ラランドの白い花

Chapter13



 (1)

 翌朝、毎晩の夜更かしが祟ったのか、二人はすっかり寝過ごしてしまった。どちらからともなく目を覚まして時計を見ると、もう午前10時を過ぎている。
 ようやく起き出した二人は、それから遅い朝食を取った。

 「もう、ブランチの時間になっちゃったわね。日曜日だからいいけど……」

 そんなことをつぶやきながら夫のほうを見ると、話を聞いているんだかいないんだか、ふぁ〜と大きくあくびをしている。
 その仕草がおかしくて雪はクスクスと笑い出した。

 「なんだよ。一人で笑ったりして気持ち悪いな」

 人の顔見て笑うなよ、と続けながら進がふてくされると、雪はまた嬉しそうに目を細めた。

 「ん? ええ……ずっと昔のこと思い出してたの」

 「昔?」

 「ええ。まだ結婚する前、一緒に住んでた頃のこと。お休みになるとよくこんな時間まで寝てたわよね。結婚して子供が生まれてからはこんなことできなくなったけど……」

 もう10年以上も前のことになる。同棲を始めた頃は、とにかく二人でくっついていたかった。特に進が地球に帰還した夜などは……今思い出すとよくそれだけできたものだと思うほど、愛し合うという行為を繰り返していたような気がする。
 互いしか見えなかったあの頃…… 互いが唯一の大切な人だったあの日々……

 進もその頃のことを思い出したのだろう、顔がだんだん緩んでいった。

 「ああ、そうだなぁ。あの頃は若かったしなぁ。毎晩よくやったよなっ、お互いに!」

 進はウインクを一つしてにやりと笑った。

 「お互い!? 違うわよ、あ・な・たがエッチだっただけよ」

 雪が「あなた」と強い口調で言いながら、夫を指差してつんと顔を上に向けると、進は早速抗議した。

 「ええっ! それはないだろう。君だって喜んで付き合ってたくせに」

 「あら、あれは仕方なくだったのよ」

 と答えながら雪の顔がほころんだ。その瞳があの頃のように妖しく光っている。進がその視線を感じないわけがない。
 二人とも、体力の方はどうだか知らないが、心の方はあの頃の情熱を決して忘れてはいないようだ。

 「言ったなっ」

 と言うと同時に進は立ち上がり、向かいに座っている雪のところまで来て一気に抱き上げた。
 
 「きゃっ! 何するの?」

 突然の出来事に雪が驚いていると――実は心の中で期待していた部分もあるのだが――進は抱き上げた妻の顔に、触れるギリギリまで自分の顔を近づけた。

 「あの頃と同じことをするんだよ……」

 「えっ? やだっ、もうっ、何言ってるの、あなたったらっ!」

 わざとらしい?抗議の言葉もまったく無視して、進は雪を抱き上げたまま、再び寝室に逆戻りした。

 (2)

 進はベッドまでやってきて、そこに雪を無造作に下ろすと、その上から覆いかぶさった。
 そしてまずは、ついばむように妻の唇にちょんとキスをして、そのまま首筋へと唇を這わせた。

 「10年も前と同じようになんて……無理よ……」

 雪が何と言おうとも、進の動きは止まらない。
 そうあの頃もそうだったわ……と雪は若い日を思い出す。どんなにやめて、と言っても彼はやめなかった。なぜなら言葉とは裏腹に、心の中の私がそれを望んでいたから、そうやって熱い時を幾晩も幾朝も過ごしたのだから……

 「あっ、や……んっ、だ・めぇ……」

 唇に続いて手も動き始めた夫の激しい愛撫に反応しながらも、雪が無駄な抵抗を試みる。いわば恒例行事のようなものなのだ。そんな彼女の言葉で彼の動きが止まることは決してないのだ。

 が……その時、意外にも進の動きが止まった。そして、妻から体を離すと両腕で自分の体を支えて上から雪を見下ろした。少し驚いたような顔で見上げる雪を見て、勝ち誇ったように口元だけをゆがめて笑った。

 「本当にやめて欲しいのか?」

 じっと自分を見つめるその熱くて優しくてちょっとばかり意地悪な視線が、雪の心と体を一気に燃え上がらせた。
 確かにあの頃とは違う。そのまま自分を制御することできずに、雪の体にむしゃぶりついていた若さとエネルギーの塊だった彼も、今は情事の駆け引きもうまくなった。
 雪は体がカーッと熱くなっていくのを感じる。そして、あのまま続けられたよりもずっと激しく夫を求めている自分がいることを知った。
 雪は夫の首に両の腕を巻きつけ、彼の体をぐいっと抱き下ろして耳元で囁いた。

 「だめ……やめちゃ……いやよ……」

 進の体がブルッと小刻みに揺れる。それでも一気に覆いかぶさってはこない。さっきのお返しをするように、妻の白くて小さな耳たぶを軽く噛んでから、耳の奥に息を吹き込むようにこうつぶやいた。

 「どうして欲しいのか、言ってみろよ」

 「んふん…… もっといっぱい愛して……抱きしめて、それからもっといっぱい……して……」

 雪の口から燃えるような言葉が溢れ出す。

 「ああ……」

 それから後は、もう「考える」必要はない。最高に高ぶった心と体の要求するがままにただ動くだけだ。互いの肌の熱さと激しさと愛しさだけを感じるだけ……

 この一瞬だけは、年のことも、子供達のことも……そして、心惑わせる女性の存在も、すべて二人の脳裏からきれいに消えてしまった。
 そんな素晴らしい瞬間(とき)が、故郷を離れた異星の片隅で過ぎていった。

 (3)

 それからしばらくして、進は始めた時と同じように事の終わりを告げるキスを一つしてから、裸のままベッドの上で大の字になった。

 「ふあ〜〜〜 効いたなぁ〜 昨日の晩から何回目だ?」

 隣に横になる妻の綺麗な肢体をなぞるように見ながら、進は大きなあくびをした。

 「もうっそんなこと、知るわけないでしょうっ……」

 雪はまだ強く余韻の残る体を、夫に摺り寄せた。

 「だから言ったでしょう、10年前と同じようにしようなんて思うから」

 おかしそうにだが甘い声でそっと囁く。が、さすがに今回はその言葉通りらしく、進はそれ以上反論しなかった、というよりする気力と体力がなかったようだ。

 「ああ、わかった、わかった。確かに降参だ。眠い……ふぁ〜〜〜〜」

 再び大あくびをする夫を見て、雪はくすくす笑いながら体を起こした。

 「どうぞごゆっくりお休みになって、ふふふ……」

 笑いながらベッドサイドから足を下ろした妻の背中を、進は片目をあけて見た。

 「ああ、そうするよ。今晩に備えてエネルギー補給しなくちゃな」

 「えっ?やだっ、まだする気!?」

 雪が驚いて振り返ると、進はまたあくびをしながらも、その貪欲な欲求を口にする。

 「だって、今夜が最後だぞ。明日からまた君はいなくなるんだから。たっぷり…… ああ、けどその前に昼寝だな。ダメだ、眠い……」

 眠くて半分うつろになりながらそんなことを言っている夫がおかしくて、でもとても嬉しくて、雪はまたくすくすと笑い出した。

 「じゃあ、おやすみなさい」

 そう答えて立ち上がった雪に、すでに目を閉じてしまった進が気配だけで感じて尋ねた。

 「あれ、雪も一緒に寝ないのか?」

 「ええ、私、ちょっとお買い物に行ってこようと思って。今晩は最後だからご馳走作りたいし」

 「ああ、いいよ。けど……君は元気だなぁ〜 ふあ〜〜〜」

 「うふふ、あなたに鍛えられましたからっ!」

 そう答える雪の前には、すでにスースーと寝息を立て始めた夫がいるだけだった。雪は愛しいその体にそっとブランケットを掛けなおすと、夫に背を向けて大きくあくびをした。

 (ふぁ〜 彼じゃないけど、さすがにちょっと疲れたわね。でも……)

 今の雪には、夫との激しい時を終えてそのまま満ち足りて一緒に眠ることが出来なかった。これほどまでに愛されていても、いや、愛されれば愛されるほど不安が膨らんでしまうのは、なぜなんだろうか。

 夫に愛されれば愛されるほど、昔の情熱を思い出せば出すほど、夫が今も逞しく強くそして力溢れる男であることを痛感してしまう。それはもちろん、他の女性から見てもそう感じられるはずだ。
 その上、彼はもうあの頃のただまっすぐなだけの青年――少年と言ってもよかったかもしれない――ではない。女性に対してどれだけ鈍感だと言ってみても――現実問題そうではあるのだが――少なくとも、雪をじらし魅了し悦ばせるだけの余裕と力量を持つようになったことは、事実である。

 その余裕が、雪をこれだけ愛してさえもまだ余っていたとしたら……彼は他の女性を受け入れることが出来るかもしれないと思えてくる。
 否が応でも思い出してしまうラランドの可憐な花の存在が、今の雪を安らかな眠りへと誘(いざな)ってはくれないのだ。

 (4)

 雪は、夫に話した通り歩いて数分のこの基地に唯一のスーパーに向かうべく、身支度を整えて家を出た。

 夫との熱い交歓の時を過ごし、体は十二分に満足しているのに、心の中には再びあの不安が甦ってきてしまった。
 あれだけ自分を愛してくれている夫を疑うこと自体、申し訳ないことだと思う反面、その力強い愛情が不安の元になる。
 そして、明日からはもう自分はここにはいないんだ、という事実に恐れおののく。自分のいないこの遠き星で、夫と彼女の間に、何か起こるかもしれないという不安がどうしても捨てきれない。

 昨日のボランティア活動の間中、雪はずっと彼女のことが気にかかっていた。進は前の晩のこともあって、ナギサをほとんど無視していた。そしてそんな自分たちの姿を、彼女がひどく気にして見ていることを、雪ははっきりと感じていた。
 さらに夕方、調子が悪いからと先に帰ったことも気にかかる。

 (あれは、調子が悪かったんじゃなくって、私達を見てるのが辛かったんじゃないのかしら? 私にずっとかかりきりになる進さんを見ているのが嫌だったんじゃ?……)

 考え過ぎかもしれないと思いながらも、どうしても拭い去れない思い。こんな気持ちのまま地球に帰って、あと半年一人で夫の帰りを静かに待っていられるかどうか、自信が持てない。

 (あの娘(こ)は、これからあの人との関係をどうしたいと思っているの!? 料理を作って渡す以上のことをしようとしているの? あの人に妻や子供のいることを、彼女はどう思ってるの? 彼女の真意が知りたい)

 たった3日間の付き合いではあったが、ナギサという女性の人となりについては、雪は客観的には非常に高く評価している。仕事の面でも、人間としても、誠実でまっすぐな女性だと思った。
 だが同時に彼女は、上司としてではなく、古代進という「男」に心惹かれている。そしてそのことを彼は薄々感じ始めている……

 (あの人が彼女にその思いを伝えられたら、彼はなんて答えるのかしら……)

 今まで進にそんな告白をした女性がいなかったわけではない。雪がいると知りつつもアプローチしてくる女性もいた。若い頃はヤキモチなんてものも妬いたこともある。
 だが、今までの進はまったくそんなものには取り合わなかった。目もくれなかった。

 (だけど……彼女は何か違う気がする……)

 ナギサの過去を話してくれた時の進が見せたあの優しいまなざしが、雪の目には今も焼きついて離れない。

 (彼女に正してみて、それでどうするつもり? 誰を思うかなんて、そんなの彼女の自由だって言われたら? ううん、違う、ただ……ただもう少し彼女といろんな話をしてみたいだけ……)

 自分に自分で言い訳をしながら、雪はこれから彼女の部屋に行ってみようかなどと、ふと思った。

 (でも……やっぱり、なんだかそういうのって嫌だわ。まるで浮気相手の家に乗り込むみたい…… そんな大げさなことしたくない。だけど……)

 定まらぬ気持ちを抱きながら、雪は歩き続けた。

 (5)

 どうしたものかと迷いながら歩いていた雪がスーパーの前まで来た時、計ったように当のナギサが店から出てきたところだった。買い物帰りらしく、その手には小さな袋を提げている。

 (ナギサさん……!)

 ナギサもはっとして雪を見た。二人の視線が絡み合い同時に歩みが止まった。会ってもう一度話してみたいと思っていた人が目の前に現れた雪。もう2度と会うこともないと思っていた人が目の前に現れたナギサ。それぞれの思いに、それぞれが動揺した。
 が……先に我に帰ったのは、雪の方だった。

 「あ、こんにちは……ナギサさん」

 「あっ、こ、こんにちは」

 笑顔で挨拶をした雪の言葉に、ナギサもあわてて頭を下げた。雪も必死に平静を取り繕いながら、次の言葉を探した。

 「お体の方はどう?」

 「すみません、ご心配おかけして…… ちょっと頭が痛かっただけですから。昨日ゆっくり休んだら、もうすっかりよくなりました」

 恥ずかしそうにうつむき加減に答えるナギサに、雪は優しく話を続ける。

 「そう、よかったわ」

 「ありがとうございます。それじゃあ…… あの……お気をつけてお帰りください」

 ナギサの態度はひどくそわそわしていた。見るからに雪と話し続けるのを避けている。突然出会ってしまって動揺したのか、この数日間隠してきたはずの雪への複雑な思いを隠す余裕が、今の彼女にはなかった。

 もう一度ペコリと頭を下げると、足早に立ち去ろうとするナギサに、雪はとうとう意を決した。

 「ナギサさんっ」

 「えっ、はい?」

 (6)

 雪が声をかけたのは、ナギサが自分とすれ違った直後だった。その言葉に弾かれたように、ナギサは振り返った。
 そのナギサの顔を静かに見つめながら、雪はゆっくりと伝えたい言葉を口にした。

 「私……あなたともう少しお話をしてみたって思っていたのよ。もしよかったら、これからお時間いただけないかしら?」

 その言葉に、ナギサの大きな瞳がひときわ大きく見開かれた。それから少しばかり怪訝そうな表情に変わり、次には雪の視線に気圧されるように、視点が定まらなくなっていって、最後には深刻な表情でうつむいてしまった。

 「…………」

 無言で答えないナギサに、雪が再び短く問うた。

 「だめかしら?」

 尋ねる雪も、実は心臓が飛び出そうなほどドキドキしていた。ナギサが二人の会話を嫌っていると言う事実自体、夫とのなんらかの関係を示しているようで苦しいほどに恐い。それでも聞かずにはいられない気持ちが大きく、不安とともに心の中で交錯する。
 だが口にした以上、もう引くに引けない雪でもあった。

 一方、ナギサもそれが顔に出ている通り、ひどく動揺していた。仕事中はなんとか繕っていた密かな思いを、昨日の一件ではすっかり露呈させてしまった。それは権藤に気づかれたことで自分でもよくわかっている。雪にも何らかのシグナルを感じさせてしまった可能性が高いと思う。
 それに、もしや……とは思うのだが、進に何度か作って渡した料理のことが、何らかの形でその妻の知ることになったのではないかと思うと、不安はさらに高まる。

 (古代さんのことを私に正しに来たの……?)

 昨夜もあまり眠れなかったナギサだったが、今朝になってからは、まもなく地球へ帰る身の進の妻とは、もう二度と会うこともないだろうというその一点だけで、不安に揺れる心を落ち着かせていたのだ。

 もちろん、彼の妻から責められることなど何もしていないとは思っている。彼に料理をあげたのだって、自分のために味見をしてもらい、尚且つ、故郷の味を恋しがる上司へのちょっとした心遣いでしかなかったのだから――と本人は思おうとしているし、進にもそう告げた。

 それに彼を思う気持ちは、これからもそっと心の奥に秘めておくつもりだし、ましてや目の前のこの美しい人を出し抜いてまで、進を奪おうなどという大それた気持ちなどありはしない。
 それでも……妻ある人を愛したということだけでも、その妻の前に立てば、何か罪深いことをしているような気にもなってしまう。いや、実際罪なことなのかもしれない。

 そんな困惑がナギサの脳裏を次々と駆け巡っていたが、自分を見つめる雪の優しくありながらもどこか鋭さを秘めた視線に、逃げることを許さないという断固たるものを感じていた。

 ナギサは、ふっと小さくため息をついてから、こわばる顔を笑顔に戻せないまま答えた。

 「……いえ、じゃあ近くですから、うちへどうぞ」

 「ありがとう……」

 雪はほっとしたようににこりと微笑むと、「こちらです」と小さな声で促すナギサについて歩き始めた。

 ナギサの自宅までの短い帰路は、差しさわりのない会話が続いた。そしてほどなく目的の部屋の前に二人は立っていた。

 「ここです。ちらかってますけど、どうぞお入りください……」

 そう言って先に入ったナギサに続いて、雪は部屋に一歩足を踏み入れた。

 (7)

 雪が玄関を上がると、ナギサは買ってきた荷物をキッチンのテーブルに置いて振り返った。

 「あ、森さん、いえ、古代さん……」

 慌てて言い換えるナギサに、雪が苦笑する。

 「ごめんなさい。言いにくいわね、プライベートでは森は使ってないのよ。古代って言うのもややこしいでしょう? 名前で呼んでもらったほうがいいかしら?」

 「あ、はい、雪……さん、どうぞそちらのソファにおかけください」

 「ありがとう……」

 ナギサに勧められたソファに越しかげながら、雪はさりげなく部屋の中を見渡した。
 きちんと整頓された部屋は、シンプルなものの、何かしら女らしい優しさと暖かさを感じさせる。ナギサの清廉な性格を表しているような部屋だった。
 雪は、気詰まりなことを話に来た割には、そんな居心地の悪さを感じさせない親しみ易さがあった。
 シンプルな整頓された部屋の雰囲気が、どこかしら雪が昔一人暮らしをしていた部屋と似ていたからかもしれない。

 とはいえ、敵地に乗り込んだ――と言うと大げさ過ぎるのだが――気分の雪にとって、落ち着くというには程遠い心境ではあった。
 どんな会話から、核心の質問に持っていこうか…… 頭の中で色々なシチュエーションを思い描いてみる。あくまでも自然に唐突でない形で、素直な彼女の気持ちを知りたい。雪はそう思っていた。

 一方、ナギサはナギサで、雪の真意が見えない間は、気が抜けない気持ちで一杯だった。用心深く会話に答えなければと、心の中で構えていた。

 無言の二人の心の内では、それぞれの様々な思いが今駆け巡っている。

 雪がソファに座って待っていると、買ってきた荷物を片付けたナギサのカチャカチャと食器を取り出している音が聞こえてきた。

 「すみません、お待たせして。今、何か飲み物を入れますから」

 「あっ、いいのよ、気を使わないで……」

 腰を浮かせ気味にキッチンを覗きながら雪が答えると、ナギサが小さな缶を手にして、雪のほうを見た。

 「あの……コーヒーと紅茶どちらがよろしいでしょう?」

 「 ええ……じゃあ、コーヒーをお願いするわ」

 「えっ?」

 雪の答えに、ナギサなちょっと意外そうな顔をした。手にしているのは、紅茶の缶のようだった。

 「あら…… もしナギサさんが飲まれるのなら、紅茶でもいいわよ」

 慌てて雪がそう付け足すと、ナギサは弾かれたようにびくんとして、言い訳のように言った。

 「あ、こだ……いえ、副司令はいつも紅茶を飲まれてるので……雪さんもそうなのかと」

 夫の呼び方を言いよどむナギサに、雪は苦笑いを浮かべた。

 「古代でいいわよ、プライベートなんだから。副司令なんて言ったら仰々しいわ」

 「あ、すみません」

 「緊張しないでね、ちょっとおしゃべりしたかっただけなんだから、私……」

 「はい……」

 と答えながら、本当にそれだけなんですか?と聞きたくなる気持ちが、ナギサの胸に沸き上がってくる。そんな何か問いたそうなナギサの表情を無視するように、雪はあっさりと答えた。

 「ふふふ……そうね、彼は紅茶派だから。私はどちらかと言うとコーヒーかしら?」

 しかし、雪の心の中は微妙に揺れ動いていた。
 進が紅茶を好むということは、司令室で毎日一緒に仕事をしているナギサが知っているのは当然だろう。そんなことは、何ら不思議はない。
 だが、ナギサがそれを口にしたことだけで、何がしか心にひっかかってしまう。意識しすぎだと言われてしまえばそうかもしれないが、それが女心というものなのだろうか。

 「ナギサさんも、紅茶がお好きなの?」

 ナギサには、その雪の言葉がまるで、進が好きだから紅茶が好きなんでしょう?と言っているようにさえ聞こえた。
 しかし、雪の口調はあくまでも礼儀正しく柔らかだ。考え過ぎかもしれない。だがそれでも、ナギサの心には一言一言がずきりと響いた。じっと見つめられると、何か落ち着かなくなる。

 「私は……あの……どちらでも」

 頬が少し熱くなるのを感じながら、ナギサは当たり障りのない答えを選び、雪の視線から逃れるべく顔を逸らした。

 「コーヒーすぐ入れますから、ちょっと待っててください」

 それだけを告げると、ナギサは雪に背を向け飲み物作りに没頭した。
 結局、雪はそれ以上何も言わなかった。ただ、作業を続けるその後姿をじっと見つめていた。

 (8)

 しばらくして二人分のコーヒーをトレイに乗せて持ってきたナギサは、一つを雪の前に静かにおいて、自分もその向かいに座った。

 「お待たせしました。どうぞ……」

 「ありがとう……」

 短い言葉の応酬の後、しばしの沈黙が流れる。二人して入れたコーヒーを黙ってすする。雪がちらりと視線を送ると、ナギサは何か考えるように、うつむき加減にコーヒーカップの中を見つめている。

 「あの人、やっぱり司令室でも紅茶なの?」

 コーヒーを一口二口飲んだところで、まず口を開いたのは雪だった。やはり話題はどうしても彼のことになってしまう。が、とりあえずは支障のないごく普通の質問に、ナギサも顔を上げて穏やかに微笑んだ。

 「はい、来客の時はお客様に合わせてコーヒーを飲まれますけど、自分で飲まれる時はいつも紅茶ですね。それも自分で作られるので、私は助かってますけど……」

 司令室で仕事をしている時、時間に余裕のある時には、やけに熱心に紅茶をいれる進の姿が、ナギサの目の奥に思い浮かんだ。
 それと同じことを雪も心の中で夢想していた。

 「ふふふ、あの人、紅茶のことになるとうるさいのよね。家でも紅茶をいれるのは大抵は彼の仕事だから」

 「ご自宅でもそうなんですか……」

 「ええ……だからほぉっておけばいいのよ。本人が喜んでやってるんですもの」

 「うふふ……」

 おどけた口調で雪がそう言ったのを聞いて、ナギサの口元に笑みが漏れた。今日、雪と出会ってから初めて見せた笑顔だ。
 雪もその笑顔にちょっと答えて微笑を浮かべてから、そしてまたすぐに真顔に戻ってしまった。

 進に関する話題を、嬉しそうに聞くナギサの姿が、いじらしくも辛くも感じられる。
 同じように、ナギサも困惑気味だ。雪がいったい何を言いたくてここまで来たのか…… ただ夫の司令部での様子を聞きたかったのか、それとも……?
 その答えを探りたいような、このまま帰って欲しいような複雑な心境だった。

 互いの心境を探るように、二人はちらりと相手を視界に入れつつ、またコーヒーカップを握った。

 (9)

 一口それぞれに飲んで、また沈黙する。その沈黙に耐えかねたのか、今度はナギサが先に口を開いた。

 「雪さん、よろしいんですか?」

 「え?なにが?」

 「せっかく久々にお会いになれたのに……古代さんを、お一人にして……」

 ナギサのその言葉は文字通りの意味と同時に、いったいわざわざここまで何をしに来たの?と言う言外の意味も含まれていた。

 「あ、ああ…… 主人ねぇ、今お昼寝中なの」

 ナギサの言外の問いに気付いたのか気付かないのか、雪はのんきな顔でそう答えた。

 「お昼寝? 古代さんが? まあ、それじゃあ、昨日そんなに遅くまで飲まれてたんですか?」

 昼寝と言う言葉がおかしかったのか、ナギサは頬を緩めて目をぱちくりさせた。昨日、グリーンサークルのメンバー達と盛り上がって飲みすぎたと思ったらしい。

 「え?ええ……まあね」

 雪は苦笑しながら答えた。心の中で少々意地悪いことを思う。

 (もしここで、それは違うわ、私と熱い夜を過ごしたからよ、そう、朝からもほんのさっきまで愛し合ってたのよ……なんて答えたら、彼女はどんな顔をするのかしら?)

 だがそんなこと言えるはずがない。それじゃあ、まるで自分が夫に関して格段に優位に立っていることを、ことさら誇張したがっているようだ。嫌味以外の何物でもない。

 「それでそのうちにお買い物でもしようと思って出てきたの。今晩で最後だし、晩御飯は少しはまともなもの食べさせてあげなくちゃと思ってね」

 「そうですね……」

 ナギサがあいまいに微笑んだ。

 (わからない…… 雪さん、何を話にここまで来たの? ほんとに雑談するためだけに……?)

 だが、雪はさっきはっきりと話したいことがあると言った。なのに口から出てくるのは、とりとめもない話ばかり。
 ナギサは、雪の真意をはっきりと問いただしたくてたまらなくなっていた。しかし、雪がゆっくりとその求める問いに近づきつつあることを、ナギサはまだ知らなかった。

 「こっちではあまり日本のもの食べられないんですってね。食堂で和食も出して欲しいって要望を貰ったわ」

 「そう……なんですか」

 『和食』という言葉に、ナギサの心臓がドキリと大きな鼓動を打った。突然、ナギサの心の中の緊迫感が増した。

 (やっぱり……あのことを!? 古代さんにお料理を上げたことを知ってる……!?)

 (10)

 雪もナギサが、『和食』という言葉に反応して、その表情に微妙な変化が見えたことに気が付いた。だが、そんなことにまったく気付いていないかのように、明るい口調でこう続けた。

 「ナギサさんにも何回かご馳走になったんですってね。主人、とっても喜んでたわ」

 「えっ!? あ…… あれは……」

 ナギサの瞳が揺れる。動揺すればするほど、ありもしない疑いをかけられるかもしれないと思いながらも、冷静にはなれなかった。ありもしない……? いや、なにもなかったわけではない。心の奥底にあった進への思慕があの行為へとナギサを動かしたのだ。
 それでも、その動揺を隠そうと、ナギサは必死の思いで雪を見返した。

 しかし意外にも、雪は全くナギサを責めるような表情はせず、こう言ったのだ。

 「ええ、主人から聞いたわ。味見役をさせていただいたんですってね。でもとっても役得だったって言ってたわ。ナギサさん、日本料理もお上手なのね」

 何か肩透かしを食ったような気持ちながらも、ある意味ほっとしながらナギサが答える。

 「えっ? いえ……そんなこと……ありません。母が作っていたのを見よう見まねで…… 我流です。あの……私の方こそ、アドバイスいただいて助かったんです」

 すると雪はさらに柔らかな笑みを浮かべた。

 「主人の実家もあなたのお父様のご実家近くだから、好みの味も似てるかもしれないわね。地球に帰って、日本のおじい様おばあ様に作って差し上げたら、きっと喜ばれるでしょうね」

 「え? ご存知なんですか? 私の父のこと…… あ、古代さんからお聞きになったんですね」

 父親の出自については、ナギサは誰にも話していない。だが調べてきたのは進である。妻である雪が夫から聞いても不思議はないのだが、自分の秘密を探られたようで、どこかで不快な思いが湧き上がってくるのを抑えられなかった。

 眉をしかめたナギサを見て、雪は困った顔で慌てて謝った。

 「あ……ごめんなさい、あなたのプライベートだったわね」

 「いえ、いいんです。古代さんと南部艦長には、その件ではとてもお世話になりましたから……」

 雪の心の中でひらめくものがあった。ナギサのその言葉で、やっと今回の目的の会話に持っていける気がしたのだ。

 (いよいよ……だわ。ナギサさんの気持ちを聞かなくちゃ……)

 雪の心の中には、求めた答えへの流れが出来上がりつつあった。

 (11)

 雪は笑みを絶やさぬまま、話を続けた。

 「あの人……おせっかいでしょ? いっつもそうなの。自分の周りの人が問題を抱えているとじっとしてられなくって…… でも、気持ちはわかるけど、人にはそれぞれ事情もあるでしょうにね。ナギサさんもご迷惑だったでしょう?」

 その声は優しくナギサを気遣っているように聞こえた。いや、実際その件については、雪としても同情すべきことだとは思っている。ナギサもその言葉には恐縮するしかなかった。

 「いえ、そんな…… 父のことでは私が頑なになりすぎてたんです。それを古代さんが心配してくださって…… 迷惑だなんてとんでもないです。本当にありがたかったんです」

 ナギサのこの言葉も偽りのない本心である。自分があれほど頑なにならなければ、進もあそこまでお節介を焼かなかったかもしれない。だがその代わり、自分は今もまだ父を憎み続けていただろう。そう思うと、進には感謝jの気持ちのほうがずっと大きい。
 けれども、今現在、感謝という言葉だけですまなくなってしまった自分の思いを、もてあまし気味なのも事実だった。

 「そう……そう言っていただけると嬉しいわ」

 雪が嬉しそうにさらに笑みを浮かべた。ナギサもつられて軽く笑みを浮かべる。すると、雪はまた、何か思い出したかのように、ふふっと小さく声を出して笑った。

 「それに最初ね、主人、あなたに嫌われてるってずっと心配してたのよ」

 いたずらっぽい笑みを向けられ、ナギサは恥ずかしそうに微笑んだ。

 「え? あ、ああ……」

 ナギサは、初めて会った頃のことを思い出した。ただエリートでハンサムだと言うだけで憎みさえしていたあの頃…… 今では遠い昔のことのように思える。

 「ふふふ…… 星間通信で自宅(うち)に電話してきた時もね、困った困ったって」

 「本当にすみません…… 私が古代さんのことを誤解していたんです。でも今はそんなことありませんから」

 冗談めかして微笑む雪に、ナギサは苦笑まじりに謝りながら、心の中でほっとしている自分に気付いた。

 (雪さん、それを心配していたの? 私とうまくやっていないんじゃないかって? 私が心配してたことと逆のことを?)

 しかし、雪はナギサの心の中の疑問が違っていることを次の言葉で示した。

 「ええ、そうみたいね。彼もね、そのうち言わなくなったわ」

 ナギサがはっとして顔を上げた。すると、そこには笑いを収め、まっすぐ真剣なまなざしで自分を見つめる雪の姿があった。ナギサは自分の顔も強張っていくのを感じた。

 雪も、不安と安堵を繰り返しているような、ナギサの表情の変化を見ていると、心に不安な気持ちが湧き上がってくる。なにか、自分がとてもいけないことをしようとしているような気がしてきた。

 そんな心の葛藤を隠すため、雪は一旦視線を下にやると再びカップを手に持った。そして、ゆっくりとコーヒーを口に含んだ。コーヒーはもう、少し冷めかけていた。

 しかしナギサには、雪の動揺を隠すための仕草が、かえって余裕のある動きに見えた。とてもくつろいでいるような……

 もちろん、雪にとってポーカーフェイスを作ることはそれほど難しいことではない。司令長官の秘書として、何年にも渡って様々な修羅場を涼しい顔で見続けてきたのだ。その点では、若いナギサとの経験の差は歴然としていよう。

 ぬるくなった残りのコーヒーを一気に飲み干した雪は、その不安を一掃するように心を決めた。

 (でもこのままじゃだめなのよ。このまま地球に帰ってしまったら絶対に後悔する…… だから…… だから確かめたいの。ナギサさんの気持ちを…… そして……)

 「今は、あの人のこと……」

 雪は心臓が激しく鼓動するのを隠して、笑顔を作ろうと目を細めた。唇が微妙に震えそうになるのを押さえながら、また、できるだけゆっくりとそして柔らかな口調で言おうと懸命に努力しながら、言葉をひとつひとつ口から押し出すように紡いでいった。

 「……好き?」

 極力刺激しないように努めた雪の真綿に包んだように柔らかな声も、その言葉の示す意味によって、ナギサの心臓にまっすぐにズキリと刺さった。

 (12)

 「えっ!?……」

 ナギサ絶句した。瞳がさらにこれ以上ないほど大きく開き、口を僅かに開けたまま一瞬硬直した。
 ある程度予測していたとはいえ、実際そのことを尋ねられてみると、どうしようもないほどうろたえてしまう。

 (なんて答えればいいの……!?)

 混乱する頭で必死に考えてもすぐには浮かばない。自分を見つめる視線に耐えられず、雪から目を逸らした。

 「あの……上司として……とても信頼できる立派な方だと思っています」

 言い繕いにしか聞こえないだろうわざとらしい答えを口にしながらも、ナギサは自分の声が、動揺で震えてしまうのをどうしても抑えられなかった。
 顔をそむけたまま視線だけちらりと前を伺うと、雪は微笑んでさえいるようにも見えた。けれどそれは、ナギサの答えをそのまま受け取った笑みではないことだけは確かだ。

 「ふふ…… そういうことじゃないわ」

 首を軽く左右に振りながらそう答える雪の声は、その表情と同じくあくまでも静かで穏やかだったが、目は笑っていない。

 ナギサは、袋小路に追い詰められたような気分だった。どれほど冷静に優しく尋ねられたとしても、それはナギサにとっては、鋭いナイフを目の前に突きつけられたのと同じだ。とても痛い。

 恐る恐る視線を上げて雪の顔を見つめる。そこには、夫の愛に守られた妻のゆるぎない自信が見えた。

 (もう、言い逃れなんて出来ない……)

 逃げ場がなくなったナギサはそんな思いに気がつくと、とたんにストンと音がするほど気持ちが鎮まっていくのを感じた。少なくとも、雪は感情を前面に出して自分を責めようとしているようには見えない。彼女はただ真実を知りたいだけではないのか、という気もしてくる。

 もちろん、それを知った後の雪が、どんな反応を示すのかはわからないが、その後のことは、話の成り行きに任せるしかないと思う。ナギサは自分が雪を決して嫌ってはいないということを自覚しているし、不思議なことに、雪も自分のことを恨んでいるようには思えなかった。

 (それなら……今の気持ちを隠すことなく素直に話してしまおう。どちらにしても隠し通せるはずもないもの……)

 3日間一緒に仕事をして、雪の優秀さも洞察力の鋭さも十分認識した。若い自分がこの女性を相手に、丁々発止で渡り合えるはずもないのだと……
 それでもすぐに、その言葉を発するのは、ナギサにも相当の勇気のいることだった。
 二人の間に永遠ともいえるほどの長い沈黙が流れた。いや、実際はほんの数秒のことだったかもしれない。

 やっと開き直りとも言える境地に達したナギサは、一旦目を閉じてから開き、再び雪を見つめた。

 「好きです……」

 (13)

 「そう……」

 雪がふうっと小さくため息をついた。ナギサのストレートな答えにショックを受けながらも、不思議なことにそれほど腹が立たないことは、さらに驚くべきことだった。自分の夫を好きだと告白されたのに、である。その潔い告白に好感すら感じるほどだった。ただ、無性に悲しかった。

 (思ったとおり……だったってわけよね。ここでもっと追求すべきなのに、私ったらどうしたっていうの……?)

 一方のナギサは、その表情からだけではまだ雪の心境を計り知ることは出来なかった。それでも、彼女が静かにその事実を受け止めたことだけはわかった。
 だからナギサも、自分がそれ以上何も望んでいないことだけは伝えたかった。

 「でも、私の片思いなんです。私が勝手に思っているだけで、古代さんは全然ご存じないことです。だから……」

 不倫とか、そういうんじゃないんです。ナギサはそう続けたかったのだが、『不倫』という言葉を出すことすらも、いけないことのように思えて、続きを言うことができなかった。自分の気持ちは、もっとピュアなものだと思うから。
 ナギサの瞳が、うっすらと涙で潤み始めた。

 「こんなことを奥様に申し上げていいのかわかりませんけど……」

 と躊躇しながらも、ナギサは今の思いを口にすることにした。自分の気持ちをわかってもらいたいと思った。

 「ただ……そばにいて姿を見ているだけで、幸せな気持ちになれるんです。それだけなんです……」

 その必死な姿を見ながら、雪は悲しそうに微笑んだ。

 (かわいらしい人…… あんなに一生懸命になって…… やっぱりだめ。私は彼女を責めたり憎んだりする気にはなれない……)

 「ええ、わかってるわ。ごめんなさい。私、別に今日はあなたを責めに来たわけじゃないのよ。ただ、ここ数日のあなたを見てて、ちょっとあなたのあの人への気持ちが気になってしまって…… このまま地球に帰る気になれなくて……」

 ナギサは、雪の瞳がさっきと少し変わって穏やかになったような気がした。その言葉の通り、雪が自分と進の関係を、深い仲だと疑っているわけではなさそうだと感じる。逆に、この美しい人をこんな風に悲しませた自分の気持ちは、やはり罪なのかもしれないとも思う。

 「すみません……」

 小さな声で謝るナギサに、今度は雪が胸を痛めた。

 (この娘(こ)本当に彼のこと好きなんだわ…… 決して何かの見返りを欲しいわけじゃなくって……)

 雪はずっと昔、自分が進を愛し始めたときのことを思い出していた。ただただ、彼の姿を見ていたかったあの頃。そばにいられるだけで幸せだった。彼が存在していることがなによりも大切だった。
 だから……ある意味では、ナギサの気持ちは、おそらくこの世界中の誰よりも自分が一番よくわかっているのかもしれない。

 そして雪は、もう少し彼女の思いのほどを確かめてみたくなった。

 「ねぇ、あの人のどこが好き?」

 (14)

 「は?」

 雪の意外な質問に驚いたナギサは、間の抜けたような声を出してしまった。本気でそんなことを聞いているのだろうかと、その顔を見たが、当の雪はいたってまじめな顔をしている。

 「あの……そういうことは……」

 すぐにどう答えていいかわからなかったし、第一彼の妻にそんなこと言えるわけがない。答えをごまかそうと、ナギサが口を開いたのと同時に、雪も話し始めた。

 「外見かしら?」

 「え?」

 「私が言うのもなんだけど、彼それなりにハンサムでしょう? 背は高い方じゃないけど、スタイルもまあまあだし、年の割には若く見えるわ」

 そう話すと、雪はにこりと笑った。その笑顔はナギサをひどく不快にした。とたんに、いつもの強気なナギサが頭をもたげ始める。

 (一体どういうつもりなの!? この女(ひと)は……)

 ナギサとしては、古代進という人物を愛したことについて、妻である雪には多少なりとも負い目を感じていた。だからこそ、今まで遠慮がちに話していたのだ。
 それなのに、それに乗じるようにするあきれた質問と、妻の地位を匂わせるような自信に満ちた笑顔が、急に鼻についてしまった。

 「人を外見で判断するつもりはありません!」

 声を荒げピシャリと言い放つナギサの発言を受けても、雪まったくは臆することなく平然として次の質問をした。

 「それじゃあ、彼が防衛軍のエリートだからかしら? あの年で副司令なんてラランドでも初めてでしょう? そういうのが魅力だった?」

 その質問は、さらにナギサの心を逆なでした。ある意味挑発とも思えるその言動が、ナギサが今抱いていた進の妻、雪への遠慮心を、一気に払い去ってしまった。そっちがその気ならと、ナギサはさらに声高に鋭い口調で答えた。

 「エリートなんて嫌いです! 私はそんなことで古代さんのこと好きになったりしませんっ!」

 ナギサは正面から雪を睨んだ。そして、自分でも強すぎたかと思うほどの語気に対して、当然相手の反撃が来るものと身構えたが、雪の反応はまたもや意外なものだった。

 雪の表情は、さっきの笑顔よりもさらに柔和になっていたのだ。まるでナギサがそう答えるのを見越していたかのように、穏やかで、ただ少しばかり悲しげな視線に思えた。

 「そう……そうよね」

 その口調の柔らかさと悲しげな瞳に、ナギサは再び毒気を抜かれたような気分になった。
 ナギサは、さっきから雪の一言一動に怒ってみたり和んでみたりを繰り返している。なのに雪の方は常に冷静さを保ち続けている。

 そして同時にナギサは、この時初めて雪がわざとそんな質問をしたことに気が付いたのだ。

 (この人、わざと私を怒らせようとした? その方が本音を引き出しせると思ったから?)

 確かに、ただどこが好きかと尋ねられただけでは、おそらく答えなかっただろう。不快な質問に激昂し断固否定したことで、ナギサは自分の気持ちを話さざるをえなくなった。

 (私はこの人には……やっぱりかなわない)

 進の妻というだけでなく、人間として、女として、目の前の女性は自分より一枚も二枚も上であることを、ナギサは痛感していた。

 (15)

 ナギサは観念したようにふうっと大きく息をついて視線を落とした。視線の先には、ひざの上に置かれた雪の両手があった。表向きは冷静を保っている雪も、さすがにその手は緊張を示すかのようにぎゅっと強く握られていた。

 ナギサはもう一度大きく息を吐いてから、ぽつぽつと話し始めた。

 「確かに古代さんはハンサムだしエリートだと思います。でも私はそういう人は本当に昔から大嫌いでした。父を思い起こさせるから…… 母を裏切ったって今までは思っていた父のことを… だから最初は……古代さんもどうせ事なかれ主義の鼻持ちならない人だろうって思ってたんです。
 たぶん、古代さんが私に嫌われているみたいだって心配されていらしたのは、その頃のことだと思います。
 でも、しばらくして、いろいろあって、古代さんはそんな人じゃないことに気が付きました。古代さんは……真面目で何事も一生懸命で、曲がったことの嫌いなまっすぐな人なんだって……」

 ナギサはそこまでを一気にしゃべった。最後の一言に、雪の眉がびくりと動いたが、下を向いているナギサにはわからなかった。そして小さく息を吸うと、また話し始めた。

 「それに、誰に対しても分け隔てなく優しい方でした。そういうところは全然副司令らしくなくって、時にはあきれるほど要領が悪くて……
 でも、いつも何に対しても正面から対応してらっしゃいました。人にも厳しいですけど、自分にはもっと厳しくて……
 その反面……とても子供っぽいところもあったりして…… グリーンサークルで植物を相手にしている古代さんはとても楽しそうで、ふふ……まるで大好きなおもちゃを貰った少年みたいに。
 それから、ちょっと寂しがりやのところもあって…… だから地球に置いてきた奥様とお子様のことをいつも心から思って気遣っていらっしゃいました」

 話しているうちに、その時々の進の姿が目に浮かんでくる。それがなんとも言えず切なくて悲しくて、ナギサの潤んでいた瞳から、とうとう涙がこぼれてしまった。
 少し顔を上げたナギサの瞳は涙で潤んで、向かいにいる雪の表情はよく見えなかった。それでもナギサは最後の一言を告げようと、涙声になりながら言葉を搾り出した。

 「そんな、とても家庭を大切にしてらっしゃる古代さんが……そういう古代さんだからこそ……好きになったんです。だから……」

 そこまで言ってから、ナギサは再び下を向いて瞳をぎゅっと閉じた。だからこそ、進の大切な家庭を壊すつもりなど自分には毛頭ない。
 涙がぼろぼろと頬を伝う。片手でその涙を抑えるようにふき取りながら、ゆっくりと顔を上げたナギサが目にしたのは、同じく雪の瞳からもこぼれる涙だった。

 ナギサが、さすがに本音を言い過たことで、て雪を悲しませてしまったのだと後悔したとたん、雪の口からまたもや意外な言葉がこぼれた。

 「……ありがとう」

 (16)

 「え?……」

 理解しがたいその言葉に、ナギサは怪訝な顔で雪を見た。が、雪は涙目ながら微笑んでいた。その笑みは聖母のように優しく感じられた。

 (どうして?)

 ナギサは雪の言葉もその表情も解せなかった。

 「そんな風に彼のことを好きになってくれて……ありがとう」

 雪の口元が僅かに緩む。瞳にはまだ涙が残ってはいたが、口元は確かに微笑んでいる。

 (どうして……? どうして、そんなことを?)

 唖然としたまま言葉の出ないナギサに向かって、雪は話し始めた。

 「私もね、そんな彼が好き…… 表向きはハンサムでエリートでスマートで…… 外からはいつもそんな風に見られているけど、本当は彼ほど不器用な人はいないの。
 ナギサさんの言うとおり、いつも何事にも一生懸命で全力投球だけど、決して上手には立ち回れない人。
 とても頼もしいところもある反面、時には子供みたいに甘えん坊な時もあったりして…… それが本当の彼の姿」

 ナギサには、その言葉の節々に夫への思慕と優しさの情が溢れているように思えた。心が少し痛いが、同時に同じ思いを共有している気持ちが伝わってきてどこかしら嬉しい。

 雪はさらに話を続けた。

 「本当の彼を知れば知るほど、最初に感じたスマートな印象からかけ離れていくでしょう?」

 そう言って小首を傾げた雪に、ナギサは無言のまま頷いた。その顔にも僅かに笑みが浮かんできた。

 「ナギサさんは本当の彼を知ってくれてる……だから、ありがとう」

 「雪さん……」

 「ふふふ、なんだか不思議。もしも彼がケーキみたいに二つに分けられるものなら、今すぐ半分にしてあなたにも差し上げたい気分よ。だって、私が一番大好きなものをおんなじように大好きになってくれたんですものね」

 雪がこう話したときには、二人の瞳の涙はほとんど涸れていた。そして、互いの顔を見てクスリと笑いあった。
 ナギサも冗談めかしてこう尋ねた。

 「本当に分けてくださいますか?」

 すると、雪は笑いながらも首を左右に振った。

 「うふふ、だめよ。あげないわ、誰にも……」

 ナギサはその答えに満足したように頷いた。

 「ええ、私もいりません……」

 「本当に?」

 「はい……」

 もう一度ナギサが大きく頷いた。

 「今日、雪さんとお話できてよかったです。やっぱり雪さんはとても素敵な方でした」

 雪は首を小さく左右に振った。

 「そんなことないわ…… ずうずうしくもお宅までやってきてこんなこと言い出すなんて……ごめんさない」

 「いいえ…… 私、雪さんのお気持ちもよくわかるつもりです。古代さんへの思いは、これからも誰にも言うつもりはありません。心の中でだけ……思っているつもりです。もちろん、古代さんにも何も……言ったりしません。
 私、母が妻のある人を愛したと知った時、母も父も許せないって思っていました。私は絶対にそんな恋はしないって誓ったんです。だから、決して……古代さんと雪さんの間に割り込むようなことは……
 第一、古代さんは雪さんを心から愛してらっしゃいますもの。そしてお子様方を…… ですから、どうぞ心配なさらないでください」

 「ええ、ありがとう。私もナギサさんのお気持ち、よくわかったつもりよ。私は彼のことを信じてるし、あなたのことも信じたいと思うわ」

 「雪さん……」

 「さあ、そろそろお暇(いとま)しなくちゃね。…… せっかくのお休みにごめんなさい。そろそろ主人も起きる頃だと思うし…… それじゃあ」

 立ち上がった雪がゆっくりと差し出した手を、同じく立ち上がったナギサは一瞬ためらいがちに見た。が、すぐにおずおずと手を伸ばしてそっと握った。
 そして互いの温かい手の感触を感じながら、二人はその手を離した。

 玄関口まで来た時、ナギサがが最後にこう言った。

 「お気を付けて……お元気で」

 「ええ、ありがとう…… ナギサさんもお元気で……」

 そして雪はナギサの見送る中、彼女の部屋を後にした。

 (17)

 ナギサの部屋を出た雪は、再び買い物をするためにスーパーへ向かって歩いていた。
 ナギサとゆっくり会話をすることができ、疑っていたことがはっきりしてすっきりしたはずなのに、そうはならなかった。

 (やっぱりあの娘(こ)は進さんのことが好きだった…… それもとても真摯な思いを抱いてる……)

 ナギサの本心を知りたくて家にまで押しかけ、想像していた通りの答えを得た。しかし、雪の心の中では、どこかでナギサにあくまでも否定して欲しかったのかもしれない。
 結局、彼女の気持ちを知ったことが、かえって雪の心を重くする材料になってしまったような気がする。

 (何の見返りもなく、あんな風に人を思えるなんて…… なんて純真でまっすぐな心……)

 ナギサのその思いは、ずっと昔の進を愛し始めた頃の自分の思いと重なってしまう。だからこそ、その思いの強さがよくわかる。
 だが、ナギサは進に告白するつもりのないことを明言した。進と雪の家庭に割ってはいるつもりもないことも……
 それでも雪の心はちっとも晴れてこなかった。

 (思いは口にしなくたって伝わるもの…… 現に彼女の気持ちを私は気付いていた。進さんは本当に気付いていないのかしら? 彼だって今はもう、私と出会った頃の恋なんて何も知らない鈍感なだけの人じゃないわ。
 どんなに密かに思っていたとしても、いつかナギサさんの気持ちが彼に伝わるかもしれない。その時、彼はどんな反応を示すの……?
 あんなにまっすぐに愛してくれる女性(ひと)に対して、本当に無関心でいられるのかしら?)

 考えれば考えるほど、どんどん深みにはまっていくような気さえしてくる。

 (ああ、もうやめよう…… ナギサさんはあれだけ素直に私に気持ちを話してくれた。あの人のその気持ちを私も受け止めなくちゃ。私は彼を信じてるし、ナギサさんの真面目な答えも信じていたいもの。だから、もう考えるのやめなくちゃ!)

 雪はそう思い込むことで、今の不安を一気に払拭しようとしたのだ。大きく息を吸って深呼吸するように大きく吐くと、足取りを早めて目指す店への道を急いだ。

Chapter13終了

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(背景:Atelier paprika)