047 祈りをこめて
ともこさん作


「なに?」
古代は、妻を咎める視線で見た。

「え?」
雪は、一瞬驚いて夫を見つめ返す。

「あの男は、誰なんだ?」
彼がやや怒った声で問うた。

「男、って?」
雪がまた、驚いた調子で夫を見た。

「今、俺たちとすれ違った男だよ」
古代は、むっとして答えた。


長期休暇で久しぶりに戻った春の昼下がり。
新緑きらめく午後のまぶしい光の中、彼は妻を連れて久しぶりに夫婦水入らずで出かけた。
甘えてまとわりついてくる妻と心地よい会話を交わしていると、自分たち夫婦と同年代のひとくみのカップルとすれ違った。

感じよい雰囲気の優しそうな男と、きれいな女と。
ふたりとも自分たちと同じように幸せそうによりそっていた。

すれ違いざま、男の瞳がそっと微笑んで雪に目礼した。
雪も静かに笑って、目礼で返した。

注意してみていなければ、誰も気付かないほどの一瞬のあいだに行われたふたりの男女のあいだのやりとり。

古代は、その瞬間を鋭くとらえ、見逃さなかった。


自分の妻は秘書という仕事上、顔も広い。
自分の知らない交友関係もある。
その中には、もちろん異性もいる。

それはそれでいい。
俺は彼女の自由は尊重する。
信じている。

愛し合って信じあって暮らしているのだし。
俺の知らない、男の知り合いが妻に多くいてもかまわない。


あいつは、街中で俺の知らない知り合いに挨拶されてもきちんと相手が誰か俺に紹介してくれるから。
ふたりでの日常の会話のとき、俺の知らない男の知り合いの名前がよく彼女の口から出る。

仕事で一緒のあのひとが結婚した、とか。
おいしいお店を教えてもらったので、今度ふたりで行こう、とか。
教えてもらった銘柄のワインを買ってきたので、ふたりで飲もう、とか。

他愛ない会話でも、俺は楽しんで聞くことが出来た。

どんな小さなことでも、必ず君は俺と結びつけて考えてくれてるんだー。


それなのに、今すれ違った男が君に捧げたあの真摯なまなざしは、なんなのだ。

強いて言えば。

ふたりのあいだにだけ通ずるなにかを「共有」している者同士だけで通じる微笑。
そんな感じだった。

俺の知らない彼女のいち部分が、急に俺に孤独な疎外感を味あわせた。

俺の知らない男と君という女。
彼らのあいだに、さっと交わされた視線。

それだけで気になってしまうんだ。


古代は、そのまま妻に自分の胸の不安を打ち明けた。

彼女に黙ってひとりで悩むほど、俺は強くはない。
彼女に関することであれば、なおさらだ。

いつも彼女とは、クリアな関係でいたい。


歩くのにも疲れたから、そこで休憩しましょうか、と彼の妻が歩道わきのベンチを指差した。

ちょっと待ってろ、と彼は近くの自販機で缶コーヒーを2本買ってきて、彼女に1本
手渡しながら、彼女の隣に腰掛けた。

一度だけ言うから、聞いたらすぐに忘れてね、と缶をあけながらを彼女は低い声で小さく夫に囁いた。


あのね。
私たちの結婚式を挙げた教会にね。

私、ときどき行くの。

私のもとを飛び立ったあなたがまた無事に私のところに帰ってきてくれますようにって、祈るために。

仕事持ってるから、あなたの出航後すぐってわけじゃなくて、時間があるときにふらりとだけど。

教会に行って座って、ひとりで静かにあなたの無事と私たちの幸せを祈って出てくるだけなんだけど。

今の男の人は、前の冬によく教会で見かけたの。

あんな寒い朝や冷え込む夜にもよく来てたから、私みたいに本当に願いを送り届けたい人なんだろうなあ、といつも思ってた。

互いにその存在に気付いても目礼するぐらいだったんだけど、なんか悲しそうな目をしててね。
愛する人になにかあったのかなあ、って。


ある日を境にふっつり、姿を見かけなくなったから、どうされたのかしら、って心のどこか片隅で気になってたわ。

でもさっき、彼をお見かけたしたときは、幸せそうなお顔だったから、きっと彼の祈りは神様に通じたのね。

本当によかったわ。

あなたも、無事に帰ってきてくれて、こうして一緒に過ごせるし。
とてもしあわせ。


にこにこ笑って妻に見つめられながら、彼女の小さな秘密を打ち明けられた古代は、ばつの悪そうな、でもとても満たされた幸せな気分でそっと彼女に微笑みをかえした。

(終)


ふと目に付いた妻と見知らぬ男性の目礼に、ちょっぴりヤキモチな古代君が、なぜかとてもかわいいですね。そして同時に、いつも地球で旦那様の無事を祈る雪ちゃんの思いを静かに感じました。
お幸せに……二組のカップルさん!
あい(2004.4.14)

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