Departure〜彼らのスタートライン〜

1.生 還

Chapter11

 (1)

 少し時間が戻って、ちょうど進が島を車に乗せた頃、ターミナルステーションの3番ホーム―長野行きの特急が入線している―では、佐伯綾乃と森雪が話をしていた。

 「久しぶりなんだから、ゆっくりしてらっしゃいね」

 雪は列車の中で食べられるような袋詰めの菓子を綾乃に手渡した。綾乃は、それを笑顔で受け取ってから、その後で少し眉をしかめた。

 「ええ、ありがと…… でも、雪ったらわざわざ見送りなんて来ることないのに、大げさだわ。私、別にどっかに行くわけじゃないのよ、1週間したら帰ってくるんだから!」

 「わかってるわよ、でも、いいじゃない。ちょうど今日はお休みだったし、出かける用事もあったのよ。それに……」

 雪は、綾乃の渋い顔をじっと見つめた。

 「それに……ってなによ?」

 綾乃が、たじろきながら聞き返すと、雪はその美しい瞳をきらりと輝かせた。口元が少し上がる。

 「もう一度念を押しておかないとね」

 「念をって? あ、ああ……お見合いの話? だからちゃんと断ってくるって言ったでしょ!」

 一瞬考えた綾乃だったが、雪の顔付きからすぐに何のことか気が付いた。

 「でも綾乃のことだから、相手に気を遣ってはっきり断ってこれないかもしれないじゃなぁい?」

 「もう、雪ったらぁ〜」

 綾乃は、冗談をいなすような格好で手を振った後、いたずらっぽく笑った。

 「でも……ちょっとありえるかも」

 「えっ!?」

 その答えに、雪が真顔になった。それにあわせるように、綾乃の顔も少しばかりしんみりとなっていった。

 (2)

 「うふふ、冗談……って言いたいところだけど、ほんとはね、ちょっと迷ってるところもあるの」

 「綾乃……」

 心配顔になった雪を、綾乃が上目遣いで見た。それから視線を下に落とす。

 「だって、帰ってきて島さんに告白しても、きっぱりと否定される可能性だって高いじゃない? その時はすごく辛いなって思ったら、お見合いの相手の人には、その後まで待ってもらってもいいかなぁ、な〜んて甘い考えが浮かんできたりしてね」

 長い間島を愛し続けてきたとは言え、綾乃はごく普通の幸せを求める女性だ。もし、最愛の人が自分を愛してくれなかったらという不安は常に抱いている。その時に、無条件で自分を思ってくれる人にすがりたくなるのも当然である。
 二股……と言えば聞こえは悪いが、別に付き合っている相手ではないのだから、キープしておくくらいいいじゃないかと思うことを非難することは、雪にも出来ない。

 「綾乃…… わかるもの、その不安な気持ち……」

 雪は、綾乃に同情するように頷いて見せた。

 だが、綾乃にはわかっていた。もしそんな気持ちが少しでもあったのなら、もうずっと昔に島のことを諦めていただろうということを…… 自分が島大介と言う人間を、どんな人とも取り替え難いほど、深く深く愛してしまっていることを……

 それを思い出したかのように、綾乃は再び顔を上げてしっかりと雪を見て、大きな瞳をくるくると動かした。

 「あら? 雪ったら、そんな弱気じゃダメよって怒るのかと思ってたのに……」

 「綾乃ったら!! 茶化さないのっ」

 すぐにいつもの様子に戻った綾乃に安心しながら、雪は綾乃を小突いた。

 「ごめんなさい、でも、さっきのは一時の気の迷い、今は本当にそんな気持ち全然ないから心配しないで」

 「ええ、綾乃。その調子、その調子! もうっ、島君がもっと早くはっきりしないから悪いのよっ!!

 「えっ?」

 綾乃が、雪の言葉の後半が聞こえなくて聞き返すと、雪は適当に答えをごまかした。それから時計を確認する。

 「ううん、でも……列車の発車まであと10分もないわ……」

 進は島が病院を抜け出してくるはずだと自信満々だった。雪には綾乃が列車に乗ってしまわないように、ホームで足止めをするようにとだけ告げて、病院に迎えに行った。
 だが、今のこの時まで進から何の連絡も入らない。本当に彼が島を連れてこれるのか、さすがの雪も心配になってきた。

 「遅いなぁ…… 列車が出ちゃう! もうっ、古代君ったら、間に合わなかったらどうするのよっ!! 理由も言わずに、列車に乗せないようになんてできないんだからぁ!

 「雪っ! 何一人でぶつぶつ言ってるのよ!!」

 雪のひとり言を、綾乃が質した。けれど今はまだ来るかどうかわからない島の話はできない。

 「あっ、ううん、なんでも……」

 とごまかそうとしたその瞬間だった。雪のポシェットに入っていた携帯電話が短く鳴った。

 (3)

 すぐに切れたところを見るとメールね、と綾乃が思っていると、雪も同じように思ったらしく、

 「あら、メールだわ」

 と言うと、大急ぎで携帯を取り出し、メールの文面を読んだ。それは雪が期待したとおり進からのものだった。そしてこれまた期待したとおり、今、島が駅に着いて雪たちのいるホームに向かったという内容だった。

 「古代君……ああっ、よかったぁ〜!!」

 思わず雪の口から安堵の声がもれ、顔がぱぁ〜っと明るくなった。

 「どうしたの? 古代さんからのメール?」

 「ええっ!! うふっ、よかった」

 力強く頷き、そしてこれ以上ないほどに嬉しそうな笑顔を見せる雪の態度に、綾乃は呆れ顔になった。

 「やだ何よ、やけに嬉しそうに? あ〜〜っ! もしかしてこれから彼とデートなの?」

 綾乃の顔が詮索顔に変わる。雪と進のアツアツ具合は今更のことではないが、結婚が間近に決まり、最近はさらにその熱の度合いが高まっている。綾乃は、またかと思うと、すっかり当てられた気分になっていた。

 もちろん、今回ばかりはそうではない。アツアツになるのは、綾乃と島の予定なのだ。が、雪はまだそのことを綾乃に告げるつもりはない。島が来てから、綾乃を驚喜するところを見せてもらうつもりなのだから。
 だから雪は、誤解されたままなのを利用することにした。

 「え? ええ…… 実はそうなの。あ、そうだわ、そろそろ行かないと……」

 島が来たら、もう自分は用なしである。そんな雪の気持ちを、綾乃はまた誤認した。

 「もうっ、彼からのメールが来たとたん、これだもんなぁ。雪ったら浮き足立っちゃってぇ! あ〜あ、親友よりもやっぱりフィアンセってことだもんねぇ、これだから女友達って〜〜」

 「違うってば、綾乃っ!」

 赤くなって慌てて否定する雪を見ながら、綾乃が訳知り顔な笑みを浮かべた。

 「うふふ……それこそ冗談よ、遠慮なくどうぞ行ってくださいな。私は一人寂しく列車に乗りますから……」

 「あっ、ちょっと待って、綾乃! 今、島く……」

 誤解したまま列車に乗り込もうとする綾乃を、雪は慌てて止めようとした。
 その時、近づいてくる駆け足の足音ととももに、雪の声を掻き消すように、待望の彼の声がホームに響いた。

 「綾乃さんっ!!!」

 (4)

 大きな声に、雪と綾乃はもちろん、周囲の客達も一斉に、その声の方を振り向いた。その視線の先には、息を切らして肩から息を吐く島が真剣な眼差しで立っていた。

 「…………!? 島……さん?」

 安心したような落ち着いた笑顔の雪とは相対的に、綾乃はまるで何か夢か幻でも見ているかのように、ぽかんと口を開いたまま、じっと島を見つめるばかりだった。
 驚いた綾乃、息を切らした島、そのどちらも、声が出ないままでいる。その沈黙を破ったのは、雪の落ち着いた声だった。

 「ふうっ、なんとか間に合ったわね。じゃあ、私はこれで……」

 その声に、綾乃はやっと我に返って雪を見た。

 「えっ? 雪、ちょっと待ってよ。これ、どういうことなの??」

 それでも綾乃は、狐につままれたような顔をしている。なぜここに島がいるのか、全く理解できないのだ。そんな綾乃に、雪は柔らかな笑顔を向けて肩をポンと叩いてから、島のほうを見た。

 「いいから、いいから。後は島君に任せたわよ、じゃあ!」

 「はぁ、はぁ…… ああ、雪、あ、ありがとう……」

 懸命に息を整えようとして、それでもまだ肩を揺らしている島が礼を言うと、雪はとても嬉しそうな顔をしてこっくりと頷いた。

 「どういたしまして、じゃあ、後で……」

 「ああ……」

 ぽかんとしたままの綾乃を置き去りにしたまま、雪と島はそんな会話をした。それから雪はゆっくりと二人に背を向けてホームから立ち去っていった。

 残された二人が、じっと互いを見つめ合う。綾乃もやっと今の事態を把握し始めた。と、すぐに看護師魂が沸きあがってきて、島が今入院中であることを思い出した。
 肩を上下に揺らしている島に近寄ると、気遣わしげに彼の様子を見た。

 「島さん? どうしたの? まだ退院してないはずなのに……」

 「はぁ、はぁ…… 僕は……君に…… はぁ、言いたいことがあって……」

 島は話そうとするが、久しぶりに走ったこともあって、なかなか息が整わない。ごくりとツバを飲み込んでは、言葉を繋いだ。

 「大丈夫?島さん? まだ体が十分に治ってないのに、こんなに走ったりして」

 綾乃はさらに島に近づいて、揺れている両腕にそっと両手を添えた。なぜ彼がここにいるのか、ということよりも、体のほうが心配になる。彼の呼吸がまだまだ戻らないようなら、横にした方がいいかもしれない……そんなことが、綾乃の頭によぎった。

 しかし、島にとっては、今は体のことなど何の問題でもなかった。今告げるべきことを、この場で彼女に伝えること、それだけが彼にとって必要な問題なのだ。

 島は、添えられた手を振り払うように腕を上げると、逆に綾乃の両腕をガッチリと強く握り締めた。

 「大丈夫だよ。それより、綾乃さんっ!!」

 島が、これ以上ないほど真剣な眼差しで綾乃の顔を見た。

 彼はなにかとても大切なことを伝えようとしている…… それが何なのかはわからないけれど、その真摯な気持ちは、綾乃にも痛いほど伝わってきた。
 看護師としての綾乃が消えて、島を愛する一人の女性としての綾乃が前面に現れてくる。

 「は、はいっ……?」

 綾乃は、島の勢いに気圧されるように、やっと返事をした。それに対して、島は再度息をごくりと飲み込み、大きく深呼吸した後に、厳粛な声でこう言った。

 「行くな……」

 (5)

 「え?」

 綾乃は突然の島の言葉が理解できなかった。どこへ行くなというのか? 島のあまりにもの真剣な眼差しに、まさか何かまた地球に大変なことでも起こったのかという、よからぬことまで思い浮かんでしまった。

 (まさか地球に何か異変が!? ううん、そんなことないわ。だって、雪はさっきのんびりした顔で帰って行ったし……)

 綾乃は心の中で自問自答した。この時の彼女の心には、まだ戸惑いしかなかった。
 すると、島がさらに強い口調で訴えた。

 「田舎になんか行くな!」

 事の真相が見えない綾乃とは裏腹に、島の心に今あるのは、彼女を引き止めることだけだ。

 「あの……?」

 その島の思いが、綾乃にも少しずつ伝わってくる。まだ島の言葉の意味はわからなかったが、島に痛いほど強く握り締められた腕が、彼が強い意志で自分に訴えようとしていることがよくわかった。

 「どうして、行っちゃいけないの? 私……島さんの言ってることが、よく……」

 わからないの…… そう言葉を続けようとした綾乃を、島はそれ以上しゃべらせなかった。綾乃の声にかぶさるように言った。

 「君にどこへも行って欲しくないんだ。俺のそばから……いなくなって欲しくない!」

 その声は、切なくも強く懇願するように、喉の置くから絞り出すような声だった。

 「!!!!」

 突然、綾乃は全身を雷で打たれたほどの衝撃を受けた。

 (もしかして、これって……? ああ…… でも、まさか、そんなこと…… 私、夢の中にいるの?)

 これは島からの求愛だと、綾乃の心の中の冷静な部分が初めて認識した。と同時に、すぐにその結論に到達できないでいる彼女もいた。

 島にはずっと長い間苦しくて切ない片思いを続けてきた。いつか彼が自分を振り返ってくれるかもしれないという淡い期待もあった。だが今までは、それはいつも儚(はかな)い夢でしかなかった。
 それが今、夢ではなく現実に目の前で起こっている……?

 けれど、綾乃の心の一部がそれを素直に認められないでいた。なぜなら、極上の幸せに手を伸ばしたとたん、夢が覚めて何もかも消えてしまいそうなそんな気がして恐かったのだ。

 「え?えっ!?……あの、それって……?」

 綾乃の視線が、島にすがるように問いかける。もう一度確かめたい。そしてこれが夢でないことをしっかりと確認したい。綾乃のその思いが、彼女の瞳にこもった。

 島は、その瞳の中に自分への愛を強く感じ取った。そして今、ずっと心の奥底で温めていた自分の気持ちを、初めて口にすることができた。

 「君が……好きだ……」

 この言葉を口にしながら、島は心の中がすうっと軽くなっていくのを感じていた。

 (そうだ、俺は彼女が好きなんだ。ずっとずっと前から、好きだったんだ…… それを自分で認めたくなくて…… ああ、やっと……素直になれた……)

 ずっと前から当たり前だった事実を、自分がやっと認めたそんな瞬間だった。

 (6)

 思いを告げたことで、島の心が落ち着き始めたのとは逆に、綾乃の心は怒涛の嵐に襲われ始めた。

 「あ………………!?」

 口を開いて「あ」と出した後は、言葉が続かない。一瞬、自分の耳を疑う。今聞いた言葉が、ただの自分の妄想のような気さえしてくる。だがもう一方で、大きな期待に胸が目一杯に膨らんだ。

 (え?うそ!? ほんと……!? 島さんは今なんて? 私のこと……好きって言った? まさか、ほんと、うそ……でもっ!?)

 ドッキン、ドッキン、ドッキン……
 綾乃の心臓が激しく鼓動を始めた。それは時が経つに連れてどんどん大きくなり、心臓が体を破って飛び出してきてしまうのではないかと思うほどの大きな鼓動となった。

 その綾乃の不安と期待が半分ずつ織り交じった気持ちを、一気に100%の喜びに変えるかのように、島は、もう一度その言葉を繰り返した。

 「君が好きだ……」

 「ああっ……」

 その瞬間、綾乃の大きく見開かれた瞳から、一気に涙が溢れ出した。心の中では、島の言葉が何度もリフレインされ、さらにそれが増幅されて、大きな流れになって体中を駆け巡っていく。驚きと喜びで、体が勝手に飛び跳ねてしまいそうな感じさえしてくる。

 「綾乃さん……」

 涙を隠すように両手で自分の顔を覆った綾乃を、島はとてつもなく優しい瞳で見つめた。それから、腕を掴んでいた手を緩めて、そっと彼女の背中に回した。

 ゆっくりとそして軽く抱きしめる。それでも彼女が小刻みに震えているのが、島にはよくわかった。

 「君を誰にも……渡したくないんだ……」

 「島……さん……」

 綾乃がまだ涙いっぱいに潤んだ瞳で見上げると、島は優しく微笑んだ。

 「君の気持ちは……?」

 「夢……みたい…… 嬉しい……」

 そう答えながら、綾乃の頬がほんのりと染まり、柔らかな笑顔が浮かぶ。

 (綺麗だ……)

 島は、その笑顔が何物にも変えがたく美しいと思った。

 「ほんとに?」

 島がそう聞き返すと、綾乃も同じ言葉で尋ね返してきた。

 「ほんとに?」

 島がくすっと笑ってから、彼女の問いに答えるべくしっかりと頷いた。すると、綾乃は再び「ああ……」と小さく声を上げて目を閉じ、それからまたすぐに開けた。
 涙がほんのりと紅潮した白い頬を伝って零れ落ちる。それから綾乃は、すうっと息を吸って吐いて、島を見上げた。

 「私も……島さんのこと、好きです……」

 綾乃は、ぎこちない笑みを浮かべながら、けれどしっかりした口調でそう答えた。島も安心したように、ふうっと大きく息を吐いた。

 「はぁ、よかった……」

 「はい……」

 島の笑顔に包まれ、しみじみとした雰囲気が流れ始める。それにつれて、綾乃の笑みのぎこちなさが取れて、いつものような自然なものになっていった。
 彼女の一番の魅力的な笑顔が、島の目の前に現れ、その微笑に、島は目を細めた。

 (ああ、そうだ。そうだった…… 俺は、この笑顔に今までずっと救われてきたんだ……)

 心の中が温かく溶けていくなんともいえない心地よい感覚を、今更ながらに島は感じていた。そしてそれを、自分自身が素直に認められたことが、ひどく誇らしくなった。

 ターミナル駅のホーム、大勢の人がごった返す喧騒の中に立っていても、今の二人には、その全てが聞こえないし見えなかった。

 たった今、二人の心が完全に一つに繋がった。

 (7)

 しばらくして――それほどの時間がたったわけではなかったが――島は、抱きしめていた手を緩めた。それから、周りに人が歩いていることに、今更ながら気がついたと見えて、照れたように一歩足を引いた。

 「あっ、ごめん、こんなところで……」

 「えっ? あ、ああ……いえ……」

 綾乃も自分の今ある場所に気付いて頬を染めた。それから二人で顔を見合わせて、クスリと笑った。
 それから島は、こほんと小さく咳払いをしてから、再び真面目な表情に戻って、綾乃に言った。

 「じゃあ、もう行かないな? 見合いも結婚もなしだよな?」

 その問いに、不思議そうな顔をしたのは、言うまでもなく綾乃である。

 「見合いも結婚もなしって?」

 そのとぼけた風な受け答えに、さっきまでの会話は何の意味もなかったのかと、島に少しばかりの焦りが走った。

 「君は、今日実家に帰って……するつもりだったんだろ? その……見合いして結婚を……」

 「え?」

 言葉を選びながら真剣に訴える島とは裏腹に、綾乃の瞳は怪訝そうに見開かれたままである。さらに島は言葉を加えた。

 「君が病院を辞めて、田舎に帰って見合いして結婚するつもりなんだって! だから俺は……」

 島は再び真剣な眼差しで綾乃の肩に手をやった。
 その時初めて、綾乃は島がとても大きな誤解をしていることに気がついた。今度は綾乃のほうが焦り始めた。

 (島さんが、どうして見合いの話、知ってるの? それもずいぶん大げさになってない!?)

 「えっ!? ちょっ、ちょっと待って!」

 「違うのか?」

 (8)

 慌て始めた綾乃とは逆に、今度は島の頭の中に疑問符が浮かび始めた。綾乃は事の成り行きを整理するように、ゆっくりと話し始めた。

 「ちょっと待ってね、私は確かに実家には帰るわ、でもそれはごく普通の休暇でよ」

 「じゃ、見合いってのは?」

 間髪入れずに尋ねる島に、綾乃は頷きながら小声で答えた。

 「それは……話はあるのは事実だけど……」

 「やっぱり!」

 島の合点いったような受け答えに、慌てて綾乃は半ば叫ぶように、言葉を付け加えた。

 「でもっ……断るつもりだったわ、もちろん結婚なんて……!」

 「へっ?」

 綾乃の返事に、島は思い切り間の抜けた声を出した。そして俄かに信じられないといった風の唖然とした顔になった。

 「本当よ! 相手の人、ご近所の人で昔から知ってる人なの。だから、会ってきちんと断ろうって、そう思ってたの」

 「けど、古代や雪が……」

 まだ信じられぬ思いで島が尋ねると、綾乃は困ったように首をかしげた。

 「雪達が……? 変ね、見合いなんて断れってうるさかったのは、雪のほうだったのに」

 このあたりから、島の心の中に、何やらもやもやとしたものが現れ始めた。

 「それじゃあ、君が病院を辞めるってのも?」

 島は、自分が得た情報が違っているらしいということを認識し始めながらも、もう一度確認するように尋ねた。

 「やだわ、そんな話、誰に聞いたの!? 私そんなこと誰にも言った覚えないわ。もちろん辞表なんて出してないし……」

 綾乃の口調はとても嘘をついているようには思えなかった。と同時に、島が抱いていた綾乃の深い決意を秘めた故郷への旅の姿が、ガラガラと崩れて行く。

 「そんな…… けど、古代も間宮先生も……」

 とここまでつぶやいて、島の体に衝撃が走った。そしてその脳裏に突然、ニッコリ笑ってブイサインを決める古代進の姿と、その後ろで楽しそうに笑っている雪や間宮医師の姿が、忽然と浮かび上がってきたのだった。

 「あ〜〜〜〜っ!!!」

 (9)

 突然出した島の突飛な大声に、綾乃はもちろん、周囲を歩く人たちもぎょっとして、一瞬足を止めた。

 「ど、どうしたの?」

 恐る恐る尋ねる綾乃の前で、島はがっくりと肩を落としている。そしてポツリとこうつぶやいたのだった。

 「騙された……」

 「えっ?」

 綾乃には、島の言葉の意味がわからなかった。戸惑っている綾乃の前で、島はこの度は手のひらをぎゅっと握って、握りこぶしを自分の顔の前に突き上げた。

 「あんのやろぉ〜〜〜!!!!!」

 と思えば、今度はがっくりと肩を落として大きくため息をついた。

 「はぁ〜 まんまとやられちまった……」

 「何が、いったい?」

 島の不可解な態度に、初めは目を白黒させていた綾乃だったが、ふとさっきまで雪がいたことを思い出すと、後は島と同様、そのからくりが一気に読めてきた。

 「えっ? あっ、あ〜〜っ! じゃあ、もしかして雪がここに来たのも?」

 島が苦笑しながらこっくりと頷いた。

 「ああ、君をホームに引き止めておくためだったんだ」

 「やだ……もうっ」

 綾乃は突然真っ赤になって、その赤い頬に両手を当てた。進や雪たちが、自分の曖昧な言動を、さも大げさに島に伝えたことを想像すると、ひどく恥ずかして、頭の中も混乱してきて、どう対応していいかわからなくなった。

 (10)

 とその時だった、プルプルプル……と心地よい響きが流れ始め、マイクからまもなく列車が発車するとのアナウンスが流れた。

 その音に先に反応したのは、島の方だった。

 「あっ、列車が出る。乗ってくれ。退院したら電話するよ、帰ってきたらゆっくり話をしよう」

 島の表情は、さっきのしてやられて悔しそうだった顔付きから、いつもどおりの優しいものに戻っていた。それが逆に綾乃を不安にさせた。

 「ええ、でも……」

 (もしかして、騙されてたから、さっきの話はなかったってことになるの?)

 だが、その不安を払拭するように、島が笑った。

 「ははは…… 久しぶりに実家に帰るんだろ? ご両親も待ってるぞ」

 「ええ……」

 それでも綾乃はまだ不安を除ききれずにいた。それが顔に出ていたのだろう。島は、綾乃をじっと見つめてはっきりとこう言ったのだった。

 「さっき言ったことは、全部俺の本当の気持ちだから」

 「あっ……はい」

 綾乃の顔に満面の笑みがこぼれる。それをしっかりと受け止めるように、島もこっくりと頷いた。それから、綾乃の顔をまじまじと見つめながら、笑い混じりの顔で言った。

 「見合い……ちゃん断ってこいよ」

 「はい……」

 綾乃が頷くと、島はホームにおいたままになっていた綾乃のボストンバッグを持ち上げ、綾乃に手渡した。それから乗車口から車内へ入るようにと、綾乃を促した。
 綾乃は乗車口に一歩足を乗せて、何か思い出したように振り返った。

 「あ、でも島さん、体、大丈夫? 一人で帰れなかったら……」

 「ああ、心配ない。それに……たぶん、出口であいつら待ってるだろうし……」

 島がニヤリと笑った。

 「ああっ、そっか。うふふ……」

 綾乃は安心して笑うと、列車に乗り込んだ。乗車口に立つ綾乃に、島が見送りの言葉をかけた。

 「予定通り退院する。来週、君が帰ってくるときは、またここに迎えに来るから」

 頷く綾乃の前で、列車のドアが閉まった。軽く手を振る島に、車内の綾乃も名残惜しそうに微笑みながら、手を振った。

 (11)

 列車が出て行ってしまうと、島はホッと一つため息をついて、ホームを歩き出した。

 まんまと騙されてしまった自分が滑稽で、だがなぜだかそんな自分がとても愛しかった。悔しくもあるのに、嬉しくもある。

 (まったく俺としたことが、奴にまんまとしてやられるとはな……)

 そんなことを考えつつも、一人顔が緩んでしまう。今は素直になれた自分を褒めてやってもいい……そんな気持ちになりながら、島は駅の出口に向かう階段を降りようとした。
 と、その階段の数段下に、自分を見上げながらニコニコと笑っている男女を発見した。

 もちろん、それは古代進と森雪だった。島が、「あっ」と言うように口を開くと、進と雪はさらに嬉しそうに顔をほころばせた。

 「よっ、ご両人!」

 にやけた進の顔から、そんな言葉が漏れる。

 「なんだよ、やっぱり見てたのか?」

 島はちろっと進を睨みながら、立ち止まらずに二人の横をすり抜けるように、階段を降り始めた。
 進と雪も通り過ぎた島の後に続き、まず進の方が一歩前にでて、島の隣に並んだ。それから肩を組むように、軽く島の背に腕を乗せた。

 「そりゃ、まぁな。ここまで持ってきたんだから、最後の成り行きを確認しなくちゃならないからなぁ〜」

 進が得意げに答えると、

 「うふふ、当然のことですわ!」

 と今度は、雪が反対側の隣まで追いついて、綺麗な笑顔を見せた。

 「ったく、お前らときたら……」

 「それで綾乃、乗って行っちゃったけど、ちゃんと話をしたんでしょうね?」

 さすがに全ての会話が聞こえるほど近くでいたわけでないらしい。事の次第がどうなったのか詳しく述べよ!と、雪の目が強く訴えている。
 島は苦笑しながらも、綾乃に自分の想いを伝えたこと、綾乃は見合いをきちんと断ってくると約束したこと、そして来週の綾乃の帰京の時には、自分が迎えに来ると約束したことなどを話して聞かせた。
 そして最後に、満足そうに話に聞き入っていた二人に対して、大いにため息をついて見せた。

 「はぁ〜 全く、お節介な奴らだよ!」

 島は、こりゃ、完全にいつもと立場が逆転しているな、と思いながら…… すると、進と雪が同時に言い返してきた。

 「あ〜〜〜 お前が言うかぁ!?」

 「いろいろお世話になったお礼だと思って欲しいわ、うふふ……」

 「ったく……」

 二人の言い分に、島は一瞬苦虫をつぶしたような顔になったが、すぐにふっと相好を崩した。それから、しみじみとした口調で、こう言った。

 「ありがとう……」

 (12)

 「島……」

 あまりにも素直に礼を言う島に、進は恐縮気味に島の肩に乗せていた腕を引いた。島の感謝の言葉が、進の胸にしみてくる。
 それから島は、雪の方を見て話を続けた。

 「雪も、ありがとう。たぶん……こうでもしてもらわなかったら、俺は、未だに踏ん切りついてなかったと思う…… きっと、また綾乃さんに辛い思いさせ続けてたと思う……よ」

 「島君……」

 安心したように微笑む雪に、島も柔らかな笑みを返した。

 「だよなぁ〜 全くお前ときたら、人のことの時は早く気持ちを伝えろの、とっとと済ましちまえだのって、好き勝手言ってたくせに、自分のときになったら、このザマだもんなぁ〜」

 「っるせぇ〜!……っていいたいところだが、今回ばっかりはその通りだよっ!」

 今日しかチャンスはないとばかりに、からかい文句を繰り返す進の挑発にも、島は否定して怒るどころか、そのまま潔く受け入れてしまった。

 「なんか、やけに素直だな」

 と逆に面白くなさそうな進に、

 「お前みたいに往生際が悪くねぇんだよ!」

 と島が一言。今度は逆に進が眉を吊り上げた。

 「ぬわんだとぉ!」

 「わははは……」 「うふふふ……」

 結局最後の締めは、いつも通りになってしまった3人であった。

 (13)

 そうこうしているうちに駅の駐車場に到着し、3人は駐車してあった進の車に乗り込んだ。

 「さあ、早く病院に戻りましょ。また脱走なんかして、間宮先生に叱られるわよ!」

 助手席に座った雪が、後部座席の島を振り返って笑うと、島はギロリと睨み返す。だが口元は完全に笑っていた。

 「よく言うぜ、先生も巻き込んでそそのかしたくせに!」

 「あっははは……あれが最後の決め手だったからな! 先生にも礼言っとけよ」

 前を向いて運転したまま、大笑いする進につられて、雪も一緒に笑った。すると島は、急に気がついたように、こんなことを言い出した。

 「わかったよ! けどなぁ、雪。古代ってさ、俺よりずいぶん足短いんだな」

 「なっ!?」 「え?」

 「ほら見ろ! このGパンこんなに短いんだぞ〜!」

 島が足を軽く上げて見せる。雪が大きく振り返って見て「あら、ほんと!」と頷いた。確かにGパンのすそは、履いた靴下のはるか上にあった。島と進の身長差からすれば――島は進より若干背が高い――仕方のないことであることは、この際、棚に上げられている。さっきの進の策略への、島の僅かな仕返しだった。

 「貴様ぁ〜〜〜! 人のズボンを借りといて何ぬかしやがる!!」

 「あっははは……」 「うふふふ……」

 怒りながらも、運転手である進が何も手を出せないのをいいことに、島と雪は大いに笑ったのだった。

 こうして、古代進の運転する車は、病院脱走犯?島大介を乗せて、連邦中央病院へと戻っていった。

 午後、島の脱走の報告を看護師から伝えられた担当医の間宮医師は、「あら、ごめんなさい。私が外出許可出したの言い忘れてたわね」と、とても申し訳なさそうには見えない笑顔で答えたという。
 そしてその夜、雪の携帯電話に、綾乃から踊らんばかりの明るい声の電話がかかってきた。話の内容はもちろん、二人の行為への礼と、同時に、大げさにして『くれた』ことへの、ほんの少しの苦情とを……


 翌週の金曜日――すでに12月に入っていた――に、瀕死の重傷を負って帰還した島大介は、退院した。先週決めた予定通りであり、入院当初の予想よりはずいぶん早くの退院だった。
 その日は、冬の到来を感じさせる薄曇りの寒い日だったが、島の心は温かく晴れ渡っていた。

 ヤマトがアクエリアスに沈んでから2ヶ月余りの時が過ぎ、ヤマト最期の戦いで負傷し入院した者の中で、彼が最後の退院者となった。

Chaputer11 終了

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