ラランドの白い花

Chapter15


 (1)

 翌朝、進が目を覚ましたときには、雪はもうベッドにはいなかった。時計を見ると7時。早いわけではないが、8時に起きても間に合う目の前にある基地勤務の身である。普段起きる時間にはまだ少し早かった。
 そのせいか寝不足のせいかはわからないが、進の頭は少しばかりぼうっとしている。しかし隣に寝ていた雪がいないことも気になって、進は起きることにした。

 のろのろとベッドから起き上がりリビングに行くと、台所から味噌汁やご飯のにおいがしてきた。雪は朝食の支度をしているのだろう。
 進は台所の方へと足を進めた。

 「雪……?」

 その声に雪が振り返った。

 「あら、おはよう」

 いつもと変わらぬ清々しい笑顔に、進はなぜかとても安心した。昨夜、彼女を抱きながら感じた自分の迷いを吹き飛ばしてくれるような魅力的な笑顔だ。安心すると同時に気も緩む。

 「おはよう…… ふぁ〜〜〜」

 「やぁね、ぼうっとした顔しちゃって! 今日はお仕事でしょう? 大丈夫?」

 「大丈夫ってどういう意味だ?」

 「べっつに…… ふふふ……」

 「なんだよ、変な笑いしやがって」

 「だって、うふふ……お疲れ様でした!」

 意味深な視線に睨み返しながらのそんな会話が続いていくと、進の心はどんどん落ち着いていった。
 妻は変わっていない。今までと同じように、自分に対して温かなそしてちょっぴり甘えたような笑顔を向けてくれる。それが言いようもなく嬉しかった。
 が、照れ屋の彼には、結婚9年目の今も、それを素直に表現する術はない。ふてくされたようなぶっきらぼうな言葉を返すだけだ。

 「ったく! それより今朝の出航は9時半だろう? 君のほうの準備はできたのか?」

 「ええ、それはOKよ。いつでも出れるわ。さ、朝ごはんの支度できたっと」

 雪はそんな夫の態度などいつものこと、と相手にもしない。

 「早いなぁ〜 まだ時間たっぷりあるぞ」

 「自宅(うち)に電話しようと思って…… これから出発しますって」

 「まだ7時前だぞ。もう起きてるのか?」

 「6時半には起きてるはずよ。8時前には子供達、家を出るもの」

 「そう、だったっけな……」

 「もうっ! しばらく一緒に暮らしてないと忘れちゃうのね」

 「いや、そういうわけでも……」

 都合が悪くなって小声になる進の答えに、雪はクスリと笑った。

 「とにかく、電話しましょう。ほんとは昨日の夜しようと思ってたんだけど……」

 雪が夫をちらりと横目で見る。その目が笑っている。言外に、電話する暇もくれなかったのは誰でしたっけ?という言葉が聞こえてくるようだった。

 「な、なんだよ」

 「うふふ……なんでもないわっ! さ、スイッチオン!」

 雪はまたくすくすと笑いながら、リビングのTV電話のスイッチボタンを押した。進もその隣に大人しく座った。

 (2)

 通信回線が開き、程なく呼び出し音が聞こえてきた。3度ほど呼び出し音が鳴った後、受信ランプがともると同時に、画面に雪の母親の顔が現れた。

 「あ、ママ…… おはよう!」

 「おはよう、雪、進さん。元気そうね」

 母の美里が笑顔で答えた。いつもは隣に住むおじいちゃんおばあちゃんだが、雪の不在中は、古代家に寝泊りするのが常になっている。今回も雪の出張の間、ずっと古代家の方で子供達の世話をしてくれていた。もう手馴れたものである。

 「子供達は?」

 と雪が口にすると同時に、パジャマ姿の3人が画面に飛び込んできた。

 「ママ! パパ!!」 「お母さん!!」 「お母さん、お父さん!!」

 「おはよう、守、航、愛!」 「おはよう、みんな早起きだな〜」

 画面の向こうとこっちで5人が満面の笑顔で向き合った。ちょっと離れているけれど、一家が勢ぞろいした。

 「おはよう〜〜〜!!」

 にっこにこ顔の3人が揃って元気一杯挨拶すると、遠く離れたパパとママは嬉しそうに微笑んだ。すると美里もニコリとして答えた。

 「今、順番にお顔を洗ってたところだったの。これから着替えて朝ごはんよ。お二人さん、子供達は元気だから心配要らないわよ」

 「ええ、いつもありがとう」 「いつもすみません」

 「いいのよ、こっちもおじいちゃんと二人で楽しんでるんだから……」

 二人が礼を言うと、美里はコロコロと笑いながら答えた。片割れのおじいちゃんは今、トイレタイムらしい。
 その時、次男の航がいかにも情けない声で尋ねた。

 「ねぇ、お母さぁん、いつ帰ってくるのぉ〜?」

 見るからに寂しげなその顔を見て、進と雪は顔を見合わせて苦笑する。この次男坊が一番の甘えん坊で、ママっ子なのだ。

 「うふふ、航ったらそろそろ寂しくなったのね?」

 母が出発してから1週間以上経っている。航でなくても、もうそろそろ寂しくなる頃だ。そんな子供達に雪は優しく微笑み、朗報を伝える。

 「でも大丈夫よ、今日もうすぐここをでるの。明日の夕方にはお家に帰れるわ」

 とたんに3人の顔がほころんだ。さらに、「ほんと!!」 「やったぁ〜!」と、万歳して喜び始めた。

 「ええ、あなた達が偉かったから、ママいっぱいお土産持って帰っるわね!!」

 「お土産!!!」 「僕らにもお土産!」

 「わかってるわよ!! 3人分、ちゃ〜んとあるから、待っててね!」

 「はぁ〜〜〜い!!!」

 いい返事をいて手を上げる3人の横から、美里が間に入ってきた。

 「さぁさぁ、そろそろ着替えないと学校や保育園に遅れちゃうわよ。着替えてらっしゃい!」

 「はぁ〜〜い!!」

 ママの帰宅とお土産の話を聞いて現金にもすっかりご機嫌になった守と航は、すぐに子供部屋の方へ駆けていった。

 (3)

 ところが、一人一番小さな愛だけがその場に立ち止まったまま、再び寂しそうな顔をして画面をじっと見つめてきた。

 「ん?どうした、愛?」

 進が尋ねると、愛は向こう側から画面に両手をぺたりとつき、大きな目を開いて真剣な眼差しでこちら側を見つめた。

 「パパは……まだ、帰ってこないの?」

 「えっ?」

 「パパも一緒に帰ってくればいいのに……」

 そのつぶらな瞳が、パパとママのハートをズキンと貫く。特にパパのほうの胸にはど真ん中ストライク。

 「ごめんなさいね。パパは、まだ帰れないの。もうちょっと後になるのよ」

 「ごめんな、愛。寂しいけど、もうちょっと待っててくれよな」

 申し訳なさそに謝る二人をじっと見つめながら、愛はちょっと目を潤ませながらも口元を緩めてこくりと大きく頷いた。

 「うん……」

 その仕草がとてもかわいらしい。まさに天使の微笑み。雪は我が娘ながらこういうときの甘え方には感心してしまう。

 (もう、愛ったら甘え上手なんだもの。パパ、感動してるわね、きっと……)

 そう思いながらちらりと隣を見ると……案の定パパの瞳もウルウル状態になっている。さらに追い討ちをかけるように、愛が訴えた。

 「でもね、本当は愛、とっても寂しいの。ママが帰ってきてくれるのはとってもうれしいけど、でもね、パパがいないと愛はとっても寂しいの。だから早く帰ってきてね」

 この間お誕生日が来てやっと4歳の愛。だが4歳にしてこの長セリフに、パパも感動すると言うものだ。それでなくても、進パパには、かわいくてかわいくて仕方のない娘なのだ。

 「わかったよ、愛! パパ、一生懸命早く帰れるようにがんばるからな! 愛もいい子にして待ってるんだぞ」

 パパの声に力が入る。もうまさに画面の向こうに飛び込まんばかりの勢いである。
 ここまで来ると当人達以外は、案外冷めた目で見てしまうものだ。傍観している雪と美里は、目を合わせて苦笑しあった。

 (また進さんのパパ馬鹿が始まったわ)

 (そうみたいね。でもいいじゃないの、娘をかわいがってくれるんだから)

 なんていう会話が目と目で交わされている間、娘と父はまだ盛り上がっていた。

 「愛がいい子にしてたら、パパ早く帰ってくれるのよね?」

 「ああ、そうだよ。その時は一番に愛に会いにパパ飛んで帰るからなぁ!」

 雪はあきれ気味に小さくため息をつくと、二人を無視して美里に話しかけた。

 「それじゃあ、ママ、朝忙しいでしょうからもう切るわ。明日までよろしくお願いするわね」

 「ええ、ご心配なく。帰り、楽しみに待ってるわ。進さんも体に気をつけて、お仕事頑張ってね」

 横の会話に、やっと我に帰った進も慌てて礼を言った。

 「あ、ありがとうございます。子供達と雪のこと、どうぞよろしくお願いします」

 そしてもう一度愛に言葉をかけた。

 「じゃあな、愛! また電話するからな」

 「うん!またね〜〜!!」

 いつの間にか元気な笑顔に戻った愛が、画面の向こうから手を振っていた。そして、電話は雪の手でいともあっさりと切断された。

 (4)

 電話を切った雪が立ち上がろうとしてふと隣を見た。すると、進が押し黙ったまま動かない。

 「どうしたの、あなた?」

 雪の問いにも答えず、うつむいたままの進は、目に涙をためているように見える。まだ、さっきの愛との会話が後を引いているらしい。雪としては、可笑しいやら微笑ましいやら……

 「やだっ、あなたったら、泣いてるの?」

 雪が半分笑い出しそうになりながら尋ねても、進は笑顔を見せるどころかさらに半泣きになった。

 「愛……」

 進がうつむいたまま、ポツリとつぶやく。

 「あ、あの……進さん?」

 「あんなに小さな子が……」

 「え?」

 「愛は、あんなに小さいのに……すごく我慢してるんだよなぁ」

 「愛? あ、ああ……」

 やっぱり……と雪は苦笑するしかなかった。さっきの愛の言葉に、進はすっかりノックアウトされてしまったらしい。

 「ママもいない上に、パパもいなくてさ…… まだ小さくてすっごく寂しいのに、必死で我慢してるんだよな」

 涙目のままの進が、顔を上げて雪に訴える。

 「そ、そうね……」

 進の勢いに気圧されるように相槌をうちながらも、雪はどんどん可笑しくなっていった。

 「そうねって、君はのんきだなぁ! さっきの顔見ただろう! 今にも泣き出しそうな顔して俺のこと見てたぞ! かわいそうに……愛……」

 夫が真剣になればなるほど、雪は可笑しくてたまらなくなっていく。夫の娘の溺愛振りは十分に知ってはいたが、それでも必死になって心配している彼の姿は、滑稽でもあった。
 そんな夫に、雪はちょっとばかり意地悪したくなった。

 「大丈夫よ、あれで画面消えたらケロッとしてるんだから」

 「え?」

 きょとんとした顔で自分を見つめる夫を見ながら、雪は得意そうに説明し始めた。

 「あなたは知らないでしょうけど、航ならまだしも愛なんて大して寂しいなんて思っちゃいないんだから。あの子甘えるの上手だけど、画面が消えて御覧なさい。あっという間にその会話忘れてケロッとした顔で遊びに行っちゃってるわよ」

 「そ、そんなわけないだろう! 愛は本当に俺がいなくて寂しいんだぞ!」

 焦った声で反論する進は、妻の話を全然信じようとはしない。多分何度言っても信じないだろう。

 「……はいはい」

 「君にはわからないんだ。俺と愛との深い絆が……」

 「わかってますってば、うふふ……もうっ」

 「愛!! パパは来年の春にはちゃんとお前のところに戻るからなぁ! 守も航も待ってろよ!」

 消えてしまった画面に向かって叫ぶ進。親ばか、パパばかにつける薬はなさそうだ。雪は再び小さくため息をついた。

 「はいはい! よぉ〜く伝えておきますわっ。さ、それよりそろそろ朝ごはん食べちゃいましょう。出勤時間に遅れるわよ」

 「あ、ああ……」

 どうやっても妻は相手にしてくれそうもないと感じた進は、それ以上訴えるのはやめて着替えのためにベッドルームに入っていった。そんな夫を見送りながら、雪はプッと吹き出してしまった。

 (もうっ、あなたったら。愛のことほんっとにかわいいのね。全く……私と娘とどっちの方を愛してるの!って聞きたくなっちゃう! ふふふ…… でも、娘をあんなに大切に思ってくれる人の真心を信じなくちゃ。私達、これからもずっとずっと仲良し家族なんですものね、あなた……)

 子供達と会話する夫の子煩悩さを見て、雪は昨日までの不安が少しだけ薄れたような気がしていた。

 (5)

 しばらくして、気を取り直し着替えを済ました進がリビングに出てきた。雪は朝食をテーブルに用意している。進が来たのに気付くと、ニコリと微笑んだ。

 「さ、ご飯食べましょう。私の手料理もまたしばらくお預けよ」

 「ああ、そうだな…… うん、いい匂いだ」

 進も笑顔で答えた。妻がもうすぐこの地を去ることを思い出すと、改めて寂しさが胸をよぎった。
 テーブルを眺めると、ご飯、焼き魚、おひたしなど、典型的な和食の朝食が並んでいる。明日からはそうなるであろう自分ひとりだけのパンとコーヒーだけの朝食とは大違いだ。
 それを十分承知している雪は、夫に釘をさした。

 「明日からまたパンとコーヒーになるんでしょうけど、せめてサラダくらいつけて食べてね。レタスとか生野菜も少し買ってあるのよ。痛まないうちにちゃんと食べるのよ」

 「はいはい、やっぱり言われると思った……」

 母のような口調で諭す雪に、進が苦笑いすると、雪も同じような顔をした。

 「もうっ! ほら座って、今お味噌汁入れるわ」

 「ああ……」

 進はテーブルに座ろうとして、まだ箸が出ていないことに気付いた。見ると、雪は味噌汁をつぐ準備をしている。進は自分で取ろうと、食器棚の引き出しを開けた。

 (あっ……!)

 突然進の顔色が変わった。じっと見つめるその視線の先には、一昨日雪が見つけたナギサのメモが、綺麗に揃えられて入っていた。明らかに進が放り込んだ時とは違っている。先日、雪が見たのは間違いない。その後、雪は揃えなおして再び同じ引き出しにしまってあったのだ。

 (雪の奴、あの時捨てなかったんだ……)

 進がちらりと台所の方を見ると、雪はこちらに背中を向けたまま味噌汁をついでいる。

 進はもう一度そのメモをじっと見つめた。先日の妻とのやり取りを思い出す。妻の気持ちを思えば、ここに入れたままにはしておけない。が、同時にナギサの顔も浮かぶ。懸命に書いたことを思うと、胸が少し痛んだ。だが進は浮かんだナギサの顔を強引に脳裏から振り払った。

 (余計なことを考えない方がいいんだ…… 俺のためにも雪のためにも……ナギサ君のためにも……)

 進は意を決してそのメモの束をつかむと、すぐそばにあったゴミ箱に投げ捨てた。これでいいと思いながらも、どこかでなにやら複雑な思いが行き来する。ゴミ箱の中に散らばったメモに再び目が行く。が……

 (いや、これでいいんだ!)

 進はもう一度自分にそう言い聞かせて、それから妻の姿を横目で見た。雪は進の動作には全く気付いていないようで、コンロに向かっている。

 (見てなかったみたいだな……)

 見られて悪いことをしているわけではないのだが、やはりほっとしてしまう自分に気が付く。進はふうっと小さくため息をつくと、二人分の箸を引き出しから取り出してテーブルに持っていった。

 (6)

 しかし、雪はさっきの進の動作に気付いていた。もちろん、あの引き出しの中に何が入っているのかは、十分承知している。いや、それ以上にずっと気になっていたというのが本音だ。
 あのメモを見たとき捨ててしまいたい衝動にどれだけ襲われただろうか。だが、雪にはそれはできなかった。結局雪は、そのメモを丁寧に整えて、同じ場所に戻しておいた。

 自分が帰った後、夫がそれをどう扱うのか、気になってはいた。帰るまでにそのことを尋ねてみたい気持ちもたっぷりあった。だが、あまりにも嫌味っぽくなりそうで、それも雪にはできなかった。

 箸を出していなかったのは、夫が気付いて、箸を取ろうとあの引き出しを開けるんじゃないかと、半ば期待していたのかもしれない。少々意地悪かもしれないが、雪はその時の彼の反応が見たかった。
 そして案の定、進は引き出しを開いた。

 雪は体を後ろに動かさないように必死に努力しながら、気配で夫の動きを感じていた。引き出しを開く音、しばらくの静寂、背中に感じるかすかな視線、その後のかさりという小さな音。それから一瞬の間の後、引き出しが閉められる音がした。

 そして、半信半疑で、味噌汁を持ってテーブルに行く途中で、ゴミ箱の中をさりげなくチェックした。

 思ったとおり、そのメモはゴミ箱に捨てられていた。正直なところ、雪はとても安堵したし嬉しくもあった。が、同時に今この場で捨てることが何かとてもわざとらくも思えて腹立たしくなったり、引き出しを開けてからの微妙な間(ま)に、一抹の不安もよぎったりもした。

 (あの間(ま)は、何? あれは進さんの躊躇の時間だったの?)

 雪は疑心暗鬼になる自分に半ばあきれながら、それでも何か言わずに入られない衝動に駆られていた。そして、味噌汁椀を2つテーブルに置いて席につくと、その目を進に向けた。

 雪の視線に、一瞬たじろいたように見えた進だったが、すぐに何もなかったかのように笑顔を作った。

 「さ、食べるぞ。い、いただきますっ!」

 雪は黙ったまま、どこかわざとらしい感じのする進の仕草をじっと見ていたが、音にならないほどの小さなため息を一つついた。それから、その視線を進からテーブルの上に落として小さな声でつぶやいた。

 「別に捨てなくてもよかったのに……」

 黙ってればいいのに、と思いながらも、我慢できずに口からついて出てきてしまった言葉だった。

 「え!?」

 箸を出そうとしていた進の手が止まり、その体制のまま、妻の顔をじっと見つめた。すると、雪はそのまま顔を横にして視線をゴミ箱のほうへと移した。
 進の心臓が大きくドキンと鳴った。

 「あっ、いや…… 何を捨てたって?」

 一応ごまかしてみたが、それが無駄なことは進にもよくわかっていた。雪は進がメモを捨てるのを見ていたのは明白だった。

 (今、やらなきゃよかったかなぁ〜 くそっ、失敗した)

 進は、別れの直前になってまた気まずい思いをさせてしまったことを後悔した。その困ったような表情を見ていると、雪も自分が言い出したことを後悔し始めた。もうこれ以上彼とこの話を続けていくのが急に嫌になってしまったのだ。

 (私ったら、バカみたい…… もう、よそう、こんな話。しばらく進さんとは会えないっていうのに)

 「私、もう気にしてないから」

 それは、進が驚くほど穏やかな声だった。そして雪は微笑んでいだ。満面の笑み、というわけではなかったが、とにかく微笑には違いなかった。

 「あ、だから……その……わかってる。だから、けど……もういらないものだから……」

 言い訳がましいとは思いながらも、なにかしゃべらなければと、しどろもどろになりながら言葉をつなぐ進とは対照的に、雪の顔付きがだんだんと真剣なものに変わっていった。

 (7)

 「進さん」

 静かで穏やかだが、非常に強い意志を感じられる口調で、雪が夫の名を呼んだ。思わず進はかしこまってしまう。

 「は、はいっ……」

 まっすぐに夫を見つめる雪の瞳を、進もまっすぐに見つめ返した。すると雪は、静かに続きの言葉を口にした。

 「私、あなたもナギサさんも信じてる。今までのことも、これからのことも……」

 「雪…………」

 「そう、なんでしょう? それでいいのよね?」

 あまりにも真剣で、すがるような妻のその視線に、進は愛しさと申し訳なさで一杯になる。このまま地球に戻ってしまう雪は、心のどこかにまだ不安を残しているのだろう。それでも自分を信じると、はっきりと宣言してくれた。その思いをしっかりと受け止めたいと、進は心の底から思った。

 「ああ、そうだ」

 進は大きく頷くと、妻に負けないほど真剣な眼差しで見返し、はっきりと宣言した。
 夫のその短い言葉は、何の修飾もなく、とてもシンプルな一言ではあったが、それだけにその言葉にこもる思いは真実だと、雪には確信できた。
 雪は、引き締めていた顔を緩めて、今度はニッコリと笑った。

 「それじゃあ、この話はもう終わり! さぁ、食べましょう。いただきま〜す!」

 「わかった。いただきます!」

 進も笑顔で頷いてから、二人はしばしの別れの前の最後の食事に専念した。

 食事を終え一息つくと、二人は一緒に部屋を出ることにした。行き先は違う。雪は宇宙ターミナルへ、そして進はいつもの仕事場所である基地の司令部へ向かうのだ。

 「雪、準備はいいか?」

 「ええ……」

 雪はもう一度部屋の中をぐるりと見回してから、ゆっくりと玄関に向かった。そこには雪のバッグを手にした進が待っている。

 玄関までくると、雪はおもむろに夫の背に腕を回し、その唇にさっと口付けをした。突然の出来事に一瞬驚いた進だったが、すぐにバッグを足元に落いて、妻を強く抱き返した。
 そして、しばらくそのまま抱擁を続けてから、進は小さな声で言った。

 「来てくれて……ありがとう」

 「私も……会えてよかった」

 (8)

 玄関をでた二人は、分かれ道に来るまでの短い廊下を歩いていた。

 「気をつけて帰れよ」

 「ええ……」

 「子供達のこと、頼んだぞ。俺からの手紙も持ってくれたよな」

 進は雪の出発前に、3人の子供達それぞれに手紙をしたためた。父からの温かい言葉が並んでいるに違いない手紙を、雪はしっかりと受け取っていた。

 「ええ、大丈夫よ。子供達には一番のいいおみやげだわ」

 「うん…… すまないな、君にばかり任せきりで……」

 「何言ってるの、今更……」

 「はは、いつものことか」

 苦笑いする夫に、雪は優しく微笑みを向けた。

 「そういう意味じゃないわよ。一緒にいる時間だけが育児じゃないって、あなた昔言ってくれたじゃないの」

 「そうだったな。とにかく頼む。けど、無理だけはするなよ。君が具合悪くなったら大変だからな」

 「大丈夫よ、お祖母ちゃん、お祖父ちゃんが助けてくれるから」

 「そうだな。お義母さん、お義父さんには、本当に世話になってるよ。俺からもよろしく言ってたって伝えてくれよ」

 「ええ……」

 別れに際して、最後の会話はやはり子供達の話に終始した。大切な二人の宝物たちだから。そして最も差しさわりのないことでもあったからかもしれない。

 そしてとうとう二人の道を分ける分岐点に到着した。立ち止まって向かい合うと、雪は手を伸ばした。進は持っていた雪のバッグをその手に乗せる。

 「ありがとう。それじゃあ…… 体だけは壊さないように気をつけてね」

 「ああ、わかった。後で時間取れたら出航見送りに行くから」

 「ええ……でもお仕事だから無理しないで」

 「うん……」 進は頷いてから少し躊躇した後、再び口を開いた。 「あのな……」

 「なに?」

 雪が小首をかしげて進の顔を見上げた。が、進はその後の言葉は飲み込んでしまった。

 「いや、なんでもないよ。俺はちゃんとやるから、何も心配するな」

 雪は夫が何を言いたかったのか、もう一度尋ねてみたかったが、時間も迫っているし、道の真ん中で立ち止まっていることもできなかった。

 「……ええ。今度会えるのは来年の春ね?」

 「ああ、必ず帰るからな」

 雪はこっくりと頷いた。夫のその言葉を信じて帰ろう、雪はそう思った。

 「じゃあ、行くわ」

 「うん…… それじゃあな、家に着いたら電話くれ」

 「わかったわ、またね」

 そして二人は、それぞれの方向へと歩き出した。

 (9)

 エアターミナルに着いた雪は、さっそく手続きを済ませ、サザンクロスの停泊しているポートに行った。乗艦口で名前を告げると、入り口の係員が笑顔で、「伺っております」と答え、乗組員を呼び出してくれた。
 雪はその乗組員の案内で、客室に通された。豪華なつくりではないが、清潔で気配りの届いた部屋だった。

 (南部さん、頑張ってるわね……)

 この艦の艦長は、かつてのヤマトの同僚南部康夫だ。南部はもう押しも押されぬ立派な艦長なのだ。雪はこんな部屋の一つにも、艦長の力量が現れているような気がした。

 雪は荷物を棚のそばに置くと、部屋の窓から外を見た。ちょうど乗ってきた乗艦口が真下に見える。出航の準備のために、係員が忙しそうに動いているのが見えた。

 (もう、この星から離れてしまうのね。来た時はあんなに胸がわくわくしたけれど…… 離れるのは、とっても悲しい……)

 雪の瞳に涙が浮かんできた。進と過ごした数日のことが思い出される。久しぶりに会った夫は大歓迎してくれて、そして何よりも以前と変わらず優しかった。けれど……一つだけ心にかかるのは、あの彼女の存在。

 (ううん、だめだめ…… あの人のこと信じるって決めたんだもの…… でも、本当にいいの? このまま帰って? 本当に……)

 二人の雪が会話する。夫を信じ、予定通り地球に帰り子供達と夫の帰りを待つべきだと思う雪と、今からでも艦から降りて夫のそばに張り付いて、若い人の思いから夫を遠ざけていたいと思う雪。

 理性と感情の葛藤に心を乱した雪の眼下に、進の姿が目に入った。

 (あっ、見送りに来てくれたんだわ! あなたっ!)

 見ると、進は南部と一緒に歩いていた。乗艦口まで来ると、南部が入り口にいた乗組員に何か声をかけた。

 (降りていってもいいのかしら?)

 この艦は客船ではない。何といっても、防衛軍の戦艦である。任務のためとはいえ、便乗させてもらっている部外者の雪は、むやみやたらに艦内を歩くことは禁じられていた。
 どうしようと思っていると、部屋をノックする音がした。雪が「どうぞ」と答えると、さっき案内してくれた乗組員が入ってきた。

 「森さん、せっかくおくつろぎのところ申し訳ありませんが、南部艦長が乗艦口まで降りてくださるようにとのことです」

 「わかりました」

 冷静に答えたけれど、嬉しさで心が一杯になる。南部は見送りに来た進のために雪を呼んでくれたのだ。再びその乗組員に連れられ、雪は乗艦口まで降りていった。

 (10)

 雪が乗艦口に到着すると、進と南部が話をしていた。

 「艦長、お連れしました」という乗組員の声に、二人が振り返った。

 「雪さん! お久しぶりですね!!」

 南部が嬉しそうに声をかけ、隣の進が目礼した。目が笑っている。

 「こちらこそ、お久しぶり。とっても立派な艦ね。今回は、地球までお世話になります」

 雪が軽く頭を下げると、南部はさらに嬉しそうに笑った。

 「いやぁ〜 雪さんに褒められるなんて、俺も相当なもんになったもんだな、なぁ、古代副司令!」

 南部が自慢げな顔を、雪の夫である進に向けると、進はムッとした顔で南部を睨んだ。

 「はん! 何を言ってやがる。そういうのを社交辞令って言うんだよ!」

 一見ひどく怒っているように見える進だが、もちろん長年の友の間柄、冗談を言っていることは、南部も百も承知だ。わざとおどけた声で答えを返す。

 「あれぇ〜 そんなこと言うかねぇ。だぁれかさんの大事な大事な奥方を地球までお届けしようってのに〜 いいのかなぁ〜〜」

 すると、進のほうもあっという間に表情を変える。今度は懇願するような顔付きになった。

 「おっと、そうだった。はは……今のは、なしにしてくれ。どうかよろしく頼みます」

 「そうそう、最初からそうきてくれないとなぁ。ま、大船に乗ったつもりでおっ任せください!」

 「大げさなやつだなぁ〜」

 雪は、そんなやり取りを横で黙って見ながら自然と顔がにやけてしまう。とても押しも押されぬ基地の副司令と巡洋艦の艦長とは思えない。命を懸けて共に戦ったかつての旧友達は、今は皆親友以上の存在になっているのだ。

 「もう、二人で何ふざけてるの!」

 「あはは…… いやいや、すみません。二人のしばしの別れのシーンの邪魔をしてしまいましたなぁ〜 ここじゃあなんですから、別室でもご案内しましょうか?」

 さらにおどけた南部の言い草に、進と雪は顔を赤くして同時に叫んだ。

 「南部ぅ〜!」 「南部さんっ!」

 「はっはっは……」

 進と雪は、仲間達に何度こんな風にからかわれただろうか。三人は一瞬、遠い昔ヤマトで過ごした頃に戻ったような気がした。

 一通り笑いあった後、進と雪は再び向き合った。

 「それじゃあ、今度こそ、しばしの別れだな」

 「ええ、でも半年なんてすぐよ」

 「ああ、それじゃあ……気をつけて帰れよ」

 南部がニヤニヤ笑ってみている手前、それ以上気の利いた言葉も浮かばない進に、雪はまたクスリと笑った。

 「うふふ、何度も聞いたわ、その言葉」

 するとすかさず南部が突っ込みを入れる。

 「相変わらずボキャブラリーの貧困なやつだなぁ、お前は」

 「ぬぁにおおおお〜〜〜!!」

 「もうっ、またぁ〜〜 うふふふ……」

 再び笑いに包まれた三人であった。

 (11)

 その時、コンコンコンという足音が聞こえてきた。三人が振り返ると、一人の女性が駆けて来るのが見えた。ナギサだった。
 帰る直前まで自分の心を乱している女性ナギサの登場に、雪の胸がざわりとした。ちらりと夫の横顔を見ると、進もナギサが来るのを知らなかったらしく驚いた顔をしている。

 ナギサは、息を切らしてまっすぐに南部のところまで走ってくると、息を整えてから一通の封書を南部に差し出した。

 「南部艦長、イワノフ司令から預かってまいりました。今朝お返しするつもりで、副司令に託そうと思っていたのを忘れたそうで……」

 ナギサはそこまで一気に言ってから、はぁと大きく息を吸った。

 「ああ、一昨日お会いした時にお貸しした今回の演習データだな。司令から確認したいところがあるって言われてね。ナギサさん、走って来てくださったんですか? すみませんでしたね」

 「いえ、大丈夫です。まもなく出航だから、間に合わないといけないと思ったものですから」

 そしてナギサは、南部の隣に進と雪が立っているのに初めて気付いたように、慌てて二人に会釈をした。進と雪も軽く頷いた。

 「ナギサ君、すまなかったな。俺がちゃんと司令に確認すればよかったものを……」

 進が申し訳なさそうにナギサを見る。ナギサは、その視線の後ろに雪の視線も感じて、なんとなく居辛い気分になった。いやが上にも昨日のやり取りを思い出さないわけにはいかない。

 「いえ…… それでは私はこれで…… 雪さん、あっいえ、森さん、どうぞお気をつけて」

 それだけを告げてぺこりと頭を下げ、すぐに引き返そうときびすを返したナギサを、雪が呼び止めた。

 「ナギサさん!」

 「はい……?」

 その声に弾かれたようにナギサが振り返り、さらに進もびくりと反応して雪の顔を見た。その二人の反応振りに、南部は怪訝な顔をして三人の様子をじっと観察し始めた。

 (何かあったのか? この三人……)

 (12)

 しかし南部の予感とは逆に、雪の言葉は何の変哲もないものだった。

 「昨日は、お休みのところお邪魔して、お茶までご馳走になってしまって…… どうもありがとう」

 雪が笑顔でそう言うと、強張りかけていた進の顔が若干緩んだが、ナギサの方は、まだ当惑気味に見える。

 「いいえ、とんでもないです。こちらこそ、色々……お話が伺えて……よかったです」

 途中いくらか言葉を途切れさせながら、ナギサはそう答えた。昨日の「お話」は、ナギサにも雪にもそれぞれに色々な意味で深く心に残っている。

 (やっぱり、おかしいな……)

 南部には、二人の女性の一見何気ない会話が、なぜかこの場を微妙な空気で包んでいるように思えてならなかった。何も言わない進の様子も何やら気になる。
 その後の短い沈黙が、さらにそれを重苦しいものにしようとした時、雪の一言で、その空気は一気に解消された。

 「これからも、主人のこと、よろしくお願いしますね」

 その言葉に、進はほっとしたように安堵の表情を浮かべ、ナギサははっとしたように口をぽかんと開けて雪を見た。

 「あ……」

 言葉をなくしているナギサに、雪は再び言った。

 「頼りない上司で大変だと思いますけど……」

 そして進のほうを見て、おどけた顔でクスリと笑った。

 「おいおい、それはどういう意味だよ!」

 進が苦笑いしながら雪に抗議すると、それまで黙っていたナギサが口を開いた。

 「こちらこそ、副司令のお邪魔にならないように気をつけます。だから、何も……ご心配なさらないでください」

 ナギサは、さっきの驚いたような様子から、今度は真面目な顔つきに変わっていた。その様子には、さすがに進も何かしら感じたようで、何か問いたげに雪のほうを見たが、雪は進のほうには目をやらなかった。

 「ありがとう……」

 雪は微笑を浮かべながら頷いた。雪もナギサも、互いの言外の言葉を感じている。共通する思いと背反する思い、それが互いにわかっているのだ。だが、二人ともそれ以上何か口に出すことはなかった。

 南部は、それまで二人のやり取りを黙って聞いていたが、出航10分前の連絡が入ると同時に、任務の顔に戻った。南部は、艦内の総員に発進のための配置につくよう指示した後、雪に自分達も艦内に戻らねばならないことを告げた。

 「じゃあ、あなた……」

 「ああ、またな。みんなによろしく伝えてくれ」

 夫婦の短い最後の挨拶が終わり、進とナギサを残して、雪と南部は艦内へ入っていった。乗艦口が閉まる音がして、雪と進は戦艦の厚い壁に隔てられてしまった。

 一瞬立ち止まり、閉まったドアを振り返った雪は、南部に促され、迎えに来た案内の乗組員とともに再び自室へと戻っていった。

 サザンクロスは第七艦隊の他の艦と一緒に定刻に発進した。客室に一人立つ雪は、どんどん遠くなっていくラランド星第2惑星を、ただじっと見続けていた。

 (進さん…… 来年の春きっと笑顔で帰ってきてね)

 雪は念じるように、そっとその瞳を閉じた。

 (13)

 飛び立つサザンクロスが見えなくなるまで見送ってから、進とナギサも司令部へ戻るために歩き始めた。隣を何も言わず無言で歩くナギサを見つめながら、進も黙って歩いた。

 (とうとう雪は、帰ってしまった……)

 心の中に寂寥感が漂う。見送る立場と言うのは、これほど寂しいものなのかと改めて思う。心は明らかに泣いていた。
 それを振り払うかのように、進は隣を歩くナギサの方を見た。何か考え事があるかのように、うつむき加減で歩くナギサを見ていると、進の中で、ある気がかりが膨らんでいった。

 (さっきの話……何かひっかかるような……? そういえば、昨日雪とナギサ君はどんな話をしたんだろう?)

 進は急にそれが聞きたくてたまらなくなった。

 「ナギサ君……」

 「はい?」

 「昨日は女房がお邪魔したんだってね。すまなかったね、せっかくの休みのところ」

 ナギサがぱっと顔を上げて進を見た。その美しい端正な顔に見つめられると、進の心臓が大きく鼓動した。

 「いえ、偶然スーパーの前で出会って話が弾んだものですから」

 ナギサが柔らかに微笑んだ。

 「何の話で盛り上がったんだい?」

 「え?」と、そこで一旦言葉を止めてから、ナギサはクスリと笑った。「それは……内緒です」

 ナギサが進の視線をさりげなくはずす。口元にはまだ笑みが残っている。だって古代さんの話だったんですよ。ナギサは、そう心の中でつぶやいた。

 「内緒って言われると余計に気になるなぁ」

 「ふふふ…… いいじゃないですか。女同士の会話ですもの」

 「女同士の会話ねぇ?」

 「そうです。そう……私達、趣味が一緒ねって話をしました」

 なんとなくナギサの心は軽かった。昨日の雪との会話は、ナギサにとって辛くもあったが、同時にそのおかげで心の中の重石が少し取れたような気もした。
 自分の進への思いを、進の妻である雪が、ある意味認めてくれたことも、雪を困らせるようなことはするつもりはないと言った自分を、雪が信じると言ってくれたことも、どこか嬉しかった。
 そしてその雪ももうここにはいない。だからもう少し、自分はこのまま彼を見つめていられると思うと、何かしら嬉しくなるのだった。

 「はぁ? 趣味って何の?」

 突拍子もない返事に唖然としている進を見て、ナギサはさもおかしそうにコロコロと笑った。

 「うふふ…… さぁ、早く戻らないと! 10時から定例会議ですよ」

 「あっ、そうだったな、忘れてた!」

 「ほらぁ、もうこんな時間ですよ! ほんと、奥様の言うとおり頼りない上司を持つと大変ですわね」

 「お、おい、こらっ!」

 しばらく見なかったナギサの明るい笑顔を見ていると、進の心も軽くなっていくような気がした。

 (ま、いいか…… 俺と彼女は今までと同じようにやっていけばいいんだ。雪が心配するようなことはなんにもないさ。俺だって、彼女だって…… 変な感情抜きに、俺は彼女の笑顔を見ているのが好きだ。それだけのことさ、それ以上でも以下でもなく……)

 進はそう思うことにした。だが、ナギサの笑顔が消えていた時期が、雪の滞在時期と一致していることに、進はまだ気がついていない。

 (14)

 サザンクロスの航海は何事もなく進んだ。ただの客である雪に、当然何の任務もなく、また一人での上艦で話相手もいない。せっかく南部のいる艦に乗ったのだから、話もしたいとも思ったが、任務に就いている艦長を呼び出すわけにもいかず、部屋の中で本を読んだり、子供達への進の手紙を読んだりして過ごした。

 これだけ離れてしまった以上、もうじたばたしても始まらない。後は、時の流れを待つしかないと、雪は自分の少し重たい心に言い聞かせ続けていた。

 そしてこの日の予定のワープも終了した夕刻、雪の部屋のドアをノックする音がした。

 「はい」

 雪が出てみると、担当の案内係がドアの外に立っていた。

 「夕食のお時間です。もしよろしければ艦長がご一緒したいと申しておりますが、いかがでしょうか?」

 雪が二つ返事で了承すると、案内係は雪を食堂の隣にある個室に案内した。そこでしばらく待っていると、南部が息を切らせて入ってきた。

 「雪さん! お待たせしました!」

 「あら、南部艦長。この度は、お世話になります」

 かしこまった口調で、雪が丁寧に頭を下げると、南部は頭をかきかき苦笑いした。

 「やだなぁ、雪さん、その「艦長」ってのはやめて下さい。南部だけでいいですよ!」

 「うふふ、了解!」

 二つの笑顔が重なる。やっぱり旧友っていいわ、などと雪が思っていると、ドアが開いて料理が運ばれてきた。
 南部は雪を席に案内し、自分もその向かいに座った。まずは軽くワインで乾杯して、さっそく二人は並べられた料理を食べ始めた。
 料理を口にほおばりながら、南部が話し始めた。

 「朝からほったらかしですみませんでした。雪さん、暇だったでしょう?」

 「そんなこと、南部さんには任務があるんですもの」

 「はは…… とりあえず今日の予定は無事完了しましたから。後は地球へ帰るだけ!ですよ。それに今回の航海は雪さんを乗せられるなんて、ほんと役得ですよ!」

 嬉しそうに、ニコニコと話す南部は、相変わらず口がうまい。女性の心をちょっとばかりウキウキさせるのがとても上手だ。

 「まあ、ありがとう。でも、南部さんも地球に帰るの楽しみでしょう?」

 「はは…… そりゃあまあね」

 「かわい〜い奥様とお子様達が待ってるものね〜」

 雪がそこに話題を持っていくと、南部の顔はさらににやけた。元プレイボーイも、いまや妻と子供達にメロメロの優しい夫でありパパなのだ。特に今年産まれた娘には、目がないらしい。

 「そりゃあもう…… いやぁ、けど、娘ってのがあんなにかわいいもんだったなんてほんと初めて知りました。俺ももう古代さんのことバカに出来なくなりましたよ」

 「うふふ…… また一人ここにパパバカさんが増えたのね?」

 「その通りです、はい」

 素直に認めるところがまたいい。雪はそんな南部をからかうように、南部の家族の話を続けた。それからしばらくは差しさわりのない話が続き、食事も滞りなく終わった。
 最後に給仕の係が食後のコーヒーのポットを持ってきて置くと、部屋から出て行った。

 (15)

 雪がポットから2人分のコーヒーをついで、1つを南部に差し出した。南部は、そのコーヒーを一口うまそうにすすってから、ふうっと大きく息を吐いた。

 「けど、古代の奴、寂しそうでしたね」

 「そぉお?」

 「そりゃあそうでしょう。せっかく久しぶりに奥さんに会えたのに、もう帰っちゃうんですからねぇ。ま、昨晩はたっぷり別れを惜しんできたんでしょうけどねぇ」

 ニヤリとしながらウインクする南部に、雪が頬を染める。

 「やぁね、何よ、南部さんったら!」

 「はっはっは、図星だったみたいですね」

 「でも、今までだって何度も繰り返してることよ。いつもとは反対で、彼のほうが見送りの立場になったくらいだわ」

 「しかし、お子さんたちもいないし、あいつ帰りた〜いなんて言ってませんでした?」

 さらに加えられた南部のからかい文句に対して、雪の反応は少し違ったものだった。

 「さあ、どうだか? 彼は彼で、あの星の暮らし楽しんでるのかもしれないわよ」

 「え?……」

 雪にしては珍しくちょっと投げやり言い方に、南部は驚いた。さらに雪の表情に、深い影を感じて、その疑問を口にした。

 「何か……あったんですか?」

 「何って? 別に……何もないわ」

 「本当に?……」

 南部の脳裏に、ふと例の彼女の姿が浮かんだ。

 (まさかあいつなんかしでかしてて、それが雪さんにばれたってわけじゃないだろうなぁ……)

 (16)

 ますます沈んだ顔になる雪を見ていると、南部はどうしても黙っていられなかった。

 「まさか、あいつ雪さんを泣かせるようなこと、しでかしたんじゃないんでしょうね!?」

 その言葉に雪は、ぱっと顔を上げて南部を見つめた。

 「それ、どういう意味?」

 「あ、いや……その……」

 「ねぇ、南部さん」

 「はい?」

 南部は、言ってしまってから言うんじゃなかったと後悔した。これでは逆に何かあるのだと雪に話しているようなものだ。

 「あなた、何か知ってるの?」

 「何かって?」

 やはり聞かれたかと思いながらも、南部はとぼけてみた。が、雪はその答えをポツリとつぶやいた。

 「ナギサさんのこと……」

 その言葉がキーとなって、南部の頭の中に、出航前の三人の様子が浮かんできた。

 「あの、まさか、え〜っ!? なんか出航の時の雰囲気がやばいなぁなって思ってたんですが、いや、でも、あいつに限って……」

 おたおたし始めた南部には目もくれずに、雪はまじめな顔で話を続けた。

 「南部さん、あの人に頼まれて、彼女のお父さん探しまで手伝ったんですってね」

 「うへっ、そ、それも知ってるんですか?」

 「ええ」

 雪が真剣な眼差しでこっくりと頷く。南部も、だんだんとその表情が険しくなっていって……

 「で、あいついったい何を……やらかしたんですか?」

 「…………」

 無言でぷいとそっぽを向く雪を見て、南部は最悪の状況を想定してしまった。まさかとは思ったが、やはり古代も男だったのか、などと半ば感心しながらも、雪の怒りをどう納めようかと思うと、頭の中はさらに混乱した。

 「ま、まさか……!?あっ、い、いや、雪さんっ! あの、男って奴は、なんっつーかそういう動物っていうか、今まであいつが潔癖すぎただけで、その……まあ、ちょっとした出来心っていうか…… 許してやってくださいよ! あいつももう二度とそんなことはしないと……」

 そんな南部を、雪はじろりと睨んだ。それから苦笑気味に首を左右に振った。

 (17)

 「南部さん! 変なこと言わないで」

 「あれっ?違うんですか? やだなぁ、もう。びっくりさせないでくださいよ、雪さん。はぁ〜 そうですよねぇ、あんなに雪さんに惚れ切ってる奴が浮気なんてできるはずはないからなぁ」

 南部は、心底安心したように、肩から息を吐いた。その姿を見ながら、今度は雪は寂しそうに微笑んだ。

 「ええ、そうよ。あの人は浮気なんて絶対出来ない人だと思ってるわ」

 雪は席から立ち上がると、窓の方へ歩いていった。窓の外の宇宙空間をじっと見つめる。南部も同じように立ち上がって、雪の隣に立った。

 「そうですよね、あいつに限って。雪さんも意地悪だなぁ。そりゃあ俺もちょっと焚き付けたことはありましたけどね、い、いえ、それもほんの冗談ですよ。けど、あいつはそんなの歯牙にもかけてなかったですからね。うんうん、あいつが浮気なんて……」

 南部が作り笑いを浮かべながら横から雪の表情をうかがうと、雪は再び真剣な眼差しで南部の方を向いた。南部はドキリとした。何かよからぬ想像が胸をざわつかせる。

 「もしかして、彼女に何か言われたんですか?」

 雪は、「いいえ……」と答えてから、その後の言葉を春秋していたが、しばらくして口を開いた。

 「その逆よ。ナギサさんと二人だけで会った時に尋ねてみたわ。彼のこと好き?って」

 「え? それはまた大胆な……」

 「だって……それを確認しないと帰って来れないって思ったんですもの」

 雪の微妙に潤んだ瞳にまっすぐに見つめられ、南部はごくりとツバを飲み込んだ。

 「それで、彼女は好きだと?」

 その問いに、雪は一旦視線を宇宙に戻してから、こっくりと頷いた。

 「本当に真面目に彼のこと愛してるみたい。でもその気持ちをあの人に伝える気持ちもないし、どうこうしたいとも思ってないって」

 南部の顔付きが変わり始めた。雪に負けず劣らず真剣な眼差しになっていく。

 「それで古代は?」

 「ナギサさんの気持ちは知らないみたい。っていうか知りたくないのかもしれないわ」

 「でもそれは、あいつに浮気なんてする気持ちがないってことでしょう?」

 「そうね、さっきも言ったけど彼は浮気なんてしないわ、きっと…………でも」

 「でも?」

 雪の言葉の真意がつかめなくて、南部は聞き返した。すると、雪は一瞬考えていたが、思い切ったようにこう言ったのだった。

 「あの人が誰かに惹かれるとしたら、それは本気だってこと」

 (18)

 「と、突然、何を馬鹿なこと!?」

 そう言いながらも、南部の心にざわめきが走った。確かに進を一番良く知る雪の言葉は真実に近いと思う。古代進という男を何年も見てきた南部も、その言葉には頷ける部分が多かった。

 (確かに、あいつはいい加減なことは大嫌いな奴だ。女房を愛しながらちょっとつまみ食いなんてする奴じゃない。そう、もし女に興味を持つとしたら、その時は……)

 その南部の気持ちを感じたように、雪は辛そうな表情をした。

 「馬鹿なことじゃないわ。あの人は、どこかで彼女に惹かれてるの。自分でも気付いていないかもしれないけれど……」

 「そんな……」

 そんなふうに言われてしまうと、南部にも慰めの言葉がでてこない。

 「それに……彼女、あの人と同じ目をしてた」

 「私の知らない世界を彼と共有できるのよ、彼女は……」

 雪の表情が暗くなっていく。今にも泣き出しそうな顔をする雪に、南部は何と言って声をかけていいのかわからなかった。

 「雪……さん?」

 「でも信じてる……信じていたいの!彼のことを……」

 何かにすがるようにそう強く訴える雪に、南部も再び元気付いた。

 「当たり前ですよ! 古代に限ってそういうことは……」

 「そうね、そうよね…… 今はただ、そう信じるしか……ないのかもしれないわ」

 雪はそう言うと、伏目がちに手すりを握る手に視線をやった。南部には、雪の手が小刻みに震えているように思えた。

 (19)

 「雪……さん?」

 南部が声をかけても、雪は顔を上げなかった。それでも南部はその状況に耐えられなくて、もう一度「雪さん」と声をかけた。
 すると今度は南部の声に雪は反応を示し、ゆっくりと顔を上げた。南部は雪が泣いていたのかと心配したが、その瞳から涙が溢れてはいなかった。

 「うふふ、ごめんなさい。南部さんにこんなこと言っても困っちゃうわよね」

 弱々しくではあったが、雪は微笑んだ。その雪をさらに力づけようと、南部の声にも力が入った。

 「大丈夫ですよ、雪さん。雪さんと古代の間に何か割り込むものなんてあるはずないじゃないですか! 二人がずっと築いてきたものを、僕らはそばで一緒に見てきたんですからね! 絶対に壊れたりするもんですか!!」

 「……ありがとう、南部さん。でもね、もし彼が私よりあの人のこと好きになったときは、隠さないで教えてね」

 その言葉がとても切なくて、南部は胸が痛くなった。

 「ば、馬鹿なこと言わないでくださいよ!! あいつは未だに恋愛の仕方ってのがわかってないんですよ! 若い娘に惚れられて情にほだされてしまってるだけに違いないんですから。心配ないですよ、雪さん。今度ラランド星基地に行った時に、俺があいつにちゃんと渇入れておきますから!」

 「うふふ、ありがとう。そうね私も彼を誰にも渡したくないわ。今も誰よりも愛してるもの。かわいい子供達のパパなんですもの……」

 雪の胸に進への思いが湧き上がる。誰にも渡したくない…… それは雪の心からの本音だ。

 「そうですよ!!」

 「でも…… もう一方で私は、あの人にはいつも一番幸せでいてもらいたいって思ってる。だからもし、あの人が私よりも一緒にいたい人がいるのなら、あの人がその人を選ぶのなら、私は……」

 (20)

 雪の声が、こみ上げてくるもので詰まった。

 進の幸せが自分の幸せだと、雪はいつも心に誓っている。それも偽りのない心からの本音だ。だからこそ、進には本当に思う人と一緒にいて欲しいと思う。例えそれが自分でなくても…… けれどそんなことを考えることは、とても悲しいことだった。

 すると、南部が言葉を荒げた。

 「雪さん! 怒りますよ、僕は!!」

 その声に、雪はびくりとして顔を上げた。南部は真剣な顔で雪を睨んでいる。その顔を見ているうちに、雪は自分が弱気になりすぎていたことを恥じた。

 「ごめんなさい。なんだか、南部さんと話してる間に、センチになっちゃったみたいね。ああ、もうやめたわ! そう、私は彼を信じてる。彼はきっと来年の春に私達のところに戻ってきてくれるわ、そうよね、南部さん?」

 「もちろんです!! 今は、離れ離れにいるから不安になってしまうだけですよ。心配しないでください、雪さん。俺が絶対にあいつを迷わせたりしません。責任持ってふんじばってでも地球に連れて帰りますから! 浮気ならともかく本気だなんてとんでもない!!」

 雪の言葉に満足したように、南部は勢いづいてそう語った。力強い言葉に、雪もようやく声を出して笑った。

 「うふふ、よろしくおねがしますっ! あら? でも、南部さんは浮気ならいいのね?」

 「え!? ち、違いますよ! 今のは言葉のあやって奴で……だから、その……」

 「うふふ……」

 「あはは…… あ、いや、その、この手の話、女房には内緒にしといてくださいよ!」

 「わかってるわよ、ふふふ……」

 参ったなと頭をかく南部と、くすくす笑う雪。
 さっきの会話は忘れたかのように、二人のあいだに笑顔が戻ってきた。それからは、雪はもう泣き言をいうことはなかった。そして、再び取りとめもない会話に戻った。

 翌朝、再び一緒に食事をした南部に、雪は不安げな顔をすることはなかった。そして南部ももうその件に関して、何も尋ねることはなかった。




 ラランド星基地を出発した翌日の午後、サザンクロス所属の地球防衛軍第七艦隊は無事地球に帰還した。

 その夜古代家では、母の帰宅に子供達が狂喜乱舞し、さらに、父からの手紙を手にした子供達とラランド星に残る父との、画面を通した楽しげな会話の声が家の外まで響いていた。

 「それじゃあ、また来週ね……」

 いつもと同じように、雪は進に向かって笑顔でそう伝えて、そしていつものように通信を切った。

Chapter15 終了

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