島貫真のメディア日記4
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メディア日記<龍の尾亭別館>


2005.7.14(木)『方舟は冬の国へ』西澤保彦
 とてもおもしろく読めた本である。西澤保彦は、推理小説といっても、SFのテイストを持つ徹底したパズラーといった印象を正直なところ持っていたのだが、『異邦人』もそうだったけれど、この『方舟〜』も、SF的設定はたしかにあるものの、謎についての記述を倦むことなく続ける感じではなく、むしろ情緒的な叙述を適度に丁寧にするという、普通の小説ででもあるかのような感触を持った。
おとぎ話のような、といえばそうかもしれない。
人と人が出会ってしまうこと、出会ってしまったことの偶有性を、どう必然に転化していくか、という書き手の姿勢が、とても好ましく感じられた。
すべてがありえること、ではなくても、小説世界の虚構は成立する。
 そのために必要なものはいったいなんなのか。
そんなことまで、深刻にではなく(笑)、考えてみたくなる本だった。
虚構化された物語の意味はなんだろう。ありえないことを書くことの意義はどんなところにあるのだろう。最近そればかり気になっている。
偶有性と虚構性の関係。
まあ、西澤保彦についてでなくてもいいわね、それは(笑)。




2005.6.26(日)『老いる準備』上野千鶴子
 フェミニズムの専門家、という分類を(私が勝手に)していた上野千鶴子が、老人問題について書いた。
 もちろん、「老人問題」という「問題」であることを、上野は否定する。老人が問題のはずはない。そんな他人ごとではないのだと。
 向老学という考え方を冒頭で紹介し、弱者が弱者として尊厳を保つことのできる社会が必要だ、という意味では、フェミニズムとも、障害者の課題とも共通するという視点から、話が展開していく。そこでは「まだまだお若い」「年をとっても役には立つ」といった言説こそが「年寄り」を根底から否定するものであり、むしろ何かができる、という役割においてでなく、人間の総体として、老人も障害者も、女性も尊厳を保つことのできるような社会構築が急務だ、といつものように鋭くつっこんでいくところは気持ちよい。
 だが、同時に、いつものような戦闘的な調子ばかりではなく、筆者が、自分自身の中の「敵」や「弱み」をふまえて記述を展開していく「柔らかさ」が見られ、「へぇー」と思うときもしばしばだった。
 公的な市民サービスの今後とか、介護の方向性とか、いろいろ役に立つことも書いてあります。
 興味のある方は、読んでも損はないのではないでしょうか。


2005.6.26(日)『失踪日記』吾妻ひでお
 知る人ぞ知る、SF漫画の巨匠吾妻ひでおが、こんな実話を漫画にしていいのか、というような、実録の失踪日記である。
 中島らも、ナンセンス、不条理、SF、ひきこもり、アル中、などのキーワードにヒットする人は、今すぐ本屋さんに行くべき本です。
 そうでない人も、立ち読みか、借り読みはするべき現代の「バイブル」に近い(半分は冗談です<笑>)本。
 主人公は漫画家で(ほぼ、っていうか、まあフィクションだけれども、吾妻ひでお本人)そこそこ売れているのだが、書けない、となってあるとき連載を1本落としてしまう。1社だけ穴をあけるのもどうかと思う(と思うものどうかと思うが)、という成り行きで、すべての連載を放棄!家にいられなくなって、なんと主人公は浮浪者生活を開始してしまうのである。ひきこもりではなく、漂白の浮浪者というところに、世代的な身振りの選択が現れていると見るべきかどうかは分からないが、現代のニートと重ねて見るのもおもしろい。
 そういう失踪が一度ならず描かれ、さらには、重度のアル中として病院に入れられたところまで体験談として克明に漫画化されているのだ。
 そう、活字の世界でいえばそのまま中島らもを彷彿とさせる部分もある(実際、親交もあったらしい<笑>)。
 本人が警察に保護されたとき、警察官の中にSF好きがいて、本ものの吾妻ひでおだとしってびっくりし、色紙をねだられたなんてエピソードも笑える。
 前述の『君たちに〜』のリストラの話もそうだったが、今生活している意味の網の目の体系だけではない世界が、リアルに、自分の隣に存在しているという感覚は、私たちの「今」にとって切実というか、親しげなものなのではないだろうか。
 実際には日本はとても豊かさのあふれた国であって、浮浪者をしても直ちにそれが数日後の死に結びつくわけではないかもしれない。リストラされても、ただちに資産ゼロの形でホームレスになる世帯は多くないかもしれない。
 だが、以前に比べると、国家が国民国家として、均質に国民全体を斉一に扱おうとする文脈はどんどん弱まっている。
 表象としてそれが、作品表現の上に現れてこないはずはないだろう。
 国家が問い直されてくるということは、文化的表現行為の中でもどんどん変質が現れてくる、ということでもあるのではないか。
 経済から文化へ、という「国民意識」は、経済界やマスコミのドン(金持ち)が維持していた野球から、庶民がフーリガンとなって場合には相手を殺してしまったりする大衆的な表現としてのスポーツ「サッカー」に変化している、なんてことも考えてみたくなる。
 私たちが改めて国家を意識するとき、あるいは会社を意識するとき、家族を意識するとき、というのは、それが自明のものではなく、コード体系がゆらぎだしている、と感じるから、だろう。それでいて、まったくの空白は描けない。
 境界線に立って、その揺らぎを感じるところから、表現は動いていく。
 とするなら、やはり書くことや読むことは、現場リポートとして、大きな「意味」を持っているのかもしれない。
 一見そういうものとは何の関わりも持たないようなエンタテインメントであっても。

2005.6.26(日)『君たちに明日はない』垣根涼介
 これは文句なしにおもしろいリストラエンタテインメントです。大人の人も子供の人も、すぐに本屋さんに行きましょう。
 一般人は、普通の生活の中では、いまどきそうそう「極限状況」には遭遇しないことが多い。もちろん、家族や親しい人が突然病気や事故になることはあり得るし、熟年離婚や虐待、それに家族が突如犯罪を犯したら……など、想定すれば色々考えられないこともないけれど、そうそう、大きな確率で大きな事件が起こる、というわけでもないだろう。
 そんな中では、サラリーマン世帯が国民の大多数であるるこの日本で、「リストラ」に遭って解雇される危険、というのは、ドラマとしてリアリティを持つ、最大のシーンの一つ、といっていいのではないか。そこに注目した作者は、もその時点で「勝ち」を半ば手にしたようなものだが、そのリストラを物語にするにあたって、リストラコンサルタントを行う会社を創造し、その遣り手の社員に、かつてその会社の委託によってリストラされたサラリーマンが就職している、という設定を持ってきたのまた秀逸だ。
 会社という一つのコード体系から排除されるかされないか、という内部と外部の境界線における、組織と個人の闘争。
 そして、いったん外部を知ったとき、あるいは外部にさらされようとするときに見せる、人々の様々なむき出しの「人間」。
 さらに、内部から外部へと身を翻した時に、どんな「成長」がありえるのか?という不安と興味。
 単に「首切り」のマイナスだけを暗く描く作品ではありません。元気を出したい人にこそ読んでもらいたい1冊。
 森絵都の「父」というコード体系からのリストラ、国家というコード体系の見直し、外部から強制されるのではない、自分でルールを組み立てながら世界と接続しなおそうとする伊坂的人物像……。
 小説や評論を数冊ぱらぱらと読んだだけでも、「今」の抱える課題がぐいぐい迫ってくるのを感じないではいられない。
 ファイナルファンタジーのうに主人公の役割を与えられるのではなく、自らがルールを作り、あるいはかぶせられた網を振り払い、時にはくるまっていた網から放り出され、裸でもう一度自分というものを支え、同時に縛っている網の目(=社会)の存在、あるいは網の目の結節点として存在する以外にない自分の存在について、もう一度瞳を凝らそうとする努力が、そこにはまっすぐにかかれている。きっと、それ以外に大切なことなどないのかもしれない、そんな風に感じるのは、見当違いのことなのだろうか。

2005.6.26(日)『いつかパラソルの下で』森絵都
 森絵都の、大人のための小説が出た。これがまた、いい。
 児童文学やジュブナイル、ヤングアダルトあたりから(この正確な区別は私にはできないんですが)出てきた作家が、すこぶる元気のよい作品を出し続けているのは周知のことだけれど、森絵都はその代表の一人といっていいだろう。
 もともと児童文学は教養小説っていうか、主人公の「成長」「変化」がテーマだから、世の中が「いろいろあって見えにくい」状態になると、読者が幼児化したわけでは決してなくて、人間の成長ってなんだろう、と問い直す物語が好まれるのは当然といえる。
 ただし、その「成長」が問題だ。一時日本が最大の質と量を誇ったRPGゲームが、世界市場の中で存在感を失いつつある、という新聞記事を数日前に見た。同じゲーム大国でも、軍隊のあるアメリカと韓国ではシューティングが圧倒的に強いのだそうだ。
 もちろんマリオのようなアクションゲームはいつの時代でも受けるのだろうけれど、物語の主人公になって役割を引き受けてゲームに参加するという形のRPGの相対的な衰退は、何を意味しているのだろう、と考えてしまった。
 個人的にも今遊んでいるのは韓国のオンライン型ゲームだ。自分が自由にキャラクタを選択し、さまざまな「萌え」要素を組み合わせて自分なりのゲーム感覚で敵を倒したり仲間と遊んだりするオンラインゲームの中では、物語はむしろ、さまざまに選択可能なクエストのデータベースから、任意のそれを取り出してちょっとやってみる、という程度の重さしか持たないのだ。
 キャラクタの成長を期待して育てるゲームは、必ずいずれ「飽き」が来る。そのときのための補完的物語としてのクエスト。
 ゲームの中での成長の「物語」は、もはや黄昏を迎えているかのようである。
 翻って、小説の中ではむしろ形を変えた成長物語が流行っている。それらは、だが、「大人」になるための道筋を提示しているとは単純に言えなくなっている。今回の『いつか〜』もそうだ。
 むしろ、大人として確固とした存在であった「父親」像を括弧にくくって、自分たちなりに抱いていた父親の幻像へと解体し、さらにその解体も中途半端といえば中途半端なところでイベント的には終了したまま、その「結論」のない感じの「リアリティ」をどう生きていくかっていうところにたどり着く。
 そこからどうフィクションを改めて立て直していくか、というところが、この手の物語の「出発点」としての「終着点」であるらしい。
そのフィクションを支える力、すなわち暴力や権力についても、そこはかとなく触れられている、ような気がする。
(明示的にではないけれど、強圧的な生前の「父」の描写は、物語の軽い描写感覚を取り去ってみれば、かなりひどい性的な抑圧であったろう)
そのあたり、よく書けているとみるか、物足りないと見るか。
私はあくまでファンタジーとして、よく書けていると思う。ちょうど現代を代表する作家である川上弘美の『センセイの鞄』が、良質なファンタジー(そんな年齢差の恋愛なんて考えられない、不気味だ、という「リアル」な反応を周囲ではたくさん聞いたけれど)であるのと同じように。まあ、『カラフル』のような少年少女向け、とは違ってきますわね、当然。

2005.6.26(日)『国家とはなにか』萱野稔人
 30代の情報社会学の専門家で、今注目されている学者の一人だという。
 ちょうど中沢新一の『釣りのハイパーセミオティクス』という短文を読んでいたところだったので、比較してとてもおもしろかった。
 中沢新一のその文章は、1980年代に書かれたもので、「コード横断」というキーワードで、釣り人と魚の関係、ひいては水墨画の登場人物と宇宙の関係を「爽やか」に論じている。魚も人間も、蜘蛛も蠅も、それぞれのコード体系に従って世界の中で行動しているけれど、単なる捕食という行為だからではなく、人間が釣りをするときは、蜘蛛が網を張って蠅を待つときのように、相手のコード体系に合わせて自分のコードの一部を変更し、自分の虚構化された疑似的な「相手のコード」の身振りに、蠅や魚が「応じて」、釣り師や蜘蛛の側にやってくる「瞬間」を「感動的」と表現するのだ。
 単に暴力的に相手を制圧するのではなく、相手のコード体系を虚構として自分の中に持つことで初めて相手と出会える、という中沢新一の理屈は、スポーツや恋愛などにも応用の効く、とても便利な考え方のように思えた。
 他方、北田の国家論は、国家というものは、多様な暴力主体が混在していては「国家」とは呼べない。対外的にはもとよりだが、領域の内部において、 一元的に暴力が管理されなければ国家ではないのだ、というマックス・ウェーバーの定義から論を説き起こし、ニューアカデミズム以来ともすればすべてを想像上のフィクショナルなコード体系の中ですべてを語ろうとしてしまう「思想」に警鐘を鳴らす。国家は、幻想ではなく、あくまで具体的な暴力に関わる運動だ、と。
 もちろん前述の文章で、中沢新一自身、魚が釣られる瞬間や蠅が捕らえられる瞬間を「カタストロフィ」(悲劇的な破局)とは呼んでいる。だが、音楽になぞらえるその比喩は、具体的に運動として生じる暴力と、決定的な状況定義を行う権力の存在を、ことさら見えにくくしているようにも思えるのだ。
 時代が違う、といえばそういうことなのかもしれない、と思う。
 ミクロな力学として中沢新一の文章がとてもきれいな、そして懐かしい「音楽」のように聞こえるということと、北田の「骨太」な国家論が、とても「今」に直結する切実な響きを持つということを、改めてゆっくり考えてみたいと思う。
ともあれ、北田の国家論は、お薦めです。頭の中がとてもきれいに整理されるような気がしました。
一定の領域において、その内部の暴力を組織化・一元化して独占的に所有し、それが唯一の正当な暴力である、とすることによって国家が成立している、という出発点も納得。また、最後に述べられている内容、<マイノリティは場所を与えられていない者たちであって数の多少とは無関係であり、常に国家の公理系が外部を内部化しようとするときにこぼれ落ちる、外部と内部の境界線上にあって、『少数派』は闘争をつづけることになる>ドルーズ・ガタリの引用も、興味深い。
同じような場所について語った15年を隔てた言説の違いをもう少し考えてみよう。

2005.6.12(日)『ラッシュライフ』『オーデュポンの祈り』『アヒルと鴨のコインロッカー』伊坂幸太郎
 再読したものも含めて、3作いっぺんに伊坂幸太郎を読んだ。他に『重力ピエロ』『チルドレン』『陽気なギャングが地球を回す』と読んでいるので、私は結構伊坂の愛読者、ということになるのかもしれない。
 一つ一つの作品について細かく説明をしなくても、どれから読んでも面白いから心配はないのだけれどやっぱり『オーデュポンの祈り』は独特だったと思う(以前この日記で既に触れていたかと思うが、あまりよく覚えていない)。
伊坂の作品に共通しているもっとも大きな特徴のひとつは、自分で決めたルールに従って行動するハードボイルド小説の主人公のような伊坂的存在の「存在」、だろうと思う。自分のルールに忠実に生きようとする、というといわゆるハードボイルド小説に登場する一人称の私立探偵を思い浮かべる。
 ある意味では伊坂的「存在」もそういうものに近い。
 だがもっと特徴的なのは、それが「祈り」に近い「純粋な」行動であり、しかもその「純粋さ」は、不可解ではあっても閉じられてはいないという印象を与え続けている、という点だろう。たぶん、伊坂幸太郎の「甘い」感じの小説のテイストは、そこにかかわっている。
 この甘さは短期的には商売としても「損」に見えかねないような気もするけれど、お話の結論などなくても小説は売れるということを証明した恩田陸のことを思えば、けっして「損」や「ハンデ」とは限らないようにも思えてくる。
 「開かれた祈り」が行動を支える。たとえばラッシュライフの「犬」や「オーデュポン〜」の「かかし」に象徴されるような、一見意味があるのかどうかも分からないのに、それがある「祈り」のような感情に支えられて、あるべきところにしだいに収まっていく感覚。
 そういう意味では、この人は不徹底なパズル小説を書いているようにも見えないこともない。
 でも、大切なのはその祈りに似た愛、のようなものへの志向を作品のことばたちがもちつづけ、その小説言語の力によって、一見全体から切り離され、壊れて使い物にならないちっぽけなうらぶれた人間も、もう一度その祈りに似た愛によって「再配置」されていくのだ。
 何をいっているか分からないように書いているだろうか。
 作者が神様、なのではない。むしろそういうなら、ルールの違う乙一のような「職人」技、に近いかもしれない。
 ルールに対するこだわり。私は仁愛を「礼」という表現形に求めた孔子、のような、とでもいえばいいだろうか。
 極私的な断片の描写が、他のそれと響きあっていく叙述を見ていると、なぜか元気が出てくるし、笑っちゃうような感じがこみあげてくるのだ。
 どんなものでもオッケーという人は『オーデュポンの祈り』から、比較的普通の小説がいい人は『ラッシュライフ』から、と薦めておきたい。
 この項の「ルール」へのこだわりは、また別の機会にもう少しきちんと論じてみたい。


2005.24(火) 『子供の眼』リチャード・ノース・パタースン(いまごろになってやっと本棚から出てきた5年前の本です)
 アメリカの法廷サスペンス物の小説。恐ろしいほどいやらしく狡知に長けた夫を相手にして、なんとか離婚して一人娘の養育権を得ようとする弁護士の妻。だが、元夫(まだ離婚は成立していない)も元弁護士(何度も事務所を首になってはいるのだが)であり、天才的な自己憐憫を武器にして、「この人はこうだからしょうがないんだ」と妻に思いこませ、結果として妻の自立を巧妙に挫こうとしていく。
 このいやらしい夫の描写を読んでいたら、あまりにすごくて夜眠れなくなったほどだった。こわーい小説です。でも、いったん読み始めたらもう止められないほどの圧倒的な筆力ですねえ。この夫の憎たらしいキャラ出し。すごいわ。
 つまり、しおらしいことを言ってみせ、あくまでも平等であるかのような善人の振るまいをするけれど、いかにして自分が相手に甘えるかだけを考え、徹底的に妻にもたれかかり、依存していることを正当化することだけを生きる術としている「一見善良そうな悪魔」に取り入られた状態を想像してみてほしい。「アル中」の夫に共依存して、暴力をふるわれているのに「この人は私がいなければいられないんだわ」という袋小路に陥ってしまう奥さんのを読んだことがあるけれど、それらの粗暴な夫という単純DV野郎ではなく、蛇のように狡猾な弁護士になった共依存夫なのだ。
 読んでいると、妻に感情移入して読む面もあるのだけれど、逆に、こんな過度な依存の手口を自分も知らず知らずのうちに他者に対してとっているのではないか、それでいて公平を装って自分自身をもだましているのではないか、という「自己憐憫」病の疑いの種のようなものが自分の内面に沸いてきて、つまりは邪悪な夫に「負の同一化」をしてしまいかねないおそろしい描写がつづくのである。

妻に自己憐憫的ストーカーをする高いIQ(しかし徹底的に使えない)夫、というところ。

だが、その夫の描写は小説の序の口でしかない。その夫が冒頭部分で自殺してしまう。それが自殺ではないのではないか?という疑惑が持ち上がり、妻に出来た新しい恋人が逮捕される、というところから法廷サスペンスの本編が始まる。
そして、その恋人の嫌疑の鍵を握るのが、主人公の女性(元妻)の、傷ついた幼い一人娘なのである。どこまで登場人物を、そして読者をいじめればいいのやら。最近「痛い」小説がはやっていたけれど、これもある意味ではこれでもかという怒濤の「痛い」シチュエーション小説とも読める。痛さをくぐりぬけるからから癒されてほっとする、というのは、「自傷行為をすると逆にほっとする」「ホラーで恐怖を感じることで癒される」といったメンタルヘルス系の若者にも共通する時代性を感じないでもありません(ちと強引か?)。


ともあれ、まだ未読の人で上記のことを読んでもひるまない人はぜひお薦め!
(もう最後まで読むしかない!今晩は徹夜かもしれない……。)



2005.24(火) 『遠近法』のことをとりとめなく。
 授業で、安野光雅の随想を読んだ。「遠近法」の発見が、どれほど大きな意義を持っていたか。と同時に、遠近法が単なる絵画の技法の一つであり、三次元を二次元に表現する以上、ある種の「錯覚」を利用しているにもかかわらず、「遠近法」の絵を誰も「だまし絵」だとは言わなかった、という点も指摘する。
 「近代」における「遠近法」の意義の大きさは、よく言及されるところだ。
 単なる絵画の一技法にとどまらず、私たちの「近代的」な物の見方の根本的な規範として機能しつづけていたことは、21世紀の今になってみると不思議な気持ちになる。
 だがたしかに、ピカソの殴り書きのような絵を観ると「なーんだ、へたうまじゃん!」と思う気持ちは、私たちの心の中に確実に存在しつづけている。そのときの「規範」は、なんだかんだいって「遠近法」なのだろうと思う。
 漫画などには遠近法を逸脱した表現も多くみられるが、映画やアニメでそれを徹底的にやってしまったら、お客さんはまだまだ「引く」のではないだろうか。
 誰もが同じ視点で、同じ瞬間にカメラのように物を見るなんてことはあり得ないのに、私たちはいまだに「遠近法」のよう絵、に縛られ続けている。
 安野光雅は、「遠近法」を相対化はするけれど、近代におけるとても重要な意義深い「錯覚」をもたらしてくれた、と軽いフットワークで論じている。ということは、21世紀にふさわしい別の「錯覚」もまた、「あり」だ、ということでもあるのだろうか。
 映画のように映画を撮り、かつ見せるのではないとしたら、そんな映像表現がいったいあり得るのか?
 たった一つのカメラの穴からのぞいたようにではなく、まったく別の形で物を「見る」こと。
 なんだか既存のメディアでいえば、そのあたりは映画より小説の方が自由のような気もしてくるけれど。
 

2005.24(火) 中公新書『批評理論入門』廣野由美子につい
 京都大人間・環境の助教授。1958年生まれ。浅田彰と同年ですね。筆者(島貫)と同世代でもあります。
 たった一種類のテキスト(19世紀イギリス小説『フランケンシュタイン』メアリ・シェリー作)を対象としながら、小説の技法と批評の理論をずらりと並べてみせる手際の良さは、かなりのものである。ウンベルト・エーコに、似たような本があったように記憶しているが、教養演習として、必ずしも人文系の人ではなくてもお薦めしたい1冊。私も一気に読みました。
 世の中にはさまざまな「批評」的視点があるのだなあ、と感心するだけでもめっけものです。
 もちろん、専門の人間にとってもかなり勉強になるし便利だったりします。
 よろしかったらぜひ!


2005.24(火) 『交渉人 真下正義』について
 不謹慎なようだが、電車事故の直後ということもあって地下鉄の画面が出ただけでドキドキしてしまいました。
 上映後、帰り際に他のお客さんも「不謹慎だけどさ」といいながら事故に言及したいたのが印象的でした。
 「思ったよりも」安心して観られたかな、という印象です。
 日本のパニックもの映画は、どこかプロットが「やわ」で、「なんでそうなるの!?」という展開が(とくにドラマのスピードを上げようとするときに顕著)けっこう少なくない。思えば、『ホワイトアウト』(織田裕二主演)などは当時としては健闘した方だったと思う。
 まあ、いわゆるミュージシャンというかアーティストが撮影した映画などを観るとてんでストーリーが展開していかないってこともあるから、「やわ」なりに映画の専門家の方がまだまし、なんだろうけれど、ばかばかしい展開だったりはするもののハリウッド映画あたりは筋立ての密度が濃いというか、それほど複雑なプロットではなくても、きちんと説得力のある「筋」をかちっと提示してくる。
それだけお金(=時間と手間)をかけているっていうことなんだと思う。
 衰微してきたメジャー系の日本映画の悪いパターンは、そのプロットの緊密感がぜんぜんなかったことだ。
 だから「日本映画」なんて観るんだー、と言われてしまったりするのである。
 そういう意味で、『踊る大捜査線』は、本編の世界観がとても緊密に構築されており、脚本が素敵だったしそれにキャスト、演出もタイムリーだったため、日本映画の財産とも呼べる基盤にまで成長しえたのだと思う。
 はっきりいって映画は二時間しかないわけで、本編ほどの叙述は不可能だから、むしろ場面の切り取り方とか、サスペンスの盛り上げ方とかが物を言う。
 そういうところは日本の娯楽映画はまだ弱いと思う。それは映画だけではない、構築的な文化として映画をとらえる視線の強靱さが不足しているということでもあるのだろう。いい悪いって問題でもなくて。ただ、たかだかエンタテインメントなわけだから、気持ちのよいかちっとした手応えがほしいのだ。
 そういう意味では中ぐらいかなあ。
 まあ、退屈しないで観ることができました。私の中では本編の方がやっぱりずっと上ですが。TVシリーズのDVDまた観なくちゃ(笑)。
 一つだけ、犯人像の最後には納得がいかなかった(これは周囲の見た人が異口同音に言ってたことです)。
これ、『容疑者〜』に続くの?ってつぶやきをいくつか聞いたけれど、どうなんだろう?
「匿名的」であるには特定的すぎると思うんだけどなあ。こういう曖昧さは気になるところです。


2005.5(金) 『阿修羅城の瞳』について
 この映画は、市川染五郎がチャンバラ映画の主役として映画になったことを記念して保存すべき1本だろう。ちょうど陰陽師が狂言師野村萬斎が主役として映画になったことの意味において記憶されるべき映画であったように。
 ということはよくも悪くもこの映画は監督のスタンスに特徴がありそうだ。

☆島貫注:個人的には既に天海祐希と市川染五郎による舞台(再演のほうです)を新橋&DVDで見てしまっているせいか、そちらの方をどうしてもひいきしてしまう。これを読む人もその点割り引いて以下のコメントを見てください。☆

だがあ、宮沢りえが阿修羅になった後の演出を満足する人は、観客の中にどれだけいるのか!!!阿修羅はあんな平和そうな仏像に宮沢りえの顔が合成されたちゃちいものではなく、興福寺の阿修羅像を彷彿とさせるような美しく強く、残酷で同時に聖なる感じをもたらしてくれるものであってほしいじゃないですか。初演の富田靖子は観ていないが、彼女なりの光と闇を表現できていたと思う。むろん天海祐希はもっともっとすてきな舞台だった(当然のことだが)。
染五郎が命を賭けて、手順の多い女=阿修羅と敢えて戦おうとするような存在として、宮沢りえが映像化されているとはとうてい思えなかった。
渡部篤郎も、上手いのだろうけれど、もっと演技を不自由に演出した方がこの人でなければ出ないすごみが出たのではないかと思う。
全般に、演出が淡泊すぎてケレン味が不足し、あり得ない鬼と人間との切ない出会い=別れ、愛=剣の勝負みたいな世界像がきちんとした様式として立ち上がってこない。
滝田さんでしたっけ、この監督。どうなんだろう、何がこの映画をこうさせているのか、ちょっと聞いてみたい気がしてなりません。
まあ、繰り返しになりますが、染五郎のかっこよさを再認識するために映画館に足を運んでも損はしない一作。ただし、絶対傑作ではありませんから念のため。ちなみに染五郎はこれからしばらくは歌舞伎を中心に本業のフィールドで活躍するこころづもりとか。
歌舞伎を観ろってことになるんでしょうかね、結局。天井桟敷の一幕立ち見で十分だから、そっちへ行きましょうか。宮沢りえを観るなら、次の映画の方がずっとリーズナブルだと、私は思います。


2005.5.5(金) 『トニー滝谷』についてイッセー尾形・宮沢りえ主演。原作村上春樹、監督市川準
 宮沢りえの映画としては断然こちらがお薦め。70分ぐらいの短い時間。ナレーション中心に淡々と美しい映像。その流れの中で主人公トニー滝谷いうイラストレーターが、英子(宮沢りえ)と出会い、そして別れていく。
 村上春樹の『レキシントンの幽霊』所収の短編を、それにふさわしい映像、スタイル、音楽、キャストで描いた好短編といえるでしょう。
こういう小さい、しかし解決不可能な不思議なら、宮沢りえがぴったりだと感じました。
宮沢りえファンだったら最高なんじゃないかなあ。宮沢りえの役がかかえた「病気」については、ちょっと女の人のコメントが聞きたい感じがしました。まあ、なんとなく分かるような気はするけれど。
なにも劇的なドラマは描写されないけれど、映像を見たいと思ったら、観てみてよい一作。


2005.5.5(金) 『鉄人28号』について
 よせばいいとは分かっていました。分かっていて恐い物見たさで観てしまい、観てしまった後でこの映画の悪口を言うのはちょっと反則のような気がします。だいたい、個人的なノスタルジーの衝動で映画を観ておいて、そのできの善し悪しを云々するのはフェアじゃないような気も、します。けれど、やっぱり書いておかねば。
 この映画は、できれば観ないで済ませておいた方が精神衛生上、時間の無駄にならずによろしいかと思われます。たぶん自分でブラックオックスと鉄人のプラモデルを組み立てて、想像力の中で戦わせた方がずっと楽しい。
 何がだめって、ブラックオックス1台でなんだか世界征服みたいな妄想を抱いているロボット学の切れ者みたいな敵役がもう現代じゃないし、戦争中の兵器として開発された鉄人28号っていうのがもう賞味期限切れでどうにもこうにもリアリティがない。
 CGでの戦いもビルとオックスと鉄人だけで、他にはなんにもない。
学芸会じゃないんだから、こんなに役者を棒立ちにさせて最後のクライマックスを撮ることはないだろう。結局正太郎少年の成長物語なの?まさかねえ......。
 すべてに中途半端というか、そういうことを無視して「遊ぶ」気持ちを奮い立たせてくれるレトロな雰囲気とかお馬鹿な誘いもない。悪いが、次にふれる『真夜中の弥次喜多』の導入あたりのめちゃくちゃなテンポをお願いだからちょっと見習ってほしい。
 たぶん、いろいろな制約があってこうなってしまっているのじゃないかなあ、と切ない同情も(根拠はないけど必然性はある。あまりになさけないから!)沸いてくるけれど、そういう問題でもないだろう。たのむから私に本を書かせてください、という一作。
こういう映画が封切られてしまう映画製作のプロセスの謎を、いつか解いてみたいと思う。
ちなみに、私はブラックオックスが大好きです!ああ......。ひいきの引き倒しかなあ。


2005.5.5(金) 『真夜中の弥次喜多』しりあがり寿原作、宮藤官九郎監督、長瀬智也と中村七之助主演。
 私は原作を読んでいないので、映画のみの感想になります。
 最初の数分で、二人は一度、バイクで伊勢に到着しそうになります。そこを寺島進演じる岡っ引きに引き留められる。それは違うでしょ、と。
 で、あらためて弥次喜多の道中が始まるわけだけれど、そこに麻薬中毒患者である喜多さんのバッドトリップが重ね写しになって......という構成は、非常に納得がいった。
 前半、弥次喜多のやりとりにも疾走感があり、小池栄子の怪演もあって、「生」の部分はとてもよい感じで観ることができました。
 問題はきのこの出てくる後半部分。これはどうなんだろう。
ビンセントギャロの『バッファロー'66』とかユアン・マクレガーの『普通じゃない!』とかに出てくる幻想の処理と比べるといろいろ手数は出しているけれど、ロープぎわには追いつめるものの次の技がなくて倒されてしまう曙のように、異種格闘技的に苦しい感じが(とくに後半部分)に感じられた。『恋の門』の「石」芸術とか『茶の味』のデカ頭とか、最初からそーゆーものだと思って観ていけばいけるものとは、この映画の後半はやはり違っていて、私には受け止めきれませんでした。
ちょうど『キャシャーン』の後半部分が、作者の意図を後で聞いても「そうは見えない」と感じてしまうのと同様のもどかしさを感じた、というべきでしょうか。
つまり、「死」をこんな形で扱うには監督は宮藤も紀里谷も若すぎるのではないか、という疑問といいかえてもいいのかもしれません。
若さの問題だけではないのかなあ。
個人的には、荒川良々ファンなので、満足したっちゃあ満足したんですけどね(苦笑)。
これは、4月に観た(そして今日批評した)4本の中では一番のお薦めかなあ。
他人の表現に無理なことをねだってしまうのは、観客のわがまま、なのかもしれませんね。


2005.3.29(火) 『となり町戦争』三崎亜記 集英社について
 8ヶ月ぶりの更新となる。半年以上、ろくな生活をしていなかったことが分かる。ソフトのバージョンアップをしたところ、以前のHTMLが読み込めなくなり、そのまま忙しさに紛れて休止してしまいました。
 その間にもいくつかの作品に出会い、いろいろと思ったり考えたりはしたのだろうが、書かれなかったことばたちは、いつのまにか消えてしまう。残念だがやむを得ない。それでも残ったものを以下に思い出す限り書いておきます。
 というわけで、また再開します。
 ぼちぼち眺めてやってください。
 まずは、『となり町戦争』のことである。これは2005年のうちに、たくさんの人によって読まれてしかるべき作品だと感じた。読者を選ぶっていうところはあるのかなあ。
 「シュールかつ繊細に」と腰巻き惹句にある。町と町が期限を区切って交戦状態に入る、ということは、およそあり得ない設定だろう。しかし同時にそれは、想像力を大きく羽ばたかせた物語、というには凡庸な設定、とも見える。そこで、奇妙な「町役場的リアリティ」が展開されていく。設定は不条理っぽいが、主人公の行動はは普通。他の登場人物は、一見普通だが、実は不条理を抱えている。
 この作品はその不条理とリアルを、入れ子型ではなく、作品構造と人物描写で循環させている。
 だから、カフカのような不条理ものにはならず、村上龍のような設定された物語、にもならない。2005年的リアリティの好例、というべきではないか。
 『海辺のカフカ』がどこか内面世界と外界という縦軸を感じさせるのに対して、この作品は、優れて水平的だ。そういう意味では地図的、といってもいいかもしれない。
 うーむ、半年書かないでいたらうまくかけなくなった……。この作品の魅力を語るためには、メディア日記をサボっていた時期に見た是枝裕和の映画『誰も知らない』について、さかのぼって触れておく必要がどうもありそうだ。


2005.3.29(火) 
『誰も知らない』是枝裕和
について
 これは、2004年に私が観た映画の中ではベストだった。ドキュメントの作り方で虚構を作るということ。
 いや、「作り方」という言い方はよろしくないのかな......。視点というか、世界構造の感受性というか。
 そういういわば「変換装置」を持っていないと、「リアル」に触れにくい「世界」に、今はなってきているということなのではないか?
 そんな気分になってくる。「となり町戦争」でも、役場の事務処理的なリアリティを誇張しつつ、現実のシュールな感じと、それが物語にはなり得ないということをあらかじめ知って書かれているクールな感じとが同居していて、それがどちらかというと「書き手」的な感性を刺激していたような気がするのだけれど、是枝裕和のこの作品も、同様の「力」を持っている。
 っていうか、逆ですね、是枝裕和がずっとやってきて、広げてきた地平に、三崎亜記の作品が登場したってことでしょうか。
 話は簡単、アパートの一室、母親に置き去りにされた子供達が、大人が『誰も知らない』状態の中、自分たちだけでなんとか生き延びて行こうとする物語です。1980年代後半、実際に起こった事件を下敷きにして作品は構成されているけれど、もちろん完全なフィクション。再現を意図しているわけでもない。けれど、その「事件」に対置されるのは、季節感を鮮やかに切り取りながら、こまやかにその中でしっかりと「生きている」若い命たちのドキュメント風映像である。
 とりわけて、陽光が美しい。そういう意味では主人公ジョゼの部屋のトーンを丁寧に作った映画『ジョゼと虎と魚たち』犬童一心なんかとも共通する「光」の描写が存在する、とも言えるかなあ。

 私が惹かれているのはたぶん、今挙げた作品に共通する、虚構とリアルのねじれた位置に生じてくる「裂け目」みたいな「場所」なのかもしれない。
たとえばそういう「光」の描写の中に「裂け目」が見えるような気がするのだ。

まだきちんと答えは見えないけれど、今年はそのあたりのことをゆっくり考えていこうと思っている。


2005.3.29(火) 『進化しすぎた脳』池谷裕二 朝日出版社について

 この本はただちに「買い」です。大脳生理学の最前線の研究者である著者が、高校生を相手に語った講義録。今「脳」について分かっていることが分かります。贅言不要、ネットでクリックすべし、ですね。
読みやすいから、本屋さんで気合いの立ち読み一気も可能だと思いますが、やはり買ってください(笑)。
表紙に「しびれるくらい美しい脳のメカニズム」と書いてあります。脳だけがしびれるほど美しい、わけでもないだろうけれど、そういう風に語れるってことは、わかりやすいってことでもあるだろうし、脳の魅力に惹かれて研究している様子がよく伝わってくるってことでもあるんじゃないかな。とにかく即買い、即読みものですね(^^)。



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