055 少 年

 
かずみさん(文・イラスト)作


むせかえるような草の匂い。眩しい陽射し。
気がつけば俺は捕虫網を持って、雑木林を駆けていた。

俺の姿は、戦いなど知らなくて幸せだった頃の少年、だった。
……夢…を見ているのだろうか……?

あの頃の俺は、緑が萌える時期になると、いつも虫を追いかけていた。
蝶、とんぼ、せみ、かぶとむし、くわがた……。
林には俺の宝物がいっぱい詰まっていた。初夏から夏、そして秋。
この丘の林で、俺はいつも季節を感じ取っていた。

ときには兄さんも一緒に駆け回ることもあったけど、大抵は俺ひとりだった。
兄さんは俺より10歳も年上だったから、雑木林の探検は幼すぎることだったのかもしれない。


その日、俺の目の前には鮮やかな羽根を持ったアゲハ蝶がいた。
ひらひらひら。俺のことなど意に介さぬように優雅に舞う。

辛抱強く後を追った。
蝶と俺の一対一の真剣勝負。

やがて、ゆるゆると蝶が木にとまる。

いまだ!

ひらりと俺の網が一閃して、一瞬、時が止まった。
おそるおそる中を見ると……、力なく羽根を動かす彼女がいた。しかし――。

……なにかがいつもとちがう……。
いつもなら……俺は一目散に丘を下り、家にいる両親や兄に獲った虫を見せに行くのに。

今日はそんな気になれなくて、じっと網の中の蝶を見ていた。
彼女には、さっきまでの優雅さはどこにもなかった。
ただ生き延びるために、必死に羽根を動かしている。

突然、なにかが自分の中に湧き上がり、知らぬ間に俺は網を放り出していた。
とらわれの蝶は懸命に力を振り絞り、網の中から逃げようとしている。
俺はそれをじっと見ていることができず、網をそのままに丘を駆け下りてきてしまった。

あの蝶は、あれからどうなったのだろう。


そしてまもなく地球に、あの遊星爆弾が降り始めた。


兄さんが久しぶりに家へ帰ってきた夜、日本に初めて遊星爆弾が落ちた。
それからは地獄だった。
連日、この日本のどこかで爆弾の犠牲者が出ていた。地下都市への移住が日本でも始まり、俺の家も翌日には地下への引越しを予定していた。

しかし、それは実行されることはなかった。
俺は両親を失い、楽しかった少年の日々は終わった―――。


兄さんが冥王星会戦で戦死した。
そして俺はヤマトに乗り込んだ。気の遠くなるような、それでも地球を救うためには絶対に成し遂げなければならない旅に出るために。

もう地球には俺が死んでも嘆くような人はいない。それはそれでさばさばした気分だったが、一方で多少寂しくもあった。
その寂しさを紛らわせるためだったのか―――。
俺は一番大事にしていた蝶の標本を私物として持ち込んでいた。

やがてそれは俺の大切な人の持ち物となり、彼女によって大切に保管された。




「この蝶はそんなに大事なものだったの。」
「ま、俺の小さい頃の大事な思い出だから。」
「お姉ちゃんもいつも大事そうにしてるけど、たかが虫でしょう?」

青い瞳の少年はたずねる。そんなものをなぜ後生大事に持っているのか、と。

「僕の星では花や虫は生き物とさえ思われていないよ。」
「どうして?」
「強くないからさ。女の人や子供もね。」
「……。」
「その蝶だって弱いからお兄ちゃんにつかまったんでしょう?」

「生命あるものは皆平等なんだよ。等しく生きる権利がある。もう俺は虫を捕まえたりしない。」
「生命? 花や虫も?」
「そうだよ。花を見て綺麗だと思ったり、虫を見てかわいいと思ったりしたことはないの?」
「だって……。そんなこと、今まで思ったこともなかったよ。」

この少年は……花を摘んだり、虫を追いかけて野山を走り回ったことがないのだろうか。
ちがう星の子供とはいえ、少年らしさが微塵もない。
彼の瞳は……あくまでも青く冷たく澄んでいる。

「お姉ちゃんは『地球では人のために何かをしてあげるのがいいことだ』って言ってた。」
「そうだね。相手を思いやるってことは一番大事なことだと俺も思うよ。」
「なぜ?」
「なぜって……。いつも『自分が、自分が』って言ってると、争いが絶えないだろう?」
「強い者が弱い者を支配するのは当然のことじゃないの?」
「君は……。」


俺の目を見ずにそう言った少年は、やがて俺の腕の中で息絶えることになる。
自分の星が水没したと知らされたときも泣かなかった子が、初めて涙をこぼした。いまわの際に。

綺麗な、涙だった。


そしてその後の激烈な戦闘の末、俺は父と慕った人を見送り、愛した艦を見送り――。
自分は生き長らえて故郷の星に戻ってきた。

一体、いくつの命が消えていったのだろうか。
戦いがひとつ終わるごとに「こんなことは、もうありませんように」と何度涙を流したかわからない。
だが地球を脅かす存在が出現するたび、俺の手はたくさんの命を奪ってきた。

何も知らなかった、懐かしいあの少年の日に。
俺はもう戻れない―――。




「古代君……、古代君……。」

遠くから彼女の声がする。

「大丈夫?」

大丈夫って……、なにが……?―――。


目を開けると傍らの雪が心配そうに俺の顔をのぞき込んでいる。
ふと頬に違和感を感じ、手をやると。

「涙……?」
「うなされていて……。起こそうとしたら……。」

そう言ったきり、彼女は口を噤む。
泣いて…いたらしい。眠りながら、夢を見ながら。
雪がそっと涙の跡を細い指でなぞった。触れるか触れないかというぐらいの優しいなぞり方で。

「昨夜のテレビのせいだ。」
「テレビ?」
「昆虫特集……やってたろ。」
「ああ。でもそれがどうして?」

あらたまって聞かれても、一言では言えない。
長い間、夢を見ていたような気もするし、一瞬だったのかもしれない。
いろんな感情が渦を巻いて俺に襲いかかり、頬に新たな涙がつたった。

「まだ……つらいのね。」

俺を柔らかく抱きしめて彼女はそっと呟く。

「私では、力不足……なのね。」
「そうじゃ、ない……。」
「古代君。」
「俺は……今までたくさんの命を奪ってきた。こんな俺がなぜこうして生きているんだろう。」

一瞬、雪の瞳が大きく開かれ、だんだんとうるんでくる。

「約束、したのではなかったの?」
「約束?」
「生きる、ということを。命を落とした人たちの分も受け継いで、私達は地球で生きていくって。」

ああ。そうだ……。そうだった。
もう俺の命は、俺ひとりのものではないし、俺が自由にできるものでもないんだ。

俺の命は……死んで行った人たちのものであり、仲間たちのものであり、そして彼女のものでもある。
何度もこうして、彼女に思い知らされる。
自分勝手な俺の心。なくてはならない、彼女という存在。

「雪。」

確かなその『存在』を逃すまいと、俺は彼女をきつく抱きしめた。
しばらくみじろぎもしなかった雪が、俺の腕の中でそっと息を吐く。

「私、お祈りするわ。」
「……何を?」
「もう誰の生命も、どんな生命も理不尽に奪われませんようにって。」
「雪……。」
「それからね。」

いったん、そこで雪は言葉を切る。

「……新しい生命をどうか授けてくださいって。」

うつむいて恥ずかしそうに、雪が囁く。

「あなたによく似た目をした男の子がいいわ。」
「……雪。」
「父親のあなたがいろんなことを教えてあげるのよ。あなたの大好きな植物や昆虫のこと、海で泳ぐことや、車のことや……。」

「私達のことや……、ヤマトの……。」

そこまで言って、雪は俺の胸に顔を埋めた。


そのまま俺たちは再び眠りに落ちてしまったらしい。

また夢を見る。
でもそれは幸せなものだった。

なくしたと思っていたあの故郷の野山。
少しだけ年齢を重ねた俺と、俺の子供の頃によく似た少年がいた。
ふたりとも手には捕虫網。腰には虫かご。

少年は網を振り回し、俺に注意されている。『そんなにむやみに振り回しても捕まえられないぞ。』
興奮した少年は俺に向かって叫ぶ。

『じゃあ、やってみせてよ、おとうさん!!』

そこで目が覚めた。

雪はすやすやと静かな寝息をたてて眠っている。
今見た夢と、その雪の寝顔でひどく安らかな気持ちになった。

そしてふと、あの青い瞳をした少年を思い出した。
彼も今ごろは、俺たちと違う世界で、少年らしく父親に甘えているだろうか……。


子供……。俺たちの子供が生まれる頃は、この星も元の姿を取り戻しているだろうか。
青く澄んだ空。その色を映す青い海。きらきらと輝く川の流れ。新緑に萌える木々。

それならば、またあそこへ帰ることができるかもしれない。
野山を駆け回り、小川を飛び越し、風を感じつつ虫を追いかけ回したあの時に。


懐かしい風景が心に甦る。

俺は還ってきた。
そのことを悲しく捉えずに、前を向いて行けばいい。ただ、それだけでいい。

雪とともに。

生まれ来るであろう、新しい命とともに。

(終わり)


完結編からまもなくの古代君…… いろんな心の傷を負いながら、幼い頃の思い出と、雪とそして二人の子供との未来の夢に、古代君は生きていく意味を何か掴んだような気がします。
あい(2004.4.21)

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