消えた記憶
(4)
三人の間に、一瞬の沈黙が走った。真面目な顔で二人を見る進と、ぽかんとした顔で進を見る真田と雪。なんとなく不可思議な光景だった。
一息置いてから、真田がはっとして進に問い返した。
「お、お前、今なんて言った?」
その声には、今のは聞き間違いに違いないと、自分に言い聞かせるようなニュアンスが含まれていた。
「あはっ、古代君ったら、何、冗談言ってるのよ、やぁね」
雪がぎこちなく笑った。真田同様、まさかと思いつつも、冗談ならちょっとひどい冗談だわとも思う。
だが、進の答えは二人の僅かな希望をあっさりと打ち砕いた。
「別に冗談なんか言ってませんよ。僕はこの人がどこのどなたかと尋ねただけです!」
進が雪を凝視したままぴしゃりと言い切った。それはまさしく見知らぬ人を見る冷たい視線だった。
「なっ!?……」
真田は二の句がつけない。もちろん、雪はもっと大きなショックを受けていた。一言も発することができない。その雪に向って、進の言葉が追い討ちをかけた。
「失礼だが、制服から防衛軍の人ということはわかりますが…… 今回の事故のことで駆けつけてくれた総務の方なんですか?」
だが、雪の口からは息を呑む音が微かに聞こえただけだった。代わりに、やっと我を取り戻した真田が尋ねた。
「古代、本気で言ってるのか?」
「だから、どうしたっていうんですか? 知らない人に名前を聞いてどこが……」
進の口から出てくる言葉の一つ一つが全て、雪には信じられなかった。
「……知らない……ひと……!?」
さっきから険しくなりつつあった雪の顔が、さらに蒼白になった。まさか彼の口から、自分のことを「知らない人」と呼ばれることがあるとは、思ってみたこともなかった。
憤然としていた進も、その顔を見ては、さすがに焦った。
「だ、だから、どうしたっていうんですか? あなたも名前を聞かれたくらいで、そんなに真っ青な顔にならなくても…… 言い方がまずかったのなら謝ります……」
「信じられん…… お前が雪のことを忘れたというのか!? 事故の後遺症なのかっ!?」
進に詰め寄ろうとする真田の横をすり抜けて、雪が進にすがりついた。そして進の両腕を強く握って揺さぶった。
「嘘よ、古代君!! やめて、そんな悪い冗談! 私のこと忘れたなんて、嘘でしょ!? 嘘だって言って! お願いよ、古代君っ!!」
「えっ、あっ、ちょ、ちょっと…… 君っ!?」
進は、事の成り行きに大いに戸惑った。
自分の両腕を強く握って恐ろしく真剣な眼差しの、美しくも見知らぬ女性は、一体なぜそれほど強く自分の存在を訴えようとするのかが、わからなかった。
迫る雪と戸惑う進、二人の様子を見て、真田が雪を制止した。
「雪っ、やめろ」
「でもっ!」
振り返った雪の瞳がきっと真田を睨んだが、真田はゆっくりと首を左右に振って静かに言った。
「落ち着け、雪。まずは先生を呼んできてくれ」
「だって……」
「雪!!」
真田の強い口調に、雪は、あきらめきれないような顔で真田を見たが、それでもゆるゆると立ち上がった。
今ここで進にこれ以上すがっても、何も得ることがないということを、やっとの思いで自分に納得させたのだった。
「はい……」
雪は、もう一度振り返ってちらりと進を見てから、肩を落として部屋から出て行った。
(古代君が私を忘れた……!? 彼の中の私が消えたって言うの!? ああ、嘘よ…… 嫌よ、絶対に嘘よ、嘘であって、お願い……!!)
千々に乱れる心を必死に抑えながら、雪は皐月のいる医局へと足を速めた。
雪が部屋を出て行くと、進が肩の荷を下ろしたように、ほおっと小さくため息をついた。さっきの彼女のリアクションは、今の進にとってはまったく予想外のことだった。ただ所属と名前を聞きたかっただけなのに、なぜあれほどオーバーな態度を取るのか、理解できなかったのだ。
「古代、もう一度聞くが、本当に彼女のことを覚えていないのか?」
「はい、まったく」
「う〜む」
最後の望みのつもりで尋ねた問いも、進にあっさりと否定されてしまっては、真田としてもただ唸るしかなかった。
さすがにこの反応振りに、進のほうも、これは自分の方がおかしいのではないかと思い始めた。
「彼女の名前、雪……っていうんですか? でも、僕には覚えがなんです。一体誰なんですか?彼女は……」
「……本当に知らないって言うんだな?」
「彼女のこと、僕はよく知ってたんですか? 忘れたのは、事故の後遺症なんでしょうか?」
問いに問いで返してくる進の顔をじっと見つめながら、真田は再びつぶやいた。
「……信じられん……」
「信じられん、信じられんって言ってないで、教えてください! 真田さん!!」
業を煮やした進が、強い口調で尋ねると、真田はふうっと大きく息をついて答えた。
「彼女の名前は、森雪。その名に覚えはないか?」
「もり……ゆき……? いえ、思い出せません。それで僕とどういう関係の人なんですか?」
真田の深刻そうな表情に、これはただ事ではないらしいと感じつつ、進は尋ねた。しかし、その答えは進の想像以上に彼を驚かせるものだった。
「お前の……婚約者だ。お前は彼女を心から愛していた。お前の最愛の人だよ」
「えっ!?」
さっきとはまったく逆に、進のほうが絶句してしまった。目をカッと見開いたまま、真田を見つめ、一語一語を懸命に絞り出した。
「まさか……そんな…… 僕の婚約者!? 最愛の……ひとだって!?」
進は、その事実に関して全く思い出せなかった。両手で自分の頭を抱えこむようにしてうつむく進に、真田がさらに言葉を加えた。
「それに彼女は、ヤマトで一緒に戦ってきた仲間でもあるんだぞ」
「……ヤマトでも!?」
真田は無言でこっくりと頷いた。それはさらに進のショックを大きくした。ヤマトでともに戦い、そして愛をはぐくんできたという女性のことを、自分はまったく思い出すことができないというのか!
進は答える術を失ったまま、ただ真田を見つめることしかできなかった。
その時、先ほど進を診た医師の皐月を連れた雪が、部屋に入ってきた。
「どうしました? 古代さん」
部屋に入るなり、皐月は進に問いかけた。横には雪も気遣わしげに立っている。事情は雪から既に聞いていたが、皐月はあえて改めて説明を求めた。
だが、ショックを受けた進は、ただ呆然とするばかりで皐月の質問に答えられなかった。代わりに真田が答えた。
「…………どうも、雪の、彼女の記憶だけがすっぽり抜けているようなんです」
真田は視線で雪を差し示しながら答えた。
「じゃあ、やっぱり、森さんが仰ったとおりだったんですね」
真田と皐月の視線が、そして進の途方にくれた視線が自分に集まって、雪は思わず顔を覆ってしまった。万に一つの希望も消えた思いだった。
「ああっ……」
「本当に……? 本当に、君は僕の婚約者なのか?」
進が恐る恐る尋ねると、雪は顔を覆っていた手をゆっくりと離して、顔を上げた。その瞳はうっすらと潤んでいるようにも見えた。
「……古代……君…… ええ、そうよ。私とあなたは結婚を約束してたわ」
雪はすがるような視線を進に送ったが、進はただ険しい顔をし続けるだけだった。明らかに彼は、雪が告げたその事実を認識していない。
「もう少し、古代さんに色々尋ねてもらえませんか?」
皐月は、真田と雪に、さらに進と雪の関係を尋ねる問いを、進に投げかけるよう求めた。例えばこんな具合である。
「古代、ヤマトの各班長の名は覚えているか?」
「ああ、航海班長、島大介、工作班長は真田さん、通信班長は相原義一、それから機関長が山崎奨……」
真田の問いに、進はすらすらと答えたが、肝心の名は出てこない。
「生活班長は誰だ?」
「生活班長……? この間はいなかったような…… いや待てよ、その前までは確かに誰かいたはず…… う〜〜ん」
思い出そうと懸命に考え始めた進を、残る三人が固唾を飲んで見つめていたが、結局進は思い出すことができなかった。
「だめだっ…… どうも記憶の中に、もやもやと霧がかかっているみたいで、生活班長が誰だったのかどうして思い出せない……」
雪が問いの方向を変えてみた。
「それじゃあ、第一艦橋のレーダー手は覚えてる?」
「サーシャ、でしたよね?」
と真田に向って問うと、真田はこっくりと頷いた。
「サーシャのことも覚えているんだな」
「それはもちろん…… あの子の事を忘れられるわけが……」
進が悲しげな顔をした。サーシャを失ったことはしっかりと覚えているらしい。
「だがそれは今回だけのことだ。それ以前は誰だった?」
「サーシャの前?…………ああ、だめだ、やっぱりわからない」
その後も、真田と雪は過去に戻って様々な質問を繰り出したが、結局、進は雪に関することを全く覚えていなかった。
雪に関連した事件や出来事になると、それ自体の記憶がなかったり、または、それが誰が行ったことなのかが、どうしても思い出せなかったりした。
それをずっと黙って聞いていた皐月が、最後に確信したようにこう言った。
「事故の……後遺症でしょうね。一時的な記憶喪失だと思われます」
「信じられない…… 君が僕の婚約者で……それを僕が忘れてしまったなんて……」
自分の記憶喪失を医師にまではっきりと宣告され、進のショックはさらに大きくなった。
その姿を気遣わしげに見ながら、皐月は雪と真田に声をかけた。
「真田さん、森さん。患者さんのことで、少し相談したいのですが、よろしいですか?」
「でも……」
雪は進を見た。進はじっと自分の手元を見たまま動かない。雪はそんな彼を、今一人にしておきたくなかった。だが、逆に進の方がそれを望んだ。
「すみません……少し一人にしてもらえますか? もう一度一人でゆっくり考えてみたいんです」
皐月は頷いて、雪の肩をそっと叩いた。
「行きましょう、部屋にはモニターも付いているし、大丈夫よ」
そして、後ろ髪を引かれるような思いの雪を促して、3人は進を置いたまま部屋を出た。
3人は、再びさっき皐月が進の症状を説明した部屋に入った。椅子を勧められて座るなり、雪が息せき切って尋ねた。
「先生、どういうことなんでしょう! 古代君が……私の記憶だけを忘れてしまうだなんて!!」
真田もそれに同調する。気持ちは雪と同じだ。
「よりにもよって、一番大切な人のことを忘れるなんて、私にも信じられません!」
二人の問いかけを受け、皐月は医師らしく静かな口調で説明を始めた。
「確かに、事故で頭を強打した時には、記憶が消えてしまうということは、それほど珍しいことではありません。でもそれは、普通は事故の前後の記憶のことが多いし、もしそうでなくても、ある一定期間の記憶がすっぽり消えていると言うパターンがほとんどなんです。特定の人の存在記憶だけが消えてしまうというのは……」
皐月は考え込むように首をかしげた。
「ありえないことなんですか? じゃあ、古代君が嘘をついているっていうんですか?」
「いえ、ありえないというわけでもありません。ただ、その場合考えられるのは……」
皐月は、ここで一旦話をやめて、雪の顔をじっと見つめた。
「心因性の原因が大きく関与している可能性が高いということなんです」
「心因性の原因……?」
真田と雪が声を重ねるように繰り返した。それに皐月が大きく頷いた。
「そうです。ある一定の事件や人だけを忘れてしまうということは、その事件や人に相当強い悪印象を持っている場合が多いんです。
つまり、思い出したくないほど恐ろしい体験だったとか、忘れてしまいたいほど憎い人であるとか」
皐月の説明は、雪の心をぐさりと突き刺した。
「そんな……」
「それは絶対にありません! 彼女とあいつがどれだけ深く愛し合っていたかは、私もよく知っています!」
言葉を失った雪の変わりに、真田が強く主張した。すると、皐月は気の毒そうな顔で雪を見た。
「ああ、ごめんなさい。ご本人を前に失礼な言い方でしたわね。でも例えば…… ちょっとプライベートなことをお聞きますが、事故の直前に、お二人が大喧嘩をしたとか、そういうことはありませんでしたか? 腹が立ったまま外を歩いていて、たまたま今回の事故にあわれたとか……」
だが雪は即座に首を左右に振った。
「いいえ、喧嘩なんて……全然。私は仕事でしたし、彼は一人自宅にいたはずです。あの時彼が何のために外出してたのかはわからないんですけれど」
「そうですか」
皐月は雪の説明に頷いてから、少し考えていた。それからふっと息を出すと、微かに笑顔を見せた。
「まあ、それでしたら頭を打ったショックで、偶然記憶のつながりが消えてしまった程度なんでしょう。それなら、しばらくすれば思い出すかもしれませんね」
「本当ですか?」
楽観的な皐月の見解を聞いて、雪の目が輝いた。しかし、皐月ははっきりと本当だとは頷いてくれなかった。
「絶対、とは言えませんが……」
「ということは?」
真田が更なる説明を促した。
「今回の古代さんの場合、頭を打ったという外的ショックが直接の原因ではありますが、実際に脳に損傷があっての記憶障害ではありませんからね。こういう場合は、特にこれといった治療法がないのが現実なんです。
大抵は自然に記憶が回復するものなんですが、その回復にかかる時間は、ほんの数時間の場合もあるし、数日のこともあります。
でも……数ヶ月、数年経っても思い出さないこともないわけではありません。もし、その原因が本人の潜在的な拒否に起因するものであれば、死ぬまで思い出せないことも……」
皐月の説明は、あまりにも幅が広すぎた。明日にも戻ることもあるし、ずっと戻らないかもしれない。その現実は、雪の心に大きくのしかかってきた。
「そんなっ!!」
「こんな説明しかできなくて申しわけありません。とりあえずは、体の痛みはほとんどないようですので、日常生活に戻ってもらってください。自宅に戻って、あなたを思い出すようなものを見たり聞いたりすれば、あるいは…… そうですね、写真とか録画した映像とか、思い出の品とか……」
皐月は同情的な目で雪を見ながら、今できる対処法を説明してくれた。
「思い出の品……」
「あなたを思い出すきっかけを彼に提供してあげることです。もし、もしもですよ、あなたを忘れてしまいたいような何かがあったとしたら、それを解決してあげることでも、思い出すきっかけになるかもしれません」
「忘れてしまいたいこと……?」
「あるわけないだろ、古代にそんなこと」
「でも……」
二人の会話を聞きながら、皐月が結論を出した。
「とにかく少し様子を見てみましょう。色々悩んでもそれが取り越し苦労だったということもありますからね。
ただし、無理矢理思い出させようと焦るのは禁物ですよ。本人を混乱させるだけですから。あくまでも周りの人は、ゆっくり彼の記憶の回復を待つつもりで。いいですね?」
「はい……」
医師の説明を聞き終えた真田と雪は、部屋を出て重い足取りで進の待つ部屋へと歩き出した。
当惑と不安と悲しみ等等、色々な思いを交錯させているだろう雪の姿は、見るからに痛々しかった。
「雪…… 大丈夫だ。君と古代のこれまでの絆は、どんなことがあろうとも消えることはない。それは俺たちが一番よく知っている。きっとあいつは、すぐに記憶を取り戻すさ」
「真田さん……ありがとうございます」
礼を言いながら懸命に微笑もうとする雪の小さな肩を、真田は労わるように、2、3度トントンと叩いた。
二人が病室に戻ると、進はベッドに座っていた。そして顔を上げて二人の顔を見て、つぶやいた。
「真田さん…… 雪……さん?」
「…………」
雪は微笑んで頷いたが、進に「さん」付けで呼ばれたことに、何ともいえない悲しみを感じた。やはり彼はまだ自分のことを思い出していないのだと、その事実を突きつけられるようで嫌だった。
「とりあえず家に帰ろ、古代。先生からは、ゆっくり養生すればすぐに回復すると言われたよ。家で色んなものを見ればきっと思い出すさ。さ、送ってくよ」
「そう……ですね。わかりました」
進も一人で考えて、考えても今ここでは記憶が戻ってこないことを、自分なりに納得したのだろう。真田の言葉に、素直に従った。
雪が病院の手続きを終えると、3人は地下駐車場へと向かい、そこに止めてあった真田の車に乗り込んだ。進と雪は、後部座席に並んで座った。
真田は黙ったまま車のアクセルを踏んだ。すぐに車が地上に出る。
時はまもなく4時を過ぎようとしていた。昼に病院に来てからもう数時間が経っている。日は既に傾き始め、オレンジ色の光が車の中に差し込んできた。
その光を進が眩しそうに見たが、誰もしばらく口を開かなかった。進は前を向いたまま、雪はうつむき加減に、ちらちらと進の横顔を盗み見る。
あと数分で進たちのマンションに着く頃になって、進は横に座る雪を見た。
「雪さん……」
「はい?」
「君と僕が婚約したのは、いつのことなんだろうか?」
「婚約して、もう3年になるかしら」
「えっ、3年? そんな前に婚約したのに僕らはまだ……?」
結婚していなかったのか?と、進は続けたかったが、さすがに自分のことだと思うと、言葉にならなかった。もちろん、雪にはその続きは十分にわかっている。悲しそうな笑顔をしてみせた。
「ええ、色々……あったから……」
「色々?」
「ヤマトは忙しかったでしょ?」
「ああ、そうか…… 戦いのせいで?」
雪は答える代わりに、黙って頷いた。
「そうか……」
雪の答えに、進は考え込むように眉をしかめた。進の脳裏には、白色彗星との戦いが浮かんでくる。3年前というと、ちょうどこの戦いの直前になるのだろうか?
その後もイスカンダルの暴走事件が起き、そして今回の戦いが起きた。それらのことが、いつどんな形で起こったのかは、進も忘れていない。
(俺と彼女は、3年前に婚約した。だが3度の戦いのせいで、具体的な話は延び延びになったのか…… ああ、わからない。俺は本当に彼女と愛し合っていたというのか? 二人でどんなことを語り合ってきたんだろう?)
そんなことを考えていた進は、ふと思いついたことがあった。
(そう言えば、今回の戦いで……)
「君はこの間の戦いでは、ヤマトに乗ってなかったよな?」
「……ええ! それは覚えているの!?」
何かきっかけを掴んだかと、雪の声が高く上ずった。
「ああ、さっき病室で一人の時に、この間の戦いのことも思い出していたんだ。ヤマトに乗ってからの記憶で曖昧なことはなかった。そこには確かに君はいなかった」
「ええ……」
「ただ……ヤマトにたどり着くまでのところがどうも思い出せない。
英雄の丘で、相原や島たちにあったことは覚えているんだが、その後イカルスにつくまでの記憶が曖昧なんだ。たしか、小さな船に乗ってイカルスまで行ったような気がするんだが……」
「そう……」
進の答えに、雪はがっくりと肩を落とした。やはり肝心なところになると思い出せないらしい。
その時自分と一緒だったことはもちろん、飛び立とうとする高速艇で、落ちそうになった自分に手を伸ばしてくれたことも、けれど掴みきれずに落としてしまったことも…… 全て彼の記憶から消えてしまったいるのだ。
(古代君はどうして……? どうして私のことだけを忘れてしまったの!?)
雪が心の中で訴えていた。しかし、そんな雪の思いも知らず、進は質問を続けた。
「雪さんは生活班長だったっていうが、なぜヤマトに乗れなかったんだい? どこにいたんだい?」
一瞬考えた後に、雪は今は詳しい説明をするのはやめた。
「……ヤマトに乗ろうとしたんだけど乗り遅れてしまったの。だから、地上でパルチザン部隊にいたわ」
言えなかった。事故の直後で、また肉体的にも精神的にも回復していない進に、あの事実を伝えるのは、とても酷なような気がしたのだ。例えそれで彼の記憶が蘇るのであったとしても……
もう少し後で、二人きりのときに落ち着いてからにしよう。雪はそう思った。
「そうか……」
進は再び何か考えるように、厳しい顔をした。
「古代君、何か思い出したことはある?」
「いや、すまない」
進は、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「いいのよ、でも無理しないで。今は体を休めないと。それからゆっくり考えましょう」
「ありがとう……」
思いやりのこもった雪の言葉に、進は事故の後初めて、ほんの少し微笑を見せた。その笑顔には、微かではあったけれど、二人きりのときに見せるあの優しい眼差しを思い起こさせるものがあった。
(古代君……)
運転している真田は、黙ったまま二人の会話に加わってくることはなかった。ただ二人の会話をじっと聞き続けていた。雪ならきっと、進の記憶を取り戻してくれるに違いないと、信じているから。
そして程なく、3人を乗せた車は、進の――今は進と雪が暮らす――マンションに到着した。
(背景:Four Seasons)