摩天楼のマリー



 2202年の夏も終りを告げようとしている。
 地球防衛軍司令本部先任参謀の古代守は、出張でニューヨークを訪れていた。
 今朝ニューヨークのエアポートに着いたばかりの守は、地球防衛軍北米支部の幹部達との参謀級会議を行うことになっていた。
 守が北米支部に着くなり会議が始まり、その後順調に懸案の事項を消化して、予定通り夕方には無事に終了した。

 会議の後、幹部達との懇親会を兼ねた夕食会をすませると、守は北米支部のビルを出た。

 これで守のニューヨークでの仕事は終わった。通常なら、今日のうちか明日の早朝には、東京に戻れる仕事だった。
 しかし、地球に戻って来て半年あまり、まったく休暇を取ろうとしない守を気遣った長官が、半ば強制的に会議後に3日間の休暇を与えたのだ。
 知った人のいないところで、少しゆっくりしろ、ということらしい。

 それもいいかもしれない、と守は思う。ここのところ働き過ぎだと、我ながら思っていたからだ。
 特に何の計画もない。ただ……ニューヨークに来た機会に、会っておきたい人物が一人だけいた。

 (今日はもう遅い。3日あるんだ。彼女に会うのは明日以降にしたほうがいいな)

 表通りにでると、守はぶらりと歩き始めた。ホテルまでは少し距離がある。支部を出る時に、車を回そうか、という北米長官の申し出を断り、守は街を一人で歩くことにしたのだ。
 久しぶりのニューヨーク。その復興振りを、歩いて見てみたかったのだ。


 ニューヨークの街は、今も昔と変わらず北米の中心である。人々が大勢行き交い、夜も眠らない。
 ほんの数年前まで荒廃した荒地と化していたことなど、誰も忘れたかのように、人と車の激しい往来が守の周りで繰り広げられていた。

 しばらく歩くと、守は急に疲れを感じ始めた。
 ビル群の下で摩天楼を仰ぎ見る。ニューヨークの街は、光り輝いている。
 しかし、守の体も心も、疲労のピークを迎えていた。

 この半年余り、守はただひたすら働いた。自宅へはただ寝に帰るだけ、そんな生活が続いた。
 限界一杯に働く長官を補佐するために、妻を失った悲しみを忘れるために、そして、娘を手放した淋しさを紛らすために……
 自分の体の疲れなど、気にする暇もないほどに……

 (スターシア……)

 守はまぶしそうに天を仰いだ。しかし、ビルの放つ明るさに、空の星はほとんど見えなかった。そのせいだろうか、守は急に空に近づきたくなった。

 (星が見たい…… やはり宇宙に出ている時の方が、落ち着くような気がするな。ははは…… 俺も進のことをとやかく言えないか)

 守は、自嘲気味に一人苦笑いすると、またゆっくりと歩き始めた。

 宿泊先のホテルニューヨークの玄関前に着くと、ずっと上にある最上階を見上げた。
 ホテルニューヨークはマンハッタンの中心部にある瀟洒な高層シティホテルだ。北米支部からは少し離れている事もあって、軍関係者はめったにこのホテルを利用しない。
 疲れを感じ、知った人間には会いたくない今日の守にとっては、恰好の場所だった。
 守の様子を気遣い、「長官命令よ」と言ってこのホテルを取ってくれた雪の配慮に感謝した。

 (雪は、俺がこんな風に疲れていることに気付いていたんだろうな)

 弟の婚約者のことを思った。よく気がつく申し分のない女性だ。長官秘書として以上の働きをする彼女には、いつも助けられていた。

 (あいつは幸せものだ……)

 守はふうっとため息をつくと、もう一度天を仰ぐ。ここからも星は見えなかった。疲れてはいたが、まだ部屋に戻る気にもなれない。

 (最上階のスカイバーにでも行ってみるか…… 少しでも空に近いから、星が見えるかもしれないな)


 ホテルのフロント横のエレベータに乗り、最上階のボタンを押す。守の他には誰も乗っていないエレベータは、一気に最上階まで駆け昇った。

 ドアが開くと、そこは階下の街の喧騒が嘘のような、静かなムード音楽が流れる別世界だった。

 守は入ってすぐの窓際に席を取った。窓から外を見る。周囲のビルよりも1ランク高いこのホテルの最上階からは、守の予想通り天の星々もいくらか見えた。
 そして、それに負けないくらい眼下の摩天楼の明かりも美しく輝いていた。

 守は、ウイスキーをロックでとり、グラスを傾けながら窓の外を眺めていた。

 (サーシャは元気にしているだろうか…… この出張から帰ったら、近い内にまた行ってみようか)

 1ヶ月ほど前にイカルスに行って以来会っていない。幼い娘がひとり、母を亡くし父を遠くにして、どんな風に過ごしているのだろうかと思うと、いつも心が痛んだ。

 (いや…… 真田がいる、それに山崎さんも…… サーシャはあんなに懐いていたじゃないか)

 気を取りなおして、コップの酒をぐいっと飲み干すと、追加を注文しようとカウンターの方を見た。カップを軽く掲げると、ボーイがすぐに気付いて頷いた。


 その時、さっきまでいなかったカウンター席に女性が一人座っているのに気付いた。
 豊かな黒髪を背中の真中あたりまでなびかせ、レンガ色のボディコンシャスなドレスを着ている。後姿だけで、顔は見えないが、察するになかなかの美女に思えた。

 その女性の後姿から目を離し、また窓の外を眺めながら、守は様々なことを夢想しはじめた。

 守は若い頃から、女性にはもてた。いつも付き合う相手には不自由したことがなかった。地球の存亡をかけて戦いながらも、守が付き合う女性のいなかった時期はほとんどなかったかもしれない。
 ただ一つのルールは、一度に一人だけと付き合うこと。これだけは、いつも守り通してきた。期間の長さは別にして……

 イスカンダルから帰ってきてからも、もてることに変わりはなかった。
 しかし、愛する妻スターシアを亡くしたばかりの守が、さっさと気持ちを切り替えて、巷の女性たちと付き合う気になることはなかった。
 どんな女性のアプローチも、今の守には、功を奏しなかった。

 それが逆に、最愛の妻を亡くしたばかりの物憂げな影のある男として、守の人気をさらに上げていった。

 同僚で弟のフィアンセの雪には、「守さんのことをいろいろ尋ねてくる女性職員が多くて困るわ」と笑われたことがある。守も、「適当にあしらってくれ」と苦笑したものだ。

 弟の進とは、たまに会って飲むことがある。この間会ったときなども、そんな噂を雪から聞いているのか、

 「スターシアさんのことは悲しいけど、もう半年も過ぎたし、兄さんもそろそろ前向きになってみたらどうだい? サーシャには母親が必要だろ?」

 などと、ずいぶん偉そうな口ぶりで言われた。

 進の奴、自分のことを棚に上げてよく言うな、と守は思う。自分は戦いで犠牲なった仲間達のことがふっきれずに、フィアンセの雪との結婚を延ばし続けているくせに、人のことになれば、「そろそろ前向きに」だと!

 「俺のことより、自分の方だぞ。お前達の結婚式はいつにするんだ?」

 それを言われると、進はいつも口篭もってしまう。そしてボソッと言うのだ。

 「もうちょっとしたら、考えるよ」

 その上、問い詰めたところ二人の間は、まだ最後の一線を越えてないらしい。
 初めてそれを聞いた瞬間、守は、思わず「あほか?」と言ってしまった。
 それを聞いてムッと口を尖らせる進を締め上げて、「彼女は待ってるはずだぞ!」と脅し、さっそく、初めての時はこうしろああしろと、諸々について一部始終教授したものだった。

 あの時の弟の顔は、今でも思い出すと笑ってしまう。熱でも出たんじゃないかと思うほど真っ赤な顔をして、目を白黒させながらも、さすがに興味はあるらしく、とても熱心な生徒だった。

 その弟も、今はまた宇宙にいる。次は一週間ほどしたら戻ってくるはずだ。

 (また、帰ってきたら、ハッパをかけてやらなきゃならんな。どう考えても、あんな女性をほっておくのは惜しすぎる。っと待てよ、これはちょっと問題発言だったかな)

 守は一人で苦笑した。雪のことを思い浮かべてみる。かわいらしくて清楚で、それでいて凛とした美しい女性だ。
 あの引っ込み思案で奥手な進が、どうやってこれほどの女性の愛を勝ち得たのか、今もって不思議である。

 司令本部で一緒に仕事をするようになって、その思いはさらに高まった。
 実のところ、スターシアに似たところもあるし、弟のフィアンセでなかったら、自分はほっておかなかっただろうというのが本音だった。

 が、幸いに、その気になる前に、弟との関係を知ることができたおかげで、危うい思いはせずにすんだ。

 そんなことを思いながら外を眺めていた守は、ふとバーの中に目をやった。

 さっきのカウンターの女性の隣に、丁度一人の男性がやってきたところだった。何か話しかけているのが見える。

 (なんだ、待ち合わせだったのか……)

 なんとなく、残念な気持ちになってその様子を眺めていると、女性がその男性の方を向いた。横顔が守からも見える。
 予想に違(たが)わず美しい面立ちの彼女が、眉をしかめて首を振っている。男の誘いを断っているようだ。待ち合わせではなかったらしい。

 守はちょっとばかり嬉しくなった。しかし、その男はなかなかあきらめようとせず、女性の隣りに無理やり座ろうとした。彼女は嫌がって立ちあがろうとすると、男はその肩を抱いて、無理やり座らせようとしている。

 (ったく、無粋なやつめ……)

 守は舌打ちをして立ち上がった。そして大またで歩いて行って、その二人の間に割って入った。

 「待たせたね、マイハニー」

 二人が同時に振り返って、驚いた顔で守の顔を見た。守はその時初めてその女性を正面からまじまじと見た。

 (ほぉ、これは美人だ。男が寄りたがるのも無理ないな……)

 守は心の中でヒューッと口笛を吹くと、女性にだけわかるようにウインクをして、

 「遅れてすまなかった」

 と言うと、くるっと振り返って男の方を睨んだ。

 「俺の連れに何か用かな?」

 守は、微かに口元に笑いを浮かべ、相手の男をじっと睨んだ。
 体格もあり、地球防衛軍の猛者として訓練を積んだ守の、その鋭い視線と威圧力は、並の男ならとても太刀打ちできないほどの迫力がある。
 その男もご多分に漏れず、その迫力に屈したようだった。ぶるっと肩を振るわせ、へらへらと愛想笑いを浮かべ後ずさりすると、あっという間に逃げるようにバーから出ていってしまった。

 男が出ていったのを見て、守はその女性の方に振り返った。そして口を開こうとした時、

 「ありがとう、って言ったほうがよろしいのかしら?」

 女性の方が先に口を開いた。しかし、その声は予想以上に冷たかった。顔も笑っていない。いや、逆に怒っているようにも見えた。
 なんの感情もこもっていないようなその口調に、守はふっと口元を歪め肩をすくめた。

 「いや、別に……結構ですよ、お嬢さん。あまり無粋なヤツがいると、こっちが落ちついて飲めないんでね。では、ごゆっくり」

 くるりと背を向けて自分の席に戻ろうとした。守が1歩足を出したその時、

 「ここで一杯いかが?」

 と、今度はさっきより柔らかな声が聞こえた。その声は、守でなくとも男心がくすぐられる美しい声だった。
 守は声につられるように振り返って、その女性の隣に腰掛け、ニコリと笑った。

 「美しい女性の誘いは、断らないことにしてるんでね」

 守の魅力的な笑みと言葉を聞いて、女性もくすりと笑った。そして横を向いて、守を覗き見るように首を僅かに傾けた。

 豊かな黒髪は、パーマがかかっているようで、ゆったりと大きなウエーブをうって、肩の少し下まで広がっている。
 そして、その髪に負けないほどのあでやかで美しい顔をしていた。女優だと言われてもさもあらんと思われるほどだ。
 長い睫毛に覆われた瞳は、パッチリとした二重の瞼に飾られ、すっとまっすぐに伸びた形のよい鼻の下には、真っ赤な口紅が引かれた唇がある。その唇は、飲み物のせいかみずみずしく、きらきらと輝いている。

 思わず、守はその唇を味わってみたい衝動に駆られた。すっと惹き込まれそうな感覚に陥る。
 その時、彼女が口を開いた。

 「あなたも、日本人なのね?」

 その声に守は、ふと我に返った。そんないい方をするところを見ると、彼女も日本人らしい。日本人離れした彫りの深さを感じていただけに、守には少し驚きだった。

 「君も? アジア系が入っているとは思ったが……」

 「ふふふ、純粋の日本人よ、私は。でも今の時代、どこの出身かなんて、あまり関係ないとは思うけれど」

 「そうでもないさ。やっぱり同郷の人間を見ると、親近感が沸く」

 守は、とびきりの微笑を彼女に送った。大抵の女性は、その笑顔に心ときめかせた。
 だが今日は違うらしく、その女性は特に感銘した様子もなく、あっさりと答えた。

 「そう……? で、あなた何を召し上がる? 助けてくださったお礼におごるわ」

 いい男には興味ないらしいな、とちょっと自負心を傷つけられた思いで、守は心の中で苦笑した。

 「それはご親切に。じゃあ、ドライマティーニを」

 守が答えると、女性は頷いてカウンターの向こうにいるボーイを手招きした。ボーイが二人の前までくると、彼女は注文をした。

 「こちらにドライマティーニと……私は、ブラディマリーを」

 「かしこまりました」

 ボーイが恭しく頭を下げて、カクテルの準備に掛かるのを眺めながら、守は口元を歪めて笑った。

 「ふっ…… ブラディマリーとはね。穏やかでないね」

 「あら、そうかしら?美味しいわよ。トマトが入ってて健康にもいいし」

 酒を飲んでいて健康にもいいもないもんだと、守は思ったが、それには言及しなかった。すると、女性はさらに言葉を続けた。

 「それにあの赤がいいのよ。まるで、人の血のような……ね。私、さっきまでたっぷり見てきたのよ、こんな色の血をたくさん、ね」

 今度は女性の方が、不敵な笑いを浮かべて、守を見上げた。まるで吸血鬼のような彼女の話は、その美しい顔と真っ赤な唇を見ていると、あながち嘘にも思えなかったりもする。

 「恐ろしいなぁ。君は、昼になると棺の中で眠るタイプの人間なのかい?」

 「うっふっふっ…… そうね、そうかもしれないわ」

 吸血鬼になぞらえられても、女性は怒ることもなく、逆におかしそうに笑った。ユーモアも解するらしい。守は、俄然彼女に興味を持ち始めた。

 その時、さっきのボーイがやってきて、注文した酒がそれぞれ二人の前に置かれた。

 「じゃあ、二人の出会いに乾杯、かな?」

 「ふふふ…… 真夏の夜の夢に……乾杯」

 グラスをかちりと軽く合わせて、二人は杯を上げ、その後一口、口に含んだ。口の中の酒が喉を通リ過ぎると、守は再び女性の顔を見た。
 美人だ、ということだけでなく、何か他にも惹かれるものがあって、守はこの女性のことを、もっとよく知りたくなった。

 男に誘われるのは、飽きるほど経験しているであろう女性に、下手な口説き文句は余計に嫌がられそうな気がして、守はストレートに尋ねた。

 「ところで、君の名前は?」

 あまりにも直線勝負での質問に、相手の女性は驚いた様な顔で目を見開いたが、すぐにその目が笑い出した。

 「マリー……とでもしておきましょうか? ふふふ」

 「ふっ、ブラディマリーのマリーかい? 血みどろのマリーか……」

 まったく人を食ったような話をする人だと、守は苦笑しがちに答えた。

 「ええ、で、あなたは?」

 「シロウ、とでもしておこうかな」

 相手がその気なら……と、守も偽名を使った。シロウ――志郎――とは彼の親友の名前だ。

 「ふふふ、あなたらしくない名前ね。じゃあ、今夜はマリーとシローで過ごしましょう。その方が、お互いにいいみたいね」

 女は守に深入りしたくないらしい。それも仕方ないかと、しばらく取りとめもない話をすることにした。
 守がして聞かせるちょっとした笑い話に、彼女もくすくすと笑いながら、相槌を打った。そのタイミングと受け答えが、とても的を得て面白い。
 そんな彼女の利発な反応振りに守が舌を巻くのに、時間はかからなかった。

 (外見とは違って相当なインテリらしいな……)

 そんな風に分析しながら、マリーの顔を見る。美人で賢い女性。身近に雪という女性を見ている守から見ても、彼女に勝るとも劣らないのではないかと思えた。

 再び雑談に耽っていると、あることから仕事の話になった。マリーが話の流れで尋ねた。

 「それで、あなたは何をしている人なの?」

 「僕かい? 普通の公務員だよ」

 「公務員? うそ、そんな仕事をしている人には見えないわ。眼光が鋭すぎる。警察官?」

 マリーが眉をしかめた。この男、また本当のことを言いたくないらしいと感じる。それでも守はさらりと言葉を流した。

 「いや、目つきが悪いのは生まれつきでね。こればっかりは、どうしようもないだろう」

 鋭いと指摘された目をできるだけ柔らかに見せようと、穏やかな笑みを浮かべてみせた。
 すると、マリーは肩をすくめてくすりと笑った。

 「そうじゃない気がするけれど、まあいいわ」

 今度は守が尋ねる番だ。

 「で、君はなにを?」

 「うふふ…… 私も一応、公務員ね」

 マリーはさも可笑しそうにそう答えた。そっちがその気なら、私もよと、徹底的に自分のことは言いたくないらしい。

 守は、地球防衛軍司令官付きの先任参謀を相手に――もちろん、彼女は守がそんな人物だとは知らないのだが――堂々と対等に渡り合えるこの女性の器の大きさに感嘆した。

 「はっはっは…… お互い嘘ではないようだな。それも一興だな。
 しかし、君はこんなところで一人で飲んでいるような女性に見えないがね。これだけの美人、さっきの輩のようなのは別にしても、男がほっておかないと思うがなぁ。彼氏はどうしたんだい?」

 「ふふふ。それは誉め言葉としていただいておくわ。でも、今は私はフリーよ。彼氏もフィアンセも夫もいないわ。過去は別にしてね。
 ここにはただ星を見に来ただけ…… ニューヨークは明るすぎて地上からは見えにくくて……」

 (俺と同じこと考えてきたとは……)

 驚いている守に、さらにマリーが言葉を続けた。

 「あなたこそ、女が寄ってきて仕方がないような気がするけれど」

 「まあ、不自由したことはないがね」

 とウインクすると、彼女はあきれたように肩をすくめた。
 
 「俺にも、彼女もフィアンセも妻も…いない。過去は別にして……」

 妻もいない…… 守は、そう口にした自分の言葉に、ほんの少し動揺した。一瞬視線が揺らぐ。
 しかし、マリーは素知らぬ振りをして話題を変えた。

 「……あなた、私の知っている人に似ているわ」

 ぽつりと言う。守は顔を上げてマリーを見た。彼女の瞳が伏目がちになった。

 「そいつは、君を振ったのか? それとも……」

 気遣わしそうに尋ねる守の方に、マリーはパッと顔を上げて微笑んだ。

 「ふふふ、そういうのじゃないわ。年下だったし、出会った時から、その人にはフィアンセがいたもの。好きになったわけでもないけれど、でも……」

 懐かしそうに小首を傾げる。なかなか魅惑的な表情だと、守は思った。

 「でも?」

 「心の底では、少し惹かれてたのかも…… その彼は、全然そんなことに気付きもしなかったけどね」

 「ふむ、惜しいことをするやつだな」

 守が鼻から息を吐いた。

 「フィアンセが素敵な人だったのよ。だから、私もそれほど本気になる前に、やめちゃったわ」

 「そうか…… 会ってみたいものだな。君ほどの女性に見向きもしない男ってのにね」

 ちょっと驚いたような顔をして、マリーが守をまじまじと見た。そしてさっき見つけた事を口にする。

 「あなただってそうでしょう? それに……何かとても寂しげで物憂げな瞳をしているわ。
 そう、心から愛していた人に、永遠に別れを告げられたような……」

 「…………」

 彼女の鋭い指摘に、守の顔が強張った。答えられない。するとマリーが意外な言葉を吐いた。

 「昔の私と……同じ瞳をしてるもの……」

 「ん?」

 寂しげなその声に、守がじっとその顔を見つめると、マリーはうつむき加減に、ブラディーマリーの入ったコップを見つめた。

 「ずっと昔……心から愛した人がいたわ。一生彼と生きていこうって約束もした。でも……彼は私を置いて、逝ってしまった」

 その彼のことを思い出してしまったのか、突然マリーの瞳に涙がわきあがってきて、それが大きな一粒の涙となって、閉じた瞼に押されるように、ぽとりとテーブルに落ちた。

 「あ…… 嫌だわ、ごめんなさい。昔を思い出してしまっただけ。もう、忘れたはずの、昔のことなのに……」

 続いて出てきそうになる涙をそっと指で拭き取ると、マリーは悲しげに笑った。

 「そうか…… 君も愛する人を亡くしたことがあるんだな」

 スターシアの面影が、守の脳裏に甦ってくる。胸が痛い……今もひどく。

 「やっぱり……あなたもそうなのね?」

 「ああ、半年前妻を亡くした……」

 「そう……」

 「まだほんの少し思い出しだだけでも辛くなる。どうやったら、この悲しみは消え去るんだろうか。一人でいると悲しくて辛くて、どうしようもない時がある」

 「わかるわ…… 私もそうだった。ほんの数年前までは」

 マリーが守を見上げる。同じ思いをしたこの女性のその瞳に、守はひどく惹かれた。
 同じ傷を負ったもの同士、その傷をなめあうことができるんじゃないかと思ってしまう。
 ずっとずっと寂しくて切なくても、誰にも愚痴れなかった思いが、守の心の中にとめどなく沸き上がってきた。

 「階下(へや)に行って、飲み直さないか…… 今夜は、やけに寂しくなった…… 一人じゃ、眠れそうもないよ」

 守は、言ってしまってから、自分がこんな誘い文句を口にしたことを後悔したが、意外にも彼女はあっさりと了承した。

 「……いいわ」

 (彼女も同じ気持ちなのかもしれない…… 今はただ……寂しさを忘れていたい。そのためにここにいるのだから……)

 守はマリーをエスコートして、スカイバーを出た。

 エレベータに乗った二人は、数階降りて守の部屋に入った。その部屋の大きな窓からも、さっきと同じように眼下に美しい摩天楼が広がっていた。

 守はマリーを窓際のソファに腰掛けるよう促すと、備え付けの冷蔵庫から、ブランデーのミニボトルを取り出して、ロックを二つ作った。そして一つをマリーに差し出す。

 「どうぞ…… 好きにしてくれていい。他に飲みたいものがあるなら、自分で選んでくれ」

 「ありがとう、これでいいわ」

 窓から見える風景を見つめながら、二人の間に会話は少なくなっていった。

 マリーは立ち上がって、窓辺から真夜中になっても明るさが一段と増した摩天楼をじっと見つめた。

 座ってその姿を見ていた守も、ブランデーのコップをテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がった。マリーの後ろに立つと、そっと抱きしめた。そして、うなじに軽くくちづけをする。
 マリーの持っていたコップが揺れ、からころと氷の音がした。

 守は、そのコップを取ると、一気に飲み干してテーブルに戻した。そしてマリーをこちらに向かせると、今度は唇を奪い、その体を強く抱きしめた。
 マリーも拒まなかった。それに答えるようにキスを返してくる。大人の男と女の濃厚なくちづけがしばらく続いた。

 唇が離れ、互いの瞳を見つめあう。これから何が起こるのかは、二人の間ではもう十分にわかっていた。

 なぜそうするのか……? さっき初めて会ったばかりの二人なのに……

 ただ、互いの寂しさを互いの存在でうめることが出来たらと思っているだけかもしれない。
 それとも……一目惚れというのが、この世には存在しているのかもしれない。

 その答えは二人にも、今はまだわからなかった。

 マリーが守を抱きしめていた手をゆらりと降ろした。

 「シャワー浴びてくるわ……」

 守も抱きしめていた腕を緩めると、マリーはその隙間からすっと抜けでて静かにシャワールームに消えた。すぐに、シャワーの流れる音が聞こえてきた。

 守はまだ窓際に立ったまま、内ポケットにいれていた煙草を取り出して一服吸った。
 軽くくゆる煙を見つめながら、シャワールームにいる女のことを考える。さらに亡き妻のことが頭に浮かんできた。

 (スターシア、俺は、間違ったことをしようとしているんだろうか……? 行きずりの女性と、このまま進んでいいんだろうか?)

 永遠の愛を誓った妻である。しかし、彼女はもうこの世に存在しない。誰と付き合おうが、誰を抱こうが、誰も守を非難することはできない。
 しかし…… 守の心は、まだ揺れていた。

 (彼女は、行きずりの女性。名もしらない、何をしているのかさえも…… だが、なぜだかわからないが、とても近いものを感じる。
 同じ日本人だからか? それとも、俺のように愛する人を失ったことがあるからなのか……?
 ただ、寂しさを紛らわしたいからなんだろうか……?)

 守は彼女を求めていた。抱きたいと、彼女の体が欲しいと思っていた。
 しかし、ただ男としての欲求からではない、なにか自分でもわからない感情に押されているような、そんな気がした。

 (いまさら、引き返せない……誘ったのは俺なんだ)

 たばこを一本飲み干したところで、ガチャリと扉の開く音がした。マリーがシャワールームから上がってきた。

 バスローブ姿の少し紅潮した顔のマリーは、化粧を落としているにもかかわらず、さらに艶(あで)やかに見えた。
 守はその横をすりぬけながら、「俺もシャワー浴びてくるよ」と小さく囁いた。

 守がシャワーから出ると、マリーは窓から外を見ていた。彼の守の心には、もう迷いはない。心と体、そして本能の赴くままに行動するだけだった。

 守は外を見たまま振り返らないマリーを後ろから抱きしめると、彼女が羽織っていたバスローブをするりと肩からはずした。

 それから、振り返ったマリーの口元に、そっと唇を寄せた。

 「いいね……?」


(by めいしゃんさん)

守は短くそう言葉を発すると、マリーの返事を待たずに抱き上げ、ベッドまで運び、そのまま重なるように押し倒した。

 くちづけを繰り返しながら、相手のごく僅かに身につけている薄衣を取り去りあい、二人は生まれたままの姿になった。

 彼女の美しい肢体が、薄明かりに白くぼんやりと輝く。日本人離れした白い肌に、守は目を細めた。

 「美しい人だ……」

 そうつぶやくと、守は、マリーの体にくまなくくちづけをし、彼女の高まりを助長した。
 もう今の彼には、目の前にいる謎の女性しか見えていない。今はただ、彼女を体中で欲し、そして愛しあいたいと望んでいる。

 彼女も同じだった。ただひたすらに彼にすがりつくように、彼の背を強く抱きしめ、彼の全てを求めた。

 マリーに多少のぎこちなさを感じたが、それも無理のないことと、守は時間をかけて彼女の体が燃え上がっていくまで、優しく甘い愛撫を続けた。

 いつの間にか、二人は熱く燃え、二つの体を激しく絡み合せていた。

 何か悲しみから逃れようともがいているようにも見える、むさぼるような愛の行為は、その夜、果てしなく続いた。そして……

 外が白み始めた頃、ふたりはやっとひと時の眠りについた。

 翌朝、先に目覚めたのはマリーだった。隣の男を起こさないように、ベッドサイドの鏡の前で身支度を整え始めた。
 と、その気配に男―守―も目を覚ました。守の方はまだ下半身をベッドのシーツに包まっただけ、逞しい裸の胸を見せて横向きにごろんと寝そべっている。

 「早起きだな…… あれだけ運動しても元気なもんだ」

 昨夜のことを思い出させるような言葉にも、振り返ったマリーは顔色を変えずに微笑んだ。

 「あなたよりは若いもの……」

 とあっさりと言い放った。そして身支度と化粧を済ませると、すくっと立ちあがった。

 「じゃ、帰るわ。さよなら……」

 (まったく愛想のない挨拶だな。こんなことになったのを後悔しているのか? それとも初めからそのつもりだったのか……?)

  守は既に一人だけ服を着ている目の前の女を見上げた。
 一晩だけの後腐れのない付き合い…… そんな付き合いもありかもしれないとも思う。
 確かに昨日は、一人でいたくなかった。だから誘ったのかもしれない。
 だが守の本音は、まだ彼女と離れたくなかった。

 守は置きあがってベッドに腰掛けると、自分に背中を向けて部屋を出ようとしているマリーに声をかけた。

 「もし時間があるなら……ニューヨークを案内してくれないか?」

 マリーが立ち止まって振り返った。不思議そうな顔をしている。

 「? あなた、ここへは観光に来てたの?」

 「いや、だがちょっとした出張は昨日終わった。今日から3日の休暇なんだ。新しいニューヨークは不案内でね。最終日は予定があるんだが、今日と明日はあいてるんだ」

 あまり懇願するような態度は取りたくない。さりげなさを装ってマリーを誘った。だがマリーは僅かに眉を吊り上げただけで、何の感情もこもらない声で言った。

 「……残念ね。今日は私は仕事なの」

 「そうか……」

 守は、明らかに落胆している自分を、素直に表現した。寂しげな瞳でマリーを見上げる。
 と、マリーの顔つきがふっと緩んだ。かすかに笑みを浮かべる。

 「でも…… 明日ならいいわ。お休みだから」

 守の瞳がパッと輝いた。

 「ありがとう、頼むよ。ところで、今日は仕事はいつ終わるんだい?」

 「そうね、急な……仕事が入らなかったら、6時かしら」

 「じゃあ、昨日のスカイバーに7時でどうだ」

 「え? 今夜?」

 明日と言っておいて今日と言う。その言葉の意味が理解できなくて、マリーが尋ね返すと、守はどんな女性も魅了してしまうほど魅惑的な笑みを浮かべた。

 「時間は無駄にしたくないタチでね」

 「ふふふ……いいわ。じゃあ、7時に会いましょう」

 さすがにこれにはマリーも参ったらしい。声を出して笑って了承した。

 「ああ……」

 そしてマリーは、仕事に遅れるからと言い残して、守の部屋を出ていった。

 ホテルを出て、歩き出したマリーは、昨夜からの自分の行動に驚いていた。

 (私がこんなに簡単に見ず知らずの男と一晩を過ごすなんて……それもあんなに激しく……)

 思い出すだけで、体が火照ってくる。
 あのホテルのスカイバーには、よく一人で飲みに行った。窓から見える摩天楼の景色が気に入っていたのと、ホテル自体がエグゼクティブが利用する高級ホテルで、バーの客層もよく、女が一人で飲んでいてもしつこく迫ってくる男もいなかったからだ。
 もちろん、これだけの美女である。声をかけてくる男は数えきれなかったが、いつも軽い会話を楽しんだだけで、それ以上深入りしようとしないマリーを後追いするような無粋な男性はいなかった。

 そう言う点では、昨日最初に声をかけてきた男は珍しくあのホテルらしからぬ客だといえる。
 そして、その後のことは、自分でも信じられなかった。

 妻を亡くしたというあの男の瞳に惹かれたと言ってしまったらそれまでだが、部屋に誘う男の言葉をなぜあんなにあっさりと受け入れたのか、今も自分でよくわからない。
 その上、今夜また会う約束までしてしまった。

 (一体どうしたっていうのかしら、私…… あの人を亡くしてから三年あまり。ニューヨークに来て付き合った男はいたけれど、本気になったことはなかったのに……
 たった一晩であの人を……? まさか……)

 マリーは、自分の気持ちを量りかねながらも、今夜の再会を楽しみにしている自分がいることに気付いていた。

 その晩、約束通りに7時にスカイバーで待ち合わせた二人は、軽く一杯引っ掛けた後、夜のニューヨークを歩いた。

 光り輝く眠らない街は、俄仕立ての恋人達に様々な表情を見せてくれる。
 あまり詳しくはないのよ、と言いながらも、マリーはニューヨークの夜の名所を、無駄なく案内して回った。

 会話がいくらでも続く。お互いに自分の名前すら隠したままだと言うのに、さまざまなことで趣味や好みが一致することに驚いた。

 守は昨夜からマリーと過ごす時だけは、自分の忙しい仕事のことも、不幸な家族たちのことも忘れている自分に驚き、マリーはマリーで、素直にデートを楽しんでいる自分に驚いていた。

 そして、どちらから言い出すでもなく、その夜も二人は守の部屋で熱い夜を過ごした。


 翌日は、遅めに目覚め――眠ったのが遅かったからだが――ルームサービスのブランチを二人でとった後、ニューヨークのあちこちをマリーの案内で歩き回った。

 夜のマリーとは違い、昼間の彼女はさらに明るかった。なんにでも興味を示し、公園では意外にも小さな子供や年寄りにまで声をかけて、話題を楽しむ。会話術ではなかなか人には負けないと思っていた守でさえ舌を巻くほど、マリーは上手に人を楽しませた。

 久々の健全な?デートをした守は、心からリフレッシュした気分だった。

 そして夕方近くなって、守は、とある通りで通りがかった小さな店に足を止める。そこは、かわいらしい女の子のためのファンシーショップ。カラフルなグッズが所狭しと並んでいた。
 それを見ていると、急に娘のことが頭に浮かんできた。

 (サーシャが喜びそうなものばかりだな……)

 ショウウインドウのかわいらしいグッズをじっと見つめる守を、マリーが不思議そうに見て笑った。

 「シロー、変わった趣味があるね……」

 「ん? ああ……」

 マリーの問いに、守は苦笑した。娘のことを話そうかどうしようかと春秋していると、

 「もしかして……お嬢さん、いるの?」

 マリーのほうが、先に気付いて尋ねた。妻を亡くしたことは話したけれど、娘の存在に気付くとは…… その洞察力に驚きながらも、守は素直に頷いた。

 「ああ……」

 「そうだったの……大変ね。いくつ?」

 「えっと……7歳くらいかな」

 「くらいって、いい加減なパパね。一緒に住んでないの?」

 ちょっと呆れ顔で尋ねるマリーに、守は苦笑する。実は、数ヶ月で何歳分も大きくなるんです、と言うわけにはいかない。適当にごまかす。

 「ん、ああ…… 事情があって人に預けてる。来年には一緒に暮らせる予定なんだがな」

 「そう…… 男一人じゃ大変ですものね。じゃあ、お嬢さんにお土産でも買っていってあげたら? 会いには行けるんでしょう?」

 マリーがにっこりと笑った。娘がいることをそれほど問題にしたいんだな、と思うと同時に、つかの間の付き合いの男に子供がいようといなかろうと関係ないか、と今度はため息をついた。

 「ああ…… そうだな」

 「うふふ、私が選んであげるわ。最近の女の子って結構おませさんだから、難しいのよ!」

 「ははは、じゃあ頼むかな?」

 「私、結構こういうお店好きなのよ、うふふ……」

 なぜか急に張り切り出したマリーは、守の手を引いてその店の中に入っていった。
 そして店の中の品々を一々説明しながら、守の娘がどんなものに興味を示すかを尋ねてくる。そしてまた、熱心に物色し始める。

 その姿に、守は隣にサーシャが並んでいるような気がしてきた。

 (彼女とサーシャなら、親子って言うよりやっぱり姉妹だろうな。来年になれば、ハイティーンくらいになるサーシャには、いいお姉さんになってくれそうだな)

 明日には別れなければならない見ず知らずの女性のはずが、守には、これからもずっと一緒にいる人のように思えてきた。

 (参ったな…… マジになったんだろうか、俺は……)

 スターシアを亡くしてまだ半年。いくらなんでも早過ぎると、守は自分を戒めた。

 そしてサーシャへのお土産をたっぷり買った二人は、腹ごしらえを済ませると、再び守の部屋に戻った。

 三晩目ともなると慣れたものだ。二人は一緒にシャワーを使うと、そこから既に事は始まっていた。
 ベッドに入ってからも、その手は緩まない。何度か体を合わせていると、互いに相手の喜ぶ行為、望むことがよく見えてくるものだ。
 そしてマリーは、守の巧みな愛撫に奔放に乱れた。

 夜半過ぎ、情熱の時が過ぎ、互いを柔らかに抱きしめながら守が囁いた。

 「そろそろ……君の本当の名前くらい聞かせてくれないかな?」

 すぐにどうこうというつもりもなかったが、このまま見ず知らずの人として別れるのは嫌だった。また会いたいし、できればもっと彼女の事を知りたかった。
 マリーにもその気持ちは通じたらしく、守の胸に顔をうずめながら、彼女も今度はそれを拒まなかった。ただ……

 「そうね。明日の朝に……話すわ」

 「約束だぞ」

 守がマリーの瞳を覗き込む。その瞳はまっすぐ守に向けられて、嘘をついているようには思えなかった。

 「ええ……」

 「俺の名前は……」

 自分のことをまず話そうとした守の口を、マリーは人差し指を一本立ててそっと抑えた。

 「あ・し・た……って言ったでしょう? 今はまだ、ただのマリーとシローでいたいの」

 現実の話でロマンチックな今を壊したくない、その気持ちは守にもよくわかった。

 「わかった…… じゃあ、マリー、もう1戦お相手願おうかな?」

 「んふふ……」

 マリーが喉を鳴らして、二人は再び体を絡めあった。

 次の日の朝、マリーは暗いうちに目を覚ました。隣の男は、まだ気持ちよさそうにぐっすり眠っている。

 マリーは横を向いて、自分を抱き翻弄した、たくましい男をじっと見た。

 (どこの誰だかわからない行きずりの男と三晩も過ごすなんて……)

 今まで、そんないいかげんなことをするような自分ではなかったはずなのに、どうしてなのかわからない。本当に不思議だった。

 けれどマリーの心には、全く後悔はなかった。
 もしかしたら、彼は愛する妻をなくした寂しさを、ただ紛らわしたかっただけかもしれない。あの時の私のように、どうしようもない心を慰めたかったのかもしれないと。

 (でも…… 彼は私の名前を聞きたいと言った。それは、また会いたいということなの? そして私もまた会いたいと思っている……)

 もし、また会うことができるなら、彼とならもう一度恋ができるかもしれないという気がしてきた。
 こんな気持ちになったのは、本当に3年ぶりだった。

 なぜだかわからない。ただ、マリーは彼に不思議な繋がりを感じるのだった。

 とその時、彼が寝返りをうった。うん、と小さく唸ってから、もぞもぞと口を動かした。

 夢でも見ているのかしら?とマリーが微笑んだ時、彼が寝言を言った。

 「……ターシア」

 (えっ?ターシア? 奥様の名前?)

 マリーは息を潜めて、耳をそばだてた。すると彼は再びその名を再び口にした。

 「スターシア……君はどうして……」

 マリーの顔がさっと青ざめた。彼の妻の名前だと思った。彼はまだ妻を忘れていないのだ。そんなこと当然だ、そうだと思っていたはずなのに、それを目の前で見せつけられると、ひどく悲しかった。

 「スターシア……」

 その言葉をマリーも口にしてみる。そしてその名にふと思い当たることが浮かんだ。

 (スターシアって言ったら、あのイスカンダルの女王様と同じ名前ね…… 随分立派な名前の奥様だったんだこと……)

 どうでもいいことを考えてる、と自分であきれていたが、それが急にまた突拍子もないことに結びついた。

 (まさか……!?)

 眠っている男の顔をまじまじと見つめた。

 (ちょっと似てるって思ったこともあったけど、まさか……)

 かつて自分に親切にしてくれた若い護衛艦の艦長。そしてヤマトの艦長代理の彼。その彼がもう少し大人になったら……

 目の前で眠っている男のようになるのではないかと、気付く。

 (まさか、まさか……!)

 マリーは慌ててベッドを飛び降りると、クローゼットを開けた。そして、そこにかかっていた彼のジャケットを見つけた。

 「これは……地球防衛軍の……それも上級官僚のもの!?」

 彼は「俺は公務員だ」と言っていた。確かに、公務員かもしれない。しかし、まさか地球防衛軍の幹部だったとは……
 そして、そのジャケットに縫い付けられていた彼の本当の名前を見たときに、マリーは自分の想像が当たっていたことに気付いて、愕然とした。

 「古…代…… 守……!!」

 マリーは強張った顔のまま、眠っている男を起こさないように、静かに身支度を整えると、黙ってその部屋を後にした。

 (古代守…… もう二度と会うことはないわ……)

 ホテル下でタクシーを拾う。自分の部屋までどうやって戻ったかもよくわからなかった。そして寝室に入ると、ベッドに突っ伏してわっと泣いた。

 (彼が古代守だったなんて、よりにもよって、あの古代守だなんて……!! そんなこと!!)

 守が、目を覚ましたのは、その30分後だった。心地よい疲労感に体をくねらせながら、隣で寝ているだろう彼女の方を向いた。

 しかし、そこには誰もいなかった。

 「マリー?」

 守は置き上がると、あたりをきょろきょろと見回したが、人の気配はなかった。もう一度呼んでみる。

 「マリー?」

 しかし、反応はない。よく見ると、マリーの着ていた洋服もバッグも消えていた。

 「帰ってしまったのか……」

 二人のことは、ただの情事ではなく、これからの始まりだということを伝えたかったのに……
 昨夜、スターシアの夢を見た。夢の中の彼女は今までと同じように優しげに微笑んでいた。

 「彼女を抱いたのは、確かに彼女に惹かれたからだ……」

 スターシアへの想いが消えたわけではない。だが、守は、昨日のあのマリーに心惹かれたのだ。
 それに彼女は、明日の朝には互いに名前を告げあうと言ったではないか!

 「マリー……」

 あれは嘘だったのか……
 彼女にとっては、やはりただの数日のアバンチュールだったのだろうか……

 守は、大きくため息をついた。彼女は何一つ残していってはくれなかった。もう追いかける術は失ってしまったのだ。
 かと言って必死に探しまわるほど自分が若くないことも知っている。それに探し出してどうする? 求愛するのか? すぐに行動を起こすつもりは元々なかったのだ。

 「やはり、それまでのことだったのか……」

 だが、もし今もこのベッドの隣で彼女が眠っていたら、俺も変われたかもしれない、と思わずにいられなかった。

 (もう一度彼女に出会えたら…… もし運命が彼女との再会を演出してくれたら、その時は……)

 その日の午前中を部屋で無為に過ごした後、守は身繕いをして、予定していた訪問先、ニューヨークの北米中央病院へ足を運んだ。
 ニューヨークへの出張が決まった時に、ここに立ち寄ろうと決めていたのだ。
 会いたい女性が一人いる。それは、かつてミサイル艦ゆきかぜの艦長時代の部下だった男、相模均の婚約者だった。


 宇宙戦士訓練学校で3級下の相模は、彼の入学当初、守が先輩として新入生指導を担当してからの付き合いだった。
 外見はそれほどハンサムとは言いがたいが、明るくて元気がよく、何事にも一生懸命に努力する男だった。話題も豊富で、話していてあきない。男として魅力のある人物で、守ともすこぶる馬が合った。

 その後、訓練学校で航海畑のコースを進んだ相模とは、卒業後は出会うこともなくなり、同じ艦で任務につくこともなかった。

 そして数年が経ち、地球がガミラスの攻撃に劣勢続きで、日本艦隊が最後の綱となった頃、守はミサイル艦ゆきかぜの艦長に就任した。
 その時、相模が航海長として同じ艦に乗ることになって再会した。

 常に死を背負いながらの戦いの中にも、旧友との出会いは守の心に明るい光をさし込んだ。さらにその友から、彼が生涯をともに生きるべき伴侶を見つけたことを聞いた。

 「そうか、結婚するのか! おめでとう!」

 「ありがとうございます! 彼女は俺にはもったいないほどの美人なんですよ。ははは……」

 「ほお、そりゃあ会ってみたいもんだな」

 「はい、今度紹介します。結婚式では艦長にもご挨拶いただかないといけませんからね。スピーチお願いします!」

 嬉しそうにそんな報告を聞いたのは、ゆきかぜ最期の出陣となった冥王星海戦の少し前のことだった。今から思えば、本当に結婚式を迎えられるのか、本人も半信半疑だったのではないかと思う。
 あの出陣は、まさに満身創痍の状態だったのだ。

 そして……日本艦隊旗艦の沖田の艦と自分の艦だけが最後に残った時、守は旗艦を無事に逃すために自分の艦が盾になることを決め、クルーに退艦を命じた。
 しかし、相模をはじめクルー達は誰一人としてそれを承服するものはいなかった。

 「艦長とともに最期まで戦わせてください!」

 必死に訴える彼らに、守はそれでも退艦しろと言うことは出来なかった。

 結局、自分一人がこうして生き残ってしまったことを考えれば、あの時どんなことをしても彼らを退艦させるべきだったと思っても、それはもうあとの祭りだ。

 地球に戻ってきた守は彼らの家族に会い、その最期の様子を話し謝った。
 家族の中には、恨みをいうものも、涙に暮れるものもいたが、それでも最後は守の無事を喜んでくれた。
 相模の家族に会った時、相模を深く愛していたというその婚約者女性にも会いたいと思いその消息を尋ねたが、彼女は今ニューヨークで医者として修行中だと聞き、今まで会えないままになっていたのだ。

 そして今、守は北米中央病院のエントランスに立っていた。

 「間宮……希……か」

 将来を嘱望される外科医として、連邦中央病院から派遣され渡米した彼女は、今も独身のまま仕事だけを生き甲斐にしているらしい。
 もし、相模を生きて帰してやれたなら、今ごろ彼女も幸せな妻であり母親にもなっていたかもしれないと思う。
 彼女を不幸にしたのも自分の責任だ思うと、守の胸は痛んだ。

 (なんと言われてもいい。会って一言謝りたい)

 意を決して中に入る。そして受付で間宮希という医師のいるフロアを尋ねた。
 第一外科、フォード教授のスタッフの一人と聞かされた守は、その支持の通りに外科のある5階に向かった。

 5階のナースステーションに立ち寄って、そこにいた看護婦に再び尋ねる。

 「ドクターマミヤに会いたいんだが」

 ハンサムな守に尋ねられた看護師は嬉しそうにニコリと笑った。

 「ドクターマミヤなら、さっきまでここに…… あ、あそこです。ドクターマミヤ!!」

 看護師の呼びかけに希が振り返った。そして守の顔を見て顔を強張らせる。

 (えっ!? 彼女が間宮……希?)

 守も彼女の顔を見て、ショックを受けた。
 そう、それは、今朝まで一緒にいたあのマリーという女性だったのだ。

 守を一瞥すると、くるっときびすを返して歩き出した希を、守が追いかけた。看護師は驚いた顔で二人の姿を見ていた。

 「ちょっと待ってくれ、マリー! あ、いやドクターマミヤ!」

 さすがに院内で走って逃げるような痴態を見せるわけにはいかない希は早足で歩くが、そんなことなどお構いなしの守は、駆け足で追う。当然あっという間に追いついてその肩を背中から掴んだ。

 「頼む、話があるんだ」

 「……あなたと話すことなんてありません!」

 希が振り返って、きっと守を睨んだ。それでも守は怯まなかった。

 「昨夜のことで来たんじゃないんだ…… 俺は君に謝らなければならないことがあるからなんだ。俺の名前は……」

 「知ってるわ、古代……守」

 守をにらんだまま、希が答えた。

 「っ! 知ってたのか?」

 守が驚いている隙に、希は肩にかけられていた手を振り払った。

 「今朝、クローゼットにかかっていた上着で名前を見たのよ」

 「なら話が早い。俺は君の元婚約者だった相模と一緒にゆきかぜに乗って……」

 「知ってるわよ、そんなことは!!」

 声高に希が答えると、周りの人々がびっくりしたような顔で二人を見た。ナースステーションで守に答えた看護師も興味津々で見ている。
 さすがに、廊下の真中ではまずいと思ったのだろう。希は、声を低くした。

 「あ、ごめんなさい。こんなところでは、話せないわね。ふう、いいわ。少しだけ時間を取るわ。こっちに来て」

 それだけを言うと、希は守の行動を確認することもなく、スタスタと歩き始めた。

 希に連れられて来たのは、8階にある応接室だった。受付でルームキーを受け取ると、希は飲み物はいらないから誰も入室しないようにと受付の女性に伝えて、守を促した。

 部屋に入っても、希は黙って守をにらんだままだ。

 「今日ここに来たのは、君を……マリーを探していたんじゃないんだ。古代守として、君に謝りに来たんだ。
 ゆきかぜを……相模を地球につれて戻してやれなくて、すまなかった……」

 守が頭を下げた。が、希は眉をしかめて睨み顔を崩さなかった。

 「今更、何を聞いても仕方ないわ……」

 「それはわかってる。だが…… あいつはいい男だった。最高の航海長だった」

 「そんなこと言われなくったって、私が一番知ってるわ! でも……昔のことよ。あの人はいない。だから、もう忘れたの」

 さっきまで恐い顔をしていた希の表情に、少しずつ変化がみえた。瞳が潤み始めているようだ。

 「俺が憎いのか?」

 「……あなたを憎んだって、あの人は帰ってこないわ」

 希の声が僅かだが震え始めた。守は静かに尋ねた。

 「ゆきかぜの最期のことは知っているのかい?」

 「……知ってるわ。あなたの弟から全部聞いたもの」

 「え? 進が? 弟を知ってたのか?」

 意外な人物の名前を聞いて守が驚いている間に、希の中に、もう封印したはずのかつての恋人への思いがあふれてきた。

 「退艦を命じたあなたにあの人達が反対して、最期まで一緒に戦うって言ったことも!」

 希の瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ始めた。必死になって冷静になろうと務めていた箍(たが)が崩れると、一気に思いが吹き出してきた。

 「今ごろ謝るなら、どうしてあの時なにがなんでも退艦しろって命じてくれなかったの!? どうしてあなただけ、おめおめと生き残って、地球に帰ってきたのよっ!」

 力いっぱい叫ぶ希の絶叫に対して、守は何も答えるすべがなかった。ただうなだれて謝るだけしかできない。

 「…………すまない」

 思いを吐露して少し落ち着いたのか、希は大きく深呼吸すると、今度は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 「ふふ……もういいのよ。忘れなくちゃいけないことだもの。戦争だったんですものね。生きて帰れるほうが不思議な戦いだったって聞いてるわ。
 私ね、戦いが終わってからタイタンまで行ったのよ。ゆきかぜに会いに……
 ちょうどタイタン行きの艦医の臨時要員を募集してて、それがあなたの弟さんの艦だったの。
 彼は私の事情を知って、タイタンでゆきかぜまで案内してくれたわ。そして、あなたから聞いたゆきかぜの最期も教えてくれた。地球に帰ってきてからは、彼のお墓参りまで付き合ってくれたのよ。
 イスカンダルに残ったあなたの代わりだって言って……」

 「そう、だったのか」

 守は、奇妙な縁を感じた。自分が地球にいない間に、進がそんなことまでしてくれていたのかと思うと、胸が熱くなる。

 「いい弟さんを持ったものね」

 「ああ、全くその通りだ……」

 守はこっくりと大きく頷いた。

 「ふうっ…… だからもういいのよ。さっきは取り乱してごめんなさい。心の整理はつけたつもりだったのよ。でもまだだめみたい。
 だけど……もうあなたを恨むつもりはないわ。それにあなただって、奥様を亡くされたんでしょう。愛する人を失った気持ちは、よくわかってくださってるはずだもの」

 「…………」

 愛する人を失った気持ち…… 確かに守にはそれは痛いほどわかる。彼女も同じ思いをしたのだ、と思ったことが、まず最初に彼女に興味を持ったきっかけでもあったのだ。

 部屋に入ったばかりの剣幕とは打って変わって、希は穏やかに微笑んでいた。ただ、その微笑みはあまりにも悲しげで、それを癒してやりたくて抱きしめたくなるほどだった。

 守の中で、希がマリーと重なる。心の中に渦巻く熱い感情が、守を突き動かそうとしていた。
 だが、希は違う反応を見せた。

 「さあ、もう帰って。恨みはないけど……でも、あなたにはもうこれ以上会いたくないの。あの人を思い出させないで……」

 冷静にそう言い放つと、希は部屋の出口に向かって歩き始めた。その後ろから、守が声をかける。

 「希さん、いや……マリー!」

 「!? 昨夜までのことは……忘れて」

 はっとして振り返って、それから小さくため息をついて、希はゆっくりと首を左右に振った。

 「しかし……!」

 希はとても穏やかな笑みを浮かべ、「たった2日あまりだったけれど楽しかったわ」と言ってから、すぐに顔をきつい表情に戻した。

 「でももうそれもおしまい。マリーはもういないわ」

 しかし、まだ守はあきらめられなかった。このまま彼女に頑なに心を閉ざしてもらいたくなかった。あらゆる意味で、彼女には幸せになってもらいたい。
 それが自分の手でできるなら…… そんな思いもあったのかもしれない。

 「俺は…… 君が消えていた時、正直言ってひどく失望した。もっと君と話したかったし、君のことをもっと知りたいとさえ思った。だから、もしもう一度君に会えたら、今度は最初から……」

 「……やめて。あれはあれで終わりなのよ」

 真摯な守の訴えを退けるように、希が顔を逸らせた。

 「本当にそうだったのか? 君のあの瞳は、俺の腕の中で震えたあの体は…… 全部嘘だったっていうのか?」

 「…………そう……よ」

 「俺は君に本気で惹かれたんだ。そして君も……だと思った」

 「そんなことあるわけ……ないわ」

 守が希の前に立って顔を見ようとしても、彼女は視線を合わせようとしない。

 「どうして俺から目を逸らす? 俺の顔を見て言ってくれないか! 君の心にもし少しでも俺に対する気持ちがあるのなら、今は無理でもいつか……」

 「だめよっ! 絶対に……だめ」

 望みが大きくかぶりを振った。

 「どうして!? 今すぐとは言わない。俺にチャンスをくれないか?」

 「無理よ…… あなたを見てるとあの人を思い出すわ」

 希は、再び潤み始めた瞳を守に向けた。涙で彼の顔はぼやけて見えない。

 「……忘れろなんて言ってやしない。俺だって妻のことは忘れられない。だが……」

 「私だって幸せになりたい、いつかまた誰かを愛して幸せになりたいわ! でもそれはあなたじゃない!
 確かに私はあなたに惹かれた。あなたと一緒に過ごした時間はとても楽しかった。
 でも、それはあなたが誰だかわかるまでよ。あなたとだなんて、彼を見捨てた古代守とだなんて……!
 彼に申しわけなくて……私にはできないわっ!!」

 希は、守の声に畳み掛けるように叫んだ。
 あの2日あまりの間に、希の心にも守への愛が芽生えたのは確かだった。もしかしたら、と期待したのも本当だ。
 だが、その相手が均を死なせた張本人だという酷な事実を、そんなに簡単に忘れることも、希にはできなかった。

 「お願い……黙って帰って……」

 希が、懇願するように涙声で訴えた。守にも彼女の気持ちはよくわかった。自分を思い切れないことは、充分にわかる。
 それでも守はもう一度食い下がった。

 「時間をくれないか? 今すぐとは言わない。正直言って俺も戸惑っている。もちろん、妻のことを完全に思いきっているわけじゃあない。だからもう少し時間がたてば……」

 「……あなただって、奥様を亡くした寂しさを、知らない女とつきあうことで紛らわしたかっただけかもしれないじゃないの?」

 「それは……」

 スターシアのことは忘れられないし、思い出せば今も辛い。つかの間の情事で、その悲しみから逃れたいという思いがなかったとは言えない守だった。

 「もし、こんな形で再会しなければ、私達はもう二度と会うこともなかったはずよ」

 守の心も揺れた。互いにこれほどの傷を持って、本当に互いだけを見つめあうことができるのか、自分でもわからない気持ちもある。
 それでも……それでも……?

 守は一呼吸置いて、大きく息を吸った。

 それでも……!

 「……俺はこんな形でも再会できたという方に賭けてみたいと思う」

 希の瞳が大きく見開かれた。彼の気持ちがまっすぐで心からの深いものだと言う事が伝わってくる。心の中に僅かに迷いが生じ始めた。

 「…………」

 「日本にはいつか研修を終えて帰るんだろう?」

 「……ええ。たぶん来年の今ごろには……」

 「じゃあ、その時もう一度会ってくれないか? その頃には、俺も自分の気持ちに整理をつけられると思う。それでも俺じゃだめだっていうなら、あきらめるから」

 「…………」

 心惹かれる誘いにも、希はまだうんとは言えなかった。守は、ふうっと大きくため息をついた。もう、これ以上無理強いしたくはなかった。

 「わかった……仕事中に邪魔をして悪かった。娘への土産を選んでくれてありがとう……じゃあ」

 希の横を通りすぎて、部屋の開閉スイッチに手を伸ばす。その時、後ろから希が小さく叫んだ。

 「さよ……なら……」

 希の声が涙で震えている。守が振り返ると、希は彼の視線から慌てて顔をそむけた。

 守の顔にふっと笑顔がもれた。そして、ポケットから小さなメモ用紙とペンを取り出すと、さらさらと短い数字を書いて希に手渡した。

 「これは俺の電話番号だ。日本に帰ってきて、もしその気になったら連絡してくれ。待ってるから」

 守が差し出したメモを、希はしばらく見つめていたが、ゆっくりと手を差し出すとそれを受け取った。
 しかし、わかったともありがとうとも言わないし、頷きもしなかった。

 それでも希が受け取ったと言う事実に満足して、守は静かに部屋から出ていった。

 見送る希は、手にしたメモを握り締めたまま、再び溢れ出した涙を拭こうともせず、ただ静かに立ち尽くしていた。




 だが……希の見た後姿は、彼女が古代守を見た最期の姿となる。

 悲しい運命は二人が再び出会う事を……許してはくれなかった。
 

(エピローグ1)

 〜ニューヨークで二人が別れてから2週間後のイカロス天文台〜

 「なにがマリーとシローだよ。ったく人の名前を勝手に使いやがって……」

 「別にお前の名前だっていうわけじゃ……」

 「そうだっ! まあそれはいいが、で、結局お前、そのまま諦めて帰ってきたわけか?」

 「まあな……」

 「ふうん、あんまりおまえらしくないな」

 「あんな風に泣かれたら、いくら俺だってあれ以上押せるわけないだろう。それに俺だってスターシアのことを言われたらな。確かにまだ思い切れちゃいない。寂しさを紛らわしたかっただけかもしれないし」

 「本当にそうなのか?」

 「…………」

 「ふん、お前マジで惚れたんだろう?」

 「ふっ……かもしれんな」

 「はははっ、白状したか…… まあそれもいいことだ。時が癒してくれるさ。お前の心も、そして彼女の心も……な」

 「そうだといいが」

 「来年になって彼女が日本に帰って来たら、会うつもりなんだろ?」

 「ああ……彼女が連絡してくれたらな」

 「してこなくてもその気のくせに。ま、頑張れよ。その頃にはサーシャも地球に帰ってるだろうしな。新しいお母さんというのはかわいそうだが、お姉さんくらいになってもらえるかもしれないな」

 「はは、飛躍し過ぎだよ」



 友と明るい会話をした日から数ヶ月後、守は帰らぬ人となった。

(エピローグ2)

 〜暗黒星団帝国との戦いが終わった直後のニューヨーク、希の部屋にて〜

 「ケンちゃん…… わざわざ呼び出してごめんねぇ。だって一人じゃ悲しすぎるんだもの。あ、このつまみ美味しいわねぇ。ケンちゃんていつもお料理上手ね」

 「はいはい、どういたしまして。均兄から頼まれてるからね、希さんのことは」

 「うふっ、ありがと! ねぇ、今日は朝まで飲もうよ。付き合ってよ!」

 「もうっ、大丈夫? 希さん……もう飲み過ぎだよ」

 「いいのっ! だって……私…… こんなことになるんなら、もっと早く会いに戻ってればよかった……!」

 「希さん…… わかったからもう泣くなって、ほら、涙でてる……」

 「ケンちゃん……優しいのね。本当にいい人ね、ケンちゃんって」

 「俺はいつでもいい人ですよぉ〜 『どうでも』がつくけどね」

 「ケンちゃん、大好き……」

 「はいはい…… あ〜あ、寝ちまったよ。希さん、そんなとこで寝たら風邪引くよ! ほらこっちに来て……」




 いつかまた誰かを愛して幸せになりたい……

 愛する人を亡くした希の夢が叶うのは、そう遠い先ではないのかもしれない。





 誰よりも……幸せに…… 僕が愛した摩天楼のマリー……


 

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(背景:Atelier paprika 写真:マンハッタン炎上計画)