消えた記憶
(5)

 進と雪の住むマンションの前に車をつけると、運転中は黙っていた真田が口を開いた。

 「さあ着いたぞ」

 「ありがとうございました」

 二人が礼を言って車から降りた。それから、真田も当然部屋に来るものと思っていた雪が、ゲスト用の駐車場を説明しようとすると、真田が途中で遮った。

 「いや、俺は帰るよ」

 「えっ?」

 その言葉に、進が驚きの声を上げた。

 「午後の仕事ほったらかしのままだからな。部に戻ってどうなったか確かめねばならん。古代のことは、雪に任せるよ」

 「でも……」

 真田の言葉に、雪は賛成とも反対とも言えないような困った顔で進をちらりと見たと同時に、進が慌てたような声を上げた。

 「えっ、そんな……ちょっと待ってくださいよ、真田さん!」

 「なんだ、そんな情けない顔は!」

 今にも泣き出しそうな進の顔に真田は苦笑したが、進のほうは真剣である。

 「いや、だって、今の僕にとっては、その……」

 ここで雪のほうにちらっと目をやって、それから気恥ずかしそうに視線をはずした。

 「初対面に近い彼女と、いきなり二人きりっていうのは、ちょっと…… あの、どうしていいんだか……」

 後半はもごもごと口ごもる進の言葉に、真田は大げさにため息をついて見せた。

 「何言ってる。今は覚えてないといっても、彼女は間違いなくお前の婚約者だ。それは俺が保障する。それに今年に入ってからは、一緒に暮らしてるんだしな」

 最後は真田がニヤリと笑った。とたんに、進の顔が真っ赤になった。

 「なっ、一緒って!? 彼女と…… えっ? あっ、本当に!?」

 どっちに確認していいのか、おろおろしながらも、進はやっとのことで隣に立つ雪に向った。雪は、その問いに対して、ほんのり頬を染めながら、しかしはっきりと頷いた。

 「えっ……ええ」

 「いや、けど、僕と君は婚約者で、結婚はまだのはずじゃ!?」

 記憶のない彼にとっては、当然の疑問であるが……

 「私の住んでたマンションが、この戦いで壊れて住むところがなくなってしまったの。だから私、あなたのマンションに避難させてもらってたのよ。それでそのまま一緒に…… あなたが帰ってきてからだから、ほんの2週間前のことだけど」

 「…………」

 確かに、今回の暗黒星団帝国の攻撃で、被害を受けたマンションはたくさんあった。そのことは進もよく知っている。
 雪の理に叶った説明に、進は反駁の言葉が出るわけもなく、どう答えて言いか再び困って固まってしまった彼に、真田が車の中から声をかけた。

 「ということだ。お前と彼女が二人きりでいても誰も文句言う奴はいないから、心配するな。とにかく部屋に戻って、自分の大事な人のことを思い出せるきっかけを探せ!」

 「……しかし、今は事情が……」

 それでもまだ踏ん切りがつかないように、進は真田と雪の間に視線を泳がせた。すると今度は雪が訴えた。

 「とりあえず一度家に行ってみない? 頭を打ったばかりのあなたを一人にしておけないし、かといって真田さんにこれ以上迷惑をおかけすることもできないわ。
 もし……どうしても二人きりになるのが気まずかったら、私、横浜の実家に帰るから、ね?」

 これほどまでの美人に、その美しい瞳で真っ直ぐに見つめられると、進も嫌だとは言えない。それは記憶があるなしに関わりなく、男としての本能なのかもしれない。
 さらに真田が雪の後押しをしてくれた。

 「二人で暮らしている部屋なんだ。お前の記憶が戻る糸口もあるかもしれないし、二人で一緒に色々なもの見てみるのがいいかもしれんぞ」

 進は、それでもしばらく春秋していたが、ようやく決心したように頷いた。

 「……わかりました」

 進の返事に、真田もほっとしたように笑顔になった。

 「それじゃあな! もし何かあったら、相談してくれ。もちろん思い出したらすぐ連絡くれよ」

 「はい、色々とありがとうございました」

 進と雪が見送る前で、真田の車は道路の彼方に消えていった。


 マンション前の道路に雪と二人残された進は、やはりまだ戸惑っていた。

 今の進には、雪の存在以外は全て今までの記憶がきちんと残っている。ただ、雪と言う人のことだけを忘れてしまったと言われても、どこかしらピンとこないのだ。

 それに、本質的には女性と付き合うのは、決して上手なほうでない。そんな自分が、隣に立っている女性、それも女優かモデルと言われても頷けるような美女と、婚約していたということに驚きを隠せなかった。

 正直なところ、自分で自分が信じられない。未だに自分がどんなことをして彼女に告白し、そして恋人として付き合い、さらに結婚を約束し、一緒に暮らすことになったのかについて、どうしても自分の想像の力を超えてしまうのだった。

 (まさか、俺のために真田さんが考えた新手の見合い……ってことはないよなぁ?)

 そんな突拍子もないことを思いつつ、進は雪の顔をまじまじと見た。すると、あまり見つめられて恥ずかしかったのか、雪がうつむき加減になって、恥ずかしそうに小さな声で言った。

 「あの、とりあえず部屋に戻らない? ここに立ってても仕方ないから……」

 「あ、ああ……そうだな」

 雪に促されて、進はやっとその思考を止めて、部屋に戻ってみることにした。


 程なく二人は、部屋の中に立っていた。先に部屋に上がったのは進だ。きょろきょろと自分の家を見回している。その姿を見ながら、後ろからついてきた雪がおずおずと尋ねた。

 「この部屋の記憶は……ある?」

 その声に振り返って、進はこっくりと頷いた。

 「ああ、もうここに2年以上は住んでるからな。置いてあるものも、大抵のものには覚えがある……ん?」

 とここで、進はふと何か見つけて不思議そうな顔をして、居間のサイドボードの上の花瓶を手に取った。

 「この花瓶には、覚えがないな」

 進の何気ない言葉が、雪の心にズキリと突き刺さった。

 「あ……それは、私が2、3日前に買ってきたものよ」

 雪は説明しながら、情けなくて泣きそうになった。

 (やっぱり彼は私に関するものだけの記憶が消えているんだわ!)

 「ああ、そうか、それで……」

 短くそう答えた進の心にも、痛みが走った。やはり自分が彼女という存在の記憶を失ったことを突きつけられたような気がしたのだ。
 さらに視線をその横に伸ばして、進はそれ以上のショックを受けた。

 「あっ……この写真は、俺と君!?」

 「ええ、あなたと私…… 去年の春、ピクニックに行ったときの写真よ」

 進はその写真を見つめながら、手をぐっと握り締めた。

 (なんてことだ……!)

 シンプルな額に入れられた写真には、自分が今日初対面だと思った女性と自分が、いかにも楽しそうに微笑みながら写っていた。そしてその笑顔からは、間違いなく写真の二人の深い絆を感じさせられた。

 自分が自分の愛する女性の記憶を失ってしまっていると言う事実を、これ以上はっきりと示しているものはないだろう。さっきの花瓶の時以上に、進の心に大きな衝撃が走った。

 「本当に、僕と君は…… それなのに、くそっ!! 全然覚えてないなんて、どうしてなんだっ!」

 進は両手でサイドテーブルをドンと叩いた。大切な記憶を失くしてしまった自分を、思い出せない自分が……歯がゆかった。
 すると、雪が慌てて進の腕にすがり付いてなだめた。

 「古代君! だめよ、興奮しちゃだめよ。無理やり思い出そうとしてもだめだって、お医者様もおっしゃってたわ」

 「しかし……本当に申し訳ない。どうしてこんなことになってしまったのか…… すまない……」

 進は厳しい顔で雪の顔を見た。記憶を失った今は、彼女に対して、特別な愛しさや恋しさは、残念ながら感じていない。だが、その美しい顔と瞳が悲しみでゆがんでいるのを見るのは辛く、とても悲しかった。

 それは、消えた記憶の彼方から届く微かな希望の光なのだろうか。だが、今の進にはそれをそんな風に受け止める余裕もなかった。

 肩を落とす進に、雪は笑顔に戻ってやさしく語りかけた。

 「いいのよ、事故のショックのせいだもの。きっとすぐに思い出せるわ」

 雪の声はどこまでも優しかった。決して自分を忘れた進を責めようとはしない。いや、本当は心のどこかで責めたい気持ちがないとは言えない。
 けれど、それが自分が思う以上に、進を苦しめることになるだろうことがわかっているから、今はただ見守っていこうと思った。

 雪のそんな思いがこもった声は、進の心にじわりと響いた。その笑顔は、進の心を静かに和ませてくれた。

 「ありがとう……」

 進はふと、自分がどうして彼女を好きになったのかが、少しわかったような気がした。
 彼女の外面の美しさとかスタイルとかそういうものではなく、彼女自身が醸し出す心の美しさを感じたような気がしたのだ。

 今はまだ、深く彼女を愛した記憶は戻っていないけれど、このとき再び彼の心に、彼女へのなにかしらの思いの小さな芽が芽吹き始めた。
 そして、自然とその気持ちが、彼の表情を穏やかにした。

 「ああ、そうだな。まったく俺ときたら…… 雪さんみたいなきれいな人と婚約してたっていうのに、覚えてないなんて、まったくもったいない話だよな」

 冗談めかしてそう話す進の瞳はとても優しかった。いつもの進らしくない言い回しに少し驚きながらも、雪は心が温まるような気がした。

 (古代君ったら、いつもならあんまり言ってくれそうにないこと言うのね。知らない女性になら、少しはお世辞も言えるのかしら?)

 そんなことを思うと、おかしくなってくる。雪は笑顔でその冗談に答えた。

 「あら? それって褒められてるって思っていいのかしら?」

 「え? ははは…… そうなるのかなぁ?」

 相手に尋ねられて、初めて自分が女性に褒め言葉を使ったことに気付くあたりは、やはりいつもの彼らしい。

 「うふふ…… とりあえず、今日は無理しないで、のんびりやりましょう、ねっ」

 「ああ、わかったよ」

 互いに笑顔が出たことで、その場が和んだ。

 「それで、事故で打ったところ痛くない?」

 「そうだなぁ、少しは痛いかなぁ?」

 進は打ったあたりを手でさするながら答えた。触ってみると少し腫れているようだ。だが、ズキズキとしたひどい痛みはない。

 「たんこぶできてるって言ってたわ。冷やす?」

 「いや、それほどでもない。頑丈にできてるみたいだな、俺の頭は、ははは……」

 「ほんとね……ふふふ」

 進につられて雪も笑った。けれど雪は、笑いながら急に心の中に湧き上がってくる悲しみを感じていた。

 (体は丈夫なのに、あなたの心はとても壊れやすかったの? 事故のショックで私のことを忘れてしまうほど、あなたの心は傷ついていたの? 私とのことを忘れたいほど、あなたは後悔していたの?)

 医師が指摘した進が記憶を失った理由は、一体何だったのか……? 雪はそれを心の中で彼に問いかけていた。

 しかし、雪がそんな思いで見つめている事に気付くことなく、進は部屋の中の様々なものを一つ一つ手に取りながら、見て周っていた。

 だが、そのどれも、彼の記憶を取り戻してくれることはなかった。

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(背景:Four Seasons)