湯けむりのなかで

 (1)

 『トルルル…… トルルル……』夜も10時を過ぎた頃電話のベルがなった。進は今日、新造艦のテスト飛行から帰ってきていたが、少し問題点があるといって、エアポートからそのまま防衛軍本部へ行ってしまって、まだ帰宅していなかった。だから雪は部屋でひとりその帰りを待っていた。

 「はい……」

 『あ、雪かい? ごめん…… 明日の旅行、行けそうもないよ』

 「ええっ!」

 電話の主は進だった。明日の旅行―――それは、雪が行きたくてずっと進をさそっていた温泉旅行。今回の航海の前に、進から『今度帰ったら行こう』と言われて、雪ははりきって宿を探し予約を取った。ずっと楽しみにしていた旅行だった。

 「仕事……終わらないの?」

 『うん、まだ解決できないんだ。技術屋さんの問題なんだけど、現場の責任者として俺も帰るわけにはいかないんだよ。わかるだろ? 日を延ばせないのかい? あさってからなら多分大丈夫だと思うんだけど』

 進の仕事が急に入ってくる事は、めずらしいことではない。雪がデートの約束をドタキャンされたこだって、もう数え切れないほどあった。だがそれを一々怒っていたんでは、とても雪は進と付き合っていけないだろう。

 「だめよ、しあさってからは防衛会議だもの。私は休めないわ」

 雪の方にも長官秘書という大事な仕事がある。雪だって、長官の急な出張に付き合って、進と会う予定をキャンセルしたこともある。仕事柄、お互い様というところだ。

 『そうだよな…… その会議に間に合わせるために俺たちも今焦ってるんだから…… ごめんよ、本当に……』

 「ふう……しかたないわね。仕事だもの。でも……そうだ!私、ひとりで行ってきてもいい?」

 雪はふと、温泉へのひとり旅もいいかも、と思いついて言葉にした。

 『え? ひとりで? う……うん、まあいいけど…… でも、車は俺乗ってきてるし、どうするんだい?』

 進は、自分が行けなくなって後ろめたいのもあって、普通なら雪がひとりで行くと言ったら、まず反対するだろう自分を抑え、軽い質問にとどめた。

 「バスで2時間ってパンフレットに書いてあったわ。どうせ、今からキャンセルしてもお金も返ってこないし…… それなら一人ででも行って美味しい食べ物でも食べてきちゃうから!」

 雪はちゃんと、そんな事は承知の上だった。進としては、快く送りだすしかないようだ。

 『ははは…… わかったよ。楽しんでおいで。でも、いろいろ気をつけて行けよ』

 「もう! 子供じゃないんだから! じゃあ、連絡先だけ言っておくわね。○○温泉の宿の名前が『白樫』、電話番号は……」

 雪は、進にそれだけを告げると電話を切った。

 (あああ…… 古代君、行けなくなったのね…… ひとりで行くって言ったら古代君、遅れてでも行くって言ってくれるかなって、ちょっと期待したんだけどなぁ…… だって、行けないってことが無性に悔しかったんだもの…… でも、言いだしたんだし、たまには、一人旅もいいかも。思いきって行ってみよう)

 雪は、気を取り直して荷物をつめ始めた。

 (2)

 翌日、温泉行きのバスの時間を確認してバスターミナルへ行った雪は、旅の人になった。
 雪が一人旅をするのは実は初めてのことだった。青春時代をガミラスとの死闘のまっただなかで過ごした雪にとって、旅行をするということ自体ほとんどなかった。進と付き合いだしてから、二人で何度か出かけた事がある程度だった。

 観光地行きのバスは乗り心地もよく、平日のせいか、乗っている人もまばらで、みな2人またはそれ以上で楽しそうに会話を弾ませていた。そんな乗客をちょっとうらやましそうに見ながら、雪は目を外に向けて景色を楽しむことにした。

 首都圏のビル群を通りすぎると、未開発地区がしばらく続いたが、その後、緑の中に入っていった。目的の温泉街を中心に、昔風の野や山の風景が広がっている。
 そこはガミラスとの対戦後、地球の復興の一環として、旧温泉地の周辺を観光用に緑地開発した場所だった。首都からそう遠くない事もあって、人気の観光地になっている。幸い、白色彗星帝国の攻撃も暗黒星団帝国との戦いでも戦禍をのがれ、緑は美しく萌え揃っていた。

 (古代君、こんな風景見たら喜ぶだろうな…… 自然の好きな人だから……)

 自然と進のことが頭に浮かぶ雪だった。

 バスは予定通り温泉街に到着した。時間はまだ早い。雪は、宿を探して荷物を預けて散策しようと思った。
 表通りは、おみやげ物屋や、大ホテルが立ち並ぶ繁華街だったが、雪が予約した宿は、料亭旅館と銘打っているだけに、少し街中から外れた山に面した川沿いの静かな場所にあった。『白樫』と大きく筆字で書かれた看板のかかった純日本風の門構えの中には、これまた、日本の昔を思い出させる美しい木造平屋建ての建物があった。

 いつも高層ビルの真中でいる雪は、そんな建物にホッとする自分に気付いた。

 (やっぱり、たまにはこんな家で過ごして見たくなるわね。周りの雑踏も何も聞こえない……)

 (3)

 宿に入ると、フロントには着物姿の女性がひとり立っていた。

 「すみません…… 少し早いんですけど、荷物だけ預かっていただけませんか?」

 雪が玄関先から声をかけると、フロントの女性はニッコリ笑って玄関まで出てきて、お辞儀をすると言った。

 「ようこそいらっしゃいました。当、白樫の女将でございます。少し早うございますが、お荷物は部屋の準備が出来次第、お部屋にお持ち致します。どうぞ、こちらでお手続き下さい」

 女将と名乗った着物の女性は、年のころは40過ぎか、とても上品なこの宿によく似合う女性だった。雪は女将に勧められるまま、玄関を上がりフロントに立った。

 「お客様のお名前をちょうだいできますか?」

 「はい、も…… あ、古代です」 雪は進の名前で予約した事を思い出して答えた。

 「古代様ですね…… はい、古代進様、お二人でうけたまわっております。お連れの方はまだ?」

 「ええ…… 実は、急な仕事で……遅れてくると」

 一人客は敬遠されると聞いたことがある。だから、雪はとりあえず遅れてくることにしようと最初から決めていた。それに……来ないとは思いながらも、もしかしたら、という気持ちもあった。

 「まあ、それはそれは……ご主人様はたいへんですね。何時ごろにお着きでしょうか」

 「それが…… よくわからなくて…… だいぶん遅くなるかもしれないんですけど」

 「さようでございますか…… それでは、お食事の時間は一番遅くさせていただきますね。午後8時になりますが、よろしゅうございますか」

 「……はい、お願いします。あの、このあたりは散歩するのにいいところありますか?」

 「このあたりは、滝などもあって散策コースになっております。昔の自然を再現してますのよ。小鳥たちもおりますし、和みますよ。ゆっくり周られますと、だいたい1時間半くらいでしょうか。その頃にはお部屋にもご案内できると思いますので」

 「ありがとうございます。では、よろしくおねがいします」

 (4)

 雪は、女将に挨拶すると外に出てきた。宿から出て少し歩くと、散策コースの案内板がでていた。ちらちらと人が歩いているのがこちらからも見える。じっと案内板を読んでいると声をかけられた。

 「お嬢さん、おひとり? 僕らと一緒に歩きませんか?」

 大学生風の男性2人だった。雪ほどの美人である、ひとり出歩いているとよく声をかけられる。だが、当然ながら雪はそれに答えた事はなかった。

 「いえ、じきに連れが着ますから……」 いつもそう言って断わるのだ。

 (古代君がいたらこういうわずらわしさはないのにな…… ふふ、でも古代君が見たらまたすねちゃいそうだけど…… あっ、そうだ。やっぱりあれ着けようかな)

 あれ……とは、シンプルな銀の指輪だった。いつだったか、一人で歩いていた雪が小さな宝石店のウインドウで銀色に輝く細い指輪に目を止めた。少し地模様が入っているだけのなんの変哲もない指輪だったが、なぜか雪はそれに惹かれた。値段も手ごろで、思わず衝動買いしてしまったものだった。

 進から貰った指輪と言えば婚約指輪。あれは、大事に取ってあるが、特別のパーティでもない限りつけられない。元々あまり指輪などしない雪は自分でもほとんど買ったことがなかった。唯一、最近買ったのがこの指輪だ。指にしてみると、控えめで雪も気に入っていた。

 そしてそれは左の薬指にすれば、ちょうどマリッジリングに見えなくもなかった。今回の一人旅で、もし人に声をかけられるようなら、しようかと思って持ってきたものだった。さっそく、雪は、それを左の薬指につけてみた。

 (本物ならいいんだけど……うふふ、でもなんとなくうれしい気分)

 一人で、ニコッと笑うとちょっとだけ幸せな気分になる。そして雪は散策コースに入っていった。
 女将が言ったように散策コースからは、懐かしい自然の香りがあちこちからしてきた。ピーチピチとなく小鳥の声、さらさらと流れる小川の音、ちょっと覗いてみるとちいさな魚が泳いでいるのも見えた。幼い頃見た田舎の風景を思い出させるものばかりだった。

 30分ほど歩いていると、今度はザーザーと大きな音が聞こえてきた。滝のようだ。近くまで行くと、高さ10メートルくらいの滝。表通りからはまったく見えなかったこの滝に雪は心を洗い流されるような気分になった。

 (やっぱり、古代君と一緒に歩いてみたかったな…… あ、また古代君のこと考えてる、私ったら……)

 もう一度、さっきの指輪をみながらホッとため息がひとつ。ひとり出歩くのもそれなりに楽しいが、雪はやっぱりふたりがよかった。

 (古代君がいないとわたしはやっぱり本当の私じゃないみたい。会いたくてたまらない…… 古代君……)

 (5)

 また、男性が声をかけてきた。

 「お嬢さん、おひとりですか?」

 雪は、それには答えず、チラッと左手を見せる。

 「あ、失礼しました。奥さんでしたか…… ご主人もご一緒ですか?」

 その男性は、雪が人妻だと思っても離れようとしない。雪は黙って立ち去ろうとするが、

 「あ、すみません。怪しいものじゃないんです。そこに立っていらっしゃる姿がとても周りの風景にあっていて、僕、趣味で写真をとるもんですから…… 写真撮らせてもらってもいいですか?」

 そういいながら、その男性は名刺を差し出した。聞き覚えのある大企業の名前が書かれていて、ごく普通のサラリーマンのようだった。悪い人にも見えなかったので、雪は答えた。

 「写真ですか? ちょっと公表されるところには出たくないんですけど」

 「あ、それは大丈夫です。僕は素人写真家ですから。ポラロイド機能付きのカメラですから、撮ったらすぐお見せしますし……」

 雪はそこまで言われると断われなくて、そのまま写真を数枚撮ってもらった。すぐに写真を取り出すと、男性は雪にそれを手渡した。滝や周りの緑の中で、雪の姿はその自然の精のように、少し淋しげな静かな表情で写っていた。

 「きれいに撮れましたよ」

 「どうもありがとうございます」

 確かに美しく撮れたその写真を見て雪は礼を言った。

 「旦那さんは、どこかに行かれたんですか?」

 「あ…… まだ、来てないんです。急な仕事があって……」

 「ああ、それで少し淋しげな表情をされてるんですね。とても旦那さんが恋しいって顔してますよ」

 その男性は笑顔でそう言った。写真を撮るというだけあって、人の表情には敏感なようだった。雪は少し顔が赤くなるのを感じた。

 「じゃあ、僕はこれで、ほんとうにありがとうございました」

 そう言って、その男性は先に歩いて行ってしまった。雪は貰った写真を見つめる。自分の表情が、確かに進恋しさに淋しげな様子なのがありありとわかった。

 (古代君…… まだ、仕事は終わらないのかしら…… 期待しないようにしようと思ってるのに、もしかしたら、って思ってしまう。困った私、それなら最初から来なきゃよかったのに……)

 自然の中にいる幸福感と進がいない寂寥感が入り混じって雪の心で渦巻いていた。

 (6)

 5時を過ぎて散策を終えた雪は宿に戻ってきた。今度は部屋に通されて、宿の説明をうけた。

 「お食事は、8時からと伺っております。ご主人様早くおいでになるといいですね」

 案内の仲居が雪にお茶を入れて、微笑みながら話を続ける。

 「お風呂の方は、この廊下を右に曲がってまっすぐです。24時間いつでもお入りいただけます。女風呂と男風呂がありますが、そこからつながっている露天風呂は混浴になっておりますので、ご注意下さい。
 それから、その隣に家族風呂がございます。ここも、内風呂と専用の露天風呂がついております。ご希望でしたら、フロントの方へお申し出下さいませ。先着順でお入りいただいております。
 明日の朝食は、8時にお持ち致しますが、よろしいでしょうか?」

 「はい…… そのようにお願いします。あの、もし万一・・・主人が来れなくても、二人分ちゃんとお支払いさせていただきますので……」

 自分で進の事を『主人』というのは、雪には恥ずかしかったが、なんとか口に出す事ができた。

 「かしこまりました。ありがとうございます。でも、きっとおいでになりますよ。こんなきれいな奥様をお一人にされるはずございませんもの」

 仲居はニッコリと笑顔で雪にそう話した。

 「そうかしら? ありがとう……」 雪も、その笑顔に答えた。

 部屋で一人になると、雪はまたほっとため息が出た。柔らかな風が雪の頬をなぜた。窓の外はこの宿の庭になっていた。静かな本当に静かなひとときだった。

 (お風呂でも入ってこようか……)

 雪は立ち上がって、さっきの指輪を外しバッグにしまうと、たんすから浴衣を取り出して着替えた。タオルと着替えを小さな袋につめると雪は部屋を出た。

 風呂は、宿の規模のわりには広かった。温泉の硫黄の匂いが微かにしてくる。湯船につかるとほんわかと温かさがしみてきた。すっと腕をさするとなんとなくつるつるになったような気がする。本当に温泉に入るなんて、何年ぶりだろう。雪はまた、ほっとため息が出てしまった。

 (いやだわ、私ったら、何回ため息ついてるのかしら…… 何するにしても古代君……っていうのはたまには止めにしなきゃね)

 そう思って他の事を考えようとするのだが、なにか新しいものを見つける度に、『古代君にも見せたかったな』となってしまう雪だった。外の露天風呂もそうだった。さすがに、雪一人では入る勇気が出なかった。

 (古代君がいたら、一緒に入れたかな)

 雪はちょっと惜しいような気持ちで露天風呂の方を見たが、結局そのまま部屋に戻った。

 (7)

 しばらく部屋でテレビをつけてボーっとしていた雪だったが、時計を見るとまだ7時前。夕食にもまだ早いし、ちょっと部屋をでて宿の中を散歩することにした。

 部屋に囲まれた庭にはちょうどフロントの近くから降りれるようになっているはずだった。玄関近くまで歩いていくと、フロントに男性の後姿、防衛軍の制服! あれは……

 (古代君!?)

 雪の姿をフロントからこちら向いていた女将がいち早く発見した。

 「あら、ちょうどよかった。ご主人様がおいでですよ。奥様」

 その声に進が振り返った。

 「雪! ごめん、遅くなって……」

 雪は驚いて、うれしくて、声が出ない。 少しずつ進の方へ歩いていった。

 「奥様、とてもお寂しそうでしたのよ。よかったですわ。では、少し時間を早めて、7時半にはお食事をお持ちいたします。お風呂はその後にごゆっくりどうぞ」

 女将の言葉に頷くと、進は雪に駆けよって軽く抱きしめた。そして、二人は部屋の方へ歩きながら話した。

 「古代君…… どうしたの? 仕事……終わったの?」

 進に抱きしめられて、やっと実感が出てきた雪は、肩を抱く進にもたれかかるようにしながら言った。

 「うん、予定より早く進んでね。大体めどがついたのが今日の5時すぎだったかなぁ…… 後は、科学局でできるっていうから、現場の人間はやっと放免さ! ちょっと遅いかもしれないけど、バスで2時間って言ってたから、そんなに遠くないかなと思って。1時間半くらいで着いたよ」

 「本部からそのままで来たのね。その格好だと…… ふふふ」

 「あ…… しまった。着替えも何もないや。帰りもこの格好か、ちょっと恥ずかしいな」

 進は、やっと自分が防衛軍の制服を着たままだと言う事に気づいたようだった。

 「大丈夫よ。私、あなたの着替えも持ってるから……」

 「え? 準備がいいなぁ。来ると思ってたの?」

 「そういうわけじゃないけど…… なんとなく…… 来てくれたらいいなって思っておまじないに……」

 ちょっと恥ずかしそうに雪はささやいた。進はそんな雪の顔をうれしそうに見つめた。

 (8)

 部屋に着くと、雪はさっそく進の浴衣をたんすから取り出した。

 「古代君、浴衣に着替えるでしょ? その格好じゃ……」

 雪の笑顔が妙にはしゃいで陽気だった。当然の事だ。来て欲しいとは思っていたけど、来れないだろうとほとんどあきらめていた。でも、進は仕事が終わるなり飛んできてくれた。雪はうれしくてうれしくてしようがなかった。

 進が制服を脱ぐと、雪は後ろから浴衣をかけた。帯を締めて、やっと一息つける格好になった。進は庭に面したところにおいてある椅子に座った。

 「雪、おいでよ」 制服をたんすにかけていた雪を進が呼んだ。

 「なあに? あ、きれいな庭でしょ?」 庭の灯篭に灯りがともり、幽玄美をかもしだしていた。

 「ここに座って……」

 進は自分のひざを指差し、雪が近づいてくるとその腕を引っ張って自分のひざの上に座らせた。

 「古代君……」 雪の瞳が少しうるんだ。

 「寂しくさせてごめんよ。でも、来れてよかった」

 そう言うと、進は、雪を抱き寄せ唇をあわせた。雪も両手を進の首筋にまわしてそれに答える。しばらくして、顔を離して見詰め合うと、またキスを繰り返した。進の手が、雪のえりから胸元にすっと入る。

 「あ……」

 雪はビクッとして少し体を離そうとしたが、進は雪の背中にもう一方の腕をまわして離さない。

 「浴衣って便利だな……」 チラッと雪の顔を見る。

 「ばか……」 雪は恥ずかしそうに視線をそらした。

     
((by めいしゃんさん)

  雪はしばらく進の愛撫に身を任せていた。進の手の動きに雪の体が反応し、体中に暑い血が走る。とその時、外から声がかかった。

 「失礼致します。お食事を持ってまいりました」

 仲居の声にはっとして二人は離れた。雪はあわてて、えりを直し、ふたりでクスッと笑いあう。ちょっと恥ずかしくてちょっとうれしい、そんなひとときだった。

 (9)

 仲居は、料理を運びながらうれしそうに話した。

 「ご主人様やっぱり来られましたでしょ? 奥様。 私、きっと来られると思ってましたもの。だって、こんなきれいな奥様、一人にして置けませんものね、ご主人様!」

 ご主人と呼ばれて、進はなんとなく恥ずかしそうにするが、否定もしない。

 「ああ、そうだね…… 心配で寝られないよ」

 進も笑いながらそれに答えた。雪はうれしそうに頬を染める。

 「新婚さんでいらっしゃるんですね。いいですわね、お幸せそうで」

 仲居の言葉にまた、ふたりは顔を見合わせて、顔を赤くする。

 「あ、お食事が終わったら、お風呂入られますでしょう? 家族風呂の方、お取りしましょうか? 予約の方見てまいりましたら、あと一組しかお申し込みがなかったので、9時ごろからでしたら、入れますわ」

 「家族風呂?」 進が聞き返した。

 「お風呂は、男女別ですし、露天風呂は混浴ですけど、他の方もいらっしゃるかもしれませんでしょ? 家族風呂でしたら、小さいですけど露天風呂もついてますし、おふたりでゆっくりお入りいただけますよ」

 仲居の提案に、雪はドキッとして、どう返事していいかわからなかったが、進は結構平気な顔ですぐに返事した。

 「そうなんだ、じゃあ、お願いします」

 「はい、かしこまりました。空きましたら、お知らせ致します」

 「わかりました」

 「では、お食事の方はお任せしてよろしいですか? 奥様」

 客によってはそのまま給仕をするのが普通だったが、新婚らしいふたりをふたりきりにしてやろうという仲居の心遣いだった。

 「ええ」 雪が答えると、仲居は「よろしくお願いします」といって出ていった。

 仲居が出ていくと、二人はさっそく食事を始めた。小さな皿や鉢に少しずつ盛られた色とりどりの料理は、日本の懐石料理の典型のようだった。温泉もこんな料理も二人には本当にしばらくぶりのことだった。

 「古代君、昨日から徹夜で疲れてるのに、大丈夫? 私が一人でも行くって言ったばっかりに……」

 「こんな美味しい料理と温泉があれば、疲れなんかふっとんじゃうよ。大丈夫だよ、雪。俺も来てよかった」

 ニッコリ笑ってそう言う進に雪もホッとして笑顔になる。やっぱり、ふたりがいい……雪はふたりでいる安心感に浸っていた。


後 編へ
(注)この後編はちょっぴりおとなのイラスト付きです)