成功は失敗の元!?
3月の半ばに入る昼下がり。平日にも関わらず、ここ古代家では賑やかな笑い声が聞こえていた。
リビングでくつろいでいるのは、古代進とその妻雪、そして愛娘の愛だった。
愛はもう15歳。先日中学を卒業し、無事に希望の高校の入試に合格した。といっても、将来は医師を希望し、中学校ではトップを譲ったことのないほどの優秀な成績の愛のこと、有名進学校にもかかわらず、いつもどおりの勉強ですんなりと合格してしまった。
その上、母譲りの美貌も輝き始め、才色兼備の典型のような少女だ。なんともまあ、世の中の受験生からしてみれば、恨めしいほど羨ましい存在である。
そんな愛を、父の進は当然のごとく溺愛している。今日も愛を相手に他愛もない話をして、目を細めているのだった。
「ところで、愛。あさってのホワイトデーは何が欲しいんだ? 高校の入学祝も兼ねて、何でも好きなもの言っていいぞ。父さんが買ってやるからな」
と、またまたあま〜〜いお言葉がパパの口からこぼれてくる。横にいるママが目を三角にしているのも気付かずに……
「ありがとう、パパ。どうしようかなぁ〜〜」
「あら、まあ! ずいぶん太っ腹ですこと! でも愛の合格祝いは、もう別のを約束してるのよ、自分の部屋に置くオーディオセットが欲しいんですって」
ママの声がちょっぴり意地悪そうに聞こえるのは、やきもちが入っているのか? だが娘命?のパパはそんなことにはお構いなしだ。
「ふうん、そうなのか。けどまだ欲しいものあるだろう? 洋服でもアクセサリーでもいいぞ、あ、そうだ! なんなら、ファンタジーランドへ連れてってやろうか? この前行きたいって言ってただろう?」
身を乗り出しがちに、さらにエスカレート気味に娘へ言葉をかける夫に、ママは内心ちょっぴりムッときた。だがここは顔には出さず、逆の手を使うことにした。そう、ママはちょっぴり色っぽい甘え声を夫にかけた。
「それって、ぜ〜んぶ私に言ってくださってるのよねぇ〜」
「さぁてなぁ〜〜」
とパパはごまかし半分にそらを見たが、愛する妻ににじり寄られるのも嫌いではないらしい。顔にはっきりと書かれてあった。
「うふふ…… いいわよ、ママ。私、今は洋服もアクセサリーもそれほど欲しいものないし、ファンタジーランドは、今度友達と行く約束してるし、その権利ママに譲ってあげるわ。パパいいでしょ?」
いつものごとく両親の仲良しぶりにちょっぴりあてられたのか、愛がさっさと権利を放棄すると、ママの顔に笑顔が走った。
「やったわ!」
となると、いきなり慌てるのはパパである。
「おいこら、勝手に決めるなよ! 愛に買ってやるのと、ママに買ってやるんじゃ、桁が違うんだぞ!」
「うふふ……いいじゃない。たまにはねぇ〜」
ともう一度色仕掛け?のママにたじたじとなりながら、パパは話題を元に戻した。
「ま、まあ、それはいいとして、じゃあ、愛はホワイトデー何もいらないのか?」
話をはぐらかされたママは、ぷいっと顔をそむけた。が、その肩をさりげなくそっと抱き寄せるフォローを、パパも忘れない。ン十年連れ添ってきた余裕というものか。
もちろん、顔の方は娘に向いていて、返事をニコニコ待っているのだけれど……
「う〜〜ん、そおねぇ〜 どうしようっかなぁ〜」
と考えていた愛だが、急に何か思いついたようにポンと手を打った。
「あっ、そうだわっ! ね、パパ、私にクッキーを作って!」
とにっこり。
「え!? クッキーを『作って』……って?」
パパは目をぱちくり。
「そう。私も今年手作りのチョコレートあげたんだもん。パパも手作りのを作って欲しいなあ〜」
今度は愛がにじり寄る!?
「手作りのチャーハン、じゃだめなのか?」
と仰け反り気味になりながら尋ね返すパパ。確かにパパのチャーハンは古代家では定評がある。だが……
「だ〜〜め! あれも美味しいけど、ホワイトデーらしくないもの。ねえ、パパ。パパって結構お料理できるし、クッキーくらいなら初めてでも作れるわよ、ねえお願い〜〜」
ママの色仕掛けは、うまくはぐらかしてしまったパパだが、娘のうっふん攻撃にはまったくもって弱い。
「う〜〜ん、まあいいかっ。久しぶりだが、作れないことないだろ」
とあっさり請け負ってしまった。
「久しぶり?」
愛がその言葉を聞きとがめると、ママの顔が一瞬びくりとし、パパが肩をすくめた。それからパパが説明をはじめた。
「ああ、そうだな。もう20年以上前になるんだがな、1回だけ作ったことあるんだよ、クッキー。あれも確かバレンタインのお返しだったよなぁ、なあ、雪?」
「そんなこと……あったかしらねぇ〜」
と、ママがうそぶいた。なんだか言いたくなさそうな雰囲気を察した愛がさっそくチェック!
「やだ、ママったら、なぁにその顔……? ああっ、わかった!! パパすごく変な不味いクッキー作ってママに食べさせたんでしょう?」
くすくす笑いながら、パパの顔を見る愛に、進はまじめな顔で訂正した。
「ははは…… 違う違う、その逆だったんだ」
「その逆?」
「そう、なかなかの出来だったよな? あのクッキー」
とパパが向いた先はママの顔。すると、ママも仕方なく苦笑いした。
「ま、まあね」
「じゃあ、成功したんじゃない!」
と嬉しそうに二人を見つめる愛娘に、進はため息を一つ返した。
「ふうっ、そうなんだけどな…… それが逆に、うまくできたのがまずかったんだよ。なあ、雪?」
「もうっ、そんな昔の話いいじゃないの」
愛が両親の顔をそれぞれ見ると、パパの目がいたずらっぽく笑っているし、ママのほうちょっと居心地が悪そうに見える。
これは何かありそうだと、すぐに感じた愛だった。
「なんなのよ、それ?」
「あのな、実はな……」
と、パパの目がきらり。こうしてパパとママの青春物語がゆっくりと始まった……
あれはイスカンダルから兄さんが帰ってきた年のホワイトデーだったな。俺も雪も弱冠20歳。守とそう変わらないんだから、俺たちも若かったよなぁ〜
その年のバレンタインデーには、雪がチョコレートケーキを焼いてくれた。それが何というか……すごい出来で。
いわゆる消し炭一歩手前のケーキだったんだよなぁ〜 今だから言うけど、いや、ほんとすごかった。
それでもあの時は何とかフォローしながら食べたんだぞ。味はどうであれ、雪が一生懸命俺のために作ってくれたってことは、すごく嬉しかったからね。
で、それから1か月後のホワイトデーが近づいた時、何をしようかと考えたんだ。
その前の年は、ごく普通に、雪のお気に入りの店のお気に入りのチーズケーキを買ってお返しにした。
けどその年はちょうど休みに当たってたから、ちょっと変わったお返しをしようと考えたんだ。
それで思いついたのが、雪が手作りケーキを作ってくれたんだから、俺も手作りのクッキーを作ってあげようってことだった。
え? ははは…… 父さんだって、なかなか考えるだろ? 珍しく冴えてたな、と我ながら思ったもんだ。
けどなぁ、それがなんていうか……運のつきだったんだよなぁ〜
2202年3月14日当日――
今日はホワイトデーだ。さぁ起きるとするか。う〜〜ん、いい天気だな……
おととい宇宙から帰還した俺は、今日雪を自宅に招待していた。バレンタインのお返しに、ホワイトデーのプレゼントをするからって言うと、雪はそれはもう嬉しそうだった。
「私のあんなチョコケーキにもお返ししてくれるの?」ってちょっと心配そうにもしてたけどな…… けど気持ちは嬉しかったんだから、って言ったら、恥ずかしそうに笑ってたっけな。
今日の予定は……と。午後1時に家に来てくれって、雪には言ってある。午前中にクッキーを作って、できた頃に来てもらおうと言う算段だ。
おっと、もうこんな時間か。そろそろ起きて仕度しないとな。
ということで、休日とあって少し遅めに起きた俺は、軽く朝飯を食べてから、さっそくクッキーを作ることにした。時間は10時。昼までにゆっくり作る時間はありそうだ。よぉしっ、やるぞ!
俺は、めったにしたことのないエプロンまでつけて、張り切って材料を準備し始めた。
するとその時、玄関のドアホンが鳴った。
誰だ?今頃…… まさか、いつもの連中のうちの誰かが、俺たちのホワイトデーを邪魔しに来たってんじゃないだろうなぁ?
そんなことを思って出るのをやめようかと思ったが、ドアホンはしつこくなり続く。仕方ないな。もし奴らだったら追い返してやるぞと思いながら、俺はドアホンに答えた。
「はい……」
「あっ、古代君いたの?」
その声に俺は驚いた。まさか、雪?
「えっ!?」
それは紛れもなく雪の声だった。ドアホンの画面もオンにすると、大好きなかわいい顔が見えた。
やっぱり雪だった。俺は、ちょっと慌てた。なんだってまだ準備もしていないのに、雪が来ちまうんだよ……!
「どうして? まだずいぶん時間が早いじゃないか……」
「だって…… さっきママがお買い物に来たからって家に寄ってったの。それでご馳走たくさん持ってきてくれたのよ。古代君と二人で食べなさいって。だからお昼に一緒に食べようと思って早めに来たの」
「それならそうと、先に電話くらいしてくれればいいのに……」
準備ができていないのに、雪が来てしまって慌ててしまった俺は、その気持ちが俺の声をちょっと非難気味にしてしまった。
すると、雪は歓迎されなかったと感じたようで、不快そうな顔になった。
「あら、来ちゃいけなかったの?」
「い、いや、別にそういうわけじゃ」
なんて答えていいかわからなくて口ごもっていると、雪の顔がだんだん険しくなっていって、画面の向こうで俺を睨んだ。
「まさか…… 家の中に誰か他の人がいるんじゃないでしょうね?」
へっ!?お、おいっ! ちょっと待てよ、何で俺がそんな変な言いがかりをつけられなきゃならないんだよっ!
突飛もない攻撃に、俺はさらに焦った。
「ば、馬鹿なこと言うなよ。誰もいないよ」
「ほんとぉ〜?」
まったく雪の奴…… 俺のこと信じてるとかなんとか言っておきながら、すぐにこれだもんなぁ。参っちゃうよ。
え? 俺の顔がにやけてるって? だ、だれがぁ〜 ま、まあな、やきもち妬かれるのも、それなりに嬉しいもんだけどな。
とにかく今は、早く家に入れなくちゃ。準備がどうのこうのと言ってる場合じゃない。このまま帰しちまったら、せっかくのホワイトデーが台無しになってしまう!!
クッキーがまだできてないのは、待っててもらうしかないな。う〜ん、この格好、ちょっと恥ずかしいけど……まあ、仕方ないか。
「ほんとだって、今開けるから入ってこいよ」
すると雪は、あからさまにほっとした顔になって、いつものかわいらしい笑顔に戻った。変わり身早いなぁ〜〜〜 はぁ……
そして俺が玄関のロックをはずすと、雪は入ってきた。
「おじゃましま〜〜っす!」
そう言いながら、いつもどおりの明るい声で玄関で靴を脱いでいる。誰もいないことはすぐに気配でわかったらしい。はぁ、とりあえず誤解をまねくことにならなくてよかったよ。
「いっつも自由に出入りしてる部屋だろ? おじゃまします、もないだろう」
俺は台所から出ないままで答えた。宇宙勤務で留守がちの俺の代わりに、彼女が時々ここに来て部屋の片づけやら掃除やらをしてくれるんだ。
ま、それはいいとして、また彼女の声がした。
「それはそうだけど…… でも今日は家主がいらっしゃいますもの!」
彼女はここの合鍵を持っている。つまり本当は俺が開けてやらなくても部屋に入れるんだ。けど、さすがに俺が帰ってるときは、ちゃんと俺の開錠を待ってくれる礼儀正しい彼女だったりする。
「はは、まあいいけど。ま、そっちで座ってろ」
と答えたところで、雪はリビングを通り過ぎて、俺のいる台所にやってきた。
「古代君、何かして……!?」
と言いかけたところで、振り返った俺の格好を見て、彼女は素っ頓狂な声を上げた。
「え〜〜〜!! 古代君、何してるのぉ〜!?」
雪が台所に並んでいる材料やら器具やらをじっと見回して、それからエプロンをしている俺をまじまじと見た。その視線がなんだかやけに恥ずかしかった。
「いや……だから……君へのホワイトデーのお返しに、クッキーでも作ろうかと……」
「え〜うっそぉ〜〜〜!! 古代君、クッキー作れるの?」
またまたすごい声。でもって、その声は明らかに、俺がそんなもん作れるもんかと言いたそうに聞こえた。
彼女とすれば見たこともない光景に驚いて、そのまま口にしただけなんだろうけど、それが微妙に俺にはカチンときた。
「なんだよ、その言い方!」
俺がムッとしたことに気付いた彼女は、すぐに遠慮がちに言い訳をした。
「だって、古代君、甘いものってあんまり好きじゃないでしょ? だから……」
「雪のために作ってやろうと思ったんだよ」
恨めしそうに雪を見ると、彼女はたじたじとなる。
「あ、ありがとう…… 古代君ってクッキー作ったことある……んだ?」
「ないよ、今日が初めてだ」
と俺はあっさりと答える。すると雪はまた驚いたように眼を見開いた。
「え? でも、お菓子って分量が難しいじゃない? いくら古代君がお料理を作れるからって言っても……」
「俺に作れないっていうわけだな!」
またまたカチン! 言ってくれるじゃないか!
「そ、そういうわけじゃないけど……」
と口ごもる彼女に、俺は高々と宣言した。
「とにかく! 俺は、君にホワイトデーのクッキーを作ってやるんだからな! 黙ってリビングでできるまで待ってろ!!」
「う、うん…… ごめんなさい。古代君、怒ってるの?」
言い過ぎたと思ったのか、心配そうに尋ねる雪が急にかわいらしく思えた。俺はさっきカチンときたことなんてあっという間に忘れて笑顔になった。
「ははは…… 別に怒ってないよ。いいから、リビングでテレビでも見てろよ」
それでも雪は心配そうに俺を見つめている。
「……私も……手伝う?」
そりゃだめだ。雪に手伝わせてしまっては何にもならない。
「だから怒ってないからさ。これは俺から君へのプレゼントなんだから、黙ってできるまで待ってろって」
「……ええ、わかったわ。じゃあ、楽しみに待ってるわね」
やっと雪は納得したようで、台所を出て、リビングのソファに座ると、リモコンでTVの電源を入れた。
後で思えば、この時雪が思ってた不安に気付いて、一緒に作ってればよかったんだけど、そんときの俺は、そんなことなんて全くわかっていなかった。
やっと彼女を納得させた俺は、ふうっと一つ大きく息を吐くと、再びテーブルを見回した。
今日作るのは、一番シンプルで簡単な型抜きクッキーだ。クッキーの作り方の本は図書館で借りてきてあるし、材料もその通りに準備した。えっと、オーブンの予熱を始めるのは、まだちょっと早いよな?
あ、ちなみにオーブンってのは、別に俺が必要で買った訳じゃない。何でもあっためるのに便利だからって買った電子レンジに、おまけの機能みたいに勝手についてただけだ。
だからオーブン機能なんて使うのも今日が初めて。ま、コンピュータ制御の立派なレンジ様だから、ボタン一つでちゃ〜んとクッキーくらい焼いてくれるはずだ。
道具が揃ったのを確認して、俺はふとリビングの方を見た。すると、雪が慌ててて顔をそむけて、テレビの方に向いた。
あっ、雪の奴、俺の方を盗み見してたな? はぁん、どうせ失敗するとでも思ってんだろう? するもんか!! 絶対にうまく焼いて、君に美味しい!って言わせてみせるからな!!
よしっ、とばかりに、俺は作業を始めた。
え〜〜っと、まずは粉の分量を量ってと。小麦粉にベーキングパウダーはこれでよし。砂糖、卵とバターも計量OK!
次は、粉類をふるっておいてから、ボールにバターを練ってから卵を入れる。よく練り合わせたら、バニラオイルを入れる。
しかし、このバニラオイル。本に書いてあったから買ったけど、この瓶の中身全部使い切るまでに、どんだけクッキー焼かんきゃなんないんだろ? ちょっと無駄だったかな? 使い終わったら雪にやるかな?
最後にベーキングパウダーも一緒に入れた小麦粉を、もう一度ふるいながら、ボールに入れて混ぜるんだな。うん、順調順調!
とそのとき、目の前に人の気配がした。顔を上げると雪。
「古代君…… やっぱり何か手伝いましょうか?」
雪が気遣わしそうな顔付きで、こっちにやってきた。だから俺が一人で作るんだって言ったろ?
「大丈夫だよ、どうしてもだめになったら頼むからさ。今んとこ順調だから、ゆっくりしてろって」
「そ〜〜お?」
と追い出された雪は、所在なげに台所から出て行った。
だってさ、今雪に手伝わせたりなんかしたら、後で、「私が手伝ったからできたのよ」なんて言われそうだからな。さっき俺になんて作れっこないって顔されたんだからなぁ、意地でも俺ひとりでやってやる!
おっと、手が止まっちまったな。えっと、次はどうするんだったけ?
あ、混ぜた種を、今度は手で練るんだったな。よく練って手につかないほどにまとまれば、ラップに包んで、少し冷蔵庫で冷やして落ち着かせる……か。
で、この時点で、オーブンを予熱にする。温度も時間も本を見て何度もチェックした。
焼けすぎて焦げちまったら、雪のチョコレートケーキとおんなじだからなぁ。気をつけんなくちゃならん!
よし、OK! あ、今のうちに、空いたボールでも洗っておくか。俺って結構手際いいよな、ははは……
そろそろいいな。種を出して、まな板の上に広げて、麺棒で伸ばす……と。
この麺棒も、わざわざこのためだけに買った。なんかちょっと無駄な出費のような気もしたけど、まあ、そのうちうどんかそばでも作ってみるかな? 俺って、意外と料理好きだったりして!?
広がった種を型で抜いていく。ちなみに、この型も買った。たくさんの種類はいらないから、選んだのはハート型1個のみ。後はこれでガンガン型を抜いて行くだけだ。順調順調!
抜いたクッキーの上に卵の黄身を塗って、ハートの形に添って小さなアラザン――仁丹みたいなこれってアラザンっていうんだってな、初めて知った――を並べて、完成だ。後はオーブンに入れて、チン!と鳴るのを待つだけだ。う〜〜〜ん、完璧!
俺は一人悦に入っていた。
それから十数分後、台所から、甘くてとてもいい匂いが漂い始めた。使っていた器具の片付けも終わって、後は出来上がりを待つだけになっていた。
オーブンの中をじっと見つめると、なんとなくいい焼き色になってきているように見える。
と、その時、チン!と軽やかな音がした。よし、できたな?
さっそくオーブンの扉を開けて、やけどしないように鉄板ごとクッキーを取り出した。甘い匂いが一層部屋いっぱいに広がる。その匂いにつられてか、雪もやってきた。
「いい匂い。古代君、できたの?」
「ああ、今完成だ」
見た感じ、なかなかの出来映えに俺は嬉しそうに答えた。
「わぁ〜 すごいわ! とっても綺麗に焼けてる!!」
雪が感嘆の声を上げた。褒められたと思った俺は、得意満面の顔付きで彼女を見た。彼女も嬉しそうに俺の顔を見た。
だが、その時、彼女の笑顔が少しばかり引きつっていたことを、得意になっていた俺は、うかつにも気付かなかったんだ。
「今、皿に移して持ってくからな。雪はリビングに座って待ってろ」
「え、ええ…… わかったわ」
雪は俺の指示に素直に従ってリビングに戻った。
俺はその時初めて、あれっ?と思った。彼女の背中が少しばかり寂しそう?な気がしたんだ。俺の気のせいだろうか?
少し冷ましてから、俺はクッキーを丁寧に皿に乗せて、リビングに運んだ。そして雪に差し出したのだ。
「お待たせ!雪。俺からのホワイトデープレゼントだ。さあどうぞ。俺の気持ちを込めたハートのクッキーだぞ!」
俺の言葉に、雪は嬉しそうに――実は一生懸命嬉しそうな顔をしていたらしい――笑った。
「ありがとう……」
「さ、食べてみろよ」
「うん……」
俺の進めに従って、雪は手を伸ばした。俺はその横で、ワクワクしながら彼女の反応を待った。
サクッという音がした。彼女がクッキーを食べた音だ。その後、雪は僅かに体を斜めにして俺に背を向けた。えっ? どうして背を向ける? 不味いのか?
「…………」
サクサクッとまた音がしたが、返事はない。
「雪、どうなんだ?」
「……………………」
俺の問いに、彼女は何にも答えない。ただ口の中でもぐもぐとクッキーを食べている音だけが聞こえる。俺は不安になった。
「雪? まずいのか?」
「……………………」
まだ返事がない。あ〜〜やばいっ! 俺ってばどっかでドジってしまったらしい。きっと不味くてたまらないクッキーを我慢しながら必死に食べてるんだ。ああ、どうしよう……
「あの……もし嫌なら無理に食べなくても……」
俺が心配のあまりそう言うと、やっとこの時、彼女がクッキーを口にして初めて言葉を発した。
「私のより…………美味しい…………」
「へっ!?」
えっ? 今美味しいって言ったのか? そう、確かにそう言った。雪は、震え気味の小さい声だが、はっきりとそう言ったんだ。
俺は何がなんだかよくわからなくなってきた。俺の作ったクッキーは美味しいらしい。けど彼女の声は、なんだかひどく情けない声だ。
「私が前に作ったクッキーより……ずっとずっと美味しいわ……ぐすん……」
美味しいって泣いている。雪は泣いている!? えっ、え〜〜〜!! 美味しいのに何で泣いてんだ!?
えっ? 私の作ったクッキーより美味しいってことは……それはその……あっ、えっ? ああ〜〜〜〜〜〜!?
ヤ、ヤバイッ!!!
俺はこのときになってやっと、俺がしでかしてしまったことに気付いたのだった。
「い、いや、そんなことないよ……」
俺は慌ててそう言い訳したが、そんなことはもうなんの役にもたたなかった。
そうだったんだ。今になってやっと、俺は雪より上手にクッキーを作ってしまったという事実に気がついた。そしてそれが、彼女のプライドを、思いっきり傷つけてしまったということも……
ヤバイ、まったくヤバ過ぎる……!
さらに彼女の述懐が続く。
「それに先月作った私のケーキときたら、真っ黒焦げの墨ケーキだったし……ぐすん…… 私ってどうして……ぐすん……」
「あ、いや、そんなことは…… ケーキはまあ、その……」
もう聞こえてないよな? 俺の言葉なんて……
「あ〜ん、やだ、もうっ、私ったら…… 料理を作るのも、お菓子を作るのも、古代君のほうが、ずっとずっと私より上手だなんて!! 私ったら、あ〜もうお嫁さん失格よね、あ〜〜〜〜〜〜〜ん」
雪はとうとう声を出して泣き始めてしまった。
どうしよう……! 彼女を喜ばせるつもりのホワイトデーのクッキーが、彼女を泣かせてしまうだなんて!! 俺はどうすりゃいいんだよ〜〜!!
「うわっ、おいっ、ゆきぃ〜 泣くなってばぁ〜 俺は別にそんなつもりで作ったわけじゃないんだからさぁ。雪がどうこうだとか、お嫁さん失格だなんて、そんなこと…… ああ、だから……その……」
それでも雪は泣きやまない。
「あ〜〜〜〜〜ん、でも美味しいわぁ〜このクッキー。もう一つ食べちゃおう。ぐすん、美味しいわぁ〜 あ〜〜〜ん」
「ゆきぃ〜〜〜〜〜〜〜!」
結局、俺はおろおろするばかり……
そして……雪はワンワン泣きながら、クッキーを一つ残らず食べてしまった。で、俺はって? それが、どうすることもできなくて、ただただおろおろするしかなかったってわけさ。はぁ〜〜〜
こうして、パパとママは、二人でなんだかんだと嬉しそうにつつきあいながらも、大昔?の思い出話を愛に聞かせ終えた。
愛が見るに、パパはさも可笑しそうに、そしてママはちょっぴり気恥ずかしそうに微笑んでいる。
二人につられて愛もくすくす笑いながら、パパに尋ねた。
「それで、その後パパどうしたの?」
「そりゃあ、それから一日中、母さんのご機嫌を取りまくったさ。気持ちの問題だからとか、技術は関係ないとか…… もう何言ったんだかわからんくらいになっ!」
「ぷっ…… それでママ納得したの?」
「ま、なんとか落ち着いたけどな。しっかし、ほんと大変だったんだぞ。雪は拗ねたり怒ったりすると、もうどうにもならんからなぁ。今でも母さんを怒らせたら大変だろ?」
「うんうん、そうそう……」
パパと娘が二人して相槌を打つと、ママがきっと睨んだ。
「もうっ! あなたたちったら、二人して私をいじめるんだから……」
二人を睨むその顔がまたおかしくって、進と愛がさらに大笑い。
「だって本当なんだもん! ねぇ〜〜パパ!」
「はっはっは、さすがわが娘、よくわかってるな」
「知りませんっ!」
二人にからかわれてしまったママは、ぷいっと頬を膨らませた。すると、進は肩をすくめて立ち上がった。
「おっと、また拗ねられたら大変だ。この話は、この辺でやめとこう。それより、今日は愛のために20年ぶりのクッキーでも作るとするか。雪、手伝ってくれ」
「あ〜ら、私の手伝いなんて必要ないんじゃなかったの?」
さっきからからかわれっぱなしのママは、夫の言葉に、まだ膨れっ面のままで答えた。すると進が苦笑した。
「ははは、やめてくれよ。また一人で作って、前みたいに拗ねられたら大変だからな」
「どうせっ!」
二人のやり取りを、愛は興味津々で見つめている。おそらく今回はパパもママのフォローに失敗しないはずだ。
「はは、怒るなって。それに今じゃ、料理も菓子作りも俺よりずっと腕は上じゃないか。俺はあれ以来、菓子なんてしたことないし、今台所にある器具や道具の使い方教えてくれよ」
俺よりずっと腕は上、と言われてしまえば、悪い気がしないママである。単純と言えば単純かも……!?
「そうねぇ、どうしようかしらねぇ〜〜」
「お願いいたします」
ここは下手に出るが一番と、パパは丁寧に頭を下げた。するとママは、ニッコリと笑って頷いたのだった。
「ふふふ…… 仕方ないわね。じゃあ、教えてあげることにするわ」
作戦成功!とばかり、進は愛に向かってブイサインを送る。
「そうこなくっちゃな。愛、うまいクッキー作ってやるから待ってろよ!」
「はぁ〜〜い! 私は、どんなに美味しくても私より上手だって拗ねたりしないからっ」
「あ〜い〜〜〜!」
娘のチクリに、ギロッとにらみを利かせる雪を見て、進は大笑いした。
「あははは…… 愛、二人分のエプロン取ってきてくれ!」
「は〜〜い!」
愛からエプロンを受け取ったパパとママは、いそいそと台所へ入っていった。
それからの小一時間、台所からパパとママの楽しそうな声を聞きながら、愛はとても幸せな午後のひとときを過ごした。もちろん、パパがママと一緒に作ってくれたクッキーは、世界一美味しかったとさ。チャンチャン!
<おまけ>
その日の夜の夫婦の会話。
「なぁ、雪。愛がファンタジーランドへ友達と行くって言ってたけど、いつ誰と行くんだ?」
「今度の日曜日に、シン君と……航と千晶ちゃんとよ」
「なぁんだ、いつもの兄妹たちか……」
「ふふふっ……そうよ。いつものシン君たちよ。誰だと思ったの?」
「別に、ちょっとな」
「なぁに?」
「いや……あそこはカップルのデート先人気ナンバーワンだって、部下の若い連中が言ってたからなぁ。もしや誰か男とでも行くんじゃないのかと思ったんだよ。ホワイトデーだからとか何とか言ってさ」
「あら、そうらしいわよ。バレンタインデーに愛や千晶ちゃんからチョコをもらったお礼に、連れてってくれるらしいわよ」
「ってたって、兄貴達がつれてくだけじゃないか…… ん!えっ?もしかして?」
「もしかして……?」
「航の奴、千晶ちゃんのこと好きなのか?」
「プッ…… 航と千晶ちゃんの間にはそういう感じは全然ないわ」
「そっか…… ま、それじゃあ心配いらないな」
「うふふ……そうね……航と千晶ちゃんの間にはね(←進には聞こえてません(^^;)」
(もう、進さんたらまだまだ詰めが甘いわね〜
シン君と愛がデートするのに、カモフラージュのために航と千晶ちゃんが付き合ってることには、全然思いが巡らないんですもの。うふふ……
ほんと、パパは、いつになったら、あの二人のことに気づくのかしら? 楽しみでもあり、心配でもあり……ね)
「おい…… こっちこいよ」
「なぁに?」
「いいから……」
「あらん……」
「今日手伝ってもらったお礼に、たっぷり……」
「うふん……」
古代家のホワイトデーは、こうしていつものごとく暮れていった。
かずみさんから、ホワイトデーにマッチしたイラスト(100のお題『063クッキー』(←新窓開きます))を見ていて、ニヤニヤ笑っていると、ふつふつとお話が書きたくなってしまいました(*^^*)
かずみさんのイラストから、『私のより美味しい』のセリフもお借りしています!
かずみさん、イラストから浮かんだお話のUPをお許しくださいまして、ありがとうございましたm(__)m
ということで、初めて書いたホワイトデーの与太話でしたっ(^^;) 若かりし頃のパパとママの、これも青春時代の思い出話……かな?