ネオ・ノベル「作品解説」
我輩は猫ではない
この話は、言わずと知れた「吾輩は猫である」を参考にしたものである。
ちなみに似ているのは題名だけであって、「黒い生き物」を主人公とした、全くの別物の話である。
この主人公がある相手に対して一方的に話しかけるといった形式で話が進んでいるわけだが、主人公の正体といい、後に多くの疑問を残す作品となった。
真・蟻とキリギリス
この小説の元ネタは、何年か前に見たあるテレビ番組である。
もともと、「蟻とキリギリス」の話は、遊び人のキリギリスが夏の間全く働かずに遊びまくっていたため、冬になって困ってしまい、結局はコツコツと働いて食糧をためこんでいた蟻の世話になる、といったものである。
この話には「地道な努力が一番大切なのだ」といった教訓が含まれていると思われる。それはそれで良い話である。
しかし、今回の「真・蟻とキリギリス」はまったく逆の視点から蟻とキリギリスの二者を見ている。
キリギリスは夏の間、確かに働かないで遊んでいる。けれども、冬になっても蟻の助けを拒絶し、そして誇り高く死んで行く……。このような形にすると、それまでだらしなく見えたキリギリスが急にカッコよくなる。無論、この話は「キリギリスのように死ね」という意味を表わしているのではない。一方で、蟻のほうもコツコツと努力する生き方を心から信じているのである。近い将来の「死」を充分に覚悟して遊ぶキリギリス。一方、常に「努力」を忘れない蟻……。
誇り高き両者の姿勢には、我々のような温室で生活する現代人も見習うべきところがある。
ラッキー・エイジ
この話は、宝くじにかかわる人間を皮肉っぽく描いたものである。
しかし、それだけにとどまらず、「大金を手にした人間はどうなるか?」という永遠のテーマ(?)を使った実験も行っている。それは、「向上心があるかないか」にも置き換えることができる。
人間のうち、大部分はある程度まで登りつめると、それ以上、上は目指さなくなる。しかし、向上心のある人間はどんなに成功しても、決して満足はしない。
主人公である金本輝夫は、後者の人間に入っていたのではないか、と思っている。
真・樵の泉
「幸せって何だろう?」 その問いかけから、この作品は生まれました。
気合いが入って、ショート作品中心のネオ・ノベルの中では珍しく、少し長めの作品になっています。
「正直なきこり」をはじめ、この類のおとぎ話では、「正直者が得をする」という図式が結構見られます。たいてい、一人目が正直で得をし、それを聞いた嘘つきで欲張りな二人目は、一人目よりも得をしようとして逆にひどい目にあう……。これは昔話によく見られるパターンで、正直者は得をするといった教訓を含んでいると思われますが、「真・樵の泉」では、逆に「得をしなかった正直者」と「得をした嘘つき」のニ者を対比させて、「幸せって何だろう?」といったことを考えながら書いてみました。
人間それぞれの価値観の違いを含めて、その辺のところがうまく表現できたかについては、読者の皆さんの判断にお任せします。
来ない……
本作品は、多分誰にでもある「待ち合わせ」における人間の心理状態の変化を描いてみました。
来ない友達を待つ人間の心理―――来るかもしれないから帰るとまずいよな、いや来ないだろうから帰ってしまえなどという心の葛藤。
待っている間に溜まっていくストレス……などなど。
そのうえ、いつまで待っても友達が来なかったとしたら……?
この作品はフィクションといえばフィクションだし、ノンフィクションといえばノンフィクションのような不思議な感じの作品になりました。
一人称で書くことによって、「僕」の気持ちを生々しく伝えています。
ひとりだけでツッコミを入れてしまう「僕」のむなしさには、本当に同情してしまいます(笑)。
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