ラランドの白い花

Chapter9

 (1)

 「ゆ、雪!!」

 ノックをしたかしないかのうちにイワノフの部屋に飛び込むように入っていった進は、目の前にいる妻の姿を見て、思わず大声で叫んでしまった。
 我が目を疑うと言うのは、まさにこのことである。

 確か、彼女はおとといまで画面の向こうで微笑んでいたではないか…… 画面を通して姿を見ることはできても、会話することができても、その華奢な体を抱きしめることは、当分できないと思っていた。その彼女本人が目の前に立って自分に微笑みかけている!

 雪は、叫んだ後呆然としたまま見つめている夫を見ると、おかしそうにくすりと笑ってから小さく会釈した。

 「こんにちは、古代副司令。お久しぶりです」

 「お久しぶりって、きみっ! どうして……あっ」

 雪に駆け寄ろうとして、進ははっとして立ち止まった。その時初めて、進は自分の立場を思い出したのだ。
 慌ててイワノフのほうを向くと、直立不動の姿勢で敬礼した。

 「し、失礼しました、司令! 古代進、ただいま艦隊演習より帰還いたしました。本日の演習は予定通り無事終了いたしました。問題事項はありません!」

 イワノフは真面目な顔で敬礼し、「ご苦労だった」と答え、次の瞬間に笑顔になった。進の狼狽振りのわけを知っているからだ。

 「君にも奥さんの出張は知らされてなかったそうだね」

 「はっ! 出張する事は聞いていたのですが……行き先は秘密事項だと……」

 進は、困ったような視線を雪に送った。すると、雪はいたずらっぽい笑みを浮かべて肩をすくめた。

 「ははは…… さすがは司令本部の精鋭、例え夫であろうとも守秘義務を固く守られているというわけだ」

 口調とは裏腹に、イワノフの顔は穏やかに微笑んでいる。

 「は、そのようですね。しかし、まさか…… いや驚きました」

 苦笑する進と、笑いをかみ締めている雪を交互に見ながら、イワノフも声を出して笑った。

 「あははは…… まあ、とにかく久々に会えてよかったではないか。森さんの今日の報告は終わったし、君ももう帰っていいぞ。積もる話もあるだろう」

 「はい、ありがとうございます」

 進がほっとしたように軽く会釈をすると、雪も嬉しそうに夫の顔を見上げた。イワノフが再び雪を見た。

 「明日もナギサ君にあなた方のサポートをするように伝えてある。必要なことがあれば彼女に何でも申し付けてください」

 「ありがとうございます。明日からもどうぞよろしくお願いいたします」

 雪は、イワノフに礼を言ってから会釈した。

 (2)

 次に雪は、進が自分の横にいる秋田に視線を送っていることに気が付いた。雪に戻したその少し不機嫌そうな視線が、「こいつは誰だ?」と聞いているのが明らかだ。
 雪はまたも笑い出しそうになるのを噛み殺して、わざと慇懃に説明をした。

 「あ、古代副司令、ご紹介しますわ。こちら、秋田圭輔君。同じ厚生部第一課で私のチームで一緒に仕事してもらっているの」

 「秋田です、はじめまして。いつも森さんからお噂は伺っております」

 雪に紹介され秋田がぺこりと頭を下げた。「噂を伺って……」というところで、進は眉をぴくりと動かし妻の方を見たが、雪は黙ったままきらきらと瞳を輝かせただけだった。

 (こいつが例の秋田ってヤツか! 以前も雪と一緒に出張したって言ってた……)

 しかし、進は表情を変えずに手を差し出した。

 「ラランド星基地副司令古代進です。出張ご苦労様です。それに……いつも妻が……お世話になっております」

 差し出された手を秋田がおずおずと握ると、進は普段より少し強めにぎゅっと握った。一瞬秋田が顔をしかめたが、進は何食わぬ顔で、すぐに手を離した。それを見ていた雪は、苦笑するしかなかった。

 (もうっ、進さんったら…… 秋田君ゴメンネ)

 少し気がすんだらしい進は、秋田の存在はもうどうでもいいという顔で、雪を振り返った。

 「そう言えば、雪。司令室のみんなにも俺達のこと、まだ話してないのかい?」

 「ええ、まだよ。後であなたに紹介してもらおうと思っていたの。でも、基地の他の職員の方には、基本的には内緒にしようと思っているのよ。
 無理に隠すつもりもないんだけど、明日からまだいろんな聞き取り調査があるし…… 副司令の身内ってことがわかると、話しにくいこともあるかもしれないから」

 「ああ、そうだな。それは構わないよ。君のやり易いようにしてくれ。僕は協力する。とにかく司令室勤務の3人には紹介していいんだな?」

 「ええ、それはお願いします。私もご挨拶したいし……」

 話がまとまって、3人はイワノフに一礼すると部屋を出た。

 (3)

 イワノフの部屋の外で、進の大声を聞いた3人も、ドアを見つめたまま黙り込んでしまった。中からまた何か聞こえてこないかと、耳をすませていたが、その後は大きな声は聞こえてこず、しばらくしてイワノフの笑い声が漏れてきた。

 そこで、やっと我に返った中津がランバートの脇をつついた。

 「なあ、今、『雪っ!』って叫んでたよな、副司令」

 「ああ、知り合い……ってわけか?」

 「そんな話、さっきから何もしてなかったけど……」

 ナギサが首をかしげると、ランバートが意味深にウインクをした。

 「もしかして、副司令の……だったりして?」

 「もうっ! ランバートさんったら! 変なこと言わないで。とにかく、私戻ってくるわ」

 ナギサがドアの方へ歩き始めた時、部屋の中から進たちが出てきて、最初に出てきた進とぶつかりそうになった。

 「あっ……」

 後ずさりしたナギサが、その勢いで後ろに倒れそうになるのを、進がその腕を掴んで抱きとめた。

 「す、すみません……」

 赤い顔で体制を整え、進の手を押しのけてから、ナギサは進とその後ろにいる雪をみた。
 雪もちょうど二人の様子を見ていたようで、ナギサと雪の視線があった。ナギサは慌ててその視線をはずしながら尋ねた。

 「あの……森さんは、古代副司令のお知り合いの方だったんですか?」

 「あ、ああ……お知り合いっていうか…… 君達には以前写真見せなかったか?」

 そこで進は言葉を止めて、照れくさそうに隣の雪を見た。雪は何も言わずに微笑んでいる。

 写真と言われても、司令室の3人はすぐにピンとこないらしい。進としては、なんとも言い出しにくく相手の方に気付いて欲しいところなのだが、ナギサは大きな目を見開いたままだし、あとの二人もきょとんとしている。
 進はごほんと小さく咳払いをしてから、やっと口を開いた。

 「彼女は俺の……女房なんだ」

 (4)

 「えっ!?」 「ええっ!!!!!!」

 3人が3人とも大きな声をあげて、二人を交互に見た。特にナギサのショックは大きかった。

 (この人が副司令の奥さん!? うそ……だって姓が違うし……以前見た写真はもっと幼い感じの…… ! あ、でも…… お化粧して制服を着たら? だからさっきまでどこかであったことがあるような気がしてたの!?)

 「すみません、皆様。こちらに最初こちらに来たときに主人に紹介してもらおうと思ってたんですけど、いなかったものですから…… 自分からはなんとなく言い出しにくくて……」

 進の隣に立ってはにかむ雪は、昼間の颯爽としたキャリアウーマンではなく、夫を愛する妻らしい風情を感じさせた。

 「でも、森さんって?」

 中津が素朴な疑問を発すると、雪がすぐに微笑みながら答えた。

 「ええ、仕事上は旧姓のまま通しているんです。それに今回の任務の都合上、あまり公にはしたくない事情もあって申し訳ありませんでした」

 「いやぁ、そうだったんですね! しかし驚いたなぁ」

 「ああ、副司令の奥さんだったなんて。そりゃあいい女のはずだよな」

 中津とランバートは、すぐにニコニコと嬉しそうに話し始めたが、突然の話に、ナギサの頭の中は混乱していた。
 今日一日進の妻とは知らずに一緒に過ごしていたのだ。何か、進への思慕を悟られるようなことを言ったのではないだろうか…… ひどく不安になる。
 と同時に、進の隣に当然のように立っている――当然なのだが――雪への羨望と嫉妬が湧き上がってきた。

 (私……どうしよう……)

 雪はそんなナギサの様子をさりげなく察知していたが、そんなそぶりを見せることはなく、3人に軽く頭を下げ、改めて自己紹介を始めた。

 「遅くなりましたが、改めてご挨拶させていただます。私森……あ、いえ、古代雪です。いつも主人が大変お世話になっております」

 「い、いえ、とんでもない! お世話になってるのはこっちの方です。僕は中津清志と申します。こちらはジョン・ランバートです」

 「中津さん、ランバートさん、よろしくお願いいたします」

 雪が笑うと、中津もランバートも今にも舞い上がってしまいそうなふやけた顔になる。

 (まったく、男どもの雪への反応振りは相変わらずだな)

 進は、初めて出会った時からずっと、雪の笑顔が周りの男達のハートをとろけさせるのを見てきた。その魅力は10年以上経った今も健在で、いや大人の色気――人妻の魅力か?――が増した分昔以上かもしれない。

 雪と初対面の男達がいつも見せる反応に、若い頃は一々苦々しい思いで腹を立てていたが、今はさすがに気持ちに余裕ができてきたと思う。その証拠に、今は鷹揚に微笑んでいられる、などと思っている進である。

 しかし、さっきの秋田に睨みをきかせたことは、いったいどういうことなのか? まあ、そのことは今は言及しないことにしよう。

 とにもかくにも、進と雪この二人が微笑みながら並んでいる姿は、誰が見てもお似合いのカップルである。
 しかし、一人ナギサだけは笑顔を取り繕ってはいるものの、心の中は重苦しく沈んでいった。その時、中津がナギサの紹介をした。

 「それから、もうご存知だと思いますが、彼女がナギサ・ライアティア。司令と副司令の秘書も兼任してもらっています」

 ナギサは自分の名前が出たことで初めてはっとした。慌てて「よろしくお願いします」と頭を下げた。心臓がドキドキと激しく打った。

 (やだ、また…… 私、今変な顔してたんじゃないかしら……)

 しかし、雪は特に気にする様子もなく、ナギサにも同じように微笑みかけた。

 「ナギサさんには、今日一日お世話になりました。あと二日調査や相談会の方進めさせていただきますので、どうぞご協力お願いいたいます」

 ナギサも必死に笑顔を作って頷いた。

 続いて雪が秋田を紹介し、各員と挨拶し終わるのを待ってから、進が口を開いた。

 「じゃあ、今日はこれで終わりだな。これから飯を食いに行こうと思うんだが、3人とも一緒にどうだ?」

 「あっ……行きたいのは山々なんですが……」

 中津とランバートが困ったように顔を見合わせた。

 「今日は珍しくまだ仕事が残ってまして…… 申し訳ないんですが」

 「そうか。じゃあ、ナギサ君は?」

 「あ……でも……」

 「もしよろしかったら、是非ご一緒にどうぞ。主人のこちらでの様子もお聞きしたいし、もちろん悪口でもOKよ」

 口篭もるナギサに、雪が声をかけた。雪は彼女ともう少し話をしてみたかった。進とのことはもちろんだが、それ以外にも、なにかしら彼女に惹かれるものを感じていた。

 「あっ、いえ、そんな……」

 ナギサは、冗談めかして誘う雪に思わず笑みを浮かべた。しかし……

 「こらっ、雪!」 「ふふふ……」

 ちょっとしたことで会話を交わして笑い合う二人を見るたびに、ナギサの心は重く沈んでいく。出来得るなら、今はこの二人を目の前に見たくないというのが本音だ。
 しかしそんなナギサの心中も知る由のない中津は、ナギサの同行を促した。

 「ナギサ君、せっかくの誘いなんだし、司令室を代表して行ってきてくれよ。僕らはまた明日にでも…… いいでしょう?副司令」

 「ああ、もちろんだ。じゃあ、ナギサ君はいいね」

 「はい…… それではお言葉に甘えさせていただきます」

 進にも再度促され、とうとう断る理由を見つけられずに、ナギサは頷くことになった。

 (進さん、私と彼女が一緒でも全然気にしてないんだ…… じゃ、やっぱり私の考え過ぎだったのかしら?)

 もちろん、妻に何か後ろめたいことをしているという気持ちは、今の進には全くない。雪がナギサと進の関係に何がしか感じていることも知らないし、逆に雪に再会できたことで、自分の気持ちが余計な方面にふらつくことがなくなると、大歓迎したい気分なのだ。

 (5)

 今晩の行き先は、いつもよく行く居酒屋がいいだろうという進の言に従って、例の店に決まった。
 自然とナギサの隣に秋田が、そして進と雪がその後ろを並んで歩く形になった。
 進は、ここで初めてふうっと大きく息を吐いて、雪に微笑みかけた。

 「しかし、本当にびっくりしたよ。君がここに来るなんてな。全く驚かせてくれるよな」

 非難しているような口調だが、顔は嬉しそうに笑っている。そんな夫の顔を見ると、雪もいろんな不安や考え事が飛んでいってしまう。夫に負けないほどの嬉しそうな顔をしてみせた。

 「ふふ……ごめんなさい。でも仕事なんですもの」

 「はいはい。で、森の両親や子供達は知ってるのか?」

 「パパとママには言ってあるわ。でも子供達には内緒よ。だって話したら僕も行きたい!って始まりそうで」

 見送る子供達の顔を思い出しながら雪が答えると、進も目を細めて笑った。

 「あはは……そうだな、言えてるな。しかし、長い出張のことを言ったら、愛は泣かなかったか?」

 「ええ、そうでもなかったわね。愛は結構あっさりしてるのよねぇ。女同士だからかしら? 泣きそうになったのはどっちかって言うと航のほうよ。ママ、いつ帰ってくるの!って何度も……ふふ」

 雪の説明に、進がプッと噴出す。その光景が目に浮かぶ。守は長男でしっかり者、航はママ大好きの甘えん坊。そして愛はマイペースのちゃっかり娘。兄弟でも三人三様の性格を持っている。

 「あいつは甘えん坊だからな、仕方ないさ。ああ、でも俺も子供達に会いたいなぁ〜」

 「新しいビデオや写真、たくさん持ってきたからあとで見せるわ」

 「おおっ! それは嬉しいな!」

 そして再び、二人はにっこりと笑いあった。

 進は嬉しかった。隣に雪がいることが、これほど自分をリラックスさせることを今更ながらに感じる。妻の笑顔もいたずらっぽい顔もちょっと拗ねたように睨む顔も、全部そのままで今までと変わらず愛しいと思う。
 雪がいないここで感じたナギサへの微妙な思いが嘘のように思えるほどだった。

 (6)

 数歩前を歩く秋田とナギサは、始めは無言で歩いていた。その二人の耳には、後ろの会話が聞くともなしに聞こえてくる。

 「後ろは盛り上がってますね」

 さりげなく会話を始めようとかけた言葉に、ナギサはすぐに反応しなかった。あれっ?と思いながら、ナギサの方を見ると、何か考え事をしているのか難しい顔をしている。秋田の声が耳に入ってないらしい。

 「ナギサさん? ナギサさん!」

 秋田が再度声をかけて、やっとナギサは自分に向けて話しかけられていることに気付いた。

 「えっ? ええ? あ、なにか?」

 「いや、別に…… あ、ああ、まだ着かないかなって思いまして」

 秋田は、とりあえず言葉を繋いだ。

 「あ、ええ…… あの角を曲がったらすぐですわ。あまりお上品な店じゃないんですけど、お料理はとても美味しいんですよ」

 初めてナギサが笑顔になった。

 (きれいな人だよな……)

 褐色の肌や顔立ちから、秋田は彼女が南方系の出身だと推察する。目鼻立ちがくっきりした美人。その上仕事も難無くこなして聡明。雪も言っていたが、辺境の基地に置いておくにはもったいない人材だと、秋田も思った。

 そして、彼女が今少し落ち込んでいるように見える理由も、昔の自分になぞらえてなんとなくわかるような気がしていた。

 (彼女…… 古代さんに憧れてる?惚れてるのかな? まあ、彼女の気持ちはよくわかるけど。俺も初めて森さんに出会った時は、ボーっとなったもんな。予想はしてたとはいえ、森さんが結婚してて3人の子持ちだって知ったときは、ちょっと落ち込んだよな〜)

 「ああ、それが一番ですね。楽しみだなぁ。今日はこんな美人に接待してもらえるなんて僕はラッキーですよ」

 「まあ、お上手ですね。いつも森さんのような美人の方と一緒にいらしたら、私なんて全然……」

 謙遜して恥じらいがちに微笑む姿は、初々しい美しさがあり、秋田にも好感を与えた。

 「あはは、そんなことないですよ。森さんは確かにきれいですけどね、僕なんかは、子供扱いですよ。全然相手にしてもらえてません。ははは…… ナギサさんとの方が年は近いでしょ? 同世代かな? 年を聞いてもいいですか?」

 「ええ、今23です」

 「僕は25です。やっぱり後ろの二人よりは俺たちの方がずっと若い!」

 冗談ごかしにウインクする秋田に、ナギサは嬉しそうに笑い出した。

 「まあっ、うふふ……」 「あはは……」

 ナギサの笑い声に、秋田の笑い声も重なった。それは後ろで会話している進と雪にももちろん聞こえてきた。
 雪がくすっと笑うと、進に耳打ちした。

 「前の二人、話、合うみたいね?」

 すると、進は前で笑っている二人をじっと睨んだ。

 「えっ? そ、そうか? しっかしあいつ、口ばっかり回る男じゃないだろうな」

 「秋田君? そんなことないわ。仕事も熱心だし、とってもいい子よ。私が保証するわ。だって、新人の時から私が育てたんですもの」

 「ふうん…… 君がねぇ〜」

 と口を少し尖らし気味の進に、雪は喉の奥で噴出した。雪が他の男を誉めたのが面白くないらしい。

 「くくっ…… や〜ね。変なやきもち妬かないでよ」

 「妬くわけないだろ!」

 「うふふ、どうだか? そういうあなたこそ、あんなかわいい人がそばにいてくれてよかったわね」

 「ばっ、なに言ってるんだよっ!!」

 雪がナギサのことを言及したのはこれが初めてである。それも別に他愛もないからかいの文句なのだが、進はやけに焦ってしまった。

 (何焦ってんだ、俺!?)

 さっきまで全く後ろめたくないと思っていただけに、自分の動揺具合が自分でもわからない。そんな進の顔を覗きこみながら、雪はまた、ふふふと笑った。

 (7)

 ほどなく目当ての店に到着した。4人が中に入ると、まだ時間も早いからか、割合空いていた。奥の方のテーブルを選んで座る。ここでも、進と雪、ナギサと秋田が隣同士に座った。
 飲み物の希望を各人に尋ねてから、料理の方は、店に慣れた進とナギサが適当に注文した。

 次々と料理が届き始めると、さっそく食事が始まった。雪も秋田もこの店の味が気に入ったようで、皿の料理は順調に減っていった。
 会話も当たり障りのないところで、盛り上がった。雪や秋田は、もちろん地球でのことをのあれこれと話し、一方で進やナギサがラランドの様子を聞かせるといった具合だ。

 間に進の存在を介在させなければ、雪もナギサも今日一日の付き合いで、お互いに好感を持っていた。
 ナギサから見れば、雪は仕事ができる女性でありながら、仕草も雰囲気もとても女らしく美しい。女性としてそんな風にありたいとナギサが憧れているものを、雪は持っていた。
 雪にとってもそうだった。はきはきとした的確な対応をするナギサは、雪が最も好きなタイプの女性なのだ。
 ナギサも雪も心の中の微妙な思いは一旦横において、食事と会話を楽しむことに専念した。

 しばらくとりとめもない会話が続いて、食事も中盤を過ぎた頃、進と秋田が地球のプロスポーツの話題で盛り上がり始めた。
 雪も最初は話に加わっていたのだが、ふとナギサが手持ち無沙汰にただじっと二人の会話を眺めている――雪には彼女の視線は進に向いているように思えた――のに気が付いた。
 そこで、雪は思いきって彼女に話しかけてみることにした。

 「ナギサさんって、お名前は日本人のようですけど、どちらのご出身なの?」

 すると、ナギサはゆっくりとその彫りの深い美しい顔を雪に向けた。

 「あ、タヒチです。名前は日本人の……父が付けてくれたんです」

 「そう……お父様、日本人なの。じゃあ、お母様がタヒチの方なのね」

 「はい……」

 微妙に寂しそうに視線を落としたナギサを見て、雪は彼女が地球の両親のことを思い出しているのかと思った。

 「遠い基地に配属されちゃうと、なかなか地球にも戻れなくて、ご両親にも会えないでしょう? 寂しいわね」

 すると、ナギサはふうっと息を吐くと、なんとも言えない複雑な笑みを浮かべた。

 「両親は……私が小さい頃に亡くなりました」

 ナギサがそう言った時、ちょうど男性陣の会話も途切れた時で、ナギサの言葉に三人が注目する形になった。

 「雪!」

 進が雪をたしなめるように声をかけると同時に、雪もいらぬことを尋ねてしまったと思った。

 「あらっ、ごめんなさいっ! 悪いこと聞いてしまったわ」

 しかし、ナギサの方が今度は驚いて慌てて首を両に何回も振った。

 「ああ、いえ……そんなこと…… もう10年以上前のことですから、私もう全然平気なんです。あの……気になさらないでください」

 ナギサは、懸命にそう言うと、意気下がった場を明るくしようと、思いつく言葉を捜した。

 「それより、森さんもタヒチに来られた事あるんですよね。古代副司令とご一緒に……」

 ナギサが、ニコリと笑った。雪が進を見ると照れたような顔をしている。

 「ええ…… 新婚旅行でね。とても素敵なところだったわ。ナギサさんはタヒチのどの島のご出身なの?」

 「ライアティア島です」

 「ああ、そう言えばナギサさんの苗字はライアティアですものね。島と同じ名前だなんて、随分由緒正しい家系なんでしょうね」

 雪の言葉に、ナギサははにかんだような笑みを浮かべた。

 「昔は島の神殿に仕える神官の家系だったそうです。今は特に関係ないんですけれど…… でも、島のことは大好きです。ガミラスの遊星爆弾や太陽の異常増進で何度も島の自然が破壊されましたけど、島のみんなの努力で、今は昔のような美しい島に戻りました」

 「そうね。私達が行った時はまだ復興途上で、旧首都のパペーテと観光用に優先的に復興したボラボラ島しか行けなかったのよ。だけど、とってもきれいな島で本当に感動したのよ。
 今度行くことがあったら、ライアティア島にも行ってみたいわ」

 「ええ、ぜひ!」

 ナギサが島のことを誉めらると嬉しそうに笑った。そんな若々しい笑顔は雪にさえもまぶしく輝いて見える。雪がチラッと隣の進を見ると、彼も目を細めて笑っている。ちょっと悔しい気分で、夫に流し目を送った。

 「まだまだ観光しきれなかったのよね、ねぇ、あなた」

 島の話をするナギサはとてもいい笑顔をするな、などと思っていた矢先、今度は妻が、まるで当時のことを思い起こさせようとするかのように、やけに色っぽい視線を向けてくる。思わずドギマギしてしまう。
 もちろん、雪のそんな視線がナギサを意識してのことだとは、進にはわかっていない。

 「ん? ああ、ははは……」

 思わず照れ笑いする進と嬉しそうに微笑む雪をまじまじと見て、秋田がからかい始めた。

 「ああっ、わかった! 観光しきれなかったって、新婚さんはホテルの部屋からも出る暇なかったんじゃないんですか?」

 「なっ!」 「まあ、秋田君ったらぁ」

 「あ〜〜あ、二人して真っ赤になって、こりゃ図星ですね。あっついあっつい!ねぇ、ナギサさん!」

 「あはっ……ほんとですねっ! ふふふ……」

 ナギサは、照れて赤くなる古代夫妻を、秋田と一緒に声を出して笑った。しかし同時に、心の中の感情のままの自分が、笑っている偽者の自分を空虚な目で見つめているのを感じていた。

 (わかってたことなのに…… 古代さんは奥様を愛してらっしゃる。そんなことわかってた…… でも、奥様がここに来るなんて…… お二人の幸せそうな笑顔を目にするのは…… やっぱり辛い……)

 それでもナギサは、表面上はただ笑い続けるしかなかった。

 (8)

 それからまたひとしきり会話が盛り上がった後、進は時計を見た。針は9時を指している。

 「食事もだいたい終わったかな。明日も仕事だしそろそろ帰るとするか?」

 「ええ、そうね。ナギサさん、今日は付き合ってくださってありがとう」

 最初に立ち上がった進に続くように、一同が立ち上がった。

 「いいえ、こちらこそ。それじゃあ、お二人を宿舎の方へご案内しますわ……あっ」

 ナギサはあっと言う声とともに手を口元に持っていった。食事のレシートを持って歩き出そうとしていた進が振りかえった。雪の顔をまじまじと見てから、苦笑交じりにナギサに指示をした。

 「あっああ、そうだな。雪はうちに泊めるから。すまないが、彼女の分はキャンセルしてくれるかい?」

 「はい。そう、ですよ……ね」

 ナギサの声が、なんとなく力なく聞こえる。進が不思議そうな顔をする。どうした?と進の口が動く直前に、秋田が冗談を飛ばした。

 「そうそう。なんてったって半年振りですからね〜 夜更かしして、明日遅れないでくださいよ、森さん!」

 「またぁっ! 秋田くんっ!!」

 雪が真っ赤になって秋田を睨んだ。進も照れ笑いだ。秋田がわはははと大きな声で笑った。それにつられるようにナギサも笑顔を見せると、秋田は今度はナギサの方を向いた。

 「じゃあ、僕だけですけどお願いできますか?」

 「はい、それじゃあ……」

 4人は席を立った。「今日は僕のおごりだ」そう言ってレジで支払いをする進を置いて、雪たちは先に店を出た。
 すぐ後に、支払いを終えた進が店を出てきたたところで、秋田が言った。

 「じゃあ、僕らは先に…… 今日はご馳走様でした」

 ナギサも同じように礼とお辞儀をして、秋田と一緒に先に歩き出した。宿舎と進達の住む官舎は別方向なのだ。
 雪と並んで二人を見送りながら、進が小さな声で呟いた。

 「ナギサ君一人で送らせて大丈夫かな? ……あいつ、大丈夫だろうな。何か間違いでもあったら」

 「あのねぇ……何、変な心配してるのよ! 彼は任務で出張してきてるの。あなたと違うわよ」

 「お、おいっ! それどう言う意味だよっ! 俺が何をしたって?」

 「べ〜〜つにっ! さ、帰りましょ!」

 雪はつんとあごを突き上げると、進の質問には答えることはせず、先にすたすたと歩き始めた。

 (9)

 宿舎へ向かう秋田とナギサは、しばらく無言で歩いていた。進達と別れ、ナギサの心はいつになく沈んでいる。だが、秋田の手前そんな顔をするわけにはいかない。ナギサは、唇をぎゅっと強くかみ締めて、ただまっすぐ歩いていた。

 すると、秋田がポツリと言った。

 「ナギサさん…… 諦めた方がいいですよ」

 「えっ!?」

 驚いて秋田を見上げるナギサに、秋田は静かに微笑んだ。

 「なんのことをおっしゃってるのか……わかりませんわ」

 ナギサが顔をこわばらせながらそう答えると、秋田がまたふっと笑った。

 「忍ぶれど、色に出にけり我が恋は、物や思うと人の問うまで……ってね」

 「? なんですかそれ?」

 「日本の古い歌ですよ。とても切ない…… 今のナギサさんにぴったりの歌です」

 「残念ですけど、私は日本の歌はよくわかりませんわ」

 ナギサはとぼけたようにそう答えた。

 「そうですか……」

 秋田はそれ以上は何も言わなかった。ナギサももちろん黙ったまま歩き続け、宿舎の前についた。
 手続きをすまして、秋田を目的の宿舎に送り届けてから、ナギサは再び家路を急いだ。
 ほどなく見なれた自分の部屋まで戻ってきた。ナギサは部屋に入ると、さっきの秋田の言葉を思い出した。

 秋田が何を言おうとしていたのか…… ナギサにはわかっていた。そして日本の古い歌の意味も、なんとなくわかるような気がする。
 そう、ナギサの進への気持ちを、秋田は今日の様子ですぐに察したのだ。ということは……

 (奥様も私の気持ち、気付いてたってこと? 奥様、古代さんに何か言うのかしら?
 でも、諦めた方がいいだなんて…… そんなこと、言われなくてもわかってる、私…… そう、最初から……わかってた……
 だって、あんな素敵な奥様が…… 美人で仕事ができて、それでいてとても物腰の柔らかい……素敵な女性…… 私なんか……)

 ナギサは、今朝進の机から持ち帰ってきた小箱をバッグから取り出した。いつも通り、昨日持って行ったきんぴらごぼうの空箱が引き出しに入っていた。
 開けた小箱の中に書かれていた進のメッセージ――いつも料理の感想を短く書いてくれていた――には、妻が来る事を知らなかったはずなのに、タイミングを合わせたかのように、ナギサからの料理の提供を丁重に辞退する旨が書かれていた。

 『今日のきんぴらもとても美味かったです。ナギサ君も、もう十分に日本の料理もマスターしたようだね。
 それで、僕の味見のほうも今日で終わりにしようと思います。いつか日本に行ったらおじいさんとおばあさんがとても喜ばれる料理を作ってあげてください。今日までいろいろな料理、ご馳走様でした。僕も随分懐かしい思いをさせてもらえて嬉しかったです。本当にありがとう』

 (古代……さん……)

 ナギサは、進の書いたメモをぎゅっと胸に抱きしめた。抱きしめながら、涙がこぼれてくるのを止めることができなかった。

 (10)

 秋田たちと別れた進と雪は、二人並んで進の官舎のほうへ歩き始めた。二人きりになると、進も雪も急に心の緊張が取れてくるのがよくわかった。顔を見合わせて、ふっと笑いあう。夫婦として何年も連れ添った二人だから感じる安堵感なのかもしれない。

 歩きながら、とりとめもない会話が続いた。主に話すのは、雪の方。子供の健康のこと、学校や保育園での出来事など、話したいことは限りなくあった。進にとっても、子供の話題は最高のごちそうだった。

 途中、基地と居住区をつなぐ長い通路のところで、進は窓の外に目をやると、立ち止まった。

 「雪……」

 「ん? なあに?」

 雪も足を止めて、夫の視線の先を見た。

 「あれ……」

 外は薄暗いが、通路の明かりでなんとか街路樹のようなものがずっと並んでいるのが見えた。その背の低い木のあちこちに白い小さな花が咲いている。

 「まあ、お花? 白くて小さな花.かわいい花ね。あっ、あれがもしかして……?」

 「ああ、あれがラランドティアレだよ。雪にも話したことあったよな」

 「そう……かわいらしい花ね。こんな荒れた土地にあんな可憐な花が咲くなんて……」

 「だろ? だから俺、あの花が大好きになんだよ」

 雪はちらりと夫の顔を見た。とてもいい笑顔をしている、
 元々進は動植物をこよなく愛する男だから、花々を見る目も優しい。しかしその花を見る視線は、いつもより増して優しく柔らかい。とても大切なものをそっと慈しみ包むような笑顔だ。

 「そうね…… とっても一生懸命に咲いてるって感じがする。寂しい辺境の基地に咲く可憐な白い花……タヒチのティアレを思い出させる花…… それってまるで……」

 あのタヒチの人、ナギサさんみたいね…… 雪は心の中でそう呟いた。雪には、その進の温かい瞳が花を通してナギサを見ているような気がしてならなかった。

 「えっ?」

 「ううん、なんでもないわ。疲れちゃった、早くうちに帰りましょう」

 「そうだな」

 進の優しい視線はそのまま妻へと注がれた。そっと雪の肩を抱き寄せると、雪は軽く頭を彼の肩に乗せた。お互いの温かい体温がじんわりと伝わってくる。
 二人はぴったりと寄り添ったまま家路についた。

 (11)

 部屋に着くと、進がドアのキーを開けた。ドアを開けて中に入りながら、進が言い訳のように呟いた。

 「君が来るなんて知らなかったから、ちらかってるぞ」

 「うふふ、期待してないわ。あんまり片付いてる方がかえって不気味よ」

 雪は笑いながら、後に続いた。
 部屋は入るとすぐにリビングになっている。片付いていないと言いながらも、思ったほどではない。床のじゅうたんの上に、雑誌や新聞が少々散らばっているくらいだ。
 リビングには、進の仕事用の机があり、その上にパソコンが乗っていた。すぐ横には、小ぶりのTV電話が部屋の備え付けとして壁に埋め込まれていた。それを見ながら、進が言った。

 「家に連絡するか? 子供達はもう寝てるかもしれないけど」

 「そうね、一応無事に着いたって知らせておくわ。ママだけパパのところにいるって知ったら、子供達怒るわね」

 「ははは、仕方ないさ。仕事なんだから」

 進は笑いながらボードの数字を押し、地球の我が家への通信回路を開いた。
 繋がるとすぐに雪の母の美里が画面に現れた。子供達は、ほんの少し前に寝てしまったらしい。そして開口一番、子供らは何事もなく元気にしているので、心配するなと言われた。

 「それに二人揃って画面の向こうにいるのを知ったら、かえって寂しがるかもしれないわ。だから、あんまりそっちから連絡してこなくていいわよ。なにか聞きたいことあれば、こっちから連絡するから」

 そんな風に、張り切りおばあちゃんにあっさりと宣言されて、パパとママは苦笑しながら、通信を切った。

 「もうっ、ママったら!連絡してこなくていい、はないでしょう!」

 「ははは…… 怒るなって。お義母さんだってその方がいいと思うから言ってるんだから」

 「まあね。ちょっと寂しいけど、子供達が元気にしてくれててよかったわ」

 「ああ、君がいなくても全然平気みたいだな」

 「まぁっ!」 「はっはっは……」

 (12)

 とりあえずの要件を済ませた雪は、リビング以外の部屋に目を移した。右奥に台所、左にもう一つの部屋。そして一番奥が寝室になっている。いわゆる2LDKで、進が一人で暮らすには広すぎる間取りだった。

 「結構広いのね」

 「そりゃ、幹部職員用の住宅だからな。一応夫婦二人ぐらしは十分に出来るようにはなってるはずだ。家具も全部備え付けだしな」

 自宅に戻ってほっとしたのか、うーんと一つ伸びをして進はそう説明した。
 雪はその話を聞いていたのか聞いていないのか、きょろきょろと周りを見まわしてから、すたすたと台所に入っていった。

 台所には、大きな食卓がドンと真中に置かれていた。これも一人にはもったいない面積を占めている。
 流しを見ると、乾いてからからになっている。ほとんど使っていないのかもしれない。

 (進さんったら、外食ばかりしてるのかしら? そういえば、明日の朝ごはん何かあるのかしら?)

 雪の主婦の血が騒ぐ。さすがに結婚して10年近くたっているだけのことはあるようだ。材料を物色するため、冷蔵庫を開けようとした時、急に後ろから抱きすくめられた。

 「きゃっ!」

 進は、雪の腕ごとすっぽりと自分の腕の中に包み込んだ。さっき、半年振りに雪の姿を見たときからずっとこうしたくて、その瞬間を待ち望んでいたのだ。

 「どこに消えたかと思ったら…… 台所になんて何にもないぞ。お湯を沸かすくらいしかしないんだから…… それより……」

 言葉はそこまで、後は行動あるのみだ。進は雪の体を強く抱きしめた。そしてほのかに漂う彼女の甘い香を胸いっぱいに吸い込んだ。

 進は、雪の首筋にかかる髪の毛を鼻先とあごでよけると、うなじに熱い唇を這わせ始めた。進の唇と舌が、ゆっくりと雪の首筋をなめるようにたどっていく。

 「あん……なにするの…… だめ、よ……まだ……」

 「なにがまだなんだよ…… 俺はもう我慢できない……」

 唇をうなじに沿わせたまま、くぐもった声で進がささやく。

 「んふっ、ん、ああ……」

 進はくすぐったそうに体をくねらせる雪を、さらに強く抱きすくめて、愛撫を繰り返した。進の唇はうなじから首筋、そして肩の付け根まで動き、後ろからまわされた両手が、雪の胸の膨らみをぐいっと掴んだ。

 「はぁ……あんっ……」

 雪の口から、思わず声がもれてしまう。

 「半年分……たまってるんだぞ」

 「ばか……」

 私だっておなじよ…… 雪が心の中で呟いた。
 そうなのだ。雪だって本当は進と同じなのだ。ずっとこうしたかった…… 体の中の熱いものが彼を迎えたくてうずき、進に負けないほどの情熱が雪の中で渦巻き始めた。

 夫の腕の中でくるりと振り返った雪は、んふふ……と誘うような微笑みを浮かべ、両手を彼の首に回した。

 少し開き気味になった艶かしい唇が僅かに動いて夫を誘う。進はその真っ赤な唇に激しく吸い付いた。それは熱くて柔らかくて甘い。進は自分の唇と舌を存分に使って、それをむさぼり続けた。雪も同じように進のそれを味わい尽くそうと吸い付いてくる。何度も何度も……
 互いの腕は相手の体を強く抱きしめ、二人の唇と舌が、淫靡な音が漏れるほど激しく重なり絡みあった。

 互いを求めあう二人の間には、もう他の何物も入る余地はない。さっきまで抱いていた小さな不安や動揺も、こうしていると全て霧散してしまったような気がする。
 触れたい、抱きしめたいと、ずっと願っていた最愛の人の肌が、ここにある。欲しいものは……ただ一つ。

 しばらくしてようやく満足したのか、進は唇を離した。それから妻の肩を抱き寄せるようにして、耳元で誘いの言葉を囁いた。

 「ベッドへ行こう……」

 (13)

 寝室には、夫婦用にセミダブルのベッドが二つ並んでいて、片方のベッドだけが使われた形跡を残している。そのベッドに二人して勢いよく倒れこんだ。

 進は、仰向けになった雪の上に覆い被さるようにまたがり、無言のままじっと見下ろした。進が愛撫したせいか、白い制服の胸元のスカーフが少し乱れて、滑らかな肌がわずかに覗いている。

 「あなた……」

 小さな声で雪が呟き進の背に手を絡めると、進は目を細めた。

 「制服姿の君をこんな風にするのは……久しぶりだな」

 進の顔に満足そうな笑みが浮かび、その手が動き始める。首筋をそっとなぞると、妻は気持ちよさそうに、くふふと喉を鳴らした。

 進の手の動きは、巧みでそして速い。スカーフの結び目をほどき、胸元のボタンを上から順にはずし、続いて腰のベルトを手際よく取り去った。
 その作業は、もう何十回、いや何百回と繰り返してきた夫婦の営みの序章だ。その動きは、ときにゆっくり、またときにはすばやくなされる。そして今夜は、いつになく性急である。
 夫の手の動きは、なんの淀みもなくあっという間に、妻の体にまとう全てを剥ぎ取ってしまった。

 夫の動きに協力しながらも、雪は、半年振りに素肌をさらすことに僅かな恥じらいを見せる。その姿はどこかしら初々しさを漂わせ、その薄桃色に色づいた色白のたおやかな肢体は、半年前目に焼き付けたままの姿で、進の五感を激しく揺さぶった。
 彼女の艶やかな肌の輝きは、三十路を過ぎてもなおも衰えることを知らない。

 進はその美しい曲線美に視線を這わせ、まず目で味わおうとした。しかし、今夜の雪にはそれを甘んじて待つだけの忍耐は残っていない。さっきは恥じらいを見せたその顔が、今度は妖艶に輝き始めた。

 「ねぇ、あなたも……はやく」

 両手で夫の頬をそっとはさみ、誘いの言葉を吐息のようにささやく。その両面性がまた進を強く惹きつけてやまないのだ。

 早く……強く……抱きしめて! 雪の瞳が燃えた。

 顔に添えられていた手が首にそって下がり胸元をなぞり、夫の制服のボタンにかかると、雪はすぐにそれをはずしにかかった。妻の熱い望みを叶えるべく、進も自らの身を包むものをはいでいった。

 彼の体からも全ての衣が取りさらわれた。鍛え上げられたたくましい体は、高揚のためか僅かに赤みがさし、艶やかな張りがあった。
 雪はああ、という満足そうなため息とともに、その厚くて広い胸板を見上げた。
 雪の体の中でぞくぞくするほどの快感が生まれ、熱いものとなって体の一点に流れ込んでいった。

 「あなた……愛してるわ……」

 雪のささやくような甘い声を合図に、進の体がゆっくりと降りてきた。

 「俺も……愛してるよ、雪……」

 二人の素肌がぴたりと吸い付くように重なり、互いの肌のぬくもりを存分に味わいながら、強く抱きしめ、そして互いの体にキスの雨を降らせていく。

 「んふ…… くっ……」

 愛撫を受けて、くぐもった声を漏らす雪の耳元で進がささやいた。

 「もっと声出してもいいんだぞ……」

 ここは今、二人きり。我が家では気を使う子供達も、今はいない。

 「でも……」

 「感じてる雪の声が……聞きたいんだ……」

 そのささやきを期に、雪の声が高まった。体をくまなくなぞる進の唇の動きに敏感に反応し、静かな部屋に艶かしく響き始めた。

 遥か宇宙という広い世界で長い間分断されていた片割れが出会い睦みあう。
 そしてその二つが再び一つに繋がった瞬間、二人の中に小さな宇宙が生まれた。

 「ああっ!」 「雪っ!」

 小さい叫び声をともに上げて、二人は同時に果てた。

 (14)

 ベッドに仰向けになった夫の胸にそっと体を摺り寄せて、雪は彼の顔を見上げるとくすくすと笑い出した。

 「何、笑ってるんだよ!」

 「うふふ…… だって、こんなに夢中になるなんて……すごく久しぶりよ」

 「半年分溜まってるって言っただろ?」

 「ほんと?」

 「ほんとだって、あ……いや」

 「えっ!?」

 雪が驚いて瞳を大きく開いた。まさかっ!? だが、夫はごもごもと小さな声で呟いたのは……。

 「まあ、その……なんだ、男の生理ってのがあるからな、たまには自分で……な」

 「ぷっ! なぁんだ、びっくりした。うふふ…… もうやぁねっ!」

 雪がころころと笑って、夫の胸をぴしゃりと叩いた。心配して損しちゃったわ。そんな顔つきだ。進の方はきょとんとしている。

 「びっくりしたって?」

 「なんでもないっわ。あっそうだ、私、シャワー浴びてくるわ。旅の疲れを落とさなくちゃ」

 雪が、ご機嫌な顔で手元にあるシーツを体に巻きつけてベッドから足を降ろすと、進はまたそれをわざわざ引っ張り落として自分も体を起こした。

 「こらっ!」

 雪が睨むと、進はくくっと笑って彼女の頬に口付けをした。

 「久しぶりにご一緒しますかな?」

 「うふふ……」

 結局――シャワールームでは、案の定と言うか、旅の疲れを癒すどころではなくなってしまった。
 二人はバスタオルを巻いただけの体で、再びベッドにばったりと倒れこんだ。

 「ふうっ!」

 ベッドで大の字に手足を伸ばす進の横に、雪はちょこんと座ると、くすくすと笑いながら片手を進の火照った頬に差し伸べた。

 「だから、あなたももうおじさんなんだからぁ。無理しない方がいいって言ってるでしょう……」

 進は、笑っている妻を憎らしげに見上げる。

 「あん?なんの話だ?」

 進は、その伸ばされた手首をぐいっと引き寄せると、雪の体を自分の上に引き寄せた。さらに、ぐるりと半回転して雪を体の下に組み敷いた。

 「さて、今度はゆっくり味わわせてもらうとするかな……」

 「明日もお仕事なのよ、今夜はもう寝た方が……あん」

 「久しぶりなんだから、もう一回……」

 夫の情熱に負けて、雪は再び愛の波に飲み込まれていった。

 (15)

 翌朝目を覚ました雪は、隣で気持ちよさそうに熟睡している夫を見た。

 (進さんたら、ぐっすり眠ってるわ。昨日無理しすぎたんじゃないの? あなただってもう20代じゃないのよ! いつまでも若いつもりなんだからっ!)

 無防備な寝顔を見せる夫が、とても愛しい。それに昨夜の情熱を思い出すと、思わず笑みがこぼれてしまう。
 昨夜、彼は今も変わりなくまっすぐな愛情を自分に注いでくれた。なにか後ろめたいことがあったとしたら、あんな風に妻を愛せるほど進は狡猾ではない。雪はそう確信している。

 (よかった…… 進さんは全然変わってない。私のことを変わらずに愛してくれている。
 あの彼女のこと…… 私の気にし過ぎなのかもしれない。だけど、彼女を見る進さんの視線……とても優しかった。それに彼女の方は……進さんのことを?
 ううん、もうやめよう…… 彼のことは信じてるもの)

 雪は、ぶるっと首を左右に振ると、体を起こして時計を見た。まだ7時。小さな基地の中の官舎である。9時の始業時間に間に合わせるにはまだ余裕があった。

 雪は、進を起こさないようにベッドから起きあがると、身繕いをして台所へ向かった。

 (昨日見損ねたけど、冷蔵庫にパンくらいは入ってるかしら?)

 台所に入って冷蔵庫を開けてみると、ビールやお茶などの飲料と、真空パック物のつまみや料理が入っていた。ほとんどがレンジかお湯で温めて食べる物だ。
 その中に、ひとつだけ小さなプラスチックの密閉容器が入っていた。

 「あら? これ何かしら?」

 開けてみると、きんぴらごぼうが入っていた。よく見ると、それはレトルトの出来合いのものではなく、誰かが作ったもののようだった。

 「進さんったら、自分で作ったのかしら? まさかね……」

 進は料理は出来なくはない。地球にいるときなど、雪が仕事の時は、進が食事の仕度をしてくれる。しかし、自分一人のためにわざわざこんな料理をするほど料理好きと言うわけでもない。

 「誰かに貰ったのかしら?」

 誰か……と考えた時、すぐに思い出すのは、ナギサのことだ。進のために一生懸命料理する彼女の姿が雪の脳裏に浮かんできてしまう。まさにそれは正解で、女の、もしくは妻の勘は、かくも鋭いものであった。
 しかし、雪はそれをすぐに否定した。

 (やだ、いきなり飛躍しすぎっ!考えすぎよ。私ったらやあね。彼のこと信じるって決めたばかりなのに…… 焼きもち妬きすぎると旦那様に嫌われちゃうわ!)

 自分で自分の頭をちょこんと叩いていると、ちょうど進が起きてきた。

 「おはよう…… もう起きたのか?」

 まだあくび交じりの眠たそうな口調だ。雪は振りかえった。髪はぼさぼさでとぼけた顔、下着の上にTシャツを引っかぶったままのだらしない格好の夫を見ると、雪も苦笑いしてしまった。

 (もう、なんて格好っ! 百年の恋もさめちゃうわよ! 旦那様っ)

 そんな姿を見ると、さっきの疑念もすぐに飛んでいってしまう。

 「あら、おはよう。なにか朝ごはんでも作ろうって思ったんだけど。冷蔵庫、何にも入ってないわね。いつも何食べてるの?」

 「ああ、朝はパンと牛乳か紅茶くらいかな? パンなら冷凍庫に入ってるよ」

 そう言いながら、進はもう一度大あくびをした。

 「もうっ、またお野菜食べてないのね! 何でもいいから食べなくちゃだめって言ってるでしょう! 今朝はこのきんぴらでも……」

 雪がちょうど手に持っていた容器を進の前に突き出すと、突然進は眠気が吹っ飛んだように顔色を変えた。

 日本の味を覚えたいと頼まれて味見と言う口実で、ナギサが料理を進に持たせるようになって早2月近くたっていた。
 進としてもそろそろその役目を終わらねばと決意し、昨日返した容器に書いたメモに、今回で終わりにしようと書いたところだった。後少し、妻がこの星に来るのが遅かったら、知ることもなかったことだ。
 進にとっては、タイミングが悪かったと言えるかもしれない。

 「えっ!? あっ、それは!!」

 慌ててそれと取ろうと手を伸ばした進から、雪は容器を遠ざけた。

 「あらっ? 食べちゃダメなの?」

 「い、いや……そういうわけじゃ……」

 じっと見つめる雪と視線が合わせられないらしい。進は明らかに動揺している。雪は、その態度に怪訝な顔をして尋ねた。

 「ね、これ誰が作ったの?」

 妻としての当然の質問だったが、進は即答できなかった。心のどこかでは、素直に答えればいいじゃないか、と思いながらも、やはり誤解を招きかねないという懸念が生まれる。

 昨夜の雪との熱い愛の交歓に、進は大いに満足していた。彼女を目の前にして、今も自分には雪しかいないと強く思ったし、雪に会えてよかったと、心から思っていた。

 しかし、である。ナギサとの経緯について、雪に話すべきかどうかはまだ結論が出ていなかった。
 今現在まで、妻に非難されるようなことはしていないとは思っている。だが、ナギサに傾倒し様々に手を差し伸べたことを、雪が素直に理解してくれるかどうか自信がなかったし、第一自分でもナギサへの感情がどういうものなのかでさえ、まだ理解しかねているのだ。
 そんなあいまいな状態で、雪を納得させられる説明ができる自信が、進にはなかった。
 結局、進はとっさに嘘をついた。

 「うっ、あの…… し……食堂のおばちゃんにっ! えっと、一昨日の晩……作りすぎて余ったからって…… たまにくれるんだ…… ほら、俺が一人だからって」

 「へええ、そうなの。よかったわね、優しいおばちゃんがいてくれて!」

 雪はにっこりと微笑んだ。妻が意外とあっさりと納得したことで、進は心底ほっとした。

 「あはっ、ははは……」

 「じゃあ、パンを焼くわね」

 「そ、そうだな。俺飲み物作るよ」

 冷凍庫を開けてパンを取り出す雪にそそくさと背を向けて、進はティーポットを用意し始めた。雪はちらりと後ろを向くと、忙しそうに手を動かしている進の後姿をじっと見つめていた。

 (進さん、なんとなくおかしかった。本当に食堂で貰ったの? それとも……? 
 だけど、彼は私のことを愛してくれている。これだけは信じてる。信じられる。絶対に…… だからお願い、進さん、私のこの気持ちを裏切らないで……)

 雪は決して進の答えに満足したわけではなかった。しかし、進が言ったことが違っているとも言えない。もし嘘をついていたとしても、今はまだそれを詰問するだけの手札もない。
 そして……何よりも、雪は進のことを信じていたかった。

 雪は自分の心の動きを隠したまま、朝食の仕度を始めた。

Chapter9終了

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(背景:Atelier paprika)