消えた記憶
(8)
昼近くなった頃、司令本部で仕事を続けていた雪に、長官の藤堂が声をかけた。
「雪」
「はい?」
顔を上げた雪のすぐ目の前に、長官が立っていた。
「今日も、昼食は古代と一緒かな?」
何か新しい仕事を命じられるのかと身構えた雪は、藤堂の言葉に一瞬答えに迷った。
「えっ? ええ、たぶん。あの、それが何か?」
「いやいや、大したことじゃないんだがね。今回の報告書がそろそろ出来上がる頃だと思うんだが、その進捗状況とこれからのことを、ちょっと相談したいと思ってな」
「これからのこと……ですか?」
進に尋ねたいことがあるのなら、直接進の部屋に連絡を入れればいいはずなのに、と思いながら雪は尋ねた。
「うむ、この前話した時には、しばらくは宇宙に出たくないと言っておったが……」
「ああ……はい……」
雪の表情が僅かに曇った。進は自分のために宇宙に出ることをためらっていた。少なくとも、記憶を失う前までは……
「まあ、気持ちはわかる。君の事でずいぶん心配していたからな。今回の君の件では、自分に責任があると言っておった」
「そんなこと、ありません……」
雪はさらに曇った顔つきで否定したが、藤堂は優しく微笑みながら、こう答えた。
「そう言ってもなぁ。男としては、そうも言えんのだろう。ましてや君は、彼の最愛の女性だ。それに、戦後は君へのよからぬ噂も広まって、本当に辛い思いをさせてしまったな。私もずいぶん心配していたのだ」
「長官にまでご心配をおかけして、申し訳ありません」
「君の謝ることではない。それに幸い、先日の暗黒星団帝国について公表されたことで、その噂もずいぶんと鎮まったようだしな」
藤堂の優しい物言いに、彼までもが自分のことを気遣ってくれていることに、雪は心から感謝した。
「はい、ありがとうございます」
雪の頬が少しだけ弛んだ。藤堂は、それに満足そうに頷いた。
「うむ、それでなんだがね…… 彼も報告書の作成が終わったら、宇宙に出る気になるのではないかと思ってね」
「……ええ、そうですね」
曖昧に答えながら、雪の心は複雑だった。先日までなら、進が宇宙へ戻る気になってくれることを望んでいた。
しかし、今は……
自分のことを忘れてしまった進と離れることは、少しためらわれる雪だった。
もちろん、そんなことなど露とも知らない藤堂は、雪の言葉を額面どおりに受け取った。
「それで、そのあたりもちょっと確認したいのでね。午後一番に、こちらに顔を出すように伝えてくれんかな?」
藤堂の問いに、雪はすぐには答えなかった。何か考え込むようにじっと視線を落としている。
その様子を不審に思った藤堂に、「どうかしたかね?」と声をかけられて、やっと雪は我に帰った。
「あっ、いえ、何も……」
雪は一瞬、進が自分の記憶を失っていることを、藤堂にも知らせるべきだろうかと迷ったが、結局何も言わずにおくことにした。
「わかりました。古代艦長代理に、午後一にこちらに来るようにと伝えます」
「うむ、頼んだぞ」
(長官に話しても、ご心配をかけるだけだわ。古代君の記憶だってきっとすぐに戻るはずだし…… そうよ、きっと、すぐに……戻るに決まってる!)
雪は自分に言い聞かせるように、心の中で強く思った。
昼休みになって、雪は進の事務室へ向った。彼の部屋の前まで来ると、ドアホンを押した。
「森雪ですが……」
「あ…… えっと、ああ、どうぞ」
中の戸惑ったような声から、進は雪の来訪を予期していなかったらしい。今までなら、ほとんど毎日どちらからか仕事が速く終わった方が、相手の部屋まで行っていた。しかし、進はそのことも覚えていないのだ。
(古代君……)
雪は気持ちが萎えそうになる自分を励ましながら、進の部屋に入った。進はまだ仕事中のようで、真剣な眼差しでパソコンの画面に向っていた。
雪は、自分の気持ちを切り替えるように、努めて明るい口調で話しかけた。
「古代君、まだお昼行かないの?」
「えっ? ああ、そうか、もうこんな時間だったんだな」
雪の言葉に始めて時間に気付いたように、進は自分の腕時計を見た。その後、雪の顔をちらりと見て、困ったような顔付きで、雪から視線を逸らした。
「あっ、俺はまだいいよ……」
「仕事のキリがつかない?」
「いや、そう、そうなんだっ! だから俺は……」
雪と一緒に食事に行くのを逃れたい口実を探しているような答弁をする進に、雪は少し腹が立った。記憶を失っていることで、自分に対して何かと遠慮している進が、雪にはどうしても歯がゆくて仕方ない。
「だめよ、特別な事情がない限り、食事は決まった時間に取らなくっちゃ。戦闘中ならそんなことも言ってられないけど、今は事務作業でしょ? さ、行きましょ!」
「えっ? あっ、ああ…… そうだな、わかった」
雪の迫力に押されたように、進は昼食に行くことに同意した。記憶を失ってもなお、二人になるとどうも雪に押されがちな進である。
連れだって部屋を出た二人は、食堂に向って廊下を歩いていた。
「あ、そうだわ、古代君! 長官が、報告書の進捗状況を聞きたいから、午後一に長官室に来て欲しいんですって」
「ああ、そうか。わかったよ」
伝言を伝えた雪に、進はこっくりと頷いた。
「もう、終わりそう?」
「ああ、2,3日中には……終わると思う」
「そう……」
答える進の声が少し揺らいでいた。その雰囲気をとっさに感じた雪も、答える声に力がなかった。
(古代君…… 今までの記録、全部見たのね? だから……)
雪の想像は、ぴたりと当たっていた。
それは、しばらくの沈黙のまま歩いた後、ちょうどエレベータに乗ったときだった。エレベータの中に他に誰もいなかったのをきっかけに、進が口を開いた。
「あの、雪さん……」
「なぁに?」
深刻そうな進の口調を跳ね返すように、雪は軽い口調で答えた。しかし、進の表情はますます厳しくなっていった。
「今朝ここに来て、今まで自分で書いた報告書に目を通した。そして俺は君を……」
「お願い、それ以上言わないで……」
雪が進の言葉を途中で遮った。しかし進は話をやめなかった。
「いや、言わせてくれ! 雪さんを地球に置き去りにしてしまうだなんて…… 俺は……俺は…… 本当に申し訳なかったっ!」
最後は叫ぶような口調でそう言うと、進は大きく頭を下げた。
「古代君……やめて……」
やんわりと制止する雪の言葉にも、進は大きくかぶりを振った。
「すまない。本当に…… こんな言葉だけじゃあ片付く問題じゃあないことはわかっている。わかっているんだが……」
その時、チンと軽やかな声がしてエレベータは食堂のある階に到着した。
「着いたわ。降りましょ、古代君」
「あ、ああ……」
エレベータから降りると、雪は後ろから降りた進の方を振り返った。まだ険しい表情をしたままの進に、雪はきっぱりとした口調で話し始めた。
「あのね、古代君、私はもうどこもなんともないの、大丈夫なの。あの時の怪我だってもうすっかりよくなったし…… ほら、こんなにピンピンしてるわ!」
雪は怪我をしたほうの腕をぐるぐると回して見せた。
「それに報告書にも書いてあったと思うけど、本当になんでもなかったんだから、そうでしょ?ねっ!」
進はそれに答えはしなかった。しかし、雪の勢いに気圧されるように当惑したような顔をしたものの、さっきよりはいくらか表情を和らげた。
「それより、古代君ってば、報告書を読んでも、私のこと思い出さなかったの?」
雪がわざと明るく装って尋ねると、進は再び申し訳なさそうな顔になった。
「……すまない」
「ふふっ、しかたないわね、気長にやりましょ、ねっ! さっ、とりあえずお昼ごはんよ!」
雪は進の腕を軽く掴んで、食堂の中へと引っ張っていった。
午後、一旦雪と別れた進は、自分の事務室で資料を持って司令長官室にやってきた。
長官室の手前の部屋には、秘書である雪が座っている。進が入ってきたのに気付いた雪は、進に微笑んで軽く会釈してから、すぐに長官に取り次いでくれた。
「お入りください、古代艦長代理」
雪の声に軽く頷くと、進は長官の部屋に入った。
「失礼いたします」
進が入室すると、藤堂は待ち構えていたかのように、顔を上げた。
進は真っ直ぐに藤堂を見つめた。進は彼のことをよく知っていた。ヤマトが初めて旅立ったときから、彼はずっと進たちの味方だった。
特に白色彗星との戦いのときは、どれほど彼が尽力してくれたことか…… 思い返してみても、進の中で、彼に関して何も忘れてしまったことはなかった。
彼の秘書が雪であると言う事実以外は……
「うむ、すまないな、呼び出して……」
「いえ、さっそくですが、今日まで出来た分の報告書です。もう少しですので、明後日にも提出できるかと思います」
進の説明に、藤堂はこっくりと頷いた。
「そうか。いや、報告書は完成してからゆっくり見させてもらうよ。ご苦労だったな」
「はい?」
報告書を早く見たくて自分を呼んだのだと思っていた進は、藤堂の言葉に当惑した。それに気付いたかのように、藤堂は早々に呼び出しの主旨を切り出した。
「実は今日ここに呼んだのは他でもない、君のこれからのことなんだが……」
「これから、と言いますと、新しい任務……ですか?」
進はここで今日の呼び出しの訳を納得した。
「そうだ。また以前のように、艦長を勤めてもらいたいと思っている。今回の功績も考慮に入れて、パトロール艇ではなく、今後は巡洋艦の艦長の任にあたってもらおうと思っている」
「はっ、ありがとうございます!」
進はさっと手を上げて敬礼した。
「異論はないということかな?」
この間まで、宇宙には出たくないと言っていた進があまりにもあっさり了承したことに、藤堂は驚いた。だが、雪の記憶を失っている今の進には、宇宙に出ることをためらう理由は何もなかった。
「はい。宇宙に出れるのでしたら、何でも…… 巡洋艦の艦長というのは、任が重い気もしますが」
すっかり乗り気の進の答えに、藤堂も安心したように笑い声を上げた。
「ははは、そんなに謙遜しなくてもいいだろう。君にはそれくらいの実力があるんだからなぁ。
とにかく、あちこちの基地から、君が欲しいと言われておってな。特にタイタン基地所属の防衛軍第2艦隊からは、是非ともうちの艦隊にと、艦隊司令から直々に依頼されてしまったよ」
「えっ? タイタン基地ですか?」
タイタン基地所属になるのかと、進が思ったとたん、藤堂は大きな声で再び笑った。
「はっはっは…… 心配しなくてもいい。君が地球を基地にしている艦隊を希望していることは十分に理解している。それに……」
とここで、藤堂は言葉を止めて、進の顔をさも楽しげに見た。
「私の大事な秘書君にまで、タイタン基地に転勤したいと言い出されては、困るからな」
「えっ? あ、はぁ……」
初め、藤堂が何を言いたいのか理解しかねていた進だが、すぐにそれが雪のことを差しているのだと気付いた。
「ははは…… まあ、そういうことだ。一応地球所属の艦隊の予定にしているが、所属艦隊については、もう少し調整して数日のうちに改めて任命する。
それまでは、報告書が出来次第、真田君の新造艦建設のアドバイザーを頼むよ」
「はっ!」
進は敬礼をしながら、自分と雪とそして司令本部との関係を思い起こしていた。
(そうか、雪さんは長官の秘書だったな。そして、長官は雪さんを放したくない、というわけか……)
進の地球所属艦隊への配属には、婚約者の雪の存在も大きいことを感じていた。
(だが、もし……)
進の心にある思いが広がっていった。すると、進が何か考え込んでいるように見えたのか、藤堂が尋ねた。
「他に何か質問でもあるかね?」
その問いを受けて、進は思い切って尋ねてみることにした。
「はい、あの…… 所属艦隊に私の希望はある程度叶えていただけるんでしょうか?」
「希望? 地球艦隊希望以外になにかあるのかね?」
「はい……少し考えてみたいことがありまして……」
「そうか、ならば報告書を提出するまでに考えをまとめてきてくれ。一応聞こう。ただし、必ずその通りにできるかどうかは確約できんが、いいな?」
藤堂は、今回の雪の事件のことで、進が強く責任を感じていることはよく知っていたので、それに関してまだ何か希望があるのだろうと思った。
「はい、わかりました」
「うむ、私からは以上だ。ご苦労だったな」
「はっ、失礼いたします!」
進は改めて挨拶の敬礼をして、藤堂の部屋を辞した。
部屋を出ると、さっきまで雪が座っていた秘書席は空席だった。何か所用で席をはずしているのだろう。進はその空いた席をじっと見つめながら、ある決意を固めていた。
(雪さん…… あなたにはもう、俺は……)
夕方、雪は、定時に仕事を終えた。だが、まだ進はやって来ない。雪は身支度を済ませると、再び進の事務室へ向った。
昼と同様に部屋のドアホンを押して来訪を伝えると、進のどうぞと言う声が返ってきた。
雪が部屋に入ると、進はまだパソコンの画面を見つめていた。
「古代君、今日はまだ終わらない?」
「え? ああ、そうだなぁ…… もう少しで切りのいいところになるんだ」
進は画面を見つめたまま、そう返した。
「そう、よかったわ。じゃあ、私古代君が終わるまでここで待ってるわ。一緒に帰りましょ」
すると、進はびっくりしたように顔を上げた。
「えっ? ああ…… あ、いや、すまないが……」
「え?」
この戦いが終わってから、二人は一緒に出勤して一緒に退勤する、ということが定番になっていた。が、進にとっては、それも「忘れてしまった記憶」の一つらしい。
一緒に来たのだから、当然一緒に帰るつもりをしていた雪に対して、進はそのことすら失念してしまっていたようだ。
「それが、その…… まだ、もうちょっとかかりそうなんだよ。それに、これから真田さんに……その、報告書のことで、確認しに行かなくてはならなくって」
さっきはもう少しで終わるようなことを言っておきながら、今度はまだかかりそうだと言う。
雪には、進の言い方が、とってつけたような言い訳に聞こえて、心の中でやもやとしたものが渦巻きはじめた。
そしてそれは確かに的を射ていた。進は雪のいないところで、真田に相談したいことがあったのだ。報告書はその方便にしかすぎない。
「そう? じゃあ、私も一緒に行って……」
一方の雪は、少しでも長く進のそばにいたかった。そうすることで、自分のことを思い出してくれるのではないかと思ったから……いや、思いたかったのだ。
だが、進は雪の提案をきっぱりと拒否した。
「いや! これは部外者秘の内容が含まれている。例え長官秘書でも見せるわけにはいかない。悪いが、雪さんは先に帰ってくれないだろうか?」
「え……でも……」
口ごもる雪を見て、はっとして進が立ち上がった。記憶を失う前の進は、おそらく彼女と一緒に帰っていたのだろうと、突然気付いたのだ。
「あっ、そ、そうだったな。一緒に車に乗ってきたんだし、俺は君を家まで送っていったほうがいいんだよな? その後でもう一度こっちに戻ってくればいいんだし。今支度するから、ちょっと待ってて……」
進は、慌てて上着を手にしようとした。その姿を見ていると、雪はだんだん訳のわからない苛立ちが湧き上がってきて、それと同時に、自分でも驚くような大きな声で叫んでいだ。
「いいわっ!!」
「え?」
進の動きがぴたりと止まった。びっくりしたように大きな瞳を開けて見つめる進を目にして、雪はすぐに落ち着きを取り戻した。
(そうよ、雪、仕事があるっていってる古代君に、無理に帰宅を勧めたり、自分も一緒になんて言うのは、駄々っ子以外の何物でもないでしょ!)
雪は、進の記憶が戻らないことへの自分の焦りに対して、心の中で自分自身を叱った。
「あ、ごめんなさい、大きな声で…… でも大丈夫よ、一人でも帰れるわ、子供じゃないんだもの」
「しかし……」
「私は大丈夫よ。お昼にも言ったでしょ?」
「ああ、だが、本当に?」
「ええ……」
雪がこっくりと頷いた。結局雪のその姿に、進は納得したように、ほっと息を吐いた。
「わかった。じゃあ気を付けて。あっ、これ、車のキー」
進はポケットから引っ張り出したキーを雪に渡した。
「ありがとう。それで古代君、大分遅くなりそうなの?」
「……ああ、いや、たぶん……そうだな」
進の受け答えは、どうもすっきりしないものがあった。雪を婚約者として認識できていない故なのかもしれないが、それでも雪はできるだけ普段どおりに接しようと思った。
「そう? じゃあ、帰る前に電話ちょうだいね。夕ご飯の支度してるから」
「ああ、うん……」
と答えてから、進はすぐに言い換えた。
「いや、遅くなるかもしれないから、適当に食べて帰るよ」
「えっ!?」
一緒に帰らないどころか、夕飯も外で食べると言われ、正直なところ雪にはショックだった。
(やっぱり私のこと覚えてないから、一緒にいるのが気詰まりなのね?)
そんな気持ちが顔に出たのだろう。雪の表情に気付いた進は、慌てて言い訳を始めた。
「えっと、あっ、あの…… たまには真田さんを誘って、飲もうかと思ったりしたんだよ」
すると雪は、少し安心したように微笑んだ。
「あっ、そっか、そうね。たまにはそれもいいかもね」
「ああ、いいかな?」
「もちろんよ、じゃあ、私は帰るわ」
「気をつけて」
「ええ、ありがとう」
雪が部屋を出て行ってしまうと、進は一人で大きなため息をついた。
(雪さん……すまない。俺は、俺は……)
雪と言う存在の記憶がない自分であるはずなのに、雪を愛していると言う感覚もない自分なのに、それでも彼女の悲しげな顔を見ると、どうしようもないほど胸がざらついてしまう自分がいた。
(胸の奥が痛い。ああ、俺はこんな風にずっと彼女を悲しませ続けてきたんだろうか? 俺を愛することで、どんなに彼女を辛い目に合わせてしまったんだろう……
そんな今の俺にできることは…… 雪さんという人が、一番幸せになれるようにすることなんだ。
それは……もう一度、彼女を愛してしまう前に、彼女と離れがたくなってしまう前に…… 俺は……)
進は一人たちすくみながら、ぶらりと下がった手のひらをぎゅっと握り締めた。
しばらくして、進は事務室を出ると、真田のいる科学局へ向った。その後報告書の件で、少し確認した後で、真田にこう告げた。
「真田さん、今晩ちょっと付き合ってもらえませんか? 少し相談したいことがあるんです……」
「ん? 記憶喪失のことでか?」
「いえ、まあ、それも関係してますけど、これからのことで……」
「これからのこと?」
聞き返した真田の目の前には、真剣な眼差しで自分をじっと見つめる一人の男がいた。
夜10時を過ぎた。まだ進は帰ってこない。なんとなく気まずい別れ方をしてしまった雪は、ずっと重苦しい気持ちのまま、進の帰宅を待っていた。
(古代君、どうしたのかしら? まだ仕事……ってことはないわよね? 真田さんと飲んでるの? まさか一人でどこかにいるわけじゃ?)
心配と不安やら色々な感情が入り乱れ、先に寝る気にもなれなくて、ぼんやりと時計を見つめていた。その時電話が鳴った。
雪が電話口にまで来てディスプレイを見ると、真田の名前が表示されていた。
「真田さんからだわ。きっと古代君からね。やっぱり真田さんちに行ったんだわ」
雪はほっとしたように顔をほころばせると、受話器を取り、画面もオンにした。するとすぐに画面の向うに、真田の姿が現れた。
「あ、雪か。こんな時間にすまない」
画面の向うの真田は、いつもの如く無表情だった。しかし、その隣にいるはずの進の姿は見えなかった。
「いえ、あの……古代君は?」
「ああ、古代はここにいるよ」
その答えで、雪の不安はさっと消えた。と同時に、酔いつぶれて真田の部屋に転がり込んだ進の姿が目に浮かんだ。
「えっ? それじゃ古代君、飲み過ぎちゃったんですか?」
ところが、真田の答えは予想したものではなかった。
「いや、そうじゃないんだ。仕事の後、二人で飲んでは来たが、酔っ払うほどじゃあない」
「じゃあ、古代君は?」
「ああ、今、風呂に入っている」
真田はちらりと後ろを伺いながら答えた。
「お風呂?」
「うむ…… あいつ、今夜はここに泊まりたいって言うんだが」
「ええ、それは、いいですけど……」
たまには、ゆっくり真田と話をするのもいいだろう、と雪は思った。
自分のことは覚えていないというものの、あの戦いの辛い記憶は進の胸から消えているわけではない。その気持ちを一番に理解してくれるのは、他でもない真田なのだから。
「それが明日からもなんだが……」
真田が申し訳なさそうに、眉をしかめた。その表情が示すとおり、続く真田の言葉は、雪に大きな衝撃を与えた。
「しばらくここに泊めてくれって言うんだよ」
「えっ!どうして?」
と叫んでから、雪はしばらく言葉を途切れさせた。それから、何かを覚ったかのように、悲痛な表情で口を開いた。
「やっぱり古代君、私といるのが嫌なんですか?」
雪は胸がぎゅっと締め付けられた。夕方の進の態度から、ある程度予想はしていたが、やはり自分は避けられていたのだと思った。
(私の記憶のない古代君にとって、私はやっぱり邪魔な存在だったの……?)
「……というより、あいつのほうが……」
「古代君のほう?」
「あいつは…… タイタン基地所属艦隊への転属を希望するつもりらしい」
「タイタン? 地球所属の艦隊ではなく、タイタンですか?」
雪が聞き返した。すると真田は大きく頷きながら説明を続けた。
「今日、長官から今後の配属のことで尋ねられたそうだ。長官は地球所属艦隊の心積もりをしているらしいんだが、たまたま古代にタイタン所属の艦隊から誘いがあったことも話したらしくてな。それを聞いた古代は、明日にでもそちらへの配属を希望することに決めたと言うんだよ」
「それは……どういう意味なんですか?」
真田に尋ねながら、雪にはもう、その答えがわかっていた。
タイタン基地所属と言うことは、基点がタイタン基地になるということで、地球にはほとんど帰ってくることがない、という意味である。
そしてつまり、地球で長官秘書を続ける雪と、一緒に暮らすことはもとより、会うことすらめったになくなるということだ。
「つまり……あいつは、君から離れようとしているってことだ。あいつは……自分はもう君のそばでいられない。君にこれ以上迷惑をかけられないって、そう言うんだ」
心苦しそうに説明する真田に、雪の声が重なった。
「そんなっ……!!」
気色ばむ雪を抑えるように、真田の声が画面の向うで響いた。
「落ち着いて聞いてくれ、雪! それで気がついたんだよ、あいつが記憶を失った理由を……」
「え!?」
雪の瞳が大きく見開かれた。真田がゆっくりと大きく頷く。
「ああ、わかったんだ、どうして古代が君の事を忘れてしまったのかが…… 俺は思い出したんだ、何がきっかけでそうなってしまったのかを!」
そして真田は、数日前に起こった出来事を話し始めた。
(背景:Four Seasons)