あなたをユ・ウ・ワ・ク
しばらくキーボードをたたいて、後は印刷するだけとなった時だった。インターフォンのランプが点灯し、プープーという呼び出し音が聞こえてきた。
進がボタンを押して「はい」と答えると、この階の受付の士官からの声がした。
「古代艦長、奥様がお見えですが」
「え?」
「部屋にお通ししてもよろしいですか?」
「あっ? ああ、かまわない。通してくれ」
と答えたものの、進は一瞬戸惑った。なぜなら、いつもなら雪は階上の進の事務室まで上がってくることはなく、エントランスで待っているのだ。その彼女が珍しくここまで上ってきたらしい。
「なにか急ぎの用でもあるのかな?」
進は不思議に思いながらも、立ち上がって妻の入室を待った。すると部屋をノックする音がして、その後すぐにドアがスーッと開いた。
「お仕事、終わりそう?」
そう言いながら入ってきたのは、紛れもなく妻の雪だった。
――ん?
部屋に入ってきた雪を見るなり、進の心臓がドキンと大きく打った。
不思議なことに、今日の雪は、いつも以上にその美しい肢体から芳香が漂ってくるような気がしたのだ。彼にもなぜだかわからない。
それに、妻の顔も心なしか上気しているように見えるのは気のせいだろうか。
――まいったな、さっきのあらぬ想像のせいなのかな?
進はもう一度改めて妻をながめた。今日の装いはオフホワイトのワンピース。ちょうど防衛軍の女性用制服のようなテーラー襟のかっちりしたデザインのものだ。前開きのタイプで、襟の下から膝丈のスカートの一番下まで数個のボタンが並んでいる。そして細いウエストをきゅっと締めるように、共布のベルトが締められていた。
今日の服は、しなやかな布地のドレスのように、体にぴたりと密着するタイプではない。それでも細身の体に沿うように包んでいるワンピースの外形からは、形の良い妻のスタイルが、進には手に取るようにわかった。
それは、ごく普通の仕事場に着てきても何の違和感もないワンピース姿だった。それなのに、今日雪が入ってきた瞬間、進はそれがとても艶かしく映った。
防衛軍の制服同様、胸元にはスカーフをつけている。色は制服のとは違い、深い海の底を思わせる濃いブルーだった。
――あのスカーフを外したら、胸元まで見えてしまいそうだな……
大きく胸元に切れ込んだスーツを見て、進は思わずそんなことを考えてしまう。が、慌てて今は仕事中だと思いなおし、自分の邪な気持ちを隠すように眉をしかめた。
「どうした? 下で待ってるんじゃなかったのか?」
すると雪が一瞬ひどく恥ずかしそうな顔をしたように見えたが、すぐにいつもの笑顔に戻っていた。
だが、進にはその笑みさえも、やけに色っぽく見えて、またもやドキリとさせられてしまった。
――おいこら、進、今更女房の顔見てドギマギするなよ!
自分で自分に突っ込みを入れながら、進は慌てて妻から顔をそらせた。
それが雪の目にも入り、自分の微妙な変化に気付いたらしい夫の反応振りを嬉しそうに見つめた。
――彼、何か気付いてるわ…… やっぱりどこかしら出てしまうのかしら? でも嬉しい……
普段とちょっと違う自分の姿に、恥ずかしくもあり浮き立つような気持ちでもある。そんな自分の様子を、夫が何か感じたらしいと思うと、雪は心を躍らせた。
そして同時に、この計画を成功させるためには、自分が最後まで妖艶な女を演じ続けなければならないことも知っていた。
雪は浮き上がりそうになる恥じらいを、心のずっと奥に沈めた。
「ええ、そのつもりだったんだけど、早く着いちゃったの。だからもし仕事残ってたら、お手伝いしようかしらって思って。あ、もちろん、私が見てもいい資料ならね」
近付いてくる雪から、進は目が離せない。今日の雪には、何かいつもと違う甘い魅力が感じられる。
――今日の雪はなんかちょっと違うような気がする。なんなんだろう?
そんなことを考えながら、雪の顔を見ると、彼女は柔らかな笑顔を帰してきた。それに再びドキリとさせられる。
――いかん、いかん、今はまだ仕事中だぞ!
進は懸命に頭の中を切り替えて、椅子に腰を下ろしてデスクの上のパソコンの画面を指差した。
「あ、ああ……そうか。じゃあ、俺がテーブルを片付けている間に、このデータのプリントアウトをしてもらおうかな。この原稿は明日長官にも回す予定だから、君に目を通してもらっても大丈夫だから」
「ええ、わかったわ」と頷いて近づいてきた雪が、突然「でも、ここ暑いわね」と言い出した。
進が雪の顔を見ると、確かに頬がほんのりと赤く染まっているように見える。それほど室温が高いとは思えないのだが、と進は首をかしげた。
「そうかな? 俺はそうでもないけどなぁ」
「スカーフとっちゃおっと」
「えっ?」
進が状況を理解する前に、雪は首もとのスカーフをすっと引き抜いて、テーブルの上にぽいと投げていた。
――なんだよ、急に? やっぱり今日の雪、どっか変だ?
しかし、進がぽかんとした顔で見ているのにも構わず、雪はさっき進が示したファイルを見ようと近づいてきた。
「このデータね」
雪は座っている進の隣に立って、前かがみに彼の指す画面を覗き込んだ。するとちょうど進の視線が、前かがみになった雪のスカーフを取って大きくくれた胸元と同じ高さになった。いわゆるいい眺めというシチュエーションだ。が……
――え!?
進は、妻の胸元を見て、自分の目を疑ってしまった。もう一度良く確認しようと体を乗り出すと、雪はすっと体を起こしてしまった。
――ちょっと待てよ、今のは一体!?
今、襟の間から妻のふくよかな膨らみが、そのままそれもその先端の蕾まで見えたような気がしたのだ。
その後雪がすぐに体を起こしてしまったので、はっきりと確認できなかったが、普通ならあの角度からなら、雪がいつも身につけているレース地のランジェリーに包まれた胸が見えるはずだった。だが今日は、それが見えなかった。
――まさか……な? いや、きっと俺の気のせいだ……よな!?
進はやけにドキドキと激しく鼓動を繰り返す胸を必死に鎮めながら、自分の目を疑った。
視線の先の雪といえば、特に変わった様子もなく、椅子に座ってパソコンのデータの印刷にかかっていた。もう一度見ようとしても、姿勢良く背筋を伸ばして座っている雪の胸元は、さっきと違って襟から内側は全く見えなかった。
――やっぱり俺の見間違いか? はぁ。まったく、俺ときたら、欲求不満なのかなぁ?
確かにここ数日、同じ地球で暮らしていながら、仕事ですれ違って十分に愛し合えない日々が続いていた。
――けど、今夜は外で食事をしたら家に帰ってたっぷりと雪と愛しあえる……今度こそ間違いなく、明日は休みなんだから。
進は、そう考えると、小さく深呼吸して、自分の心を落ち着かせた。
一方雪はといえば、一見何事もなかったかのようにさりげなさを装ってはいたが、実はこれまた内心ドキドキが止まらないのであった。
(背景:Four seasons)