ネオ・ノベル「偶然の一致」


 俺は呆然と立ち尽くしていた。
 恐ろしい光景だった。
 ……人を刺してしまった……。
 我に返って後退ろうとしたが、体が金縛りにかかったように動かない。
 手に握られていた血のついたナイフが、音もなく滑り落ちた。
 ……う、嘘だろ?
 俺が、「人殺し」だなんて……。

 二ヵ月ほど前に俺、森川善光と沢木椎奈は結婚した。
 俺は二十八歳、椎奈は二十七歳だった。
 椎奈はとても美しい女性で、性格は穏やかで優しく、繊細だった。一緒にいるとホッとするとでもいうのだろうか……落ち着けた。
 彼女はよく気がつく性格で、結構他の人からも頼りにされていた。

 椎奈と出会う前まで、俺はよく恐ろしい夢を見た。
 薄いブルーの空間に美しい女性が立っていた。
 女性の向かい側に立っている俺の手には何故かナイフが握られていて、何を血迷ったのか、俺は女性の脇腹にそれを突き立てるのだ。女性は糸の切れた人形のようにカクッと倒れると、返り血を浴びた俺は彼女を刺したナイフを持ったまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
 あとは思い出せない。いつもこの場面でうなされて目が覚めてしまうからだ。
 罪的な夢だった。もちろんその女性が誰なのか、俺がどうして彼女を殺さねばならないのかは全く分からなかった。

 初めて椎奈を見たとき、俺は自分の目を疑った。
 何だか夢の中に出てきた美しい女性に瓜ふたつだったからだ。特に目が、俺を見つめる時の視線があの夢の中に出て来た女性にそっくりだった。
 俺は無意識にわき上がる恐怖でいっぱいになり、彼女を遠くから見つめていることしかできなかった。
 だが、椎奈の方から近づいて来てくれたのだ。椎奈と直に話すようになり、彼女の人柄に触れていくうちに、俺はあの夢を忘れることができるような気がしてきた。
 夢は夢、現実は現実だと……。

 う、嘘だろ?
 そんな馬鹿な!
 俺は返り血を浴びた姿で呆然と立ち尽くしていたが、次第に全身が硬直し、床に崩れた。
 俺の視線は死体に注がれた。
 ……目の前に横たわっている女性の死体は、やはり椎奈であった……。
 忘れたはずの光景が今、俺の目の前にあった。
 記憶は鮮明に以前見た夢の断片を呼び覚まし、俺は恐ろしい一致を知ったのだ。
 椎奈が、あの時の夢に出てきた人物と瓜ふたつであったことに。
 「こ、これが正夢ってやつかよ……」
 口から出た言葉とは裏腹に俺はこれが「夢」であればいいと必死に願った。夢ならば必ずいつかは醒めるはずだと。
 俺が椎奈を殺すなんて……殺す理由なんて何一つ無い。もちろん彼女を憎いと思った事だってない。
 もう少しで俺は「夢」から解放される。そうすればまた、あの優しい椎奈と会える。
 俺は美しい椎奈の笑顔を思い浮かべた。記憶の中の椎奈の笑顔は変わることはないはずだった。しかし、その笑顔は次第にその輪郭を失ってゆくと別の表情に変わっていった。
 記憶の中の彼女は黙って俺を見つめていた……。俺は無意識のうちに血のついたナイフを取り落とすと絶叫していた。
 「頼む、そんな表情で俺を見つめないでくれ!」
 ナイフで刺した瞬間の椎奈の視線は、あの夢の中のおまえだったのかもしれない……。




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