No.25
怒りと優しさのために8
インテグレーション
丸山一保
 ろう学校の先生のお話を聞いていると、ときどきインテグレーションという言葉が出てきます。ろう学校で教育を受けた生徒が、途中から普通校へ転校して勉強するようになるケースを、インテグレーションと呼んでいるようです。
最近インテグレーションのおかげで、ろう学校の生徒数が減り、それに対するろう学校側の新しい役割の必要について、今年の「みみより」4月号で三重ろう学校の八木治先生が問題提起をしておられます。

● 末森さんの衝撃
 インテグレーションというのは、統合という意味です。
 黒人白人の人種の統合のことを、レーシャル・インテグレーションといいますが、アメリカにおける黒人白人の教育統合を考えればろう教育におけるインテグレーションという言葉が、なにを狙いとして使われるようになったのか、よくわかるような気がします。
 筑波大学付属ろう学校小学部1年生のときに、普通の小学校へインテグレートした末森明夫さんは、1962年生まれの、ご本人の話では、おそらくストマイ注射が原因で、感音性の重度難聴になられた青年ですが、そのまま耳の聞こえる子供たちと一緒に中学、高校を卒業され、東大工学部へ進まれました。
 これだけでも、ビックリするような快挙ですが、工学部から、さらに大学院を終了され、1988年に通産省の工業技術院の微生物工業技術研究所に上級職の公務員として就職されております。
 末森さんには、2度ばかりお会いしましたが、落ち着いたハンサムな青年で、外見から見ただけでは、耳がまったく聞こえない人だとはわかりません。
 そのすばらしい経歴を見れば、一体、どうやって聞こえない障害を克服して、普通の学生たちに混じって勉強したのか、怠け者のぼくなどは、ただ、ただ、頭がさがる思いです。

● 豊かな社会の成果
 前号でも書きましたが、耳硬化症のぼくの場合は、補聴器がなくても、先生の声が、まったく聞こえないということではありませんでした。仲間たちとの大声でのコミュニケーションは、十分にできたのです。
 ただ、難聴ですから日常生活に不便があり、職業選択が自由という具合ではありませんでした。戦後の就職難の時代でしたし、現代のような身体障害者雇用促進法などは、なかったのです。
 大学へ入ったのは、さしあたって道を探そうというような具合でした。
 その結果、大学で得たことといえば、在学中にみみより会を始めて、大勢の聴覚障害者の人たちを知り、「みみより」の発行を始めたことに尽きるような気がします。
 自分のことなど、どうでもいいやと、ぼくは、心から思いました。それが、結局、僕自身の救いにもなったのです。
 末森さんと比較すれば、1931年生まれのぼくは、彼の父親に相当する年齢であり、時代がすっかり違っております。
 環境保護行政に自分の研究を生かしたいと今後の目的を語る(1987年11月27日サンケイ新聞)末森さんの記事を拝見しながら、豊かで平和な現在の日本の社会が、若い障害者の闊達な開花を可能にしているのだと、しみじみ感じました。

● 下駄屋のケンちゃんのこと
 1957年に発行された「みみより」の第4号に、日本ろう話学校の当時の教頭であられた望月敏彦先生が、下駄屋のケンちゃんの話を書かれています。
 そのケンちゃんの話を、1987年の「みみより」8月号に30年ぶりに、また書いてくださいました。
 2つの文章によって、ケンちゃんの存在が、かなり鮮明に伝わってまいります。
 先生の故郷は、北海道の留萌ですが、先生の家の近所の下駄屋に「おしのケンちゃん」と呼ばれる子供がいたのです。昔は、耳の聞こえない子供は、下駄屋などに預けられて、一種の職業教育を子供のときから授けられる宿命だったと、先生は述懐しておられます。
 ケンちゃんは、下駄屋に預けられて、もくもくと木を削り、いつも一生懸命に下駄を作っておりました。
 近所のガキ大将たちは、そのケンちゃんをバカにして、からかいました。
 貧しさのために、遠い町まで行ってろう学校へ入ることもできなかったケンちゃんは、結局、近所の小学校へ通ったということですが、運動神経は抜群で、けっして無知な子供ではなかった。今の時代であれば、どんな活躍をしたかと、望月先生は、同郷のろう児に優しい思い遣りを述べておられます。
 30年前の原稿の方には、当時、アメリカのろう教育を視察されて帰ってきた、大嶋功校長先生の話も紹介されておりますが、アメリカでは、ろう学校に高等部がなく、中等部を修了した者は普通学校で耳の聞こえる生徒と一緒になって勉強しているという大嶋功先生の報告を聞いて、皆さん驚かれたという話があり、現代の日本におけるインテグレーションを考えると、実に興味のあるエピソードといわなければなりません。
 1957年当時の貧しかった日本では、下駄屋のケンちゃんのような子供を、放置せずに、まず、ろう学校に入学するように指導していくことが精一杯の大事業であり、インテグレーションを当然とする教育などは、理解できなかったのに違いないのです。

● 障害者に対する無理解
 望月先生の新しい方の原稿には、先生が学ばれた北海中学総代・野呂栄太郎さんのことが書いてありますが、北海中学一の秀才だった野呂栄太郎さんは、足が悪かったために、第一高等学校の入学試験に合格しながら、結局、身体障害の理由をもって入学を許可されなかったそうです。1920年前後のことと思われます。
 第一高等学校というのは、今の東京大学教養学部のことですから、野呂さんが入学を許されなかった学校に、耳の不自由な末森明夫さんが、当然のように入学し、大学院まで卒業している現代の常識からすれば、野呂さんの話は、奇妙にさえ感じられます。
 インテグレーションの成否は、単に教育の場だけの問題ではなく、障害者に対する社会の理解の度合いによるところが大きいと思われますが、眩しいような末森明夫さんのお話を聞くと、それが末森さんの個性的な努力や才能の成果なのだということを、もちろん理解しながら、一方で、ようやく差別的悲劇のない社会になりつつあることを信じたくなります。

● 多士済々の若い人たち
 しかし、よく考えてみると、インテグレーションは、みみより会が始まった1950年のころからあったのです。
 みみより会の初期の委員で、厚生省で活躍されている外山和郎さんは、30年も以前に明治学院大学を卒業されていますし、現在、ろう劇団を主宰されている筑波大学付属ろう学校の伊藤政雄先生は、早稲田大学を卒業しておられます。そして、その流れは現代になると、枚挙にいとまがないほど、たくさんの事例となって現れているのです。
 末森さんと同じように筑波大学付属ろう学校中学部から千葉県立薬園台高校へインテグレートした田門浩さんも、びっくりするほどの秀才です。
 彼は、1967年の生まれで、先天性のろうであるということですが、来年は東京大学の法学部を卒業されるはずです。司法試験にチャレンジしているようですが、一方では、関東聴懇の運動などを熱心にやっておられる明るくて元気な青年です。
 司法試験といえば、「みみより」362号に掲載されている1949年生まれの山田裕明さんは、幼児期のハシカによる重度難聴の方ですが、普通の学校教育を受けて明治大学法学部を卒業され、すでに司法試験に合格して日本で3人目の聴覚障害者の弁護士さんとなっておられます。
 山田先生のお話を聞くと、中学のときも高校のときも、ろう学校へ行くことを考えたのだそうです。しかし、筑波大学の小畑先生に進言などもあって、普通の学校へ進んだということです。
 鹿島建設情報システム部にお勤めの並川正さんは、筑波大学付属ろう学校からインテグレートされ、九州大学の工学部を卒業されて工学博士の学位も取得されております。現在は、コンピューターに関する仕事をされているようです。
 障害者保護の対策が、次第に整備されつつある日本では、ようやく、ろうの青年が普通の大学を卒業したり、学位をとったり、国家試験に合格したり、大企業に就職したりするという事実が、珍しくもない事例となりつつあるのです。もちろん、アメリカにおける、あの画期的な障害者法の施行という事実を参照すれば、福祉行政には、まだまだ問題が山積みしていることは確かですが。

● 勉強を訴えた清水さん
 ところで、みみより会が始まったのは、京都ろう学校高等部生徒の清水昭雄さんが、勉強したいという希望を、1954年の8月の朝日新聞に投稿したのが、きっかけでした。
 清水昭雄さんも、豊かで自由な現代に生まれていたら、おそらくは、その向上心から考えて普通の学校へインテグレートしたのではないかと考えられます。
 清水さんは、当時のろう学校の高等部では英語の授業がないことに反発して、普通の高校生のように英語の勉強をして、やがて大学へ進学したいと、その望みを新聞に投書して世の中に訴えたのです。
 熱心な清水さんに対しては、当時のろう学校でも一部の先生が個人的に英語を教えたりして、なるべく希望に副うように努力されていたようですが、経済的に貧しかった清水さんの前途は、簡単なものではありませんでした。清水さんの投書に対して、全国から、難聴で東京女子大学の学生だった高橋慶子さん、立命館大学の難聴学生中村和夫さん、健聴の東京教育大学学生中屋(現・大原)恭子さんなど、40〜50名の人たちが激励の手紙を送りましたが、ぼくも、その中の一人です。

● 雑誌を出そうよ
 ぼくは、難聴のために将来を決めかねていました。一流会社の入社試験では、当然のように面接ではねられ、大学に6年も在籍していました。
 そんなときに、清水さんの投稿記事を読んだものですから、他人事ではありません。アルバイトの収入を手にすると、すぐに京都まで出掛けていき、清水さんや、中村和夫さんと会ったものです。
 「雑誌を出そうよ」
 と、ぼくがかねがね考えていたことを、2人に向かって筆談しました。
 「清水君のところへ手紙を寄せた人たちを誘って、ろうの若者たちを励ますための雑誌を出そうじゃないか」
 「えっ、雑誌を。それよりも、最初はみんなで集まった方がいいんじゃない」
 「もちろん、集会もやろう。しかし、耳が不自由なんだからね。字を書いて読むより仕方がないんだ。実をいうと、ぼくも耳の不自由な仲間のことは、なにも知らないんだよ。コミュニケーションに欠陥があるんだから、お互いに原稿を書いて、まず読みっこするところからスタートしなければならない」
 そんな3人の会話から、みみより会の構想は、若かったぼくらの胸の中に大きく広がっていったのでした。

● 昔を思えば優しくなる
 あれから35年。
 今年は、聴覚・視覚障害者を対象とした筑波技術短期大学がスタートしたのです。耳の不自由な人にとっては、初めての国立短期大学になります。
 手話通訳士という国家資格もスタートしました。テレビの手話講座が、すごい人気です。高校生を対象とした手話コンテストも開かれました。そして、アメリカでは、障害者法の施行。
 これは、想像もつかなかった時代になりました。
 おしのケンちゃんのことを思えば、夢のような話です。もう、勉強を訴える清水さんのような投稿もないでしょう。
 考えてみると、耳の聞こえる人と、聞こえない人と、一緒になって始めたみみより会は、結果的に、これも大きな社会的インテグレーションだったのではないかと、そんな感じがしてなりません。


                   まるやま かずやす(千葉県習志野市袖ヶ浦)
                     みみより会参与・出版社総務部長(当時)
                       1990年「みみより」誌 No.372掲載

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