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* ペリオ倶楽部のペリオとは、ペリオドンティクス
( Periodontics 歯周治療学 ) の略です。
文:歯学博士 茂手木義男
茶の器を愛でる。それも変形し、ごつごつした、手垢や茶渋でくすんだ器を。必ずしも同一に論ず
るべきではないが、白い歯を黒く染めるお歯黒は、古墳時代から近年明治期に至るまでめんめんと
続いて来た、茶の湯と同様日本に特徴的な文化でした。前号で述べた様に歯に色を付ける習慣は全
世界的に見られることですが、技術改良を施し真黒に染めること、そして日本文化のほとんどが
中国からの影響を受けているのに対し、それとは隔絶したお歯黒文化は、日本に特異的に育って
来た文化と言えるでしょう。
歯は白いのが美しいと単純に思っていた私には、歯をあえて黒く染めるという行為が理解し難く、
歯に対する知識も未熟な上に日本人としての修行も成されていなかったのかとはずかしく思いま
した。なぜ黒くするのなぜに対して、著明な成書では控えて敢えて触れられていないのを良いこと
に、向こう見ずにも1、2の私見を述べさせてもらおうと思います。
1844年 Horece Welles により笑気麻酔が初めて臨床に
用いられた。1846年 William T.G.Mortonがエーテル麻酔
を創始した。日本においては彼らより先立つこと40年、
1805年華岡青洲がまんだらげを用い乳癌手術を行った。
この様に痛みを人為的に制御出来るようになった近代麻
酔学は、洋の東西共やっと19世紀である。当然学問にま
で系統立てられていない民間療法は存在した。古代ギリ
シャ人はコカの葉を咬み、その唾液を傷につけ創の処置
をした。また中国では手の合谷を押さえて、痛みを抑え
ようとした。1800年代以前は有史以来人々は痛みは自分
に与えられた神からの罰として、ひたすら耐えることを
強要された。そして痛みから解放されようと呪文を唱え、
祈りを捧げて来た。
前出のウエルズ、モートン両氏共歯科医であったことからもうかがえるが、歯の痛みは頻度、程度
共に痛みの最たるもので、歯痛に悩まされると、眠れない、正常な思考は出来ない、悶え苦しむ状
態であった。
お歯黒を化学研究した論文がある。1958年弘山秀直氏「齲触予防の基礎的研究《(長崎医学会雑誌)
の中で、お歯黒液が殺菌性を有し、細菌の発育を抑制し、齲触の進行を阻止する。また河越逸行氏
は、お歯黒した歯の揃っている江戸時代人頭蓋骨調査の結果、これら歯牙には全く齲触がなかった
と報告している。等お歯黒は現在においても確立された予防薬がない歯の齲触のかっこうの予防薬
であったことがうかがえる。
虫歯の痛みに苦しめられて来た昔の人達にとり、齲触の予防薬としてお歯黒は実用面で十分受け入
れられる要素がある。例えば戦国時代、戦さに出陣した大将が虫歯の痛みに苦しめられ指揮がとれ
なかった、というわけにはいかない。その武将にとりお歯黒は歯の色が黒くなろうととも鎧に身を
固めると同様戦さの備えのひとつの技術であったろうと考える。
「おあん物語《(山田去歴女 1711~30年)の中に次のくだりがある。
「味方へ取たる首を天守へ集められ、夫々に札を付けてならべおき夜る夜る首におはぐろを付け
ておじゃる《
つまり歯にお歯黒つけたものは官位あるもので武将であったが歯を染めていないものは官位もなく
兵卒なので、女房共にたのんで白歯にお歯黒を付けてもらい、武将の首を取ったようにみせかけた
(解釈、長谷川正康)。この様にお歯黒は齲触予防の技術として、地位の高い一部の人が用いた実
践的な手段であった。そしてこのお歯黒の技術は特権階級、例えば馬に乗れる武将とか、絹の上布
が着れる朝廷人とか、駕籠に乗れる女御とかのみの使用がゆるされる、階級を表す慣習になった
と考えられる。戦国時代、室町時代までは歯を染めて黒くするのは主に男性の、それも最上級の階
級の間で許された実用性からの作法であったと思われる。
それから江戸時代に入り社会が安定してくると、男達は戦場
に出兵しなくなった。そのためお歯黒を虫歯予防という実用
性の点から言うと男も女も差がなくなった。江戸時代初期
には、既婚女性がお歯黒をつけることは普通となり、嫁入り
支度の中にお歯黒道具が用意され、また芸者遊女にいたるま
でお歯黒することが広まった。歯を黒くする風習は男性の作
法から主に女性の習慣に変化して行った。実用性の他に、何
か当時の女性の心を捕えるものがお歯黒の中にあったのであ
ろう。
石原正明著「年々随筆」にお歯黒の理由として、日本人は黄色
人種なので白人に比較して増齢的に歯が黄ばんで来るのでき
たなくなるのをかくすために用いる、と述べている。また丹羽
源男著「楊枝の今昔史」に次の記述がある。「吉原の遊女は
三千人を超していたという。吉原の四方には遊女の逃亡を防ぐための堀が造られていた。遊女達
が毎朝お歯黒をつけてその残りなどをこの堀に流したため、ついにはお堀の水が汚れてすっかり鉄
槳色になってしまった。このためいつとはなしにこの堀を「おはぐろどぶ《と言うようになったと
言う。
歯が黄ばんで醜くなるとしたら40才近い頃からであろうから、10代後半から20代の遊女達が黄ばみ
を気にしてお歯黒をするとは考えづらい。また比較的頽廃的な遊女達が虫歯を予防するために毎日
せっせとお歯黒していたとは思えない。錦襴緞子に身を包み金銀宝石のかんざしを髪に刺し、美し
くなることに鎬ぎを削っていた遊女達が毎日欠かさず行うのであるから、その目的はただひとつ美
しくなるためである。お歯黒の目的は美しくなるために行うとしか考えられない。
西洋の白い歯に対して、日本の黒い歯が美しいを言うために、日本人の美意識の特異性を西洋人の
それと対比して、それ程までに端的に言い得た人を知りませんので、次に引用させていただきます。
岡倉覚三著「茶の本《より。
「数寄屋はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評
家のしばしば述べたところである。略 道教や禅の「完全《という概念は別のものであった。彼ら
の哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ
「上完全《を心の中に完成する人によってのみ見だされる。茶室においては、自己に関連して心の中
に全効果を完成することが客各自に任されている。禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、
極東の美術は均斉ということは完成を表すのみならず重複を表すものとしてことさら避けていた。
意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられいた《
美意識において日本人は西洋人と異なり特異であることは理解できますが、それでもお歯黒が美し
いはまだ言い得てはいません。
江戸時代婦人の一般的な礼儀作法を書いた「女用訓蒙圖彙《(奥田松柏著1687年)の「お歯黒《に
次の様に載っている。
「歯黒は毎朝有るべし。二日に一度は中、三日に一度は下也。其外はぶたしなみにてさたにおよば
ず。附子の粉はあらきはかねにつやなく、歯あひにたまるなり。新附子には甘草をまぜてつかい給
ふべし。かねをつけて、はを拭べし。ひたもの拭ひてはつけぬれば、つやでる也。…《
お歯黒をよく拭いながら付けると艶が出ると言っている。
ここで私は今までイメージして来たお歯黒とふと違うことに気が付いた。艶である。私の想像して
いたお歯黒は浮世絵の多くがそうである様に、ただ平面的に黒い墨を塗った、ぽっかり開いた闇夜
の漆黒の口元を思い考えていた。どうもそうではなさそうだ。
御諸兄ここでイメージしていただいきたいのだが、近影に見る真白にお白粉した遊女の、紅をさした
口元の奥に艶やかな黒真珠の玉が並んだ様子を。歯は黒く奥深い光沢を放ち、燈の点状光を受けキラッ
と鈊い光を放つのである。いかがであろうか、ちと美しいと思えたであろうか。
艶を出すために色々工夫されてきたようでありまた秘伝もあったとされる。お歯黒液に酒を入れる、
塗った後たばこを一朊する、等伝えられている。
お歯黒を黒という色の面からではなく、艶という光沢の面から見ると、明治期になりお歯黒の風習は
消えてなくなるが、前歯の1、2本に金冠を被せ、口元がキラッと放つ光を好む日本人の嗜好は、途切
れることなく形を変えて引きつがれていたことに気が付かれることと思います。
次号においてはどのような時代背景で、お歯黒の風習が終焉を迎えたかを述べてみたいと思います。
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