3年目の……浮気!?

 
 (1)

 2208年の新しい年も無事に何事もなく明けた。

 我らが古代進と森雪が結婚してから、早3年が経とうとしている。二人の結婚生活は順調で、一昨年には二人の初めてのいとし子も産まれた。守というかわいい男の子だ。両親とおじいちゃんおばあちゃんにも愛されてすくすくと育っている。
 そして、昨年の秋には二人目の妊娠も判明し、今雪はまもなく妊娠5ヶ月の安定期に入る。
 幸せいっぱいの若夫婦はお正月も家族みんなで楽しく過ごした。

 そして今日は1月4日。宇宙戦士訓練学校の臨時講師として、先月から数ヶ月間の地上勤務の予定の進は、まだ正月の休暇中。
 だが、雪はこの日から通常通りの任務となる。息子を夫に預けて、防衛軍司令本部にご出勤と相成った。

 とは言っても、さすがに正月早々、特に忙しくはない。司令本部の中枢、司令長官室でも、新年の挨拶に訪れる訪問客をさばけば、後はのんびりとしていた。

 司令長官筆頭秘書を勤める森雪――職場では旧姓を使っている――も、来客の途絶えた時を見計らって、長官の許可をとって昼休みにすることにした。
 少し大きくなり始めたおなかをさすりながら、さぁて、と立ち上がる。そして、

 「たいした仕事もないし、きょうはゆっくりめに昼休み取ってきなさい」

 という長官の優しい一言に、「ありがとうございます」とにこやかに微笑んだ。そして、いつも通り司令本部最上階のカフェテリアへ向かおうと、部屋を出た。

 廊下に出ると、ちょうど同じタイミングで出てきた同僚がいた。参謀長秘書の夏木亜美だ。ちなみに、彼女も昨年結婚し、結婚後も旧姓を使っている。その上、雪と同じくただいま妊娠中だ。

 「あら、雪さんもお昼ですか?」

 「ええ」

 「じゃあ、ご一緒に……」

 亜美がにっこりと微笑んだ。そして二人は連れ立ってカフェテリアに向かった。

 (2)

 カウンターで食事を選びテーブルにつくと、二人はとりとめもない話を始めた。お正月休暇中の話、家族の話。色々と盛り上がっているところに、一人の女子職員が通りかかった。

 「あら、亜美さん、ちょうどよかったわ。この前頼まれてた雑誌、はいっどうぞ!」

 その女子職員は、亜美に一冊の女性雑誌を差し出した。亜美も顔を上げ、それを受け取りながら答えた。

 「あらっ? もう読んだの?」

 「ええ、なかなか面白かったわよ」

 「ありがとう! じゃあ遠慮なくお借りするわ。読んだら返しに行くわね」

 「ええ、でもいつでもいいわよ! じゃあお先に。お腹の赤ちゃんと旦那さまにもよろしくねっ」

 女子職員は、笑顔で小さく手を振ってカフェテリアから出ていった。
 雪は直接の知り合いでないので、軽く会釈しただけで、二人の会話を黙って聞いていた。彼女が行ってしまうと、亜美が説明し始めた。

 「同期なんです。彼女は経理の方ですけど…… ご存知ですか?この雑誌。今ヤングミセスに人気なんです。いつも特集が面白いんです。
 新婚時代から倦怠期まで……いろんな結婚生活の楽しみ方や問題点なんかも書いてあって、結構参考になるんですよぉ〜 もちろん、二人のラブラブアイテムなんていうのも…… うふふっ」

 亜美が意味深な顔で笑う。雪もくすりと肩をすくめた。二人の目は笑っている。

 「まあっ…… それは興味あるわねっ、ふふ…… でも、最近はゆっくり雑誌を読む時間がとれなくなったわ。仕事は忙しいし、家に帰れば子供と戦争でしょう? その上、このお腹になっちゃったし。でもたまには優雅に過ごす時間が欲しいわ」

 ほぉっとため息をつく雪の顔を、亜美は不思議そうに見た。

 「そうなんですかぁ? 雪さんなんて、ちょっとした時間を作って優雅にティータイムとか過ごしてそうなのに……」

 「まさかっ、ふつーの主婦してるわよ。毎日、ばたばた……!」

 「うふっ、とかなんとかいっちゃって、旦那様とイチャイチャするのにお忙しいんじゃないんですか? 確か今、旦那様地球でしたもんねっ」

 いつものごとく、亜美の突っ込みが入った。さっそく雪の頬がほのかに赤く染まる。が、ちょっと嬉しそうでもある。

 「ん、もうっ、やあねっ! そんなことないわよ。うちの王様はいまや守ですもの! 二人して振りまわされてるわっ! ちょっと目を離したらもう大変なんだからぁ」

 「うふふ…… でもそれも楽しそう。守君一歳半過ぎたんですよね? ホント一番危なっかしい時期ですものね」

 「そうなの。今日も彼が面倒見てるんだけど、大丈夫かしらね」

 雪はちょっと考えるように首を傾げた。

 (お正月の間中、守に振りまわされた上に、ジジババ孝行もしてくれたし、パパもそろそろやんなってるんじゃないかしら?)

 などと想像したりする。彼にとっては仕事をしている方がよっぽど楽なんじゃないかと思う妻であった。

 「いいじゃないですか、子育ての苦労は夫婦二人で分け合わないと…… それに雪さんはお腹にも赤ちゃんいらっしゃるんだし」

 「それもそうね。亜美さんも子供が生まれたら旦那様にたっぷり手伝ってもらってね」

 「ええ、もちろんです。幸いうちの旦那様は毎日家に帰ってきますから、た〜っぷり手伝ってもらいますわっ」

 二人で顔を見合わせてくすっと笑った。二組の若夫婦、妻と夫の力関係はどちらも同じく妻の勝ちらしい。

 「うふふ……さすが亜美さんね。それに亜美さんの旦那さま優しいからきっと心配ないわね」

 「もうっ、や〜だぁ〜」

 雪の冷やかしに、今度は亜美の方が照れて赤くなった。手に持っていた雑誌を丸めてぎゅっと握り締めた。

 (3)

 「で、その雑誌、今月はどんなテーマなの?」

 雪に促されて、亜美が雑誌を開いた。

 「えっと、ちょっと待ってくださいね…… あら…… これは雪さんちには関係ないテーマみたい」

 ぱらぱらと数ページめくって目次をチェックしてから、亜美は可笑しそうな顔で顔を上げた。

 「関係ないって?」

 「だって……今月の特集記事は『絶対見逃さない夫の浮気チェック』ですもの」

 亜美がパチンと右目を大きく閉じて、ウインクした。とたんに雪もくくっと喉で笑った。

 「そうねっ、その心配はないと思うんだけど。うふふ……」

 雪がいかにも嬉しそうに笑った。進と結婚して3年近くたっても、二人の愛情は深まるばかり。雪は今も夫に愛されていると実感している。それが顔にもでいるらしい。さっそく亜美にチェックされた。

 「だって、彼ったら私に夢中なんですもの!でしょ? 顔に書いてますよ! もう、アツアツなんだからぁ〜」

 「あらっ、やぁねっ! 亜美さんところの方が新婚さんでしょ!」

 「うふっ、そうですけど…… でも、雪さんちには負けますよっ! でも一応、ポイントだけは見ておこうかな? 万が一に備えて」

 亜美がいたずらっぽく笑うと、特集ページを開いた。

 「どんなこと書いてる?」

 雪もちょっと身を乗り出した。実はちょっと興味はある。
 そんなことはないとは思いつつも、夫の進は意外と?もてる。今までも、彼の周りの美女達にヤキモチを妬いたこともあった。どれも雪の早とちりに終わったのだが……

 (彼がその気でなくても、相手から迫られることもあるかもしれないし…… 一応、知っておくに越したことはないわよね)

 ということで、興味本意の二人はさっそく記事を読み始めた。

 「えっと、まず…… 夫が浮気をするタイミングについて、なになに…… えっ?ええっ!! 第1位は妻の妊娠中!?」

 妻に相手にしてもらえず欲求不満が募ることが原因だと理由が書かれている。

 「えっ!?」

 ドキリッ!一瞬二人の顔色が変わる。思わず無言で顔を見合わせてしまった。なにせ二人ともただいま妊娠生活真っ只中なのだ。
 亜美の方が先に我に返って、引きつり気味に微笑んだ。

 「あはっ、まあそういうデータがあるってことで……」

 「そうよね、奥さんが妊娠してるからって旦那様が必ず浮気するわけじゃないもの!」

 「そうそう……」

 (4)

 気を取りなおして、二人はうんうんと頷きあった。話題を変えるべく、亜美は次の記事を読み始めた。

 「えっと、それから夫が初めて浮気をするのは、結婚3年目が最も多い…… 結婚生活にも慣れて、変化を求めたくなる時期になるためで……」

 再び雪の顔が強張った。のんきに記事を読み続ける亜美に、雪がぼそっとつぶやいた。

 「あら…… うちもうすぐ3周年よ」

 「えっ!?」

 亜美が顔を上げて、目をぱちくりさせている。

 「もしかして……うちって今が一番危ないときってこと……?」

 さらりとそう言う雪の顔がやけに無表情だ。

 「もうっ、雪さんったらぁ。一般論、一般論! 雪さんちとは違いますわっ! こんなの見るのもうやめましょう」

 少しばかり不穏な雰囲気に、亜美が雑誌を閉じようとしたが、雪は真面目な顔でぐいっと手を伸ばし、亜美の手を抑えた。

 「だめよ、最後まで見せてちょうだい。えっ、なになに?次は夫の浮気チェック?」
チェック1   帰宅時間が遅くなり、休日に一人で出かける
チェック2   でかけるとなるとそわそわしだし、不在時の理由の説明がヤケに言い訳がましく長くなる
チェック3   最近やけに優しくなって、お土産も買ってくる
チェック4   着ていった下着類を自分で洗濯機に入れる
チェック5   急に淡白になって、あまり誘ってこなくなる
 雪は一つ一つの項目をふむふむと読んで、「そう、なんだぁ……」と一人納得。そしてその目は結構マジだ。

 「やだ、どうしたんですか?雪さん。そんなに真剣な顔で読まないでくださいよぉ!」

 焦ったのは亜美の方だ。どんどん心配顔になって、最後はすがるような口ぶりで雪に懇願した。
 すると、雪がやっと顔を上げた。不安げな亜美の顔を見て、急に笑顔を見せた。

 「えっ? あはっ、あら、やぁねぇ〜 一応、万が一のために覚えておこうって思っただけよぉ」

 やっと笑顔を見せた雪に、亜美もほっと一息だ。念の為、さらにおだてることを忘れていない。

 「ん、もうっ! やですよ! 雪さんところはぜ〜んぜん心配いりませんてばっ! いっつもらっぶらぶぅしてるくせにっ!」

 「うふふ……そんなことないわよっ、やだわ、もう……」

 結局またここに戻って、再び二人の会話は弾み出した。そして昼食を終えた二人は、再び本部へと戻っていった。

 (5)

 その日の夕方、定時に終わった雪は、愛する家族の待つ家へ帰りを急いだ。帰りついたのは5時20分。最短記録だ。

 「ただいまっ!」

 雪の声を聞いて、進と守が玄関に走ってきた。二人とも機嫌が良さそうだ。

 「あ、お帰り、雪。お疲れ! ほら、ママだぞ、守」

 進が守を抱き上げて、雪の方へ差し出すと、守が両手を広げて母を求めた。

 「マ〜!」

 雪はその小さな体をぎゅうっと抱きしめてから、嬉しそうに顔を見つめた。

 「まもるぅ、ただいまぁ! いい子にしてた?」

 「してた!」

 「うん、してたしてた。なっ!」

 「なっ!」

 進のかける声に、守が同じ口調で頷いた。その格好があまりにも似ていて雪には可笑しかった。

 「もうっ、その言い方も格好もそっくりよ! うふふ……」

 すると、進もうれしそうにニカッと笑った。息子と似ていると言われると、何もかもなく嬉しいのだ。

 「いいじゃないか、親子なんだからさ。それより雪、体の調子はどうだい?」

 妊婦の妻の体調を尋ねる姿は、すっかり夫が板についた感じがする。

 「ありがと、割りといいのよ。守の時よりつわりも少ないみたい」

 「そっか、よかった。じゃあ、あの……これからちょっと出かけてきてもいいかなぁ〜」

 妻の調子がいいと聞いて、進はほっとしたようにおずおずと尋ねた。

 「えっ? 今ごろから?」

 「ああ、ほら去年の末から行ってるグリーンフィールド研究所でやってるボランティア活動なんだけどさ。今、育ててる植物を、ちょっと行って見てきたいんだよ。
 もうすぐ花が咲きそうなんだよ。年末年始見てないし、さっき電話きて、結構いい感じに育ってるって言うんだ。そのプロジェクトのチーフはまだ2時間ほど残ってるらしいから。いいかなぁ〜」

 「ふうん〜〜」

 雪が呆れ顔で夫の顔を見た。年始早々、またこれか、なんて思う。

 グリーンフィールド研究所は、数年前に設立された政府の緑化運動推進のための中心施設だ。ガミラスの遊星爆弾のせいで荒廃した土地を緑に戻す活動を続けている。絶滅してしまった植物の復活も手がけている。
 進はこの研究所のボランティアメンバーとして参加している(と言うより中心メンバーとなっている)

 進の植物好きは趣味の域を越えていた。ボランティアと言いながらも、暇があると研究所に出かけて言っては土いじりをするのだ。子供が生まれる前は雪も何度か一緒に行ったことがあるが、作業を始めると、進は雪のことも忘れて没頭してしまう。
 研究所でも、なまじ新人の研究者よりずっと詳しいと相当高い評価を受けているらしい。

 「あっ、雪がだめって言うんならやめてもいいけどぉ〜」

 一応まだ安定期に入っていない妊婦の雪に、子供一人預けて行くのが気が引けるらしい。雪には、その顔が母親におねだりしている子供のようで、なんとも言えずかわいく見えてしまう。

 「もうっ! いいわよ。行ってらっしゃい。でも早く帰ってきてね」

 「やった! OK!できるだけ早く帰ってくるよ」

 雪の許可を貰うと進は急にそわそわわくわくし始める。早々に着替えて嬉々として出かけて行ってしまった。

 進を見送ってリビングに戻ると、疲れた体を休めようとソファーにどっかりと座る。
 目のまで一人遊びしている守を眺めながら、雪はふうっとため息をついた。


 (もうっ、進さんったら、まるで恋人に会うみたいだわ…… うふふ……
 えっ?恋人……!? もしかして進さん、ボランティアにかこつけて本当に恋人がいるとか……!?)

 心の中に突然そんな妄想が沸き上がったが、慌ててすぐに自分で振り払った。

 (や、やだわ。もうっ、私ったら! きっと昼間見た雑誌の記事のせいね。だけど……)

 『夫の浮気が多いのは、結婚3年目、妻の妊娠中etc……』

 昼間の記事の内容が次々と浮かんできて、どうしても脳裏から離れない。
 進に限って絶対そんなことはない!と信じつつも、まだまだ夫が恋しい妻は、一抹の不安にちくりと心が痛むのだった。

 (6)

 そしてその夜遅く進は、疲れた様子で帰ってきた。守を寝かせた雪は、一人起きて彼の帰りを待っていた。

 「ただいま…… ああ、疲れた。風呂入るよ」

 進は子供ベッドの守を寝顔を見ると、風呂場へまっすぐに入っていった。

 「もうっ、着替えくらい持ってけばいいのに……」

 雪がぼやきながら着替えを持って脱衣所に行くと、洗濯機が動いている。横においてあった選択物も消えていた。

 「あら? 洗濯機? 私、回してなかったはずだけど……?」

 と呟くと、風呂の中から進が叫んだ。

 「あ、俺だよ。今日さ、泥で随分よごしちまったから洗濯しようと思ってさぁ。これからしばらく俺がするから…… いっつもお腹の大きい奥様にばっかりさせちゃ悪いだろ?」

 「あらっ、めずらしい。うふふ、進さんでもそんなに気遣ってくれることもあるんだぁ」

 「一言余計だよっ!」

 雪はくすりと笑って、風呂場を出た。進さんたら優しいのね……洗濯物なんて籠にぽいっだったのに、妊娠してる私のこと気遣ってくれてるんだわ、などとニッコリとしたのもつかの間、すぐにハタと気付いた。

 (えっ、でも……!!)

 突然、雪の脳裏に昼間の雑誌の一行が浮かんできたのだ。

 『チェック4 着ていった下着類を自分で洗濯機に入れる』

 (ま、まさかねぇ〜〜〜 でも……もしかして!?)

 雪は疲れたと言って帰ってきたわりには、風呂の中で鼻歌を歌いながらご機嫌の夫の姿を、ガラス越しにじっと見つめた。

 (7)

 風呂場から出てきた雪が先にベッドに入っていると、しばらくして進もその横に入ってきた。
 さっきのことが微妙に気になる雪は、体をくるりと夫のほうへ回すと、さりげなく尋ねた。

 「今日は、どうだったの?」

 「えっ、あっ、起きてたのか!? ああ、だいぶん育ってたよ。もう少しで花が咲きそうなんだ」

 もう眠っていると思っていた妻がいきなり話し出したからか、ヤケに慌てた様子で進は答えた。

 「そう、今はどんな花育ててるの?」

 「ああ、まあ、ちょっと……な」

 進が口篭もる。となると、当然雪の方は余計に気になってしまう。

 「内緒?」

 「はは…… いや、まあそのうちに……」

 「ふうん……」

 なんとなくごまかされた気がする雪。ちょっぴり恨みがましい視線を送るが、進は知らん顔で横になり雪に背を向けた。

 (もうっ、進さんったら! 奥さんが不安になってるのになんとか言ってよ!)

 夫の背中に向かって心の中で叫んだ。だが返事が帰ってくるわけもなし、かといって騒ぎたててこんな些細なことでやきもち妬いてるなんて思われるのも癪だ。
 だから……と言うわけでもないが、逆作戦にでることにした。

 「ねぇ、うふふ……」

 雪は甘い声で、お腹を圧迫しないようにそっと両手で夫を背中から抱きしめた。
 すると、進はゆっくりと体を妻のほうに回した。

 「なんだよ、甘えてるのか?」

 と言いながら、彼もまんざらでもない顔をして、雪の髪をそっとなで返してきた。雪は手で進の顔に触れながら、再び甘い声で尋ねた。

 「ねぇ〜 しばらくできなくて辛い?」

 「あん? あ、ああ…… ははは、そりゃあねぇ、まあ。せっかく地球にいて、隣に奥さんがいるのに……ってのは、ちょっと辛いかな〜なんてね。あ、いや、別に心配しなくても大丈夫だから」

 進が笑っているような情けないようなあやふやな笑い顔をした。

 「大丈夫ってどうして?」

 さすがに雪も、よそで間に合ってるとか言わないでしょうね? とストレートには聞けない。

 「そ、そりゃあまぁ、なんとか我慢してるっていうか……」

 照れくさそうに進が苦笑した。ならば……と、雪の瞳がキラリと輝いた。ちょっと恥ずかしそうに夫の耳元で囁いた。

 「うふふ、じゃあ、バナナンしてあげましょうか?」

 《注:バナナンとはなんぞや? バナナパフェを作って食べさせてあげることである!(爆) これ以外の回答がある方は密かにメールしてください(嘘(^^;))》

 ずっとつわりがあって気分も悪かったし、しばらくしてあげてない。きっと彼は嬉しそうに乗ってくるはずだ、と雪は思った。
 ところが……

 「あ?バナナン? ああ……あはっ、そ、そうだな。あ、いや、今日はいいよ。遅いし雪も初出勤で疲れてるだろう。俺もなんか疲れてるんだ、はは……」

 これは全く進の本音であり、雪への思いやりだ。
 1日仕事をしてきた妻と1日休暇だった夫(子守りはしていたが……)。疲れているのはどっちだ?というのは言うまでもない。
 その上、好きなことのために急に夜出かけた自分が、これ以上妻に負担をかけるのは申し訳ないと思ったのだ。

 しかし、あらぬ疑惑を抱いている雪の方は、そんな風には取れない。焦りながら辞退する夫の答えに呆然とした。

 (えっ! 進さんが……? ええっ!? もしかして……これも、あの……!?)

 『チェック5 急に淡白になって、あまり誘ってこなくなる』

 (ま、まさかねぇ〜〜〜 で、でも……)

 なぜか急に深刻そうな顔になった雪の気持をほぐそうと、進は話題を変えた。

 「あ、それより雪! 15日結婚記念日だろ? つわりが収まったんなら、ご馳走するよ。どっか飯でも食いにいこう。守お母さんに頼めるか聞いておけよ」

 「えっ? ええ、ありがと…… よく覚えてくれてたわね」

 突然の言葉に、雪は目をぱちくりさせた。結婚記念日をちゃんと覚えていたことも少し驚きだ。

 「当然だろ? 去年だってちゃんと覚えてたんだからな!」

 確かに去年は覚えてくれていて、花束までくれた。だが、実は相原のおかげだったことを、彼の妻晶子から密かに聞いて知っていた。もちろん、そのことは進には話していない。

 「そうね、ありがとう。ママに頼んでみるわ。でも……なんだか最近、進さん優しいのね。よく気が付いてくれるし……」

 嬉しさ半分、なんとなく疑り深そうな視線を送る雪を見て、進は少し憮然とした。

 「優しくしちゃ悪いか?」

 せっかく夫らしいことをしてやったのにと言いたげだ。

 「そ、そんなことはないけど……」

 「じゃあ、いいだろ? さぁて、寝るぞ。おやすみっ!」

 「おやすみなさい……」

 雪が答えると、進は雪の唇にチュッとついばむようなキスを一つしてから背を向けた。そして、雪が進の真意を量り兼ねているうちに、夜の作業で疲れていたのか早々に眠ってしまった。

 (8)

 一方、すやすやと気持ち良さそうな寝息をたてる夫の背中を見ながら、雪は急に不安になった。地球勤務になってから、特に先月の半ば頃からの夫の行動を思い起こした。

 そう言えば……
 この間から、色々手伝ってくれたりお土産買って来てくれたり、なんだか気持ち悪いくらい優しいのよね〜 そういうのって……もしかして……?

 『チェック3 最近やけに優しくなって、お土産も買ってくる』

 進さんが優しいのって、私がつわりで辛いだろうって思ってくれてるのだと思ってたけど、違うのかしら? もしかして何か後ろめたいことがあるから?

 でもでも……今回の地球勤務になってから、最初はまっすぐに帰ってきてたのに、12月の後半からは急にグリーンフィールド研究所での活動が始まったとか言って帰りは遅くなるし、お休みはお休みで出かけて行くし……
 それに休日も、私の体が心配だからって研究所の方にも連れて行ってくれなくなったし…… それって……?

 『チェック1 帰宅時間が遅くなり、休日に一人で出かける』

 まさかっ!

 それに彼ったら、本当に嬉しそうに出かけるのよねぇ。今日だってそうだったわ。
 そうそう、ボランティアの事を聞かれるとやたら一生懸命説明するわ。今度は絶滅した草花の復活の作業だなんて、私が聞いてもいないことをたっぷりと…… でも、肝心の今扱ってる花のことになるとごまかすし……

 『チェック2 でかけるとなるとそわそわしだし、不在時の理由の説明がヤケに言い訳がましく長くなる』

 や、やだ。これじゃあ、今日の雑誌のチェックに全部引っかかっちゃうじゃないの!!

 でも、植物のことで話し出したら止まらないのは、今までだってそうだったものね。そうよね、雪…… でも……もし、他のことを尋ねられないように、やたら自分でしゃべってるとしたら……?

 疑い出したらきりがない。どれもこれも怪しい行動に思えてくる。
 しかし、雪には進が浮気をするとは、信じられなかった。いつも独り合点して心配してしまう。
 結婚する前にも何度かそんなことがあった。今回もあの雑誌を読んだせいに違いない。

 その上、今のところ相手らしき人物が浮かんでいるわけでもない。グリーンフィールド研究所に飛びっきりの美人がいるというのなら別だが、そんな話は聞かない。進がそれ以外のところへ行っているとも思えなかった。

 (そうよ、そうだわ。だめだわ、くよくよしちゃったりして…… もうやめて、寝よう…… 進さん、おやすみなさい)

 妊娠初期の妊婦は、とかく情緒不安定になりやすい。いわゆるマタニティーブルーである。そんな時は、ちょっとしたことがやたら悲しくなって涙もろくなったり、どうでもいいことがひどく気になったり疑り深くなったりするものだ。

 きっとそうに違いないわ、と自分に言い聞かせて納得してから、雪もやっと眠りについた。

 (9)

 しばらくはそんなことも忘れていたのだが、雪の不安が確信に変わる事件が、3回目の結婚記念日の前々日に起こった。

 その日の昼食時、雪が一人でカフェテリアで昼食を取っていると、そこに南部がやってきた。今夜から宇宙へ出航の予定で、司令本部に立ち寄ったらしい。
 一緒に食事をしようということになって、雑談をしていると、目の前を一人の女性が歩いてきた。
 南部の瞳が眼鏡の中でキラリと光った。

 「おっ、日向さんだ。めずらしいな」

 雪も南部の視線を追った。するとそこには、ロングヘアーをくるりとカールさせ、スタイルも顔立ちもとても美しい女性が立っていた。
 雪とはタイプの違う美人で、スマートなわりに胸もとが豊かで、官能的な厚めの唇をしている。いわゆる男好きのするタイプに見えた。女の雪から見ても、ほのかに色気を感じるほど魅力的な女性だった。

 「とってもきれいな人ね。うふふ、南部さんの好みかしら? でもあの人にそんな視線送ってたら、彼女に言いつけちゃうわよ!」

 「えっ!? か、彼女って誰のことかなぁ〜」

 南部がとぼけた顔で答えた。すると雪は指を一本立ててわざと一語一語を葉っきりと発音してやった。

 「と・し・し・た・の・か・の・じょ!」

 とたんに南部の顔が赤くなった。
 2年ほど前、南部と揚羽の妹星羅の再会を、雪たちが演出したことがあった。それ以来南部は星羅と付き合っている。
 南部にしては健全に?まだハイティーンの彼女にふさわしい場所へ連れていってデートしているらしい。
 二人の関係を南部は今も否定しているが、雰囲気は既に恋人同士だと、彼らをよく知る仲間たちは確信していた。

 「なっ! ち、違いますよ! か、彼女は、たまに遊びに連れてってやってるだけですから…… それに高校生相手じゃオママゴトしてるようなもんなんだからねっ!」

 「あ〜ら、今更そんなこと言ってもだぁ〜めっ! それとも、今言った言葉、ほんとに彼女に言っちゃっていいのかしらぁ〜?」

 「うっ……」

 南部が答えに窮した。やっぱり……である。雪は可笑しそうに笑った。

 「ほぉら、うふふ…… でも嘘よ! 最近は南部さんも品行方正だって聞いてるし…… それに彼女を泣かせたら、私が許さないからね!」

 「は……ひ……」

 すっかりやぶへびになってしまった南部であった。

 (10)

 とりあえずは、素直に?なった南部に満足したところで、雪はその女性のことを尋ねた。

 「ところであの人、どこの部署の人? あまり見かけたことないわ」

 「ああ、彼女はほんの最近、グリーンフィールド研究所に新しく入った主任なんだ。確か先月の中頃じゃなかったかな?
 それまでは連邦大学でバイオテクノロジーの研究をしていたらしいけど、こっちに引き抜かれてきたらしいよ」

 普通なら、南部がなぜそんなに彼女のことに詳しいのか、と突っ込むところなのだが、今の雪には「グリーンっフィールド研究所」の言葉の方がひどく引っかかった。

 「グリーンフィールド研究所にいるの?」

 「ああ、すごく優秀な助教授だったとか…… どう見てもそんなお堅い大学の先生だとは思えないけどなぁ。こっちに来て、絶滅してしまった植物の復活プロジェクトを手がけてるらしい」

 (えっ!? それって、進さんも参加してるんじゃないの!?)

 雪の顔面がさっと曇った。だが、南部は女性の方が気になるらしく、雪の方を見ていない。

 「しっかし、彼女はフェロモン系の美女だよなぁ〜 めちゃくちゃ色っぽいよなぁ〜」

 「もうっ!南部さんったら……」

 雪に冷たい視線で睨まれて、南部は肩をすくめた。

 「あはっ、違う違う!一般論ですよ一般論!」

 「うふふ、もう遅いわよ」

 「ははは…… 彼女独身らしいし、持てるだろうな」

 「そうなの? でも、私より少し年上に見えるけど」

 雪が再び日向と言う女性を見た。横で南部が説明を続けた。

 「ああ、もう30は越えてるって聞いたな。けど、年上のあ〜いう色っぽい女ってのは結構そそられるんだよなぁ。年上でもあんな美人にさ、おねえさまに任せなさい、なんて迫られたら、若い男なんて一発で落ちちゃうぜ」

 「ふうん……」

 雪が視線を南部に戻す。が、その視線はひどく冷たい。

 「なんですか、その目はぁ〜 俺は違うってぇ!」

 「まあ、そういうことにしておくわ」

 と言いながら、雪が肩をすくめた。目も笑っている。別に南部を詰問するつもりもないのだから。
 すると、今度は南部の方がニヤリと笑った。

 「それより、旦那の方、気をつけた方がいいんじゃないのぉ〜 グリーンフィールド研究所って言ったら、確か古代さんがボランティアで登録してるところじゃなかったですか? ボランティアとかなんとか言って、実はあの美しいお姉様と……」

 「なっ!?」

 雪の目じりのあたりがひくひくと動いた。

 「あはっ、冗談ですって! 古代にそんな甲斐性があるとは思えないし……」

 「なによぉ、それぇ」

 どうも雲行きが怪しくなりそうになって、南部は慌てて話題を変えた。

 「ああ、そういやぁ、明後日結婚記念日でしたよね? 旦那はちゃんと覚えてたんですか?」

 「もっちろんよ! あさっては二人で食事に行こうって彼が誘ってくれたんだから」

 雪は当然よ、とでも言いたそうだ。しかし南部には少し意外だったようだ。

 「へぇぇ〜 それはすごい! あいつにしちゃあ上出来だな! いや、逆にそんなに気が付くのは怪しかったりしてね!」

 「またぁ〜! まだ言う気!」

 「あははは、冗談冗談! お二人の熱々振りはたっぷり耳に入ってますからねっ!」

 「もう遅いわっ!」

 プイッと膨れる雪をなだめる南部は、雪がそれほど深刻に進の浮気を気にしているなどとは、これっぽちも思ってはいない。
 女性のことならなんでも来いの彼も、さすがに妊婦がいかにナーバスになるかなどということは、さすがに知らないと見える。

 その後話題を変え、南部は「旦那と息子によろしく!」と言い残して帰っていった。

 (11)

 その夜のことである。雪は、守を寝かしつけて一人になると、もやもやとしたものが心の中で渦巻き始めた。昼間に垣間見た女性のせいでもあった。
 そして、今晩も進はまだ帰ってこない。時計を見ると8時を過ぎている。

 (今日も遅い。進さん、ここ数日特に遅いわ。帰りにちょっと研究所の方に寄ってくるって言ってたけど…… 何をそんなに一生懸命やってるのかしら? 口では優しいことを言ってくれるのに、どうしてそばにいてくれないの!)

 つわりはだいぶん収まってきたとは言え、体はなんとなくすっきりしない。それがそのまま雪の気持ちに重なった。

 (地球勤務になった頃は、すぐに帰ってきてくれてたのに、先月の中過ぎからだわ。それに特に年が明けてからはほとんど毎日…… ああ、やっぱり進さん……)

 思い浮かぶのは、またあの浮気チェックの項目と昼間見たグリーンフィールド研究所の美しい主任の姿。

 雪の瞳にじわりと涙が浮かんだ。普段ならそれほど悩まないことも、最近の雪はとても涙もろかった。

 (進さんのばかっ! 早く帰ってきてよ!!)

 (12)

 一人悶々としていると、やっと肝心の夫が帰ってきた。

 「ただいま……」

 「…………」

 ソファーに座ったまま、なにも答えない雪に、進は慌てて駆寄った。

 「雪、どうかしたのか? 具合でも悪いのか?」

 「別に……」

 雪は小さな声で、やっとそれだけを言った。

 「そうか…… じゃあ、風呂入って来るかな」

 風呂と聞いて、また洗濯機を回して、他の女(ひと)の匂いを消すつもりなのかと思うと、急に悔しくなった。進の顔を見ようともせずに言った。

 「洗濯自分でしなくてもいいわよ」

 「それくらいするよ。俺ができること少しはしないとな」

 その夫の優しい口調が、今夜に限って癪に障る。とたん雪の口調が激しくなった。

 「いいって言ってるでしょう!」

 叫ぶようにそう言う雪を見て、進は驚いてしまった。

 「雪……? 一体どうしたんだよ? ほんとに具合でも悪いんじゃ?」

 雪がソファーから立ちあがると、振り返って夫の腕を掴んだ。

 「悪くなんかないわよ。それにそう思うんなら、もう少し早く帰ってきてくれればいいじゃないの! 仕事じゃないんでしょ! また今日も研究所!? 一体何をそんなに一生懸命やってるのよ!!」

 「あ…… いや、それは……」

 進は困った顔で口篭もった。

 「言えないの!?」

 「ま、まあ…… 今はまだ、あさってになったら話すからさ」

 「あさってじゃなくって、今聞きたいの!」

 雪の声はさらに高くなった。それには進の方もかちんときてしまったらしい。

 「だから、あさって話すって言ってるじゃないか。もうちょっと待ってくれよ」

 だが、言ってしまってからしまったと思ったが、もう遅かった。雪は目に涙を浮かべたまま、再び声高にしゃべりだした。

 「そう……わかったわ。よぉ〜くわかりました! 言えないんならもういいわっ! 私、寝るから。じゃあおやすみなさい!!」

 「お、おいっ、雪!!」

 追いかけてくる進を、ベッドルームのドアでぴしゃりとさえぎってから、雪はベッドに倒れ込んだ。

 (なによ、なによ、進さんったら、どうして説明できないの!!あさってまで待ってだなんてすごく言い訳がましい! もう知らないっ!!)

 雪は腹立ち紛れに布団を引っかぶってしまった。

 妊婦の情緒不安定さは何度か経験している。妻が落ち着くのを待った方がいいだろうと、進は一先ず諦めて風呂に入った。

 しばらくして、進がベッドルームに入ってきたが、雪は壁の方を向いて横たわったまま、振り返りもしない。

 「雪……?」

 ベッドの端に越しかけて、進が雪の肩にそっと触れたが、反応はない。顔を覗き込むと、その瞳は閉じられ小さな寝息を立てているように見えた。

 「寝たのか? ふうっ……」

 進は小さくため息をついた。
 妻が毎日寄り道をして帰ってくる夫を責めているのはよくわかった。妊娠中は精神的にも不安定になることも、前回の経験でなんとなくわかる。ましてや、守の世話もあるのだ。
 だが……

 (ごめん、雪。余計な心配させちゃったかな? けど、あさってまで待ってくれよ。まだ今は教えられないんだ。ちゃんとしてから、君に見せて驚かせたいんだよ。きっと、喜んでくれると思うんだけどな……)

 寝ている―実は寝たふりをしている―雪の髪をそっとなぞってから、進もその隣に滑り込んだ。

 (13)

 いつのまに眠ってしまったのか、雪が目を覚ましたのは、翌日の朝5時過ぎだった。隣を見ると、進はまだ眠っている。
 ベッドをそっと抜け出し、横のベッドで寝ている守の無邪気な寝顔を見て微笑んでから、台所へ向かった。

 冷蔵庫から冷たいミルクを出してコップに注ぐと、レンジで温めた。温かいミルクを口に含みながら、夕べのことを思い出した。朝になってみると、あんなに興奮したのが嘘のように冷静な気持ちになっている。

 (やっぱり私、ナーバスになり過ぎだったのかしら……? あの後部屋に入ってきた彼、しばらく私の髪をなで続けてた。とっても優しくて気持ちよかった……)

 しばらくして進が起きてきた。冷静になったと言っても、やはりまだなんとなく気まずいものがある。
 「おはよう」という夫の言葉に、小さな声でおはようと答えたものの、それ以上顔を見れなくて、朝食を用意する振りをして台所に向かった。

 それを見た進は、妻がまだ不機嫌なままだと感じて、妻を追いかけるように台所に入ると、ぼそぼそと小さな声で言った。

 「今日は早く帰ってくるから……」

 「え?」

 背を向けて流しに向かっていた雪が、振り返った。

 「ごめん、寂しかったんだよな? せっかく地球にいるのに毎日遅くなったりして……本当にごめん……」

 うつむき加減に進がつぶやく。雪はその姿をじっと見つめた。

 「ホントにそう思ってるの?」

 「ああ、もちろん!」

 雪の問いに進はパッと頭を上げて即答した。その真剣な眼差しは、嘘をついているとは思えなかった。

 (やっぱり、私の取り越し苦労か…… うふふ、よかった)

 雪はにっこり笑った。

 「それならいいわ。明日、美味しいものたっぷり食べさせてくれるのよね?」

 「ああ、雪が食べれるようになったんなら、なんでも好きなもの好きなだけ食べていいぞ」

 「うふっ、わかった。楽しみにしているわ!」

 とりあえずは、仲直りの二人であった。ただ、ひとつ……雪にはまだ気になっていることがある。

 (進さんが何をしてるのかまだ言えないって言ってた事…… 私のためになのかしら? それとも……? でもそのことについては、明日まで待ってあげてもいいかな)

 (14)

 その晩のことだった。進は朝言った通り定時で終わって帰ってきたらしい。雪が、実家によって守を連れて帰ってくると、既に家に着いて二人を迎えてくれた。

 「お帰り、雪、守!」

 笑顔で迎えてくれた夫に、雪は心から安心して嬉しくなった。

 (よかった…… やっぱり私の取り越し苦労だったのね。そうよ、進さんが浮気なんてするはずないもの…… 私と守とそれから……この子をとても愛してくれてるんだもの)

 そっとおなか手をやり、雪は微笑んだ。

 その夜、妻のために大サービスの夫は、守を風呂に入れ寝かしつけまでしてくれた。その間、雪は久々にTVをのんびりと見ることができた。
 そして、やっと守を寝かしつけた進がリビングに戻ってきた。

 「ふうっ、守、やっと寝たぞ」

 「そう、ありがとう。でも今日も随分賑やかだったわね」

 二人が寝室に入ってからさっきまで、きゃっきゃと大声で喜ぶ守の声がリビングまで響いていた。

 「はは…… すぐ寝なくて困ったよ。俺が寝かしつけようとしたら、あいつ興奮するんだよなぁ。絡んできて絡んできて、参ったよ」

 「うふふ、たまにだから嬉しいんでしょ。でも、お疲れ様」

 隣にどっかりと座った夫の唇にちょんとキスをして雪は微笑んだ。すると、進は雪の体をぐいっと抱き寄せて、本格的にキスをした。甘くて濃厚なキスをじゅうぶん味わってから、進は妻の唇を開放した。

 「雪風呂まだなんだろ? 入ってこいよ。明日は出かけるんだから、磨いてこないとなっ!」

 「うふっ、もうっ! でもそうね、もうこんな時間なの? TV見てたら時間忘れてたわ。じゃあちょっと……」

 「ん……」

 名残惜しそうに立ちあがる雪に、進は軽く頷いた。

 (15)

 幸せな気分で風呂に行こうとしたが、風呂場の手前でリビングに着替えを忘れていたことに気付いた。

 (あっ、いっけない!)

 再びリビングに戻ろうとした。が、その手前で、雪の足がピタッと止まってしまった。リビングでは、進が自分の携帯を取り出して電話をするところだったのだ。
 それを見た雪は、また急に昨日の疑念が沸き上がってきた。

 (私がお風呂に入ってる隙を狙って、誰かに電話する気?)

 進は電話のボタンをプッシュすると、すぐに耳に当てた。コールしたかしないうちに相手が出たようで、進が話し始めた。

 「あ、日向さん? 古代だけど……」

 ド、ドキッ!!! 雪の心臓が飛び出すくらいにどきりとした。

 (日向!? 日向って、あのグリーンフィールド研究所の? うそっ!)

 してはいけないとは思いつつも、雪は進の会話を一語一句聞き漏らすまいと、部屋の外で隠れたまま耳をそばだてた。
 「どうしたの? 今日は来れないって言ってたけど、花のことが心配になったのかしら?」
 「はは、ちょっとね。でどうだい?」
 「大丈夫よ。明日にはちょうどいい感じに咲くわ。予定通りね。心配ならちょっとよれば良かったのに」
 「そうなんだけど、ちょっと昨日から女房の機嫌が悪くてさ。ほら、ずっと毎晩そっちいってただろ?」
 「だからいったじゃない。奥様に内緒にしてて大丈夫って!」
 「確かにね。あいつ何か感づいたみたいだし……」
 「ふふ…… 早く教えてあげなさい。喜ぶのに」
 「だめだよ、それは…… 今までの苦労が水の泡だ」
 「まあ、いいけど、もう明日だし。でも、本当にこのひと月一生懸命だったものねぇ。古代さんって、奥様のこととっても愛してらっしゃるのね」
 「ああ、愛してるよ……誰よりもね」
 「もうっ、そんなにあっさり言わないで、あてられる身になってちょうだい!」
 「いいじゃないか、本当のことなんだ。今更隠す気もないさ」
 「まあ、ずけずけと…… それちゃんと奥様に直接言ってあげなさいよ!」
 「それがいざとなるとなかなか言えなくてな」
 「ふふふ、もうっだめねっ! まあいいわ。その代わり、明日はその分たっぷり喜ばせてあげなさい」
 「了解!」
 「じゃあ、明日の夕方、用意して待ってるわ」
 「ああ、明日は必ず行くから頼むよ。じゃあ」

 (16)

 電話が切れると同時に、雪も切れた。

 (愛してるよ、誰よりも……ですって!!! もうっ!許せない!!)

 風呂に入るつもりだったが、もうそんな気はさらさらない。
 ものすごい勢いで寝室に入ると、眠っている守を抱き上げ、再び部屋から出てきた。
 その気配に気付いて、廊下に出てきた進と正面から鉢合わせになった。

 風呂に入ったはずの雪が、守を抱いて立っているので、不思議そうにきょとんとしている。

 「どうしたんだ?雪。急に守なんか抱いて」

 「…………」

 雪はその質問を無視して、横をすりぬけるようにして玄関の方へすたすたと歩いて行った。
 進は振り返って追いかけながら叫んだ。

 「おい、雪っ!」

 その声を聞いて、雪は歩みを止めて振り返った。その顔は、ひどく険しい顔をしていた。

 「私、実家に帰ります。じゃあ……」

 怒りに震える声でそれだけを言うと、雪は再び玄関に向かって歩き出した。進にとってはまさに寝耳に水状態である。彼には、一体妻に何があったのか、さっぱりわからなかった。

 「え〜っ! ちょっと待てよ、おいっ!どういうことなんだよ、雪! なんで今ごろから守連れて実家に行かなくちゃならないんだよ!」

 「あなたの胸に聞いてみてください!!」

 「雪っ!!」

 雪は、背を向けたまま捨て台詞を吐くと、追いすがる夫を振りきって、家から飛び出していってしまった。

 「一体全体、どうなってんだ?」

 まさかさっきの会話と聞いているとも思っていなかったし、さらに妻がその内容を思いきり曲解したなどとは、進は全く想像もできなかった。
 進はわけもわからずに、妻が立ち去ったドアをただ呆然と見つめていた。

 (17)

 それからすぐに我に帰った進は、雪の実家に電話を入れ、事の成り行きを説明した。電話に出た母の美里が事情を聞いたら折り返し連絡するからと言うので、「お願いします」とだけ言って電話を切った。

 その30分後には、雪が到着した旨の短いメールが届き、さらにそれから2時間ほどたった頃、古代家の電話が鳴った。
 進がすぐに受話器を取り画像をONにすると、画面には美里が大きく現われた。

 「あ、進さん。お待たせしてごめんなさいね。雪と守はもう寝たわ」

 美里は困ったような顔で進を見て苦笑した。

 「そうですか、お義母さん、すみませんでした。それで、雪は何か言ってましたか?」

 すると、美里は言いにくそうに少し間を置いてから、やっと口を開いた。

 「ええ……それがね…… ああ、なんて言っていいかわからないわ。もう、単刀直入に尋ねるけど…… 進さん、浮気した?」

 「はぁ〜〜〜!? ど、どうして俺が……浮気だなんて! 一体どうしてそんな話になったんですか!?」

 あまりにも突飛な言葉に、進は開いた口がふさがらなかった。その表情を見て、美里は安心したように笑い声とともにふうっと息を吐いた。

 「やっぱり……覚えないのね? どうせそんなことだろうとは思ったけど……うふふ」

 どう考えても覚えのない進である。驚きの後は、誰に向かっていいのかわからない怒りすら湧き上がってきた。

 「当たり前ですよ! だいたい明日は結婚記念日で彼女と出かけようって楽しみにしてるのに、誰が浮気なんか」

 「そうよね? うふふ、でも……火のないところに煙はたたないっていうし……」

 美里がちらりと横目で見るような格好をすると、進はむっとして画面の向こうの義母を睨んだ。

 「お義母さん!」

 美里は、古代進の睨み顔を見て、余裕で笑っていられる数少ない人間のうちの一人である。そんな婿の反応を楽しむように笑った。

 「あら、ごめんなさい。でも……ねぇ、進さん。あなた、雪に何か隠してなぁい?」

 「えっ……」

 美里の質問に、進は急に思い当たるものが浮かんだ。

 (そうか、それで昨夜彼女はあんなことを言ったんだな)

 考え込む進を見て、美里は原因を見つけたとばかりに満足そうに微笑んだ。

 「ある……みたいね。話してくださらないかしら?」

 かくかくしかじか…… 進は結婚記念日のために用意したちょっとした内緒のものについて説明をした。そして……

 (18)

 話が終わると、美里は困ったように苦笑した。

 「それであなたが電話しているのを聞いて誤解しちゃったのね。ふうっ、仕方ないわね、あの娘(こ)ったら…… 早とちりなんだから……
 きっと、妊娠してるのもあるのかもしれないわね。どうしても妊娠中って感情の起伏が激しくなっちゃうのよ」

 「はぁ〜 あの、それじゃあこれからそちらに行って説明します!」

 進の方も、ここまで雪に誤解されていたとは露知らず、どちらにしても一刻も早く誤解を解きたい心境だった。

 「明日でいいわ。もうこんな時間ですもの。あの娘も落ち着いてからのほうがいいし、今晩は私から話しておくから、明日いらっしゃい。
 朝はバタバタするでしょうから、.仕事終わってから……出かける用意して」

 「ですが……」

 このまま誤解されたままでは困ると言いたそうな進の気持ちを、美里は笑顔で否定した。

 「大丈夫よ。やきもち妬くってことはそれだけあなたのことを愛してる証拠なんですから、すぐに仲直りできるわ。母親の私が言うんだから間違いないわ。それに、今来たら、パパに殴られちゃうかもしれないしねっ」

 美里はさも可笑しそうな顔でウインクをした。そう言えば義父の晃司の姿は見えない。

 「げっ……」

 絶句する進を見て、美里はさらに可笑しそうに笑った。

 「私はきっとこんなことだと思ってたけど、パパったらもうすっかりお冠でね。そんなやつのところにはもう二度と帰らなくていいって!」

 「そ、それは……」

 「とりあえず話を聞くからって、今パパをここから追い出してあなたに電話したのよ。ふふふ、でも心配しなくていいのよ。パパにもちゃんと説明しておくから…… だから、明日ね! 二人が落ち着いてからの方がいいでしょ?」

 「わ、わかりました。じゃあ、雪と守お願いします」

 「ええ、おやすみなさい」

 美里との電話を切ると、進はもう一度大きくため息をついて、寝室へ向かった。ベッドに座ると、もう一度大きく肩から息を吐いた。

 (全く雪のヤツ、ちゃんと聞いてくれれば良かったのに…… まあ、俺も隠してたことは悪かったけど……)

 (19)

 一方、森家の方でも、電話を切った美里はまず夫に説明をし、納得させてから雪の眠る部屋をノックした。

 「入るわよ……」

 返事がないが、美里はそれを無視して部屋に入った。布団の中で守が眠っている。その横で雪も目を閉じていた。
 美里はその脇に座ると、雪に声をかけた。

 「雪、起きてるんでしょう?」

 返事がない。しかし、美里は雪の狸寝入りくらいはちゃんとわかっている。

 「まあ、いいわ。聞いてなさい。今進さんに電話したわ。浮気なんてしてないって…… あなたの誤解みたいよ。ふふふ……
 明日、夕方迎えにくるから、出かける仕度して待っててちょうだいですって」

 「うそっ!」

 雪がくるりと顔を上げ、じっと美里を睨んだ。

 「やっぱり起きてたのね。ほんとよ、まったくの誤解だって言ってたわよ」

 「じゃあ、あの愛してる……っていうのは?」

 「あれは、あなたのことを話してたらしいわよ」

 「……そう……なの?」

 優しく諭すように美里が話すと、雪も信じる気になったようだ。
 元々、自分でも進の浮気などということは、信じられない気持ちで一杯だった。ただあんな電話を聞いてしまって、もう事実を正すとかそういうことも思いつかないほど逆上してしまったのだ。

 「じゃあ、間違いだったのね。ほんとのほんとに……?」

 雪は、寝床からむっくりと体を起こして、母に甘えるような視線を送った。

 「ほんとよ、ママが保証してあげる。説明は明日進さんから直接聞きなさい。進さんはあなたのことをとても愛してるわ。だから安心して、もうおやすみなさい」

 「ん、わかった。ありがとう、おやすみ、ママ」

 (20)

 そして翌日結婚記念日がやってきた。その日は、元々休みを取ってあった雪は、午前中守を母に預けて、月一回の検診のために病院に行った。
 ここ数日、精神的に落ち着かない日が続いたが、幸いおなかの赤ちゃんには影響がなく、医師から順調という太鼓判を押してもらった。

 その夕方、もうすぐ進がやってくる時間となった。雪はまだ少し不安を残しながらも、大丈夫よという母の強い後押しで、出かける仕度をして彼の来訪を待っていた。
 守は、揃って出かける両親を見ると行きたがるかもしれないと言うことで、おじいちゃんと公園に遊びに行った。

 そして6時近くなった頃、玄関のベルが鳴った。

 「ほら、進さんよ」

 母に促されて、雪はゆっくりと玄関の方へ歩き出した。ドアを開けると、そこにはスーツ姿の、だがなんとなくばつが悪そうに笑う進がいた。

 「雪……あの……」

 「ちゃんと説明してくれなかったら嫌よ!」

 雪はぷいとそっぽを向きながら、拗ねたような口調で答えた。
 実は雪のほうも少し都合が悪い。自分が勝手に憶測してやきもちを妬いていたらしいということもあるし、また反面で、進の口からきちんと説明してもらい、自分の目で見て耳で聞くまでは納得できないところもある。

 「わかったよ。じゃあ、とにかく、行こう」

 進は、雪の手を取ると、玄関でニコニコ笑っている美里に礼を言い守のことを頼んでから、森家を出た。

 マンションの部屋の廊下を二人は無言で歩いた。そして階下へ降りるためのエレベータに乗ったとき、雪が初めて口を開いた。

 「これからどこへ行くの?」

 「まずはグリーンフィールド研究所」

 「えっ?」

 例の浮気相手と疑った相手のいる場所を、進が指定したことで雪は驚いた。

 「雪に渡したいものがあるんだ」

 進が少し照れくさそうに笑う。雪は進が何をしてるのか今日まで待ってほしいといっていたことを思い出した。

 (それが……あなたが隠していた物なの?)

 「なに?」

 「着いてから見せるよ」

 地下駐車場まで降りると、進が一歩前を歩いて車に向かう。雪も黙ってそれに従った。
 車が静かに駐車場から滑り出す。走り出すと、進が口を開いた。顔は前を向いたまま少し困ったような顔をしている。

 「ごめん、雪。君にそんな心配をさせてたなんて本当に知らなかったんだ。ただ、絶対に言っておくけど、浮気だなんてことは絶対違うからな!」

 最後の一言は、力強かった。その声と真剣な眼差しを、雪は信じようと思った。たった一言、言い訳も聞かなかったが、信じられる、そう思った。

 「進さん…… わかった。私も……勝手に思い込んでごめんなさい」

 小さな声だったが、雪がはっきりとそう言った事で、進は強張っていた顔を一気に緩めた。

 「はぁ、助かった。でも、誤解されるようなことをしたのは、間違いなく俺なんだけどさ」

 チラッと雪を見て笑う。その笑顔に雪も笑顔で答えてから疑問を口にした。

 「でも、一体何してたの?」

 「だから、今それを見せるから……」

 車は、ほどなく郊外にあるグリーンフィールド研究所に到着した。

 (21)

 二人が研究所の前に到着すると、既に玄関前に女性が立っていた。雪がカフェテリアで目にしたあの日向という女性だ。

 「おっ、いたいた!」

 進が嬉しそうにそう言うのを聞くと、またもや雪の心がざわめいた。自然と眉間にしわが寄ってしまったようで……

 「おいおい、そんなに眉しかめるなって。彼女とは君が心配するようなことは一切ないんだから」

 と進から指摘され、雪は慌てて顔を元に戻した。

 「……うん」

 車から降りると、進はその女性に駆け足で近寄った。雪も後ろからゆっくりとついていく。

 「日向さん、すみません。わざわざ玄関先まで出てきてもらって」

 「いいのよ。これからデートでしょ?だから早く渡した方がいいと思ってね。はいこれ」

 日向は進にリボンで包まれた小さな鉢を手渡すと、後ろから歩いてきた雪に軽く会釈した。

 「こちらが奥様ね。はじめまして。日向です。ご主人には大変お世話になっています」

 にっこりと微笑む彼女の姿は、やはり美しく魅力的だった。雪も緊張しながら挨拶をした。

 「はじめまして…… 古代雪です。主人がいつも……お世話になっています」

 しかし、緊張する雪とは反対に、日向はニコニコとしている。

 「うふふ、なんだか初めてお会いしたみたいに思えないわ」

 「えっ? どこかでお会いしましたか?」

 あのカフェテリアでは一方的に見てたはずだけど、と雪が思っていると、日向がくすくすと笑いだした。

 「ふふふ…… いいえ、いつも古代さんからお噂を伺ってるせいね、きっと。お写真も見せていただいてたし」

 「そうなんですか?」

 雪が驚いて日向の顔を見て、そして進の顔を見た。進はとぼけたようにそっぽを向いている。さらに日向が続けた。

 「ええ、もうっ耳に蛸ができるほど! いっつも惚気られっぱなしよ!」

 「えっ……」

 その言葉に雪の頬がポット赤くなる…… それがさも可笑しいといった風で、日向が言葉を続けようと、「例えばねぇ〜」と言いかけた時、進が割って入った。

 「あ〜、ご、ごっほん! あ、雪。そろそろ行かないと遅れるぞ! さ、早くっ!」

 「うふふ…… もう古代さんったら、奥さんの前だからって照れないでよ! いつもは惚気っぱなしの誰かさんなのにねぇ〜 まあいいわ、奥様には、そのうちゆっくりお聞かせしますわ」

 「あらっ……」 「しなくていいよっ!」

 雪が嬉しそうに頬に手をやるのと、進が赤い顔で叫ぶのが同時だった。日向はその二人の姿を見て、くすくすと笑った。

 「ふふふ…… 雪さん、お体大事にされて元気な赤ちゃん産んでくださいね」

 「はい、ありがとうございます」

 「じゃ、行くぞ、雪!」

 これ以上いれば何を言われるか解らないとばかりに、進は先にすたすたと歩き出した。
 雪は、日向に会釈してから進の後を追った。

 (22)

 再び車に乗ってエンジンをかけてから、進は隣に座った雪を見た。

 「ほら誤解だったろ?」

 「ん…… ごめんなさい」

 雪はばつが悪そうに上目遣いで夫を見た。

 「まったく……」

 「だって…… それより、ねぇ、さっき貰ったものはなあに?」

 肝心な物を見せてもらわないと、とばかりに雪が訴えると、

 「あ、ああ……そうだな。ちょっと待ってくれよ。車止めるから……」

 進はしばらく走ったところにある景色のいい休憩所で車を止めた。そして、積んであったさっきの鉢らしき包みを開いた。

 「これ……なんだ」 

 進が取り出したのは、小さな植木蜂に植えられた白くてかわいらしい花だった。
 その花は、緑の茎の先にたくさんの小さな花を咲かせていて、ちょうど今が咲き頃のようだ。その可憐な花に、雪はあっという間に魅了された。

 「かわいい!! これ、なんていう花なの?」

 嬉しそうに頬を上気させて見上げる雪に、進は少し照れたような満足そうな顔をした。

 「スノードロップ。和名を……「ユキノハナ」って言うんだ」

 「え? ゆきのはな?」

 「ああ、君の花だよ……」

 「まあ……」

 雪の胸がドキンと鳴った。嬉しくて幸せで、どんどん素敵な気持ちになっていく。

 「これを結婚記念日のプレゼントにしたくて……君をびっくりさせたかったんだよ」

 「ありがとう、あなた!! 本当に……本当に嬉しいわ」

 雪の目が少し潤み始めた。それでもじっとその花を見つめている雪を見ながら、進は説明を始めた。

 「この花は、かつてはあちこちで咲いていたそれほど珍しくない花だったんだ。自然界では春先に雪解けにあわせて咲くんだけどね。
 それがガミラスの遊星爆弾の攻撃で絶滅してしまって、今まで僅かな標本が残っていただけだったんだ。
 日向さんがグリーンフィールド研究所に来て、ボランティアと一緒に絶滅種の復活をさせるって聞いたとき、俺は最初にこの花を復活させいと思ったんだ。ずっと君に見せたいと思っていた花だったから…… だから彼女に頼んだ」

 雪はじっと話を聞いていた。ひとつ瞬きしたその瞳から、ぽろりと涙が一粒こぼれた。

 「花の選択の方は、それでOKがでたんだけど、せっかくなら今日の結婚記念日に間に合わせたくて、俺1ヶ月で復活させたい!って頼んだんだ。そしたら、日向さんもびっくりしちゃってさぁ。
 つきっきりで見ててもできるかどうかわからないって言うんだ。だからつい、俺も毎日来て面倒見ますから何とかって頼んだんだ。で、それならばってことになってさ。だから毎日遅くなったり休日もここに来る事になったというわけなんだよ。
 最初から説明しておけば良かったんだけど、結婚記念日に君を驚かせたくて……
 だけど、君がそんなに悲しい思いをしたなんて、本当にぜんぜん気が付かなかったんだ。悪かったよ、本当にごめん」

 進の言葉が雪の心に染みていく。

 (私のために彼は毎日この花の面倒を見てくれていたのね…… 私にきれいに咲いた花をプレゼントしたくて彼は……)

 「ううん……もういいの、もういいの…… 私、うれしいわ。こんな素敵なプレゼント…… どんな大きな花束よりもこの小さな花の鉢の方が何倍も素敵よ! ありがとう、進さん。本当にありがとう!」

 雪の顔は涙で潤みながら、満面の笑顔を浮かべている。進は指でそっとその涙をぬぐってにっこりと微笑んだ。

 「よかった! 雪のその笑顔が見たかったんだ。ありがとうって嬉しそうにしてくれるその顔がさ」

 「ええ……」

 雪はこっくりと頷いた。その顔を覗き込むように、進は少し悲しそうな顔をした。

 「けど俺はまったく逆のことをしてしまったんだな」

 「もういいの、言わないで…… 私だって悪いんだもの」

 雪は再び顔を上げて夫を見上げた。夫の顔がゆっくりと近づいてくる。そして……妻の柔らかな唇を、夫の唇が覆ったのはその直後のことだった。
 花を押しつぶさないように、そっと花ごと抱きしめながら。

 (23)

 しばらくして、二人は再び車中の人となった。進が今年こそ自分でちゃんと予約したレストランに向かうために。
 誤解がすっかり解けて、熱々ムードの二人だが、進がふと思い出したように、雪が誤解した理由を尋ねた。

 「しっかし、どうしてそんな風に思ってしまったんだい?」

 「あはっ、それはね……」

 雑誌の特集記事を見たこと、その後、進の行動がそのチェックにぴたりとあったこと、そしてたまたま日向の姿を司令本部のカフェテリアで見てしまったことなどを、雪は説明して聞かせた。

 「あっははははは…… まったく君ときたら、気の回し過ぎだよ! ははは……」

 「ごめんなさいって言ってるでしょう! でもその時は真剣に悩んだのよ! あなたったら、あんまりにも行動がぴったりなんだもの! もうっ、ばかぁ!」

 ちょっとふてくされる雪が、進はかわいくて仕方がなかった。自然と笑顔がもれてしまう。

 「あははは…… ああ、いや、笑ってすまなかった」

 「そうよっ! 妊婦は情緒不安定なんだって言ってるでしょう!」

 少し恨めしそうに夫を見つめる雪を、進は優しい目で見つめ返した。

 「ああ、そうだったな。そういうところに気が回らないってことは、俺もまだまだだよな、はは……
 それにしても、まったくタイミングが良すぎるっていうのか悪すぎるっていうのか…… 
 まあ、ある意味、君に隠し事をしてたのは事実だから、そのことでどっかで気が引けてたんだな、きっと。だから、そんな風に行動が怪しかったのかもしれないな」

 「うふふ、そうよ! あなたも悪いの!!」

 反省する夫を、妻が笑いながら責めた。

 「悪い悪い! じゃあ、ホントに浮気する時は、行動に気をつけないといけないな」

 「もう、進さん!!!」

 夫の悪い冗談に口をとんがらせて抗議する妻を見て、進は爆笑した。

 「はっはっは、冗談だよ。けどさ…… 君がそんな風に妬いてくれるのは…… 俺のことが大好きだって証拠……だよな?」

 「ん、もうっ! 知らないっ!」

 それでも、そうやって妻をからかう術(すべ)を知ったことは、進としては結構進歩したと言えるだろう。

 (24)

 車は東京メガロポリスに入ってきた。目指すレストランももうすぐである。進はハイウエェイを降りて、街を走り始めた。

 「なんか最後に来てもたもたしたけど、とにかく、3周年無事通過だな! これからもずっとよろしく頼むよ!」

 「はいっ! 私の方こそ、ずっとずっとよろしくお願いします」

 二人は顔を見合わせてにっこり笑った。その時、

 「あっ……」

 雪が驚いたように、おなかに手を当てた。

 「?」

 「動いたわ、この子!」

 雪は嬉しそうな顔で隣の進を見上げた。

 「そっか。ははは…… 俺達のこと祝ってくれてるんだな。さぁて、奥様、この子のためにもご馳走たっぷり召し上がっていただきましょうかね?」

 「うふふ……もちろんよ!」

 その時、ちょうど信号で車が止まったのをいいことに、進が雪の耳元でささやき始めた。

 「な、雪……」

 「なあに?」

 雪がくすぐったそうに肩を竦めたが、進はまだ話し続けた。

 「今夜は俺、ものすご〜〜く、君のこと愛したい気分なんだけど、その……この前してもらい損ねたあれ…… 頼んでもいいかなぁ?」

 その言葉に、雪はこれ以上ないというほど嬉しそうに笑った。

 「うふふ…… 今日ね、産婦人科の検診に行ってきたのよ。とっても順調ですって」

 「ああ、そうだったな。それはよかった!」

 「それに5ヶ月も過ぎたし、安定期に入ったって訳なのよ〜」

 雪の瞳が意味深に輝いた。もちろん、その意味を夫たるもの感付かないわけがない。

 「ってことは……?」

 期待を込めて妻の顔をじっと見つめた。

 「うふふ……やさしくしてねっ! 旦那様っ(*^^*)」

 「おおっ、やった! それじゃあ、早く飯食って、守迎えに行って急いで帰ろうぜ!! あっ、それとも守は一晩預かってもらうかい?」

 進が上機嫌でウインクをした。

 「もうっ!! あなたったら、現金なんだからぁっ」

 二人の笑い声が車の中で大きく響き渡った。ちょうど目の前に、目指すレストランが見えてきたところだった。

 その後、二人が食事をゆっくりたっぷり楽しんだのか、それともそこそこに自宅へ急いだのかは、皆様のご想像のままに……

おしまい

(注:(15)の古代君と日向さんの電話のやり取りで日向さんが何を言ったのか、皆様ちゃんと読まれましたか? もし、読んでなかった!という方は、古代君の会話と会話の間の行間部分をドラッグしてください。雪がまったくの誤解をしていたことがわかります。)

トップメニューに戻る    オリジナルストーリーズメニューに戻る

(背景:Pearl box 写真:デジタル楽しみ村)