052 そばにいるだけで……
ともこさん作
(1)

あのあと、雪は防衛軍秘書の職を一時的に抜け、そのまま国務省に出向に出た。
1ヶ月前のことだ。

彼は、あのまま宇宙勤務を続け、妻に直接会うことはなかった。
彼女を抱いたひととき以来、頻繁に妻から入ってくるようになったメールがそのまま彼女の心の揺れを表しているようだった。
以前は、メールはそう毎日、というわけでもなかったのに、とにかくケタ違いの回数に増えた。
互いの勤務時間の都合もあるから、画面越しに会える回数は、限られている。
携帯での通話も同様だ。
だから、2人の間は必然的にメールがメインのやりとりとなる。


(緊張しきっているんだなー)
どことなく、妻からのごく短いメールの文面を見て、彼は敏感に感じ取る。
出向に赴く前の彼女は、以前から希望していた他の部署での仕事の研修が受けられる、と言って喜んでいた。
出向に出て、良くも悪くも今まで自分がいた軍と国務省とのカラーの違いに戸惑っているのだろう。
彼には、そう感じ取れた。

あの政府高官の抜き打ち視察のときに目にした、随行員として来ていた国務省の職員達の中に軍の職員を混ぜるのは、さぞしっくりこないだろう。
仕事の基本的な背景が全く違うのだから。

雪は、その渦中にいさぎよく飛びこんでしまって、飛びこむ前の勢いが強かっただけに、かえってその反動の煽りを受けているんじゃないのか。

そうとも思えた。

しかし。

これは彼女の仕事だ。
離れている夫を精神的に頼ってくるのはいい。
出来る限り、支えていってやろうとは思う。

けれど、自分で自分のことをやりぬけるだけのことはして欲しい、と彼は思う。
元々、そういったことには強い妻だ。

けれど、ときどきとんでもないところで失速することがある。
あいつは。

だから、気が抜けないんだ。俺は。
特に今回のことに関しては。

慌しい任務の合間の短い休息時間に妻からのメールを目にした夫は、小さく嘆息した。


(2)

妻からのメールは、仕事に関することではなく、日常のごくありふれた些細な出来事がほとんどだった。
以前の彼女は、この手の話題はあまりメールで送ってくることはなかった。
携帯での通話にもなかった。
定期的な画面越しの会話時に
「あのね」
と堰を切ったようにその手の話題を楽しそうに話しかけてくる。
夫との会話をいかにも待ちかねた、といった様子で飽くことなく延々と話しつづける。

そんなときの妻の嬉しそうな笑顔を、いつでも彼は脳裡に浮かべることができるー。

いつでも、思い浮かべているー。


彼が妻宛にこまめにメールの返事を送ることは、任務の都合上できなかったが、それに関しては最初から互いに了承済みだった。
しかし、彼女のメールは、どことなく彼からの返事をいつも求めているように受け取れた。

「メールでもいい、私はあなたに触れたいの」

そんな彼女の独り言に近い、つぶやきが聞こえてくるようだった。

けれど、この1ヶ月は彼女の勤務状況の変化と、彼の任務がたまたま多忙を極めた時期と重なって電話も画面越しの会話もかわせなかった。
非番の日があっても、時間帯の違いで彼女を捕まえることができなかった。

そんな日々が1ヶ月続いた頃、ある日を境に妻からのメール攻勢がぴたりとやんだ。
ただの1通も寄越さなくなった。

傍目には、彼女なりに彼女のペースを掴んだのかもしれない。
とも受け取れる。

あいつは、あいつなりに頑張っているのだな。
とも思う。

けれど、何かが俺の頭の片隅に引っかかるのは、どうしてだ。
なぜ、メール攻勢がやんだのだ。

気になるとそのまま走り出す彼の性格は、その歳になっても健在だった。
強引に近いやり方で短い特別休暇をもぎ取ると、彼はそのまま地球へ帰還した。


(3)

とりあえずは自宅に向かう。
久しぶりの我が家だ。
やはり、自宅はいい、と彼は思う。
不在がちであっても、やはり心はいつもここにあるから。

部屋は、意外なことに散らかることもなく綺麗に片付いていた。
普段だと、仕事の繁忙期に入った彼女は家の掃除にまで手が回らずに、
「部屋は散らかってるんだけど、何も見ない事にしてるの」
と、画面越しの彼に向かって苦笑することもしばしばだった。

ま、出向としての勤務だから、軍での仕事量よりは少ないのかもしれないな。
それで、部屋にまで気が回る時間的な余裕が生じたのかもしれん。

そう判断した彼は、たちまちソファにでも座ってゆっくりビールでも飲もう、と冷蔵庫を軽い気持ちで開けた。

「・・・・・・」

彼は、黙って冷蔵庫の扉を閉める。

中に何もないのだ。

医学の心得があって、どんなに任務が多忙でも、まず体が資本、ということを十分にわかりきっている妻は、きちんと朝食だけは摂る習慣を持っていた。
だから、いつも冷蔵庫には朝食用の食材やドリンク類の最低限のストックだけはあったのだ。

それがない、ということはかなり前から彼女の食生活は変化しているのだ。
それも意識的にではなく、無意識のうちに、だろう。

部屋が綺麗なのも、散らかす余裕すらないからなのだろう。

彼の表情が曇った。


(4)

「え!?」
と言ったまま、帰宅した雪は絶句した。

宇宙勤務に出たままの夫が何の前触れもなく、自宅に戻ってきているのだ。

「信じられない」
嬉しそうに笑って見せるが、どことなく力がない。

疲れきっている様子だ。

彼は、心に小さな痛みを感じた。

「コーヒーでも飲むか?」
穏やかに問いかけると、雪は微笑んで頷いた。

「そこに座って待ってろ」
彼女に促すと、彼はキッチンに向かった。

雪は言われるまま、ダイニングの椅子に腰かけていた。

「ほら、出来たぞ」
両手に持ったマグカッブのひとつを彼は、テーブルの彼女の目の前の位置に置いた。

「おいしい・・」
マグカップを両手で持って、コーヒーを一口飲んだ雪は、そうつぶやくと不意に静かに泣き出した。

「仕事が大変なのか」
彼は、ゆっくりと声をかけた。

彼女は、黙って首を横に振った。

「仕事は、出向ってこともあって、まあ、それなりのものなの。
軍の秘書勤務に比べると、割合ゆったり仕事してるわね」
「時間的な余裕は、あるんだな」
「ええ」

彼女は、それだけ答えると彼の質問を遮るようにコーヒーを黙って飲んだ。

彼も、そのまま何も言わずにテーブル越しに妻と向き合ったまま、自分のコーヒーを飲んだ。

飲み終わった彼は立ちあがると、そのままリビングのソファにもたれた。

深い、ため息が出る。

彼女もコーヒーを飲み終わり、ソファまでやってくると彼の膝の上にゆったりと座りこみ、深くため息をついた。

座る、というよりは疲れきった体を投げ出す、といったほうが正しいかもしれない。

「国務省は仕事が出来るヤツばっかりだろう」
「ええ」
「ショック受けたのか」
「ええ」
「それで、メールが途切れたのか」
「ええ」

再び、彼女は深いため息をついた。

「最初は、緊張の連続で自分で自分をどうしたらいいのか全くわからなくなって、あなたにメールするしかなかったの。
でも時間が経って、精神的に落ち着いて周囲を見まわすことが出来るようになったんだけど、そうなってみると今度は私と同年代の女性達の仕事ぶりが目につくようになったのね。
国務省は、私より遥かに仕事が出来る女性ばっかりで、もう私、今までの自分は何してたんだろう、っていう気になってしまって、悩むようになってしまったの」

彼は黙って聞き続けた。

「悩んで精神的な余裕なくしちゃって、壁にぶつかってドン詰まり。
出向に出たのに、こんなはずじゃなかったのに、ってね」

彼女はそこまで話すと、ふふと笑った。

「もう、あまりに悩んであなたにメールする余裕すら消し飛んじゃった」
「そりゃ、あんまりだな」
彼は軽く笑うと、彼女を背中越しに抱きしめた。

「もっと悩んで、ひとまわり大きくなれよ」
「なれるものなの?」
「ああ」
「そうだったかしら」
「そうだったよ。俺は」
「そうだったわね」

なんだか仕事に燃える理想的な会話を交わしてるわね、私達。
と気を取り直した様子で冗談ぽく言うと、雪はそっと彼の腕の中を抜けて彼の傍らに立った。
そして、彼の隣に座りこむとそのまま、彼の膝に頭を載せる形で横になってもたれかかってきた。
膝の上の妻の頭を、彼はそっと撫でた。

「帰ってきてくれて本当にうれしい・・」
雪は、つぶやく。
「もう少しこのままでいさせてね」
「ああ」
夫の優しい声に、雪は安心しきって目を閉じた。

「明日からまた、いつもの古代雪に戻って仕事に行って来い」
「うん。そうする」
「それを聞くと安心だ」

彼の声がやっと安堵感を漂わせた。

「そばにいてくれてありがとう」
彼女の声に彼は答えず、黙ってその大きな温かい手で妻の頬を包み込むようにして撫でた。
その温かさを感じながら、彼女はいつしか眠りに落ちていった。

(終)


ともこさんのお話「I'm Proud」の続編になるとのことです。これが、ともこさん100のお題のスタートラインです。100題クリア目指して頑張ってください!
あい(2003.9.21)

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