桜散る夜に
 花吹雪が舞う。強い風にあおられて…… もうすぐその花の全てが散ってしまうだろう。
 艶やかに咲いていたあのうす桃色の花々は、はかなくもその短い命を散らしゆく……

   花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり
 


 
 4月のはじめのある夜のこと。進と雪は散り急ぐ桜をめでるため、桜並木を歩いていた。

 二人が一緒に暮らし始めたマンションから、車で10分ほどのところ。そこは一般居住区の端に作られた鑑賞用の桜並木である。
 ガミラスとの戦いの後作られた人工並木だが、促成栽培が功を奏して、今年はまさにみごとな桜のトンネルを作り出していた。

 時折吹く強風のために、満開の桜は、散り急ぐように桜吹雪を派手に散らしていた。ほぼ満月に近い月の光に、その美しさはより一層映えている。


 時計の針は、もう2時を過ぎている。夜と言うよりも、朝に近い時間と言ったほうがいいのかもしれない。
 時間も時間だが、風が強いためか、昨夜まで大騒ぎしていたはずの花見客は、もう誰一人残ってはいない。
 ひゅーひゅーという微かな風の音だけが、静かな夜に聞こえるたったひとつのBGMだ。

 満開に咲き誇った桜は、今夜の強風にあおられて、際限なく散り続けている。おそらく明日の夜には見る影もなくなっているだろう。今夜がこの桜の最後の時なのかもしれない。


 雪のように降り注ぐ桜の花びらの下を、進と雪はぴったりと寄り添って歩いていた。

 「寒くないか?」

 そう声をかけて、進は抱いている雪の肩をさらに自分のほうへ引き寄せた。

 「ん……大丈夫。古代君こそ……」

 「雪にくっついてるからね。けど春とはいえ、さすがにこの風はちょっと冷たいな」

 進は苦笑した。すると、雪がすまなそうに微笑んだ。

 「私があんな時間に桜を見たいって言い出したからね……ごめんなさい」


 2時間ほど前、ちょうど日付が変わる頃だった。明日は二人の休日。少し夜更かししようと、二人で映画を見ていた。
 それが終わって寝支度をしようとした時、突然雪が桜を見たいと言い出したのだ。

 満開の桜をTVのニュースで見た雪は、行ってみたいな、となんとなく思っていた。
 寝る前に少し外気に当たろうと、ベランダヘ出てみると、ひどく風が強い。
 雪はふと昼間のニュースで見た満開の桜のことが気になりはじめた。

 「この風で、明日には桜、もう散ってしまってるかも…… 今から見に行かない?」

 雪の突拍子もない誘いに、進もなぜか乗ってしまった。
 夜桜見物ってのもいいかもしれないな……なんとなくそう思ったのだ。


 「それはいいんだ。僕も見たかったから…… ほら、とてもきれいだよ」

 そう言って進は立ち止まって、上を見上げた。月の光の他はほとんど真っ黒な空の下、薄桃色の花びらは数えきれないほど落ちてくる。
 吹く風に翻弄されるように、ひらひらと上下に舞う花びらが、進の顔もなぞっていく。

 「すごいわね。今日の桜の散り方……」

 雪も同じように天を仰いだ。

 「ああ…… 昼間まではまだ咲き誇っていたはずなのに、もうこんなに散り急いで……」

 進が顔を雪に向けると、雪は小さく頷いた。

 「はかないものね……桜って。なんだか自分の一番美しい時をよく知ってるみたい。だからそれが過ぎたら潔く散ってくのね、きっと」

 雪が微笑んだ。その微笑みは、やはり彼女も今が一番美しい時なのではないかと思うほど、輝くほどに美しかった。
 その美しさに、進は雪も桜のように散っていくような気がして、背筋がぞくりとするほどの恐さを感じた。

 「だけど……そんなに散り急ぐことはないじゃないか……」

 「えっ!?」

 進が急に恐い顔になったのに、雪は驚いた。

 「少しぐらいしおれたって、少しぐらい枯れたってさ…… 桜は桜だよ。そんなに慌てていくことないじゃないか。悲しいよ、そんなの!」

 進の言葉の勢いはだんだんと強くなる。そして最後には、その顔が急に泣き出しそうにゆがんだ。

 気遣わしげに、雪が進を見上げた。

 「古代……くん……?」

 進は愛する人の顔を真剣な眼差しでじっと見つめてから、乞うように言った。

 「雪は行かないよな?」

 「!?」

 「一番きれいな時が過ぎたからって、僕から去って行ったりしないよな? 雪はいつまでも雪だから…… いつまでも僕のそばにいてくれるんだよな?」

 雪は突然の問いに驚いた。

 進の胸に、数ヶ月前の辛い思い甦ったのだろうか。
 救えなかった若い命。一番輝いている時に、その命を散らした美しい少女…… そのことは進の心に今もまだ重くのしかかっている。

 そして離してしまったあの手の感触も忘れられない。
 あの時するりと抜けてしまった手を……離してしまった手を……進は後悔し続けている。
 あなたのせいじゃないのよと、雪は何度いい続けてきただろう、何度慰めてきただろうか……

 それでも進の心は、時々不安定になる。

 あのまま雪を失っていたら、僕は気が狂っていたかもしれない……

 いつだったか、進が珍しく本音を漏らしたことがあった。それほどあの時は、苦しかったのだろう。精神を病んでしまうほどに思い悩んだのかもしれない。

 そして今も…… その不安そうな瞳が、雪の顔をじっと見つめる。その不安を和らげるように、雪はゆったりと微笑んだ。


 また風が吹く。雪の髪を進の髪をなびかせて、桜の花びらを吹き上げる。舞い上がった花びらが、雪の顔にも進の顔にもふわりと触れて、そしてまたどこかへ飛び去って行く。
 それでも……雪は動かない。進も動くことはない。ただ互いをじっと見つめている。

 そう……私もあなたも、こんな風じゃびくともしないじゃないの。そうでしょ、古代君。

 「古代君………… 大丈夫よ。私はずっと一緒にいるわ」

 「本当に?」

 不安げな瞳がすがるようにまとわりついてくる。それは、少年に戻ったようにまっすぐで深い眼差し。

 「ええ、一番きれいな時が終わっても、少しくらいしおれても、枯れそうになっても、それでもしつこく古代君っていう枝にしがみついてるわ。ずっと離れない……ずっと」

 「雪……」

 「どんなに強い風が吹いても……よ。どんなに枝が揺れても……よ。私はあなたのそばを……離れないわ」

 雪の笑顔が一層美しく輝いた。
 両手でそっと進の顔を包む。そして愛しそうに目を細めると、ゆっくりと顔を近づけ、桜の花びらよりも格段に美しく輝く桃色の唇を、彼の口に寄せた。

 ふわりと柔らかな感触が、進の唇に広がった。

 (あたたかい……)

 進はその暖かな唇をむさぼるように味わう。なめてすって絡めて……味わう。


 そして長い時がたち、唇がやっと離れると、二人は再び互いを見つめ合った。
 進は、自分を見つめる雪の瞳に吸い込まれそうになり、溜まらなくなってその華奢な体をぐいっと引き寄せた。

 (雪……好きだ。もう絶対に離さない。君を……)

 進はそんな思いを込めて、愛する人を強く強く抱きしめた。雪もそれに答えるように、愛する人の胸に強くその身を摺り寄せた。

 (私はずっとあなたのそばにいるわ……)


 桜は散る。風に流されて、雪が降るように散っていく。だけど……

 たぶん――進は思った――雪は僕の隣にいてくれる限り、僕にはいつまでも最高のきれいな時であり続けるんだ……と。

 だから、散ることはない……僕の桜は……いつまでも散らないんだ……と。



 数日後のこと、風のためにすっかり裸になった桜の木に一輪だけ、まだ五弁の花びらをしっかりとつけた桜の花が輝くように咲いているのを、幾人もの人が見たという。

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