No.141
私の戦中体験記
小 林  敏 男
 齢(よわい)60ともなると老化現象と記憶力が、日々、反比例してくる。20年前の出来事ならいざ知らず、40年前のこととなると長歳月の相乗作用も加わり、その傾向は更に顕著となって、身体の中であの当時のことが、風化していることに、今更ながら驚く。
 今の若い人は知らない。多分、伝説的なこととして受け止めているに過ぎないかも。
 だが、40年前、日本が世界中を相手に総力を傾け、足かけ5年間、血みどろになって戦い、力尽きて負けたことは、動かし難い事実なのだ。
 当時、20歳前後だった私は、既に失聴していて、世間からは冷たい目で見られ、或る者からは公然と「非国民、国賊」と罵られた。
 そんな時代をバックに、あの戦争中、どのように生き抜いてきたか。今年37回目の敗戦記念日(敢えて敗戦という)を機に、改めて「戦争」というものの実態を考える時、国と国とが平然として行う集団殺人行為に、いかなる理由も正当性も認めることが出来ない。戦争こそ諸悪の根源。
 これが青春と失聴の身を、暗い絶望的な時代に過ごした私の結論である。文は拙いが以下に、特に「戦争を知らない」世代に一読頂ければ幸いである。

 私の家は親の代から芝(現・港区)金杉に在って、私もこの地で生れた(ちなみに金杉は三田都障害者会館から徒歩10分位)。長ずるに従い兄と共に家業の魚問屋を築地でやっていた。戦争が起こる2年前の昭和14年5月、18歳の時、突然失聴し、翌15年の徴兵検査の時は検査官から顔が変形する程ビンタを喰らい「国賊」と罵られた。ランクは「丁種合格」。不合格とはいわない。丁種に合格した、という意味で要するに兵役免除である。だから今日まで生き残れたのかも知れないが、学友は全部兵隊に採られ、全員戦死した。家業の方も翌16年7月、時の政府が発した「企業整備令」で強制的に廃業させられた。職業の自由も人権もあったもんじゃない時代。
 そうこうするうち、兄には赤紙(召集令)、私には青紙(徴用令)がきた。兄は持病が有って即日帰されたが、兄弟揃って役立たずだから、当時は相当な非国民家族だった。郡部も地団駄踏んだことだろう。それが開戦3カ月前のことだった。
 徴用を受け手行った先は、蒲田区東六郷に在る軍需工場のM製作所。航空機の車輪、脚など造っていた、かなり大きな工場だった。だが一介の魚屋が、いきなりお門違いの職場に入って西も東も分からない。まして失聴の身、誰も筆談してまで積極的に教えてくれない。初めは雑用ばかりだったが、そのうち製図が自分に合っている気がしたので、通信教育で勉強した結果、半年位経って簡単な仕事が与えられた。だが問題は給料だ。徴用工だから安い。毎日残業しても食えぬ。工場は違うが兄も同じ。2人の給料を併せても母を養い、兄は妻子5人を養うのは難しい。そこで母と兄嫁の内職でどうやら一家の生計が成り立っていた。
 徴用で3カ月過ぎたある朝、起きると枕元に母の走り書きのメモがある。読むと日本が米英に宣戦布告したとある。12月8日のことである。正直にいって余り驚かない。時の内閣は東条が首班だったが、これが2カ月前成立した時点で戦争は時間の問題だったからである。それよりも中国で10年も戦って未解決なのにこの上、世界を相手に本当に勝算があるのか、また生活は? の方が心配だったがそれを公(おおやけ)に口にすることが出来ない。言えば「反戦者」として逮捕される。新聞、雑誌書籍、ラジオ等、総て言論統制で縛られていた。だから戦況にしても郡部の都合のいいようにしか国民は報らされてなかった。「大本営発表」というのがあった。これが戦況等を発表する機関だったが、正確だったのは緒戦の頃だけで半年も経ったらいい加減なものだったことが戦後分かった。1例を挙げれば昭和17年6月頃、南太平洋のミッドウェー海域で日米両海軍の大規模な戦闘があった。日本海軍はこの時、完膚なきまでに叩きつけられこれがもとで攻守ところを替え、以後戦争は米軍ペースで進められるのだが、その時の大本営は逆に日本側が勝利を博したかのように発表して国民を欺いた。
 こうして日本は開戦僅か半年で不利な局面に立たされる。然し、建前は日本軍優勢と国民が信じるように、軍部はしむける。国民またそれを大部分が信じていた。だが生活はそれに反して、段々苦しくなる。主食や衣料、その他の生活必需品は既に配給制や切符制だったが、衣料切符は有っても衣料は無し、主食といっても米は殆ど無く、芋や雑穀で1日1人当り400グラム程度。これも戦局が不利になってくるほど量も減ってくる。しかも、これが遅配、無配で当てにならない。仕方なく闇値で買うが収入がそれに伴わないから、手持ちの衣料や家具等を売って食糧に替える。「公定価格」略してマルコウなる言葉があった。政府はある品物について、これ以上高く売ってはならぬと決めた値段だが、そんなものはもう、とっくの昔に有名無実となっていて、インフレは日に日に進み、戦局は徐々に悪化に向かう。昭和17年もこうして終わる。
 昭和18年、新春を迎えても祝うどころの騒ぎではない。餅無し、酒無し、悲しい洒落だが水盃で祝う。この年は各地の戦線が米軍の攻勢で壊滅的な打撃を受ける。若い尊い命が大量に、際限なく失われてゆく。軍部はこれを「玉砕」と称えるが、その心の底には、人命は消耗品で軍馬や銃の方が貴重品、の思想があった。こうして戦局は急テンポで悪化に向かい昭和19年7月、サイパン島も陥落する。間髪を入れず米軍はここからB29を飛ばし、東京始め主要都市の爆撃を開始する。
 当時、私は自宅が芝の赤羽橋近くに在って工場には国電田町駅から通勤していたが、車中で幾度空襲警報に脅かされたことか。警報が聞こえない。正確な情報も分からないで一層不安になる。それである日、工場の上司に事情を話し徴用解除を申し出た。初めは、軍の意向も聞かなくては、と工場側は渋っていたが、粘り強く交渉の結果1カ月位して、やっと解除して貰い自宅近くの工場に転勤したが、今度は家自体が空襲で危険になってきた。そこで家族と相談して疎開することにした。幸い三鷹に知人が居るので、それを頼って行ったが、家財道具、といっても竹の子生活で目ぼしい物は残っていないが、兎に角それを運ぶ車がない。いやガソリンがない。仕方なく牛車で1日かかって三鷹まで運んだ。昭和20年1月の頃だった。
 三鷹に移ってからは、職も知人のコネで小さな工場だったが、給料も良くその上、兄夫婦も一緒に雇ってくれたのでホッとしたが、もうその頃は制海権も制空権も完全に米軍が握っていたから「物」といえるものは殆ど底をついていた。工場に行っても原料がないから仕事にならず、たまに有っても、仕事している時間より、防空壕に入っている時間のほうが長い。食べ物もなく、風呂にも長く入らないから、目ばかりギョロギョロ。その上臭いこと。これで防空棒に入ろうものならムレも加わって一種異様な臭気を発散する。もっと耐え難いのは蚊の襲来である。ノミ、ダニも跋扈(ばっこ)する。もう国民生活も破局である。あの頃どうして、そんな苦境を切り抜けたか、今考えてもはっきり分からない。無我夢中だったのだ。
 こうして昭和20年8月、広島、長崎の原爆で完全に息の根を止められる。そして8月15日正午、ラジオの前に集まったが暫くして女子行員の間から、啜り泣きが起こった。それを見て私は、ラジオの声は聞こえないが「日本は負けた」と分かった。無条件降伏。
 ふと見上げる工場の採光窓の破れガラスを通して、真夏の強烈な陽差しが眩しかった。
 戦死した学友達の顔、顔、顔が次々に現れては消えてゆく、長い長い、悪夢の終わりだった。

                      こばやし としお(東京都三鷹市)
                    1982年『みみより』誌 No.290号掲載

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