悪戯
それはちょっとしたイタズラだった。
いつも自分をへなちょこ呼ばわりする、彼への。
「こらっ!ユーリ!お前は婚約者と風呂にきておいて、
一人だけさっさと行ってしまうのかっ!?」
「五月蝿いなぁ〜…先に温もっとくだけだろ〜?」
ヴォルフラムがやたら止め具の多い服に悪戦苦闘しているうちに、
タオル一枚腰に巻いてさっさと歩いていく。
後ろでまだ罵声が聞こえるが、無視してズンズンと進んでいく。
(まったく…わがままプーは…)
魔王陛下専用の広い広い浴室に入ると、そこは温かな湯気で満たされていた。
(些細なことでもすぐに怒ってさ〜…っ!?ぁっ!)
腹立ち紛れに足を踏み鳴らして進んだせいで、薄く濡れたタイルに足をとられて滑りかけた。
(あっぶない…あ!そうだ!)
ユーリは頭に浮かんだ出来事にニヤリと笑った。
それは本当にちょっとしたイタズラだった。
いつも自分をへなちょこ呼ばわりする、彼への。
驚かせてみたくなったのだ。
湯船に入るとわざとらしくバタバタバチャバチャと激しく水音をたてて、
入口に向けて叫び声を上げる。
しかも良く聞こえるように右手を口に当てて。
そりゃぁ、もう出来る限り声を張り上げる。
「うわぁ〜!ヴォルフラム〜っ!たぁ〜すけてぇぇ〜っ!」
学芸会程度のお粗末な演技だが、とっさに聞けばきっと引っ掛かるに違いない。
驚いて飛び込んでくるであろうヴォルフラムにからかいの言葉を存分に投げ掛けてやろう。
幸い、湯舟の湯は澄んでいる。
万一にも溺れたのなら澄んだ水面に沈んでいるはずの体が無いこと位、すぐに分かるはずだ。
だからヴォルフもすぐにこの冗談に気付いて怒り狂うだろう。
そしてきっと怒りで白磁の頬にも貝の様に滑らかな耳にも朱がさして、
エメラルドグリーンの眦は吊り上がることだろうが、
でもそれは彼の母であるツェリ様の名言である、
『ヴォルフは怒った顔が1番可愛いのよぉ〜!』に則って、染まった頬の美しさでも楽しもう。
そう思いながら近くの柱の影にそっと体を差し入れた。
その瞬間…
「ユーリッ!?」
入口から飛び込んできたヴォルフラムの姿が脱ぎ切れぬ服のままの、
自分の想像以上に慌てた姿だったことに気をよくして、すぐに出ていくのは止めて様子を眺める。
ここに『ドッキリ!』の看板が無いのが惜しい位だ。
「ユーリっ!!どこだっ…っ、どこにっ!」
ざぶざぶと水を掻き分けて、ヴォルフラムは必死に俺の名を呼んでいた。
「ユーリッ!ユーリッッ!!!」
濡れて重くなった服を振り乱し、何度も何度も湯舟に顔を浸けるヴォルフラム。
両手は湯の中を這いまわり、おれを探している。
『なんで?どうして探してるんだ??』。
だって、彼には見えているはずなのだ。
____________透明な湯舟の中には誰の姿も無いことを。
『な、なんでだ??なんで気付かないんだ??』
ユーリがその疑問に思考の全てを奪われようとしていた時、ヴォルフラムが静かに動きを止めた。
そしてヴォルフの唇から小さな声が漏れた。
「また行ってしまったのか?」
『…え?』
ヴォルフラムの俯いた白い頬の上を、一滴の光の輝きが滑り降りた。
『涙?』
「またぼくに…何も言わずに行ってしまったのか!?」
『それって…スタツアのこと?』
「…やはりお前の帰る場所はここではないのか?」
ヴォルフラムはゆっくりと湯舟に崩れ落ちた。
「ちゃんと向こうには着けたのか?今度はいつ帰ってくるんだ?」
ヴォルフラムは服を着たままぼんやりと、湯船に浸かって呟き続ける。
その声音にも、いつも輝くような瞳にも、力は無くて。
今は酷く澱んで水面を見つめている。
『ヴ、ヴォルフ…』
ユーリは自分のした子供っぽいイタズラを後悔した。
勝手に飛ばされ、送られて、自分だけが酷い目にあっていると思っていたのが情けない。
残された彼等の気持ちを考えたことすらなかった自分に唖然とした。
目の前で人が消える。
それも彼らからすれば、大切な『王』が。
それを体験する恐怖。
「ユーリ…ユーリ…。お願いだっ!・・・返事をしてくれ・・っっ!」
湯船の端の大理石に突っ伏して、声を殺して泣きじゃくっているヴォルフの、
震える背中が、酷く小さく、見えた。
「ヴォルフ…」
これ以上はあんな彼の姿を見たくなかった。
「ヴォルフ。」
「…ユーリ?」
ユーリが呼ぶ声に、ヴォルフラムはゆっくりと振り向いてその姿を確認すると、
丸く大きく瞳を見開き、転がるようにユーリの元へ駆け寄ってきた。
ペタペタとユーリの体に触れて存在を確かめる。
その指先は、髪を頬を腕を撫で、ユーリの存在に確信すると、
まともに声も発せずに、涙を押さえた吐息を吐き出しながら、
ヴォルフラムはユーリをきつく抱きしめた。
それから水を吸って重たくなった服を脱ぎ捨て、
冷えた体を温めるためにもう一度湯船に浸かった。
その間も会話らしい会話もなく、ただ静かに二人自室に戻った。
魔王であるユーリの自室についてようやく、ヴォルフラムが口を開く。
「お前はぼくが疎ましいか?」
その声は酷く小さく掠れていた。
「ヴォルフ?」
「…お前が望むなら、婚約を破棄してもいい。二度と顔も見たくないというなら
お前の前に二度と現れないと約束する。だから…だから…」
もう隠すつもりはないのだろう、頬から滑り落ちた涙が彼の本心を語っていた。
「疎ましいならそう言ってくれ。
そうして二度とこのような…酷い、お戯れは、お止めください…陛下。」
堅く、小さく、いつもと違い名前も呼ばずに諌める姿が悲しかった。
でもそうさせたのは、ユーリ自身。
「ごめん、本当にごめん、ヴォルフラム。」
今度はユーリが小さく震えているヴォルフラムの体をしっかり抱きしめる。
思い返せば、ヴォルフの側でスタツアする事が多くて。
それをなんとも思わなかったけれど、
ヴォルフはそうじゃなかったのだとユーリは初めて知ったのだった。
だって、ヴォルフラムは地球を知らない。
日本を、向こうでの一人の人間としてのユーリの生活を知らない。
何処に行っているのか、何をしているのか、無事なのかそうじゃないのかを、
想像することすら難しい状況で、目の前でユーリが消えていく姿を、彼は何度も見てきたのだ。
「本当に、ごめん。俺が悪かったから。だから・・・」
もはや言葉のほかには、抱きしめることしか出来ないユーリは、
目の前を揺れる金糸の糸に顔を埋めて、小さく囁く。
「陛下なんて呼ばないで、いつものようにへなちょこって呼んでくれよ。」
返事のかわりに止まらない涙と抱き返してくるヴォルフラムの腕の強さに、
彼の想いの深さを思い知らされた。
悪戯の代償は、痛いほどの、彼の想い。
|