ラランドの白い花

Chapter11

 (1)

 雪がラランド星に来て4日目の朝がきた。今日から3日間は休暇扱いとなり、その後第7艦隊所属のサザンクロスに便乗して地球へ戻る予定になっている。
 進の方はというと、残念ながら今日だけはどうしても出勤せざるを得ない状況になっていた。

 朝食を済ませ出勤の準備を妻に手伝ってもらいながら、進は申しわけなさそうな顔で妻を見た。

 「悪いな、雪。本当なら、俺も休もうと思ったんだがなぁ。ちょうど第7艦隊が到着する関係で、今日はどうしても休めないんだ」

 「いいわよ、気にしないで。一人でゆっくりさせてもらうわ」

 夫に上着を渡しながら、雪が微笑む。常に夫の仕事を理解している彼女は、仕事でプライベートの計画がふいになっても、常に黙って笑っていられるようになった。
 若い頃はそれなりに寂しさや葛藤もあったが、自分も仕事を持つ身、彼の優先順位をとやかく言うつもりはもうなかった。
 ただ今日に限って言うと、心のどこかで自分がいないところで――それもすぐそばにいながら――夫があの愛らしい女性と接するということに、多少の抵抗を感じているのも事実だった。

 「ああ、そうしてくれ。こんなところに一人にしてしまって申し分けないが、たまには子供もいない休日を楽しむのもいいかもな」

 片手を拝むように顔の前にやって謝る進は、妻の心の内を知らない。雪の瞳に宿る寂しげな光は、せっかくここまで来ながら一緒にいられぬ寂しさなのだと思っている。

 「ええ、ありがと。お部屋の掃除と片付けくらいはしておくから」

 「すまないな、けどまあ、寝に帰ってるだけのような部屋だし、そんなに散らかしてないと思うぞ。適当にやっておいてくれよ!」

 苦笑交じりにそう答える進の言葉に、雪が再び笑う。確かにこの部屋には、生活感はあまり感じられなかった。

 「了解! 帰りは?」

 「ああ、それほど遅くならないと思う」

 進は答えながら、じっと自分を見上げる妻に切ないまでの愛しさを感じた。結婚して9年、子供も3人儲けて今更とも思うのだが、常に一緒にいられないということも手伝ってか、進は今も妻に恋焦がれている。
 上着を着終えた進は、すいっと手を伸ばして妻を引き寄せると強く抱きしめた。妻の顔は、するりといつもの定位置――夫の胸の中――に収まった。

 「また夕方になっ!」

 「ええ、待ってるわ」

 夫のやさしい言葉に、雪は深い愛情を感じ、昨夜の不安を再び自分に対して打ち消そうと努力していた。

 (2)

 しばらく力強い抱擁にうずもれていた雪だったが、はっと思い出したように夫の体を少し押し離すと顔を上げて時計を見た。もう出勤時間が迫っている。

 「そろそろ行かないと遅れるわよ!」

 「あっ、そうだな」

 進も惜しそうに抱きしめていた雪の体を離した。玄関でいってらっしゃいと言った時に、雪はふとラランドにやってくる南部のことを思い出した。彼は、現在第7艦隊所属のサザンクロスの艦長を務めている。

 「あっ、そう言えば南部さんが来るのよね? 彼が来たら、いつも夜一緒に飲んだりするんじゃないの?」

 地球に帰ってきた南部は、いつもラランドの進の様子を雪に聞かせてくれる。彼がいつも進の部屋に泊まり込んで飲んでいる、と話していたのを思い出した。

 「ああ、いつもはそうなんだがな。今回は第7艦隊は到着してすぐ艦隊独自のカリキュラムで24時間体制の演習に入る予定なんだ。
 ってことで、あいつは今夜お仕事さ! そしてラランド星の艦隊は今回参加しないから、俺は空いてる。
 ま、せっかく雪がいるのにあいつに邪魔されちゃ困るし、ちょうど良かったよ」

 冗談交じりに笑顔でウインクして見せる夫に、雪はプッと吹き出してしまった。

 「まぁっ! うふふ…… 南部さん今ごろくしゃみしているわよ。私もゆっくり話したかったけど……帰りに南部さんの艦に乗せてもらうんだし、その時に話できるわね」

 「そうだな。まぁ、どうせ産まれたばかりの娘の自慢話でも聞かされるのが落ちだろうけどな」

 「うふふ、それはお互い様よ」

 「はっはっは…… 言えてるな」

 そんな会話をしながら、雪は夫を送り出した。

 (3)

 夫を見送って一人になると、雪はふーっと小さなため息を吐いた。

 昨夜も二人は年甲斐もなく?熱い夜を過ごした。夫との愛を確認しあえたと思う。しかし心に引っかかるあのことのおかげで、雪の心に一抹の不安があるのは事実だ。

 (彼女のこと、このままにして帰ったら、私、ずっと気になっちゃいそう…… 彼が本当に浮気してる、とまでは思わないけど…… でも、あのきんぴらのこと、彼の口からちゃんと聞きたい。そう、ただ彼に正直に話してもらいたいだけなの。だけど……)

 憶測だけで夫を詰問するのもはばかられる。夫の前でもう一度ほのめかしてみようかとも思うが、そのままとぼけられたらとも思う。

 (やっぱりストレートに尋ねてみようかしら?)

 結果が悪い予想通りでもいいから、はっきりとしたかった。曖昧な気持ちのまま、夫を疑うこと自体が嫌だったのだ。

 一方進の方は、妻がそんなことで悩んでいることとは露とも知らない。だいたいあのキンピラ事件?だって、彼にとってはもう解決済みのことと、すっかり忘れてしまっているくらいだ。
 それどころか、司令室へ行く廊下を歩きながら、昨夜のことを思い出してにんまりとしていた。

 (雪、昨日の夜は初め気分が乗らないようだったけどなぁ。慣れない星での任務で疲れたんだろうな。今日ゆっくり休めば、きっと元気になるさ。
 俺も明日と明後日は休みが取れそうだし、この星のことも少しは見せてやれる。そうだ!明日はボランティアに出る日だったし、一緒に連れてってやるかな)

 妻の元気のなさが自分のせいだとはまったく理解していない。と同時に、妻の出現で進に密かな思いを抱くナギサが心を乱していることも、進は気付いていなかった。
 反対に、進自身の中に芽生えていたナギサへの思いは、妻の来訪によってすっかりなりを潜めていた。

 もし……このまま雪がこの地にずっと滞在し続け、そしてナギサとのことを詰問することもなければ、進の中の思いは心の奥底にしまわれたまま、表に現れることはなかったかもしれない。
 だが、それは不可能なifでしかない。雪は明後日にはこの地を離れなければならないし、進はまだ少なくとも半年はここに滞在する。ナギサとともに……

 雪の中に浮かんだ疑惑は、彼女の中で何らかの解決を見ない限り、収まりがつかないものになっていた。

 (4)

 進が第7艦隊の到着を待ちうけている頃、雪は一通りの部屋の片付けと掃除をしようと体を動かしていた。

 片付けは、まずベッドルームからはじめて居間へと移った。進が言った通り、あまり使っていないようすだ。第一、物自体があまりない。
 うっすらとかかる埃を掃除機をかけ化学雑巾で拭き取るだけであっという間に終わってしまった。

 「さてあとは書斎と台所だけね。でも台所もたいして使ってないみたいだし、すぐ終わっちゃうわ!」

 懸命に体を動かしていると、余計な考え事をしなくていい。雪は普段なら自宅でもしないほど丁寧に片付けていった。

 洗い場の拭き掃除を終えて、次に食器棚の片付けを始めた。ガラス張りの棚には、進一人では使い切れないほどの皿や容器が並べられていた。
 地球から遠隔地にある宇宙基地の官舎では、棚や食器も備え付けの場合が多い。この部屋は副司令用ということで、夫婦二人またはそれ以上で暮らせる造作になっており、おそらくそのせいで多いのだろう。

 雪はそれらの食器の埃をさっと払うと、続いて引出しの方へ移った。ちょうど腰の高さのあたりに、片手で開けられる小さな引出しが、横に3列続いている。その下は観音開きになった大き目の収納が2列に並んでいた。
 一番右の引出しを開けた。そこには割り箸やスプーン、フォークなどが乱雑に入っている。それに加えて、なにやら紙類まで無造作に突っ込まれていた。
 おそらく進が普段よく使っているのだろう。他の場所が整然としているだけに、やけにその乱れが目に付いた。

 「もうっ、少し種類別に並べればいいのに……」

 とぼやきながら、箸やフォークなどを両手でつかむと、引出しからテーブルに持っていこうと取り出した。すると、持った手の間から何枚かの小さな紙切れがひらひらと足元に落ちた。

 「あら? 何かしら?」

 雪は取り出した箸やスプーンをテーブルに置くと、落ちた紙切れを拾った。それは二つ折りにされていた。開いてみると、きれいな花模様の付いた小さなメモ用紙で、そこには女性らしいきれいな字で短い文章が書かれていた。

 ――ひじきの煮付けを作ってみました。お宅では何を一緒に入れられるのかわからなかったので、お揚げと人参を入れてみました。少し甘すぎますか? 醤油の濃さはどうでしょうか?――

 ――肉じゃががお好きだって以前言われてましたよね? 今日はそれを作ってみました。味付けがお口にあうといいのですが…… もし味付けに気に入らないところがあったら是非教えてください――

 ――今日は、きんぴらごぼうを作りました。歯ごたえが残る方がいいって本で読んだんですが、ちょうどいい具合に残ってますか? 少し固過ぎたんじゃないかって心配です――

 雪はそのメッセージをゆっくりと丁寧に読んだ。その文章の一つ一つに作った料理とそして……食べる人への愛情が感じられる。そう、そこの書かれている内容はまるで……昔、雪が若い頃、進に新しい料理を作って食べてもらった時の不安と期待が入り混じったあの心境と同じだった。

 (5)

 「これって……!?」

 書いた主の名前は書いていないが、どう考えても食堂で料理を作りなれた「おばちゃん」なる人が書いたとは思えない。
 では誰が?……雪の脳裏に浮かんできたのは、もちろん……

 「そうだわ、このメモ用紙の模様……確か……」

 司令室のナギサの机に置いてあった連絡用のメモ帳。男所帯の殺風景な机の上の中で、ナギサの机の上だけが僅かに華やいだ雰囲気があるなと思わず笑みがもれた覚えがある。そして見るともなしに見た机にあったのが、色こそ違っていたが、これと同じかわいらしい花模様がついたメモ帳だった。
 もちろん、他の女性達も持っているかもしれないが、この3日間で見ていて、他に進に手料理を作ってくれそうな女性の影は感じられない。

 「…………じゃあ、やっぱり……あれを作って彼に渡したのは……ナギサさん!? それも……一度きりじゃないってことよね?」

 予測していたこととは言え、証拠を付きつけられたようなそのメモに、雪は愕然とした。

 (やっぱり……あの娘(こ)が作ってくれてたんだわ)

 雪はさらに引出しの中身を全部取り出して、テーブルに広げた。そして、今見たメモの他にも数枚の同じようなメモ書きを発見した。
 どのメモにも、料理に関する簡単なコメントが書かれているだけだったが、雪にはその文面のあちこちにささやかな乙女心が感じられる気がした。

 (6)

 全部読みきってから、雪はほぉ〜〜っと大きく息をついた。並べられた数枚のメモをじっと見つめながら、雪は自分の心の中の意外な反応振りに自分自身で驚いていた。それは……

 (どうしてだろ? 彼の嘘の動かぬ証拠を見つけたはずなのに、腹がたってこない。それよりもなんだか笑えてきちゃうような、それでいて切ないような……変な気持ち……)

 ナギサの進への密かな思い。雪にはこの文面からそれを感じた。同じ女性として、そして同じ人を愛しく思う気持ちからなのかもしれない。それが切ないのだ。

 そしてその反面で、無頓着にこのメモを引出しの中に入れていた夫の方はと言うと……

 (彼、このメモをすぐには捨てられなくってここに入れておいたのよね? でも、私が来てからも捨てるとか隠すとか、そういうこと思い浮かばなかったのかしら? 私がお風呂に入っている時とか、いくらでも処分する時間はあったはずなのに…… もらったきんぴらが誰からなのかは隠そうとしたくせに……)

 そんな夫の行動を思うと、なぜかおかしくなってきてしまう。まるで頭隠して尻隠さずの典型のような夫の行動が、滑稽に思えてならなかったのだ。

 (メモの存在自体忘れてしまってたのかしら? それとも元々隠すつもりもなかった? あのきんぴらだって、私に余計な気をまわされたくなくて、ただそれだけだったのかもしれないわ)

 現金なもので、一旦良い方に取リ始めると、どんどんそんな風に思えてくる。夫を糾弾する恰好の証拠を掴んだにもかかわらず、雪はそんな夫にかえって安堵するのだった。

 (やっぱり、進さんって浮気なんてできる人じゃないのよ! だってもしそうだったら、私が来た時すぐその証拠は隠そうとするはずだもの)

 雪はもう一度、そのメモ類を見つめた。

 (だけど……このまま黙ってるのもちょっと悔しい。私に嘘をついたのは事実なんだし、私以外の女性から何度もお料理を作ってもらうなんてやっぱりちょっと不愉快だし…… 進さんがどんな言い訳するのか聞いてみたいわ)

 メモを突き付けられて、中途半端な隠し事がばれて焦りながら言い訳をする進の姿が目に浮かぶ。これはこれで見物かもしれないと、雪は意地悪な気持ちになった。
 その一方で、これを書いたナギサの思いにも心を馳せた。

 (でも、ナギサさんのことは気になるわ…… 彼女はやっぱり本気で進さんのことを思っているの? それとも寂しい単身赴任の上司にただ同情しただけ……ってことはないわよね?)

 ナギサの進への思慕がどれほどのものなのか、まだはっきりとわからない。それに関しては今だ不安と苛立ちの気持ちが消え去らなかった。

 雪はとりあえずメモをまとめてエプロンのポケットにしまうと、残りの備品の整理を始めた。

 (7)

 台所の片付けを終えて、最後に向かったのは進の書斎だった。雪は部屋に入ると、部屋をぐるりと見渡した。
 シンプルな造りの机と飾り気のない本棚が一つの小さな部屋だ。机の上には、数冊の本や資料、電話、そしてパソコンが置かれていた。

 (ここは片付けるものはないみたいね…… さっと掃除機をかけて終わりにしましょう)

 さっき例のメモを見つけてからは、雪の頭の中はもう部屋の掃除のことよりも、今夜どんな風にこのことを夫に切り出すそうかと、それでいっぱいだった。

 (ストレートにメモを見せて尋ねようか…… それとも、何か遠まわしに食堂の事情とか話してみたらどうかしら? だけど……)

 メモを見た時は、夫に自分に隠れて浮気するつもりなどなかった、と安心に近い思いを抱いたのはずなのに、また別の不安が頭に浮かんできた。

 (浮気してはいないって思う。でも……どうして、あの人は彼女の好意をずっと受け続けてたのかしら? 若い女性が手作りの料理を作ってくれるという意味をどう受け止めていたの? そんなに家庭の味が恋しかったの? それとも何か、彼女に対して思うことがあったというの?)

 ナギサの様子をよく見ていれば、彼女が進へなんらかの思慕の念を抱いていることは、雪でなくても気が付く人間はいるはずだ。現に、同僚の秋田はすぐに気付いたし、少なくとも、司令室の同僚の男性達は何か感付いているのではないだろうか。
 それなのに、肝心の進はどうなのだろうか? 確かに女心には変に鈍感なところのある彼のことだ。気付いていない事もないとは思えないが……

 (気付いていたから、私に隠したのかしら? でも、それじゃあなぜ、彼女のくれるものを受け取ったりしたの? 彼も受け取りたかったから?)

 夫が妻に隠れてナギサと付き合っているのではない、とは確信できた。それはつまり今現在、二人に明らかな不倫関係はないということである。
 だが、ナギサのそして進の心の中がどうか、ということは別問題であった。

 (8)

 そんなことを考えていた雪は、ふと机の上のパソコンが目に入った。

 (もしかして…… ナギサさんとメールとかやり取りしてたりして? まさかねぇ〜 でも…… ううん、この際だから、気がすむまで全部チェックさせてもらっちゃうわよ、進さん!)

 人のメールを覗き見するということが、よくないことだとは重々承知しているが、今回に限って目をつぶることにした。なにせ3日後にはここを離れなければならない。二人の動向をじっくり観察している時間はないのだ。

 (だって、あなたが悪いんですからね、進さん! 最初から正直に言わないからよ!)

 と、ここにいない夫に一応言い訳をしつつ、雪はパソコンの電源を入れた。胸がドキドキしてきた。

 起動している間も、雪の心臓は激しく鼓動している。さっき偶然に見つけたメモとは違い、明らかに意図を持って夫の不義を見つけようとしているようで、少し気が引ける。
 それに、そんなメールのやり取りがあるはずはないと思いつつも、万が一あったらと思うと、不安な気持ちが沸いてくるのだ。
 もしここで進が帰ってきて後ろから肩でもたたいたりしたら、雪は驚きのあまり気絶してしまうに違いなかった。

 しばらくしてパソコンの画面が現われると、雪は大きく深呼吸を一つしてメールソフトを起動した。すると程なく受信トレイが現われた。
 このパソコン自体は進の個人用のもので、任務関係のメールはここにはほとんど入っていないはずだ。
 想像通り開いた受信トレイには、CMらしきメールと友人から届いたメール、そして雪自身が送ったメールがずらりと並んでいた。

 雪は差出人をチェックしながら、上に向かってスクロールしていった。そしてパソコンに残っているすべてのメールを見たが、ナギサからのメールは1通も入っていなかった。

 (よかった…… これについては、私の取り越し苦労だったみたい。メモを捨て忘れている人がわざわざファイルを削除したなんてこと、ないわよね?)

 雪は、あからさまに自分が安心しているのに気付いて自分自身でおかしくなった。

 (もう、心配しすぎよ、雪……)

 自分を叱りつつソフトを終了させようとしたとき、雪は一つのメールに目を止めた。

 (南部さんからのメール……)

 (9)

 メールの差出人欄に南部康雄とあるのは、別に何ら問題はない。気になったのは、そのタイトルだった。「例の彼女の件について(遅くなってすまん!)」と書かれている。その「彼女」という言葉が、雪の目に止まったのだ。

 (例の彼女? 彼女って誰のこと?)

 添付ファイルが付いていることを示すマークも付いている。雪はどうしても気になって、そのファイルを開く誘惑から逃れられなかった。

 (ごめんなさい、南部さん!)

 恐る恐るファイルを開いた雪は、南部の書いた文章を読んで目を見張った。進が「彼女」のことについて何か調査を依頼した返事らしかった。
 さらにそこには、冗談交じりではあるが、「彼女」と進の関係を怪しむような文面があった。

 (これって……やっぱりナギサさんのこと!?)

 雪は複雑な心境で、今度は添付ファイルを開いた。雪が思ったとおり、そこにはナギサのことについての資料だった。彼女の亡くなった父親についての調査結果が詳細に書かれている。
 雪はその報告書をものすごい勢いで読み終えて、それからすとんと机の前の椅子に座り込んだ。

 ナギサの生い立ちや父親のことは、同情するに値するものだと思う。雪も彼女の境遇を思うと少しばかり胸が痛んだ。南部の文面から察すると、おそらくナギサは自分と母を捨てたと思って父親を恨んでいたのだろう。ナギサの男嫌いもこのあたりが原因だったのかもしれない。

 (進さんはこのことをナギサさんに伝えたのね。ナギサさんがどんな反応をしたのかはわからないけど、彼に感謝した? それで彼のことを好きに……?)

 進がこういう調査を南部に依頼したわけは、なんとなくわかるような気がする。
 古代進という男は、いい意味でも悪い意味でも、とにかくお節介な輩(やから)である。部下や身近にいる人に問題が生じたり、不幸に出会ったりすると解決しないではいられないという厄介な性格の持ち主なのだ。
 その性格のせいで、雪も色々と巻き込まれて――実は雪も同じ性格だから致し方ないのだが――振り回されたことは一度や二度ではなかった。
 今回も進は、自分に向けられたナギサの反発の原因を究明して解決したいと思ったに違いない。

 (進さんらしいって言えばそうかもしれないわ。ほっとけないのよね、あの人は…… でもっ!それなら、私に調査を頼んでくれればいいのに、南部さんとこそこそと…… 南部さんも南部さんだわ、あの人を煽るようなこと書いたりして、もうっ!)

 今回の進の心配の対象がうら若き女性で、かつその調査を妻の雪ではなく、友人の南部に依頼したことが、雪には面白くなかった。

 (今日帰ってきたら、絶対あなたからきちんと話を聞かせてもらいますからね、進さん!)

 (10)

 夕方、第7艦隊の無事の到着を確認した進は、定時前には予定の任務を終えた。南部とも少し話をする時間があって、帰りに同乗する妻のことをよろしくと頼むことができた。
 時計を見ると、5時を少し過ぎている。周りはまだ仕事を終えていないようだが、今日の進はそれを待てなかった。

 「さぁて、悪いが今日は先に帰らせてもらうぞ」

 「お疲れ様でした」と部下達の声がそれぞれに聞こえた。いつもなら、部下たちが仕事を終えるのを待っていることの多い進が、今日に限って先に席を立つことに異論を唱えるものはいない。恋しい妻が家で待っていることを皆知っているからだ。

 「奥様によろしくお伝えください!」

 ランバートが笑顔で声をかけると、進は嬉しそうに「ああ、ありがとう」とにっこりして答える。そしていかにも軽い足取りで司令室を後にした。
 残った男性二人は顔を見合わせて肩をすくめて苦笑した。

 「まったく、副司令があんなに奥さんにぞっこんだとは思わなかったな」

 「ははは、確かにねっ! けどさ、俺だってにあんな美人の奥さんがいたらなぁ」

 「そりゃあ言えてる。その前に俺なら絶対地球になんて置いて来ないね」

 「そりゃそうだ! わっははは……」

 そんな二人のやり取りを耳にしながら、ナギサも席を立った。

 「お先に失礼します」

 続けて「お疲れ様」とナギサを送り出すと、男達は今度はそっちの噂を始めた。
 ここ数日のナギサはあまり元気がないように見える。特に今日は、1日静かに仕事をしていたようだが、最近よく見せるようになった笑顔をほとんど見せなかった。

 「ナギサちゃん、元気ないな」

 「やっぱ、副司令のことかなぁ。奥さんが来るまでは結構いい線行ってたからなぁ、あの二人。ひょっとしたらひょっとするかも……って感じだったもんなぁ」

 「奥さんが来て副司令は舞上がるし、いきなりその奥さんと一緒に3日間も仕事させられるし……」

 「才色兼備の奥さんを目のあたりにしちまったもんなぁ〜 あれはやっぱ落ち込むよなぁ」

 「まあ、しようがないといえばしょうがないけどさぁ。どっちにしてもかないっこないよ」

 「ナギサちゃんも美人だしかわいいけど、あの人の大人の魅力にはまだまだ太刀打ちできないよな?」

 「うん…… ま、結局男ってのは女房殿には弱いもんだからな」

 「あっははは…… そりゃあお互い様だろ?」

 「ははは……」

 責任のない噂話は、いつも楽しいものである。

 (11)

 司令室を出たナギサは、知らず知らずに先に出た進の姿を探していた。それほど時間の差がなかったと思ったが、彼は既にそこにはいなかった。

 ふうっと小さなため息が漏れた。初めて恋をして人を愛した。だがその愛する男は、別の女のもとに一目散に帰っていってしまった。

 (わかってたことなのに…… 振り向いて欲しいなんて思っていないのに…… ただ、見つめていられればいいって……そう思ってるはずなのに)

 それは妻のある人を密かに愛してしまった時から、自分自身に言い聞かせてきたことだった。彼がこの地を去るその日までそばにいられれば、それでいい。そう思っていたし、本当にそのつもりだった。
 なのに…… 彼の妻が現われたとたん、自分の心の中に沸き上がってきたのは、彼への思わぬほどの激しい愛情と、彼の妻へのやり場のない嫉妬だった。

 恋というものがこれほどまでに自己中心的な思いだとは…… エゴイズムが剥き出しになるものだとは……
 ナギサは実際に自分がその立場に立たされるまで、思いもしないことだった。

 (ナギサのバカ……)

 自身を叱りつけてみるが、心の重石は取れない。

 (奥様が地球に戻ったら……ここからいなくなったら……また静かな思いに戻れるかしら? それとも……もう戻れない? この気持ちを押さえられなくなりそうで、恐い……)

 涙が溢れそうになって、慌てて天井を向いた。ここは基地の廊下。こんなところで泣き出すわけにはいかないのに……

 ナギサは、激しく突き上げてくる感情に理性を押し流されそうな感覚に陥った。自分で自分の感情が制御できなくなりそうで、体をブルッと振るわせた。

 (12)

 司令室を出た進は、まっすぐ雪の待っている部屋へと急いだ。

 (雪は今日何をしてたんだろうな。洗濯と部屋の掃除をした後は、昼寝でもしたんだろうか。せっかく休みを貰ってくれたのに悪いことをしたな)

 任務であるから仕方がないとは思うものの、せっかくの機会を少しでも長く一緒に過ごしたくて、進の歩みは早くなるばかりだ。
 自宅に着くと、いつもの調子で自分で部屋の鍵をあけて中に入った。

 「ただいま!」

 声をかけながら部屋に入ると、いつもと違う雰囲気がする。地球で暮らしていた頃の、誰かが待っていてくれる部屋に戻る幸せを思い出す。
 台所から、いい匂いがしてきた。それは和風の、そう醤油のいい香りだった。

 (晩飯作ってくれてるのか……)

 進は嬉しくなってウキウキしながら台所に顔を出した。すると台所に向かっていた雪が振り返った。

 「あら、お帰りなさい。早かったわね」

 振り返って笑顔を見せた雪に、進は久々にドキリとした。雪の笑顔は、まさに輝くばかりに美しい。

 きれいだ…… 思わずそう口について出てきそうなほど、雪の笑顔に進は魅了された。
 しかし進は、これが心の中の沸き立つ思いを押し込めた女の仮面だとは知らない。

 昼間の発見を胸に秘めて、雪は帰ってきた進を迎えた。どんな風に切り出すかは決めた。後は、食事を作り上げるだけだった。それまでは、いつも通りごく普通に笑顔を向けるつもりなのだ。

 (13)

 そんな妻の思惑など、想像だにしない進は、雪のすぐ後ろまで近づくと、軽く後ろから抱きしめた。

 「ああ、君が待っててくれてるからな」

 「あら、おじょうずね、ふふ……」

 夫のぬくもりを感じて微笑を返しながらも、雪の心がかすかに痛んだ。あのメモは何!?と、いきなり問い質したくなる衝動を抑えながら、平静を装っている。そんな葛藤が却って雪を美しくしているとは、皮肉なものである。

 「いい匂いだな。晩飯はなんだい?」

 進は抱きしめていた手を離すと、料理を覗き込んだ。雪は再びてきぱきと手を動かしながら答えた。

 「ええ、今日は純和風よ。こっちに来てからも外で食べてばっかりだったから、少しは手料理でもって思って」

 「ありがとう…… うまそうだな」

 「いいえ、どういたしまして」

 雪は、満面の笑みを浮かべて夫を見つめると、すぐに背を向けて料理を器に移し始めた。
 そしてテーブルに出来上がった料理を並べていく。ごはん、味噌汁、ひじきの煮付け、きんぴらごぼう、そしてなべにぐつぐつ煮えているのは、肉じゃがだった。
 雪は最後になべの火を止めて、肉じゃがを器に盛った。そして、嬉しそうに目を輝かせている夫を促した。

 「早く着替えてきたら? 少し早いかもしれないけど、ご飯にしましょう」

 「あ、ああ……そうだな」

 足取りも軽く寝室に向かう夫の背中を、雪はじっと見つめていた。

 (14)

 進が戻ってくるとさっそく食事が始まった。久々の妻の手料理に舌鼓をうつ。懐かしくて慣れた味に、進の食欲は旺盛だった。

 「おかわり!」

 夫が出した3回目の茶碗を受け取りながら、雪は微笑んでいた。その瞳の奥に、鋭く光るものがあることに、進はまだ気付いていない。
 3杯目を軽めについで手渡すと、雪は自分のご飯を一口食べてから箸を置いた。そして夫の食事する様子をじっと見ていたが、彼がひじきの煮付けに手を出したときに、ポツリと呟いた。

 「ひじきの煮付けを作ってみました。何を一緒に入れるのかわからなかったので、お揚げと人参を入れてみました。少し甘すぎますか? 醤油の濃さはどうでしょうか?」

 突然の敬語口調に、進がえっという顔で目をぱちくりさせた。

 「どうしたんだよ、急に? そのしゃべり方はなんだい?」

 雪が呟いた言葉は、あのメモに書かれていたのとほぼ同じ内容だったが、進は気付かなかったらしい。
 夫の問いに雪は答えない。すました顔で眉を少し動かしただけで肩をすくめると、さっきと違って少々冷たい視線を送ってきた。

 「きんぴらも食べてみて……」

 「あ、ああ…… さっきから食べてるけど……」

 進は訳がわからない。しかし自分を見つめる有無を言わせぬ妻の視線に押され、言われた通りきんぴらを一口食べた。

 「うまいよ…… うん」

 しかし雪はそれにも答えようとせずに、しらっとした顔で呟いた。

 「歯ごたえが残る方がいいって本で読んだんですが、ちょうどいい具合に残ってますか? 少し固過ぎたんじゃないかって心配です」

 「ぐっ!……」

 進が突然喉を詰まらせたような声を出した。さすがの進も先日貰ったばかりのキンピラに付いていたメモの中身は覚えていたらしい。妻が何を見たのか気が付いたのだ。

 (あのメモ……! そう言えばそのままだったんだ。すっかり忘れてた)

 だが今更もう何をしても遅い。進がゆっくりと顔を上げて妻の顔を見ると、恐い顔でこちらを睨んでいる。

 (相当怒ってる……んだろうな)

 進はその視線から一旦目をそらして、口に頬張っているものを、なんとか喉に押し込んでから、苦しそうにお茶を一口飲んだ。
 そして、もう一度恐る恐る妻の顔をうかがった。が、もちろんその表情は変わっていない。

 「あれ……見たのか?」

 と、視線を妻と食器棚の引出しの間をさ迷わせた。雪の口元は僅かに端が上がっている。引きつるような笑顔……と言えばいいのだろうか。しかし目は完全に笑っていない。
 進の背筋に、言いようのないほどの寒さがぞくりと走った。

 「ええ…… たまたまあそこを整理してたら。食堂のおばさんって、随分かわいらしいメモを書くのねぇ」

 雪はいつもと変わらぬ冷静さでそう答えた。いや、却って彼女が静かに微笑む時の方が恐いことは、夫である進がよく知っている。

 「い、いや、あ、あれは……」

 頭の中がパニックになりそうだった。妻に余計な心配をさせたくなくてついた嘘がばれた。そしてそれが逆に妻をひどく怒らせている。その事実に、進はどう対処していいのかわからなかった。
 しかし、雪は容赦なく問い質してきた。

 「あれは? 何なの?」

 「うっ…… ごめん。食堂のおばさんじゃない……んだ。その……だから……」

 とうとう観念して正直に話そうと思った進だが、これまた何から始めれば言いかわからずに口篭もってしまう。すると、雪の方がズバリと指摘した。

 「ナギサさん……でしょう?」

 「どうして……? 知ってたのか……」

 進は、ごくりとつばを飲んだ。額から冷たい汗がじわりを出てくるのを感じる。冷や汗が出るというのは、こういう時のことを言うのだと、身をもって知った。

 「ここの食堂、和食を作ってくれないって、改善要望を貰ったわ」

 「あ……」

 確かにその通りだ。雪の任務は基地の環境改善のための面接。そんな要望が出ることくらい簡単に想像できたはずだ。

 「それに……あのメモの模様、司令室のナギサさんの机にあったメモと同じ模様だったわ」

 「う……」

 女性特有の鋭いチェックに、進は言い返す言葉もない。完全に降参である。

 「す、すまん……」

 進は箸と茶碗を置いて、机に手をついて頭を下げた。

 (15)

 頭を下げる夫を見下ろしながら、雪は心の中でにやりとした。だがここで許すわけにはいかない。きちんと訳を説明してもらわなければならない。それも進の口から直接に。

 「ふうん、進さん、私がいないと思って、若い女の子といけないことしてたんだぁ〜」

 少々嫌味っぽいかしらとも思ったが、この際これくらいはいいだろうと思う。すると予想通り進は、びっくりしてはじかれたように顔を上げた。

 「え!? ち、ちがう!それは違う!誤解だよ! いや、確かに嘘ついたのは悪かった。それは謝る。けど、彼女とどうこうっていうことは絶対にないんだ。本当だ!信じてくれ!」

 進の目は真剣だった。妻に誤解されたくなくてついた嘘が、誤解を招くことになるなんて、最悪もいいところだ。
 雪はそんな夫の慌て振りが滑稽で、もう少しで笑い出してしまうのをぐっと我慢した。

 「そ〜〜お…… でも、旦那さまに嘘つかれてたんだもの、いきなり信じてくれって言われてもねぇ」

 横目でちらり…… さらに焦る夫。

 「いや……その、ほ、本当にすまない。まさか君にこんな風に誤解されるとは…… 誤解されたくなくて嘘ついたんだ。ああ、もう……二度と嘘なんかつかないから。絶対に!」

 夫の必死の弁解が功を奏したのか、雪はふっと小さくため息をついて表情を緩めた。

 「本当になんにもなかったのね?」

 「あ……あたり前だっ!」

 進は、まっすぐに妻の顔を睨みながら、強い口調で主張した。じっと見つめあうこと数秒。先に雪が視線をはずした。
 一旦目を閉じて、ふうと大きくため息をついてから、もう一度夫を見た。

 「じゃあ、話して。彼女のこと、彼女とあなたのこと。今までのことぜ〜〜んぶ! 絶対に何も隠さないで……」

 「わかった」

 (16)

 進は、なんとか妻の誤解を解くことが出来たらしいと一安心して、ラランド星に来てからのことを話し始めた。
 ナギサとの出会いから今までの経緯と、彼女の両親のこと――母を亡くした理由、父親と会えなかったわけなど――を包み隠さず話した。

 それは、雪が見つけたあのファイルに書かれていることと同じだった。だから進が本当に全て包み隠さず話してくれているのだと雪は思った。
 そしてさらに、雪の知らなかったことが……

 「じゃあ、ナギサさんのお父様ってあなたのご両親が亡くなったのと同じ遊星爆弾で……?」

 密かに資料を見ていた雪だが、ナギサの父親の亡くなった時期と進の両親の死んだ時期が同じだったことに気が付かなかったのだ。

 「ああ、偶然の一致っていうか、びっくりしたよ、俺も」

 「そう……だったの」

 (進さんの両親とナギサさんのお父様が同じ時に亡くなってたなんて……)

 「なんとなく、両親を亡くした頃の自分のことを思い出してしまったんだ。彼女もそんな思いして生きてきたんだろうなって思うと、ほっとけなくて……」

 雪にとっては、それはまた別の意味でショッキングなことだった。
 両親が健在の雪にはどうやっても理解できない悲しみと苦しみと怒りを、進はまだ年端の行かない少年の頃体験した。それと同じ思いをしただろうナギサに、進が何らかの思いを抱いたであろうことは、雪にも想像が難くなかった。

 (あなたは、私にはわかってあげられない思いを彼女と共有しているのね?……)

 「料理は、お父さんのことがわかって少し心を開いてくれた彼女が、地球の祖父母にあった時に作ってあげたいから味見して欲しいって言われて、断れなくてな」

 しみじみと話す夫の声は、寂しくてそして穏やかで、その瞳にはなんともいえない優しさをたたえていた。浮気だの不倫だのそんな次元の低い話じゃないと言うことが、雪にもはっきりわかった。だが、それが逆に雪の心に密かに影を落としていた。

 (進さんがこんな目をするのは、私や子供達にだけだと思ってた……)

 恋愛沙汰がないことを確信しつつも、別の意味でショックを受けた雪だった。

 (17)

 「そう……」

 「けど、ごめん。君にそんな思いさせるつもりはなかったんだ。それにいくらただの味見だって言っても、何度もこそこそと物をやり取りするのは、よくないとは思っていたんだ。この間のキンピラを貰った時に、もうじゅうぶん上手になったからって、終わりにしようって頼んだところだったんだ。だから、もう貰ったりしないから」

 寂しそうにうつむく妻に納得してもらうべく、進は懸命に説明した。言っていることは全て本当のことだ。もう彼女から料理を貰うことはない。それが事実だ。

 (これでよかったんだ……)

 進は、妻にはっきりと宣言すると同時に、ナギサとの接点が一つ失われたことに、どこかで寂しく思う気持ちを捨てきれない自分自身にもそう言い聞かせていた。

 「そうね……」

 雪は進の顔を見た。進は困ったような笑みを浮かべてぽつぽつと言葉を繋ぐ。

 「もし他の奴らに知れて、変に誤解されても困るもんな。俺はともかく、彼女の方が迷惑するだろう」

 「そりゃあそうだけど…… でも、誤解じゃなくて、あの子、あなたのこと好きなのかもしれないって思ったこと……ないの?」

 (かもしれないじゃないわ! あの子、あなたのことが好きなのよ、きっと!)

 雪は心の中でそう叫んでいた。

 「ま、まさか…… そんなことあるわけないだろ!」

 進は即座にそれを否定した。しかし、心の奥底では否定しきれないところもあった。

 妻にもそう思われているとおり、進はこと恋愛に関する感情の機微には鈍感な方だった。実際、女性からモーションをかけられていることに気付かず、受け流したこともあったし、逆に露骨なアプローチには嫌悪感さえ感じた。
 進にとって今まで妻以外の女性は、女としての対象であり得なかったわけで、それはそれでよかったのだ。

 ところが、ナギサに関してはなぜだか勝手が違った。
 実際、彼女が自分のことを憎からず思っているんじゃないかと感じたこともある。だがそれは直接そう告げられたものではない。彼女の視線や仕草、そして進に対する行為の端々から感じる何かである。
 ひょっとして……と思いつつも、進は、それを認めるのは恐かった。認めたら自分も何らかの答えを返さなければならないのが嫌だった。だから自分の思い込みに過ぎないといつも懸命に否定していた。
 自分自身、彼女に対する感情がなんに帰来するものなのか、掴めていないのだ。

 (18)

 その進自身が一番知りたくない。知るのが恐い面を、雪は鋭く尋ねてきた。

 「それで、あなたはどうなの?」

 「ど、どうなのって……」

 「彼女のことどう思ってるの?」

 「どうって、別に…… いい娘(こ)だと……思ってるよ。一生懸命仕事してくれるし、優秀だし……」

 全くもって情けない……と自分で思うほど、進の答えはしどろもどろだった。自分自身が情けないくらい、すっきりと答えられない。
 しかし雪から、「本当にそれだけ?」と念を押されて、進はやっと「もちろん、それだけだよ!」と、強く答えることが出来た。

 ただし、これは彼の正直な気持ちではなかった。正直なところは『わからない』というのが、最も正しい。しかし進は口にした言葉通りでありたいと、願っていた。

 (俺には雪しかいらない。これまでもそうだったし、これからもそうでありたい……)

 この気持ちには間違いはない。自分の中にある不安を、雪に向かって断言することで、解消してしまいたかった。

 二人が互いをじっと見て睨みあうような恰好で、そのまま沈黙が続いたが、しばらくして、雪が肩から大きく息を吐いた。

 「ふうっ……わかったわ。あなたの言葉を……私、信じるわ」

 「雪……」

 「でももう、私を心配させないでね。私、とっても不安だったのよ。そりゃあ、あなたは私のことも子供達のこともいつも思ってくれてるってわかってる。そう信じてるわ。でも、あなたはずっとそばにいないんだもの。一緒にいられないんだもの。
 今ここにいるけど……私は……もうすぐ地球に帰らないといけないんだもの……」

 雪の瞳が僅かに潤み始める。それを見た進の胸がズキリと痛んだ。これほどまでに妻を愛しているのに、妻も自分を愛しているのに、どうして他の女(ひと)など気にする必要があるだろう。

 「雪…… わかってるよ。俺だって同じ気持ちなんだから。俺だって、君のそばにいないと不安になる……」

 「ほんとね?」

 切ないほど妻が恋しくなる。進は、絶対に彼女を裏切るようなことはしない、してはならないと心に強く刻みこんだ。

 「ああ、絶対に君を裏切るようなことはしない。誓うよ」

 「わかった。あなたの言葉信じるわ」

 信じる……雪はそう答えた。本当にそうしたかった。進の心がもしかしたらナギサに傾いているのかもしれないという不安は拭い去れなかったが、とにかく雪は夫を信じていたかった。それしか雪にはできないのだから……

 「雪……」

 進は席から立ち上がると、雪の側へ数歩歩いた。雪も立ち上がった。そして二人は吸い寄せられるようにお互いの胸の中に体を預けた。
 進を見上げながら瞬きした雪の瞳から、一粒二粒涙がこぼれた。進はその涙にそっと口付けると、そこから頬をなぞるように唇を下ろしていった。そして甘い香りのする妻の小さな唇をそっとおおった。
 唇が合わさると同時に、進を抱きしめていた雪の腕に力がこもった。力いっぱい抱きしめて、そして口付けを返した。そしてそれに負けないほど、進の腕にも力がこもる。細い妻の体がしなるように、進の体にぴたりと引き寄せられた。

 (19)

 互いの唇をむさぼりあっていた二人が、ゆっくりとその体を離したのは、それからどれくらいの時が経ってからだろうか……
 まだ雪の体を抱きしめたまま見下ろしている進を、軽くいなしてから、雪は再びテーブルについた。

 「ご飯食べてしまわなくちゃ」

 「あ、ああ……そうだったな」

 進は抱きしめていた手を緩め、雪を開放すると、自分もまた席に戻った。3杯目のご飯がすっかり冷たくなっていたが、それでも残ったおかずと一緒にせっせと食べ尽くした。

 食事が終わると、二人とも喧嘩をした後のように、なんとなく手持ち無沙汰で気まずい雰囲気になった。

 「あ……」 「あのね……」

 二人同時に、声をかけてしまって互いに顔を見合わせてくすりと笑った。それがきっかけになったのか、雪はさっきとは打って変わって明るい声で話し始めた。

 「今日時間がたくさんあったから、他にも色々お料理作っておいたわ。小分けにして冷凍庫に入れてあるからレンジで温っためて食べてね」

 「あ、ああそうか…… ありがとう。助かるよ」

 妻が普段の声に戻ってほっと安心しながら進が答えた。すると、雪はちょっといたずらっぽく笑った。

 「ええ、だから……当分は誰にも作ってもらわなくても大丈夫よ!」

 「ば〜かっ、もう誰にも作ってもらわないよっ」

 今度は進も怯まずに言い返したが、雪は横目で進を見た。

 「あぁら、ほんとかしらぁ〜 怪しいものね!」

 「怪しくないって!」

 「知〜〜らないっ! さあ、私お風呂に入るわ。あなた片しておいてね! 嘘ついたバツよ!」

 「わかったよ!!」

 雪はニコリと笑みを送って風呂場に向かった。

 (20)

 その夜、先に風呂から上がった雪がベッドで横になっていると、後で風呂に入った進も上がってきた。
 雪がベッドサイドに立つ進をちらりと見上げると、進はじっと雪の顔を見ていたが、小さくため息をつくと、いつも使ったことのない隣のベッドのシーツをはいだ。

 それを見た雪が不満そうに訴えた。

 「そっちに寝るの……?」

 「ん、いや…… ちょっと、なんていうか…… まだ怒ってるんだろ?」

 情けない顔の夫の言葉に、雪が可笑しそうに笑った。

 「そうね、まだ怒ってるわ。嘘つかれたんだもの!」

 プイッとふくれっつらをして見せると、進は寂しそうに微笑んだ。

 「わかったよ。じゃあ、お休み」

 進が隣のベッドに入ろうとすると、その背中に向かって雪が呟いた。

 「私、今夜はな〜〜んにもしてあげないからねっ!」

 「え?」

 進が振り返って雪を見た。雪は口をとんがらせて、それでも目は夫を誘惑するように甘く睨んだ。

 「あなたが、全部してよね」

 「あ……」

 進が少し期待するように顔を明るくした。雪が言葉を続ける。

 「私をた〜〜〜ぷり幸せにしてくれたら、少しは……許してあげてもいいわ」

 進が嬉しそうに妻のいるベッドに近づいてきて、そのまま妻の隣に滑り込んだ。雪が進の体にそっと擦り寄った。耳元で囁く。

 「だって、一人で眠るのは……寂しいわ」

 「雪……」

 妻を抱きしめながら、進はもう片方の手で妻の髪をなぜた。ゆっくりと何度も何度も…… それから、雪の頬にそっとくちづけた。

 「わかったよ。奥様のお望みの通り……たっぷりとご奉仕させていただくとするかな」

 その言葉が終わると同時に、進の唇は雪の喉もとに落ちていった。
 妻のくぐもった笑い声を唇で抑え込んで、進はたっぷりと時間をかけて、妻の要望をそれはそれは懇切丁寧に満たしていった。
 進の愛撫は、雪の不安な心を少なくともその晩一晩は忘れさせてくれるほど、素晴らしくて激しかった。

 明日からのことは……今は考えたくない…… 今はただ…… 雪は翻弄される波の間にただ浮かんでいたかった。

Chapter11終了

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(背景:Atelier paprika)