み
菅 野  サ ヨ
 忘却――。どんな苦しい事でも、辛い事も、永い年月には忘れ去る事が出来るから、人は生きていけると思う。釜石で受けた艦砲も、日や時間は曖昧になっている。しかし忘れようとしても忘れられない心の痛みが、未だにやり切れない思いで残り、悔まれる事がある。
 終戦当時、私は日鉄(株)釜石製鉄所監督官室勤務だった。家族は父、私、妹共に製鉄所勤務。それに母、上の弟は中学校、下の弟は小学校で疎開中。姉も従軍看護婦で、台南、高雄を廻っていて留守。
 第1回の艦砲の日は、はっきり覚えてない。2日間にわたって、釜石湾に入り込んで来た敵艦からの艦砲射撃と、無数に飛び交うグラマンからの焼夷弾、それに機銃掃射、加えて火災迄出たので大変な損害を受けている。
 大体、釜石の街が、早く言うと、山と山との谷間のような細長い土地なので、リアス式海岸の湾からの攻撃では逃げ場がない、避難に造った防空壕が、逆に多数の犠牲者を出す結果になったらしい。空襲に備えて毎日訓練はあったのに、現実には何の役にも立たず、ほとんどの人が壕の中で蒸し焼きとなって死んでいった。
 その日私は、出勤してすぐ警戒警報と共に工場近くの大きな防空壕に避難した。会社の友達も一緒だったし、防空壕も大きかったので、外に出る迄怖いとも思わなかった。
 空襲が解除になり、工場のすぐ前の駅で疎開のためか、食料買い出しのためと思われる人々が、汽車の切符を手に焼死している死体が、無残な姿で集められていたのを見た時、何とも言われない悲惨な有様に、初めて恐怖を感じた。
 第2回目は忘れもしない終戦の前日13日と14日の、この時も2日間にわたって空襲と艦砲の挟み討ちにあった。早朝から警戒警報で、家族と一緒に社宅共同の防空壕に避難した。第1回が湾に近い商店街と、工場がひどかったけど、社宅地区は無事だったので、まさか社宅地区まで攻撃を向けてくるとは思わず、タカを括っていたら、敵は工場を徹底的に破壊し、鉄の生産を止める作戦に出たそうで、社宅も工場の倉庫と見られたため、さんざんな攻撃を受ける羽目になって、その日は直撃こそ受けなかったが、防空壕に入っていても、爆風で、ガタンガタンと開いたり閉まったり不気味に揺れる壕の戸を、誰一人押さえる物がいない。ザッザアーと土砂が舞い込む、壕が小さいから爆音がすさまじく聞こえ、女子供が多いのでその心細い事、誰も声を出さず、小さくなってふるえていた。
 次の日、14日の攻撃はもっとひどかった。やはり早朝より警戒警報が鳴り、その日も出勤出来ないまま、誰いうとなく防空壕は危険なので、山に避難した方がよいらしいと報せがあり、暑い盛りで木々が深い青葉で覆われているのが幸いして、木の葉色とか土色のような保護色の布団をかぶって茂みの中に隠れる事になって、急な坂道をどのようにして、母の分迄2枚の布団を背負って登って行ったかよく覚えがないけれど、山の上は幸いにして早朝でもあり、涼しくひんやりして気持ちがよかった。しかし次第に空襲が激しくなり、グラマンが無数にビリビリ嫌な音を立てて空中を旋回する頃は、暑くはなるし飽きてきて、怖いけれどこわごわ布団から頭を出して見ると、次から次へとひっきりなしに飛んで来るグラマンが、皆私一人めがけている様に、山の上なので頭上すれすれに旋回するので、隠れ場所が見つかりはしないかと、それのみ祈っていた。近くから悲鳴があがる。突然妹がやられたと、叫び声をあげたのにはびっくり。驚いて見るとどうやら爆風で吹きとばされた石ころが脇腹にあたったらしい。脇腹を押さえてかがみ込んでいるがどうする事も出来ない。幸いにして大したこともなく本当に安心した。
 爆撃の激しい最中にも、まだ山に避難して来る人の集団が、上から見おろすとまるで蟻の行列の様に這い登って来る。敵兵に見えないはずがないのに、はらはらする。何で警戒警報の間に避難しないで、激しい攻撃中に敵に隠れ場所を知られたら終わりだと思うと、むらむら腹が立って来ていまいましくなる。自分達だけが助かりたいと願う一念は、以前読んだ、芥川龍之介の作品『くもの糸』の主人公の心と、なんら変わりなく恥ずかしいけれど、あの時は本気でそう思った。いまだに自責の念に駆られて情けなくなる。私の一生が終わるまでは忘れようとしても、忘れる事が出来ない心の痛みらしい。
 空襲解除になったのは、何時になってかはっきりしないけど、夕方近くだったと思う。やっとの事で山を下り、今日も無事逃げられた事にホッとして、我が家に帰って驚いた。8帖の真ん中に大石がでんと居座り、柱時計等が飛び散らかって、めちゃくちゃになっている上に、屋根にぽっかり大穴があいて空が見える。家に居たら大変な惨事になったに相違ないと肝が潰れた。大石と思ったのは、井戸を間に(昔は共同井戸だった)向こう隣の家が艦砲で飛ばされた時の土台石が、家の屋根を貫いて8帖間に飛んで来たらしい。
 会社の社宅なので、すぐ修理に来てくれて夜は無事布団に寝る事は出来たけど、家を飛ばされた向こう隣では、母と赤ん坊が機銃掃射にあい2人共片腕をもぎとられて、病院に運ばれていた。何でも一時山に避難したそうだけど、お昼近くなって赤ん坊がお腹が空いて泣き出したので、山から下りて家に入った時、艦砲でやられたらしい。家を飛ばされた後、赤ん坊を背負って逃げ出すところを、今度は空から機銃掃射で、母娘共、肩の付け根から片腕を射たれる悲運に遭って、空襲が終わる迄は、誰も身動き出来る状態ではなかったので、解除になる迄どんな気持ちで耐えていたかと思うと胸が痛くなる。死んでいった人々に対しては仕方ないという気持ちだが、一生片腕のまま生きて行かねばならないのを思うと、本当にお気の毒でならない。私達が山から帰った頃は病院に運ばれていたけど、物資や人手不足で暫くは傷口に蛆が湧いたと母が話していた。一寸の差で人の運命など、どうなるか分かったものではない。次の日が終戦だから本当に悔しくなる。終戦近くにはもう勝つとか負けるとかより、今日一日上手に逃げ廻る事ばかり考えていたので、次の日、会社に出勤しても工場はほとんど被害を受けているので仕事にならず、15日、終戦とは気付かないで空襲が無いのを変に思い、気の抜けた様になっていたら、重大放送があるから全員広場に集合するようにとの報せで、事務所前の広場に並んだ。
 玉音放送なるものを、頭を下げて聞いていたけれど何の事やら内容が理解出来ず、室に帰って来てどうやら戦争が終わったらしい事を知った。あちこちで戦争に負けたらしい事を、ひそひそ話し合っていたが、はっきり分からないので悲しいとも思わず、これから逃げ廻らなくても済むという事ばかりしか感じなかった。その晩、電灯がつけられたのが、何とも言われず嬉しかったのだけ覚えている。食糧はそれからもますます苦しくなって来たけど、あの時受けた心の痛みに比べたら、誰も耐えて来た事なので、特別に書く事も無い。戦後、工場自体巨大な煙突が何本も折れたりし、めちゃめちゃに被害を受けていたので、誰も立ち直るとは予想出来なかった上に陸軍監督官室勤務では帰る職場もなく、会社の望むまま大半の女子従業員と共に早々に退職した。工場はいまだに煙をはいている。
 私にとって戦争の時の苦しみより、昭和34年の失聴以来の苦難の方が大きい。耳の聞こえないという事は、一人でどう頑張ってみたところで、どうにもならない。
 戦後の混乱の中で取ったお琴の免状も、失聴では役に立たず、その後の洋裁業も、近眼も老眼もひどくなる一方で仕事も出来ず、辞書を引こうにも老眼鏡の上に虫眼鏡を使っている始末、だんだんそれも出来なくなる様で心細い。

                        すがの さよ(宮城県釜石市)
                    1982年『みみより』誌 No.290号掲載

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