ラランドの白い花

Chapter12

 (1)

 週末の朝が来た。今日明日は進も休みである。夫婦水入らずの2日間が過ごせる予定だった。だが、朝程よい時間に目覚めた二人の雰囲気は、なんとなくまだギクシャクしている。
 確かに昨夜和解のための儀式は、進の丁寧な奉仕でなされてはいたが、かと言ってすっきり忘れ去るにはまだ時間が足りなかった。

 雪は出来るだけ自然に振舞っているつもりなのだが、朝食のために昨夜の残りのキンピラや肉じゃがを温めているうちに、微妙に残る不安が沸き上がってくるし、進の方は、それらがテーブルに並んだのを見ると、どうしても昨夜の居心地の悪さを思い出してしまうのだ。
 進はそれを口にしながら、遠慮がちに妻の様子を見た。妻の方はと言うと、特に変わらない様子で箸を進めてはいるのだが、なんとなく愛想がないような気がした。

 (雪、やっぱりまだ怒ってるんだろうな……)

 身から出た錆とは言え、せっかくの休日をそんな雰囲気のまま過ごしたくない。進は思い切って妻に話しかけた。

 「雪……」

 「なあに?」

 視線を上げて夫を見る目は、いつもと変わらず美しかった。

 「今日は休みだし、ラランドを少し案内しようか? 大した物はないが、採掘場とか、鉱石が露出している現場もあって、なかなかきれいところもあるんだ」

 「そう……」

 あまり気乗りしない返事だった。やはりまだわだかまっているのかと不安になった進に、雪は尋ねた。

 「でもあなた、昨日緑化運動のボランティアがあるから一緒に行こうって言ってなかったかしら?」

 「えっ!?」

 妻の言葉に、進は一瞬返答に困った。

 それは昨夜、例のキンピラ問題で進がやり込められる前に出た会話だった。明日は緑化運動のボランティアがあるから一緒に行くか?と進が誘うと、雪は快諾した。

 「ああ、例の斎藤の部下だった権藤も来ると思うから、紹介するよ」
 「まあ、それは楽しみだわ。ぜひお願いするわ」

 確かにそんな話をした。だが……そのボランティアには、彼女が来る。昨日の今日のことで、雪とナギサを会わせる事を進は躊躇したのだ。

 「あ……いや、別にどうしても行かなくちゃならないってわけじゃないし、せっかく君が来てるんだから別に……」

 言い訳にしどろもどろになる進に対して、雪はさらりと言ってのける。

 「何か、都合が悪いことでもあるの?」

 「えっ? いや……」

 その言葉にさらに進がおろおろする。まったく……と雪は思う。あれだけなんでもないと言い放っておきながら、妻が例の彼女と会うと思うだけで焦っているのである。

 (昨日のことが本当なら、もっと堂々としててよ!)

 その思いが、雪の瞳を鋭く光らせた。

 「彼女に私を会わせたくないのかしら?」

 「うぐっ…… い、いや、そう言うわけじゃ」

 この件に関して、進の方が遥かに分が悪い。変に取り繕おうとすればするほど、痛くない腹を探られているようだ。そんな自分が情けなくさえあった。

 「後ろめたいことないんなら、別にいいじゃない? あなたがいつも休日に行ってるのなら私も行ってみたいし、権藤さんって方にも会ってみたいわ。心配しなくても、ナギサさんに変なこと言ったりしないから!」

 「あ、ああ……」

 さらに畳み掛ける言葉に、進は同意するしかなかった。妻に押しきられたような形で、二人はその日緑化ボランティアに参加する事に決めた。
 そうと決まると、やけに機嫌が良くなった妻を、進は心の奥底で不安に思いつつも、笑顔で―多分少々引きつっていたかもしれないが―出かける仕度をするのだった。

 (2)

 それから1時間ほど後、その日の緑化ボランティアの作業場所となった基地はずれには、集合時間を前に、数人の参加者が集合していた。そこにやってきたナギサが、その中に進の姿がないことに気付いた。

 (やっぱり、古代さんは今日は来ないんだわ。そうよね、奥様がいらしてるんだもの……)

 少し寂しい。考えないようにしようと思っても、どうしても頭から離れない彼の妻のこと。素晴らしい女性だとわかればわかるほど、ナギサの心は重くなっていった。そのせいで、数日間眠れぬ夜を過ごしている。

 (でももう……会うこともないんだわ)

 そう思うと、少しだけ心が晴れた。奪おうとも奪えるとも思ってはいないけれど、彼女さえいなければ、ただじっと彼を見つめられる自由だけは得られるのだから……

 そんな事を考えていると、権藤がやってきた。

 「よっ、ナギサちゃん、おはよう!」

 いつもの調子で、権藤は元気良くナギサの肩をぽんと叩いた。

 「あ、おはよう、ゴンちゃん……」

 ナギサもいつも通りに笑顔を返した……つもりだったが、

 「ん? なんか元気ねぇな。どうしたんだよ?」

 そう指摘されてしまった。権藤が見るところ、ナギサの顔色がいまいちよく見えない。
 理由は明白だが、権藤は知らない。彼はまだ雪に出会っていないのだ。ナギサが雪を連れて空間騎兵隊の兵舎を訪れた時には、権藤はたまたま不在だった。

 もちろん、出会っていたとしても、任務の関係で雪は、自分が進の妻だとは言わなかっただろうし、ナギサの不調の原因をそれと知る事はできるはずもなかった。

 「別に……なんでもないわよ。さ、今日も頑張りましょ!」

 「ああ、あれ? 古代さんはだ来てねえのか? いっつも張り切って一番にやって来てんのになぁ」

 ナギサの様子になんとなく納得いかないまま、権藤がメンバーを見渡すと、いつもなら真っ先にやってきてワクワクしながら待っている、らしくない副司令の彼がいないことに気が付いた。

 (もしや古代さんが来てないから元気ないのか? 喧嘩でもしたのか?)

 そんな事を思いながらナギサを見ると、彼女は口篭もりながら答えた。

 「……来ないわよ、今日は……」

 「どうしてだよ?」

 「だって、今彼の奥……」

 彼の奥様が来ているのに、わざわざこんなところに来るはずがないでしょう。そう言おうとした時、権藤はナギサの肩ごしに誰かを見つけ、嬉しそうな声を張り上げた。

 「おっ、来た来た! 噂をすれば陰だな。あれぇ? 誰か女の人連れてるぞ。へええ〜、えらくきれいな人だなぁ」

 (え? まさかっ!?)

 しかし、そのまさかだった。ナギサも振り返って見ると、進が妻の雪を連れて、こちらにやってきたのだった。

 (どうしてこんなところまで……!)

 ナギサの心は、二人の登場に激しく揺れ動いた。

 (3)

 ナギサの思いを知るはずもない二人は、笑顔で皆が集まっているところに小走りに駆けて来た。

 「おはよう!」 「おはようございます!」

 「古代さん、おはようございます! 今日は遅いと思ってたら、美人連れですかい? お安くねぇなぁ〜」

 メンバー達の挨拶に答える進の脇を、権藤がくいくいと小突いた。顔もニヤけている。すると、進は照れたように笑った。

 「ああ……ははは。まあ……」

 ちらりと隣を見ると、雪がすぐに口を開いた。

 「初めまして、あの、もしかして権藤さん?」

 「え?そうっすけど…… けど、なんで俺のことを? いっぺんでも、こんな美人に出会ってたら忘れられないんだけどなぁ?」

 「うふふ……あなた、紹介してくださらないの?」

 雪は、不思議そうな顔で自分を見る権藤に微笑んでから、夫の方を見た。それに促されるように進が説明した。

 「あ、ああ…… その、これは俺の女房なんだ」

 「えっ!?」

 びっくりして口をあんぐりあける権藤へ、進の説明は続いた。

 「三日前、ここの基地に出張で来たんだ。こちらは権藤始君。ラランド星基地駐留の空間騎兵隊第2中隊の隊長だ」

 「古代雪です。よろしくお願いします。主人がいろいろとお世話になりまして…… お噂は主人から伺っておりましたわ。昔、第11番惑星で斎藤さんの部下だったんですってね」

 雪がラランドに来た理由などを話し、昔ヤマトに乗っていた話などをすると、権藤は至極うれしそうに笑った。

 「そうなんですかぁ!!! いやぁ、嬉しいなぁ。お世話なんて、こっちの方が世話になってばっかりなんですよ! いっつも率先してこのボランティアをしてもらってます。今日は奥さんまで一緒に来てくださるなんて、なぁ、ナギサちゃん…… あ、あれっ?」

 一緒にいたはずのナギサは、権藤の知らぬ間にその場から離れてしまっていた。きょろきょろする権藤を、雪が制した。

 「あ、ナギサさんとは昨日まで一緒に仕事していたのよ。だから紹介していただかなくても良く存じ上げてますわ」

 「ああ、そうなんですか」

 と答えて、権藤はちょっと考えるような仕草をした。ナギサの不調の一因かもしれないと察したようだった。

 「なにか?」

 「あ、いえ」

 慌てて笑顔を取り繕う権藤に、雪も微笑んだ。

 「今日はどれだけお役に立てるかわかりませんけど、よろしくお願いしますわね」

 「ありがとうございます。じゃあとりあえず、ぼちぼちやっててください。奥さんのことは、古代さんにお任せしましたよ」

 「ああ」

 雪と進にそう告げると、権藤は個々に雑談している仲間達を集めた。

 「おーい、みんな集まってくれ! 今日の予定を話すから!」

 その声に皆がぞろぞろと集まってきた。その中に紛れるようにしてナギサもやってきて、進と雪に視線があうと、軽く会釈した。

 「おはようございます」

 「あ、ああ……おはよう」

 進はできるだけいつも通り挨拶を返そうと努力したが、目の前のナギサと後ろの雪の間にいると、どうも居心地が悪い。浮気のうの字にもならない出来事で動揺している夫が、雪には逆におかしいくらいだった。

 (これくらいいいわよね。あなたが悪いんだから。でも……彼ってほんとこういう事じゃ、嘘つけない人なんだわ)

 雪はそんな夫の姿をさりげなく観察して安心した。そして視線をナギサに戻す。

 「ナギサさん、おはようございます。昨日まではお世話さまでした」

 「いえ、こちらこそ」

 笑顔で答えたナギサだが、雪にはさっきからその笑顔が微妙にこわばっているように見えた。

 (ナギサさん、顔色悪いわ。どうしたのかしら? もしかして、私のせい?)

 そしてもう一人、その微妙な空気を感じた人物がいた。

 (ナギサちゃん、もしかして……やっぱり噂通りなのか!?)

 (4)

 権藤の指揮の元、作業が始まった。今日の予定は、ある程度まで育てたラランドの苗木を、緑化地区に地下植えすることになっていた。メンバー達はそれぞれヘルメットを被ると、小さな苗木を手にとって外へ出ていった。

 進達も作業場所に移動することにした。意識しているのか、進はナギサの居る場所から離れた場所を選んだ。雪がチラッと夫の顔を見ると、進は突然、苗木の説明を始めた。

 「雪、これはラランドで一番繁殖してる植物の一つなんだ。苗木も育てやすくて俺が来てからも随分植えたんだ。それでもまだまだこの星を緑であふれるほどにするには程遠いんだけどな」

 それだけを言うと、進はせっせと作業を始めた。ナギサの方は、できるだけ見ないようにしている。

 (う〜〜、やりにくいっ! 別に何も悪い事してないぞ、俺は…… してないよなぁ〜)

 ちらりと雪の顔を見上げると、雪はニコリと笑う。その笑顔がかえって不気味だった。

 (にゃろう、雪の奴、絶対楽しんでやがんな…… もういいっ! 俺は今日はこれを植えに来たんだからそれだけを考えるんだっ!)

 進はまた一つ苗木を手に取ると、次の場所にそれを植えた。一旦その世界に入りこむとすっかり浸れる性格の進は、大好きな緑を扱い始めるとだんだんと余計な?事は忘れていった。
 ひたすら作業を続ける進を、雪は苦笑気味に見つめた。

 (進さんったら、こういう仕事になると一生懸命ね。いつものことだけど。でも、なんだかわざと彼女を見ないようにしてるみたい。だからかしら? ナギサさんの方は、元気がなさそうに見えるし……)

 雪は進とは逆に、ナギサの方に視線がいってしまう。ちらりと目をやると、ちょうどこちらを見ていたらしく、雪と視線があうとすぐに慌ててうつむいて手を動かし始めた。

 (なんだか、私が意地悪してるみたいじゃない…… やだわ)

 手の止まった雪に気付いた進が顔を上げた。

 「どうした、雪?」

 「……ううん、なんでもないわ」

 雪は夫に笑みを返してから、再び手を動かし始めた。妻の笑顔に安心して、進は再び作業に没頭していった。

 進の姿とナギサの様子を見ながら、雪は現状を結論付けていた。

 自分がここにいる限り、夫はわき見などする気はないということ。
 かえって自分が突っついた事で動揺しているということ。
 つまり彼は、雪の心配するようなナギサへの感情は「今のところは」持っていないらしい。
 だが……反面、ナギサの中では、進への思いが育っているということも、はっきりと認識できた気がした。

 (5)

 進と雪が離れた場所で作業をしている頃、一人作業するナギサに近づいてきたのは、権藤だった。ナギサの隣に腰を下ろして苗木を植えながら、小声で話しかけた。

 「やっぱり、今日は元気ねぇな。古代さん達にも愛想ないし」

 「そんなこと……ないわ。いつもと同じよ。ここ2,3日、あまり眠れなかったから、それだけよ」

 ナギサは手止めずに視線も落としたまま、権藤の顔を見あげることもなかった。

 「眠れなかった……?」

 権藤の手が止まった。そしてナギサを険しい顔でじっと見つめてから、低い声で呟いた。

 「やっぱり、古代さんの奥さんが来てるからなのか?」

 と、はじかれるようにナギサが顔を上げて眉を吊り上げた。

 「なっ! ど、どうして、そんなこと関係あるのよ!」

 「だってさ、ナギサちゃんも古代さんも、なんとなく変だぜ。二人ともいつもなら一緒にわいわいやってる癖に、古代さんは奥さんに気を使いまくってるし、ナギサちゃんは一人で眉しかめてる。古代さんの奥さんとは一緒に仕事もしたんだろう?なのにさぁ」

 すると、ナギサがひどい剣幕で彼を睨んだ。最近はあまり見なくなった険しい表情だった。

 「副司令はせっかくいらした奥様に気を使ってらっしゃるんでしょう! いいことじゃない、仲がよくって! そんなこと私に関係ないことだわ!」

 「ふうん、そうなのかなぁ〜?」

 「そうよ!」

 とぼけたようにうそぶく権藤に、最後の一言を投げつけて、ナギサは勢いよく立ち上がると、すたすたと歩き出した。

 「お、おいっ!」

 権藤が声をかけてもナギサは振り返りもしない。

 (はあ〜 ナギサちゃんって、なんでこんなにわかりやすいんだよ! ったく…… ああ、やっぱりそうだったのか。けどなぁ、気持ちはわかるけどよぉ〜 どう考えたって最初から無理だぜ)

 ナギサの思いが痛いほどわかる権藤は、彼女とそして自分自身の思いを重ねて心を痛めた。

 (6)

 そして夕方。予定の作業を終えたサークルの皆が、一緒に夕食を取るべくいつもの店に行こうとした時だった。ナギサは、今日の参加を辞退した。

 「ごめんなさい。私、今日はちょっと用事があるから」

 すると、間髪をいれずに権藤も言った。

 「俺もちょっと……今日は悪いが、みんなでやってくれ」

 びっくりしたような顔で権藤を見るナギサに、彼はわずかに微笑んでから皆に頭を下げた。するとメンバーの一人が二人をからかった。

 「あっれ〜〜 ナギサちゃんと権藤さん、あやしいなぁ〜 これから一緒にどっか行くんじゃないの?」

 他の皆もおおっと目を輝かせて笑い出した。もちろん、進や雪もだ。
 この時点の進の笑顔、その単純なものがナギサにはチクリと痛い。彼には誤解されたくなくて、「違います」と口を開こうとした時、権藤の方が先にそれを否定した。

 「なぁに、今更バカな事言ってんだよっ! 違うに決まってんだろ。ほらっ、しょうもねぇこと言ってないで、行った行った!」

 権藤は皆を促すと、皆はははは、と笑いながら歩き出した。権藤が雪に声をかけた。

 「奥さん、すいません。もっとゆっくりお話したかったんですけど……」

 「あ、いいえ。権藤さん、今日はいろいろとありがとうございました。とても楽しかったわ。これからもがんばってくださいね。私は明日地球に帰るので、ゆっくりお話できなくて残念ですけど」

 雪はそこで一旦言葉を止めて、権藤とその隣にいるナギサを見た。それから進をチラッと見て続きを言った。

 「権藤さんもナギサさんも、主人のこと、これからもよろしくお願いしますね」

 雪は軽く頭を下げると、二人も慌てて頭を下げた。

 「はい……」

 「了解しました」

 雪はこの二人ともう少し話をしたい気持ちを残したまま、二人に別れを告げた。
 そして、進と雪も他のメンバー達と一緒にいつもの居酒屋に向かった。

 (7)

 一方ナギサと権藤は、彼女の家に向かって歩いていた。

 「どっかで用事あるのか?」

 ナギサの顔を覗き込むように権藤が尋ねた。

 「うん、ちょっと……」

 それからふっと寂しげな顔をする。その顔を険しい顔でじっと見つめてから、権藤は二人きりになったのをいい機会に、思い切って尋ねてみることにした。元々彼に用事はない。昼間の続きをもう少ししたかったのだ。

 「ほんとは、あの二人を見てるのが嫌だったんだろう?」

 「……あの二人って?」

 「とぼけなくてもいいだろ。わかってんだぞ」

 「なんの……ことだか……」

 しかし、今日の権藤はいつものひょうきんな彼とは少し違った。

 「基地内でも噂になってるの、知らねぇのか? ナギサちゃんと古代さんのこと」

 「!!」

 ナギサは、ビクッとして顔を上げて権藤を睨んだ。もちろん、今日の権藤はそんな表情にも怯まない。

 「何言ってるのよ!」

 逆にナギサの方が、そのまっすぐな視線を受け止め辛くなって顔をそむけた。権藤が、ふうっと小さくため息をつく。

 「まあ、そんなにきわどい噂じゃねぇけどさ。ただちょっと、あの二人やけに仲がいい、ちょっと怪しいんじゃないかって程度だけどな」

 「そんなこと……あるわけないでしょう。今日だって見たじゃない、副司令には奥様がいて……」

 歩きながらぽつぽつと話すナギサの視線は、足元の方へ落ちている。権藤は、その顔つきから答えを見たような気がした。

 「けど、それでも惚れちまったんだろう? あの人に……」

 「…………」

 ナギサは答えなかった。口元が僅かにわなないているように見える。権藤も、すぐに声をかけられずに、二人はしばらくそのまま無言のまま歩いた。

 (8)

 しばらく歩いて、ナギサの部屋のある居住区の入り口に到着した時、権藤は大きく息を吸ってそして吐いた。

 「ふうっ、気持ちはわかるけどな。いい男だもんな、古代さんは。いや外見だけがどうのとかってことだけじゃないぜ。男としても人間としても、すごく魅力のある人だ。男が惚れる男だよ、あの人は。だからさ、ナギサちゃんが憧れる気持ちもわかる」

 権藤は、そこまでを一気に話してから、ナギサの反応を待つように黙ったが、彼女はじっと押し黙ったまま答えなかった。権藤がさらに話を続ける。

 「けど、どう考えたって無理だよ。奥さんがいるってことだけでも、どうしようもないって思うのに、あの奥さんじゃなぁ。ああいう人を才色兼備っていうんだろうな。その上、嫌味のない優しそうな人だった。文句の付けようのない奥さんだぜ。
 それに今まで話で聞いてただけでも、古代さんが、奥さんのことをすごく大事にしてるのはわかってたじゃねぇか。結婚して何年になるのかは知らねぇけど、まだまだアツアツだぜ、あれは。あれ見てたらどうやったって割り込めやしねぇよ」

 とその時、突然ナギサが大きく首を左右に振って叫んだ。

 「わっ、わかってるわよ!! そんなこと、私だってわかってるわっ!!」

 ナギサは、潤んだ瞳できっと権藤を睨んだ。

 「ナギサちゃん……」

 「何にも期待なんてしてない! 何も望んでもいないわっ!」

 もう一度そう叫んでから、ナギサは再び視線を落とした。短い言葉の中に、ナギサの思いと苦悩が全て込められているようだった。
 しばらくの沈黙のあと、権藤は静かに口を開いた。

 「…………そっか。すまねぇ。余計なこと言っちまったみてえだな。人を好きになるってのは、自分でも止められるもんじゃねぇからな。それは仕方ないよな。報われねぇってのは辛いけど、仕方……ねえんだよな」

 「…………」

 うつむいたままじっと聞いているナギサに、権藤の言葉は続いた。

 「こんなこと言っても慰めにもなんねぇかもしれねぇけどよ。俺もその気持ち、よ〜くわかるんだよ。おんなじだからな、俺も……よ」

 「え?」

 権藤の告白に、ナギサが顔を上げた。

 「報われねぇ恋ってのをさ…… へへへ……」

 照れ隠しに人差し指で鼻をごしごしとこすってから、権藤はいつになく寂しそうに微笑んだ。ナギサは、その瞳の中に自分と同じ寂しさを感じた。

 「そう……なの…… ゴンちゃんの好きな人も、旦那様がいる人なの?」

 ナギサがふっと微笑んだ。そのあまりにも悲しそうな笑みが権藤の心にずきりと響く。

 「い、いや、旦那はいねえけど…… その、他に好きな奴がいるみてえなんだ」

 それが誰だかわかってるのかい? そう言葉を続けたい気持ちを、権藤はぐっと押さえた。今彼女にそんなことを告げたところで、彼女を混乱させるだけだろうと思う。
 権藤の切なる思いに気付かないナギサは、少し目を輝かせた。

 「そう…… うふふ、でも結婚してる人じゃないんなら、ゴンちゃんにはまだチャンスがあるじゃない」

 「はは、そうかな?」

 「そうそう! ゴンちゃんは頑張って」

 「あ、ああ……」

 非常に複雑な心境というのはこういう事をいうのだろうか。権藤は、俺が頑張れる余地があるのか?という、喉元まで出てきた言葉を、必死の思いで飲み込んだ。

 (彼女が俺に心を許してくれているのは、俺を彼女にとって恋愛対象の存在じゃないからなんだ…… そんな俺がお前に惚れてるなんて告白したりしたら……)

 そう思うと、やはり言えなかった。しかし、権藤の言葉を自分への励ましだと受け取ったナギサは、さっきまでの苦しそうな表情をわずかに緩めた。

 「私は大丈夫よ。今はちょっと辛かったけど、このまま見ていられたら、あの人がラランドにいる間だけ……見ていられたら……その間だけそばにいられたらそれで……いいの。ちゃんと諦めるつもりだから」

 「そっか、なんか辛いけど頑張れよ! 泣きたい時があったら、いつでも付き合うからよ!」

 「うん……ありがと、ゴンちゃん」

 微笑みあう二人。それぞれの思いが切なくて悲しくて、だが温かかった。

 (9)

 サークルのみんなと食事に行った二人は、いつも通りの食事を終えて帰途についた。

 「ああ、よく食った! ふうっ」

 「うふふ…… あなたったら、ほんとよく飲んで食べたわねぇ」

 「ナギサさんと権藤さんがいなくて残念だったわね」

 「あ、ああ……」

 雪の言葉に、進は少々の戸惑いを見せながらも頷いた。今日一日の事を思い出す。妻に文句を言われるような行動はしていないと思う。ナギサに対して、今日はほとんど話しかけもしなかったのだから。
 それがかえって違和感を感じさせている事を、進はわかっていなかったが。今の進にとっては、ナギサよりも権藤よりも、まず妻のご機嫌なのだ。

 「なあ、もう怒ってないんだろう? 今日のでわかったろ? 別になんともなかったし、彼女だってただの親切心で……」

 「え? そうね、そういうことにしておくわ」

 すがるような視線を送ってくる進を見て、雪は苦笑する。だがまだ本音は別のところにある。

 (今日の彼女がなんでもないですって? 本当にあなたったら、女心がわかってないんだから。私を連れていったあなたを見る彼女の視線、全然気付いてないのね。彼女きっとあの後、私達と一緒にいるのが辛かったんだわ)

 「そういうことって、おい、雪っ!」

 「うふふ……あなたってほんとに……」

 「ほんとに、なんだよ!」

 「もういいわ。わかったから。もう言わないわ」

 雪の結論、進に関しては、このことをさらに追及しない方がいいということだった。ナギサに関しては……さてどうしようか?

 (10)

 そして二人は進の部屋に戻った。雪がいれた紅茶を、二人は並んで飲んだ。

 「久々に雪にいれてもらったな、紅茶。うまいよ」

 「そ〜お? 紅茶を入れるのは、あなたの方がこだわってるから」

 「ははは、最近はそうでもないさ。けど、本当に美味しいよ。なんていうかさぁ、土をいじったあとっていうのは、すごく気分がいいんだよな」

 「ぷっ…… あなたらしいわ」

 二人で微笑みあう。温かい空気が二人を包んだ。何事もなく過ごしていたあの地球の日々のような……

 「あはは、今日は付き合ってくれてありがとう。雪と一緒にこんなことするのも久しぶりだったから楽しかったよ」

 「また地球に戻ったら、お庭の手入れ一緒にしましょう。子供達も手伝ってもらって」

 雪は半年後のことを思った。またあの地球の我が家で子供達を一緒に土いじりする夫の姿を目に浮かべながら。

 当然の未来であるはずのこと。今の進の姿を見ていれば間違いなく来る未来だと思える。だがどこかに残る奇妙な不安感が、雪の心をざわつかせているのも事実だった。

 (きっとあなたは帰ってきてくれるのよね? そしてまた、みんなで楽しい休日を過ごせるのよね?)

 その問いに答えるように進は大きく頷いた。雪の不安など進に気付くはずもなく、いや、進自身、今はそんな不安これっぽちも持ってはいない。

 「ああ、そうだな。それまで荒れ放題にならないように頼むぞ!」

 「OK、わかりました!」

 「あっははは、そう言やあ、子供達どうしてるんだか、君がこっちに来た時以来、全然連絡してないんじゃないのか?」

 急に思い出した進がそう尋ねると、雪は肩をすくめて笑った。

 「ええ、いいえ。一人のときに何度か連絡入れたわ。こっちにいるのは内緒で。みんな元気にしたわ」

 何日も子供達から離れる事はたびたびある雪だが、連絡だけはこまめに取ることにしている。今回も例外ではない。ここに来るのは内緒にしていたので、進がいない時を見計らって連絡を入れていた。母はいつもの出張だと思っている子供たちは、毎度元気な笑顔を見せてくれていた。

 「ああっ、ずるいな君だけ。俺も子供達に会いたいよ。でももう明日は帰るんだし、一緒に連絡してもいいんじゃないのか?」

 進が少し不満そうに訴えると、雪もあっさりと頷いた。

 「そうね、電話してみましょうか?」

 さっそく二人で画面の前に座った。通信を繋ぐとすぐに雪の母の美里が画面に出て、すぐ子供達を呼んでくれた。
 すると……案の定、3人から一斉に「お母さんはずるい!」と連呼されてしまった。進は大笑いだ。雪は、ごめんなさいを連発しながら、あさってには帰ることと、お土産をたくさん持って帰ることを約束して、やっと納得してもらい、楽しい会話は終わった。

 「子供達、元気そうで良かったわね」

 「ああ、親がなくても子は育つって奴だな。まったく、悪い親だな、俺達は」

 「うふふ……そう思ってるのなら、今度帰ってきたらたっくさん子供孝行してくださいねっ!」

 「わかったよ! ご奉仕させていただきます!」

 そして互いに顔を見合わせてうふふ、はははと笑った。子供たちを挟んで父と母であることを、二人はとても幸せに思った。少なくともこの時は、二人ともナギサの存在は完全に忘れ去っていたに違いない。

 それから、進はう〜んと大きな伸びをして時計を見た。

 「さぁて、風呂入って寝るかぁ〜」

 「どうぞ、お先に……」

 雪がすまして答える。

 「あれっ?どうぞって、君は?」

 当然一緒に入ろうと思っていた進は、口をとがらせた。

 「うふふ……どうしようかなぁ〜」

 進の頭に消えかけていた昨夜の悪夢が甦ってくる。

 「ま、まだ……怒ってるのか?」

 顔色をさっと変えて不安げに見つめる夫の姿が、雪にはおかしくて仕方がなかった。

 「怒ってないわ」

 雪の言葉が信号機のように、進の顔色が青から赤みがかった色にパッと変わる。それがまたおかしくてたまらない。

 「うふふ……じゃあ、一緒に入る?」

 「当然!」

 すっかり許されたと認識した進の顔は、それはもう嬉しそうだった。

 その夜は、再び年甲斐もなく?おイタを繰り返す夫をいなすのに、一晩中苦労した妻であった。
Chapter12終了

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