ラランドの白い花

Chapter14


 (1)

 ナギサの家を出た雪は、再び複雑な思いを抱えながら歩いていた。ほどなく目指すスーパーの前に戻ってくると、その前で立ち止まって店の入り口を見つめた。

 (ふうっ…… なんだか食欲わかないわ。でも今晩ご馳走作るって言ってしまったし…… 簡単に作れるステーキでも買って帰ろうかしら)

 ナギサと夫のこと。いくら自分ひとりで気を揉んでもどうしようもないことはわかっているのに。だからもう考えないようにしようと、さっき決めたばかりなのに……
 雪の女心はその自分の意志を簡単に受け入れてはくれないらしい。

 (はぁ〜〜〜)

 雪は大きくため息をつきながら、店の中に入ろうとドアの前に立った。とその時、ドアが開いて中から一人の男性が飛び出してきた。

 「きゃっ!」

 ちょうど真正面から鉢合わせになるような形になって、雪は驚きの声を上げた。するとその頭上から進の声がした。

 「雪っ!!」

 慌てて顔を上げると、目の前には進の姿。

 「え? あら、あなた……?」

 進は息を弾ませながら、恐い顔をして雪を見下ろしている。

 「どうしたの?そんなに急いで」

 「どうしたもこうしたもないだろうっ! いったい今までどこ行ってたんだよ!? 昼寝して起きたら、君は買い物に行くって言ったきり、まだ戻ってきてないし……」

 「え?」

 進がなぜこんなに興奮しているのか理解できない雪は、きょとんとした顔で夫を見た。すると進は再び眉をしかめて雪を睨んだ。

 「なにが、え?だよ! もう4時じゃないか。こんな時間までいったいどこ行ってたんだ? あんまり帰りが遅いから、見知らぬ星でどうかなったんじゃないかって心配になって、探しに来たんだぞ。案の定、君はいない…… 何か事故にでもあったんじゃないかって、まじで焦ってたところだったんだからな!」

 「あっ……」

 雪は時間のことなどすっかり忘れていた。慌てて時計を見ると、確かに夕方の5時をさしている。雪が家を出たのは昼過ぎだったから、かれこれもう3時間以上はたっている。ナギサのところにそんなに長くいたとは思っていなかったのだが、想像以上に時間がたっていたらしい。

 確かに進の言葉は正論である。辺境の小さな基地しかない星のこと。買い物に行くと行ったきり、何時間も帰宅しなければ心配するのは当然だろう。
 だが当然とはいえ、雪は進が血相を変えて自分を探してくれていたことがとても嬉しかった。

 「ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げ素直に謝る妻に、進もやっと落ち着いて大きくふうと息を吐いた。

 「ほんとに心配したんだからな」

 「ええ……ありがとう」

 雪は、心配させたことで少々申し訳ない気持ちで気恥ずかしそうに見つめると、進は今度は穏やかな声で尋ねた。

 「それで、今までどこにいたんだ?」

 (2)

 夫の問いに、雪は一瞬沈黙してしまった。答えを素直に言うべきか、それともとぼけるべきなのか……迷った。

 「それは……」

 このまま黙っていたい気持ちも大きかった。自分が彼女の家にまで乗り込んで行ったことを、夫は不快に思うんじゃないかという不安もある。会話の内容をどう告げていいのかもまだ決めかねていた。
 だが同時に、先日の夫の嘘に腹を立てた自分の姿を思い出した。そう、あの時はどうして素直に話してくれなかったのかとひどく腹立たしかったのだ。それと同じことを自分もしたくない。雪は意を決して正直に答えた。

 「さっきまで、ナギサさんのお宅におじゃましてたの」

 「え?」

 予想外の答えに、進は絶句した。

 「だけど、どうして……?」

 進の顔には明らかに困惑が見えた。突然の妻の宣言に、進の心中にざわめきが起こったのだ。さらに、はっと気付いたように言葉を連ねた。

 「もしかして君はまだ!?」

 その声と同時に、進の顔がこわばった。
 雪はまだ自分とナギサとのことを疑っているのか? それを正すため、ナギサに何か詰め寄ったのではないか!? そう思うと、今度はナギサの気持ちになって心配してしまう。

 (俺の不注意から、関係のない彼女を傷つけてしまったんじゃないだろうか……)

 自分の責任であって、妻を責めるべきではないと自覚しつつも、妻のその行動に何かしら怒りのようなものさえ感じてしまう。
 それはなぜか? おそらく、自分でもまだ気付いていないナギサへの思いを、彼女に先に追及されてしまったかもしれないという焦りなのかもしれない。

 そんな進の顔色の変化を、雪はいち早く察知した。

 (進さん、怒ってるの!? どうして? やっぱりあなたは彼女のことが心配なの?)

 だが、こんな公衆の面前で、さっきの話を持ち出して言い争うわけにはいかない。雪は自分の感情を堪えて、逆にニコリと微笑んだ。

 「やぁね、違うわ。あなたこそ何よ、そんなに慌てて」

 雪はまっすぐに夫を見つめた。少なくとも自分は後ろめたいことなどしていないという気持ちだけにすがりながら。この問題で夫を優位に立たせるものはなにもない、と信じながら。心は震えていたとしても……

 すると、進もすぐに表情を柔らげた。

 「……いや、別に……あるわけないだろう」

 進はすぐに、ナギサに思いを馳せた自分を恥じた。自分にとっての、自分だけの大切な女は、今目の前にいる雪しかいない。それを自分は十分自覚しているのだから。
 すると、今度は自分が優位に立ったことに気付いた雪が、進をちらりと横目で見た。

 「それともまだ私に知られては困ることでもあったの?」

 「あっ、あるわけないだろう!」

 進の顔がかっと赤くなった。まさにその通り、自分のナギサへの不可思議な感情を、雪に知られてしまうのではないかと懸念していたのだ。
 しかし、雪はあえてそれ以上追及することはしなかった。というよりも、どう尋ねるべきなのかも、まだ心の中で整理がついていない。とりあえずは夫を安心させるべく言葉を選んだ。

 「うふふ、それじゃあいいじゃない? ご心配なく! ちょうどここに来た時に偶然彼女と出会ったの。それで昨日早く帰ってしまったから、お加減いかが?なんて尋ねてたら、会話が弾んじゃって…… 立ち話もなんだからってナギサさんがお家に招待してくれたのよ」

 「そうだったのか……」

 雪にはその進の顔がとても安堵しているように見えた。それはそれで少し悔しい気もするのだが、ここはぐっと堪えることにした。

 「ええ。あなたがこれからも一緒に仕事をしていく彼女ですからね、妻としてはちゃんとご挨拶しておかないとって思ってね。それに、あなたが困るようなことは何も言ってないから心配しないで」

 「し、心配なんかしてないよ」

 口を尖らすようにそう答える夫の姿が、雪にはひどくかわいらしく見える。愛しい気持ちと同時に、ちょっぴり苛めてみたい気にもなる。

 「ふふ…… わかってるわ。さ、お買い物しましょう」

 雪は夫の手を掴むと、今彼が飛び出してきたスーパーに再び入っていった。

 (3)

 結局妻とナギサとの会話の内容を、それ以上は聞きあぐねてしまった進は、戸惑いながらも妻の後ろを歩き始めた。これ以上追及することが、かえって妻の不興を買いそうで言い出せなかったのだ。
 進の様子を気にする風もなく、雪は先になって歩き始めた。買い物かごを一つとって腕にかけると、黙ってついてくる夫を振り返った。

 進が自分に並ぶのを待ってから、雪は再び歩き始めた。
 心中ではやはり心が微妙に揺らぐ。隣にいる夫が恋しくて憎らしい。けんかはしたくないけれど、やっぱりナギサのことではもう少し彼を苛めてみたくなった。
 雪は目の前の商品を手にしながら、横にいる夫を背にして口を開いた。

 「でも……」

 「?」

 品物をかごに入れながら、雪は進を振り返った。

 「ナギサさんって素敵な人よね。私大好きになったわ」

 「はぁ?」

 再び妻の口をついて出てきたナギサ評。今度も進の意表をつく言葉であった。

 「と、突然なんだよ?」

 「彼女、あなたのこと、よくわかってくれてるみたいだし……」

 その口調に、進はドキリとした。ナギサは自分のことを何と言ったのだろう。

 「よく……って何を?」

 「うふふ、いろいろと……ね。とにかく、これからもあなたのことよろしくってお願いしてきただけよ」

 「それだけか?」

 「そう、それだけよ」

 結局雪は、さっきのナギサとの会話について言及することは出来なった。もちろん、この場で話すような内容でもないのだけれど。
 だが、そんなふうに断言されてしまえば、進としてもこれ以上問い詰める言葉を持たなかった。

 「そうか……ありがとう」

 戸惑いながらも一言そう答えた夫の顔を、雪はちょっと眉を吊り上げただけで、何も言わずに再びニコリと微笑んだ。

 (やっぱりだめ、ここじゃあ話せないわ。とりあえず今は、気持ちを切り替えなくちゃ……)

 (4)

 雪は気を取り直すと、買い物に専念することにした。さらに笑顔を夫に向けた。

 「さ、晩御飯の材料を買わないと…… 今日はステーキにしようと思うんだけど、どう?」

 「いいよ」

 進は話題が変わりほっとしたように笑顔で答えた。

 「スタミナたっぷりのガーリックステーキに、付け合せにガーリックのホールフライ。うふふ……エネルギー充填150%くらいはいけそう?」

 「え!? な、なんだかちょっと臭いそうだなぁ。確かにスタミナはつきそうだけど」

 焦る進の言葉を受けて、雪は声を出して笑った。

 「ふふふ…… もちろんそのエネルギー、ぜ〜〜んぶ今夜、私のために使ってくれるんでしょう?」

 「はは……それは任せとけって!」

 ようやく、いつものようなちょっとばかり際どくも軽い会話をして、二人は笑顔で笑いあった。雪の笑顔と笑い声を聞いて、進はやっと安心することができた。

 (本当にナギサ君と仲良く話してきたんだな。よかった…… 雪のことだから、まさかあの料理のことで彼女にねじ込んで行くようなことはしないとは思ったけど…… やっぱり心配することなかったな。とにかく、彼女とのことを、雪に誤解されていなくて本当によかったよ)

 進は、嬉しそうにステーキ肉を選ぶ雪を見つめながら、その後姿を抱きしめたい気持ちになる。目の前に彼女が彼にとっては全てであり、彼女がここにいる限り、自分の視線が他所(よそ)に行くことは絶対ないのだと、自ら再び確信したのだった。

 妻は、そんな夫の思いは知らない。彼女は彼女で、自分を見つめる夫の視線を背中に感じながら、様々な思いが心の中に渦巻いていた。

 ただの世間話をしただけと、微妙に夫に嘘をついてしまったことへの少々の自己嫌悪。
 そして、その嘘をあっさりと信じてしまった夫の浅はかさへのあざけりに似た気持ち。
 が同時に、さっさと安心して自分とナギサの関係を、妻がどう思っているのかという肝心な部分を読み取りきれていない夫への腹立たしさ。
 一方で、さっき見たナギサの真摯な思いへの嫉妬心と憐憫(れんびん)の情。
 しかし、夫が心の奥底に持っているだろうナギサへの思いが恋情なのか同情なのか……それを自分がつかみきれていない不安。

 だが雪にとって、一番大切なことは……

 そんな夫を、自分が今も誰よりも深く愛していると言う事実――――

 地球に帰るまでのあと半日の間に自分がすべきことは、この思いを夫の胸に強く深く植えつけることだけなのだと、雪は思った。
 決して夫を糾弾することではないのだと…… 寝た子を起こす必要はないのだと…… そう自分に言い聞かせていた。

 買い物を終えた二人は、スーパーを出て並んで歩いた。買った物を入れたビニール袋を手に、すっかり機嫌の良くなった夫の空いている方の腕に、雪はそっと自分の腕を差し入れる。柔らかな笑みが二人のあいだで交わされた。

 (5)

 「よしっ! 今日は俺も料理手伝うぞ!」

 帰り着くなりそう宣言する夫に、雪は素直に従うことにした。泣いても笑ってもあと数時間すれば、またしばらく夫とは会えないのだ。今は素直に夫に甘えよう、そう思った。

 さっそく二人は一緒に料理を作り始めた。

 「フライパンを出して」だの、「次は塩コショウだ」だの言いながらの二人の料理作りは、とても楽しかった。久しぶりのことに、雪はまだ二人きりで暮らしていた頃の遠い思い出がよみがえってきた。こんな時の進は、とても気が利いてそして優しい。

 「よぉし、ステーキはこれでよしっと、メインディッシュ出来上がりだ!」

 「あとは、サラダとマッシュポテトね!」

 それからほどなく料理は完成した。出来上がった料理を前に、二人の会話も弾み、食事も酒もよく進んだ。
 そして、にんにくの匂いがぷんぷんに漂う部屋で、二人は満腹感に満たされたのだった。

 「はぁ〜っ、食った食った!」

 「あの大きなステーキ全部食べちゃったわねぇ〜!」

 まだ中身の少し残っているワインのビンとグラスだけを残して、食事の後片付けをすませた二人は、居間に戻ってきて再びどっかりとソファに座った。

 「ああ、もうしばらくはステーキは見たくないなぁ〜」

 「あんなに食べてから言うぅ〜?」

 「ははは…… なぁ、雪。俺結構にんにく臭いんじゃないかって気がするんだけど、どうだ? はぁ〜」

 雪の顔の前で、わざと大きな口をあけて息を吐きつけてくる夫を、雪は軽く手で振り払った。

 「もう、やだぁっ! そんなのわかるわけないでしょ。私だって同じもの食べたんだもの」

 「そりゃそうだな。どれ?」

 と、あっさり納得した進は、今度は雪を引き寄せると、その唇を半ば強引に奪った。

 「んっ……」

 不意をつかれ僅かに開いた雪の唇の中に、進の舌が忍び込み口中を蹂躙する。しばらくそうやって口付けを堪能してから、進は唇を離しニヤリと笑った。

 「あ、やっぱりにんにく臭いな」

 「もうっ!!」

 抗議するように胸をついっと押しのけようとする妻を、進は再び抱きしめた。

 「はっはっは…… しかし、今夜はいいけど、明日出勤したら臭いって言われないかな?」

 「さぁねぇ〜〜 明日みんなが近寄ってこないかもねぇ」

 今度は雪が笑うほうだ。すると、進はわざとらしく怒って見せた。目は笑っている。

 「この野郎! 君だって同じだろう? 南部にくせぇ〜〜!って言われて、艦(ふね)から降ろされちまうぞ!」

 「まあっ!南部さんがそんなことするわけないでしょう」

 雪が進の悪い冗談を笑っていなしたが、進は逆にまじめな顔をして雪を見つめた。

 「いや、やっぱり今夜のうちに、全部発散してしまわないとだめだな」

 「発散? どう……やって?」

 一応尋ね返したものの、雪の目も笑っている。馬鹿に真剣な表情の夫の言いたいことが、雪にも十分わかっているのだ。すると進も我が意を得たりと得意そうな顔になった。

 「ふふん、そっちは旦那様に任せなさいって!」

 そういいながら、進の手が雪の胸元に伸びてくる。

 「ぷっ……もうっ、やっぱりまたそっちなのね!」

 「そのために君が食わせたんだろう?」

 「しぃ〜らないっ!」

 「がお〜〜!!」

 「きゃっ……」

 にわか怪獣になった夫に襲われた妻がその後どうなったのかは、言うまでもない。

 (6)

 その後、戦闘ステージ?をベッドに移して、ガーリックパワー全開の夫に愛され、雪はけだるい疲れとともに眠りについた。
 明日からはまたしばらく届かない夫の胸の中――太く逞しい腕、広く厚い胸板、がっしりと固い筋肉――で、ゆったりとその愛につつまれている幸せを感じながら。今はただ、それだけを感じながら……

 深夜、雪はふと目を覚ました。気がつくと頭の下に夫の腕があった。夫の腕枕でそのまま寝てしまっていたらしい。頭の下になっていた腕を、そっとシーツの中に戻してから、じっとその寝顔を見つめた。

 (進さん…… 私の大好きな旦那様……)

 防衛軍で「鬼の古代」と畏敬の眼差しで見られる厳しい艦長も、ラランド星基地の颯爽とした若き副司令もここにはいない。妻にだけ見せる少年のように無防備な寝顔に、愛しさが募る。
 しばしの再会を喜んだのもつかの間、明日の朝――正確にはもう今日の朝になる――再び離れ離れに過ごす日が始まるのだ。
 つかの間の再会は、会えた時の喜びもさながら、別れの辛さも身にしみる。それに特に今回は……

 (結局ナギサさんのこと、もうあれ以上何も言えなかったわ……)

 昨日、ナギサの家にまでおしかけて彼女の本当の心を知った。もちろん、進への思いは胸に秘め、雪達の家庭を壊すつもりはないと、彼女ははっきりと宣言してくれた。その言葉に嘘はないと思う。けれど……

 (どんなに秘めていても、思う心は見えてくるもの…… 進さんは本当に彼女の思いに気付いていないのかしら? それに進さんのナギサさんへの気持ちに何かひっかかってしまう……)

 自分を愛してくれていると信じていたい。いや、彼に尋ねればきっとそう言ってくれるだろう。しかし、言葉で何度そう告げられても、雪は心に浮かぶ不安をどうしてもぬぐいきれないでいた。

 子供の頃両親を亡くしたという、ナギサと進との共通する環境。それはつまり、雪が同じ立場で感じることが不可能な感情を共有しているということ。それが進の心にどんな影響を及ぼすのか……
 あの時の進がナギサを見るあの優しい視線を、雪は忘れられなかった。

 (もし…… あなたがナギサさんの真摯な気持ちに気付いたら、あなたはどうするの……?)

 胸がきゅんと痛む。誰よりも大切で誰よりも幸せになってほしい人。そしてこの10年近くの間、結婚して子供にも恵まれ、彼に少しは幸せな家庭の生活を感じさせてあげられたと思っている。
 だからこれからも、『共に白髪の生えるまで』の言葉どおり、ずっとずっと二人で歩いていきたい。

 (これからもずっとそうだと信じてた……でも……もしあなたの心が他の人に向いてしまったら、私……)

 閉じ込めていたはずの涙が、再び雪の瞳の奥にこみ上げてきた。

 (7)

 雪は手を夫の頬にそっと添え、愛する人の顔を見下ろした。

 (あたたかい…… 愛してるわ、あなた……)

 湧き上がった涙が、目を閉じればこぼれ落ちそうになる。
 すると、眠っていたはずの進の手が動き、雪の手の上に重なった。雪がはっとして引こうとした手をぎゅっと握り返された。

 「はっ、あなた?」

 進が目を開いて、真剣な眼差しで雪の顔を見上げた。

 「……眠れないのか?」

 「え?ううん……ちょっと目が覚めただけ……」

 不意をつかれた雪は、戸惑い気味に答えながら、さりげなく顔をそらせた。しかし、ベッド脇のライトの薄明かりの中でも、進には雪の瞳が潤んでいることがわかった。

 「泣いてるのか?」

 むっくりと起き上がる進に背を向けて、雪はそっと涙をぬぐった。

 「……ううん」

 その雪の白い背中を進の逞しい腕が包み込んだ。耳元で夫の声が優しく囁く。

 「帰りたくないのか?」

 「そんなこと……」

 抱きしめられた温かみを感じながら、雪は背を向けたまま小さくかぶりを振った。

 「帰るなよ」

 その言葉に、雪は慌てて振り返った。

 「え?」

 (8)

 夫の顔をまじまじと見つめる。最初は冗談で言っているのかと思った雪だが、進の顔がとても真剣であることに気がついた。

 「もう帰るな。ずっとここにいろよ。帰るなよ……」

 「何を急に…… できるわけ……ないでしょ? 子供達だって待ってるのに」

 「じゃあ、帰ってすぐに子供達も連れて戻ってくればいいさ」

 夫のあまりにも唐突で、しかも真剣な眼差しに、雪は驚いてしまった。
 帰りたくないと思ったのは事実。心の中では本当にそうしたかった。だが、現実問題として、そんなことは不可能だ。
 それに、こちらから帰りたくないわと駄々こねて、夫が慰めてくれるという構図は想像できたが、逆のパターンになるとは想像すらしていなかった。

 「やだ、どうしたの? あなたったら」

 困惑気味の雪の問いに、進はいつになく悲しそうな顔をした。

 「寂しいんだよ、一人でいるのは……」

 「進さん……?」

 進は顔だけ振り返っていた雪を、体ごと自分のほうへ向けて強く抱きしめた。

 「俺のそばにいてくれよ……」

 「それは……私もそうしたいわ。でも……」

 雪はそう答えながら、心の中で葛藤していた。
 彼は本気でここに居残れと言っているのだろうか? もし本当に寂しくて、本当に自分に残って欲しいと思っているのなら? もしそうなら……どんなことをしてでも、子供達を連れて、ここに来よう。
 そして……そうすれば、今不安に思っているナギサのことも解決してしまうような気がする。

 (そう、彼が望んでいるのなら、仕事も何もかも放り出してもいいじゃない。私は彼のためだったら、どんな事だってできるはず…… ずっとずっとそうだったもの)

 雪は決意を込めて進の顔を見つめた。

 「あなた? 本当に私にいて欲しいの?」

 (9)

 その視線の意味を進も感じとったのだろう。急に我に返ったように、目を見開いた。

 「…………あ、いや……ごめん。急に変なこと言ってすまない」

 進は強く抱きしめていた手を緩めて、恥ずかしそうに笑った。

 「進さん?」

 「はは…… そうだったらいいな、ってことだよ。今更、できっこないのはわかってるんだ」

 「ほんとに? でももしあなたが本気でそう思っているのなら、私……」

 今度は雪のほうが真剣な眼差しで尋ねた。さっき雪は一瞬本当にそうしてもいいと思ったのだ。
 だが、さっきと違って落ち着きを取り戻した進は、もう「ここに残れ」とは言わなかった。

 「すまん、大丈夫だよ。そりゃあ、俺の気持ちとしてはそうして欲しいけど、無理なこともわかってる。ここに来る前に一人で頑張るって言ったのは、俺だもんな。あと半年なんだ、我慢するさ」

 照れたように優しく微笑む夫に、雪は小さな声で答えるしかなかった。

 「そう……」

 雪は視線を落とした。夫の言葉がただの一時の気の迷いだったのだとわかっていても、何かしら名残惜しい気がしてくる。しかし、やはり雪がここに残るなどということは、現実論としてとても難しい話だった。
 雪は気を取り直して、ゆっくりと顔を上げた。

 「でもうれしいわ。そう言ってもらえて……」

 「雪……愛してる。君も子供達も……俺にとっては何よりも大切な一番の宝なんだ」

 この言葉に微塵の嘘はない。進にとってやっと授かった愛する家族。誰よりも何よりも大切な存在なのだ。一時の気の迷いで手放していいものでは、決してないのだ。

 そんな夫の気持ちは、まっすぐに雪の心にも届いた。すがるような夫の言葉を、雪は素直に受け止めていた。

 「うれしいわ、あなた…… 私も同じよ、あなたが大好き、愛しているわ。そして子供達もみんな……」

 「雪……!!」

 再び強く抱きしめられ、雪は夫の激しい愛撫にその身をゆだねていった。

 (10)

 妻と子を心から愛し大切に思う……

 その気持ちに嘘はない。しかし進は、雪を抱きながら、何か追いたてられているような気持ちになっていた。
 妻に対して体は必死に愛の行為を繰り返していながら、どこか頭の片隅では他の女性の存在を意識し続けている自分がいる。
 これほどまでに妻を子供達を思っているのにもかかわらず、ナギサを意識せずにはいられない自分がいるのだ。

 なぜだ……!?

 今日、雪がナギサと会ってきたと答えた時に感じたあの衝撃。一瞬ではあったが、妻の思いよりもナギサの心を心配してしまった。ナギサをかばいたい気持ちになった。間違いなく立場が強い妻よりも、ナギサを守ってやりたい気持ちになってしまった。
 それがひどく後ろめたくて、そのあと妻に尽くしまくってしまった自分が、ひどく情けなかった。

 帰るな……

 そう言ったのは自分自身が恐かったからかもしれない。もちろん、雪がそばにいてくれる幸せは何物にも代えがたい。
 そして雪がいる限り、自分の心は雪に向けていられる。だが帰ってしまえば、再びナギサと真正面から向き合うことになる。それが不安で恐くもあった。

 今の進は、恋愛の「れ」の字も知らない10代のヒヨっ子ではない。ナギサの自分への視線がただの上司と部下以上のものであることは、薄々感じていた。雪にもその微妙な感情を察知されたであろうことは、想像に難くなかった。
 。だが、進はもうこれ以上ナギサの気持ちに気付きたくなかった。知りたくもなかった。彼女に惹かれていくのが恐かった。そして、雪さえいてくれればそんな自分を抑えられるのではないかと思ったのだ。

 雪が思ったように、進は雪を自分の不可解な感情の防波堤にしたかったのだ。

 (ああ…… 俺はいったい何を考えているんだ!? 俺は雪を愛している。俺には雪しかいない。雪だけを……愛しているんだ!!)

 もう一度強い思いを自分で噛み締めながら、進は妻を強く抱きしめ愛撫を繰り返した。身も心もただその行為だけに没頭しようとするかのように……

Chapter14終了

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