No.142
生き永らえば……
〜手話を通して出会った仲間と世界〜
長谷川 宏子
  私は進行性難聴で、子供の頃は軽度でしたが、74歳の今は、老人性難聴も加わり、自分の発する大声さえも聞こえなくなりました。補聴器に慣れているので、使用すれば人によっては会話が可能です。小学生時代は音痴な歌も元気に歌い、外をとびまわって遊ぶ男勝りのワンパクでした。中学の頃から、学校の授業はほとんど聞こえず、自学自習でしたが、成績は良く、会津若松市内一の女子高に入学できました。高校時代は、国体出場を競うほどの集団徒手体操(集団新体操)にあけくれました。演技がはじまると聞こえないレコード盤1枚を暗記してやっていました。女子高でしたから、友人との会話はあまり困らず、筆談メモを多用した時代でした。この頃から、「みみより会」「新光会」「全難聴」などに入会し、会津育ちが、全国に目をむけるようになったのです。短大を卒業し、東京で洋裁の仕事をした後、縁あって実家(三春町)近くで小学校の先生と結婚し、男の子2人を産み育てました。
(『可能性に挑んだ聴覚障害者』みみより50周年記念誌参照)

 上の子が高度難聴だったので、「ろうあ運動」に加わり、「手話」に出会いました。その頃は「法律改正運動」が主で、私の役目は、手話を日本語にして書く、ニュース原稿、議事録、苦手な収支報告も、専門の職員の手助けで仕上げる等が仕事で全国的に活動しました。長男の教育には、会員の情報協力があり、本人の努力もあって大学卒業後、福島県で初めての(手話通訳を主とする情報保障がほぼ整備された、公認の)公立学校の教師になりました。
(『みみより』誌576号 2012年1月号「子どもは親を選べない」参照)

 私は37歳の時、運転免許を取得し、今も自分の車を運転しています。
 41歳の時、夫が急逝しました。突然の事で、呆然としました。が、高校受験と大学受験をひかえた2人の息子の弁当作り、家事をすることによって、少しずつ元気を取り戻しました。長男が大学に合格し、次男が予備校に入ってアルバイトをはじめた時に、私も都内に100人入居の老人ホームに仕事を見つけて働き、都内のアパートで3人暮らしをはじめました。次男が大学に合格した時、三春に在住する私の両親の介護が必要になり、私は三春に帰り、3人それぞれ一人暮らしになりました。
 私はまた、福島県のろうあ運動に復帰し、その一環として、家から車で通勤できる専門学校の講師もやりはじめました。この学校の公務員養成(行政学科)で、障害者理解の知識を身に付けるための手話学習でした。手話通訳養成の学校ではありません。私の性に合っていたのか、週1コマ(50分)1クラスからはじまって毎年クラスも増え、コマ数も増え、10年目は毎日通勤していました。学校は私の授業に手話通訳もつけて、2人分の時給、交通費も払ってくれていました。当時、手話通訳者にキチンと時給を払う仕事は少なかったのです。私はいろいろな人に機会を与えるよう気配りしていました。
 私は10年目を迎え、60歳になっていました。
 長男はいわきの海近くの聾学校教師として働き、多くの子どもたちの学力を伸ばしていました。(この中には後に大学を卒業し、母校聾学校の教師となった者が数人います。)妻は3人の子を育て、4人目をみごもっていました。次男は宇都宮の大学を卒業し、研究室で一級建築士の試験に挑んでいました。

 専門学校の10年目が終わり、年度変わりの春休みになり、私は次男と一緒に四国巡りに行きました。飛行機で関西に。そこからレンタカーを借りて、四国巡りをして、四国を満喫して元気に帰宅し、次年度の打ち合わせに入った時、当時の県聴障協会の方針として「県内で実施する全ての手話講座には、原則として講師は協会会員で、聴障者であること。通訳者(アシスタントを含む)県と協会が認定する手話通訳者であること」が打ち出され、私としては協会の方針を尊重しようと決め、長年気心の知れたアシスタントをしている方が、認定通訳者でなかったので、やむを得ず、代わりの通訳者を協会にお願いをし、派遣を待ちました。専門学校の入学式1週間前になっても、県協会から、連絡が来ず、カリキュラムの内容決め、教材準備などに気が急いて、何をするにしても上の空の日々でした。いろいろ対応することに体力的に疲れて、最後は投げやりになり、一人暮らしでしたから、ひきこもりになって、どんどん悪くなっていきました。(後になって、家族や友人たちから聞いた話と、記憶している60歳の1年間です。)
 息子2人はいわきと宇都宮から様子を見に来ましたが、ボーッとして子どものように座り込んでいる私は、家族の顔を見分けられず、名前も分からなかったそうです。それで2人は相談して代わるがわる介護をしてくれることになりました。次男は2階にパソコンを設置し、それで仕事を続けながら、家事は得意でしたから、私の世話をし、郡山市の心療内科に連れて行き、投薬治療をしました。彼は母親専用の手話通訳者として、申し分ないほど上手でした。私はとても素直な生活態度だったそうです。長男は公休をとり、1人で介護に来てくれました。勿論、手話はとても上手です。2人とも人嫌いになっている私に、パソコン操作を教えてくれ、文を書くことを勧めてくれたので、私はみるみるうちに自由に文章が打てるようになりました。だんだん頭がはっきりして、他の人とも話すようになりましたが、人の好き嫌いがはっきりして、手話で息子たちと話すのが大丈夫なのに、手話を見ると、身体がブルブル震えるので、そこまで心が傷ついていることに自分で驚いていました。
 以来、「ろうあ運動」からも「手話通訳養成」からも身をひきました。
 1年以上の時がかかりましたが、一人暮らしにもどり、車も運転できるようになったので、息子達もパソコンメールのやりとりだけにして2人とも自分の生活に戻りました。その後、次男も結婚し1男1女の父となりました。一級建築士になり事務所ももって、各種の建築賞もとり順調です。長男は郡山の聾学校に転勤になったのを機に、弟に設計を依頼して三春の家を改築し、私も同居するようになりました。家は大震災にも何の被害も受けず、地域も大丈夫だったので、全国から見舞いに来てくれた友人たちも驚いたり、喜んだりして帰りました。大震災の経験を書かれた大久保紀次さんの『追憶の駅』を読んで感想を書いている時、あら? 私はあれから13年も経って、年をとって「年には勝てぬ」と言っているのに、文を書く力が戻っていると。車の運転も昔より安全運転になっている。いったい何が私を回復させたのだろう、と考えはじめました。

 他の人とは違う私の身体的特徴と、私の人生に思い当たりました。私の使ってきた二つの言語には、大きな違いがあります。
一つ目は「聞・聴いて(耳)」、「考えて(脳)」、「(口)で話す」音声言語の日本語、二つ目は「見・視て(目)」、「考えて(脳)」、「(表情)(方の向き)(手)で語る視覚言語の手話の二つの言語で表象されている身の回りの出来事を、「手話を読み取ったり、書かれてある日本語を読み」、「日本語で書き表わす」ことが出来ることです。それらを、私、長谷川宏子はその人生で、日本の聴覚障害者権利獲得運動史上、リーダーシップをとり、自身の人生を奉仕された方々に鍛えられたのです。しかも、その人柄に接することもできました。
 故人となられた中西喜久司さん(著書に『聴覚障害者の英語教育』もあります。)、板橋正邦さん(世界聾唖者会議を日本で開催)、このお二人には公私共に沢山会い、また宝となったお手紙をいただいています。「手話は心」を書かれた川渕依子さんとは琵琶湖畔のご自宅に伺い、近くの高橋潔先生の「指骨の墓」を一緒に詣でています。高寺志郎さんは「ラマ師」と呼ばれ、板橋さんが聾児を産んだショックでシュンとしている私に「東京に行って高寺氏に会え」と言ってくださったのが、初対面で、以来、50年間、適切な助言をいただいています。野沢克哉さんに会ったのは、会津で大学生の時が最初でしたし、杉田静山さんには、次男と滋賀の工房へ伺い、自宅に泊めていただきました。竹工芸で世界的に有名な方ですが、私には聾教育の話を沢山して下さり、書いたものを読ませていただきました。その他沢山の方々がおられます。

 60歳の私がどれほど重度なうつ病(認知症のような)であったか、家族、友人に証人は沢山います。難聴はコミュニケーション障害です。それが原因で心的ストレス障害となり、重度のうつ病になった私を救ったのは、「手話の力」だったと思うのは私の実体験です。「手話」は素晴らしい言語です。人と人とが目を合わせ、心を通わせながら、話すからです。
 老人性うつ病の「回復薬」は「その人がそれまでの人生で一番楽しかった時の話を聞いてあげ、この好きなことが出来なくなったことが発病のきっかけなのだから、薬ばかりで治そうとせず、その老人本人が自分でそれができるように助力することだ」と専門の医師は言っています。逆境に負けまいとする力が強くなり、身体的状況も対抗する力を強くして、自分でそれをやってこられたのだと思います。その反面、身体状況は日々、衰えていることを自覚して、あまり我慢をしないで、家事をさぼり、知人に会いに行き、おしゃべりをする……といった時間もまた必要なのだと思います。

 私が50〜60歳に、生き生きと働いたことをまとめた冊子が2冊があります。『はじめて手話に出会った若者たち』、『手話で歌った小学生たち』、何をしていた時が一番楽しかったですか? と問われたら『子どもたちや若者たちに「手話の歌」を教えていた時』と、私は答えるでしょう。確かに「手話の歌」は手話言語の文法からかけ離れた手指日本語になりがちです。聾者が使う手話を尊重しつつ、日本語の話すリズムに合わせ、日本語を意訳した手話表現を考え、表情、体全体の動きなどを、長男、地元の聾者、全国的に有名な手話パフォーマーの表現を取り入れて、考えて教えてきました。
 今にして思えば、手話の歌は確かに一種の自己満足と取られる向きがあるかもしれません。しかし、手話言語を若者、子ども、そして社会に広く認知できる一つのきっかけになり得たのではと思っています。
 また、2つの違う言語である手話、日本語のそれぞれの特徴を取り入れ、人前で表現をすることで、歌が持つ人生の喜怒哀楽の素晴らしさを教え子たちと共有できた瞬間…こそは、私が歩んできた道のすべて、難聴、夫との出会い、手話との出会い、2人の息子、ろうあ運動、全国の聾の仲間、専門学校での手話講座、老人性うつ病などの経験を心の糧にし、経験の数々を映像に思い浮かべ、手話で表し、それに合う適切な日本語を当てはめる過程の繰り返しから生まれた手話の歌は私にとっての人生の縮図なのだと言えます。

 私は今、三春駅から徒歩5分の高台に住んでいます。部屋からは庭木の緑と川と線路を経た谷向うの山の樹々、青い空と流れる白い雲、朝やけと夕やけの空、月の満ち欠けが見られます。日当たりの良い南向きの硝子張りの部屋には、鉢植えの「花キリン」のピンクの小花が1年中きれいです。どうぞ見にいらしてください。音楽家・成田欽家先生が植えてくださいました。
 字幕付きのテレビ、ヘッドホーンで音楽を好きな大きさで聴ける。家族は、3歳から74歳、男5人女4人の9人暮らし。中心になって大奮闘のお母さんはなんと、私と同じ難聴(軽度で電話可)、しかも左右両手を同じように器用につかえる力持ちの美人で、実に家事の達人です。
 長谷川家の大人3人は「手話」をする、「話」ができ、文を「読み」、「書く」ことができます。各々自分の車を運転しています。「母と息子」「夫と妻」「姑と嫁」お互いに助け合う、どこにでもある、世界に一つだけのささやかな歴史なのですね。全国の手話仲間に支えられ、これからも与えられるだろう試練を受け入れ、生き永らえられたことに感謝をし、時折、好きな詩を口ずさみ、手話の歌を手ずさみながら……。

はせがわ ひろこ(福島県三春町)                                『みみより』誌 未掲載

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