029 My Sweet Home
なおこさん作
「お帰りなさい」という声に迎えられて、古代はユキがこの部屋の住人になったのだということを、今更ながらに思い出した。
ドアの鍵を開け、暗い室内に向かって、誰に言うでもなく習慣としての『ただいま』を口にする。
そんな当たり前の日常が変化した。
部屋には暖かな明かりが灯り、目の前には、先に仕事を終え帰宅していたユキの笑顔があった。
…そうだった。今朝だって、この部屋から一緒に出勤したのに。
慌しく出かけたシーンが、頭の中に蘇る。
それなのに一瞬、どうしてユキがいるのか?と本気で考えてしまった。
彼女が出迎えてくれたことに驚きを隠せなかった自分が、可笑しかった。
「…ただいま」と幾分ぎこちない返事を返すと、彼女はもう一度「お帰りなさい」と言って微笑んだ。
「どうしたの?古代くん。ずうっとそこにいるつもり?」
玄関先に立ったまま、なかなか部屋に上がろうとしない古代の顔を、ユキは不思議そうに覗き込む。
「ん?あぁ…そっか。えっと…お邪魔します。」
そこで彼はやっと靴を脱ぎ、足元にきちんと揃えられた室内履きに足を入れた。
「やぁね、古代くん。」
「え?」
「自分の家なのに…」
「俺、何かヘンなこと言った?」
「お邪魔しますって。」
そんなこと言ったかな。と苦笑しながら、彼は住み慣れた部屋の奥へと進んだ。
ユキはそのままキッチンに立ち、夕食の仕度の続きに取り掛かる。既に何か作り終えているようで、ほのかにいい匂いも漂っていた。
「何か手伝おうか?」と声をかけるが、敢え無く却下され、彼は取りあえず制服を着替えることにした。
寝室に入ってクロゼットを開けると、そこにユキの制服の白いジャケットがかかっていた。
その横に、自分のブルーのジャケットをかける。
ふたつ並んだ制服を、何とはなしに、暫く眺めていた。
些細な事ではあったが、もの凄く幸せなことのようにも思えて、自然と口元が綻んだ。
「簡単なものしか出来なくて、ごめんなさいね。」と言いながら、それでもテーブルの上にはサラダと、野菜がたっぷり入ったスープと、パスタが並んでいた。
『不器用で料理下手』と誉れの高かった(?)彼女も、実はやってみたら案外飲み込みは早く、最近は随分と手際もよくなってきたし、レパートリーも増えてきた。
先生がいいから…とは、彼女のお母さんの弁だ。
この部屋に来て何度か作ってくれた料理は、確かに回を重ねる毎に上達していたなと思う。
冷えた白ワインで乾杯して、その後は彼女の作った料理を、あっという間に平らげた。
「もう少し味わってくれてもいいんじゃない?」
ユキは少々ふて腐れて言ったが、その顔は嬉しそうだった。
食後の片付けを手伝うと申し出たら、又しても却下され、リビングに追いやられた。
ユキが食器を洗っている音を背後に聞きながら、古代はソファに座り、手持ち無沙汰に部屋の中を眺めていた。
昨日までと変らない、シンプルと言えば聞こえのいい、飾り気のない部屋。
でも、昨日とはちょっと違って見えた。
今までも、彼女がこの部屋に来て泊まっていったことは何回もある。
お帰りなさいと言って出迎えてくれることも、キッチンに立って料理を作ってくれることも、今回が初めてという訳ではない。
でも今日のそれは、今までとは状況が違うのだ。
ユキは帰らない。
明日になっても、明後日になっても、ずっと…
戦いのさなか、互いの生死も分からずに離れ離れになってしまったことが、ふたりにお互いの存在の重さを改めて思い知らせた。
再会してからも、あの時の不安を全て拭い去ることは難しかった。
傍にいたいと、心から思った。
それでも結婚という道を選べないジレンマに、ふたりが出した結論は、とり合えず共に暮らそうということだった。
休日だった昨日、そのことをユキの両親に報告して了承を得た。
そして彼女は、当面の暮らしに必要なだけの着替えと、身の回りの品をバッグに詰めて、その日のうちにやって来ることとなった。
だからこの部屋の中に、目に見える変化は、今のところないと言っていい。
家具もカーテンも食器も、今までと同じだ。
同じはずなのに。
違う。
彼は確信を持ってそう思う。
古代にとって、ユキとの暮らしを始めるということは、特別の意味を持っていた。
寝て起きて生活するための場だった『部屋』が、初めて自分の帰るべき『家』になったような気がした。
ユキと一緒に住むというだけで。
ただ、それだけで。
今はまだ夫婦の真似事のような暮らしでも、いつかはふたりで家庭を持って、家族を増やしていくのだ。
そうやって、少しずつ前に進みながら、自分達は暮らしていくのだろうと思う。
焦ることはない。
自分達はまた、始まったばかりだ。
ここから始まるのだ。
「狭いながらも楽しい我が家…か。」
古臭いフレーズを口にして、古代は思う。
…俺、結構、舞い上がってるな。
そして彼は、その手につかんだ小さな幸せを、もう決して離すまいと、心に強く誓ったのだった。
おわり
まさにタイトル通りのお話に、思わずにっこり。
古代君の嬉しくって、不可思議な感じがとってもよく伝わってきました。これから作っていく本当のSweet Homeへの第一歩ですね。
あい(2003.11.19)