ネオ・ノベル「夢から出た誠」


 マンションから外に出ると、私はタクシーを呼び止めた。
 「まっすぐに行ってください」
 それだけを運転手に伝えた。
 車が動き出す。しばらくすると、右手に大きなマンションが見えてきた。
 「ここでいいです」
 代金を払うと、私はマンションに向かって歩き始めた。
 敷地内では、私は下を向いて歩いていた。すると、視界に誰かの足元が入ってきた。視線を足元から顔の方へ上げていくと、その人と目が合ってしまった。
 美形の男の人だった。バンドか何かをやっていそうな恰好をしている。彼は私を見ると、片手を挙げて合図した。
 彼に近づいて行く私。すると、自然に抱きしめられ、キスされた。まるで恋人同士のようだった。


 これは、私が最近見た、とても印象的な夢である。
 リアルだった。こんなに鮮明に覚えている夢も珍しい。
 私は、この夢を思い出しては、ため息をつくのだった。


 私は女子大の一年生で、去年の3月末から東京で一人暮らしをしている。
 暮らしは慣れた。女友達もたびたび遊びにきて、夕飯を一緒に作って食べたり、泊めた事もある。
 でも、一つだけ寂しい事がある。それは、彼氏がいないということ。
 まぁ、女子大だから男の人と接する機会が少ないということもある。他の大学の男の人達からコンパの誘いがちょくちょくきてはいるものの、私は、お酒があまり強くなくてほとんど飲めないし、お金がかかるから割に合わないと思っている。だから、コンパも2回くらいしか行っていない。
 コンパは、大勢で盛り上がれるから楽しいけど、その後が予想つくから嫌だっていうのもある。
 そんなわけで、男の人と会う機会が減っているという毎日だったから、あの夢は私にとってセンセーショナルな事件だったわけだ。しょせん夢は夢なのだが、私は夢の中に出てきた男の人のことがどうしても忘れられなくなっていた。


 「よしっ、決めた」
 三日後の日曜日、私はとある決心をした。
 確かめに行くことにしたのだ。あのマンションがあるかどうか。そして、彼に会えるかどうか。
 一種の願いと賭けだった。夢を確かめる……こんなことをする人っているのだろうか? 私は、そんな思いつきにビックリしつつも、はやる気持ちを抑えられなくなっていた。
 タクシーにひとりで乗るのは初めてだった。
 私は、駅と反対方向の道を選んだ。なぜなら、夢の中では見慣れない建物ばかりだったからだ。それに例のマンションを今までに見たことがなかったということもある。
 「まっすぐ行ってもらえますか」
 そう運転手に告げると、私は右側に建っているマンションに限らず、左側に建っているマンションにも注意しながら見ていた。
 しかし、私は次第に自信を失っていった。もう5、6分くらい走っているが、例のマンションらしい建物は見当たらないのだ。
 しばらくの間、ボーッとしていた私は、しょせん夢は夢に過ぎないのかと思い始めた。
 「お客さん、一体どこまで行きたいの?」
 タクシーが赤信号で止まると、運転手が聞いてきた。もう乗っていてもラチがあかないと思った私は、
 「あっ、スミマセン。ここから近いので降ります」
 そう嘘をついて、タクシーから降りた。
 それまで、私は外の様子に気づいていなかった。ボーッとしていた間は外を見る気にもなれなかったからだ。だから、目の前に広がる光景を目にした時、驚きを隠せなかった。
 あったのだ、例のマンションに似た建物が。夢で見たものと比べて高級感という点に関して少し劣っていたものの、一目でピンときた。「これだ!」と……。
 私は緊張した面持ちで、マンションの敷地内に入った。
 いるはずない、いるはずないと心の中で首を振る自分もいれば、きっと会える、きっとねとうなずく自分もいた。
 現にこのマンションがあったんだもんね、会えるよね……結局は、会えるという気持ちの方が勝っていた。
 私は、とりあえず歩いてみる事にした。
 夢に出てきた人に会いに来た……誰かが私のやっていることを知ったら、どう思うだろう? そんな風に自分のやっていることを考えていると、何だか恥ずかしくなり、下を向かずにはいられなかった。コツコツと靴音だけが響いている。そんな私の靴音に混じって、前方から新たな靴音が聞こえてきた。
 誰か来る。もしかして……!
 私はそれが誰かを確かめようとしたが、顔を上げることはできなかった。すれ違うとき足元が見えて、それは明らかに男の人だと分かった。
 私のすぐ後ろで足音が止まった。
 男の人は立ち止まったようだ。なぜか背中に視線を感じた。
 「あの、スイマセン」
 男の人の声だ。
 私は驚いて立ち止まった。
 それって、私のことだよね?
 私はドキドキしながら振り返った。
 そこにいたのは、美形でロックしてそうな男の人……ではなかった。優しそうな瞳をした、さわやかな感じの男の人だった。
 「落ちましたよ、ハンカチ」
 ハンカチを前にかざしながら彼は言った。
 「あっ、スミマセン」
 私は、慌てて彼に近づいた。
 「どうもありがとうございました」
 お礼を言うと、ハンカチを受け取った。
 「どういたしまして」
 彼はそう言って微笑むと、その場を去っていった。
 私は夢とは違ったものの、ステキな人と出会えたことを嬉しく思った。そして、再びあのマンションに行くことはないだろうと感じていた。


 平穏な日々は戻りつつあった。
 早くも春休みに入っていた。
 バイトでもするかと思い立った私は、アルバイト情報誌からいくつかピックアップし、電話をかけた。
 ひとつめ、ふたつめは断られ、みっつめ。このみっつめは、ウチにも近い駅(しかもあのマンションのそば)にある喫茶店のウェイトレスだった。なんと、「明日、面接に来てください」とのこと。
 そして、私は見事面接に受かり、三日後からそこでバイトする事になった。
 実は、ウェイトレスの仕事は初めてで、色々と失敗することも多く、自分にはこの仕事が向いていないんじゃないかと思い始めたある日のこと、休憩時間ボーッとしていると、
 「元気出して下さい」
 と、肩をポンっと叩かれた。
 私は顔を上げ、そこに立っている人を見て驚いた。
 心臓が止まるかと思った。あのさわやかな男の人だったのだ。私の表情で、彼は察したみたいだ。
 「はい、これとうぞ」
 ホットミルクティーを手渡された。
 「でも、偶然ですねー」
 彼は、私の正面のイスに腰掛けると、
 「オレ、前からここで皿洗いのバイトしてるんですけど、さっき働いてるの見かけて驚きましたよ。いるから」
 そう言って笑った。私は、顔を真っ赤にして、
 「そのセリフ、そのまま返します。あの時はありがとうございました」
 と、言った。
 「あのマンションに住んでるんですか?」
 「いえ……違います」
 まさか、「夢の人に逢いに……」なんて言えない。私は内心、ギクリとした。
 彼は、第一印象通り優しい人で、私よりひとつ年上の大学二年生だった。私はバイト先で会う度、彼と色々な話をした。たわいもない会話はいつも和やかなムードが漂い、楽しかった。
 私はいつからか、彼を思う気持ちが友情から恋心に変わっている事に気づいた。だから、バイトも春休みだけではなく、学校が始まってからも続けることにした。
 嬉しい日々は続いた。学校で友達に「何ニヤニヤしてるの?」と言われたりもした。それはもちろん、彼に会えるからである。バイトも苦にならなかった。問題のウェイトレスも、彼やバイト仲間がアドバイスしてくれたおかげで慣れたし。


 ある日のバイトの休憩時間、彼に、
 「あとで話があるから、帰り一緒に帰っていいかな?」
 と言われた。私は顔を真っ赤にしながら、
 「はい」
 とうなずいた。いつも女の子の友達と帰っていたから、彼と一緒に帰ったことはなかった。
 「一緒に帰っていいかな?」
 彼の言葉が頭の中で何度も繰り返される。私は、今日久しぶりにウェイトレスの仕事でトチってしまった。
 運命の時がやってきた。
 私は、ウェイトレスの友達に、
 「今日、用があるから先帰ってて」
 と告げた。そして、友達がみんな帰っていくのを見はからって、ロッカー室を出た。彼はすでに着替えを終えて待ってくれていた。
 「あ、お待たせしました」
 私が、おじぎをすると、
 「いいえ」
 と彼は微笑んだ。
 店から出ると、私は彼と肩を並べて歩き出した。私と彼の家は逆方向で、彼と一緒に帰れる時間はそう長くはない。私は、いつも帰っていく彼の後ろ姿を見送るだけだった。
 けれども、今日は違う。こうして一緒に歩いている。
 「あの、話って?」
 私は、彼の横顔を見上げながら聞いてみた。すると、彼は立ち止まり私の顔をじっと見つめて、
 「オレと付き合って下さい」
 と言ってきたのだ。
 私は、彼の意外な告白に驚き、ただ呆然とするのだった。


 あの時は、本当ににビックリしたけれど、翌日、彼に私の想いを伝え、こうして私達は付き合うことになった。バイト仲間が、私達が付き合っていることを知ったとき、うらやましがられてしまった。
 私でいいのかな? そう思うくらい、私も幸せだった。


 その頃、例のマンションでは、夢の中で会った女の人が忘れられず、毎日のように部屋の前でたたずむ男の人がいた。見た目はとても美形で、バンドか何かをやっていそうな男の人。
 あの男である。しょせん夢は夢に過ぎないことは分かっていた。いつ来るか分からない、いや来るはずがない。
 しかし、彼は夢で見た女の人を待ち続けていた。
 奇跡を信じていた。ただ顔を見られるだけでも良かった。
 男は、自分の部屋のドアの前に寄りかかり、ただじっと待つのだった。



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