分岐点2−(3) 一人暮し(「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」より)
(1)
ヤマトがイスカンダルから帰って数日後、進と雪は新たな部署に配属され再び日常勤務に戻った。
進は、太陽系内のパトロール艇艇長に任命され、数人のクルーとともに地球を飛び立って行った。各惑星間を航行しながらパトロール活動を続け、帰着は2週間後の予定だ。
そして雪の方は、司令長官秘書を正式に任命され、司令本部での多忙な日々が始まっていた。
そんなある日、雪は残業の後、夜9時ごろに帰宅した。帰ると母が夕食を用意してくれてある。座っていればでてくる夕食を当然のように食べる雪に、母の美里が苦笑する。
「ほんとにあなた、ちゃんと主婦になれるのかしらねぇ」
「なぁに、ママっ。突然何を言い出すかと思ったら……やぁねぇ」
「だって、仕事終わって帰ってきたらご飯が出来てる…… それを当たり前のように食べてるあなたを見てたらね」
「私だって…… その時になればやれるわよ……(たぶん)」
いいながらも、ちょっぴり自信がない雪。それが言葉尻にチラリと見えて、美里はまた笑った。
「ふふふ、そうだといいけど……そう祈るしかないわね。ちょっと頼りないけど」
「もうっ!」
美里の言葉に雪はムッとしながら、再びご飯をぱくついた。そんな娘の姿を見つめる美里の瞳はとてもやさしい。
彼女がこんな事を言った心の中には、早く進と雪にもう一度結婚の具体的な話を決めてもらいたい、という思いがあった。
(2)
夕食を終えると、先に帰宅してくつろいでいた父の晃司が、雪をリビングに呼んだ。
「雪、ちょっと来なさい。話したいことがあるんだ」
「はい。なぁに? パパ……」
雪は珍しくかしこまって自分を呼ぶ父の様子を不思議に思いながら、リビングのソファに座った。
宇宙に立つ前日、進は、いつものように森家に来て夕食を共にした。とりとめのない話、冗談、そして噂話に笑い話。戦いの日々に傷ついた進たちの心を解きほぐすかのように、明るい話題をいろいろと提供してくれる雪の両親に、進も雪も感謝し、すっかり甘え、楽しいひとときを過ごした。
だが森夫妻は、その時最も聞きたいことを聞くことが出来ずに、進を旅立たせてしまった。それは……『二人がいつ結婚するのか』ということ。
そして今、そのことを尋ねる絶好の機会が森家に訪れた。
「実は、今度横浜に転勤することになったんだ」
晃司がゆっくりと口を開いた。雪の顔を探るようにじっとみつめる。
「転勤? そう、でも栄転なんでしょう?」
雪がニッコリ笑って尋ねた。晃司はとある有名企業の本社で部長職をこなしていた。そつのない勤めぶりは会社でも認められていると、いつか父の同僚達から聞いたことがある。
「ああ、まあな。取締役横浜支社長になるんだ」
「まあ! おめでとう!! パパ」
「それで…… 実は、家もそちらに移ろうと思っているんだよ」
晃司が少し言いにくそうに話した。家を移ると言う言葉に、雪は驚いて目を見張った。
「えっ……? 引っ越すの? ここからじゃあ通えないの?」
「うーん、会社の近くのマンションを社宅として借りれるんだ。通勤も楽だし、パパの仕事もこれからもっと忙しくなりそうだから、近い方が何かと都合がよくてね」
もうはっきりと決めているのだろう、晃司の言葉はきっぱりとしていた。だが、その言葉とは裏腹に雪を見る眼差しは心配そうだった。
「そう……横浜……」
雪の美しいまつげがかすかに震え、表情がいくらか固くなった。父の栄転を心から喜んだ直後だったが、雪にとって東京を出ると言う話はやはり相当ショックだった。今までまったく考えてみたこともなかった。
「雪は、横浜からでも通えるだろうか?」
晃司が探るような視線で雪を見た。その問いに雪はゆっくりと顔をあげると、小さくほぉっと息をはいた。
「それは……無理だと思うわ。だって、今回から正式に長官秘書に任命されたから。ほとんど毎日定時には終わらないし、いつ何時緊急に呼び出されるかわからない。東京から出るわけには……」
東京から離れられない…… 防衛軍での今の業務を考えるとどうしてもそうなってしまう。普通のOLなら、横浜からでも通えなくはない。だが、長官秘書となれば話が違う。緊急事態に遅くとも30分以内に到着できるところに住む事が、軍内での彼女の職務からすれば当然なのだ。それに、進のことも雪の頭をよぎった。
(古代君が地球に帰って来ても、ゆっくり会えないかもしれない……)
(3)
その雪の不安を察知したかのように、今まで黙って聞いていた美里が口を開いた。
「じゃあ、この際、結婚して古代さんと一緒に住めばいいでしょう? 結婚するいい口実になるじゃない?」
それが一番だ、と言うように、美里は満面の笑みで雪を見た。それに、晃司も同調した。
「うん、パパも実はそれを考えていたんだよ。おそらく雪なら仕事のことを考えてそう言うだろうと思っていたんだ。とすれば、結婚して古代君と暮らしてくれれば一番いいと思うんだがなぁ。お前達は結婚も決まっていたんだし、あの部屋だってもともと二人で住むつもりで借りたんだろう?」
「でも……それは……」
「古代君の心の整理がついてないというのなら、籍だけでも入れて、結婚式は後になってもいいんじゃないかい?」
父の言うことは正論だった。けれど…… 進と雪は一月前、話し合って結婚の無期延期を決めた。それは、互いの様々な思いを大切にしようとしてのことだった。
「それは……やっぱりだめよ。できないわ。私たち、少し結婚を延期しようってこの前決めたの」
「どうして! もうこの前の戦いのことは忘れて、自分達の幸せを考えたっていいじゃないの! それにあなた達、本当ならとうの昔に結婚してたのよ」
美里が父と娘の会話に入ってきた。涙声になっている。母は喜怒哀楽の変化が激しい。特に娘の幸せのことになるとすぐに感情的になってしまう。そんな母の思いを、雪がわからないはずはなかった。それでも……今はすぐに答えられなかった。
「わかってるけど……少し考えさせて」
「パパは、2週間後に転勤だけど、引越しは一ヶ月後の予定よ。向こうの都合があるから…… だから雪、それまでにちゃんと古代さんと話して相談してみてちょうだい。ね、いいわね」
雪は、母の切ない訴えに、このときすぐに嫌とは言えず、黙ったままコクンと頭を下げた。
(4)
数日後、雪は仕事の都合で昼食が遅れた。午後2時を過ぎてやっと、司令本部内にあるカフェテリアにやってきた。この時間の食堂は、閑散としている。
雪は、人気のない食堂で、まだ残っていた日替わりランチを取ったが、あまり食が進まなかった。箸を無理矢理動かして食事を口に運ぶ。
(どうしよう……引越しのこと…… やっぱり、古代君に相談した方がいいのかしら…… なんて言うかしら、古代君。結婚しようって言うかしら……でも、仕方なくそう言われるのは、やっぱり嫌! それにまだ、私の中のあの思いも整理がついていない)
浮かない顔でランチを突っついているだけの雪に、声をかける男性がいた。島大介だった。
「よおっ! お嬢さん、彼氏が宇宙に行っちゃったら、さっそく淋しくなったなぁ!」
「あら、島君っ! 違うわよっ! もうっ……」
島の茶化しに雪は赤い顔で抗議した。それを見て、島は、あはは、と笑って、あやしいもんだと答えた。
「そんなんじゃないわ。そう言えば、島君は地上勤務だったわね。今日はこっちに用事?」
「ああ、ちょっと会議があってね。今終わったんだ。無人艦隊の指揮なんて、なんだかラジコンを動かすみたいで張り合いがなくてなぁ。それに本当に役に立つのかどうかはおおいに疑問だけど…… 今の人手不足はどうしようもないから。少しでも、その存在で不穏な動きをする輩が減ればいいと思ってるよ」
島はつまらなそうに、両手を軽くあげるとため息まじりで言った。
外憂がなくなると、すぐに沸いてくるのが内患なのだ。地球外の敵がいなくなってほっとしていると、今度は、地球人の中にも悪事を働くものが出てくる。特に物資が不足し、宇宙の資源を大量に必要としている今の時期、その資源を巡って様々な不穏な動きが噂されていた。
「古代だって、大変じゃないか? パトロール艇だって、フル活動らしいからな。今のところは何もないのか?」
「ええ、今頃は天王星基地周辺だったと思うわ。今日はまだ連絡が入ってないけど、昨日までは異常なかったみたいよ。初仕事だからはりきってたわ、彼、うふふ」
「あ、そっかぁ、長官秘書殿は、フィアンセの動向は毎日チェックできるってわけか。それじゃあ、別に淋しくもないかな? モニターをはさんで、こっそりサインを決めて楽しんでたりして……」
「もうっ! 島君っ! 違いますってば!! でも、古代君、案外今の仕事気に入ってるみたい」
「ずっとヤマトみたいな戦艦の指揮をしてたからなぁ、あいつ。小人数で身軽に動けるのがいいのかもな」
「そうね……」
「ところで、さっき、俺が来る前にため息ついてたのはどうしたんだい?」
「それがね……」 雪は、父の転勤と引越しのことを話した。「横浜からこっちへ通うのもやっぱり難しいし、パパやママは結婚して古代君と一緒に暮らせばいいっていうけど……」
雪の説明を黙って聞いていた島は、腕を組んで少し考えるような格好をしてから、ふいと顔をあげて雪の方を向いた。
「そうだなぁ、やっぱり俺もご両親の意見に賛成だな。結婚しちゃえよ。それが一番だ。なあに、古代がぐずるようなら俺がガンと言ってやるからさ」
島がくすっと笑ってウインクする。
「島君もやっぱりそう思うんだ…… でも……ね、やっぱり、私は…… 古代君がそのつもりになってないのに無理やりって言うのは、いやなの。それに、私自身も……」
「あの時言ってたことかい? 古代の事だけを考えていたいっていう……」
「……そう」
「でもなぁ、俺はやっぱり君たちは結婚するのが一番自然だと思うよ。古代だって、兄さんも帰って来たんだし、君もいる。もう無茶なんかしないさ。その方がいいよ」
「そうかな……」
「まあ、考えてみろよ。古代の方は、俺たちに任せとけば大丈夫だからさ。アイツに有無は言わせないよ!」
もし、雪がその気になれば、島は真田を始めとしてヤマトクルー達を総動員して、進に詰め寄るに違いない。そうなったら、進がなんと言おうとも勝ち目はないだろう。
「うふふ…… ありがとう、でも、もう少し考えてみるわ。だから、みんなにはまだ何も言わないでね。間違って結婚するって話が広まっちゃったら大変だから」
「わかったよ。ま、噂でも広めて一気にまとめたいってのが、本音なんだけどね」
「もうっ!」
両親も島も二人が結婚する事が一番だと言う。そうなんだろうか……と雪はまた考え込んでしまった。
(5)
その後、島も食事を取り、しばらく雑談をした後、島が思い出したように言った。
「あ、そうそう、雪は綾乃さんに会うことあるかい?」
「え? 綾乃……? ええ、今回の航海から帰ってからまだ会ってないから、近い内に会いたいなとは思ってたんだけど」
「そっか、じゃあさ、綾乃さんに会ったら、またみんなでご飯食べに行こうって誘ってくれないか?」
「えっ? 島君、もしかして綾乃の事……?」
島の方から綾乃を誘いたいと言い出してきたことに、雪は驚いて、そして喜んだ。が、島は慌てて両手を振って否定した。
「あっ、いや、そう言うんじゃないんだよ。ただ、この前入院したとき随分世話になったのに、お礼の一つもいってないし、それに、次郎のヤツが綾乃さんの大ファンになっちまってさ、『綾乃お姉ちゃんはどうしてる?』ってうるさいんだよ。あいつ、まだ小学生の癖に、マセてやがんだよなぁ、あはは……」
雪は島のあっさりと否定する言葉を残念に思ったが、綾乃を誘いたいと思っているだけでも今はいいのかもしれない、と思い直すことにした。
テレサを失ってから、まだ2ヶ月余りしか経っていない。島の心がそんなに簡単に切り替わるはずもないだろう。
「わかったわ、今夜でも綾乃んちによってみる。この事も相談したいなって思ってたから……」
雪は島と別れ職場に戻ると、中央病院に電話を入れ、綾乃と夕方の待ち合わせの約束をした。
(6)
夕方待ちあわせをした雪と綾乃は、二人で食事に出かけた。久しぶりにあう親友との会話は、話題に事欠かなかい。近況、友人の噂、そして……
「そうそう、今日、島君が綾乃を食事に誘いたいって……病院でお世話になったお礼だって」
雪がそう話すと綾乃は嬉しそうに手をあわせた。
「ほんと!!」
「ええ…… ただし、みんなで一緒に行きましょうっていうことだったけど、でも、一応前向きになったってことで」
「……ええ…… 島さん、あれからまだ2ヶ月だものね。簡単に忘れられるはずないもの…… きっと、無理して明るく振舞っているんだわ」
「綾乃……」
島の事を気遣う綾乃に、雪は言葉がなかった。
「わかってるって。島さんの気持ちが少し上向いているってことがわかっただけで、今は、それで十分。私は気長に待つつもりよ。島さんの心がいつかなごんで私のことを見てくれるようになるまで…… っていっても、その時には他の女(ひと)がいたりしてね」
ペロッと舌を出して微笑む綾乃の笑顔は、女の雪でさえぐっと来るほど愛くるしい。恋する乙女の表情には誰もが惹かれる。雪は綾乃の想いが島に通じるようにと、心の底から祈った。
「ばーかっ! そんなこと、この私がさせませんっ」
「うふふ……期待してるわ、キューピットさん! それよか、雪、あなた何か悩みあるんじゃない? なんとなく浮かない顔してるわ。古代さんと喧嘩でもしたの?」
今度は綾乃が雪の表情を読みとって尋ねた。親友の顔つきがいつもと違う事はすぐにわかるのだ。
「あらっ、綾乃には、隠し事できないわね。でも、古代君と喧嘩したわけじゃないの。実は……」
雪は、父の転勤による引越しの話、雪は東京に残りたい事、両親はそれなら進と結婚するように勧めた事などを詳しく説明した。
「そうなんだ、お父さんの仕事の都合で引越しか……」
綾乃は左手を自分のあごの下に持ってきてちょこんと顔を乗せると、小首を傾げて考えた。ちょっと困った問題ではあるな……という風に。
「でも、やっぱり横浜からの通勤は辛いわ。かと言って、そんな理由で結婚するなんて」
「ふぅん、結婚もまだしたくない……か。気持ちもわかるけど、贅沢な悩みだこと……」
確かに女性として雪の気持ちも解る。結婚はロマンチックな気持ちでしたいものなのだ。状況に押されて仕方なく、などというのはやはり最高の結婚のきっかけとは言えない。
綾乃は少しじっと考えると、フッと顔をあげて、何かを思い出したようにニコッと笑った。
「じゃあさ、雪、一人暮しすれば?」
「えっ?」
「ひ・と・り・ぐ・ら・しっ! 私みたいに…… 雪もご両親と一緒に暮らした後すぐに結婚するよりは、一人暮しを体験してみた方がいろいろとためになるかもよ。だいだい甘えん坊なんだから、あなたは……」
綾乃が雪の顔を覗きこんで笑う。部屋を借りて一人暮しをする、ということ、雪はそんな選択肢があったことを、どうして今まで思い付かなかったんだろうと、自分でも不思議に思った。
「……そう言えばそうね…… すっかり、その案を忘れてたわ」
「うふふふ、それにっ! 一人暮しなら、いろいろと便利よ。古代さんと外泊したってわかんないし、ねぇ、ゆっきちゃんっ!」
チラリと雪を見て綾乃は愉快そうにウインクした。
「ば、ばかねぇ…… そんなこと……」 突然振られた話に雪はドギマギした。
「あらっ? 雪たちってまだそういう関係じゃなかったの? へぇぇ…… 私はもうてっきり…… 雪って意外と固いのね。それも、パパやママと暮らしているから?」
「そういうわけじゃあ……」 バツの悪そうな顔をする。
「古代君が手を出してこないの? アイツも、意気地なしだなぁ…… あはは、あっそれとも。雪がチャンスあげなかったからじゃなぁいの?
引っ越したら、部屋に招待してあげればいいじゃない。一人暮しがチャンスってわけね。ふっふっふ、ねっ、ねぇっ! それで初体験したらどんなだったか教えてね、絶対よっ!」
雪の一人暮しがもうすっかり決まったかのように、綾乃は面白そうに雪をからかい、はやしたてた。雪のほうは、すっかり赤くなってしまって怒り笑いするしかなかった。
「やだぁ、もうっ! 綾乃ったらぁ!」
「いいなぁ、私なんか一人暮ししてても、訪ねてくる男性がいないって……あ〜あ」
最後にそうぼやく綾乃だったが、彼女の言葉で雪は新しい選択肢、一人暮しへと心が傾いていった。
(7)
それから10日が過ぎ、今日は進が帰ってくる日だ。雪は一人暮しのことを真面目に考え初め、資料などを集めたり情報検索などをしていたが、この事はまだ両親には話していなかった。
その日の朝、母の美里が雪に声をかけた。
「雪、今日、古代さん帰ってくるんでしょう? 帰ってきたら、うちの引越しの事、相談してみなさい。わかってるわね?」
「……わかってるけど……」
雪は、ちょっと考えるように首を傾けてから、意を決したようにこう答えた。
「私、実は部屋を借りて、一人暮しをしてみようかって思っているの」
「えぇっ! 一人暮しですって!? どうして、そんな!!」
美里が驚いて声をあげた。
「一度くらい独立して暮らすっていうのもいいかな、って思って……」
しかし、雪の一人暮しには、両親はそろって反対のようだ。リビングに入ってきた父の晃司も二人の話を聞いていい返事をしなかった。
「父さんもあんまり賛成じゃないな。いまさら、わざわざ一人で暮らさなくても…… 古代君だってなんて言うか……」
「ママもよ。こんな都会に女の子が一人でなんて……」
「やあねぇ、パパもママも…… 綾乃だって一人暮しだし、みんなやってることよ。私も独立して暮らしてみたいの」
「でもあなたは違うわ。結婚相手も決まっているのに、どうして今から一人暮しを始めなきゃならないの!?」
父も母も、雪が一人暮しをしたいと言い出すとは思ってもいなかった。ほんの2ヶ月前まで、進との結婚を夢見て日々暮らしていた娘が、いまさら独立など……両親にとっては考えてもみなかった事だった。
「ママだってこの前言ったじゃない、当たり前のように出来たご飯を食べてて本当に主婦が出来るの?って。だから、私は一度自分で生活してみようって思ったのよ。自分でいろいろとできるかどうか試してみたいのよ」
「まあ、雪の気持ちもわからなくはないが…… とにかく、まず古代君に相談してみなさい。彼の意見も聞いて、あさっては私も休みで家にいるから、4人で話あおう。わかったね、雪」
「はい……」
短い朝の時に解決できそうにないと思った父の言葉に、このときは雪も素直にしたがった。だが、雪の一人暮しへの気持ちはさらに固まっていった。
(8)
夕方、進は予定より2時間ほど遅れて、午後6時に地球へ帰還した。司令本部で進の帰着時間を確認した雪は、仕事を定時で切り上げ、いつものようにコスモエアポートに迎えに走った。雪がエアポートに到着してまもなく、進はゲートから出てきた。
「古代君っ! おかえりなさい」 「ただいま、雪」
2週間ぶりの再会に笑顔で手を取り合う二人。歩き始める進の腕に雪はそっと寄り添った。この出会いの瞬間というのは、何度やってもうれしいものだ。
「どうだった? パトロールの初仕事は……」
「まあまあかな? ちょっと勝手が違ったけど。でも、なんだかさぁ、気軽に動けるって言うか…… 仕事は気に入ったよ」
明るい声で話す恋人の言葉を、雪は心から嬉しそうに聞いた。
「そう? 今回は事件も何も起こらなかったみたいだし、よかったわね」
「そうだな、それが一番だよ。さてと……今日はもう遅いし、晩飯でも食べたら送っていくよ」
「ええ……」
二人はよく行く海辺のレストランへと車を走らせた。レストランは程よい込み具合だったが、運良く二人は窓沿いの海の見える席に座る事が出来た。食事をしながらのとりとめもない会話が続く。互いの顔を見ているだけで幸せになる瞬間…… 恋人たちの幸せなひとときだった。
(9)
食事をほとんど終えて、デザートが出てきたころ、雪は例の件を進に話すことにした。両親や島たちはああ言ったが、雪は進に結婚を強要するつもりは全くなかった。自分の中でもまだあの時の思いにケリがついていないのだから。
だから、今は一人暮しをしてみようと、進に提案するつもりだった。
「古代君、実はちょっと相談があるんだけど……」
「ん? どうした?」
「パパが転勤になって横浜に引っ越す事になったの」
「え? じゃあ、雪もかい?」
「ええ……でも、今の仕事は時間外も出張も多いし、それに緊急な呼び出しがあった時、横浜からじゃ遠すぎるんじゃないかって思って、だから……」
「そうだなぁ、長官秘書っていうとそれはあるだろうな。雪はこっちの方がいいんだよなぁ…… それで、ご両親はなんて言ってるんだい?」
「それが……」 すぐに言葉がでてこない。
「どうしたんだい? 口篭もったりして」
雪は両親の意向を進に話そうか話すまいかここに来て再び迷った。だが、ここで言わなくても家に行けば、両親は必ず進にその事を言うに違いない。ならば、先に話しておいたほうがいいだろう、そう判断した。
「こっちにいたいのなら……古代君と……結婚して一緒に暮らせばいいって」
雪は進の顔色をうかがうように、ゆっくりと話した。進はその言葉にちょっと驚いて絶句するような感じだったが、ふっと息を吐くと答えた。
「……!…… そうか……そう言われるよなぁ」
進はそう答えるとまた、眉をひそめるように考え込んだ。まるで無理難題を言いつけられて、断わりきれないといった顔をしている。
(やっぱり困った顔してる……)そう思った雪は、自分の提案を話そうと口を開いた。
「あ、でも私ね考えたの! 実は……」
雪が言葉を最後まで言わないうちに、進は眉をしかめたまま、笑いもせず、逆にもう一度肩から大きくため息をつくと、あきらめたように上目遣いで雪の顔をちらっと見た後、再び視線を落として言った。
「ふぅっ…… 仕方ないよな…… いいよ、結婚しよう。取りあえず入籍だけでもして、暮らせばいいよな?」
ため息混じりの進の言葉は、最初のひとり言も含めて雪の耳にはしっかりと聞こえた。当然、雪の顔は一変した。まず真っ青になったかと思うと、すぐに真っ赤になった。
「……!!!!」
が、進のほうは、視線を落としているからなのか、雪のそんな表情が見えていない。さらに言葉を付け加えた。
「結婚式はもうちょっと待ってくれないか…… 俺の気持ちがまだ……」
そこまで進が言った時、雪がガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がり、声を荒げた。
「古代君っ! 何?その言い方! 仕方ないですって! とりあえずぅ!? 私、別にあなたに結婚なんかして貰わなくてもかまわないわっ! バカにしないで! ええっ! 結婚なんかするもんですか! 私は、一人で暮らせますっ! 部屋借りて一人暮しするんですから、どーぞ、ご心配なく! じゃあっ!」
そのまま振り返ってレストランを出て行こうとする雪の剣幕に、進はびっくりして慌てて立ち上がると雪の腕を掴み、小声で叫ぶ。
「お、おいっ、雪っ! ちょっと待ってくれっ! こんなところで大声出さないで……とにかく、もう一度座ってくれ、頼む」
進の必死の説得で、雪ははっとして今自分がいる場所を思い出し、周囲を見た。周りの視線がひどく感じられた。食事をしていた人々が何事かと、二人を見ていた。
「あっ……」
さすがに恥ずかしくなって、雪は赤い顔ですとんと自席に座った。進もやっと安心して向いの席に戻る。進がなんと言おうかと考えていると、雪がもう一度進の顔をキッと睨んだ。
「でもっ! 古代君!! とにかく、今のプロポーズは却下ですからねっ!」
「わ、わかったよ、ごめん、雪。いい方が悪かった。すまない……ごめん!」
雪の勢いに気おされ、平謝りに謝る進に対して、まだ雪はツンとしたままだ。
「もうっ! 前にも言ったはずよ!!」
ここまで言って、雪は語気を緩めて、悲しそうに小さなため息を一つついて笑った。
「私が一生大事にできる言葉をくれなくちゃ、お嫁さんにはなってあげないって…… そう言ったでしょう? 古代くん、ばか……」
雪の声がとても優しい。見つめる瞳も甘えるように柔らかだった。進は、雪の自分への心遣いに感謝して、自分の軽はずみな発言を謝った。
「うん……そうだな。今のは無しにする。本当にごめん」
ニッコリ微笑んで、いいのよと答える雪は、とても愛らしかった。
この場が人のいないところだったら、進はすぐに抱きしめて熱くキスでもしたいところだったが、ここではそう言うわけにはいかない。
そして機嫌を直した雪は、俄然元気になり、さっき言いかけていたことを得意気に宣言した。
「うふっ、だ・か・らっ! 私は一人暮しをはじめる事にするわ!」
「ええぇ!!!」
突然の宣言に今度は進が大きな声をあげた。
「あなたに文句があるはずないわよねっ! 他に手段は無いんだから!」
「…………」
確かにそれは言えている。進は結婚の話をあっさりと却下された。雪が横浜について行けない以上、一人で暮らすしかないのだ。
口を半開きにして何も言い返せない進に、雪は畳掛けるように駄目を押した。
「だから、パパとママの説得も手伝ってよ、約束ねっ!」
「…………」 進は黙って頷くのがやっとだった。
(10)
食事の後、車に乗った二人は、進の運転で雪の家に向かった。
「なぁ、雪…… ほんとに一人暮しするのかい?」
不安げに尋ねる進に、雪ははっきりと明言した。
「そうよ、他にどんな方法がある? 横浜から通うことになったら、今の仕事はできなくなっちゃうわ。せっかく慣れてきて仕事が面白くなってきたところなのに」
「うーん……」
「何がそんなに問題なの? 一人暮しが…… パパもママも古代君も、私のこと子供扱いしてるんだわ」
「そう言うわけじゃないけど……」
「古代君には口出しをする余地ないですからね! それで、うちに来て一緒にパパたちに話してね。あさって、パパもいるから」
「……うん」 すっかり形無しの進は、困った顔で雪の話をきくばかりだった。
「それにね、私だいたい部屋のほうも見当つけてるの。明日、一緒に行ってくれない?」
「えっ? ご両親にウンって言ってもらう前にかい? それはまずいんじゃないかい?」
「いいのよ! 私だって大人なんだもん。自分で決められるってことを見せてあげるの」
雪の一人暮しの計画は、彼女の中ですっかりできあがっているらしい。進はとうとうあきらめて、ため息をついた。
「ふぅ…… 雪は言い出したら聞かないからな。わかったよ、とにかく明日だな。ちょっと兄さんが話あるっていうから、そっちに寄ってから、午後からでもいい?」
「ええ、じゃあ私も午前中ちょっと出かけるから、1時にいつもの喫茶店でいい?」
二人がよく行く喫茶店は、進のマンションからも歩いて10分もかからないところにある。
「ああ、そこから近いのかい?」
「ええ、歩いて行けるわ。古代君のマンションと司令本部の間にあるのよ、その候補のお部屋……」
雪を送り届けて自宅に戻った進は、仕事の疲れもあって、シャワーだけを浴びるとすぐにベッドに入った。しかし、すぐには寝付けず、今日の雪の話のことを考えていた。
(やっぱり、結婚すべきなんだろうか…… けど、まだ心にある不安が拭い去れない。亡くした仲間のことが忘れられない…… そんな俺の気持ちを……雪には見抜かれてしまった……)
(11)
翌朝、進は約束していた守の部屋に行った。守から呼び出されていたからだ。昨日地球に帰還した進に、『明日にでも会いたい』と言う守からの伝言が入っていた。サーシャのことが解決して、守は司令本部に復帰するらしい。詳しい話を聞くために、今、進は守の部屋のドアのベルを鳴らした。
中からドアが開き、進は部屋に入った。そこは、ベッドと机以外ほとんど何もない、殺風景な部屋だった。サーシャの姿もなかった。きょろきょろと見回す進に、守は笑顔で話しかけた。
「よっ、お帰り、進。どうだった? パトロールの方は……」
進は、はっとして守を見、その質問に答えた。
「事件もなくて、楽だったよ。小さな船だし、クルーも小人数で気楽にやれそうだ。それに、今回立ち寄った火星基地で面白い奴に会ってさ。ワイン好きの男で、気があいそうなんだ……」
今回のパトロール艇で一緒に仕事をした気持ちのいいクルーたちや、火星基地で知り合いになった男のことを思い出して、進はにっこりと笑った。
「ワイン好き? おまえ、ワインなんてしゃれたものが好きだったとは知らなかったな」
守が不思議そうな顔で進の顔を覗く。その探るような視線が恥ずかしくて、進は焦った。
「えっ? ああ、あの……雪の……お父さんが好きなもんだから…… いろいろと教わっているうちに……」
なんとなく恥ずかしそうに「雪のお父さん」の話をする進の姿に、守は思わず笑みが漏れた。
「なんだよ、兄さん!」
「いや、いいお父さんができてよかったな、進」
守は、おかしそうに進をからかうような口調で言った。だが、その言葉に嘘はなかった。早くに両親を亡くした弟に、頼りになる父親ができた。そして、進もその相手を慕っているらしいということが、守にはとてもうれしかった。
しかし、守のからかいを避けようと、進は話題を変えた。
「!? そ、それより、兄さんのほうは片付いたのかい? サーシャはどうしたんだよ」
サーシャ……という言葉が出て、守も表情をさっと曇らせた。
「ああ、今日は、そのことをお前に伝えようと思って呼んだんだ。サーシャは……真田に……」
そこまで言って、一瞬躊躇した後、守は再び言い直した。
「真田の……紹介で……とあるところに預けた。あの子は、地球の環境に合わないところがあって、今は地球に置けないんだ…… だから、宇宙のあるところで一年間養育してもらう…… 本当は、俺がついていくべきなんだが…… いろいろとあってな。
とにかく、詳しいことは誰にも言ってないんだ。でも、心配はいらない。一年経ったら、サーシャは戻ってくる。だから、お前も安心していてくれ。もちろん、定期的に連絡をとったり、行って会ったりはするつもりだから……」
何か難しい事情があるんだろう。進は、顔を曇らせる兄の姿に、これ以上聞いてはいけないような気がした。
「わかった…… 真田さんの紹介なら心配ないよね。一年後に会えるのを楽しみにしているよ。かわいくなってるだろうな」
「ああ…… それで、俺は明日から司令本部に出る。長官付きの先任参謀ってことで」
守は寂しげな顔をちらりと見せたが、すぐにそれを隠すようにぱっと表情を変えた。
「へぇぇ、兄さん、大抜擢だね。やっぱり兄さんだ、すごいよ」
「あはは…… そうでもないさ、秘書の雪さんの仕事と大して変わらないよ。長官の使いっ走りさ」
あっさりと兄はそう言うが、間違いなく大抜擢だ。サーシャと一緒に宇宙に行けなかったのも、長官の希望であったのかもしれない。そんな兄を進は頼もしく思うのだった。
「そっか、雪と…… じゃあ、僕がいない間はよろしく頼むね、雪のこと…… 実はさ、雪、ご両親が横浜に引っ越すことになって一人暮しすることになりそうなんだ」
突然の話に、守はきょとんとした。両親が引っ越すのなら……
「一人暮し? どうして? お前達結婚して一緒に暮らせばいいだろう?」
誰もが思う素朴な質問だった。
「う……ん…… そうとも思ったんだけど…… 雪に却下されたし……」
進は、ちょっと困ったように、鼻のあたりをぽりぽりとかきながら、ボソッと答えた。
「却下ぁ!? どうしてだなんだ?」
守が大声になる。その声に、進は一瞬躊躇した。どう答えようかと迷ったが、結局は兄に隠せるとは思えず、実は……と昨日の話をした。話を聞くなり、守がまた怒鳴った。
「ばっかもん! お前、女心ってもんを考えてみなかったのか!! 仕方ないなんていわれて、雪さんがどんな風に思ったか!」
守に怒鳴られて、進はひゅんと肩をすくめて、しゅんとなってしまった。確かに、今から思えば失礼な言い方だったと、進もおおいに反省しているのだから、兄に対しても反論できない。
「……」
すっかりしょげ返って小さくなっってしまった弟を見ると、兄はすぐにその怒りを納めた。弟がなぜそんな言葉を出してしまったのかはわかっている。決して相手が問題なのではなく、進自身の問題なのだ。今しばらくは、そっとしてやったほうがいいのかもしれない。
「はぁ…… まあ、言ってしまったものはどうにもならんな。思わず本音が出たってことなんだろう?」
「兄さん…… 俺……」
兄の態度が柔らかくなると、進は急にすがるような声を出した。兄さんはわかってくれてるんだ……進はそう思った。
「まあいい、今はしばらく気楽に婚約時代を楽しむんだな。それも楽しいさ」
「ん……」
「それに、雪さんも一人暮しするようになれば、外泊してもばれないだろうしなっ」
兄がにやりと笑って、今度は弟をからかい始めると、弟はムキになってそれを否定した。
「に、兄さん!! そんなこと!……するわけ……ないだろ」
「ん? お前達……?」
語尾を口篭もらせる進の言葉に、守は首を傾げ、はたと気がつく。「なんだ、まだ手を出してなかったのかこいつ」そんな顔で進の顔を覗きこんだ。
「…………」
兄のぶしつけな視線で顔を赤くした進に、守はさらにからかい口調で迫った。
「あっははは…… そうか、まだか。婚約までしたくせに、情けない奴だな。もしかして……まさかお前、どうしたらいいかわからないとかって言うんじゃないだろうな?」
「ち、違うよっ!」
「ふーん、じゃあ、この際、チャンス到来ってわけだな、あっはっはっは。なんなら、俺がやり方を指導してやるぞ。あっははは……」
「兄さん!!」
焦る弟に大笑いする兄。この兄弟の間では、毎度のごとく見られる光景だ。
真っ赤になってしまった弟の肩を抱え込むようにして、自分の方へ引っ張り込んだ兄が、この後弟に何を授けたのかは、二人にしかわからないことだった。
(12)
午後、予定通り待ち合わせた進と雪は、雪の候補にしているマンションを訪ねた。そのマンションは、大通りに面し、司令本部までは車で10分もかからないところにあった。案内してくれた不動産会社の社員によると、このマンションの住民は女性に限定しているらしい。ほとんどが若い女性で、セキュリティは非常に厳しくなっているという。
「マンションのエントランスには、常時管理人がいますし、マンションの中へはカードキーを挿し込み、部屋番号とそれぞれご自身で決められる暗証番号を入力しないと入れません。ですから、それ以外の方は、エントランスで部屋の住人に連絡していただき、中から施錠をあけてもらうことになっています。カードキーは最高で3枚まで作れますので、ご本人の他にお二人までお使いいただけます」
案内人がそう説明した。雪はその説明を聞き、進に向かって、心配ないでしょう?と言う顔をした。案内人が言葉を続ける。
「こちらは男子禁制というわけではありませんが、あまり派手なお付き合いは困りますので……」
案内人がチラッと進を見た。雪が慌てて、「婚約者です」と説明すると、彼はにっこり笑ってうなづいた。
部屋も1DKのこじんまりしたもので、ベッドやたんすなどの基本の家具は備え付けだ。明日にでもすぐ住めそうだった。
二人が部屋を見てマンションから出てくると、雪は満足したように進に言った。
「ね、これならいいでしょう? 古代君」
「まあな、場所も近いし、セキュリティや部屋の方もいいけど……」
「あとは、パパとママを説得するだけよ。でも、大丈夫よ、私が言い出したら聞かないことくらい、あの二人良く知ってるもの」
「確かにね」 進は苦笑するしかなかった。
(13)
用事を終えた二人は、その日の残りの時間を久しぶりのデートに使った。街をウインドウショッピングして歩き、ふと通りがかった映画館で、最近話題になっている恋愛映画が公開されているのに気づいた。雪は、あまり気が進まない進を半分むりやり引き込んで、二人はそれこそ久しぶりに映画を見た。
映画の内容は、なんて言うこともない美男美女の二人の恋愛物、すれ違ってなかなか素直に想いを告げあえない二人の切ない物語。やっと、互いの思いを知ったとたんに、運命に引き離される二人…… 最後はお決まりのハッピーエンド。
途中から、感動して涙をこぼす雪に苦笑しながら、ハンカチを差し出す進。そのハンカチを受け取り、雪は進の腕を抱き体を寄せてくる。進のほうは映画より、雪の温かく柔らかい体の感触の方が気になってしまった。
映画が終わって館を出る。まだ感動して目を潤ませている雪を進が笑う。
「よかったわねぇ……あの二人が幸せになれて……」
「どうしてそんなに感動できるんだろうねぇ。女ってのは……」
「んっ、もうっ! 人がせっかく浸ってるっていうのにぃ!」
口では怒りながらも、雪は幸せそうな顔をしている。進の腕に自分の腕を絡ませてくる。映画の幸せな二人に自分たちを重ね合わせ、二人でいることの喜びに浸るように……
「でもあのラストシーンの彼のセリフ、とっても素敵だったわぁ。ああ、一度で言いからあんな風に言われてみたい!」
夢見るようにつぶやく雪に、進は渋い顔で釘をさした。
「はんっ! あんな歯の浮くようなセリフ、俺には期待しないでくれよ」
「まぁっ! でも一生に一度くらいいいじゃない?」
「やだよ、一生に一度だって……」
進の頑なな態度にむっときた雪が、アッカンベーと舌を出して最後通牒をした。
「いいわよっ! その代わり、一生かかっても私古代君のお嫁さんになってあげないからねっ!」
「ええっ!」
ぷいっと言い放って先にドンドン歩いていく雪を、進は慌てて追いかけて行く。口では憎まれ口をたたいたが、心の中では、いつか本当にあんな言葉を雪にかけてやれたら……と思いながら。
(14)
そして翌日の約束の日、進は雪の家を訪問した。美里も、そして予告通り父の晃司も在宅していた。いつもの通り一遍の挨拶を終えると早速本題に入った。
「それでね、雪は一人暮ししたいっていうのよ。でも、それくらいなら、あなた達結婚した方がいいんじゃないの? どう思ってるの?古代さんは……」
美里が単刀直入に尋ねた。
「はぁ…… 僕は、雪が一人暮ししてみたいって言うのなら、そうしてもいいと……」
恐る恐る美里の表情をうかがいながら進が答えると、間髪を入れずに両親二人から反論がでた。
「古代さん! じゃあ、まだ結婚しないっていうこと?」
「どうしてだね? 古代君。いろんなことがあったのはわかるが、君達が幸せになることが亡くなったみんなのためでもあるんじゃないのかな?」
「……でも……まだ、しばらくは……」
二人から迫られて、進はばつが悪そうにおずおずと答えた。それに雪が強い口調で助け舟を出そうした。
「私達、とても辛い思いをしてきてるのよ。特に古代君は…… それに、いいじゃない、もうしばらく恋人気分でいたって……」
「雪は黙ってなさい! 古代さんに聞いているのよ」 「うむ、古代君、正直なところを話してくれないか?」
雪の言葉を美里がぴしゃりと押さえると、再び二人は進に迫った。
「もちろん、とりあえず入籍だけでもっても考えたんですが……」 チラッと雪を見る。
「私がそんなのは嫌だって言ったのよ!」
雪の言葉に、両親ともに驚いて二人の顔を交互に見つめた。二人の間に何があったのだろうか、と言いたげな顔をしている。
「……ご両親の言われていることはよくわかります。でも、まだ……僕の中で心の整理がついてないっていうのが本当のところなんです。雪にも……ご両親にも、心配かけてすみません……」
「それに、私もその方がいいって! 私が!そう……決めたの」
二つの顔が真剣に両親を見つめた。
「…………」
しばらく沈黙が続いた後、雪の両親は顔を見合わせると、ほぉっと一つずつため息をつくと、小さくうなづいた。若い二人の気持ち、いろいろなことへの様々な思いが、両親の心にも伝わってきた。
そして、晃司が穏やかにひとこと、こう言った。
「わかった…… 雪に一人暮しを許そう」
「パパ……」 「お父さん……」
「雪は今までずっと居心地のいい所で暮らしてきたから、一度は自分で暮らしてみるのもいいかもしれないわね。その方が、奥さんになったときに慌てなくて……」
美里も矛を収めて、微笑んだ。
「ママ……」
やわらかな空気が流れた。若い二人をもうしばらく見守ってやろうと決めた父と母の温かな心が部屋中に広がった。
「さて、じゃあ、この話はもうこれで決めた。おしまいだ。そろそろ昼だな、母さんと雪は何かうまいものでも作ってくれよ。古代君、それまでの間ちょっと散歩でもしないか?」
晃司が何を思ったのか、進を散歩に誘った。何か、二人だけで話したいことがあるに違いないと思った進は、何も聞かずにただうなづいた。
「はい……」
(15)
晃司と進は並んでマンションの部屋を出た。マンション前の小さな通りを歩いていくと、小さな児童公園がある。そこまでの間、進も晃司も何も言葉を発することはなく、黙ったまま歩いた。公園前に着くと、初めて晃司が口を開いた。
「古代君、ちょっとあそこに座ろうか……」
晃司は、公園のベンチを指差した。進は「はい」と答えて後に続く。だが、何を話していいのかわからない進には他の言葉が出てこない。晃司が散歩に誘った理由を考えると、気が重かった。
話の口火を切ったのは、やはり晃司だった。
「古代君、もしそうなら、雪のためにも、はっきり言ってほしいんだが…… 雪とのこと、白紙に戻したいって思ってるんじゃないんだろうね?」
「!! ち、違います! それは絶対に……」
突然の晃司の告白に、進はびっくりして即座にはっきりと否定した。
「……そうか、ならいいんだ。すまない、変なことを聞いて。いや、雪はあの通りの気の強い娘だから、思い込んだらまっすぐで。君のことになると……親もあきれるほどでな。あんまりなんで、あの子の想いが、かえって君の重荷になってるんじゃないかって思ったりしてねぇ」
自嘲気味に笑いながら、晃司は危惧していたことを話した。
「いえ……そんなこと…… 雪……さんは、僕にはもったいないくらいの……人です。彼女を心から愛しています。昔も今も……その気持ちは全く変わっていません」
きっぱりと進が言う。その言葉に安心しながらもまだ疑問が残ることを、晃司は告白した。
「じゃあ、なぜなんだい? 気持ちの整理って…… 雪にも母さんにも言わないから、聞かせてくれないだろうか?」
晃司がまっすぐに進の顔を見る。進もその顔を見返し、そして視線を落とした。一瞬の沈黙の後、進は再び顔を上げ、晃司を見ながら言った。
「…………お父さん、お父さんは、結婚されるとき不安になりませんでしたか? 本当に彼女を幸せにできるだろうかって……」
「古代君…… 君は不安なのかね?」
晃司の問いに、コクンとうなづいて、進が話を続けた。
「あの白色彗星との戦いの後、そのことが急に僕の心に広がって…… 本当に僕は雪を幸せにしてやれるんだろうかって、自信がなくなったんです。僕は、僕の仕事は…… いつも命の瀬戸際で…… それに……雪まで巻き込んで…… そんな僕に本当に彼女を幸せにすることなんかできるんだろうかって…… すみません、そんなんじゃ、娘はやれないって言われそうですね」
進は、言うだけ言うと、また顔を下に向けた。今にも泣き出しそうな声になる未来の息子の姿に、晃司は思わず胸が熱くなった。その悩んでいる姿は、いつか自分にも経験のあることだった。
「私もね……不安だったよ、結婚する前は」
「え?」
進は、不安になったことはないのかと、自分で聞いておきながら、相手が不安だったと言うその言葉に驚いて顔を上げた。その進の顔を見て、晃司は微かに笑顔を見せた。
「男ってやっぱり結婚に対してすごく責任を感じるもんだよな。今の時代、男女同権だ、結婚は男も女も同じだけ責任を持つもんだ、なんて言うけれど、やっぱり男としては、結婚相手の人生をすべて受け止めなければならないような、そんな気持ちになるよなぁ。
私も結婚は早い方だった。母さんとは、会社で知り合ったんだ。私が言うのもなんだが、あの頃の彼女は、今の雪に負けないくらい綺麗だった。入社してすぐ私の方が一目惚れしたみたいな感じでね。他にも彼女を狙う男はたくさんいたし、思い切って告白したらOKもらえて……
彼女と相思相愛になったらなったで、すぐ自分のものにしたくてプロポーズした。幸いイエスの返事だった。でも彼女は、結婚したら家庭に入りたいって言ったんだ。事務の仕事は好きじゃない、だから、家で主婦をしたいって…… その時の私は、彼女を手に入れるのなら、何でもしたい気持ちだったから、それも二つ返事でOKした。
でも、結婚の日取りも決まって、式も間近になってくると、急に不安になってねぇ。自分の給料だけで本当にやっていけるんだろうかって。まだ若かったからねぇ、たいした金額も貰ってなかったし。それに、もし万一会社が潰れたり、首になったりしたら、どうなるんだろうって…… 考えなくてもいいようなことをいろいろ考えては、不安になったもんだよ」
「そう……なんですか」
「まあ、君の心配とは雲泥の差の他愛もないことだけどね」
「いえ、そんなことは……」
「ついでに言うとね、まあ、私は結局その不安を完全には拭い去れずに結婚したわけだが、結婚後しばらくたって、やっぱりそんな不安が沸いてきてね。
あるとき、彼女を試してみたんだ。『会社が倒産して、明日から収入がなくなった』って嘘ついてね。そしたら、なんて言ったと思う?」
「…………?」
「『あら、じゃあ、明日から私、あそこのスーパーでパートするわ。今、募集広告張ってるのよ。しばらくは私が食べさせてあげる。蓄えだって少しくらいあるし、その間に仕事を探したら?』ってね。いとも簡単に……
私は感動したよ。怒るでもない、恨み言ひとつ言うでもない、あっけらかんとにっこり笑ってそう言うんだ。その時私はこの女に惚れてよかったって心底思ったよ……」
「お父さん……」
「いやあ、なんだか、変なのろけ話を聞かせてしまったみたいだなぁ」
照れたように笑みを浮かべる晃司の姿は、妻への愛があふれているようだった。長年連れ添った妻への温かい思い……それを感じさせる笑みだった。
「いえ……本当にいい話ですね」
「あはは…… 若かりしころの話だよ。まあ、雪もそんな彼女の娘だ。きっと、君の不安なんか簡単にふきとばしてしまうんじゃないかな?」
「……そう、かもしれませんね」
少し返事に間があったが、進は考えるように、ゆっくりとそう答えた。
晃司は、自分の言葉を進が十分に受け止めたとは思えなかったが、彼が今肯定の返事をした、ということで今はよしにしよう、そう思った。二人が互いを誰よりも愛していることだけは間違いないのだから。
「さあてと、そろそろ昼飯できてるころかな? ま、しばらくは雪にも世間の波にあたってもらうことにするか、なあ、古代君」
うーんと伸びを一つして、晃司は立ち上がった。進もついで立ち上がり、晃司にもう一度こう言った。
「すみません…… 僕も、これからのことよく考えてみます」
「雪のこと、これからも頼むよ。前にも言ったが、あの娘(こ)の事は君に任せてあるんだから」
「……はい、ありがとうございます」
晃司の雪への心配、進の不安へのやさしい心遣い、そのすべてが進にはうれしかった。今はまだ、ありがとう以上の言葉を返せない自分だが、いつか彼らを心から笑わせられる自分を見せたいと、進は思うのだった。
その日の午後、雪は進とともにさっそく不動産屋を訪れ、下見をしたその部屋を正式に契約した。
(16)
そして2日後、ちょうど日曜日のその日、雪は新居に引っ越した。善は急げと言うし、進が地球にいるうちに引越しを済ませたいという雪の思惑もあった。元々引越しはしなければならなかったので、荷物はほとんどまとまっていた。部屋の方は、基本の家具もそろっていたし、小さなトラックを借りてきて、雪の引越しは早々に行われた。
表通りに面した瀟洒なマンションの8階の一室。そこが雪の新しい住まいだった。
「これで終わりだな?」
「ええ、お疲れ様、古代君」
掃除を済ませた部屋。進は最後の荷物を雪の指定の場所に置いて、ほっと一息ついた。雪がその姿を見て立ち上がり、今持ってきたばかりの荷物のダンボールを開け始めた。
「今、お茶を入れるわね。えーっと…… やかんはなかったかしら? おなべでもいいわよね…… あっ!」
荷物を引き出す手を突然止めて、雪は顔を上げ、手を口に持っていった。
「どうした?」
「まだ、ガスも電気も来てないんだった……」
電気ガスは、入居し次第、業者に申し込むことになっていた。その処理を雪はまだしていないことをすっかり忘れていたのだ。
「あっはっはっは、最初からボケてるな。やっぱり、箱入り娘だよ、雪は……」
大笑いする進に、雪はつんとあごを上げると財布をつかんだ。
「もうっ!! ちょっと、忘れてただけじゃない! 今、買ってくるわ」
「あ、俺も行く」
マンションの廊下を歩く二人。まだちょっぴりふくれっつらの雪をつつきながら、進はまだくすくす笑っている。二人並んでマンションの外に出ると、すぐ前にあるコンビニで、缶ジュースにお茶、昼ご飯の弁当などを買った。
部屋に戻ってくると、小さなテーブルを引っ張り出して、その上にジュースと弁当を並べて、二人はままごとのような食事をはじめた。
弁当をぱくつきながら、進はまた雪に注意をする。
「雪、毎日あそこで弁当買ってきて食べるんじゃないぞ」
「わかってるわよ! それはいつも私があなたに言ってることでしょう?」
「わかんないからなぁ。医者の不養生って言葉もあるし、生活班長が実は自分じゃあ、何にもしなかったってことにならないようになっ!」
今日は進の方が口合戦で優勢のようだ。雪は痛いところを突かれている。
「もうっ! 大丈夫だからっ! さっきから何よ、ずっといじめてばっかり……」
そう言って、雪はまたすねてクルンとテーブルと進に背を向けた。進はそんな雪の姿がかわいくてたまらなくなった。立ち上がると、雪を後ろからそっと抱きしめた。
「雪……」と言う呼びかけに、雪は「古代君……」と振り返った。ところが、振り返った雪の顔を見て、進はまた大笑い。
「あっははは…… ごはんつぶついてる」
そう言って、雪の口元のごはんつぶを手で取ると自分の口に入れた。そして、また何か文句を言いたそうに開きかけた雪の唇を、さっとふさいだ。もちろん、進の唇で……
雪も反対を向いていた体を進の方に向きなおして、進の体に自分の体を預けた。長い長い甘いキス……なぞるようになめるようにゆっくりと進の唇が動く。互いを抱きしめる手にも力が入ってくる。そっと唇を離して見つめ合うと、再び二つの顔が近づいて、新たにくちづけが始まる。
外は明るいけれど……このまま、雪を…… 先日の兄の言葉が頭によみがえり、進の心と体を後押しする。
外は明るいけれど……このまま、古代君と…… この前、綾乃が言っていた話を思い出される。流れに身を任せようか。
その時、雪がはっとした。進の胸から体を少し離して進の顔を見た。
「あっ! 今何時?」
「えっ? 12時半だけど……」
「綾乃が1時に来るんだった。部屋の片付けを手伝ってくれるって言ってたの……」
「後30分しかないのか…… ちょっと時間ないな」
思わず漏れてしまう言葉。言ってしまってから進の顔が火照る。雪が尋ねた。
「えっ? 何の時間?」
「い、いや、あ……あの、早く召し食っちゃおうぜ。時間がないから……なっ」
雪は、なんだか適当にごまかされたような気もしたが、それ以上は聞くのをやめて、くすりと笑うと元気よく答えた。
「うんっ!」
食事を終えた二人は、ベランダに出て外の景色を眺めた。まだまだ新築工事が続く東京のメガロポリスの背景には、豊かな海が広がっていた。まだ寒いけれど、気持ちのいい風が吹く。今日もいい天気だ。
「私も、新しい出発ね」 「ああ……」
結婚への道はまだ遠い。でも、二人の愛はいつまでも変わらない。互いの顔を見る進と雪の心も今は静かに凪いでいた。
そして午後1時ちょうど、プルルル…… エントランスからの呼び出し音が鳴った。
「はい……」
「雪? 引越しの片付け手伝いにきたわ。昨日、ちょうど島さんとも会ったから誘って連れてきちゃったのよ」
綾乃の声だった。島もいるらしい。進と雪は顔を見合わせるとにっこり笑った。
「今開けるわ。上がってきて!」
午後からの島と綾乃の手伝いで、あっという間に雪の部屋は片付いた。
そしてその夜、4人は夜の町に繰り出した。彼らが雪の引っ越し祝いで盛り上がったことは言うまでもないだろう。
−お し ま い−