No.37
可能性は空の極みまで
江時久
 とうとう21世紀の坂をのぼった。
 人類は、これから22世紀めざして旅をつづける。なに、そんなに長いことはない。
 20世紀だって、ずいぶんむかしからのことのように思われるけれども、ぼくのおや じが浅間山のふもとで生まれたときからはじまったのだ。いま生まれた赤ちゃんが結婚 して子供を生み、その子供がぼくの年齢になれば、22世紀が見えてくる。
 そのときまで、人間が大丈夫か。もちろん、ぼくは死んじゃうよ。
 一人の人間がのぼっていくのは、せいぜい、60の坂、70の坂といった程度で、その間に、すこしずつ地球や人間について発見する。天動説の時代から、人は星を見て生きてきた。星はいくら見てもあきない。
 でも、人類が星を星と思うようになるまでに、何万年の論争があったことだろうか。22世紀が近づくころまでに、人は星をどんなふうに眺めていくのだろう。
 一人一人の発見は、ごくわずかなのに、ニュートンは、引力を発見した。最初に地動説を唱えた人たちもすごいけれども、引力は目に見えないものだから、引力を発見したニュートンは、とんでもないほどすごい。
 聴覚障害は、20世紀後半になって、ようやく論じられるようになった。聴覚障害も 引力みたいに外からは見えない。
 聴覚を失う事実が、聞こえる人の想像力を越えるから、正確に理解されない。
 おそいスタートだったけれども、これからは、星のように論じられてほしい。

● みみよりは優しさの始まり
 習志野市からは、まだ星が見える。
 横浜はどうだろう。20世紀最後のみみより会の忘年会が、横浜で開かれた。
 1955年に23歳のときにはじめたみみより会が、まさか21世紀の坂をのぼるとは思ってもいなかった。
 なにをおいても出席した。
 最後は、遠藤良明会長が一本でしめた。
 役員のみなさん、ご苦労さま。
 みんな偉い。聞こえないのに、がんばって生きた。20世紀後半におけるみみより会の誕生と継続は、耳の障害を持った人の能力と心のやさしさを証明してくれたと思う。多いときは2,000名に近くなったこともあったけれども、いまも残る何百名かの会員が、会費を出し合い、ろう、中失、難聴、健聴を問わず、聴覚障害の問題を考えるために雑誌を発行して、役員はその都度交替でやってきた。
 この忘年会で、木下幸雄さんが明るい表情で、人工内耳手術後の良好な経過を語っていたのは、なによりも、うれしい話だった。
 奥さんの修子さんの話では、電話が大丈夫なだけでなく、音楽もやりはじめたのだという。彼は、失聴前はNHK合唱団にも所属していて、ギター演奏にも練達していた。
 すごい時代になったなと思う。21世紀には、人工内耳の技術は、もっと進歩することだろう。
 しかし、人工内耳の手術を受けても、木下さんと違って、はっきりした結果のでない人もいるかもしれない。
 だから、世の中には大勢の聴覚障害者がいるという基本的な常識を、正確に広めることは、ますます重要なことだ。
 みみより会の誕生は、まさに、この願いからはじまったのである。
 聴覚障害者が叫ばなければ、聴覚障害のことは、聞こえる人にはわからない。
 でも、むかしからろうの人は叫ばなかった。いや、叫べなかった。あるいは、叫んでも、わかってもらえなかった。
 最近、ろうの俊才たちが輩出して、聴覚障害について語りはじめたのは、手話が、聴覚障害者の言葉となったからだと思う。
 手話は、20世紀後半、それも1970年代から急速に広まった。
 ぼくの意見では、やっぱり、戦争でアメリカに負けたことが、日本の社会制度を一気にアメリカナイズし、そのことが、手話の普及にまでつながったと思う。
 明治以来の日本の教育は、エリート育成の教育だったから、ぼくのような講義が聞こえない難聴者は、戦前は少数精鋭の高等教育などは受けられなかった。1948年からの学校教育法によって学制が改革され、大学の数がうんと増え、厳密な身体検査などはなくなって、ぼくも機会を得たのである。
 ろう学校も、この学校教育法によって、はじめて義務教育となった。
 基本的に、ばらばらだったろうの子供たち がろう学校へ集められたからこそ、教育方式が口話法であっても、手話が育ったと思う。
 やがて、手話通訳が誕生し、ろうの人と一般社会の人たちとのコミュニケーションがスムーズになり、ろうの人も情報を享受して爆発する時代になった。
 この学制改革は、おそらく敗戦という外圧を経なければ、保守的な日本人だけでは、とても実現できなかったことだろう。
 最近、憲法や教育基本法を見直せという意見があるようだが、教育基本法第一条の教育の目的のところに、「(教育は)自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」と書いてあるのは、むかしから反対だった。
 体が不自由で歩けない子供に、ちゃんと歩く方法を教えるというような教育はしてほしくない。「自主的精神に充ちた国民の育成」だけで、十分であろう。

● 大嶋功先生と悲劇の遺稿集
 忘年会の席で、編集長の岡本昇蔵さんから、日本ろう話学校の元校長大嶋功先生の遺稿集「可能性は空の極みまで」を渡された。
 帰宅後、一読して感慨無量であった。
 この世は、理想と情熱の交錯である。
 この世や、自分を善くしようとする精神は人のエネルギーを支える。
 昭和6年から64年間、88歳まで一貫して同校に奉職され、校長になられてから だけでも44年の長期にわたって、ろう教育の先頭に立たれた大嶋先生の信念は、口話法によって、ろうの子供たちを「唖にならないようにする。それがこの学校の仕事であります」(1970年)だった。
 しかし、筑波大付属ろう学校で学んだ田門浩さんは、発声が十分でなくても、手話通訳の秘書を雇って弁護士をやっている。
 大嶋先生の長い教育生活は、結果的に迷い道だったのではないだろうか。
 そう感じたことが、感慨無量であった。
 ぼくと岡田秀穂さんが、最初に日本ろう話学校を訪れたのは、1955年1月のことで、作ったばかりのパンフレット「足踏み」を携え、大嶋功校長先生と望月敏彦教頭先生に会って、ぼくたちの会の主旨を説明し、今後のご指導をお願いした。
 ろう教育は、個人的な栄達とは無縁の仕事である。キリスト教の熱心な信仰者である2人の先生が、ろう教育に身を投じていることに深い感銘を受けた。
 当時、すでにろう学校は、口話法全盛の時代であり、中でも大嶋先生の早期聴能訓練は熱心な主張となって注目されていた。
 遺稿集の中の「口話か手話か」という論文の最後は、つぎのような言葉でしめくくられている。
 「結論というものは、自ずから到達してはじめて力となり得る。全国のろう学校の廊下に燻っている論争を燃えあがらしめよ。もしそれが正しく燃えあがらしめるならば、20世紀後半のこの論争は、私の結論に到達することを確信するのである」(1956年)
 大嶋先生が、ろうの子供でも普通に話し、口を読むと信じた理想は、やさしさのようで、あまりにも強い断言である。

● 認知された手話の力
 この遺稿集は、大嶋先生のその断言が、腰くだけになったことを告白している。
 「口話法による成果が十分に現れないことが、それによって教育が十分に進まないこと が、手話論者の失地回復の機会となっている」(1978年)
 「(口話法の)成果のあまりにも貧しさが、今日の手話ブームの原因の一つであると思わざるを得ない」(1985年)
 一方、ろう者自身が、手話を使って日本の法律の中にある差別について異議を唱え、改善を迫る現代の事実は驚異である。
 岩手県の樋下光夫さんと京都のろうの弁護士松本晶行さんの先覚者2人による自動車運転免許裁判からはじまり、最近の野沢克哉さんを中心とするすばらしい運動のように、法律改正を求める20世紀の輝かしい人権運動は、すべて手話の普及によって可能になった。もちろん、条件によって、口話法が有用な範囲はあるであろう。しかし、手話を忌避する頑なな大嶋先生の姿勢は、聴覚障害者の現実と結びつかない。
 「(手話は)ある程度のコミュニケーションには役立ちますが、一般社会には通用しません」(1970年)
 「手話をタブー視する気風が聾学校の中に、ことに父兄の間に、いまなお強い事実に対して、長く教育に携わっていた者の一人として大きな責めを感じる。聾学校に対する聴覚障害者の深い、しかし当然な不信があることを悲しく思う」(1985年)
 この遺稿集を読めば、手話をタブー視したのは、父兄ではなく、大嶋先生の信念である。
 読み終わって深い感慨に襲われたのは、口話法を生涯かけて推進した大嶋先生の遺稿集が、いみじくも口話法の敗北を物語る証拠になっていることを感じたからだ。
 言葉をしゃべれない子供は社会に受け入れられないと信じた口話法は、もしかしたら体が不自由で歩けない子供に、ちゃんと歩く方法を教えるというような教育だったのではないだろうか。
 むかし、日本ろう話学校を最初に見学させてもらった46年前に、中等部の明るい女子生徒たちは、下校の道で鮮やかに手まねのコミュニケーションをたのしんでいた。
 みみより会では、発足の当初から外山和郎さんが、喫茶店で手話を教えてくれた。
 「こんど、日ろうでやってみよう」
 「冗談じゃない」
 と、外山さんは、手話を使った子供たちが、どんなふうに先生から叱られるか、顔をくしゃくしゃにして教えてくれた。
 口話法も手話も、視覚によって聴覚を補う方法だと思う。神様が与えてくれた知恵といってもいいかもしれない。ろう学校の生徒たちにとっては、手話がいいとか、わるいとかの問題ではないだろう。
 ニュートンならずとも簡明にわかる事実を、どうして、キリスト者の大嶋先生をはじめ、多くのろう教育者がやさしく理解することを拒否したのだろう。
 この遺稿集の中には、日本ろう話学校を卒業した人々のことを、回想したり、褒めたり、励ましたりする愛情の記述が乏しい。それも、寂しいことだった。

● さあ、手話を習いましょう
 ぼくは、いま、むかしの仲間と地元の公民館で手話サークルをやっている。
 難聴の三浦裕さんは、会社を定年退職するまで手話は使わなかった。ところが最近は手話が上手になった。健聴者の大原(旧姓中屋)恭子さんは、みみより会の第1回目の会合が朝日新聞社の会議室で行われたときに教育大学の学生だった。親戚の中に、耳の聞こえない方がいたのだという話を、手話サークルをやるようになってから、40年ぶりに教えてもらった。
 ぼくが、1954年に、京都ろう学校の生徒、清水昭雄さんの新聞投書を読んで、清水さんに手紙を出したように、大原さんも清水さんに手紙を出した。
 そういう人が何人かいて、それが母体になって、みみより会が誕生したのである。
 基本は、やさしさなのだ。
 手話をやりながら、ぼくらの学生時代に手話が使えたら、清水さんとも、もっと十分に会話ができたのにと残念に思う。
 ささやかな手話サークルでも、22世紀までつづくかもしれない。
 もちろん、ぼくは、死んじゃうよ。
 でも、それでもつづくとしたら、それは、これからのIT技術や医療の進歩を考慮に入れても、手話には心があるからだと思う。


                    えとき ひさし(千葉県習志野市袖ヶ浦)
                 みみより誌初代編集長・みみより会参与・作家
                       2001年「みみより」誌No.475掲載

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