なみだ雨
 
 ぽつぽつ…… 雨の音がする。雨……降り始めたんだ……
 今朝からどんよりとした雲模様で、うっとうしかったから…… 降るんじゃないかって思ってた。

 私の瞳からこぼれた涙も、テーブルの上に小さな水溜りのように光っている。広いリビングに私は一人。彼は……いない。

 さっき、どうでもいいことでちょっとした口論になって…… そして、彼はプイッと出ていってしまった。
 だって、私は悪くない…… だって、あなたが悪いんじゃない……! そう思うと、また悲しくなった。

 「進さんのばか……」

 そうつぶやくと、私の瞳から、また……涙がぽろりとこぼれた。



 何で喧嘩したんだっけ……?

 確か朝までは、いつものようにラブラブだったのに……
 昨日の晩は、二人で夢見心地。宇宙(そら)は寂しかったよって、ずっと抱きしめてくれてた…… それなのに……

 どうして喧嘩したんだっけ……?

 確か朝ごはんはいつものように二人で食べて…… 起きたばかりの彼は、パジャマのままの朝食。本当は着替えてからにして欲しかったけど、たまの休日なんだから、仕方ないかとあきらめて。

 その後、私が食器を洗っている間に、彼は着替えたらしい。私がコーヒーを飲もうと思って、カップを持ってリビングに入ったら、足元に彼の脱いだパジャマがぐちゃぐちゃと、それも裏返しにしたまま放り投げてあった。
 で、彼はというと、ごろんとソファに横になって雑誌を読んでるの!

 もうっ、彼ったらいつもそうなんだから! 少しくらいは自分の物を自分で片付けて欲しいのに!
 一緒に暮らし始めた時から、ずっと気になってた。もう何度同じことを言ったかわからない。だから、今日はちょっと口調がきつくなってしまった。

 「もうっ、進さんったら!! パジャマをちゃんと表向きにして畳んで、寝室に持っていってちょうだい。こんなところに放り投げておかないでよ!」

 でも彼ったら、そんなことどうでもいいだろうって感じで、振り向きもしない。もう一回言ってやろうかしらって思って、口を開きかけたら、ものぐさそうな声でこんなことを言い出した。

 「面倒だなぁ、雪やっておいてよぉ〜」

 そう、いつもこれなのよ!! いつもなら、あ〜あ仕方ないなぁ、って私がぶつぶつ言いながら片付けるんだけど、今日の私、どうも虫の居所が悪かったみたい。その言い草に、なぜかものすごく腹がたった。だから、鋭い言葉で返してしまった。

 「どうして私がやらなきゃならないの!」

 それを聞いた彼が、急にむっとした顔で振りかえった。

 「いいじゃないか、女房ならそれくらいやってくれたって!」

 って言った。それに私はさらにカチンときて、

 「嫌よ! あなたがやりなさいよ!」

 そうしたら、彼はがばっと置き上がってスタスタと私のほうへ歩いてきた。彼の顔が私の顔に近づけるだけ近づいて、そしてすごい顔で睨んだの。で……

 「命令するなよ!」

 そう言うと、ものすごい勢いでパジャマを手にとってぐるぐる巻きに巻いて―私が言ったみたいに全然畳んでない!―それを寝室のドアから中に放り投げちゃったのよ。
 私ももうっ、ムッカーときて、腹が立っちゃって……

 「何よ!! そのやり方っ!」

 だけど、彼は私の顔も見もしないで、すっごく機嫌の悪い顔で、そのまま家から出ていってしまった。

 バシンッ!! 彼が玄関のドアを思いっきり締める音だけが、私の耳に届いた。



 それから、私は玄関に向かってアッカンベーをして、それでも腹が立つのが収まらなくてぶつぶつ文句言いながら、言い争ってる内にぬるくなっってしまったコーヒーを一気に飲み干した。

 私一人の家の中はシーンとして、音がなくなった。
 そうしたら、急にものすごく悲しくなってきて…… リビングのテーブルに突っ伏して……泣いた。

 「進さんのばか……」

 それからしばらくぼおっとしてると、ぽつりぽつりと雨音が聞こえ始めた。今朝からどんよりとした雲に覆われていて、とってもうっとうしかった。
 ううん、今朝からだけじゃない。もうここ数日、ずっと……雨。やんでも雲が切れなくて、お天道様にしばらく会っていない。
 今は梅雨。雨は天からの恵みだと、生き物好きの彼は、雨を大切にする。でも……私は、じめじめした湿気の多いこの時期は、あまり好きじゃない。
 だからかしら。じめじめとしたこの季節は……私の心も苛立たせる。

 今朝のこと、進さんも悪いけど…… 私も……あんな言い方するんじゃなかったわ…… ごめんなさい、あなた。
 後悔してみても、謝る相手は、ここにいない。

 窓辺に立って外を見てみると、雨はどんどん降りを強くして小さな水溜りが出来始めていた。

 「進さん……どこへ行ったんだろう」

 彼が出ていったときは、雨はまだ降っていなかった。車のキーもあるし、財布も置いたまま。玄関を見ると、ちょっとその辺を散歩する時に使うつっかけが消えていた。
 歩いて出ていったんだ。でも傘は持っていないはず。

 窓の外から聞こえる雨音が一段と大きくなった。迎えに……行かなくちゃ。



 傘を二つ取る。ひとつはさして、ひとつは手に持って、私は外に出た。家の中で見るほどの降りじゃなくて、少し安心。でも、雨は絶え間なく落ちてくる。
 閑静な住宅街は、しとしとと降る雨の中で鎮まりかえっていた。

 進さんはどこへ行ったのかしら? 彼の好きな場所は……あそこかな? 住宅の街並が途切れたところにある小さな公園。緑の木々と小さな花畑、そして小さな遊具がいくつかある。

 天気のいい日は、いつも何人かの子供達の歓声が聞こえている。そして、風が吹くと、木々が揺れてさわさわといい音がするの。
 彼、そんな公園の風景が大好きだった。



 公園の入口まで来たら、彼はすぐに見つかった。やっぱり…… 私は思わず呆れて笑っちゃった。
 こんなに雨が降ってるのに、彼ったら公園のベンチに座ったまま。動こうともしないでじっと木々を眺めているんだもの。

 もう大分前から、そうやって濡れていたんだろう。髪は濡れてボリュームがなくなり始めてるし、着ていたTシャツも体にピッタリと貼りついていた。
 どうして木の下に移動して、雨宿りしようとかそんなことを考えないんだろう?
 彼って……相変わらず…… 私はもう一度くすっと笑うと、小さな声で言った。

 「進さんの……おばかさん……」



 私は公園に入ると、後ろからゆっくりと彼に近づいていった。何か考え事をしているのか、雨音で私の足音が聞こえないのか…… 彼は私が来た事に気付かない。
 私は彼の後ろから、そぉっと傘を差し掛けた。

 「あっ……」 彼がその傘に驚いて振りかえる。「雪!?」

 目をまん丸くしてびっくりしてる。そんな顔って、なぜかとても心惹かれるの。まるで少年の頃に戻ったような表情をするから……

 「もう、ばかね。こんなに濡れて…… 風邪引くわよ」

 私がそう言うと、彼、ばつが悪そうに、ちょっと口をゆがめたけれど、何も答えなかった。
 まだ、怒ってるの?

 「帰りましょう」

 私がそう言うと、彼は黙って立ち上がった。私が持っていたもう一つの傘を彼に差し出したら、また黙って受け取って、それをさした。歩き始める。私も後ろからついていった。彼の後姿を見ながら歩く。

 ――さっきはごめんなさい。私の言い方が悪かったわ。

 そう言おうとしたけれど、言葉が喉のところで詰まって出てこない。彼も……何も言わない。
 前を歩く彼の傘をじっと見つめながら、家への道をとぼとぼと歩いた。

 ――進さんのばか……

 何も言わない彼に少し腹がたった。
 何か言ってくれればいいじゃない! 進さんだって悪いんだから、謝ってくれてもいいでしょう。迎えにきてあげたんだから、ありがとうくらい言ってくれてもいいじゃないの!
 そう思ったら、また涙がでてしまった。傘にぽつぽつとあたる雨。傘をさしているのに、私の顔にまで落ちてきたみたい。涙雨……



 すると突然、前を歩く彼が立ち止まった。どうしたのかしら?と思っていたら、まだ雨が降ってるのに、傘を閉じてしまった。そして、彼はくるっと振りかえると、私の傘を掴んだ。

 「!?」

 傘を持つ私の手に、彼の手が重なった。冷たい手。もうひとつの彼の手が、私の肩に乗った。ぐいっと引き寄せられて、小さな傘に二人は並んだ。

 冷たい…… 雨に長い間濡れていた彼の体は、ひんやりとしていた。その冷たさが私の肩に腕にわき腹に伝わってくる。でも……とてもうれしくて、心は温かくなった。

 「あたたかい……」

 ひとこと、彼はそう言った。ふと顔をあげて見ると、彼ははにかみながら笑っていた。
 しばらく、じっと寄り添って歩いていると、彼の体の中の熱が伝わってきて、私もだんだんあたたかくなっていった。

 「あたたかいわ……」

 帰る途中で見つけた家の庭の紫陽花が、雨粒に濡れて、さらに色鮮やかに輝いていた。



 家に戻ると、濡れた体を温めるために、二人して熱いシャワーを浴びて……それから、愛し合った。

 すっかりあたたかくなった体を、彼のやっぱりあたたかい体に摺り寄せた。彼は優しく私の髪をなぞってくれている。う〜ん、とってもいい気持ち!
 すると、心が自然と素直になっていく。さっき言えなかった言葉がすらすらと口を突いて出てきた。

 「ごめんなさい。さっきは私、言いすぎちゃったわ」

 「いや、雪が言う通りだよ。家でだってあんまりだらしないことしちゃあいけないよな」

 「ね、私達って、結婚して初めて夫婦喧嘩した?」

 「喧嘩ってほどじゃないと思うけどなぁ」

 「そうね、うふふ……」

 外はまだ雨が降っている。しとしとぽつぽつ……雨音が響く。じめじめした天気はまだ続く。
 でも、お互い素直に謝って、二人の心の中はすっかり晴れ渡っていた。



 翌朝、今日が彼の休暇の最終日。梅雨の晴れ間、珍しく天気もいい。昨日と同じように、少し遅い朝食を二人して食べて……

 私が食器を洗っている間に、彼は着替えたらしい。私がコーヒーを飲もうと思って、カップを持ってリビングに入ったら、足元に彼の脱いだパジャマがぐちゃぐちゃと、それも裏返しにしたまま放り投げてあった。
 で、彼はというと、ごろんとソファに横になって雑誌を読んでいる!

 これって、昨日見た光景と全く同じじゃないの!! もうっ!全然反省してないんだからぁ!!

 「進さんっ! ……あっ」

 いけないっ、またかわいくないこと言うところだった。何かうまい言い方がないかしら。そう思って考えていると、今日の彼はすぐに振り返った。

 「あっ、ごめん!」

 そう言って急いで立ち上がると、パジャマを手に持って畳み始めた。彼はパジャマをしまって戻ってくると、私を見てにっこりと微笑んだ。

 「久しぶりにいい天気になったな。せっかく晴れたんだから、今日はどこかドライブでも行こうか?」

 私は、彼の胸に飛び込んで、そして……力いっぱい抱きしめた。

おしまい

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