090 愛してる
せいらさん作
(1)
カーテンの隙間から差し込む光が、新しい一日の訪れを知らせている。
古代は瞼にそれを感じて、眩しそうに目を開いた。
となりでは、雪が柔らかな寝息を立てている。
見慣れない風景に一瞬戸惑った古代は、自分の胸に縋るように眠る雪に触れると、安堵したように深呼吸した。
(そうだ、昨日二人でここに来たんだったっけ)
昨日は、古代は休暇だったが、雪はもう1日仕事が残っていた。
ひとりで何気なくテレビを見ていた古代は、画面に映されたリゾート地の景色を見て、そのままそこに書いてあった番号に電話し、空室の確認を取った。
幸い、晩夏のリゾートホテルは空いており、古代は離れのコテージに予約を入れると、雪の帰宅を待って車を走らせた。
夜の遅い時間に到着した二人は、もつれ込むようにベッドに入るとそのまま朝を迎えた、という訳だ。
昏々と眠る雪を起こさないようにベッドから滑り降りると、古代は熱いシャワーを浴びてもう一度ベッドルームに戻った。
天蓋のついたベッドの中で、シーツに包まった雪はまだ眠っていた。
このコテージは、ホテルの離れになっているため一般客とは顔を合わさずにすむうえ、部屋も居間とベッドルームの2室からなっているので、ちょっとしたスイート気分が売りらしい。
(眠り姫を目覚めさせるにはキスが一番なのだろうけれどな。今日はもう少しこのままにしておこう)
古代は彼の眠り姫に小さく微笑むと、居間に戻ってルームサービスを注文した。
海に面したテラスに出て、朝日というには少し高くなってしまった日の光を浴びていると、波の音に混じって浜辺の喧騒も聞こえてくる。
彼はそれらの音をBGMに、テラスにしつらえてあるテーブルセットで雑誌を広げた。
しばらくすると、小さなノック音をさせてルームサービスが運ばれてきた。
厚切りのトーストとグリーンサラダ、茹でたてのウインナーに玉子、とりどりのフルーツ、蜂蜜入りのヨーグルトそして香ばしいかおりの熱いコーヒーと柔らかな香りの紅茶。
それらを自らテラスにセッティングすると、古代は再びベッドルームに入っていった。
しばらく姫の幸せそうな寝顔を眺めていた彼は、彼女の柔らかな亜麻色の髪に指を通し、なだらかな弧を描く頬を両手で包むと、そのばら色の唇に柔らかなキスを落とした。
やがて、眠り姫の瞳がゆるゆると開かれた。
「おはよう」
どちらからともなく朝の挨拶を告げると、雪がその白い腕を真っ直ぐに伸ばして古代の首に絡み付けてきた。
「う〜ん、こっちも美味しそうだけど、テラスで僕らを待ってる朝食も捨てがたいんだけどな」
古代がいたづらっぽくウインクすると、雪は驚いて重たい目を開いた。
「えっ、朝食って・・・きゃっ!」
雪の言葉が終わらないうちに、古代はシーツで彼女を包んで抱き上げると、そのままテラスへ運んで椅子に座らせた。
「ま・・・あ、これって・・・」
言葉のない雪に対して、向かいの椅子に座った古代はニコニコしながらテーブルの上のものを平らげ始める。
「早くしないと、俺が全部食っちまうぞ。」
雪はそう言われて、古代が注いでくれた熱いコーヒーを啜りながら改めて辺りを見渡した。
自分が座っているテラスの先からは、遅い夏の海が広がっている。
このコテージの下は岩場になっており、テラスの小さな木戸の向こうに伸びる桟橋は、今は海水に浮かんでその先は海になっている。
つまり、ホテルから繋がる通路を通らない限り、ここに直接入ることは出来ないのだ。
その上、ここから見える風景ときたら!
「ほんとに・・・ほんとになんて・・・素敵なの!」
雪は思わず立ち上がってテラスの柵に進みかけ、ふと自分の姿に目をやった。
寝起きの顔にぼさぼさの髪、薄いシーツを纏(まと)っただけの体・・・。
慌てて部屋に取って返すと、大急ぎで部屋着を着て身づくろいをし、テラスに戻った。
「ちぇっ、あのままでよかったのにさ」
フルーツを突付きながらおどける古代に、雪は軽く睨んで笑った。
「昨日は暗くてよく判らなかったけど、本当に素敵なところね。早く帰って来いって急かされて、帰ったとたん荷造りさせられて、いったい何処へ行くのかと思ったけど・・・」
「『何もしない、何も考えない休日』それがここのキャッチコピーだってさ。だからこの休暇中、何にも考えるなよ。仕事、持って来てただろう。だめだからな。」
「えーっ、あそこにあるパソコンで半日もあれば終わるのに・・・」
「ここでは何もしない。ただ、ぼーっとするために来たんだから。」
「でもあれだけは早く終わらせてしまいたいのよ。みんな忙しいのに、私だけ無理言ってたくさん休み取っちゃたしー」
「その代わり、夏休みも取ってないだろう。ここではパソコンは開けない。テレビもつけない。時計も見ない。寝たいときに寝て、食いたいときに食って、思い切り無駄な時間を過ごすんだ。」
「もう、進さんったら勝手なんだから。休み明けにはすぐ大切な会議があるのよ、その資料にするんだから・・・」
「君がしなくても誰かがするさ。いいか、仕事なんてそんなものだ。」
「まっ、随分な言い方ね。私のしてる仕事くらい誰でもできるって言いたいの?」
せっかくの美しい風景の中で、初日から言い争うような真似は二人ともしたくない。
雪はもう一度コーヒーを啜り、古代は肩を竦めた。
「じゃあ、勝手にしろよ。俺は泳ぎに行くから、雪は仕事をしてればいい。」
雪は深い息を吐き出しながら、蒼い海を見やった。
本当に素晴らしいロケーション。素敵なコテージ。
昨日までは、この休みの間に片付けておく家事のことしか考えていなかったのに。
まったく、思い付きとはいえ、古代にしては上出来すぎる休日を用意してくれた。
(今、ここで喧嘩するなんてもったいなさ過ぎるわね。)
雪はそう思い直すと、膨れっ面の古代を見詰めた。
彼は子供のように、「ふん」とばかり横を向いている。
なんだか可笑しくなった雪は、諸手を挙げて全面降伏することに決めた。
確かに、この風景に『仕事』は似合わない。
「分かったわ、仕事は無し。すべてあなたの言う通りにします。その代わり、帰ったら手伝ってもらうから覚悟してよ。」
雪はそう言うと、みずみずしいマンゴーを一切れ古代の口に放り込んで、自分もサラダに手を伸ばした。
「ちゃんと食べとけよ。今から泳ぐぞ。」
(2)
1時間後、二人はホテルのプールにいた。
晩夏の海は波も高く、周囲にはサーファー達で溢れていたため、古代の本能が「危険」を察知したためだろうか。
プールも程ほどに空いていて、古代が力任せに泳いでもぶつかる相手もなかった。
しかし古代のアンテナはどんな時でも張り巡らせてある。
ほら、今だって「危険」を感知した彼は、『800M個人メドレー』を中断してプールサイドのデッキチェアでジュースを注文していた雪に目をやった。
パラソルの下で雑誌を広げていた雪に、ジュースを持ったボーイが近づき何かしら話し掛けている。ジュースを手渡した後も、なかなか立ち去ろうとしない。
雪が笑いながら話しているのも気に入らない。
間に割って入るのもかっこ悪い気がして、古代は競泳用のコースに立つと、綺麗な放物線を描いてプールに飛び込み『個人メドレー』を再開した。そして、雪がプールサイドに座って自分を見ているのを息継ぎのたびに確認すると、古代はあきれるほど力一杯泳ぎまくった。
午後からは、遅いランチを摂って、気持ちよく疲れた体をソファーに横たえて眠る。
夕方、潮が満ちてくると、二人でテラスから桟橋へ出て足を海水に浸しながら雲を眺めた。夜は、同じく桟橋に寝そべると、星が降ってくるように見ることができた。
普段、分刻みのスケジュールの元に動いている彼らが、実際に時間のない生活ができるまで優に3日はかかったが、なんとかこの休暇中にそんな穏やかなペースを持つことも出来た。
その間、二人は特に何をするでもなく、ただ無為に時間を使い、お互いの温もりを感じあう時間だけを大切にした。
(3)
明日は帰る、という夕方、一変掻き曇ったかと思うとスコールのような雨が突然降り出した。
部屋に閉じ込められた二人は、それぞれに本を読んでいる間に凭れ合うように眠ってしまっていたが、やがて雨音が小さくなったと感じた雪が、テラスへのサッシを開けて外に出ていった。
雨雲が所々千切れ、その雲の隙間から光の柱が一本、また一本と真っ直ぐに海面へ伸びている。
まだ雨の余韻の残る空に、その光柱に照らされた場所だけがきらきらと輝きを放っていた。
あまりに幻想的な光景に、雪は引き寄せられるように歩き出していた。
桟橋の先端まで来ると、雪は両手を伸ばしてその光を掴もうとし、さらにもう一歩、何も無い空間へ足を踏み出そうとした。
突然、強い力で抱き取られた雪は、現実に引き戻されたようにゆっくりと振り返った。
いつの間にいたのか、古代が後ろから雪を抱えている。
「『天使の梯子』、とはよく言ったものだよな。うちの女神にも翼が出て来るのかと思ったぞ。」
古代が、雪の腰に手を置いたまま笑った。
雪は、彼の顔をまじまじと見詰めながら、その顔が奇妙に揺らいでくるのを感じた。
慌てたのは古代の方だ。
雪の瞳から、ぽろぽろと涙が零れているのだから。
「いやだわ、私・・・。あんまり綺麗で、なんだか胸が一杯になっちゃって・・・どうして涙なんか・・・いやだわ・・・」
再び空へ目を向ける雪を、後ろから抱きしめるようにして古代も空を見た。
雪も、体を彼の胸に預けてきた。
「うん、ほんとに綺麗な光景だな」
「私、こんなに疲れていたのね。なんだかこんな風に涙が零れる自分が不思議。ずっと、心が乾いていたのかしら。」
「お互い、いろんな事が有り過ぎたしな。雪は何でも頑張りすぎだし。」
「そうなのかしらね。今の今まで、気付かなかったけど。」
古代は雪を向き合わせ、その美しい瞳から零れる涙を優しく拭うと、彼女を抱き寄せ口付けた。
そんな二人の上に、神様からの祝福のように『天使の梯子』が降ろされた。
まるで、空からのスポットライトを浴びたような二人は、唇を離すと目を見合わせた。
「愛しているわ。今、ここにあなたが居てくれてよかった。愛してるって、今すぐに伝えることが出来て、本当によかった」
雪が、その大きな瞳を潤ませながら古代を見詰める。
古代は、はにかんだような笑みを見せながら、雪を引き寄せた。
「その言葉、久しぶりに聞けたな。それだけでもここへ来てよかった。」
雪が、何のことか判らない、という表情を見せた。
「『愛してる』ってさ、もう随分言ってくれてないだろ?仕事は他の誰かで間に合っても、このセリフは雪でなきゃ意味がない」
古代が、照れる顔を見られないように雪の背に回す腕に力を入れた。
「そう・・・だった?もしかして、だからこんな休日を・・・?私、あなたに寂しい思いをさせたのかしら・・・」
答える代わりに、古代は雪の柔らかな髪に顔を埋めて頬を摺り寄せた。
雪は、そんな彼の仕草に
(俺も愛してる)
というサインを受け取ったように感じた。
お互い、仕事に戻ればまた全力で駆け続けなければならない日々が待っている。
でも、時には全てを投げ出して、心に水をやらなければ。
カンフル剤ばかりでは、いつか息切れしてしまう。
二人は、もうすっかり雲の吹き払われた空を見上げた。
それは、夏の終わりを示すような、見事な夕焼け空だった。
やがてオレンジ色の太陽がその姿を隠すまで、二つの影は寄り添ったまま動かなかった。
(終わり)
結婚前でしょうか、後でしょうか。いつもフル活動の二人の、何もしない時間です。「奴ら」にも見つからない、本当に二人だけの穏やかな時間を書いてみました。
たまには、疲れている雪に尽くす古代、ってのもいいのではないかと思いまして。時間に追われて忘れるものって、結構大切なものだったりして・・・ね。
by せいらさん(2004.8.22)
(背景:pearl box)