Departure〜彼らのスタートライン〜

1.生 還

Chapter10

(1)

 「俺にどうしろって言うんだよ……」

 進が病室を出て行ってからも、島はずっと考え続けていた。いまだ深く残るテレサへの思いと新たに湧き上がってくる綾乃への気持ち。そのどちらも一緒に我が物にできるほど、島は恋愛に器用ではない。

 「テレサ……」

 あれほど真剣に人を愛したことはない。そう彼女に出会うまでは誰とも……

 島はそれまでの恋愛経験を思い出していた。

 テレサに会う前にも、初恋とも言えないほどの淡い思いならば、何度か経験したこともあった。もちろん女性と付き合ったこともある。しかしそのどれも、こちらから好きになったというのではなく、女性側から告白され、断る理由もないままとりあえず付き合ってみたという感じだった。

 思うに、能動的に惚れたのは、ヤマトで出会った女性、森雪が最初だった。そういう意味で、彼女が島にとって初恋の相手ということになる。

 だが、その彼女への思いも、激しく燃え上がる前に親友との恋を応援する立場に変わってしまった。

 そして、あの戦いの中で出会ったテレサとのことは全てが強烈だった。出会いから別れまで、その全てがあまりにも性急で、あまりにも衝撃的だった。
 だからこそ……彼にとって、永遠に忘れられない存在になったと言えるだろう。

 (2)

 そして……佐伯綾乃。

 雪の親友として、イスカンダルから帰ってきて早々に、合コンという形で出会った。だがその時の印象は、他に気をとられていたこともあってとてつもなく薄い。
 綾乃は、特に美人だとか、際立つほど優秀だとか、そんな目立つ特徴は何一つないごく普通の女性だ。逆に嫌悪感を抱くようなことも全くない。いわば可もなく不可もないという存在だったろうか。
 だから、その後もずっと、ヤマトクルー達と一緒にごく普通の女友達の一人として接してきた。あれほど鮮烈だったテレサとは、あまりにも好対照であった。

 だが島にとって、いつの間にか、綾乃の存在が心の中をほっと温かくしてくれる存在になっていった。
 いつから?と問われても、島自身答えられない。本当に、「いつの間にか」としか言いようがないのだ。

 (彼女といれば、とても心地いい。居心地がよくて何も気遣いがいらなくて……何の構えもいらないんだ……)

 島は、穏やかに微笑む綾乃の笑顔を思い出した。

 その後、進と雪が同棲を始めてからは出会う機会が増え、4人で食事をしたりすることも多くなった。今から考えれば、綾乃の気持ちを汲んで、進や雪たちが意図的に2人を誘ったとも思えなくもないが……

 だからといって、特に改めて彼女と自分がカップルだと思ったことはなかった。ただ、4人のうち2人がカップル――それもすぐに2人の世界に入ってしまうアツアツの――となれば、自然と残る2人で会話することも多くなる。
 そして時が経つに連れ、綾乃との会話がだんだんとごく当たり前のことで、いつまでもそんな関係が続くような錯覚にさえ落ちていた。

 だからなのだろうか。その彼女が田舎に帰って結婚するかもしれないという、進から告げられた事実に、島は自分が思いのほか動揺していることに驚いていた。

 今まで、そこにいることが当然だった人が、もうすぐいなくなる。そして他の男のものになる。そのことに対して、島は強い不快感を感じていた。それは紛れもなく、綾乃という女性に対する独占欲であり、ひいてはそれが自分の彼女への愛情の存在を示していることを、島は今更ながら気付いた。

 あの大怪我をしたとき、天への道をたどりかけた自分が、テレサの元に行くことを潔しとせず、この現世に戻ってきたそのきっかけは、紛れもなく綾乃の声がきっかけだったのだ。

 「俺は綾乃さんを…… だが、それでも、このテレサへの気持ちを捨てることなんかできない。そんな俺に彼女を愛する資格なんか……」

 島は、握り締めていたこぶしを、さらに強く手が白くなるほどぎゅっと握り締めた。

 (3)

 その日、綾乃が島の病室を訪れたのは、夕方のことだった。

 「島さん、検温の時間です」

 綾乃は、いつもと変わらぬ笑顔で病室に入ってきた。島は検温と言われてハッとする。いつもの時間なのに、ずっと物思いにふけって忘れていたのだ。

 「あ、ああ…… 忘れてた。今計るから」

 「あら、忘れてたの? うふふ、島さんにしては珍しいわね。いいわ、こちらで測るから、じっとしてて」

 几帳面な島にしては珍しいと思いながら、綾乃はポケットに入っていた体温計を取り出した。そしてそれを島の耳にそっと近づける。その体温計は、耳の中で起動させることで数秒で体温が表示されるようになっている。

 体温計を手にした綾乃の腕が、島の頬の間近まで近寄ってくる。すると、そのぬくもりが空気を伝わって感じられ、島の心臓がドキンと一つ大きな鼓動を響かせた。自分の気持ちに気付いたせいもあるのだろうか。

 しかし島はそれを顔に出すことはなかったので、綾乃が気付くことはなかった。

 「はい、36度5分、平熱ですね。脈拍は……」

 腕をとられる。今まで自然に取らせていたのに、今日の島は少し違った。心に動揺が走る。さっきの動悸が微妙に続いているらしく、それが脈拍に顕著に現れた。

 「あら? 島さん、少しいつもより脈動早いわね。どこか気分でも悪い?」

 「い、いや…… 特には……」

 自分の心の動揺があまりにも簡単に綾乃に見て取られて、島は焦った。

 「そう?」

 まだいぶかしげに脈を取り続ける綾乃から、島は視線をはずして深呼吸を一つした。少しずつ落ち着きを取り戻し始めたのに応じて、脈動も平常値へと戻リ始めたらしい。しばらくして、綾乃は手にしていた島の腕をゆっくりとベッドに戻した。

 「脈拍いつもに戻ったみたいだわ。島さん、私が来る前、何か運動でもしてたんですか?」

 「い、いや…… あ、はは、まあ……」

 島は否定しようとして、慌てて肯定する。本当の理由を言うわけにはいかないし、綾乃の想像のままにしようと思ったのだ。

 「もうっ、退院間近だといっても無理しないでくださいね」

 ほっとしたような顔で微笑む綾乃に、島も苦笑まじりに頷いた。

 「ああ、わかってるよ。あと数日だからな、ここで大人しくしてるさ」

 「はい、よろしくお願いします。それじゃあ」

 「ありがとう」

 (4)

 ごく普通の会話が続いた後、綾乃は小さくほっと息をついた。それから、改めて顔を上げて島のほうを見た。

 「……あ、私、明日からお休みいただくので…… 少し早いですけど、退院おめでとうございます」

 小首をかしげながら微笑む綾乃に、島は一瞬言葉を失った。

 「え?あっ…… ありがとう。そうだったな、綾乃さん、明日から実家に帰るんだったよな」

 島は、わざとらしいとは思いながらも、綾乃の帰省のことを、さも今思い出したように口にした。

 「えっと、いつ……帰ってくるんだっけ?」

 とぼけたふうに尋ねながら、島は綾乃の顔付きを盗み見た。が、綾乃は特に何の変化もなく、あっさりと帰京の日程を答えた。

 「ええ、来週の土曜日のつもりですけど」

 「そ、そうか……」

 島はなんとなく安心したような、それでいて拍子抜けしたような気分になった。が、すぐに思い直した。

 (いくら結婚を決めに帰るったって、そのまま行ったっきりってわけじゃないだろうが…… 俺は何を焦ってるんだ!?)

 逆に、綾乃は島が自分の帰京を気にしてくれたことが微妙に嬉しかった。その気持ちが、綾乃に少しの勇気を与えてくれた。
 帰省から帰ってきたら、島に今の思いを告げよう、そう誓った自分を、そこから逃げ出させないために、綾乃は口を開いた。

 「島さんは金曜日に退院予定ですよね?」

 「ああ……」

 「あの……帰ってきたら……」

 「ん?」

 綾乃は、懸命にそこまで声を絞り出して、じっと島の顔を見た。なぜか急に、いっそ今この場で思いを口にしてしまおうかとさえ思えてきたが、さすがにそこまでに至るには心の準備もなかったし、今の看護師としての立場がそれを押しとどめた。

 「島さん、少しお時間いただけませんか?」

 そして、これだけをやっとのことでさっきの言葉に続かせた。

 「え? ああ、いいけど。何か?」

 「少しお話したいことがあって……」

 綾乃は、その後の言葉を口ごもらせた。島には、綾乃の突然の提案の真意がすぐには想像できなかった。しかし、すぐに2人の共通の友人たちのイベントを思い出した。

 「話? ああっ、古代達の結婚式のこと?」

 この間も挨拶の内容について聞かれたので、その件で相談したいのかと思ったのだが、綾乃はそれをにべもなく否定した。

 「いえ、そうじゃなくて…… あの、島さんが患者さんでなくなってからの方がいいんです」

 そこで綾乃は、初めてほんのりと頬を紅潮させた。

 「ちょっと個人的なことだから……」

 恥ずかしさと緊張で、綾乃はじっと島を見ていられなくなって視線を逸らした。さっきの島ではないが、急激に心臓の鼓動が激しくなるのを感じて、綾乃は慌てた。

 「個人的って?」

 島がいぶかしげに尋ねる。だが、その顔がすっかりこわばってしまったことに、目を逸らしたままの綾乃の目には入らなかった。

 (やだ、恥ずかしいっ…… どうしよう、仕事中なのに。私ったら、こんなところでこんなこと言い出しちゃうなんて……)

 綾乃は、自分で自分の言っていることが、急にとんでもないことのような気がしてくる。わざとらしく時計を見ると、慌ててここを立ち去る理由をでっちあげた。

 「あっ、これから他の患者さんの検査があったんだったわ。それじゃあ、また帰ってきたら連絡しますね、お大事に!」

 「あっ、ちょっ、綾乃さん……」

 綾乃は、声をかける島をほんの少しちらりと振り返ると、軽く会釈しただけで顔もろくに見ずに、あたふたと部屋を出て行ってしまった。

 (プライベートって……? まさか、実家に帰って結婚を決めてきて、そのことを俺に告げるつもりなんだろうか……!?)

 幸か不幸か、ふと漏らしてしまった綾乃の言葉が、彼女の意図とはまったく逆のニュアンスで島に認識されてしまうことになった。おそらく、午前中に進から告げられた話が島の脳裏に、強く印象付けられていたからだろう。
 そしてそれが、島に大きな焦燥感をもたらすことになったとは、彼女自身全く知る由もなかった。

 (5)

 翌朝のこと。綾乃への複雑な心境が影響して、昨夜は島はあまり寝つけなかった。とは言え、入院している身に何かできるわけでもなく、その朝を迎えるしかなかった。

 毎日のごとく検温と体調チェックのために看護師がやってくる。綾乃が出勤している時は必ず彼女が来るのだが、彼女が休暇を取っている今日は、当然違う看護師がやってきた。
 いつもと変わらぬ質問と答えを繰り返し、そつなく帰っていった看護師の後姿が、今の島には綾乃にダブってしまう。

 (馬鹿だな、俺も…… 何を今更……)

 自嘲気味にため息をつく。綾乃の気持ちを無視し続けることで、自ら彼女とは決別したつもりでいたのに、この期に及んで体がうずうずしている。何ができるわけでもなく、何をするつもりでもない……はずなのだが……

 (別に彼女が永遠に帰ってこないってわけでもないし、帰ってきたらまた顔を見られるんだぞ。だがその時は……)

 その時は、彼女は既に他の男のものになる決意をしているかもしれない。それを考えると、またもや島は頭を抱えてしまった。

 (どうしたってんだよ、俺は……!! 決めたんだろ? テレサへの思いを抱えたまま、彼女とどうこうなんてなれないって!
 今は良くったって俺のこの思いが、いつかきっと彼女を戸惑わせる。そして彼女との諍(いさか)いの種になるに決まっている。彼女を不安がらせるに決まっているんだ。それくらいなら、今きっぱりと切ってしまったほうがお互いのためなんだ……)

 幸せになって欲しい人であるからこそ、自分が手を伸ばしてはいけない。そう思う島だった。
 それでも……心の中では納得していない素の島大介が紛れもなく存在していた。

 (どっちにしても、もう遅いんだよ)

 まだ未練を抱くもう一人の自分を諌めるように、島は心の中でそうつぶやいていた。

 (6)

 朝食が終わってしばらくしてからのことだった。島の病室に、不意に担当医の間宮希が入ってきた。

 「おはようございます。お加減かいかが?」

 島は上半身起き上がって挨拶をした。

 「あ、間宮先生。おはようございます。どうしたんですか、今頃? 回診の時間にはまだ早いんじゃ?」

 それに希は看護師も連れてきていない。こんなことは今までほとんどなかった。

 「ええ、ちょっとね。調子は……」

 とそこまで言いかけてから、希は島の顔をまじまじと見つめてクスリと笑った。

 「ふふ、少し目が赤いわね。寝不足みたいね」

 美人の希に間近に見つめられ、島は一瞬たじろいて顔をそむけた。昨夜の寝不足を即座に指摘されたことも、少しちくりと胸をつく。

 「あっ、いえ…… 少し昨日寝つけなかったもので…… あ、でも別に具合は悪くはありませんから。退院を延ばしたり……」

 希は笑みを浮かべると、言い訳をする島の言葉を途中で遮った。

 「しないわよ。うふふ……」

 そして希は、さも面白そうに意味深な笑いを浮かべた。それから窓のそばに歩み寄ると、窓の外をまぶしそうに見た。

 「いいお天気ね。綾乃さんも旅行日和ね」

 「えっ? あっ、ああ……」

 島は、突然の綾乃の名前にドキリとしながら、小さな声で相槌を打った。希は、振り返ってその島の顔を伺い見ながらこう言った。

 「10時の列車ですって」

 希の視線が少し痛い。正視するのをさけるように、島は伏目がちにドアの方を見た。列車の時間には何の興味もない振りをするためだ。

 「……それが、何か……?」

 「知ってる? 彼女、もしかしたらここを辞めるかもしれないって言い残して言ったわ」

 島がぱっと顔をあげて希に視線を向ける。その反応振りに満足したように、希は小さく頷いてから話を続ける。

 「結婚するかもしれないんですってね」

 「…………」

 一瞬口元がゆがんだが、島の口からは言葉は漏れてこない。だがその視線が微妙に揺れていることに、希は気付いていた。

 「私はてっきりあなたと……」

 「僕は関係ありませんよ!!」

 希の言葉を遮るように、少し荒げた言葉で島が断言した。一瞬の沈黙が周囲に広がった。

 (7)

 島の強い眼差しに、希は肩をすくめながらも、決して彼に気圧されてはいない。歴戦の戦士の鋭い視線を真っ直ぐに受けて見返せるあたり、希の腹の座り具合も相当なものだ。希の顔には余裕すら見える。

 「ふうっ…… そう怒らなくてもいいでしょ。でもあなたの手術に同席していた人なら、みんなそう思っても不思議じゃないわ、違うかしら?」

 「手術の時……」

 「そう……あなたも意識を取り戻してから薄々はわかっていたでしょう? あなたを死の淵から呼び戻したのは、綾乃さんだってこと」

 再び視線をはずした島の瞳が揺れる。

 「……僕の手術をして助けてくれたのは……先生……じゃないですか」

 「まあ、技術的には……ね。でも不謹慎かもしれないけれど、私、最初あなたの怪我の様子を見て、手術してもあなたは十中八九助からないって思ったわ。
 いくらヤマトの歴戦の戦士でも、この体で、この辛い手術に耐えられない、そう思ってた。そんなひどい怪我だったのよ」

 「…………」

 「そして手術の途中で、やっぱりあなたの心臓は悲鳴をあげた。心拍数が極度に落ちて…… その時雪さんがあなたを呼んだの、がんばってってね。そうしたら一瞬だけ心拍数は上がった。けど、でもそれで終わり。すぐに弱くなって、いよいよだめだってあきらめかけた時、綾乃さんが……」

 希がそこまで言った時、ハッとしたように島が顔を上げた。

 「聞こえたんでしょ? 彼女の声」

 「それは……」

 確かに聞こえた。そう、その前に雪の声も聞こえてきたような気がしていた。だがその声に答える気にはもうなれなかった。けれど、あの後聞こえてきた綾乃の叫び声が……自分に生きたいという思いを蘇らせた。それは事実だ。

 「やっぱりわかってたんじゃない。そして、それからのことはもう説明は要らないわよね。手術は無事に成功して、奇跡的な回復力で、今、あなたはここにいる。
 ねえ、島さん、あなたが生きたいと思った理由はなんだったのか、あなた自身が一番良く知ってるんじゃないの?」

 見上げた島の目を、希はしっかりと見据えた。

 (8)

 先に視線をはずしたのは島だった。それから苦しげにシーツを握り締めた。

 「だが、僕は……彼女を幸せにできない。彼女だけを愛してやれない。僕には……忘れられない人がいる」

 「知ってるわ。テレサさんのことよね。でも彼女はもうこの世にはいないわ」

 島は、あっさりと言い放つ希の言葉に、カチンと来て強い口調で言い返した。

 「僕の心には深く刻まれている!! 僕は忘れられないんだ、絶対に!」

 すると希は、ふっと小さくため息をついて、ひどく悲しそうな顔をした。

 「私も……よ」

 「えっ? あっ……」

 攻撃的な顔で希を見ていた島の顔色が、一瞬で赤く染まった。島は、希もかつて婚約者を戦いでなくしていることを思い出した。

 「私も愛した人を亡くしたわ。宇宙で……そして……地球でも」

 「地球でも?」

 そっちの方は島にも初耳だった。

 「ええ、健ちゃんの従兄弟だった婚約者を亡くしたことは、あなたも知ってるでしょ? その後愛した人がいたの。その人も……暗黒星団帝国の戦いで……」

 「そんな……」

 淡々と話す希とは逆に、島の心にざわめきが立ち上る。

 この目の前にいる美しい人は、愛する人と2人も喪っているというのか。そしてそれでも、こうして涼しい眼で立っていられるというのか……

 「どちらも最高に素晴らしい人だったわ。2人とも私にとっては永遠に大切にしていきたい人……永遠に忘れられない人。
 でもね、それでも私、いつか誰かとまた歩いていけたらって思ってる。亡くした人たちは、もう私のそばにいてくれないんですもの。寂しい時に、温かい腕で抱きしめて慰めてくれないんですもの」

 「…………」

 確かにその通りだった。例えどんなに思っていても、もう彼女には手を触れることもできないし、笑顔を向けてくれることも永遠にない。それがひどく寂しいことだということを、島もよくわかっていた。

 (9)

 考え込んでいる島を諭すように、希はそっとその肩に手を乗せ、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。

 「だから、愛する人のことを忘れられない私を、そのまま丸ごと愛してくれる人がいるといいなって思うのよ。ね、そういう人いると思う?」

 真剣な眼差しで見つめられながら、島は、希を思い続ける自分の友の姿が脳裏に浮かんだ。

 「それはもちろん!」

 「そう?」

 島の断言を聞いて、希が嬉しそうに笑った。

 「なら、私も言うわ。あなたにもきっとそんな人がいる。わかってるはずよ。それが綾乃さんでしょ? 彼女ならきっと、テレサさんへの思いを抱いたままのあなたを、そのまま受け入れてくれる。私はそう思うわ」

 希の言葉が、島の心にしみこんでいく。今まで雪にも進にも言われてきた。だが自分と同じ思いをしたことのない人間に、俺の気持ちがわかってたまるかと、無理やり反発してしまっていた。
 けれど今この目の前にいる人は、自分と同じ辛い思いを経験してきた人だ。その人の言葉は、島にとって何よりも深く重いものに感じられるのだった。

 (彼女なら、俺の気持ちを丸ごとそのまま受け入れてくれる……かもしれない? そう、彼女なら……)

 「私ね、2人目の人を亡くした時、ものすごく後悔したわ。その時の私は、ちょうど今のあなたと同じだったのよ。前に亡くした人に申し訳なくて、彼の気持ちにすぐには答えられなかったの。ま、他にも色々と複雑な事情もあったんだけど……
 それでも彼は待つって言ってくれた。でも結局その気持ちに答えられないでいるうちに、彼は逝ってしまった……」

 「…………」

 「だからあなたにはそんな後悔してもらいたくないの。好きなのなら、今、その手を離しちゃだめ。離したらもう戻ってこないかもしれないのよ。本当にそれでいいの? 本当に後悔しない?」

 もちろん、今、綾乃の命がどうこうというわけではない。だが田舎に帰って見合い相手と話を決めてくるということは、島にとっては綾乃を永遠に失うことと同じなのだ。

 (俺は本当に後悔しないのか……? 彼女の笑顔を他の男に取られてしまっても、本当にいいのか!?)

 「せんせい……」

 島は、希に感謝と懇願の視線を向けた。それに希が優しく微笑みを返した。

 「ふふ、これは担当医としてではなくって、あなたのそして綾乃さんの友達としてのアドバイスよ」

 「ありがとう……ございます。けど……」

 今引き止めなければ、そんな気持ちになったのはいいが、もう間もなく列車に乗って行ってしまう彼女を、どう引き止めればいいのか、島にはすぐに思いつかなかった。
 すると、それを察したかのように、希は茶目っ気たっぷりに微笑んで見せた。

 「あ、そうそう。これから私は所用で連邦大学の医学部に行くことになってるの。患者さんの1人や2人抜け出したって、探す暇なんてないのよね〜 だから、くれぐれも脱走なんてこと、考えないでね!! それじゃ」

 「え……!?」

 希は、それだけを言い置くと、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 「脱走なんてこと、考えないで……だって!?」

 それはつまり、その全く逆のことを言いたいわけだ。希は、病院を脱走でも何でもして、綾乃を引き止めろと言いたかったのだ。

 (10)

 希が出て行った後で、島は今の会話をもう一度ゆっくりと反芻した。

 自分のテレサへの思い、綾乃への気持ち、希の思い、そしてアドバイス…… その全てをもう一度自分の中で整理して、そしてようやく、島は本当の自分の気持ちにたどり着いた。

 (俺は彼女が好きだ。彼女を誰にも渡したくない! ならば俺が今しなければならないことは……!! あっ、今何時だ?)

 慌てて時計を見ると、9時20分を回ったところだ。希は、綾乃の列車は10時発だと言っていた。

 (ここからターミナルステーションまでは車でも30分はたっぷりかかる。今から行って間に合うかどうか…… だが……一か八か……!)

 島はもういても立ってもいられない気持ちになってベッドから飛び降りると、急いでロッカーを開けた。
 退院がまだ先なので、外へ着ていけるような着替えはまだ入っていない。ただ、外を散歩する時のために靴と上着だけが掛けてあった。

 (ええい、この際、格好なんて気にするもんか!)

 島は靴を履き上着をまとうと、部屋を飛び出した。といっても、部屋から出て廊下を走り出せばすぐに呼び止められてしまう。第一外科のナースステーションの前を通り過ぎるまでは、いつもの散歩に行くような振りをして、早足で歩き、エレベータで1階に到着するなり、出口に向かって走り出した。

 (11)

 病院のメイン玄関を飛び出したところで、島は、はたと立ち止まった。

 (しまった! 金、持っていないんだった……)

 入院患者の買い物は、全てノーキャッシュで後日清算することになっているこの病院では、患者は現金を持つ必要がない。そのために、島も病室に現金を一銭も置いていなかった。

 だが、さすがにここからステーションまで走っていくわけにはいかない。大体そんなことをしていたら間違いなく間に合わないだろう。
 そこまでエアトレインに乗るにしても、タクシーに乗るにしても、先立つものが必要だった。

 (全く俺としたことが、こんなことでぬかるなんて…… 金は後で払うからって、タクシーに頼み込むか……)

 目の前に止まっているタクシーを睨みながら思案していると、後ろから聞き覚えのある声がかかった。

 「よおっ、そこの兄さん! 俺の車に乗ってかないか」

 「古代っ!!」

 そこには目立つ赤い車の中から顔を出す古代進の姿があった。

 「遅っそいぞ〜! 待ちくたびれたぜ」

 眉をしかめながら文句を言う進の口元は、しかし笑っていた。島が出てくるのをここでずっと待っていたらしい。

 「お前、なんで……?」

 突然現れた進を呆然と見ていると、その空白をぶち破るように、進が再び大きな声で怒鳴った。

 「何呆けてるんだよ! いいから早く乗れ!」

 「あ、ああ……」

 島はやっと我に帰って自分の置かれている状況を思い出すと、慌てて進の車に乗り込んだ。島が乗ると同時に、進は車を発進させた。

 (11)

 助手席に座った島は、どうしてここにいるんだ?と問いたそうな進を見た。

 「古代?」

 「行き先はターミナルステーションでいいんだろ?」

 「あっ、ああ、頼む」

 とりあえずは目的の場所に向かって車が走り出したことで、島は少し安心してほっと背もたれにもたれかかった。その彼に、進は冷やかすように言った。

 「まったく、もうちょっと早く来いよ。今からじゃギリギリだぞ。もう来ないんじゃないかって冷や冷やしたぜ」

 「るせ〜な! だいたい、お前がどうしてここへ?」

 島がさっきの問いをもっと具体的に繰り返すと、進はさも当然と言った口調で答えた。

 「そりゃ、お前が出てくると思ったからに決まってんだろ」

 「どうしてそんなことがわかる?」

 「俺が昨日あれだけ釘をさしたんだ。となれば、今日、彼女を止めに行かないわけがない」

 進がちらりと島を見てニヤリと笑う。

 「そりゃどうも」

 島はちょっとふてくされて答えた。進がここでいてくれたことは、ひどくありがたかったが、その逆、彼に自分の行動を見抜かれて?しまったことが、なぜかやけに悔しい気になるのだ。

 「しっかし、お前も、人の時には散々せっつくくせに、自分のこととなったら……てんで動かねぇんだからなぁ」

 さらに島の気持ちに塩を塗るように突っ込みを入れる進は、今日はずいぶん優勢のようだ。

 「ほっとけ! 色々事情ってもんがあるんだよっ!」

 「ふんっ、どうだかねぇ〜 ああ、それより、お前そんな格好で駅に行くつもりか?」

 「あ? ああ、仕方ないだろ。部屋には着替えなかったんだ」

 「やっぱりな、後ろに着替えがあるから、着替えろよ。俺のだけどな」

 今日の進はいつもと違う。全く立場が逆になったような島は、なにやら歯がゆいのだが、どこかでだんだんと嬉しくなってきた。

 (こんな風に、仲間の奴らに突っ込まれたり助けられたりされる立場っていうのも、たまにはいいもんだな……)

 「あっ、すまん。お前にしては気が利くな」

 島は後部座席に置かれた紙の袋を取りながら礼を言うと、進は照れたように笑った。

 「はは……雪がね。きっとそうだろうから、持ってってやれってさ」

 「あはは…… なんだ、やっぱりお前がそんなことにまで気が回るわけねぇか」

 島が大きな声で笑う。いつもの進らしさを感じられたことと、雪もそうやって自分達のことを気遣ってくれていることが、ことのほか嬉しかった。

 「っるせぇ〜〜!! ほら、ぶっ飛ばすぞ! 遅れたら何にもならないからなぁ」

 「了解っ! 絶対間に合わせろよ!」

 「おうっ、任しとけって〜!」

 綾乃の列車が発車するまであと20分余り。島は狭い車内でなんとか着替えを済ませ、進の運転する赤いスポーツカーは、道路を縫うようにスピードを上げて走り続けた。

 そして10時5分前。進の宣言どおり、車は無事にターミナルステーションの中央ゲート前に到着した。

Chapter10終了

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