幸せへの軌跡−進と雪の婚約物語−

Chapter8−和解、そして……婚約?−

 (1)

 電話の音が何度も鳴るが、雪はそれを取る気になれなかった。この時間に雪の部屋の電話を鳴らすとすれば、進に違いないと思った。もしかしたら、心配した綾乃だったかもしれないが、どっちにしても電話に出て話す気になれなかった。

 部屋の外からは、母が何度か声をかけたが、やはり雪は今、母に今日の出来事を話すことができそうになかった。じっと、息を殺し、涙をできる限り抑えて、じっとペットにうつぶせになっていた。そのうち、母はあきらめたように『おやすみ』とだけ言って部屋の前を立ち去って行った。

 母の気配がなくなると、雪はまた涙があふれてきた。小さな声も漏れてしまう。どんなに悲しくても悔しくても、それでも進が好きだという事には変わりはなかった。好きで好きでたまらないことが、さらに今日の出来事を耐えられないことにしてしまう。なにもかも知らなければよかった。そうすれば、明日は幸せな自分がいたはずなのに…… そう思うと、雪はまた胸が張り裂けるような気持ちになった。

 (古代君…… 好き! 大好きなの! あなたを誰にも渡したくない。でも、もし、あなたが他の人を選んだとしたら…… いや! やっぱりそんなこと考えたくもないのに…… でも、今日の事を聞くのが恐い。私に嘘までついて行ったあなたの真意を聞くことが…… できない。ただの浮気? それなら許せない! もしかして、本気? そんなのもっと嫌!! どうしたらいいの? 私は……)

 ヤマトでのイスカンダルへの航海の間、雪はそんな心配をした事がなかった。進の気持ちは、ヤマトの航海が始まって間もなくから雪に向いていた事を、雪は自分でも知っていた。そして雪は、その進のまっすぐな気持ちに、だんだんと自分も答えたくなっていった。
 いつの間にか二人は相思相愛の関係になっていった。そのことは、雪はもちろん、進以外のほとんどのヤマトクルーの周知の事実だった。一緒に乗艦していた数少ない女性乗組員達も、雪ほど進と接触する機会はなかったし、みんな二人の関係に気付き、応援する立場だった。

 だが、地球に帰ってからはそう言うわけには行かなかった。地球を救った英雄の一人として、いや、英雄の代表的存在として、進は多くの女性から注目された。雪との仲を知らない人も多い。
 雪は、進に来るただのファンレターにも妬けてしまう自分に気付いて、驚いた事もあった。それは、進を愛するが故であったとはいえ、自分の心の激しい気持ちに自分でもとまどっていた。
 進はヤマトを降りてからも、今までと同じように、まっすぐに雪に素直な愛情を示してくれている。それをそのまま信じていればよかったのかもしれない。けれども、初めて人を愛し、その熱い思いを知った雪にとっては、ほんの些細な事でも、不安の材料になってしまったのだった。

 進が雪のいないところで希と取った行動を、何か事情があるのではという冷静な考えで見ることが、今の雪にはできなかった。そして、泣いて泣いて…… 朝まで同じことを想像しては打ち消し、また想像し、とうとう一睡もすることができなかった。

 雪は、これから自分がどうしていいか全くわからなかった。

 そして同じ頃、進も眠れぬ夜を迎えていた。進が昨夜雪の自室に何度かかけた電話は、ことごとく無視された。雪が帰宅してなければ、両親が何か言ってくるはずだから、帰宅はしているのだろう。雪にうまく説明することができず、わかってもらうこともできなかったことを考えると、進はやはり一晩中眠る事ができなかった。そして夜中、夕方の自分の言動を反省していた。

 (まずかったよなぁ…… やっぱり雪に黙ってる事なんかできなかったよな。それに、部屋に来た雪にあんなことを言ってしまうなんて。雪が動転して言った言葉だったのに、それに腹を立ててしまうとは!
 どうしよう…… 雪、ずいぶん怒ってたし、電話は出てもくれないし……明日、家に行ってみようか。くそっ!俺は、何も悪い事してないはずなのに…… 余計な気遣いをし過ぎたんだろうか)

 翌朝、進はなんとなく重い体をなんとか起すと、身支度を整え雪の家へ向かった。

 (2)

 『ピンポーン』 森家の玄関でチャイムがなった。自室からその音を聞いていた雪は、はっとして体を固くした。

 (もしかして…… 古代君? いや…… 会いたくない。どんな顔をして会ったらいいかまだわからない…… また、同じことを言って古代君を責めてしまうかもしれない。好きなのに、会いたいのに…… それなのに……)

 雪は、慌てて部屋を出ると、美里に言った。

 「ママ! もし古代君だったら帰ってもらって…… 今日は会いたくないの…… お願い!!」

 「雪! 何を言ってるの? どんなけんかしたか知らないけど、古代さん昨日から心配してくれてるのよ。とにかく、会って話してみなさい!」

 「まだ、気持ちの整理がついてないの! とにかく、お願いね」

 雪は、それだけを言うとまた自分の部屋に戻って行った。玄関のチャイムは何度も鳴っていた。

 「かあさん、お客さんに失礼だよ。出なさい」

 晃司に言われて美里は雪を気にしながら玄関に行った。美里が玄関を開けると、やはりそこには進が立っていた。

 「おはようございます…… 朝からすみません。あの…… 雪は、雪さんは帰っていらっしゃいますか? 居れば少し話がしたいんですけど……」

 「古代さん…… ふぅっ…… 困ったわね。雪は昨日遅く帰ってきたんですよ。でも、部屋からは出ようとしないし、電話も鳴ってたようですけど全然取ろうとしないのよ。今も、やっと部屋から出てきたと思ったら、『古代君だったら帰ってもらって』なのよ。どうしたの? あんなに仲良しのあなたたちが……」

 「すみません。僕の行動がちょっと誤解を招いてしまったようで…… 雪を傷つけてしまったんです。でも、ほんとに誤解なんです! 雪は間違って理解してきっと……」

 進は、雪に対する代わりに、美里に向かって必死に訴えた。その目が本当に真剣である事は美里もよくわかった。

 「古代さん、よくわかったわ。あなたが真剣な事は…… でも、たぶん雪はまだそのことを冷静に聞く余裕が無いような雰囲気なのよ。……古代さんは、もうまた出航してしまうの?」

 「いえ、今回はあと4日休暇がありますから……」

 「そう、それなら、もう一日待ってみてくれない? 雪の気持ちが落ち着くのを見計らって私からも話してみるから」

 「しかし!」

 「雪のあなたへの気持ちは簡単には変わらないはずだから、心配しないで。時間が経てば、あなたの話を聞いてみようって気になると思うから、ね」

 「…………」

 「でも、ほんとにタイミングの悪いこと。今回帰ってきたら、あなた、雪にプロポーズするはずだったんでしょ?」

 「は…… はい…… すみません」

 進が、うつむき加減に困ったように頷く姿に、美里は苦笑し、進をなぐさめてあげたくなった。

 「古代さん、とにかく少し時間をあげてちょうだい。きっと大丈夫だから、ね」

 「わかりました…… 出直します」 そういうと、進は深々と頭を下げて帰っていった。

 (3)

 進が帰って美里がリビングに戻ると、晃司が心配そうに言った。

 「どうしたって? あの二人?」

 「喧嘩したんでしょ? 古代さんの行動を雪が誤解してるって…… 古代さん、悲壮な顔してたけど」

 「ふーん。昨日の朝なら、雪は俺に今日家にいろって騒いでたけど、古代君が来る事になってたんだろ?」

 「ええ、結婚の申しこみをするつもりだったはずよ」

 「結婚! やっぱり、そんな話になってたのか!……」

 「あら、あなただって、その覚悟はしてたでしょ?」

 「まあな…… だが、まだこんな早くのつもりしてなかったから……」晃司は少し焦って言った。

 「とにかく、仲直りしてもらわないと話にならないわ。ちょっと、雪と話してみるから」

 「たまには喧嘩もいいじゃないか…… ほっとけば?」

 晃司は喧嘩に関してはのんきなことを言っている。

 「何言ってるの! 雪だってかわいそうだわよ!」

 美里はそう言うと、雪の部屋へ向かった。雪の部屋をノックしながら、美里は声をかけた。

 「雪、雪…… 今のやっぱり古代さんだったわよ。とりあえず帰ってもらったけど。古代さん、かわいそうなくらいだったわよ」

 美里が部屋の外からそう声をかけても、中からはまったく返事が無かった。美里は決心して、部屋のドアをそっと開けた。

 「雪? おかあさん、入るわよ」

 美里が中に入っても、雪は、自分のベッドにうつぶせに突っ伏したまま、動こうともしなかった。昨日、帰ってきたまま、ハンドバックも床に放り投げてあり、雪の手元には、進の写真が数枚散らかっていた。

 「雪? どうしたの? 昨日一晩あったから、少しは落ち着いたでしょ? いつまでも、そんなことしてられないでしょう?」

 「喧嘩したの? 古代さん謝りたそうだったわよ。あなたが何か誤解してるって…… ねぇ、雪? パパも心配してるわ」

 美里はベッドの横にひざまづいて、雪の顔に自分の顔を寄せ、雪の髪をなぜながら静かに言った。

 「…………ママ……」 雪は、顔を少し上げてやっと一言つぶやいた。

 「なあに?」

 「私…… わからない…… どうしていいのか……」

 「古代さんのこと、嫌いになった?」

 「! 好き……好きよ…… 大好き! だから余計……」

 雪は起き上がると、叫ぶようにそう言った。その目にはまた新しい涙がこぼれてきた。一晩、泣いていたのだろう、雪の目はすっかりはれぼったくなっていた。

 「もしかして、古代さんが他の女の人となにかあったって思ってるの?」

 雪のその態度に、美里ははっと気づいてそう聞いた。

 「思ってるじゃなくて、あったのよ。きっと…… だから……」

 「古代さんは、誤解だって言ってたわよ」

 「…………」

 「いいわ、雪。その顔じゃ、古代さんにとても会えないわね。とにかく、少し落ち着いて、涙を止めて…… せっかくのママ自慢の美人が台無しよ。落ち着いたら、古代さんに連絡してあげなさい。きっと、あなたが誤解してるだけだと、ママは思うわよ。この前あんなに雪との事を、一生懸命になって私達に説得しようとしてた人が、他の人となんて考えられないわよ。落ち着いて聞こうとしなかったら、なんでもない話も、なんでもなくなってしまうんですからね」

 「…………」

 雪は、母の言葉をじっと聞いていたが、とうとう何も返事をしなかった。美里もこれ以上言うことはできずに部屋をでた。

 (4)

リビングに戻ってきた美里に晃司は尋ねた。

 「どうだった? 何が原因なんだい?」

 「雪は、古代さんが浮気でもしたって思ってるみたい……」

 「浮気! それは、許せん! 結婚の話だって、それじゃ許すわけにはいかない!」

 晃司は、なぜか少しうれしそうに言って見せた。

 「あなた! 違うわよ。誤解に決まってるわ。あの古代さんがそんなことするはずないでしょう? 雪の扱い一つだってまだおっかなびっくりの人が……」

 「あ…… まあ、そうだな。けど、あいつだって男だからな。据え膳食わぬはなんとやらって言うから、女の方から迫られたら、もしかしたら……」

 美里が、進をフォローしても、まだ晃司はいろいろと理由をつけて雪の疑惑を深めるような事を言うのだった。

 「もう! パパったら!! 男っていうと、あなたもそうなのね?」

 「ち、違うよ。ちょっと、一般論を言ったまでで、そ、そうだよな、あの古代君がそんなことするはずないな、うん」

 美里があきれて強い語調で晃司を責めるので、晃司もとうとう美里に同意した。もちろん、晃司も心の中で、進がそんなに簡単に浮気などするはずはないと思っていたわけだったが、仲直りすれば即結婚話という美里の話に、ちょっと抵抗してみたかったというのが、ホンネだった。

 その日、午後近くになって、雪はやっと部屋から出てきて、簡単な食事をやっと流し込んだ。両親はそんな雪に何も言えず黙って見ていた。雪も、昨夜のような取り乱した様子はなくなったが、まだ、自分の中の気持ちをどう扱っていいのか迷っているようだった。

 本来なら、今日は、進と雪の婚約が決まる日になるはずだったのだが、美里も晃司も、そして雪もそのことを口にすることはなかった。

 (5)

 雪の家で門前払いを食った形の進は、どこへ行く宛ても無く、また自分の部屋に帰ってきた。そして、ベッドに仰向けに寝たままじっと天井を見つめていた。

 (雪…… どうしたら、話を聞いてくれるんだろう。それに、雪が聞く気になって、俺はうまく説明できるんだろうか…… 希さんに頼んで話してもらおうか…… いや! そんなことしたら、雪はまた余計に誤解してしまうかもしれない…… ふぅー、どうしてこうなちゃったんだろうなぁ…… 本当だったら、今ごろあのスーツ着て、雪にプロポーズするつもりで、いろいろ考えてたのに)

 進は、壁にかけたスーツを見つめながら、一人考えていた。考えても結論はでないし、他にすることもなくてベッドに横になっているうちに、昨日寝てなかった進は、うとうとしていた。

 ドンドンと玄関をノックする音が聞こえて、進ははっと目が覚めた。

 (雪?!) 進は、飛び起きると玄関のドアに飛びつき、開けた。

 「雪!」 進が雪だと思って飛び出して行ったが、訪問客は相原だった。

 「……ああ、相原か」

 「す、すみません。雪さんじゃなくて…… あの、やっぱり揉めてるんですか? 雪さんと」

 「揉めてるも何も! お前なぁ!」

 進は、雪が相原から色々聞いたということを思い出して、思わず相原相手に声を荒げてしまった。

 「す、すいません!」

 相原は、びっくりして小さくなった。その姿に、進ははっとして言葉を和らげた。

 「ああ…… すまん。お前にヤツ当たりしてもしかたないよな。まあ、上がれよ」

 進が落ち着いた事に安心して、相原は進の部屋に入っていった。相原は部屋を見まわした。たいした家具も無い殺風景な部屋で、壁にかけられたスーツだけが場違いなような感じがした。相原は、黙って絨毯の上に座ると、進もその前に座った。じっとにらめっこするように座っていたが、相原が何も言い出さないので、進が口を開いた。

 「なあ、相原、怒らないから。お前、何を見て、雪に何を話したか、教えてくれないか?」

 「……はい……」 相原もそれを言うために来たので、決意して話し出した。

 「タイタンへ着く直前の夜でした。僕は遅番の当直で部屋から第一艦橋へ行こうとした時、休憩室で人気(ひとけ)がするので、覗いてみたら、古代さんと間宮先生が……あの…… 抱き合ってるのが見えまして、慌てて僕は第一艦橋に走って行きました。じっと見てたわけじゃないんです。あの、ほんの一瞬で…… 話も聞いてませんし……」

 「どうせなら、聞いててくれればよかったのに……」

 進が小さな声でつぶやいたが、相原には聞こえていなかった。

 「え? ああ、ま、それから、タイタンでは古代さんが休暇の日に間宮先生と一緒に出かけたって基地の連中から聞いたもんで、その話を綾乃さんにしたら、綾乃さんもその後、なんか怪しい会話を聞いたとかって……」

 「怪しい会話?」

 「はい…… なんか『もう思い出にしたい』とか『僕にも責任がある』だとか……」

 「うー! お前なぁ!! ああ…… そんな断片的な事を聞いてそれを雪に言ったのか?!」

 「だからすいませんって…… 昨日だって、雪さんすごい形相で電話してきて、とても何も知りませんじゃすまなさそうで、僕も困ったんですよ。一緒にいた真田さんが、『知ってることは話してあとは二人にまかせろ』って言うもんですから……」

 「ふぅっー…… そうだよな、お前たちにも誤解させてしまった俺が悪いんだよな。 くそ!!」

 「……誤解……なんですか?」

 相原は、恐る恐るながら、好奇心に勝てずにそう聞いてしまった。

 「あったりまえだろぉー!!!」 進は、それこそ叫ぶような声で相原に怒鳴った。

 「あっ…… はい、そ、そうですよね。そうに違いないとは思ってたんですけどね。じゃ、一体なんだったんですか? アレは」

 「タイタンに不時着したゆきかぜには、間宮先生の婚約者が乗ってたんだ」

 (6)

 進は、それから話し初めて、そのすべてについて相原に説明した。相原は、進の説明にじっと耳を傾けていたが、聞き終わると言った。

 「なんだ、そうなんですかぁ。安心した! 雪さんにもそう言えばいいじゃないですか? ねぇ」

 相原は簡単そうに言うが、その話を雪に対して切り出す事もできない進だった。

 「それが、だめなんだよ。雪のヤツ、すっかり怒っちゃってさぁ。昨日は、いいかげんののしって帰って行くし、今日は行っても会ってもくれないんだ」

 「そうなんですかぁ…… やっぱり、あの合コンの時のこともあるし、雪さん気にしてたのかなぁ……」

 「合コンの時って?」

 「古代さん、間宮先生に誘惑されてたじゃないですか? 『お姉さんが教えてあげましょうか?』なぁんて言われて焦ってたでしょ?」

 相原は、ニヤッと笑った。それに対して、進は少し顔が赤くなるのを感じながら言い返した。

 「なんだ!? お前、それも聞いてたのか! それで、今回の事も邪推したんだな!」

 「あわわわ…… だから、邪推なんかしてませんって、ただ、男としてはあれだけの美人に迫られたらやっぱりねぇ……」

 「ばかやろう!」 進は苦笑すると、相原の頭を軽くバチッと叩いた。

 「ててて…… とにかく、雪さんと話ができるように僕も綾乃さんに相談して見ますよ。ね、古代さん、それで許してくださいよ」

 相原は、和解の提案をして進をなぐさめた。いい案があるわけではなかったが、とりあえず綾乃に事情を話して手伝ってもらった方がよさそうだと思った。

 「期待しないで待ってるよ。な、それよりちょっとお前、やけ酒に付き合えよ。一人で飲むのもおもしろくないし、ちょっと行ってビールとつまみでも買って来い」

 「はい、はい! それくらいならお安いご用で…… ちょっと行ってきます!」

 相原は、ホッとして立ち上がると近くのコンビニに走って行った。

 その日は、昼間から二人の宴会となった。酒の勢いに任せて、進は相原に、雪への熱い想いや、本当なら今日プロポーズしていた話まで一生懸命に話した。相原は、そんな話を聞きながら、自分がまったく酔えないのを感じていた。

 (プロポーズするつもりだったなんて、ああ、古代さん達に仲直りしてもらわないと、僕も精神的に辛いよなぁ…… なんとかしないと)

 相原は、酒に頼って寂しさを紛らわしている進をほっておく事はとてもできなかった。

 (7)

 言い争いから2日目の夜、相原相手に憂さを晴らした進は、酔いもあってその夜はそのまま寝てしまった。そして……雪への想いが夢にも現れた。夢の中の雪はいつものように涼しげな笑顔を進に向けてくれていた。

 「雪…… 愛してるよ。僕と結婚して欲しい……」

 夢の中では、あっさりとプロポーズの言葉を口にすることのできる進だった。

 そして、雪のほうは、母の説得に理性では頷けるものがあったのだが、感情ではまだなかなか納得できないでいた。それでも、明日からの仕事に向けて、どうしても睡眠をとる必要があったので、無理にも寝ようと努めた。

 また、進とのことをこのまま逃げつづけているわけにも行かない事も十分わかっていた。このまま、進に宇宙へ飛び立たせてしまうわけにはいかない事も…… ただ、進がどんなことを言っても冷静に聞いていられるかどうか、雪はおおいに不安だった。

 翌朝、雪はいつもより早く出勤して行った。出がけに、美里から再度、進と話をするように言われて、微かに笑顔を母親に返すことがやっとだった。出来るとも出来ないとも、まだ答えられなかったから。

 更衣室で他の看護婦達に会いたくなかった雪は、一番乗りで制服に着替えると、佐渡の医務室に行った。佐渡もアナライザーもまだ誰も来ていない。部屋を簡単に掃除すると、雪はコーヒーを入れて一息着いた。そこへ、綾乃が入ってきた。綾乃も雪が心配で早めに出勤したようだった。

 「雪、おはよう…… どうしてた? 昨日?」 綾乃は、心配そうな顔で雪を見つめた。

 「綾乃…… 心配かけてごめんなさい……」

 雪は、そこまで言ったもののそれ以上、すぐに言葉が出なかった。

 「一昨日から電話したんだけど、雪、出なかったから……」

 やはり、綾乃も電話をしていたらしい。雪は自室にかかる電話は全部出ていなかった。

 「ごめんなさいね、綾乃…… でも、私……」

 雪は、なんとか話そうとしたのだが、また涙が出そうになって、胸に詰まって言葉が続かなかった。

 「雪…… まだ、仲直りしてないのね? 古代さん、どう言ったの?」

 「聞けなかったの…… ううん、相原君の言った事は聞いたの。そしたら、本当だっていうのよ。だから、それ以上は聞くのが恐くて…… 古代君は説明しようと、電話くれたり、来てくれたんだけど…… 私、どうしても顔を見るのが恐くて、古代君が何を言うのか聞く勇気がなくて…… ママは私の誤解だから話しなさいって言うけど、どうしたらいいの? 綾乃……」

 「雪……」

 綾乃には同世代の女性として雪の不安な気持ちがよくわかった。雪の進への強い愛情もわかっているだけに、雪のつらい気持ちも理解できた。だが、真実がわからない今の綾乃には上手な慰め方は出来なかった。

 「お母さんの言うとおりよ。私が言うのも変だけど、きっと誤解よ、雪。古代さんと話したほうがいいわ。それから、考えても遅くないのよ」

 「…………」 雪はただじっと黙って返事は返ってこなかった。

 「じゃあ、時間だから行くわ。もし、私でよかったら、古代さんに事情を聞いてみてもいいし、何かあったら言ってちょうだい。ね、雪」

 「ありがとう、綾乃。考えて見るわ」

 綾乃には、雪の後姿が痛々しく思えてならなかった。

 (希先生がいけないんだわ。恋人のいる、それも年下の男の子に手をだすなんて! 私が先生に言って、もう2度と古代君の気持ちを惑わさないようにしてもらおう! そうよ、古代さんは希先生に振り回されてるだけなんだわ)

 綾乃は、自分の医務室に戻ると、希に話す決意をした。

 (8)

 しばらくして、希はいつもの時間に出勤してきた。

 「佐伯さん、おはよう。今回はお疲れ様でしたね。慣れない宇宙戦艦の仕事で体調は大丈夫だった? あまり、お休みを取ってもらえなくてごめんなさいね。近い内にまとめて休めるようにするから……」

 希は、相変わらずの美しい笑顔で綾乃に朝の挨拶と休暇の話をした。しかし、綾乃は固い表情のまま、希を見つめていた。

 「? 佐伯さん? どうしたの? まだ、体がつらいの? もし、そうだったら……」

 「間宮先生! お話したいことがあるんです!!」

 希の言葉をさえぎるように、綾乃は、強い口調で希に詰めよった。

 「何? 話したいことって。いいわ、話してみてちょうだい」

 綾乃の並々ならぬ態度に、希もすぐにその話を聞く気になった。

 「古代さんとの事です。回りくどい言い方は嫌いですから、単刀直入にお聞きします! 古代さんとタイタンへの航海で何があったんですか?」

 「古代? 古代進くんのこと? 何って? あ、もしかしたら……」

 「雪は…… 雪は、あなたと古代さんのことを知ってとても傷ついてるんです。どうして、恋人のいる人を横取りするようなことをするんですか? 先生なら、他にどんな男性でも望むとおりの恋人を見つける事ができるでしょう? 若い男の子を誘惑して楽しいですか!!」

 綾乃は、少し言いすぎかもしれないと思いながらも、止める事が出来ずに一気にそう言った。綾乃の形相に、希はびっくりして綾乃を見つめ返した。

 「ちょっと待って…… 古代君を私が誘惑? まさかどうしてそんな話になるの?」

 「まだ、しらばっくれるんですか? タイタンへの航海で、古代さんに抱きついたり、一緒に二人出かけたりされたでしょ? 一昨日だって……」

 希は、やっと綾乃が何を見聞きして、そして何を誤解をしているかを理解した。そして、静かに微笑んで言った。

 「佐伯さん…… それは、まったくの誤解よ。古代君と私は雪さんが心配しなければならないような関係では決してないのよ。聞いてちょうだい」

 希は、ふぅっと一息つくと、タイタンでなぜ進に抱きついていたか、進と一緒になんのためにどこへ行ったのかをゆっくりと説明した。その話を綾乃は、じっと聞いていた。

 「そ、そうなんですか…… それじゃあ、タイタンからの帰りで古代さんと話していたことって……」

 「ええ、私が彼(婚約者)のことを思ってつらい思いをしてるんじゃないかと思って、古代君は気遣ってくれてたの。そして、帰ったら、一緒にお墓参りに行ってくれるって…… 古代君、あの遭難がお兄さんの責任だと思って、お兄さんに代わって自分がその役目を果たさなきゃって、一生懸命に私を心配してくれてたのよ」

 「じゃあ、私達がまったく誤解してたんですね。雪は、何も心配する事なんかなかったんですね」

 綾乃は、タイタンから帰着以来、やっと自分の心が軽くなる思いだった。

 「もちろんよ。古代君ったら、雪さんの事どんなにのろけてたことか……」

 「す、すみません!! 私ったらすっかり早とちりしてしまって……」

 綾乃は、希に向かって頭を下げた。

 「いいのよ、それは。でも…… 雪さんが誤解してるんだったら、それはやっぱり私の責任だわ…… あの二人今揉めてるのね?」

 希は、心配げに尋ねた。

 「雪は古代さんに会いたくないみたいで、古代さんを避けてます。きっと何かあったって思ってて、それを聞くのが恐くて…… 私がかけた電話もでなかったから、きっと古代さんがかけててもでてないと思います」

 「そう…… 困ったわね。私が原因で二人の仲にひびが入るような事になったら、あの人にも叱られちゃうわね。わかったわ、私から雪さんに話してみるわ。それから…… あっ、もう時間ね、どうしたらいいか少し考えてみるから、綾乃さんも考えてみて。今日、仕事が終わったらちょっと相談しましょう」

 希は、二人の仲を元に修復するために自分も手を貸すつもりになっていた。綾乃もさっきとはまったく逆で力強い仲間を得たような気がして、うれしかった。

 「はい……ぜひ、お願いします」

 (9)

 その日の昼休みには、相原から綾乃に連絡があり、夕方、3人で二人のことをどうするか話をした。相原も綾乃も自分達の誤解から二人の仲違いにつながった事で、切実に二人の仲直りを望んでいたし、希にとってもそれはもちろんのことだった。

 そして、決まった事は、明日希がまず雪に話をしてみる事、そしてその上で、二人を嫌がおうでも出会えるように仕向けて、あとは進にまかせようということになった。

 進の方は、その日、雪の仕事帰りに出会おうと、中央病院の玄関で待っていたが、いくら待っても雪は降りてこなかった。綾乃が3人で話し合ってから出て来た時にも、進はまだそこにいた。

 「古代さん?」 綾乃は、玄関先で出てくる人をじっと見ている進に気付いた。

 「あ、綾乃さん…… あの、雪は?」

 「雪? ……もうとっくに帰ってるはずよ」

 綾乃は、雪は定時には帰宅したと、さっき佐渡に聞いていた。

 「えっ? 4時から待ってたんだけど……」

 「……じゃあ、雪、古代さんが来てるのに気付いて裏口からでも帰ったんだわ……」

 「! …… そうか……」 それだけ言うと、進はため息をついてうつむいてしまった。

 「あっ、古代さん! 明日こそ、きっと雪に会えるようにするから…… 明日、相原さんから連絡が来ると思うから…… 今、相原さん、用があって帰っちゃったけど、今まで間宮先生も入れて、3人で話してたの。古代さんと間宮先生のことが誤解だって、よくわかったから…… ごめんなさいね、私達が早とちりしたばっかりに……」

 「いや…… いいんだ。俺が悪いんだ。間宮先生のことで、なんとなく雪に気まずいもんだから、正直に言えばいいのに言わなかったから…… 雪が誤解してしまうのも、仕方ないんだよ」

 進は、寂しそうな、悔しそうなそんな表情を見せた。

 「きっと、雪だって仲直りしたくてたまらないのに、古代さんに事実を聞くのが恐くて避けてるだけなのよ。あと、嘘つかれてちょっとショックで意地張ってるだけだから、ね」

 綾乃は、そんな進を励ますように、言った。

 「うん…… 明日こそ、雪と話してみるよ」

 「頑張ってね。雪は必ずあなたのところに連れてくから」

 「ありがとう…… けど、これは俺達の問題だから、あんまり無理なことしなくていいよ。俺がなんとかしなきゃ……」

 「ええ、わかったわ、じゃあ、また明日ね」

 進の休暇はあと2日。明日にはどうしても雪と話をして誤解を解きたい進だった。

 (10)

 一方、進が病院の玄関で待っている事を知って裏口から帰ってきてしまった雪は、自宅に着いても心が重かった。

 「雪、古代さんと話したの?」 美里が聞くが、雪はだまって首を振った。

 「困った子ね。そんなに恐がってどうするの? ママが古代さんに電話してきてもらいましょうか?」

 「……ううん、いい。今は会いたくないの。しあさって、古代君が航海に出る時には、どんなことになってても、ちゃんと笑顔で行ってらっしゃいっていうから…… もう少し待って」

 美里は、雪が進への恋しい気持ちに入り混じる、嫉妬や怒りなどの感情をまだ切り分けられないことに気付いた。雪にとって初めての恋、それが淡い片思いではなく、身も心も全てかけた恋だけに、経験のない雪はまだそれを扱いきれないで自分の感情をコントロールできない、そんな風に美里には感じられるのだった。

 「雪、自分の気持ちに素直になるのよ。意地を張ってたらだめよ」

 母から娘に言える事は、今はこれだけしかなかった。

 そして翌日、雪はいつもどおり出勤した。昨日から様子がおかしい雪に、佐渡もアナライザーも首をかしげていた。

 「なあ、アナライザー、雪はちょっと変だと思わんか? 古代が帰って来ておるのに、ちっともうれしそうじゃない。いつもなら、鼻歌まじりで、暇そうならすぐ『明日、休んでもいいですか』なんて言ってくるのなぁ……」

 「ソノトオリデス。雪サンハ トテモ 寂シソウデス。古代サント ケンカシタノカモ シレマセン。ムムム! コレハチャンスカモ!」

 「こりゃ、こりゃ。お前が張り切ってどうする…… やっぱり、あの日スーツで出かけたのは、何かあったんだな、こりゃ」

 「何かいいました? 佐渡先生、早く準備してくださらないと、患者さんが見えますよ!!」

 雪が厳しい声で佐渡を急かした。

 「おお、恐い恐い…… やっぱり、はやいとこ古代になんとかしてもらわんとこっちが大変だわい……」

 そんな会話をしている二人に、外から綾乃が手招きした。佐渡とアナライザーは雪に気付かれないように、そっと部屋を出た。

 「おお、佐伯君かぁ…… 雪の不機嫌の原因を知っておるんじゃろ? なんとかならんのか?」

 「わかってます、佐渡先生。それで……」

 綾乃は、今までの事情と、夕方の作戦を佐渡に告げた。

 「フムフム…… なーる、そういうわけじゃったのか。うん、そうかそうか、わかった。古代が来たら、うまくやっとくから、いいな、アナライザー!」

 「了解シマシタ。モットケンカシテイテクレテモ 僕ハイインデスガ…… 綾乃サンノ頼ミナラ 頑張リマス」

 雪が好きなはずのアナライザーだが、とかく女性の頼みには弱かった。

 (11)

 夕方、通常の業務が終わって、雪は今日も玄関を確認したが、進は見当たらなかった。昨日避けて帰ったというのに、雪は進が来ていないことにがっかりした。

 (古代君、もうあきらめたのかしら…… もう、わたしのことなんかどうでもよくなったのかしら……)

 来たら来たで困る雪だが、来ないとなると、また不安が募るのだった。しかたなく、帰りの途についた。中央病院の玄関を出たところで、希が立っていた。雪ははっとして、希を避けるように足を速めた。

 「雪さん…… お話があるの」

 希の声を聞くまいとしながら、雪はまだ歩きつづけた。希は後ろから追いかけながら言葉を続ける。

 「雪さん、ちょっと待ってちょうだい!」

 雪は、耳を覆いたいような気持ちでさらに歩く速さを速めようとした時、希が言った。

 「じゃあ、いいのね、古代君は私が貰っても!」

 「なっ!!!」 希の言葉にさすがに雪も歩みを止めて振り返り、希をキッとにらんだ。

 「なら、私の話を聞いて。ここじゃなんだから、近くの喫茶店でも行きましょ」

 希はすました笑顔で雪を誘った。雪もとうとう避けるのをあきらめて希について歩き出した。

 (間宮先生、何を言うつもりなのかしら…… 本当に古代君のこと……?)

 不安を抱きながら、雪はついて行った。

 (12)

 中央病院近くの喫茶店に入った。奥のほうへ行くと表からは見えないし、それほど混んでもいなかったので、話を聞かれずにすみそうだと、雪は思った。席についてコーヒーを二つ注文すると、希は話し始めた。

 「雪さん、あなたに心配かけさせてごめんなさいね。でも、最初にはっきり言っておくわ。私と古代君は全然何もないのよ」

 うつむいたまま、話を聞いていた雪はその言葉にハッとして顔を上げた。

 「うそ…… でも、抱きあってたって…… ふたりで出かけたって……」

 「ふぅっ、そうね、それは本当だけど、雪さん、私の話を黙って最後まで聞いてくれるわね!」

 希が強い口調で雪に向かってそう言った。雪は、希の真剣な瞳に見つめられて、黙ったまま頷いた。

 「私が、タイタンへ行く艦に無理してまで乗ったのは……」

 希は、自分が臨時の艦医として乗りこんだ理由から始めて、タイタンへ着く前の不安な気持ち、そしてそれを進に発見されて思わず頼ってしまったこと、進が兄の守に代わって、その責任をとろうと希に同行して、ゆきかぜを見に言ったり、希の婚約者の墓参りに同行したことを、こまかに説明した。

 雪は、じっと黙ってそれを聞いていた。進が説明しようとした時は、突然湧き上がった嫉妬心に自分の心を乱して、まったく聞く耳を持たなかった雪だったが、日にちもたち、相手も進でなかったからなのか、静かに聞くことができた。そして、希の説明が終わる頃には、雪の目には涙がたまっていた。

 「わかってもらえたかしら? 雪さん。古代君は、誰に対してもやさしすぎるのかもしれないわね。そして責任感も強すぎるのかしら? ねぇ、雪さん?」

 「……はい……」

 雪が瞬きを一つすると、涙がぽろっと落ちた。涙で詰まって、言葉が出ない。どうして泣くのか、雪にもわからなかった。進と希がなにもなかったうれしさからなのか、それとも、そのことを進に確認できなかった自分が悲しかったのか…… または、進が雪にすぐに本当の事を話してくれなかった事への怒りからなのか…… だが、希を誤解していた事だけは事実だと雪は思った。

 「……ごめんなさい…… 先生の事誤解して少し恨んでました……私」

 「ううん、あなたが誤解してもしかたがない状況だったのよ。佐伯さんや相原さんが誤解したように…… 私は自分の事しか目に入ってなかったのよ。この旅では…… もう、古代くんの事わかってあげれるわね。古代君、あなたのこと、どんなに大事に思って、どんなに愛しているか、何日か話しているうちに私にはよくわかっているわ。ね、雪さん」

 「……私も悪いんです。地球に帰って来て、古代君と普通に付き合えるようになってから、幸せなはずなのに、古代君が他の女の人と話しているだけで、ばかみたいにヤキモチ妬いたりしてたから、古代君が私に話しづらかったんだと思います……」

 「ふふふ…… 雪さんも普通の女の子なんだ」

 「えっ?」

 「初めて人を真剣に愛したんでしょ? 雪さん。愛すれば愛するほど、自分では抑えきれない嫉妬の感情が出てきてしまうのは、当たり前のことよ。私にもそんな経験があるわ。そのうち二人の間でもっともっと強い絆ができれば、そんな些細な事で動じなくなってくるわ。きっとね。だから、今はそれが普通なのよ」

 「でも…… 私、古代君になんて言って会ったらいいかわかりません。自分が悪いところもあるとわかりましたけど、古代くんだって嘘つかなくてもって思ったり、なんだかまだもやもやしてて……」

 「困ったわねぇ…… 時間があればそのうち解決するとは思うけど、あ、ちょっと待っててね」

 希は、そういうと席を立った。雪は席を立つ希を見つめながら、進と会って何をどう話せばいいのか思案に暮れていた。会いたい……でも、会ったらまた、何も言ってくれなかった進を非難してしまうかもしれない…… 心がゆれていた。

 席を離れた希は、携帯電話から、綾乃に連絡した。

 「綾乃さん? 一応、話はできたわ。誤解は解けたと思うのよ。でも、あと一歩が動けないみたいなの。例のあれ、お願い!」

 『わかりました。じゃ、すぐに連絡入れます。』

 (13)

 希が席に戻ると同時に、雪の携帯が鳴った。

 「はい、森です。あら、綾乃? どうしたの?」

 『雪! 大変なの! 古代さんが! あの……』

 「えっ? 古代君がどうしたの?」

 『あ、あの…… とにかく、古代さん、今佐渡先生の病室にいるから! 早く来て!! 雪!』

 綾乃は、それだけを言うとすぐに電話を切ってしまった。雪の顔色が一気に蒼白になった。

 「どうしたの? 雪さん」

 希が雪に声をかけるが、その声も聞こえていないかのように、雪は呆然と宙を見つめている。

 「古代君が…… !!」

 雪はそれだけを言うと、喫茶店から駆け出して行った。

 (やったわね、綾乃さん。綾乃さんが役者なのか、雪さんが古代君への思いが強いのか…… ふふ、大丈夫そうね、二人は……)

 希は、喫茶店のレシートを取りながら、雪が駆けていった方向を楽しそうに見つめていた。そして、もう一度、携帯電話から綾乃に連絡した。

 「綾乃さん? 今、雪さん行ったわ。五分もあれば着くわよ。大慌てで行ったから……」

 『わかりました♪ 古代さんはもう来てますから、今、アナライザーに病室の方へ連れて行って貰いますね。』

 「雪さんのあの慌てよう……ふふふ、綾乃さんって役者ねぇ」

 『雪が古代さんにぞっこんなだけですよ。私、ほとんど何も言ってないのに、雪ったら…… あとは、こちらにお任せ下さい。』

 「よろしくね。雪さんがあんなに必死になる古代君ってやっぱり……誘惑してみればよかったかしら?」

 『先生!! もう、冗談でも言わないで下さいよ。私困りますから……』

 「ふふふ…… 大丈夫よ。もう、誘惑したくてもできないから、私は…… じゃあ、また明日ね」

 希たちの策略の第一弾は成功したようだ。あとは進が雪の心をつかむだけだった。

 (古代君!! 何があったの? 事故? 病気? 綾乃のあの慌て方は…… ああ、古代君にもしもの事があったらどうしよう…… 私が意地張ってたばかりに、古代君が…… 古代君が!!)

 雪は、泣き出しそうになりながら、それでも泣いている場合ではないと自分を叱咤して、中央病院への道をひたすら走って行った。

 (14)

 佐渡の医務室には、夕方近くになって、相原に誘われた進が到着していた。

 「おい、相原、雪に会わせてやるって、雪が帰った佐渡先生の医務室に連れてってどうするつもりなんだ?」

 「まあまあ、慌てないで、古代さん。ちゃんとやってますから…… それより、雪さんが来たら、なんて行って仲直りするか、ここ一番ちゃんと決めてくださいよ! 後には、プロポーズも控えてるんでしょ?」

 「えっ? ま、まあな」 赤くなる進を、相原はひじでつっついた。

 「ほんとにもう、世話が焼けるんですから、古代さん!」

 「何言ってる! 大体、お前が変なとこ見て、勘違いしなかったら、こんな事にはなってないんだぞ!」

 また、相原にヤツ当たりする進だった。

 「わかってますって、だからこそ、僕や綾乃さんが骨折ってるんでしょう」

 そこへ、綾乃が駆け込んできた。

 「アナライザー、お願い。古代さんを病室に! 雪が来るわ」

 「ハイ、了解シマシタ!」 アナライザーは進を軽々と抱き上げて病室へ連れて行った。

 「お、おい! アナライザーどうしたんだ? なんで俺が病室へ行くんだ? 雪が来るって?」

 「雪サンハ アナタニ何カアッタ思ッテ 慌テテヤッテキマス。チョットノ間、病人ニナッテイテ クダサイ」

 「なんだってぇ! そんなことして雪を騙したら、また俺は雪に信じてもらえなくなるじゃないか! 俺は正々堂々と雪に話をするぞ! おい、こら! 降ろせ、アナライザー!!」

 「ダメデス 時ニハ作戦モ必要デス。 ジット黙ッテ 雪サンノ言葉ヲ聞イテカラ 古代サンハ 目ヲ開ケテクダサイヨ。 キット雪サンノ告白ガ聞ケルハズデス」

 進よりもアナライザーの方が、恋の熟練度は高いようだった。それを見ながら、綾乃と相原は笑った。

 「やっぱり、間宮先生の言うとおりだったわね。古代さんをまきこんで計画を練らなくてよかったわ」

 「でしょ? 古代さんに最初から話してたら、『俺は正々堂々と話すからそんな小細工するな!』で一喝ですよ。時間もないんだから、ここはやっぱり作戦を練らないとね」

 傍らでは、佐渡がおもしろそうに、それぞれのやり取りを聞いていた。その時、雪が医務室に駆けこんで来た。

 「古代君!!」 雪の顔は真っ青で、目には涙があふれそうになっていた。

 (15)

 「佐渡先生! 古代君はどうしたんですか? 古代君はどこに…… 佐渡先生!」

 いつも、動転している患者の家族を冷静に慰める雪なのに、進のことになるととても冷静ではいられないらしく、佐渡の体を揺さぶるようにつかんで問いかけた。

 「まあまあ、落ち着け、雪。古代は大丈夫じゃ。今、あっちの病室でアナライザーが様子を見ているから……」

 それだけを聞くと、佐渡に病状を聞くでもなく雪は病室に飛びこんだ。

 「古代君!!」 雪はそういうと、進の枕元に駆けつけた。

 「アナライザー! 古代君はどうなの?」

 「古代サンハ、大丈夫デス。今眠ッテイマス。相原サンガ 古代サンノ家デ一緒ニ イタラシイデスガ、急ニ 倒レタソウデス。原因ハマダ検査中デス」

 アナライザーが適当な事を言ったが、今の雪にはそのいい加減さも見ぬけなかった。アナライザーは雪にそれだけを言うと、静かに病室を出て行った。

 「古代君…… 古代君…… どうしたの? 何があったの? 目を開けて! 古代君……」

 雪の声は涙声だった。ぽろぽろと落ちる涙が進の顔を濡らす。進は、それがくすぐったくて動きそうになったが、さっきアナライザーに言われたことを思い出して、もう少し我慢することにした。

 「古代君…… 私、ごめんなさい。あなたの話を聞こうともしなかった私が悪いんだわ。間宮先生に話を聞いたのよ。私の誤解だったって…… 私が今までヤキモチ妬いたりしてたから、古代君、間宮先生の事もすぐに私に言えなかったんでしょ? このまま古代君が目を開けなかったらどうしたらいいの? お願い、古代君! 目を開けて…… 好きよ。古代君、愛してるわ。あなたがいなかったら、私……」

 雪は必死に進に訴えた。進は、もうこれ以上雪を悲しませる事ができなくて、目を開けて言った。

 「ごめん、雪……」

 (16)

 「古代君! 目を開けたのね? どこか痛い? 苦しいところは?」

 目を開け雪を見つめる進の姿に、雪は一安心した。

 「違うんだ、雪。俺はどこも悪くないんだよ。相原に、雪に会わせてやるって誘われてここに来ただけなんだ。

 「えっ? じゃあ…… 私てっきり、あなたが急病だと思って……!」

 雪はそう言うとあとずさりした。進がベッドから置きあがると、雪はそのままくるっと振りかえって、病室から出ようとドアに手をかけた。

 「待ってくれ、雪! もう、逃げないで! 俺に説明させて欲しいんだ。雪に嘘ついてしまったことは俺が悪いんだ。だから、殴ってくれてもいいし、何を言われてもいい。けど、俺の雪への気持ちは何も変わってないし、これからも絶対に変わらない! それだけはわかって欲しいんだ。雪……」

 雪は、進の必死の訴えを後ろ向きのまま聞いていたが、ゆっくりと進の方を向いた。

 「古代君……」 そう言うと、雪は進の前までゆっくりと戻ってきて進を見つめた。

 進は、ベッドから降りて立ち上がると、雪の目の前で目をつむった。

 「おもいっきり殴ってくれ」

 進が目をつむってから、しばらく間があった。雪はそのまま、また部屋を出ていってしまったのではないかと、進が不安になった時……

 「古代君のばかぁ!」

 雪は、そう言うと進の胸に飛び込んだ。進は、雪が平手打ちでもするんではないかと顔に力を入れていたが、自分に飛びこんできてくれた雪を思いきり抱きしめた。

 (もう、離さないぞ、雪……)

 「雪…… ごめんよ。もう、ニ度と隠し事なんかしないよ。なんでも話すよ。必ず……」

 進は抱きしめていた手を少し緩め、雪の顔を見つめて言った。

 「私も…… 一人で勝手に解釈してしまったりしない。なんでも話し合うって約束するわ」

 雪も今やっと素直になって笑顔で進を見つめた。

 「雪…… 愛してるよ」

 愛してる――進は、雪に初めてその言葉を使った。そして、二人の唇がそっと合わさった。涙をふくんだ雪の唇は塩味がした。その塩味でさえ、今の進には甘く感じられるのだった。

 (17)

 お互いの愛情を確認してから、ふたりはゆっくりと唇を離した。そのまま、じっと見つめあう二人の顔に明るい笑顔が戻った。

 「よかった…… やっと雪と笑いあえた」

 「ええ……」 

 雪の笑顔がはにかんでいる。そこで進は、雪の笑顔を見てはたと気がついた。

 (そうだ。俺は雪に言わなければならないことがあるんだ! プロポーズ……)

 「雪…… あの……」

 「なぁに?」 進が何か言いたげにしているので、雪は言葉をうながした。

 「今度の航海から帰ってきたらすぐに言おうと思っていたんだけど……」

 しかしその時、ドアの向こうから緊急放送が聞こえてきた。

 『佐渡先生、佐渡先生。まだ、ご在室ですか? 救急患者が入りました。対応願えますか?』

 「わかった。すぐ行く!」 佐渡の答える声が聞こえた。

 「救急患者だわ…… 古代君ちょっと待ってて!」

 看護婦としての雪の動きはすばやく、進の手を離すと身を翻してドアから出ていった。残された進は一瞬呆然としたが、はっとしてすぐに病室を出た。病室を出るとそこには、相原だけがやはり呆然と立っていた。

 「相原? みんな行ったのか?」

 「はい…… あっという間に。さすがですね。先生も雪さんたちも……」

 「ああ……」

 佐渡をはじめ、綾乃もアナライザーも雪もそこにはいない。救急室へすぐに飛んで行ったようだった。仕事柄、常に救急患者には早急に対応する癖がついているのだろう。

 「あ、ところで仲直りはできたんですか? プロポーズは?」

 相原が思い出したように、進に尋ねた。

 「うん…… 誤解は解けたけど…… プロポーズは、今の緊急放送で……」

 進は、もう一息でプロポーズを言葉に出せたのにと思いながら、苦笑した。

 「あちゃぁ…… やっぱり、中央病院の病室ってのはまずかったですね」

 「あははは…… そうだな。まあいいや。仲直りできたんだから、明日もあるし。いろいろありがとうな」

 「ふぅっ! そうですね、これで僕も安心して眠れますよ。さて、僕はもう帰らせてもらいますね。じゃあ、またあさって」

 相原は、そう言って出ていった。進はしばらくその部屋で雪たちの帰りを待っていた。救急患者は佐渡の医務室に連れてこられずに、別の場所で処置されているようだった。30分ほどして雪が帰ってきた。

 「どうした? 患者さんは?」

 「うん、大丈夫。訓練飛行中にスクランブルで不時着したらしくて、右足を骨折してるけど命には別状はないわ。佐渡先生の応急処置は終わったし。とりあえず今日は入院してもらうようだけど、後は、綾乃がやってくれてる。古代君が待ってるから、行きなさいって、綾乃が」

 「そっか…… じゃあ、帰るか」 「ええ」

 (18)

 二人が佐渡の部屋を出たところに、ちょうど希がやってきた。

 「あら、おふたりさん! 仲直りしたようね」

 希は、進と雪の二人を交互に見ると目を細めて微笑んだ。

 「すみません…… 間宮先生にまで気を使わせてしまって……」

 進が頭を下げると、雪も一緒に頭を下げた。

 「うふふ…… いいのよ。古代君には本当にお世話になったわ。これで、私も心置きなく行ってくる事ができるわ」

 「心置きなく行くって?」 進が聞き返した。

 「私ね、来週からアメリカなの。アメリカに今、外科手術の最高権威と言われているフォード博士っていう人がいるの。で、彼の技術をかった地球防衛軍が、連邦中央病院に彼を招致したらしいんだけど、彼がウンと言わなくてね。技術が欲しければ習いに来い、っていうのが、彼の論理らしいわ。だから、私を含めて3人の若手が彼の技術を習得に留学する事になったのよ。たぶん、2、3年は帰れないわ。
 だから今回の旅は、タイタンに行ってゆきかぜを見て、彼(婚約者)のお墓参りする最後のチャンスだったのよ。私も必死だった。留学前に気持ちの整理をつけたくてね。藁をもつかむつもりで、古代君におんぶに抱っこだったわ。本当にありがとう、古代君。そして、ごめんなさいね、雪さん」

 「そうだったんですか…… 先生! お気をつけて」 と進。

 「今度帰ってこられるときはもっとすごい先生になって来られるんですね」 雪も祝福する。

 「そうなりたいわ、あなた方が万一どんなひどい怪我をしても必ず直して差し上げられるような。うふふ。じゃあ、これでお別れね。古代君、雪さん。必ず二人で幸せになってね。私の分も……」

 「間宮先生……」

 「それから、雪さん。古代君をどんな時でも離しちゃダメよ。私の彼もそうだったけど、古代君も正義感一杯の人だから、どんな危険にでも飛び込んでしまう人だわ。古代さんの手を離したら、どこへ行ってしまうかわからないわよ…… 私は、つかみきれなかった…… あなたは必ず……」

 「はい、間宮先生…… 絶対に離しません!」 雪もはっきりと笑顔でそう答えた。

 「間宮先生! 変なこと言わないでくださいよ。まるで、俺が猪突猛進のいのししみたいじゃないですかぁ?」

 「あら? 違ったの?」

 「ひどいなぁ……」

 進のぼやきを聞いて、女性2人は顔を見あわせて笑った。

 「じゃあ、行くわ。またいつか会いましょう、古代君、雪さん」

 そういうと、希はまた廊下を戻って行った。進と雪はその後姿を見えなくなるまで見送っていた。

 (19)

 中央病院を出た二人は進の運転で、雪の家に向かった。雪の両親にも心配をかけたから仲直りの報告をしたいという進の希望だった。

 「ね、雪、明日は空いてる?」

 「ええ、さっき、佐渡先生が明日休んでもいいって。古代君にたっぷり埋め合わせしてもらえって……」

 雪は進にそう言うと、意味ありげに笑った。

 「えっ…… そ、そうなんだ。あはは…… わかったよ。なんでもさせていただきます」

 「古代君のマンションも決めなきゃね」 思い出したように雪は言った。

 「ああ、そうだったな…… マンションね……」

 (プロポーズして、二人で暮らせるようなマンションを決めなくちゃ……)

 今度こそ間違いなくプロポーズするぞと心に誓う進のだったが。

 そうこうしているうちに、雪の家に着いた。ベルを鳴らすと美里が玄関に出てきて、二人が揃っている事に大喜びした。

 「あなたたち、仲直りしたの?」 美里が少し心配げに尋ねた。

 「はい…… ご心配かけてすみませんでした」 「ママ、ありがとう……」

 二人はそれぞれに美里に感謝の言葉を言った。

 「じゃあ、古代さん、もう何もかも大丈夫なのね? うまくいったのね?」

 念を押すように美里は進に尋ねた。

 「はい!」

 進は、うれしそうにはっきりとそう答えた。だが、実は進は、この美里の『何もかも』を誤解して、答えてしまったことにまったく気付いていなかった。

 「まあ!! よかったわ。パパ、パパ!! 古代さんと雪が結婚を決めたって!!」

 美里は、大喜びで、リビングの方へ駆けこんで行った。美里は、進に話していたプロポーズも済ませて来たものだと確信してしまったのだ。

 「ええっ!!!」 二人はびっくりしてそろって叫んでしまった。

 「あ、ちょっ、ちょっと待ってください! お母さん!」

 進は慌ててそう言いながら家に上がった。雪もそれに続く。リビングに着くと、晃司も満面に笑みを浮かべて二人を迎えた。

 「そうか、そうか、いやぁおめでとう、雪、古代君。本当によかった。これからは、実の息子のつもりでいてくれればいいからな」

 晃司もうれしそうに二人を歓迎する。

 「いえ、あの、そのう……」

 「いいのよ、古代さん。そんな堅苦しい申しこみはいらないから、パパももうずっと前からそのつもりしてたんだから、あらたまった話でしんみりさせないで、ねっ!」

 「うん、堅苦しいのはなしにしよう」 美里の話に晃司も頷いた。

 「パパ、ママ! だから……」 雪が少し顔を赤くして両親に声をかける。

 「いいじゃないの、今更照れる事もないでしょう? 雪」

 そして、二人の喧嘩の事で心配させてしまったので、二人が結婚の約束の報告に来たと思いその気になって大喜びしている両親に、とうとう、雪も進も何も言えなくなってしまった。

 「さあ、たいしたごちそうはないけど、お祝いしましょ。パパ、シャンパン開けてもいいでしょう?」

 「ああ、だが、あれはだめだぞ!」

 晃司は結婚式の日にあける例のシャンパンの事を釘を刺した。

 「わかってます! さあ、ふたりとも座って、座って……」

 進と雪は、顔を見合わせた。

 「古代君?」

 「いいんだ、雪。どうせ、そのつもりだったんだから…… ご両親があんなに喜んでくれてるんだ。水をさすのはやめよう」

 進が雪にそう言うと、雪も笑顔を進に向けた。

 「そうね…… ふふふ、ママらしいものね」

 美里の頭はもう結婚式のことで一杯のようだった。

 「ねえ、雪、結婚式は、今から予約するとしたら、やっぱり半年くらい先でないといい日が取れないわよね。あ、ねぇ、お式の日は、9月9日、雪の20歳の誕生日の日にしましょう。いいでしょ? 
 あ、それから、古代さん、結納とかそういう堅苦しいのもなしね。古代さんも家族がいらっしゃらないんだから、そういうの困るでしょう? だから、あ、でも、雪にエンゲージリングだけはお願いね。やっぱり、あれは女の子の夢だものね。そうだわ! 明日もう一日お休みがあるんでしょう? 明日でも二人で行ってらっしゃい。
 古代さんのマンションも決めるんでしょ? 結婚したら一緒に住めるところがいいわよ。また、引越しって言うのもたいへんだから。あ、でも家具はそんなに買わなくていいからね、古代さん。私たちとしては、雪にそれなりの花嫁道具を持たせてやりたいから……」

 舞い上がった美里の口からは、いろいろなプランがよどみなく出てくる。これには、晃司や進はもちろん、雪にいたっても口を挟む余地がなかった。ただ、笑って聞いているだけだった。

 夜も更けて、進は森家を後にした。見送る雪にまた明日と手を振って。こうして進と雪の婚約は決まった。誰の尽力でもない、そう、美里の早とちりから……

 (20)

 翌日、雪を迎えに来た進は、車で雪がめぼしを付けていたマンションを見て回った。そのなかの一つで、雪も一番気に入っていた物件に決めた。
 既に完成しているそのマンションは即入居OKで、50階の高層マンションの12階、防衛軍本部からも、中央病院からも近い。雪が結婚後に通勤する事を考えてのことだった。
 予定通り、リビングダイニングと個室が2つの2LDK。リビングが南向きで明るい日差しが入ってくるのもうれしい。賃貸料はちょっと高いが、二人の収入ならそんなに大変でもない。

 部屋を決めて、不動産屋から出ると、今度はジュエリーショップへ。進は、慣れない雰囲気にきょろきょろして落ち着きがない。雪は女性らしく、見るもの見るものに目が移ってうれしそうだった。

 (そういえば、雪にこんなアクセサリーとかプレゼントした事ほとんどなかったなぁ……)

 進は、うれしそうにいろいろなアクセサリーを見て歩く雪を見ながら思った。雪の歩く後ろを進はついていく。そして雪の足が一つのカウンターで止まった。

 「いらっしゃいませ。エンゲージリングでございますか?」

 二人揃って来た客に、店員は笑顔でそう尋ねた。

 「はい……」 雪は、頬を染めてうれしそうに微笑んで進のほうを見た。

 「好きなの見ろよ。俺はよくわからないから」 進は、照れ笑いする。

 「エンゲージリングでしたら、やはりダイヤモンドがよろしいでしょう?」

 「ええ、でも、誕生石のサファイアも好きなんです」 雪が店員に答えている。

 (誕生石? サファイア? そうなんだ、雪の誕生石ってのがサファイアか……ふーん)

 進には、何もかもが珍しいようだった。とても指輪の選択には参加できそうもない進だった。いろいろと差し出す指輪に雪はまた、新しい注文をだす。そして、

 「それでしたら、こちらのがよろしいのでは」

 店員が出した指輪は、中央に小ぶりのダイヤモンドがあり、その回りに2個の小さなサファイアが飾られているものだった。2個のサファイアは、少し細工した台座に乗せられていて、あまり堅苦しくないデザインになっていた。
 店員は、その指輪を雪の手にはめた。サイズもあっていたようで、雪の細い左の薬指にとても映えて見えた。

 「素敵だわ!」 雪は、指輪をした手を自分の目の前に持ってきてじっと見つめた。

 「今、こういうデザインリングがとても人気ですのよ。エンゲージリングと言っても気軽に付けていただけますし、それにこれは、石のグレードも高くて…… 少し値は張りますが、どこに出しても恥ずかしくないものです。あの、ご予算はいかほどですか?」

 「古代君?」 雪は、首をかしげて進を見る。

 「えっ? あ、ああ……」 進は、雪に促されて指輪を見、店員が示す値札を見た。

 (え!! こんな小さなものが……あの値段! 高いなぁ…… けど、雪は気に入ってるみたいだし…… えーい!)

 「ああ、いいよ、雪。君が気に入ったんなら、それにしよう」

 「ほんと! うれしいわ。古代君、ありがとう」

 雪のうれしそうな笑顔が見られて進は値段の事は考えない事にした。だが、いつか買いたいと思っていたエアカーではない普通車が、少し遠のいて行ったような気がした。

 「じゃあ、これにします」

 雪は店員にそう告げると、もう一度進を見てニッコリと笑った。

 「サイズもよろしいですね。ではお包み致しますので、お支払いはいかがしますか?」

 「あ、カードで……」 進は、慌てて自分のクレジットカードを差し出した。

 包みとカードを受け取った進は、雪と一緒に店を出た。なぜか、どっと疲れたような気がする進だった。雪は当然のように機嫌がよかった。

 「ちょっと、休もう」 そう言うと、進は近くの喫茶店に雪を連れて入った。

 (21)

 昼近かったので、軽い食事も済ませて、やっと進は一息ついた。そして、持っていた指輪に気付き、雪に差し出した。

 「これ……」

 「なぁに? その渡し方! ちゃんと開けて指にはめてくれなきゃあ」

 雪が少しムットして、だが甘える様にそう言った。

 「あ、ごめん……」

 進は、あわてて包みを解き指輪を出すと、雪の差し出す左手をとって、薬指にはめた。進はそれだけで緊張して、むずかしい顔で指輪をはめている。雪はそんな進の表情を見て笑っていた。

 「古代君、ありがとう。一生大事にするわ…… ところで、ねえ、古代君? なんか忘れてない?」

 「え? なんかって?」 進は、雪の突然の話にきょとんとした。

 「あの…… 私、古代君から、プロポーズして貰ってないような気がするんだけどぉ……」

 「あっ…… ああ…… そうだよな、昨日君のお母さんにすっかりやられちゃったんだった…… あははは……」

 「あははじゃないでしょ!」 雪がちょっと膨れて進をにらんだ。

 「ああ、そ、そうだ…… うん、いや、まあ、その……(あれぇ? なんて言えばよかったんだっけ?)」

 昨日から雪にプロポーズするつもりだった進なのに、急に話を振られて頭の中で言葉が混乱して、パニックを起しそうになっていた。そして雪は、そんな進の姿を見てくすくす笑い出した。

 「もういいわ、古代君!」

 「あ、いや、それはだめだよ。えっと……」

 「古代君!」 雪がもう一度進に声をかけると、進ははっとして雪を見た。

 「私…… プロポーズの言葉は、一生に一度の大切な言葉だと思ってるの。その言葉を大切にして一生あなたと生きていきたいの。だから、私が一生大事に抱いて生きていける言葉をちょうだい。今じゃなくてもいいから…… 結婚式までに…… ね」

 雪はじっと進をみつめながらそう言った。

 「うん…… そうだな、よく考えてみるよ」 進は雪の顔を見つめなおして答えた。

 「でも、ちゃんと言ってくれなかったら、お嫁さんになってあげないんだからね!」

 「わかったよ! 必ず雪が感動する言葉を考えるから……」

 「ふふふ…… 期待しないで待ってるわっ!」

 「なんだよ、それ!」

 とうとう、今回進は雪にプロポーズの言葉を告げることができなかった。けれど二人にとってそれはまだ先のことでもよかった。二人が笑顔で見つめあえる、お互いの気持ちが心に伝わってくる。それだけで二人は幸せだった。そして、おそらく半年後に迎える結婚式と二人の生活のことを、今は夢見るだけで充分だった。

 幸せへの軌跡は二人の後ろに右へ左へよれながら少し見えていた。そして、それはこれからもずっと長く続く道でもあった。まっすぐに行かないかもしれない、遠回りするかもしれない、だがそれも二人一緒に歩いてきた道ならば、それが幸せなのだから。

 ***エピローグ−おまけ−***

 喫茶店を出た二人は、特にあてもなく街中を並んで歩いていた。何気ない会話、ちょっとした冗談が楽しい。雪は昨日まで話せなかったたわいもないことが次々と浮かんできて、それを伝えるのに忙しかった。進は笑ってそれを聞いている。午後のひとときだった。

 「あっ! 古代さ〜ん! ゆきさ〜ん!」

 遠くで、二人を呼ぶ声がした。

 「あれは…… 徳川さんの姪っこ?!」 進が遠くからかけてくる少女を見つけた。

 「ほんとだわ、ミカちゃんって言ったっけ?」

 「……逃げよう」 進がなぜか焦り出した。

 「えっ? どうして? …… あっ、またぁ…… うふふ、もうヤキモチなんか妬かないわ」

 雪は、進が考えている事を言い当てると、そう答えながら左手を進に見せた。その薬指にはさっきもらったばかりのエンゲージリングが光っている。

 「あなたの気持ち、信じてるもの…… 古代君!」

 「そっか、そうだな」 進は、安心したようにニコッと笑ったが、「や、でもなんか身の危険をかんじるなぁ……」 と少し身構える。

 「うふふふ…… もうっ! ミカちゃんにしかられるわよ」

 そんな会話をしているところに、ミカは二人の前までやってくると、進ではなく、雪に飛びついた。

 「雪おねえさまあ〜ん!」

 「え…… ええ! あ、あの、ミカちゃん……?」

 「お元気でしたか? 雪おねえさま! 古代さんも!」

 「ええ、元気よ。飛びつく先が違うんじゃないの? ミカちゃん」

 「ええ?! わたしぃ、雪おねえさまのファンになっちゃったんですぅ! だって、あの時会ってからとっても美人で素敵な方だなぁって思って、また、いろんな本見たんですぅ…… そしたら、雪おねえさまってとってもいろんなことができて、スーパーウーマンなんですもの! ミカ、大ファンになっちゃいましたぁぁ!」

 「まあ…… ありがとう。でも、古代君は?」

 「好きですよん! でも、雪おねえさまの方が好きになっちゃったんです! だめですかぁ?」

 「ううん、いいわよ。どうもありがとう……」

 雪は戸惑いながら、礼を言った。進もあきれた顔でミカと雪を交互に見ていた。

 「あっ! 雪おねえさま、その指輪…… ええ! もしかしたら、お二人ってラブラブなんですかぁ?」

 ミカは、めざとく雪の左手のエンゲージリングを見つけた。

 「うふふ…… 今日貰ったのよ、古代君に……」

 雪は、左手をミカの前にかざして、頬を少し染めて見せた。

 「ああ! おめでとうございますぅ! 素敵ぃ!! ミカ、前会った時からそんな気がしてたんです! あっ、そうだ、記念にそこでプリクラ撮りましょう! ねっ! ねっ!」

 ミカは、雪をひっぱって、店先にあるプリクラの自販機の前に立った。二人の婚約の記念だという意味かと思ったのに、なぜか進は置いてけぼり。雪だけをカメラの前に連れていくと、ミカは雪に抱きついてほっぺにちゅっ! ミカは雪の頬にキスしている写真がたちまちでてきた。


(by ミカさん)

 ミカは撮った写真をはさみで二つに分けて、一つを雪に渡した。

 「おおい! 俺も入れろよ! 雪、今度は俺と撮ろう!」

 進が割りこんできて騒いでいる。ミカと雪はくすくす笑っている。

 「古代さん! 雪おねえさまを絶対に幸せにしてあげてくださいね。そうでないと、ミカがどこにいても飛んできて、ウルトラパーンチしちゃいますよぉ!」

 「わかったよ! ミカちゃん」

 進はミカの言葉に苦笑して答え、雪を見た。雪もまぶしそうに進を見つめ返した。ミカは、そんな二人を見て、ちょっとお邪魔虫かな? と思ったらしく、

 「じゃあ、これで! またねっ!」

 あっという間に走り去ってしまった。

 「嵐みたいね、いつもあの娘(こ)は……」

 「まいったね、今度は、俺がやきもきさせられる番なんだろうか…… ははは。まあ、相手がかわいい『女の子』でよかったな、雪!」

 「そうね、女の子もかわいいわね」

 「お、おいおい! 本気なのかぁ?!」

 「うふふふ…… さぁねぇ……」

 雪がスタスタと歩き出した。その後を進も笑いながら追いかけていった。恋人達の幸せのストリートを。

第 ニ 部 終 了

『幸せへの軌跡−進と雪の婚約物語−』 完

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(背景:Angelic)