100 誕生
ともこさん作
「いやだわ」
くすくすと笑いながら、雪は夫の手を軽くあしらった。
「おい」
古代も、そのまま引き下がるわけではない。
妻にはねのけられても、懲りずにまた妻を腕の中に抱こうとする。
「もう、しょうのない人ね」
彼女は、自分から夫の腕の中に入っていった。
「素直に最初から、そうすればいいだろう?」
夫が嬉しそうに妻を抱きとめた。

今日は、互いに仕事は休みだ。
息子は、友達の家に出かけて多分、夕方まで戻らないだろう。

久しぶりに日中、家の中で夫婦2人きりになった。

父と母という立場より、男と女という立場につい切り替わってしまう、そんな気だるい午後のひとときー。
昼食後、自分に食後の紅茶を入れてくれた妻の何気ない、きれいな横顔に彼の心がどきりとした。
彼女の手をそのままつかむ。
夫の思いがけない行動に、妻は驚いて彼を見た。
その瞬間のあどけないような表情が、彼に火をつけた。

夫に求められた妻はさりげなく故意にかわそうとしたが、結局は彼に手を引かれて寝室に連れて行かれる破目となった。
そのままベッドの上に腰かけた妻の服を夫はゆっくりと脱がしていく。
ブラウスのボタンをひとつ外すたびに、小鳥がついばむようなキスを軽くひとつ。
ボタンをひとつ外して、キスをまたひとつ。
他愛なく愛情をかわしていく。

ブラウスを脱がしきったら、深く抱き合って濃厚なキスを交わして。
互いに裸になって抱き合って。

彼女の豊かになりつつある胸に、彼はそっと顔を寄せた。
「だめよ」
彼女は笑って、夫の頭を遠ざける。
「もうすぐ俺のものじゃなくなるんだから、今ぐらいいいだろう?」
彼も笑って妻を抱きしめる。
そのまま、ゆるりと彼女を横たえて夫は妻を自分の腕の中に引き寄せた。
「好きだ」
耳元で小さくささやく。
「今更、なぁに?」
妻がしらばっくれた調子でかわした。
「好きなものは好きなんだよ。
真面目に聞けったら」
「いや」
「聞けよ」
「いや」
「おい」
2人は、軽く言葉の追いかけっこを始めてしまった。
そうしながらも彼の手は妻の熟れた体を徐々に求め始めているー。
少しずつ彼女の息遣いがあがってくる。

古代は、上から妻を満足げに見下ろした。
若い頃とかわらずに、ほっそりとしたきれいなからだ。
色気のある首筋。
きちんと結い上げてあったのに、夫の愛撫でほつれ髪がこぼれた髪。
夫の熱心な熱い眼差しに戸惑う、やや羞恥心に満ちた妻のはにかんだ顔。
従順さの下に淫らな淫蕩さを秘めてー。
彼の鋭い視線は、妻のありのままの姿と心をあますところなくとらえる。

「きれいだな」
古代がつぶやいた。
「え?」
雪が思わず聞き返す。
「本当にきれいだ」
そう言うと彼は裸の妻のお腹をいとおしげにほお擦りした。
そのお腹には、彼の2番目の子供が宿って、ふっくらとふくらみ始めている。
「きれい、って・・」
雪は戸惑った。
「私は、もう47なのよ」
でも妊娠した。
「だから、きれいなんだ」
彼はささやいた。

年齢的に若い頃のように妻を頻繁に求める、ということはもう絶えて久しかった。
ときおり、互いに思い出したかのように肌のぬくもりを求め合う。
穏やかに抱き合う。
夫婦であることを確認する。
息子の両親、という立場を時には離れて、夫婦として求め合う。
それが2人の愛し合い方だった。

何気なく抱き寄せた結果の妻の2度目の妊娠にやや困惑しながらも喜んだ彼は、以前より妻を求める回数が増えた、と自分でも感じるようになった。

心から相手を慈しんで抱く、とはこういうことだったのかと彼は初めてわかったような気がする。
それはとても優しい気持ちの沸き起こる行為であって。
相手が心から自分を頼りきってくれていて。
それはとてもうれしい感情であってー。

妻の両親は、もう高齢で、産褥期の世話を頼むことはできない。
彼自身が育児休暇を取得して、妻と生まれてくる子供の世話をしようと決心している。

副長官としての任務?
ああ、あれはあれでいい。
十分な年数は勤め上げた。
俺以外の優秀な人材も、後進の世代にきちんと育成しておいた。
別に俺でないと務まらないことがあるわけでもない。

もう家族を優先的に考える時期にさしかかってもいい頃合だ、と彼は妻の妊娠を機に考えるようになった。

「本当に、それでいいの?」
夫から育児休暇の取得を告げられたとき、妻は信じられない、といった目をした。

この人は、そういう人間だったろうか?
彼女はそう訊いてみた。

この人は、いつも任務優先で。
結婚してたまに自分や家庭を優先してくれることはあったけれど、それはあくまで
も「たまに」といった頻度であって。
多忙な夫に負担をかけることは自分でもためらわれて。
でも、どうしようもなくて。
結婚とは、そういうものである面もあって。

「そういう人間に君がしてくれたんだろ」
彼は、穏やかに笑っただけだった。

それ以来、彼女の夫への依存度が高まった気がする。

私は、この人に頼り切ってもいいのだ。
そうしても許されるのだ。

そう思うと、出産で自分の年齢への不安もあった彼女は、夫にすべてをゆだねるようになった。

それは、夫婦生活にも小さな変化をもたらした。

今も彼女は優しい目をして信頼しきって夫を受け入れている。
穏やかな愛撫に身をゆだねる。

一瞬一瞬がまろやかにとろけていくようなセックスは、この年齢になって初めて知った、と互いに思う。

肌と肌が柔らかく触れ合う心地よさ。
互いに冗談ぽくみつめあって、キスする楽しみ。
自分の愛する対象が増える喜び。

彼は妻と妻のお腹の子供と、両方を自分で慈しんでいるような、そんな錯覚に陥っている。

こんなに素敵な錯覚は、本当に何度陥ってもいい。
何度でもいい。
彼はそう思う。

「大丈夫か?」
「ええ」
優しい言葉をかけられながらのセックスもいいものだと彼女は思う。
普通の体ではないから、以前のような愛し合い方はできないけれど、でも心が以前と比較にならないぐらい満たされるのは何故?

妻をくるりと横向きにして、彼は背中に軽くキスしていく。
かわいいお尻にも。
脚にも。
そして彼女を潤して行く。

幸せなため息が彼女から漏れる。
前より、とても感じるようになって。

そのまま彼女を後ろ向きにして、彼は優しく中に入っていった。

「あ・・」
彼女がかすかな声をあげた。
「あなたが好き・・」
ひとりごとのようにつぶやく。
目を閉じる。

このときだけは母であることを忘れる。
夫への思いだけが溢れてくる。
夫に愛されていることを体で実感する。

「俺もだ」
彼が優しい声で答えた。
その瞬間、心と心も確実にひとつになるー。

妊娠中だから愛し方は緩やかなのだけれども、妻の豊かな潤いが彼を温かく包み込む。
それは、ゆったり気味なのだけれども貪欲な結びつき方で。

本能のままに自分に応えてくれる美しい妻を本当に心の底からいとおしい、と彼は思った。

そのままゆっくりと身重の妻の体を気遣いながら、彼は妻を愛していった。
妻が母親ではない、女としての悦びの声をあげ続けてー。
彼もその声に満たされて行く。

自分の子供を宿した女を抱く、というのはとても、いいー。
素直にありのままに開放される気がする。

自分の動きに乗じて妻が段々、感じきってきているのが声でわかる。
結婚して体を重ねた年数だけ、夫婦だけに通じ合う何かがあって。
気持ちのままに感じあって、愛し合って。


家には自分達以外、誰もいない!
2人しかいない!

夫と妻は、久しぶりに思うがままに愛し合ったー。


終わった後、妻は夫の腕の中に大事そうに抱え込まれていた。
彼の広くて男らしい胸板に自分の頬をぴったりとくっつける。
背中に手をまわされて、抱きしめられる。
そうされると、心がこの上なく落ち着くのだ。

彼女は幸せそうに目を閉じる。

夫の片手が彼女のお腹を優しくさすっている。

「こんなに乱れたの、久しぶり・・」
しばらくして目を開けた雪が夫から視線をそらしながら言った。
なんとなく恥ずかしくて、夫とまともに視線を合わせられない。
いいトシなのに、お腹に子供までいるのに、こんな自分を彼はなんて思ってるのだろう?
若い頃には感じなかった理性が頭をもたげてくる。

母親の自覚がない、と諭されはしないかしら?
はしたない、と思ってはないかしら。
この人は、この子の誕生をとても待ちわびてて、私の体調をとても気遣ってくれてるから。
何だか私の保護者のような気もしてくることがある。

あれこれ思い悩んでいる様子の妻を夫は、かわいい、とすら思って眺めた。
こいつは俺とのこととなると、いつもあどけないぐらい真剣に思い悩む癖があるから。
その点に関しては、こいつは、昔から結構、頭でっかちだった。

裏返せば、それだけ俺のことを愛してくれている、ということであって。

今回の妊娠も、年齢的に彼女の体にリスクが全くないわけではない。
よくも悪くも前回の妊娠から、くゆりなく14年も経っている。
彼の頭から離れないのは、それらの事実だった。
彼女自身は医療系の教職に就いていることもあり、その点に関してはすんなり理解できているようでも、お腹の子供や出産のことを考えるとやはり心の隅では微かな不安を感じることもあるようで、夜中に傍らで寝ている夫に小さくしがみついてくることもあった。

受けとめてやらねばー、と彼は思う。
俺があいつを受けとめてやらなければ誰がいるというのだ。
これまでの人生で、それこそあいつは数え切れぬほど俺を受けとめてきてくれたというのに。

妊娠するまで順調だった仕事が出産によって必然的に中断されることへの不安など、こいつなりに思い悩むこともそれなりにあって相談されることもある。
けれど俺には、あいつがそうやって俺を頼りにしてくれること自体がうれしい。
そうやって2人でいろいろ話し合い、支え合い、生きて行けたら、と彼は思っているー。

しばらくいろいろ考えたあと、彼は視線を妻に戻した。
「俺、乱れた雪が1番好きだから・・」
彼は、いつもとかわらぬ調子で答えた。
「こんなに乱れた雪を見たのは久しぶりで、嬉しかった」
そっと彼女に口づけする。
彼女から笑みがこぼれた。

「それと、俺にもうひとつ言わせてくれ」
不意に彼が切り出した。
「?」
妻がいぶかしんだ。
一体、何を?


「今度は何かあっても君を離さないから」
思いがけず深くてさりげない言葉に妻は、黙って頷いた。

前の出産のときに、互いに心が離れてしまったから。

でも、それももう昔のこと。
再び寄り添ったから、新しい命も芽生えた。

また何か彼がささやいた。

「・・なに?」
うまく聞き取れなかった妻が夫を見た。
「任務の合間の休息時に・・」
彼がくちごもる。
「あいつらにしょっちゅう、冷やかされるんだ。
47歳で頑張りやがって、って」
さすがに、これには彼も閉口しているらしい。

無理もない。
今回の妊娠では、自分達も驚いたのだから。
周囲の反応は、それ以上だろう。

「いいじゃない」
彼女が楽しげに笑った。
「おめでたいことなんだから」
妻本人は、それを楽しんで聞いている。
軍の副長官室で昔の仲間達にこっぴどく冷やかされて、困っている実直な夫の姿が思わず脳裡に浮かんだ。

この人は、昔からそうだ。
うまいあしらいかた、というのを本当に知らない。
というか、できない。
任務は颯爽とこなすのに、何故か妙なところで不器用だ。

でも、そこがまた素敵なんだけどー。

彼の頬を思わずなでて微笑みかける。
彼も黙って目で気持ちを返す。

自然に抱き合ったあとは、なぜこうも素直に話し合うことができるのだろうー。
なぜこうも心が通じ合うのだろう。

心身ともにくつろぎきった2人は、裸で抱き合いながらそのまま昼下がりにしばしまどろんだ。


「そろそろ風呂に入ろうか」
目覚めた夫が立ち上がって浴室に準備に行った。

その後ろ姿をベッドの上の妻は幸せな気分で見送った。

甘い気分は、そのあとも2人から離れなかった。
他愛ない声をあげて、2人して浴槽の中でじゃれあう。

若かったころは2人一緒に入った風呂も、今では別々だ。
普段は夫婦揃って互いの仕事に慌しく追われているし、生活の時間帯も違う。
息子の父と母としての、優先するべき顔もある。

こんなに日中から2人で風呂に入るのはー本当に何年ぶりなのだろう?
日常の中でふと立ち止まって、おだやかな時間を過ごすと日々の中で忘れかけていた思いに気付くことも有る。

「普段は俺も帰りが遅いから、さ」
浴槽の中で背中越しに妻を抱きしめながら、彼がつぶやいた。
「君にも息子の拓にも負担をかけることも多いと思う。
本当に申し訳ない。
育児休暇に入ったら埋め合わせは必ずする」
妻は、自分のおなかにふんわり触れている夫の手に黙って自分の手を重ねた。
「無理だけはしないで」
「うん」
妻のほのかな優しさが彼の心の琴線に触れて、すこし涙がこぼれおちた。

風呂上りの2人は、バスローブをはおっていた。
自分に頭をこすりつけて甘えてくる妻から、石鹸の清潔な香りがした。
その香りは、しばし彼を魅了した。

妻の体も髪も夫である自分が洗ってやった。
「人に髪洗ってもらうと気持ちいいのよね」
妻の無邪気な声が浴室に響いた。
つい、あやしげな方向に伸びがちな夫の手を妻が笑いながらとがめて制止する。
窓から入りこむ日の光りの中で妻のきれいさを再確認する。
軽く唇を寄せ合う。

楽しいひとときだった、と互いに思う。

「髭が伸びてる」
妻が気付いた。
「ん?ああ」
夫が自分の顔を洗面台の鏡を見た。
「これは、あとで剃るからいいよ」
「だめよ。今、剃らなきゃ」
妻がかわいく睨んだ。
「私が剃ってあげるから」

彼女は洗面台の棚から必要なものを取り出した。
泡立てたシェービング剤をブラシのような刷毛にたっぷりつけて、夫の顎につけていく。
真剣な顔をして彼女は、夫の髭を剃って行く。

たまには妻に髭を剃ってもらおうか。
彼はそう考え始めていた。
彼女とのこんな楽しいコミュニケーションは、俺の心に確実にしっとりとしみこんでくるから。

そのあと、互いに服を着せ合って、2人は日常に舞い戻った。

けれど彼はリピングのソファの上で、自分の膝の上に妻を座らせて2人で互いの体温を服ごしに感じあい、時間の経過をしばし忘れる。

「ふふ」
雪がまた悪戯っぽく笑って夫を見た。
「なんだ?」
「しあわせだわ。私」
しみじみ、つぶやく。
「俺もだ」
「ほんとに」

今日は互いにどうしたというのだろう?
でも、たまにはこんな時間があってもいい。
いや、なくてはいけない。

彼らをそれを再実感し始めていた。

「せっかくだから、新生児の講座でも開きましょうか?」
膝の上の妻が提案した。
「いいねぇ。君は本職だろ。
俺にわかりやすく教えてくれ」
「OK」
妻は夫が育児休暇に入ったときに読んでもらえるように買っておいた育児書を持ってきて、彼の膝の上にふたたびすわった。
「ふぅん」
彼女ごしに本の目次をぱらぱらとめくった彼は、興味深そうにそれらを目で追った。
「じゃ、第一章から読みましょうか?」
「ああ」
妻の母になる喜びの表情に見とれながら、彼は彼女とともに生まれてくる我が子のための予習にいそしんでいった。
妻が小さな項目を読み終わるたびに、彼らは小さく頷き合い、言葉をかわし、キスし合い、気持ちを重ねて行った。


背中越しに感じる夫の体温がとてもあたたかい。
彼女は、そう思う。
まもなく再び父親になる予定の夫の片手は、ずっと妻のお腹をつつんでいる。

それは、まるで。
今の彼の気持ちそのものだ。
私をまるごと受けとめて包み込んでくれる彼。

その気持ちに妻も微笑んで応える。
実にいい雰囲気だ。

しかし、そのムードも、息子の突然の
「ただいま」
という声に断ち切られた。

ハッとなった妻は、手にしていた育児書を思わず床に落としてしまった。
バサリ、という音がする。
途端に2人はいつもの父と母の顔に戻る。
次の瞬間、息子が両親のいるリビングに入ってきた。

両者のあいだにやや気まずい、ばつの悪い雰囲気が漂う。

彼の父親は、お腹の大きな母親を自分の膝の上に深く座らせていたし。
両親の足元には、慌てて取り落としたらしい育児書も落ちている。
何より母の今まで見たこともないような、ときめいた綺麗な表情で、自分のいないあいだに、2人が幸せな時間を過ごしたことが、なんとなく彼にも察知できた。


「おかえりなさい」
夫の膝の上から慌てておりながら、顔を赤く染めた雪は息子に声をかけた。
古代も、困ったような顔をしている。

思春期の息子には、どう思われるだろう?生々しくはなかったか?

何だか親のほうが、どぎまぎしている。

「父さんと母さんが仲いいほうが、赤ちゃんも喜ぶから」
声変わりが終わって、若い頃の父によく似つつある声で息子はぼそっと言うと、そのまま自分の部屋に入っていった。

「あいつなりに気を遣ったのかな」
古代がぼやくと、雪はどうとも言えず返事に困ってしまった。
困惑の母にかわって、お腹の胎児が、ばたばた騒いで父に返事をした。

(終)


二人目の子の妊娠とともに訪れた新しい夫婦の姿が、とても綺麗に描かれていてうっとりしました。
父であり母であり、でも夫であり妻である……
古代君と雪ちゃんもすっかり落ち着いた幸せをつかんだようでよかったですね。
あい(2003.10.27)

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