Departure〜彼らのスタートライン〜

1.生 還

Chapter12

 (1)

 12月の金曜日が来た。退院の身支度を整えた島は、まもなくやってくる両親の出迎えを待っていた。

 その時ドアが開いて、島の担当医だった間宮希が入ってきた。髪をまとめてUPにして、いかにも優秀な女医らしい姿であったが、その華やかな美しさは隠せない。

 「退院おめでとう、もう準備万端ね」

 「はい。色々ありがとうございました」

 と通り一遍の礼を言ってから、島は言葉を続けた。眼が笑っている。

 「何と言っても先生には何から何まで!お世話になりましたから……」

 島の意味深な言葉に、希はくすりと笑って肩をすくめた。

 「やけに変なところ強調するわね」

 「いえ、本当に感謝しているんですよ」

 綾乃のことでは、最後の最後に島の行動を押し動かした張本人が希だ。操られたようで、少々悔しい気持ちはないこともないが、それ以上にありがたい気持ちもある。

 「それはどうも。ふふふ…… でもよかったわ、これであなたも過去の想いから一つ前に進めたわけよね?」

 希の瞳が優しく揺らいだ。島もこっくりと頷く。

 「……そうありたいと思ってますよ。だけど……僕の中では彼女は永遠に消え去りはしないことも……事実ですけれど……」

 島の瞳の奥の悲しみがちらりと漏れると、希も労(いたわ)しそうに見た。

 「…………」

 「先生ならわかってもらえますよね?」

 島はまじめな顔で希に尋ねた。すると希は小さくため息をついてから、哀しそうな笑みを浮かべた。

 「……そうね。その気持ちと新しい愛とをどう折り合いつけるのか、そして相手がどう受け止めてくれるのか、とても不安になる気持ち、よくわかるわ」

 希には、自身その折り合いをうまく付けられなくて、新しい愛を失った苦い経験がある。

 「自分の中で、あの人のことはやはり永遠に消し去れない。これは紛れもない事実なんです。だから……」

 「そうね、でも彼女ならきっと…… ずっとあなたを見つめてきた人ですもの、きっと」

 わかってくれるはずよ。希の顔は言外でそう伝えていた。

 「はい……」

 しんみりとした空気が流れたあと、島が短く言葉を足した。

 「先生も……」

 「え?」

 島の言葉に、希は一瞬首をかしげた。すると島はニヤリと笑って、少しばかりの仕返しとばかりこう言ったのだ。

 「新しい愛に、早く気付いてやってください」

 希はその意味が何を示しているのか、すぐにわかったようだが、わざとわからない振りをしてくすりと笑った。

 「なんのことかしらね? ふふふ……」

 それから、真顔になって医師としての最後の指導をした。

 「退院しても、ひと月は基本的には自宅療養ですからね。誰かさんたちの結婚式の準備で忙しいかもしれないけれど、あまり無理しないこと。そうでないと、また入院させますからね」

 「はいっ、了解しました」

 おどけた調子で島が敬礼すると、希は笑いながら「それじゃあ、お大事に」という言葉を残して、部屋から出て行った。

 しばらくして迎えに来た家族と一緒に、島は無事に退院していった。

 (2)

 そして翌日の午後、島は帰省先から帰ってくる綾乃を迎えに行くために、駅に出かける準備をしていた。

 身支度を整えた彼は、自分の机の引き出しから、手のひらに乗るくらいの小さな楕円形のカプセルを取り出して、じっと見つめた。それから、ふうっと大きく息を吐いて、それをズボンのポケットに押し込んだ。
 一瞬しかめっ面になったが、すぐにその表情は消え、島はそのまま自分の部屋を出た。

 リビングに出ると母がいて、明るい声で声をかけてきた。

 「大介、あなたまだ自宅療養の身なんですから、無理しないでね」

 「わかってますよ!」

 島は、しばらくは母の監視がうるさそうだな、と思いながら返事をした。

 「今晩は皆さんがあなたの退院祝いに来てくださるのよね? お母さん、ご馳走作って待ってるからね、もちろん綾乃さんも来れるんでしょ?」

 今日は、進や雪を始め、ヤマトの仲間達がやってきて、島の退院祝いの会をすることになっている。久しぶりの嬉しいイベントに、母も嬉しそうだ。

 「ああ、彼女にも昨日伝えたら大丈夫だって言ってた」

 「そうよかった。でもお母さん、本当に嬉しいかったわ〜 あなたが綾乃さんと付き合うことになって……」

 昨日退院した夜、島は両親に綾乃と付き合うことになったことを伝えた。もちろん、綾乃が大のお気に入りの両親は大喜びだった。

 「そりゃ、どうも……」

 母の至極嬉しそうな顔付きに、なんて答えていいかわからずに、島は苦笑気味に頷いた。すると母親は、急にしんみりとした顔つきに変わった。

 「だって、心配だったのよ」

 「……?」

 「3年前のあの戦いの後、あなたはどこか変わってしまって…… ずっと何か重苦しいものを抱えているような……苦しそうな…… いつになったら元のあなたに戻ってくれるのかって、ずっと心配していたのよ」

 テレサとの悲しい別れの後、島はしばらくは笑えない時を過ごしていた。両親は何も言わなかったが、それとなく進たちから事情を聞いて知っていた。我が息子の悲しみを、両親なりに理解し心配していたのだ。

 「でも、いつ頃からだったかしら? 綾乃さんと話をしているなたの姿を見て、とっても穏やかな笑顔を見せてるのに気付いたのよ。ああ、大介もこれでまた元気になれるって思ってたわ」

 島がふっと顔を上げる。そんなところまで見ていたのかと思うと、なにやらこそばゆい気もしてくる。

 「それなのに、あなたと綾乃さんが付き合ってるって話は全然出てこないし…… お母さんもお父さんも、ずっと待ってたのよ!」

 「はは…… それじゃあ、今回ご希望に添えて嬉しいよ」

 冗談ぽく答える息子を、母は嬉しそうな顔で睨んだ。

 「もうっ、茶化さないで! でも、これで一安心。次郎も大喜びなんだから! 綾乃お姉ちゃんが本当のお姉ちゃんになってくれるって……」

 「えっ、お姉ちゃんって……!?」

 「うふふ、私たちも早くおじいちゃんとおばあちゃんになりたいしね!」

 早くも飛躍しまくっている母の夢に、さすがに島も焦ってしまった。

 「ちょ、ちょっと待ってくれよ! それはいくらなんでも早すぎる!!」

 「ほほほ…… 冗談よ。とにかく、気をつけて行ってらっしゃい」

 「ああ、行ってきます」

 島以上に上機嫌の母に見送られ、彼は家を出た。

 (3)

 それから島は、駐車場で自分の車に乗ると、まっすぐにターミナルステーションに向かった。時計を見ると、時間はまだ十分余裕があった。

 (あの日以来だな……)

 綾乃に会えると思うと、島の心は浮き立った。久しぶりに車を運転しながら、1週間前の出来事を思い出して、一人苦笑いした。今思い出しても、気恥ずかしいようなこそばゆいような、それでいてとても嬉しい出来事だった。

 あの日以来、病院の島と実家に帰った綾乃は、毎日のように電話で話をした。綾乃の久しぶりの実家での生活を聞いたり、見合いの話をきちんと断ってきた話に頷いたり……
 ほとんどが他愛もない話だったけれど、それが島の心にいつもぬくもりを与えてくれていた。

 (彼女と話しているのは、いつも楽しい。気持ちが安らぐんだ。これからもずっとそんな気持ちになれたら、本当にいいのに。
 そのためにも、今日は彼女に確認しなければならないことが、一つある……)

 島は緩む口をきゅっと結んで、今までのウキウキした自分の気持ちを引き締めた。それから、左手をズボンのポケットの上にそっと乗せ、その膨らみを包み込むようになぜた。

 (テレサ……)

 今はもう、ほとんど口にすることのなくなった、かつて愛した女性(ひと)の名を、心の中で呼んだ。
 しばらくぶりに、心の中に鈍い痛みが走る。今も心の深いところに残る忘れられない想いが、その痛みの根源となっている。

 (俺の気持ちを、彼女はわかってくれるだろうか? いや、きっとわかってくれる…… わかってもらいたい……!)

 島は、ズボンのポケットの膨らみを祈るようにぎゅっと握り締めてから、手を離して再び運転に集中した。

 島がホームに着いてしばらくして、予定通り長野初の特急列車が到着した。ドアが開くと同時に、大きなボストンバックを手にした綾乃が降りてきた。
 島の姿を探しているのだろう。降りるなりきょろきょろしていたが、島が軽く手を上げて綾乃に合図すると、すぐにそれに気付いたようだった。

 「島さん!」

 それから真っ直ぐに島に向かって、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。

 (4)

 綾乃に答えるように、島は笑顔で軽く手を上げた。

 「おかえり……」

 島の目の前まで駆け寄ってきた綾乃は、立ち止まると島を見上げた。

 (目の前に島さんがいる…… 本当に……!)

 愛する彼がほんの目と鼻の先で、自分を真っ直ぐに見つめてくれていると思った瞬間、綾乃は急に恥ずかしくなって、ぽっと頬を赤く染めるとうつむいてしまった。

 「どうかしたのか?」

 と問う島の顔を再び見上げて、綾乃はまだ少々恥らいがちに首を左右に振った。

 「う、ううん……なんでもないわ」

 それから、彼女らしいいつもの笑顔を見せた。
 ころころと表情のよく変わる綾乃の姿は、いつ見ても微笑ましかった。

 (照れてるのか? はは…… まったくかわいらしいもんだな)

 元々童顔気味のところがあるのだが、島には同じ年の綾乃が、数才年下のような気持ちになる。自然と島の顔にも笑みが溢れた。

 「持つよ」

 島は綾乃が持っていたボストンバックを手に取った。

 「あっ、ありがとう……」

 手渡す瞬間に、ほんの少し手と手が触れ合って、綾乃の胸の鼓動が大きくドキンと音をたてた。だが、島はそんなことにはまったく頓着しないように、大きなボストンを軽々と手に持って、「行こうか」と言って歩き始めた。

 島の後ろを、綾乃が慌てて追いかけ歩き始める。半歩ばかり後ろを歩きながら、横目でちらりと愛する人の姿をこっそりと見た。

 自分の隣を歩く男性は、長い間片思いをしてきて、ほんの1週間前の出来事を期に、自分の彼氏になったのだ。
 そう思うと、ものすごく嬉しくて、それでいて、ものすごく恥ずかしくて、ものすごく……ドキドキしてくる。

 (本当に、島さんが私の彼? 今でも信じられない気分。もう一度本人に会うまでは、どっかで夢かもしれないって思っていたけど……)

 綾乃は今、自分に訪れた奇跡のような幸せをしっかりと噛み締めていた。

 (5)

 ホームからコンコースに降りると、島が振り返って言葉をかけた。

 「疲れただろう? どっかカフェにでも入って休むかい?」

 「ううん、そうでもないわ。それに列車の中でコーヒー飲んできたところだし……」

 「そうか……」

 (なら、このままドライブにでも行くかな…… どこか二人でゆっくり話せるところに行きたいな)

 島には、これから付き合っていく上で、綾乃にきちんと話しておきたいことがあった。それを話せる場所はどこがいいだろうかと、行き先の思案をし始めた。
 が、綾乃はその島の思案顔を、自分がカフェへの誘いを断ったことへの不快感だと受けとってしまった。

 (やだ、私ったら、島さんがせっかく誘ってくれたのに、バカバカ!!)

 「あっ、で、でもっ! 島さんが行きたいのなら、私も…… ううん! 私もカフェ行きたくなってきたみたい」

 「え……?」

 島はきょとんとした顔で彼女の顔をまじまじと見た。見つめられた綾乃は、さらに焦ってしまって……

 「あっ、あの……だから」

 島は、その様子を目をぱちくりさせながら見ていたが、最後にぷっと吹き出してしまった。綾乃はなにやらとても緊張しているらしい。
 だが綾乃のほうは、笑われてしまったことで、さらに焦りの色を濃くした。

 「ごめんなさいっ!!」

 そして島といえば、綾乃が焦れば焦るほど、それがかえってかわいらしく思えてきてしまう。

 (まったく綾乃さんらしないな。今までどおりでいいのに、俺に気を使って…… かわいらしいっていうか、なんていうか…… まったく、病院で仕事をしてるあの厳しい看護師さんと同じとは、全然想像つかないよな)

 島は今の綾乃が見せるごく普通の女の子らしい仕草が、とても好ましく思えた。

 「綾乃さん、なに緊張してるんだい?」

 「ベ、別に緊張なんて……」

 と答えつつ、なにやらギクシャクと歩く綾乃。その姿を見ると、島はさらにからかいたくなった。

 「あのさ、わかってる?」

 「え?」

 「手と足が一緒に出てるけど……」

 「あっ!? えっ? きゃっ、やだ……」

 「ははは……」

 島の高笑いがコンコースに響く。それから島は手を伸ばして、綾乃の手をそっと握り締めた。

 (まったく彼女といると飽きないな。心が温まる。幸せな気分になれる……)

 島は綾乃への自分の気持ちに素直になれたことを、改めて本当によかったと思った。自分の居場所を見つけたような、そんな気持ちになっていた。

 ご機嫌な様子で出口に向って歩き始めた島と、うつむき加減で手を引かれて歩く綾乃。
 もちろん、ドジを働いた上に初めて手を握り締められた綾乃の顔は、恥ずかしさと嬉しさで、りんごの如く真っ赤になっていた。

 (6)

 綾乃は島に握り締められた自分の手を見つめた。繋いだ手から、島のぬくもりが伝わってくる。綾乃はその幸せに、まるで雲の上でも歩いているような気分になっていた。

 (ああ、どうしようっ…… 嬉しいけど恥ずかしくって…… 握り締められた手から心臓が飛び出していきそうなくらいドキドキしてる!)

 そのドキドキが島に伝わっているのではないかと心配しながらも、それは止まらない。少し歩いて、最初手を握られた時からは、幾分落ち着いてきたものの、それでもまだドキドキは収まらない。

 何か話をして紛らそうと思うのだが、こういうときに限って何を話していいのか思いつかない。だから綾乃は、ただひたすら島の手に引かれて歩き続けた。
 そんな様子を察したのか察していないのか、それとも楽しんでいるのか、島も綾乃に話しかけようとはしなかった。

 結局、駐車場に止めた島の車に到着するまで、綾乃は何も話すことができなかった。

 綾乃がようやく落ち着いたのは、島の手から離れて、車の助手席に乗り込んでからだった。
 ふと、島が昨日退院したばかりだということを思い出したのだ。看護師魂が沸きあがると、いつものしっかり者の綾乃がぐいと顔をもたげた。

 綾乃は、一つ大きく息を吐くと、運転し始めた島の横顔を見ながら尋ねた。

 「島さん、昨日退院してみて、体の調子はどう? 何か都合の悪いことない?」

 「快調だよ。もっと早く退院させてもらいたかったくらいさ!」

 運転席の島は、チラッと横目で綾乃を見た。綾乃はここで始めて島の顔色をしっかりと見ることができた。
 確かに顔色も悪くない。それに、さっきまでの様子からしても、島の言葉は本当のようだ。

 「そう、それならよかったわ」

 綾乃はほっと安心して一人ごちた。それから、前を向いたままの島の横顔を、もう一度見た。

 (はぁ、何とかやっと落ち着いたわ。横顔の島さんになら話しやすいし……。でも、また彼にじっと見つめられたら……ああ、だめっ!)

 恋人になってまだほんの1週間、会うのは今日が初めてだ。
 島が自分の恋人なのだと慣れるまで、しばらくはこんなふうにドキドキしそうだわ、と綾乃は思った。心の中で笑みがこぼれる。

 その時、車が地下の駐車場から表に出た。それに合わせたように、島が尋ねた。

 「これからなんだけど、今晩うちにみんなが来て退院祝いするんだ。古代や雪達も来るし、綾乃さんも来てくれるだろ?」

 「え?ええ…… 私が行っても、お邪魔じゃなかったら」

 みんな、つまりヤマトの仲間たちが来てくれるのだと、綾乃はすぐにわかった。部外者の自分も行っていいのかと、念のため尋ねると、島はあっさりと了解してくれた。

 「お邪魔なもんか! レディは大歓迎さ。あっ、でも……」

 と、そこまで言った後、島にしては珍しく、少しばかり気恥ずかしそうな笑顔を綾乃に向けた。

 「???」

 その笑顔の意味を推し量り兼ねていた綾乃に、島が言葉を続けた。

 「覚悟しといた方がいいかもなぁ。南部とか相原も来るし…… ほら、いつも見てただろ? 古代達のを……さ」

 島の瞳が照れたようなそれでいて意味深な色に輝くのを見て、せっかく収まりつつあった綾乃の頬が、再び朱に染まった。

 今までは、ヤマトの仲間たちが集まると、アツアツカップルの進と雪を話のネタにしては、からかったものだった。だが今度は、新しくカップルになった自分たちが標的にされるに違いないということらしい。

 「えっ!? あっ、ああ……」

 困ったようにうつむいてしまった綾乃に、島は優しく言った。

 「ははは…… でもまあ、綾乃さんはそんなに心配しなくてもいいよ。どうせ奴らの言う事なんて見当つくからさ。俺が適当にあしらうって。君は笑ってごまかしてりゃいいんだよ」

 「ええ……」

 そうして二人はちらりと見つめあい、同じ境遇を同情しあうようにくすりと笑いあった。

 友たちにからかわれる、それは困ったことで恥ずかしくもあるけれど、反面、ちょっとばかり誇らしいような嬉しいような、そんな気分になる。初心者の恋人達にとって、一つの通過儀礼なのかもしれない。

 しばらく走って、郊外へのハイウエイへの分岐点手前に来たところで、島はこれからの行き先を綾乃に相談した。

 「さてとぉ〜 みんなが集まるまではまだ時間があるし、ちょっとドライブでもしようか? それとも一旦家に戻って荷物置きたい?」

 「ううん、特に急ぐものはないし、わざわざ帰らなくてもいいと思うわ」

 「そっか、それじゃあちょっと海のほうへ走ってみるとするか?」

 「ええ!」

 車は海岸線を西に向って走り始めた。ようやく落ち着いた綾乃は、島と今までと変わりない他愛もない会話をしながら、車外の風景を楽しんでいた。

 窓の外を見る綾乃の後姿を見ながら、島の顔が一瞬真顔に戻った。

 (綾乃さんはわかってくれるだろうか? 俺の中にあるテレサへの思いを…… 決して忘れ去ることができない出来事のことを…… いやきっとわかってくれる、わかってもらいたいんだ……)

 (7)

 2人の乗った車は、東京メガロポリスを抜けさらに走ってからハイウエイを降り、それからしばらく人家のない海岸線を望む道路を走った。

 ちょうど綾乃側の窓からは、海と、そしてまもなく沈む太陽が大きく見えていた。

 「もうすぐ日が沈むわね」

 「ああ、夕陽が近くに綺麗に見えるところがあるんだ。そこへ行こう」

 そう答えて、島はわき道に入り、しばらく走ったところで車を止めた。

 2人が車を降りて歩いていくと、少し開けたところに出た。そこは小さな岬になっていて、水平線が一望できた。

 「わぁ〜 きれいっ!! お日様が綺麗なオレンジ色に光ってるわ!!」

 綾乃が美しい夕陽に感嘆の声を上げた。

 美しいオレンジ色に燃える太陽と、それに映える綾乃を見ながら、島はあの生死の境の世界で見たオレンジ色に光っていた自分を思い出した。

 (そういえば、ちょうどこんな色だったな…… 俺の体に光る光。生きることをまだ望んでいた俺の心を映したあの色……)

 そして今、そのオレンジ色の中で、自分がまだ生き続けたかったことを気付かせてくれた人がたたずんでいる。

 島はなにか不可思議な運命を感じながら、その夕陽を見つめていた。もちろん、そんな島の心のうちなど知らない綾乃は、無邪気に夕陽の美しさにひたすら感動していた。

 「ほんと素敵!! こんなところよく知ってたわね、島さん」

 その姿は、とても微笑ましく、年相応の女性らしくて、島は思わず笑みがこぼれてしまった。

 「はは…… 喜んでもらえて嬉しいよ。ここは夕日を見る絶好の穴場らしいんだ。地元の人だけが知っているっていう」

 「え?そうなの? 島さんはどうして……? あっ、もしかして誰かと?」

 島の説明に、綾乃が最初は不思議そうに、そしてその後不安そうな顔をした。島が過去に別の女性と来たのかと思ったらしい。

 「えっ? あはは…… 残念ながら、僕はここに来るのは初めてだよ。ここを教えてくれたのは、古代だ。あいつ、こっち方面の出身だからな」

 「ああ、そっか。なぁ〜んだ。じゃあ、雪達はよくここでデートしてたのね、うふふ……」

 安心しました、とまさに顔に書いてあるような笑顔に、島はまた笑いがこみ上げてきた。

 (まったく…… 思わず抱きしめてしまいたくなるな……)

 綾乃のそんな何気ない姿にも、愛しさがこみ上げてくることに、島は自分でも驚いていた。それは彼にとっても生まれて初めての感覚で、雪やテレサに対しても感じたことのない種類の感情だった。

 (8)

 「らしいな。安心した?」

 「あらっ、やだ、そういうんじゃなくって……」

 自分がヤキモチめいたことを言ったことに気付いた綾乃は、ぱっと赤くした頬を両手で覆った。

 「ははは…… 実はもう一箇所、ここよりもっと夕陽が綺麗に見える場所があるらしいんだ。けど古代の奴、そっちは特別だから教えないってんだぜ」

 島がちょっぴり悔しそうな顔をしてウインクして見せると、綾乃はくすくすと笑った。

 「あらぁ、そうなの? うふっ、それじゃあ、雪と二人の秘密なのね」

 「まあな、なにせそこは……」古代が雪にプロポーズしたところだから、と島は言いそうになってやめた。

 「っと、まあいいか」

 まだ付き合い始めたばかりの彼女の前で、プロポーズなんてセリフをはくのが、こそばゆい気がしたのだ。

 (まだずっと付き合っていけるかわからないしな……)

 「やぁね、島さんったら、言いかけてやめるなんて!」

 「はは…… それにしても今日はいい夕陽だな」

 「ええ……」

 (9)

 うまくはぐらかした島は、いよいよここで綾乃に、今の自分の気持ちを伝えることにした。

 「こんな地球の風景、一度でいいから見せてやりたかった人がいた……」

 しみじみと告げる島の言葉に、綾乃ははっとして島の顔を見た。彼の横顔は、真剣な眼差しで真っ直ぐに海に沈む陽を見つめていた。

 (それは……テレサさんのことなのね?)

 その問いを綾乃が口にする前に、島が先に話し出した。

 「実は、これから君と付き合って行く前に、一つ話しておきたいことがあるんだ」

 島は真面目な顔で、綾乃を振り向いた。

 「島さん……」

 綾乃はごくりとツバを飲み込んだ。島のその顔から、自分の想像が当っていることを確信した。
 いつかは聞かなければならないだろうと思っていた。聞きたかった。が、反面聞くのが恐いのも事実だった。

 「テレサさんのこと……ね?」

 「ああ……」

 島がこっくりと頷く。

 「ごめん、こんな話をしたら君の心を痛めるに違いないことはわかってる。だけど、これからのために、どうしてもこれだけは君に聞いてもらいたいんだ」

 「だいたいは雪達から聞いて知ってる。でも私もきちんと聞いておきたい。島さんの口から……」

 綾乃も真摯な眼差しで彼を見返した。

 「そうか、ありがとう……」

 島は安心したように微笑んだ。

 (10)

 それから島は、再び夕陽のほうへ顔を向けると、ゆっくりと話を始めた。

 数年前の戦いのこと。テレサとの出会いから、一時の別れ、そして気付かなかった再会と本当の別れの時までを……

 ゆっくりと日が落ちてゆき、太陽の一番下のかけらが海に消え始める。

 その間も島は話し続けた。そして綾乃は、その一言一言を一つも聞き漏らすまいと、固唾を呑んで島の顔を見つめ続けていた。

 島がどれだけテレサを愛したのか。テレサが島の愛に増して彼を愛していたのか……
 島の話を聞いているだけで、綾乃は島の、そしてテレサの互いへの深い想いが十分に理解できるような気がした。

 愛する人が他の女性を想う――それも痛切に切なく想っている――話は、どうしたって胸が痛くてたまらない。けれど、それでも綾乃は、二人の愛に素直に感動し、悲しい運命に涙した。

 そして、淡々とした島の語りは終わりに近づいてきた。

 「地球に帰って目覚めた時、古代はテレサの最後を俺に話してくれた。そしてこれを渡してくれたんだ」

 そう言って島がポケットから取り出したのは、テレサの遺言が入っているホログラムカプセルだった。島は体半分ねじって、そのカプセルを綾乃の前に差し出した。
 島の握る手が愛しそうにカプセルをさする――綾乃にはそう見えた――のを、綾乃は複雑な気持ちで見た。

 「それが、テレサさんの……」

 綾乃は思い出していた。

 いつか病室の前でその話をしている3人の会話を漏れ聞いた日を、先日島が目覚めた時に、これを探していたことを、そして、雪がこのカプセルを島に渡して欲しいと持ってきたあの日のことを……

 このカプセルは、これまで島にとってかけがえのないお守りだった。

 「ああ、だが初めて見たあの日以来見たことはない。もう一度見るのが恐かったんだ」

 そう言うと、島はくるりと背を向けて夕陽のほうを見た。

 「…………」

 綾乃は何も答えられなかった。ただ、島の深い愛と悲しみの心を感じ、それと同時に自分の中にどうしても湧き上がってしまう思い――人はそれを嫉妬と呼ぶ――が交差し、その両の思いで、胸が苦しいほど痛くなった。

 島は背中に痛いほど綾乃の視線を感じていた。彼女が様々な思いで心をざわめかしていることは、手に取るようにわかる。
 だが、あえて島は、その綾乃の顔をわざと見ないようにした。

 (すまない、綾乃さん。だが、どうしても最後まで付き合ってもらいたいんだ。俺のために、そして君のためにも……)

 「綾乃さん」

 「はい……」

 「今、ここで、このカプセルのメッセージを一緒に見てくれないか?」

 一気にこう告げて、島は綾乃のほうを振り返った。綾乃の瞳には涙が輝いていた。

 (11)

 一瞬の沈黙が流れる。島は綾乃の答えを待った。綾乃は涙で潤む瞳で、島と島が差し出したカプセルを交互に見つめた。

 (これが島さんの心のよすが…… テレサさんの想い……)

 そんなもの見たくない! 島はそう強く拒否されることも想定していた。そしてその時は、すぐさま次の行動に出るつもりでもいた。ただ、その時は二人の間に、永遠のわだかまりが残ることも懸念しなくてはならなかっただろうが。

 (君の心を傷つけるかもしれない。けど、俺が新たに君と生きていくために、君を愛していくためにも、どうしても一緒に、これを見て欲しい……)

 言葉にはできなかったが、島の祈りにも似た心の叫びは、綾乃にしっかりと届いていた。

 「私が見てもいいの?」

 「嫌じゃなかったら」

 「嫌だなんて……決して……」

 島の心がほわりと温かくなった。彼女に対する申し訳ない気持ちと愛しさが、心の中に湧き上がる。

 「ありがとう……」

 微かに笑みを浮かべて島は頷いた。

 それから島は、意を決したように大きく深呼吸を一つして、ゆっくりと指を再生ボタンの上に持っていった。その様子を固唾を呑んで見守る綾乃の表情も、さすがに緊張からこわばっていた。

 ピッという小さな音ともに、テレサのホログラムが薄暗くなった岬に現れた。
 『島さん…… これを見ていらっしゃると言うことは、気がつかれたんですね。本当によかった……』
 映像のテレサが微かに揺れて微笑を浮かべた。画像に映るその姿に、島は眉を僅かに動かしただけだった。だがその表情の変化の少なさに反して、心の中は何かにかきむしられるような熱い痛みが走っていた。

 (テレサ……)

 島の隣で同じ映像を見ている綾乃は、初めて見るテレサの姿に衝撃を受けていた。

 (この人が……テレサさん…… 島さんを愛し、そして愛されたひと……)

 テレサの名は、白色彗星帝国との戦いのとき、地球を救ってくれた女神として報じられたが、実際に会った事のある、島を始めとする数名のヤマトクルー達が、マスコミに口を開くことはなく、その姿は幻のままだった。

 輝くほどの金髪と真っ白な肌に、均整の取れた目鼻立ちが映える。さらにテレサのすらりとした体を、光沢のある青みがかった美しいドレスが被っていた。
 透けているようで透けていない、そのドレスは、どんな素材が使われているのか、綾乃にはわからない。ただ彼女のすべてにおいて完璧な美しさに、圧倒されていた。

 (なんて綺麗なひと……)

 (12)

 テレサの言葉は本筋に入っていった。
 『島さん…… 古代さんと雪さんから私のことを聞かれて、きっとあなたは後悔していらっしゃるのでしょうね。あなたのために私が命を捧げたと思って……

 でも、島さん、それは違うのです。私は、いずれこうなる運命でした。私の祈りが、テレザートの人々を滅ぼしてしまった時から、私は自分の存在を持て余していたのです。平和を祈ることはできても、私に出来ることは破壊しかありませんでした。私の心が乱れれば、様々なものに影響を与えてしまいます。それは、島さん、あなたもご存知でしょう?

 そして…… 我がテレザートを容赦無く踏み潰そうとしたズォーダーとはいつか雌雄を決するつもりでした。でも、私の力では、あの白色彗星のままではとても太刀打ちできなかったのです。

 けれども、地球艦隊とヤマトがあの彗星を取り去り、都市帝国も沈黙させることに成功した時、私は自分の取るべき道を見つけたのです。そう、ヤマトは地球に帰らなければならない。地球のこれからのために。

 私は、私の全身全霊を込めた祈りに答えてくださったヤマトとその乗組員の方のために…… お役に立ちたかった。

 そして、島さん、あなたにもヤマトが必要です。ヤマトにもあなたが……』
 正面をじっと見つめて話していた映像のテレサが、少し伏目がちになって、また顔をあげた。

 (なんて哀しい運命なの……! 話は聞いてたけど、本人の口から聞くと、あまりにも切なくて……)

 綾乃の瞳に再び涙が浮かび始めた。横に立つ島をちらりと見ると、彼は画像の中のテレサを見つめたままその表情は固く、彼の心の内を量ることはできなかった。

 テレサの話はまだ続いた。
 『島さん…… ズォーダーとの勝負をつけるつもりで、地球近くまで来た私の目の前にあなたが現れた時はどんなにうれしかったことでしょう…… もう一度、もう一度だけ…… 島さんに会いたいとどんなに思いつづけていたことか…… それが叶ったのですから……

 でも、あなたは宇宙を漂流していたせいで、意識を失っていました。あなたの目を開かせるためなら私はなんでもしたかった…… だから、私の血をあなたに差し上げました。生気を失っていたあなたの顔がだんだんと赤みをさしてくるのを見たとき、私はどんなにうれしかったことか……

 私のこの世界での命は、ズォーダーとの決戦を決意した時からもう既に存在しなくなっていたのと同じだったのです。だから、あなたに私の血を差し上げたことで、却って私の命をもう一度生かせる道を見つけることが出来た、ということなのです。

 ですから、島さん、悲しまないで…… 私は今本当に幸せな気持ちなのです。生きてください、島さん…… そうすることで、あなたの中で私はいつまでもあの美しい地球で、あなたと一緒に生きることが出来るのですから…… 

 ありがとう、島さん。私は幸せでした…… そして、これからもずっと幸せなのですから……』
(テレサのメッセージは、拙作『TAKE OFF!! for the Future』Chapter3より)
 ここまで話すと、明るい光に包まれていたテレサの映像はふっと空から消えた。陽はすっかり落ち、周囲は薄暗くなっていた。

 (13)

 見終わるか終わらないかのうちに、綾乃の瞳からは涙がとめどなく零れ落ちていた。

 (テレサさん…… すばらしく素敵なひと…… なんて深い愛…… なんて……)

 このホログラムを録画する時、テレサはたった一人、眠っている島を前にして話し続けたのだろう。その時のテレサを思い、彼女の心の奥底からの願いが、綾乃の心にも深く染み渡ってくるような気がした。

 島は、大きく息を吐くと一旦目を閉じ、その後、意を決したように目を開けた。それから、涙に濡れる綾乃の顔を真っ直ぐに見つめた。

 「綾乃さん、俺は…… テレサのことは永遠に忘れられない。どんなに時間がたったとしても、決して忘れることなんてできないと……思う」

 静かな口調であったが、それは断固としたものだった。その言葉が、今愛し始めた人の心を深く傷つけるだろうとは思いながらも、それが事実なのだから。その上で、今の島は綾乃を、愛していた。

 (俺の気持ちが伝わるだろうか……?)

 「ええ、そうね。私は、とてもかなわないわ…… テレサさんは素晴らしい人。私には……とても……」

 目を真っ赤にした綾乃が、涙につまりながら途切れ途切れに答える。その口調に、島の心に不安がよぎった。

 島はテレサへの自分の想いを伝え、それを理解してもらった上で、今の自分の綾乃への想いを伝えたいと思っていた。だが、もしかしたらその思惑は、はずれたのではないか……?
 島はテレサのホログラムを見せたことを、僅かに後悔し始めた。

 だが、島の不安に対して、綾乃は瞳に涙をたたえたままではあったが、優しい笑みを浮かべたのだ。

 「綾乃……さん……?」

 島はその笑みの意味を問うように、綾乃に声をかけた。

 (14)

 その島の表情に答えるように、小首を傾げて島を見つめた。そして島の不安を払拭するように、綾乃は小さく頷いた。

 「本当に素晴らしい人だったのね……テレサさんって」

 「えっ?」

 「島さんへのテレサさんの深い愛も、島さんのテレサさんへの思いも……本当に素晴らしくて。私なんて一生かかったって敵わないって、そう思ったの」

 綾乃の口元を笑みを浮かべたままだったが、その瞳には憂いを浮かべているように見えた。

 「確かにあの時の俺の思いは本当だったし、あの時はテレサを心から……愛していた。けど今は、今は……!」

 とそこで、島は言葉を止め、小さくため息をついた。

 (わかってもらおうなんてことは、無理なことだったんだ……)

 島の胸にキリリと痛みが走る。テレサへの今も残るこの思いを、彼女に告げたのは、やはり間違いだったんだと……そう思った。

 「……そうだな。やっぱり無理だったんだよな…… こんな気持ちを抱いたまま、君のことが好きだって言ったって、君だって困ってしまう……よな。すまなかった……」

 潔くあきらめよう…… テレサへの思いと共に愛してもらおうだなんて、虫が良すぎるのだ。

 しかし、島の言葉を聞いた綾乃は、慌てて頭(こうべ)を左右に振った。

 「あっ、違うのよ、違うの、島さん!!」

 「いいんだよ、もう」

 島が悲しそうに微笑んだ。

 彼女にテレサへのわだかまりがある限り、いつか二人の間に亀裂が入ってしまうのは、目に見えている。そうなる前に、この関係自体をリセットしてしまう方がいいのだ、と島は思った。

 だがそれは、島の勝手な一人合点だった。綾乃は決して島のテレサへの思いを全て不快に感じているわけではない。逆にその深い思いに感動すらしているのだ。

 「聞いて! そうじゃないのよ!」

 綾乃は叫ぶように大きな声で、島に訴えかけた。

 「え?」

 「そうじゃないのよ……」

 綾乃はひとつひとつの言葉をかみしめるように、そう繰り返した。

 (15)

 相手の意図を汲みかねて、目を見開いている島の顔を、綾乃はじっと見つめた。その瞳には、たっぷりの愛が浮かんでいた。それから、ふっと視線を逸らすと、今にも消え入りそうになっている夕陽のほうへと顔を向けた。

 「テレサさんの人としての素晴らしさも、あなたへの深い愛情の表し方も、とても真似できっこない。私なんて、どんなに頑張ったってテレサさんには敵うわけがない。でもね、でも…… 私、それでいいと思ってるの」

 再び島の方を振り返った綾乃は、夕陽のかすかな光に後ろから照らされ、島にはその表情が見えなかった。

 「私って、ほんと、どこにでもいるような、ごく普通の女の子なのよね。テレサさんみたいに美人でもないし、星を左右できるような能力のかけらもない。それだけじゃないわ。雪みたいに優秀な宇宙戦士でも秘書でもなくって、地球を救うために戦う力だって、これっぽちもない……」

 「そんなことは……」

 ないよ! 島はそう言おうとした。確かにごく普通の女性かもしれない。だが島にとっては……

 「ええ、そうよね、わかってる。だから、私、それを卑下してるわけじゃないの。ただ、私には私の身の丈にあった恋をして、身の丈にあった愛し方をすることしかできないってこと…… だからね……」

 そこで綾乃はにっこりと微笑んだ。その笑みは、目がなれてきた島にもはっきりと見て取れた。

 「テレサさんと競おうなんてこと、これっぽちも思ってないわ」

 「綾乃さん……」

 陽が沈んだ。と同時に、島の心に一条の光が差し込んできた。

 「テレサさんの愛には本当に感動したの。だから島さんがこんなに深く愛してたことも、よくわかってるつもり。だから、その気持ち、ずっとずっと大切にして欲しいって思ってるわ。そして私も一緒にその思いを抱いていきたいって……今、心からそう思っているのよ」

 綾乃はテレサを思う島をまるごと愛していくと言っているのだ。島は、それが望んでいた答えであるにもかかわらず、ありがたいようなそれでいてなにかしら納得できないような、なにかひどく不可思議な感情に駆られた。

 「それは、つまり、その……君以外への女性への思いを残していてもいいって言うのか?」

 恐る恐るの島の問いに、綾乃はくすりと微笑んでから首を振った。

 「ふふ、言ったでしょ。競うつもりはないって…… 勝てっこないもの。島さんのテレサさんへの思いと私とのことは別のこと。そう思うことにしたの」

 本当だろうか、島にはまだ半信半疑だった。さらに綾乃の話は続いた。

 「こんな言い方良くないかもしれないけど…… どんなに素晴らしい人だったとしても、テレサさんは今はもう……いないわ。いなくなった人と競うこと自体無理なことだし、それにテレサさんだって、島さんが幸せになってくれることを心から望んでた」

 綾乃の口元から笑みが消え、真剣な眼差しが島の瞳を捉えた。

 「私は今、島さんのそばにいる…… できれば、これからもずっと……」

 「綾乃さん…… ありがとう……」

 島の心に綾乃への愛しさが湧き水のように込み上げてくる。

 佐伯綾乃という女性は、確かに看護師としては優秀だが、他に他人が驚くほどの際立った才能があるわけではない。外見だって、人目を引くほどの美人でもないし、背も高くなくて足も長いわけではない。どちらかというと小柄な部類にはいるだろう。

 しかし、今の島には、そんな小さな綾乃がとても大きく見えた。

 (愛しい……)

 その思いが体中を駆け巡り、気がつくと、島は綾乃を強く抱きしめていた。

 いきなり抱きしめられ、最初は戸惑っていた綾乃も、しばらくすると、体を島に預けて、胸に顔を摺り寄せ始めた。互いの肌に伝わってくるぬくもりが、今ともに生きるべく命ある存在であることを、二人は今更ながらに強く感じていた。

 (16)

 ようやく抱きしめた手を緩めると、島は綾乃に優しく微笑みかけた。

 「幸せになろう…… 二人できっと……」

 「ええ、テレサさんの望みを叶えてあげなくっちゃね!」

 綾乃がいつものように、にっこりと明るい笑顔で答えた。

 「テレサさんとは全然次元が違うかもしれないけれど、私は……私のできることをするわ」

 それにつられるように、島も大きく破顔した。

 「そうだな…… 俺たちができること……をな」

 綾乃はこっくりと頷いてから、真顔になって告げた。

 「ええ…… だから、テレサさんのことを思い出した時は、遠慮しないで口に出してね。私はテレサさんの思い出話を聞いて、あなたと一緒にテレサさんを偲びたいの」

 「わかったよ」

 と答えてから、島は念を押すように尋ねた。

 「けど、本当に……それでいいのか?」

 「それでいい……って、何が?」

 「だから、本当に妬いたりしないのかい? 無理しなくていいんだぞ。やっぱり自分の前では口にして欲しくないんじゃないのか? 今のうちに言っとかないと後で航海するぞ」

 島の口元には笑みが浮かんでいる。心底不安に思っての質問ではないらしい。

 テレサの存在を認めるという綾乃の言葉が本心であることに、既に疑いはなかった。ただ……自分が他の女性の話をすることを、綾乃がまったく気にしないということにも、なにやら微妙に面白くない気持ちもあったのだ。

 その意図が綾乃にも知ってとれたらしく、同じくちょっぴりいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 「え〜? そりゃあ、私だって女ですからね。あなたがテレサさんの話ばっかりしたり、そのホログラムをあんまり大事そうに持ってたりしたら、ヤキモチ妬いちゃうかも〜〜」

 横目でちらりと島を睨む。と、島はびくりと体を反応させた。

 「そんな時はどうしたらいいんだ?」

 「そんな時はねぇ、ほんのちょっぴり拗ねて甘えてみたくなった時だと思っててくれればいいのよ」

 今度は上目遣いの綾乃に、島はやけに真面目に頷いた。

 「ふうん……」

 「だからねっ、そういう時はね…… ふふ、今は綾乃のことを一番愛してるよ、って言ってくれればいいのよっ! きゃはっ、やだ自分で言っちゃった〜!」

 自分で口にして自分で照れている綾乃を、一瞬唖然としてみていた島だったが、次の瞬間大きな声で笑い出した。

 「えっ!? あっ、あははは…… そっかぁ、あははは……」

 「な、なによ〜 やだ、ちょっと待ってよ! ここって笑うところじゃないわっ! 我ながら大胆なこと言ったって、ものすごくドキドキしてるのに、やだ、笑うなんてひどいわっ〜!」

 自分で言っておきながら、真っ赤な顔をして照れ怒りしている綾乃が可愛らしくて、島はさらに大きな声で笑い声を上げた。

 「あははは…… ごめん、ごめん。わかったよ、必ずそう言うから、ははは……」

 「んっもうっ!」

 ぷいっと頬を膨らまして、背を向けてしまった綾乃を、島は後ろから抱きしめた。

 「はは……やっぱり……」

 残っていた笑いを収めると、綾乃のうなじに軽く唇を寄せた。

 「君を好きになってよかったよ」

 「島さん……」

 抱きしめられ胸の上で結ばれた島の手を、綾乃の手が包む。

 「ありがとう、綾乃さん。これでふっ切れたよ……」

 「え……?」

 突然の島の真面目な声に、綾乃は体をねじって振り返った。

 (17)

 島は、綾乃を胸の中から放してやると、今度はポケットからさっきのホログラムを取り出した。

 「島さん……どうしたの?」

 さっきの島の言葉と決意を込めたようにそれを見る彼の視線から、綾乃の心に大きな動揺が広がった。

 (もしかして、島さん……!?)

 それを口にする暇もなく、島は綾乃の危惧が事実であることを示した。

 島は、ホログラムの透明部分のふたを開けると、その中の奥まったところにある小さなボタンを押した。と同時に、無機質な声が流れる。

 ――データ、消去完了――

 それはあっという間の出来事だった。そう、島はテレサが残したホログラムデータを消去してしまったのだった。
 そのあまりにもの唐突な行動に、綾乃のほうが慌ててしまった。

 「し、島さんっ!!」

 島を非難するように、綾乃が悲鳴に近い声を上げたが、当の島の方は、まったく冷静な表情のままきっぱりと言い切った。

 「いいんだよ、これで……」

 「でも、でも、テレサさんの姿が映ってるのはこれしかないんでしょ!?」

 島はもう二度とテレサの顔を見ることができない。そう思うと、綾乃のほうが涙目になってしまった。

 「いいんだ……今日君に一緒に見てもらって泣いてもらえて、もうそれで十分なんだ」

 「でも…………」

 「これでいいんだ」

 島はもう一度きっぱりとそう言い放った。

 島が微笑む。だがそれは決して嬉しい事を表す笑顔ではない。島は顔で笑いながら、心ではきっと泣いている…… 綾乃は島の心の涙が見えるような気がした。

 (私のために…… 島さんはあのホログラムを……)

 島は綾乃との話し合いをする前から、綾乃がこのホログラムを見た上でも自分を受け入れてくれたら、その時はこれを消去しようと心に決めていたのだ。
 それが、綾乃との新しい人生を歩むための、島にとってのけじめでもあった。

 綾乃にも、そんな島の気持ちがよくわかっていた。その気持ちはとてもありがたいけれど、同時にそこまでさせてしまったことに、どうしても胸が痛んでしまう。

 (本当に、これでよかったの……?)

 しかし綾乃はそれを口にすることはできなかった。代わりに島が、もう既にただのカプセルとなってしまったホログラムをじっと見つめながら言った。

 「よかったんだよ、これで」

 「島さん……」

 島は、顔を上げて綾乃の不安そうな表情に気付くと、今度はかすかに微笑んだ。

 「こんなものがなくても、テレサの姿はこの胸の中に焼きついているからな」

 ズキリ…… 綾乃の胸に痛みが走る。けれど同時に安堵も広がった。

 (彼の思いは……テレサさんへの愛は…… もう形あるものなんて必要ないのね……)

 複雑ではあるけれど、これでいいのだと綾乃は自分に言い聞かせた。それがテレサへの愛ごと島を愛するということなのだと……

 と、突然島の顔がおどけた表情になると、声を出して笑いはじめた。

 「……あはは…… なあ、今のはちょっと妬けた?」

 「えっ?」

 面食らった綾乃が島を見つめる。そして気付く。島が気持ちを切り替えようとしている事に…… だから、同じようにおどけて返事をした。

 「ええ、ちょっと……ね!」

 「正直でよろしい!」

 そして二人で同時に笑い出した。

 「うふふ……」

 「あははは……」

 ひとしきり笑ってから、島は「よぉ〜〜〜〜っし!」と大きな掛け声と共に、ホログラムを海に向って思いっきり投げた。ホログラムは放物線を描いて海に着水すると、あっという間に波間に消えていった。

 ホログラムが見えなくなってしばらくたっても、まだ海を見つめ続ける島を、綾乃はじっと見守っていた。

 それから、島はおもむろに隣にいる綾乃の方を振り返ると、両肩に手を置いて、真っ直ぐに見つめた。

 「綾乃…… 今は誰でもない、君だけを愛してる……」

 「島さん……」

 綾乃の胸がキュンとなった。島のテレサへの愛を再び感じていた綾乃には、何よりもうれしい言葉だった。

 (18)

 愛の告白は何度聞いても胸にしみる。

 (ああ、島さん……もしかしたら、このまま口付けされるの……?)

 と、自分の中で盛り上がりつつあった綾乃の目の前で、島の顔付きが再び弛んでいった。

 「どう? セリフ決まった? こう言えばいいんだよな?」

 綾乃は突然夢の世界から現実に戻されたような気がした。

 「えっ?あっ! んっもう〜〜〜!! もう、知らないっ!!」

 島は、さっき綾乃が言ったヤキモチを妬いたときの対処法を実践したのだ。綾乃は一人盛り上がった自分が恥ずかしいやら、いきなり我に返されてしまって腹が立つやらで、島に背を向けて、ずかずかと車の止めてある方向とは逆の方向に歩き出した。

 「おい、怒るなって!」

 「し〜〜らないっ!」

 後ろから呼び止めようとする島を無視して、綾乃はどんどん歩き続ける。島は数歩後ろを追いかけながら、さらに声をかけた。

 「お〜い、そろそろ帰らないと、みんなうちに来てる頃だぞ。快気祝いしてくれるんだから」

 「知らないわ。待たせとけばいいのよ!」

 「そりゃやめたほうがいいぞ。さっき言っただろ? あいつらのことだ。あんまり遅くなると、今まで何してたんだぁ〜って、あることないこと根掘り葉掘り…… そのうち墓穴掘る羽目になるぞ〜」

 その言葉に綾乃の足がぴたりと止まる。確かにそれはやばい。いつも雪や進達がからかわれまくっているのをよく知っている綾乃だった。

 綾乃は振り返った。

 「あ、それまずいわ……」

 「だろ?」

 島がにやりと笑うと、綾乃も肩をすくめて島のほうへと戻ってきた。そして島の隣まで戻ると、島は自分の腕を綾乃の前に差し出した。その腕に綾乃は自分の腕を絡めた。
 恋人達は、ニコリと微笑みあった。

 「仕方ないわ、行きましょ。私たちのことより、もうすぐ結婚式のカップルの方に、みんなの突っ込みを向けなくちゃね〜〜!」

 「あはは……それは言えてるな。よし、行こう」

 すっかり日が暮れた海岸線から、二人の影がだんだんと離れていった。



 二人はどちらともなく顔を上げて天を仰いだ。一番星が輝き始める。

 ――テレサ、これでよかったんだよな?

 ――テレサさん…… こんな私だけど、見守っていてくださいね。きっと島さんと……幸せになるわ、だから……

 二人の思いに、星の彼方から、彼の女神の声がそれぞれに答えてくれたような、そんな気がした。

 ――島さん、ありがとう。お幸せに……

 ――綾乃さん、ありがとう。島さんをどうぞよろしくお願いします……




 島は思った。テレサは、今かけがえのない大切な思い出になったのだと…… 思い出とは……現実のものではなく、もう終わってしまった過去の出来事なのだと……

 と同時に、島は改めて、自分が生きて地球に帰ってきたことを実感していた。

 これからも、この地球で生き続け、人生を歩み続けるのだ……ということを。

 そしてそれは、一人でではなく、愛する女性と二人で歩くのだということを…………

『Departure〜彼らのスタートライン〜 1.生還』完

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