メディア日記(2)はこちら(2003年3月までのメディア日記です) 
            メディア日記(3)はこちら(2004年7月までのメディア日記です) 



島貫真のメディア日記(1)


2001.9.29(土)
『闇先案内人』大沢在昌 文芸春秋社刊
 大沢在昌の新刊です。これはいけます!だいたい設定がいい。『逃がし屋』(犯罪や借金などで逃亡しなければならなくなった人間の「飛び」を手伝う仕事をする主人公)が、その仕事ではないところに巻き込まれていくとっていうところがもう魅力的で、最初の数十頁でぐんぐん引き込まれていきました。この手の本は筋を言わない方がいいので、我慢しますが、最近読んだ『夢の島』と比べると、絶対こっちの方が楽しめます。たとえば週末の一夜。夜遅くなっても構わない時には、たとえば今夜(29日土曜日)、これから本屋に行って買ってきても損はない1冊。鮫シリーズの1冊よりも、場合によってはこちらの方が面白いのでは?
とにかく文句なくお薦めです。9月は収穫が多かったなあ。

2001.9.27(木)
『キス・オブ・ザ・ドラゴン』リュック・ベンソンの作品。ジェット・リー主演
 主演のジェット・リーを見せる=魅せるためだけに作品全体が奉仕しているような映画でした。こういう映画って、徹底しているとかなり快感なんですよね。個人的にはこれは、「買い」でした。よけいな筋はなく、回りくどい説明も不用。正義の中国の捜査官が、パリ警察の悪徳警部と戦う!んー。いいなあ。
全然監督として意識していなかった(ごめん!)リュック・ベンソンという人なんだけれど、気が付いたらこの人の映画はけっこう好きだったりする。でも悪役警部のキャラの出し方が、『レオン』のまんまなのには笑った。『Taxi2』もリュック・ベンソンだったのね。んー、面白い人だ。ということは『yamakasi』も観なくちゃいけなくなりそう。

2001.9.24(月)
『ブリジッド・ジョーンズの日記』
 観るかどうかかなり迷った挙げ句、月曜日はメンズ・デーで1000円!という惹句に惹かれて二本目を観た。この映画は、見終わったとき、恋愛をしたくなる効果が確実にあると思う。恋人同士でいく映画としては、たんなるロマンチックな恋愛映画よりも絶対お薦め。なぜこれが話題なのか分からなかったけれど(日記は読んだことがありましたが)、観て初めて分かりました。主人公の女性が、とってもステキに見えたり、とってもブスに見えたり、とっても賢かったり、とってもバカだったり、とってもみじめだったり、とっても正直だったり、これは拾いモノの映画でした。
 ラブコメディっていうジャンルになるのかなあ。これ、恋人と一緒に観るといい映画じゃないかなあ。一押しにしておきます。


2001.9.24(月)
『ラッシュ・アワー2』
 ジャッキー・チェンとクリス・タッカーコンビの刑事物。観ていなくてもみんな知っている気持ちになっているような映画の典型ですね。そのとおり、一つも意外な展開はなく、すべてお約束通りでした。そういう意味ではTVの映画劇場で観てもいい1作。ただ、そのことが分かってさえいれば、見に行って損はない作品でしょう。クリス・タッカーの甲高い声と身振りは、もっと面白くできると思うなあ。ジャッキー・チェンも、もっともっと面白く作れるような気がする。ハリウッドの大物が作ったり出たりするのでなければどんどん時間を切られてしまう悲哀が、あるような気がした。もちろんエンタテインメントに「悲哀」なんて似合わないけれど(笑)。NG集がエンドロールに出てきたけれど、削られたセリフやシーンがけっこうあったみたい。
それにしても、この二人を使ったら、もう少しテンポを上げるなり密度を上げるなりできなかったものか。あるいは、90分の短い上映時間の制約があるなら、もっと何かに絞って徹底的に撮るとか。そういう意味で『キス・オブ・ザ・ドラゴン』の方がその徹底性がある。




2001.9.21(金)
『大江戸ロケット』ホリプロ・新感線
 知り合いの演劇好き(桜美林大の1年生)に送ったメールを掲載します。
(以下、メール引用)
こっちのアドレスに出してもいいかなあ?とりあえず送るね。
大江戸ロケット、観てきたよ。
いやいや、プログラムで操作してるんだろうけど、
吊ってる照明が板の上だけじゃなくてホリゾントから観客席まで自由自在にぐりぐり動くのには笑っちゃった。こんな照明使えたらなんぼおもしろいことか。
それから、効果音をいちいち当ててるでしょ?あれ、音響が客席から合わせてやってるんだろうけど、個人的には胃が痛くなりそうな気がしたなあ。
オレの観た日は、後半に藤村俊二がセリフを飛ばして、周りがフォローしてる部分があったね(^^)。それから、いしだ壱成の大麻逮捕事件を台本でパロディにしてる部分があって、思わず拍手して笑っちゃいましたよ。
全般的に、客は山崎裕太に好意的な客が多かったような気がする。山崎裕太は健闘してると思う。両方観た人はどう思うかわからないけれど、こちらだけ観ていれば、これの方がいいんじゃないか?って思えるぐらい。16日だっけ?貴女が観たときにはセリフが危ないところがあったようだけど、21日の公演ではそんなこともなかったよ。
最初お客が冷えてて、大丈夫かなーと心配もしていたけれど、しだいに暖まってきて、最後はスタンディングおべーしょんでしたね。良かった良かった。
話そのものは、3時間かけるほどのものでもないと思うけれど、奥菜恵の宙吊りも、とっても衣装と合ってて良かったなあ。紗幕に動画映像をふんだんに映すのはうらやましい限り。何かそういうのをやりてーと思うよ。
総じて、よくパワーが出てたんじゃないかな。新感線は初めてだったけど、やっぱり売れるだけのことはあると思う。大人計画よりもメジャーだってのもよく分かった(笑)。ホリプロとやるんだからねえ。
それから、あの「オヌイ」さん、さすが宝塚だねえ、歌が上手い。最初の一曲、まだ暖まってなくてしんどかったけど、どんどん後半に向けて歌も聴けるようになって行った感じ。
あとはチャンバラが楽しかった。当然だけど。
そういえば粟根まこと(赤井=同心)はいやーな感じがよく出て好演。そういえば、キャラメル(ミラージュ)に客演で出てたよね、あの毒薬先生役で。いい役者だ。粟根まこと、ひいきにしようっと。
それから古田新太も頑張ってたし。この人のは、生瀬勝久とやった「マザー」だっけ?あれの「よろしいですか〜」といいながら人を殺戮していくおっさんが古田新太だったと最近しって、この人も好きになった。
とりあえず一報まで。



2001.9.20(木)
『ガーディアン紙に寄せられたサイードのコメント』
 サイードは、パレスチナ人の両親から生まれ、しかも親はキリスト教徒で、父がアメリカ国籍。アメリカで批評活動を続けている60代半ばの文芸評論家(っていっていいのかなあ)。パレスチナ人について考えるときには、もっとも頼りになる存在だ、と友人がこのサイトを紹介してくれた。
 翻訳は硬いけれど、ぜひ一読を。最後のコメント「いっそうレベルの高い大規模な暴力と苦しみよりももっと価値があることは、この忍耐と教育という「投資」なのだ。 」が印象に残る。
また、「アラビスト」もしくは「オリエンタリスト」という知識人階層が、ことあるごとに、イスラエル−西欧−アメリカにおいて「反パレスチナ」的言説を煽り立てる役割をしている様子を、インタビュー(ペンと剣)で語っている。これもよろしかったら。
そのアラブやパレスチナを研究していながら少しも認めようとしない「オリエンタリスト」の向こう側にあるシステムや政治の闇について、ねばり強く瞳をこらし、忍耐と教育を投資しつづける努力が、どうしても必要だと思う。
教室で、それはまず、なされなければならないだろう。


2001.9.19(水)
『R.P.G.』宮部みゆき 集英社文庫
 戯曲のような小説だった。限定された場面で、しかし巧妙な仕掛けの中、しだいにネットワーク社会に生きる人間たちの模様が浮き彫りになり、犯罪の息づかいが見えてきて、しかもその犯罪自体が私たちの心の中のちょっとした葛藤や悩み、特に若い女性のそれを的確に射抜いていく......まごうことなき宮部みゆきの世界だった。個人個人が自分の心の中で紡ぎ出す幻想としての物語。そんなものはもう、人間一人をつなぎとめるだけの重さもないのだ、ということは、たぶん誰でも感じないではないだろう。では、だが、どうすればいいのか。
 宮部みゆきの抒情は、それを犯罪によって救抜する手さばきの中にある。それじゃあ『はぐれ刑事純情派』と一緒じゃないか、と言われるだろうか。うん、若い女性向けのそれ、かもしれない。
この作品はとにか読んでもらうのが一番だと思う。文庫書き下ろしなので500円ぐらいで読めます。ぜひ、一読してみてください。一瞬、少し物足りない、と思うかもしれません。模倣犯の大部を読んだ人にとっては。
 でも、この物足りなさには、理由があると思う。宮部みゆきの世界を楽しむ部分を持っていることは、やっぱりこの時代に生きる幸せ、だと私は感じるんですけど、みなさんはいかがでしょう。
ただ、どうすればいいのか、という問いに、もちろん答えはない。答えのない問いが、事件を引き起こす。
宮部みゆきの抒情が湿っていないのは、そのメカニズムをきちんと動かしてみせるからだ。本当はいい人だ、とか、本当に悪いのは、とかいう話にはなっていかない。宮部みゆきの作品の手応え、というのはだから、お話の嘘が嘘である限りにおいて必然的に孕む乾いた抒情の中にあるような気がする。
だから、物語として読むと、小野不由美の作品のようには満足しないのではないかしら?
この辺りはもうちょっとまとめて読み直さないといけないような気がする。


2001.9.19(水)
戦争はアメリカをもっと不幸にする』田中宇(フリーの国際情勢解説者)
 アメリカ対イスラムという構図の不毛性の指摘。
加えてテロ撲滅という正義の旗とはうらはらに、アメリカがタカ派の親イスラエル的な姿勢を強めていくことに対する危惧。
 テロ撲滅の正義は認めるけれど、それがすべてを解決してくれるわけではないだろう。そういう意味で、この田中宇のコラムは私にとって有益な視点を与えてくれた。田中もまた、山内とは全く別のところで、同じ危惧を共有している。二項対立を押し進めて喜ぶのはいったい誰なのか?テロの西側陰謀説が繰り返し出てくるのも(それが真実だ、というのでは全くなく)、長期の戦争を行ってもテロとテロを支援する国を撲滅するというスローガンが、何に利する結果をもたらすのかを考えると、理由のあることだといわざるをえない。有事が他人事だと思いつづけられるほど日本の置かれた状況は甘くない。だが同時に、外部に敵を作って内部を均質化し、集権=強権的に国民国家をマネージメントしようとする手法が長期的にプラスになるほど、アメリカの抱えている現実もまたは単純ではないだろう。アメリカが敢えてその単純さの道を選ぼうとするのはなぜなのか?実際に武力行使の泥沼を、なおも選択しようとするのか?ここしばらくは、経済情勢も含めて、さらに注目が必要のようだ。

2001.9.13(木)
『クローズアップ現代 米同時多発テロについて』国谷裕子・山内昌之 
 山内昌之は、私の好きな学者だ。イスラム原理主義についての本を6〜7年前に読んでから、この人のイスラム分析は頼りになる、と思うようになった。蓮實重彦との共著『われわれはどんな時代を生きているのか』講談社新書をその後知って、さらにファンになった。こんばんは、彼がクローズアップ現代のゲストだった。国谷さんの番組も嫌いじゃない。
今回のテロについてのコメントとしては、次のような趣旨のことが印象にのこった。
(概要開始)
ラディン氏がもし関与しているとして、注意しなければならないのは、日本を含めた欧米とイスラム、という二項対立を、ラディンのテロは強調することを意図しているという点だ。それは、世界に12億いる全く善良なイスラムの人々、その中でも苦しい状況に立たされ続けているパレスチナの人々を、さらなる不幸に巻き込んでいくことにつながりかねないのではないか。アメリカがテロに断固とした反撃をしていくのは当然だが、同時に、アメリカが中東紛争、特にイスラエル・パレスチナの問題で、唯一の超大国でありながら、第3者として関与することがもっと難しくなっていくだろう。テロ対策の徹底とは別に、政治的な意味での解決を同時に努力していかなければならない。
(概要終了)
1,非対照テロの恐ろしさの指摘、
2,ラディンという見える顔よりも、その奥に渦巻く顔の見えないテロの闇が恐ろしいという指摘
をも含めて山内昌之の視点は頼りになると思う。

職場の同僚の間では、アメリカが、テロ強攻策のために、未必の故意的にテロを阻止しなかったのでは?という穿った見方がある。それは、思うに、ラディンもブッシュも、極めて近代的な発想の持ち主として発話している、という点に由来しているのではないか。二項対立的<聖戦>を求める点は、ほとんど合わせ鏡のように二人の言説は共通している。もちろんテロは許せない。だが、その見かけとは裏腹に、どちらも近代主義的非寛容性を持っている、という点では、共通している。民族主義=近代主義が繰り返し造りだそうとする二項対立の図式そのものこそが、乗り越えられなければならない21世紀の課題だろう。
同時にイギリスの評論家も登場していたがIRAのテロも含めて、テロに対する徹底的な戦いを強調していた。
その強調に異を唱えるつもりは全くない。
だが、テロを封じればアイルランド問題が解決する、とは、実はだれも思ってはいないのではないか。パレスチナ問題もしかり。
湾岸戦争とその後の問題、東西冷戦崩壊とその後(旧ユーゴの惨状)の問題。私たちは、二項対立を繰り返し煽ろうとする言説に対して、あくまで冷静な対応をしていくことがテロ対策の徹底と同時に重要になるだろう。
通信傍受法についても、原子力発電所のセキュリティにしても、考えなければならないことは多い。



2001.9.10(月)
『夏と花火と私の死体』乙一 集英社文庫 メ
 小野不由美の腰巻き惹句に惹かれて購入。ホラー&幻想と黄色に黒抜きで書かれてある。ネタをばらさずに、上手に説明するのがなかなか難しい作品だ。長編ではない。中編文庫で130ページあまり。田舎の夏休み、9才で死んでしまった少女の死体をめぐって話が進む。花火大会の夜、彼女の死体は......。んー、これはあの夏の田舎の森の匂いがいっぱい詰まっている子供の記憶を、そしてその子供の記憶に孕まれている不分明な恐怖の感覚を、フィクションの中であまりにも鮮明に描き出してくれる。
 考えてみると、幼い頃は、何かがとても怖かったような気がする。ああだったらどうしよう、どうしよう、あれがばれたら、これを知られたら、もしあそこにいってあんな人がいたら......私たちが大人になってもう忘れてしまった形にならない不安と、それゆえの甘美さを、この作品は湛えている。ものの30分ほどで読めてしまう分量。しかし、どこか記憶に残っていく作品だと思う。怖いのか、といわれると、さほど怖い作品ではない、と答えてしまいそうだ。だが、サスペンスは無駄なく描写されている。不思議な、作品。440円を払う価値は在ります。今晩、読む本に迷ったら、本屋へ直行して後悔しない作品。よろしかったら、いかがでしょう?
 

2001.9.9(日)
『メタファー思考』瀬戸賢一 講談社現代新書
 メタファーを、人間的意味形成の問題として捉え直し、身体に係わる(特に視線&空間の位置づけ)メタファーを中心にしながら明快に分析・分類していく。また、レトリックをメタファー・シネクドキ・メトニミーに分類し、その働きを分かりやすく解説してくれている、入門書にもなっている。面白く読めました。お楽しみはこれからだ、って感じですけどね。


2001.9.8(土)
『若者のすべてひきこもり系VSじぶん探し系』斎藤環 PHP研究所
 ラカン派の臨床医が、80年代〜90年代にかけての若者について、原宿系と渋谷系という軸でひきこもりとじぶん探しという二つのキーワードで、若者たちのインタなどを含めて分析した本。
絶対世代が近い、と思って奥付をみると1961年生まれ。やっぱりね、という感じだった。中にかかれている、「豊かさの中では成熟できない」という意味の指摘には一応納得。人は、外部から思いも寄らぬ形で傷を与えられたり、困難がやってこなければ、生きるスタイルの根本を動かすことはむずかしい。ところが、貧しさのような、根本的に自己の存立をおびやかす外部からの{去勢}体験は、現状、望むべくもない。
そうなると、いくら自分で自己自身を言葉で表現してみたところで、その自己の内部は言葉によって輪郭を確定された空欄(空虚)でしかありえない。その空虚を何かで満たそうとすると自分の表現探しになるのだろうし、その空虚を必然と捉えれば引きこもってその何もない現実と向き合う(しかしただの穴を見つめることはできないんだけどね、実際には。見えないって状態が続くんだろう)のがひきこもり系ってことになるのだろうか。
キーワードにした「じぶん探し」と「ひきこもり」という二つの言葉が、それ自体、「癒し」なんかと同様流通する記号としての側面が拡大しすぎていて、かえって著者(斎藤環)という人のフレームが見えにくくなっているような気がした。もっとも斎藤自身の言葉でいえば「引きこもり系」は、自分の側にすべてをひきつけていく、のだから、コミュニケーションとしての表現をするつもりは希薄なのかもしれないけれど。
向き合おうとしているもの、見つめているものは私自身とかなり近い、とも思われるのだけれど、記号的にカテゴライズされた枠組みとしてのグループや人の話が多すぎて、二つの系の指向に共通する欲望の突出性に手が届いていない気がした。分析家の言説が、こうして出版されたとき、流通する範囲で理解されえる言葉の限界(それは学問的に難しいかどうか、では全くなく)というものを感じた。
著者がそれに甘んじているのではないか、という不満はしかし、残る。そしてそれは臨床的治療家一般の限界、ではないだろう。著者が人間存在の根底にある空虚さについてラカンの理論をかみ砕いて説明するその表現に、違和感を感じた。
でももちろん、喫茶店で雑談するようなつもりで読むには好適の一冊。PHP→博報堂→臨床的治療家というシーケンスに対する偏見的疑念は払拭されないけれど(苦笑)。




2001.9.5(水)
『階層化日本と教育危機』苅谷剛彦 有信堂
 インセンティブ・ディバイド(意欲の格差拡大)の問題の指摘は、本当に切実な課題を私たちに突きつける。
生徒自身の興味関心の喚起は原理的に強制はできない。しかし、インセンティブには明確な差がある。そしてその差は、親の学歴や階層と明確に対応しているとしたら???そして下位の子供ほど、「そんな教育の中で無理をしなくても自分は満足のいく人生を送ることができる」として、教育から降りることによって自己の有能感を守る負の効果が大きく働いているとしたら???
苅谷剛彦の指摘する教育社会学の視点は、本当に重要だと思う。
エリートなき社会において階層化だけが進行しているという悪い冗談のような現実がそこに押し寄せている、という筆者の指摘、というより警鐘は、現場にいる私の実感と、大きく重なっているような気がする。5月に私の職場で心理学の大学模擬授業を行ったけれど、そのときの臨床心理の先生も同じことを言っていた。「やる気もまた、能力である、という時代に私たちは生きているのです」と。
もちろん、意欲の湧かないような教師の教え方が問題だ、というのは簡単だ。しかし、それはたぶん問題を解決することにはならない。同じ者が教えても、生徒の意欲の発現には大きな差がある。同じ教え方でも学力に差があるのと同じように。そしてまた、意欲も、学力と同様、親が学習に親和的であり、自身の学歴が高いほど、子供も結果として高くなる、という結果が出ている。
みつめなければならないこと、考えなければならないことがたくさんある。この本はぜひ、多くの人に読んで貰いたい1冊である。教育に関心のある、すべての方へ。


2001.9.5(水)
『DIVE!!3SSスペシャル'99』森絵都
 3冊そろったところで続けて読みました。1巻ごとに主人公がそれぞれ異なり、同じ飛び込みのクラブで互いにオリンピックを目指して悩みながらも技を競い合っている3人がそれぞれこれで語られたことになる。4巻目はいよいよオリンピック選考会。しかし、不思議なことにそれぞれ1冊は、2時間もののTVドラマを見ているようにさらっと読み終わってしまう。ここまで読みやすいのは、どうなんだろうなあ、とも思うが、それぞれの人物も的確に描き分けられている。そしてそれはおのおの魅力的な少年だ。こうなったら第4巻の実質上のオリンピック選考会が早く読みたい。
そこまで読んでようやく、という感じがする。


2001.8.26(日)
『DIVE!!1&2』森絵都
 森絵都の描くスポーツ根性物語である。どこかのドラマで、どこかの物語で、あるいは自分の人生のどこかで、たしかに見たことのある風景、聞いたことのある言葉、そういうものがたっぷり注ぎ込まれている。
 いまどきなぜスポ根ものなのか、という疑問は当然湧いてくるが、若い男の子の一つの典型的な側面を描く上では、スポーツは避けては通れないシーンであることは間違いない。とにかく、中学生とか高校生(2年までぐらいかなあ)を描かせたら、森絵都はとにかくよく描くと思う。大人を描くのは大人にとっては簡単だ(面白いかどうかはまた別、ね)。けれど、子どもは自分のことを形にできない。大人はもう子どもであったときの形にならなさを描けない。
 その間を、きちんと物語にしてくれる森絵都の存在は、なんといっても貴重だ。私たちは、森絵都のたとえば小説としての物足りなさを指摘する暇があったら、彼女の物語の作り方の手練れさ加減にもっと素直に驚いていいと思う。
3巻目が最近出て、ようやく主人公が出そろったのかな、というところ。物語はいよいよ佳境に入る。
ダイビングという比較的マイナーな競技を選んだところも興味深い。買って読んで損はない1冊だとおもいます。ただし、大傑作ではないからそのつもりで(笑)。
 んー、関係ないけど、だれかマラソン小説書いてくれないかなあ。

2001.8.22(水)
『ありがとう』川上弘美
 台風で家に閉じこめられているので、モノを書きながら、逃避的に今、1冊読了したところ。ふしぎな雰囲気のする恋愛短編集だった。考えることと分かることの差異、分かることとと感じることのズレ、感じることと行為との隙間、それらが一挙に立ち上がる恋愛という事件の現場。分かろうとしないのか、分かり切っているのに惹かれるのか、愚かさと賢さの間、寂しさと懐かしさのすれちがい。
この人は、徹底的にその何センチかの人と人の間の広がりや狭まりを描き続けている。ゼロにはならないその隙間の感触を楽しむかのように。川上弘美という人の他の作品を全く知らないのだが、とても面白かった。

2001.8.22(水)
『リセット』北村薫 
戦前に、甲南女学校(とおぼしき学校)に通って宝塚などを楽しんでいたいいところのお嬢さん(しかし勤め人の子でとてつもなく金持ちというわけではない)が、社長令嬢のところで出会った男の子に淡い思いを抱いてっていう場面が出てくる。主人公が横浜か東京から父の転勤(「六甲ハミガキ」(これはライオンかなあ))神戸にきたところから始まってる。神戸に行ったばかりだったので、思わずじっくり読んでしまった。
結ばれない男の子と女の子の思いが、時を超えて響き合うという恋愛小説である。小説の方は同じ作者の『スキップ』の方が買い。今回の『リセット』も決して悪くはないけれど中の中、ぐらいのところだろう。ただ、ある種の切なさ、しかも若い、女性の背骨のしゃんとした、ちょっと前の制服の似合う女子高生の切ない思いなんかを書かせると北村薫はなかなかだ。この人、以前高校の教師をしていたはず。
北村薫が好きなら読んでも損はない1冊。当時の女学生の感覚とか、トシのはなれた異性が惹かれていく感じとか、なかなか筆力があると思う。東野圭吾もそうだけれど、今はこういうエンタテインメントの書き手に描写力のある人がたくさんいる。ファインアート(小説ではそういう言い方をしないのかな?)のこめんどくさい表現とは違って、実にまっとうだなあと思う。

2001.8.19(日)
『Lifetime respect』三木道山
 今、流行りの唄である。怪しげな風体とご面相の兄ちゃんが、自分で曲につっこみを入れながらも、尊厳(尊敬?)を持ってお前(女)と「愛し合いたいねん!」と語るように歌う。
いいところも、だめなところもぜんぶふくめて愛してくれ、そしてオレにもちゃんと愛させてくれ
(歌詞の引用はしませんのでとりあえず大意のみ)
恋愛の相互性&全体性の回復への希求が、いともあっさりとさりげなく(あるいみではヌケヌケと)語られているのに驚いた。人生の応援歌は今までも沢山あった。それらの多くは<真実>に奉仕する物語をいかに二人だけで立てられるか、という不可能の予定調和みたいなところがあったように思う。
山口百恵の引退直前とか、アムロ奈美恵の結婚近辺とかは例外的存在だろう。
この唄は、そういう真実や愛の物語とはちょっと違っている。物語ではなく、語りの嘘の空気が時代と出会っているのだろう。
『いつも何度でも』(木村弓)の、
割れた小さな鏡のカケラにも新しい風景が映される
(歌詞の引用はしません。大意のみ)
という部分とも共通している。うまくいく物語の賞揚も、うまくいかないトラウマの提示も、もうちょっと止めて、そうではなく、まずそこにあることを肯定する身振りによって、「気」をたち現われしめようというのだろう。
もちろんそれはまた、「癒し」のカテゴリーに繰り込まれていきかねないのだけれど、でも、違うよね。




2001.8.14(火)
『リトル・ダンサー』
 イギリスを舞台にした映画は、ここしばらく炭鉱労働者の生活の中でのものを何本か見ている。
 ブラスもそうだったし、フル・モンティもそうだった。これも状況としては同じ。今の炭坑がこうなのかどうか知らないけれど、映画の作り手にとって、労働者の人たちのシビアな現実を見るときには必須アイテムなのかな、と思った。
それはさておき、この少年の表情と動きがいい。バレエ・ダンサーを夢見るようになっていく(踊ることの中に自己解放や自己発見をしていく)少年の姿に、とっても納得させられるのだ。それ以外の大人たちは、すべて彼の踊りのために奉仕している。こういう映画も悪くない。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も主人公が実によく踊る映画だったが、この映画も主人公の少年は、生活の中でも実に軽快だ。限界を知らない、というのではない。普通の11歳の年若い少年にすぎないのだけれど、その少年が踊るときに見せる、あるいは他者と向き合ったときに見せる身体や表情の表現が、とっても軽快で、リズムがある。
それがあればよけいなものは要らないって感じかなあ。楽しく見ることができました。


2001.8.13(月)
『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』J・K・ローリング 静山社刊行
 『ハリー〜』の第3巻。もう、言わずとしれた、である。彼女のインタビューの本も併せて今回読んでみた。この作品は、ハリーの冒険が中心ではなく、むしろその周囲の人間の動きや歴史がメインとなり、ハリーは狂言回し(舞台を進行させる進行役みたいなもの)になっているというべきだろう。
だからといって面白くない、ということでは全くない(と慌てて出版社に気をつかっているわけではありません)。まあ、次にくる大部の第4巻に向けての基盤固めなのかな、とも思うけれど。今回登場する魔法防御の先生が泣けるなあ。ローリング自身も思い入れの深いキャラだと言ってたけれど、同感。占いの先生の当てにならない感じなんかも楽しいし、スネイプ先生の偏屈ぶりもますます健在、だし。
 作品を単品で見た場合は、おもしろさは第2巻に一歩譲るかな。個人的には第1巻より第2巻が好き。自分の中の闇を見つめる物語が必要な時期って必ずあるし、物語にはそういう闇を自分の力にしていく働きがあると思う。
また、作者のインタビューでは、ローリング自身、この世界がほとんど完成した状態で書き始めている、というのが印象的だった。いかにも物語の語り手らしい言葉だ。小説ならそうはいかないだろう。本に書いてあるものの何倍も何十倍も細かな出来事や設定が作者の頭の中にはいっぱい詰まっていて、その世界の濃密さが、作品をさらに魅力あるものにしている。
7巻で終わるというその世界は、ハリーの成長物語として、なのか、一つの語りが終わるだけなのか、それとも魔法世界そのものまで終焉を迎えるのか(たぶんそうはならないだろうとは思うけれど)。
もうこうなったらずっとつき合うしかないなあ。
フィリップ・ブルマンの「黄金の羅針盤」のライラのシリーズも第3巻が早く読みたい。
んー、こういう待ち遠しい物語がたくさんあるっていうのはでも、絶対幸せだよねえ。




2001.8.13(月)
『夢の島』大沢在昌 双葉社刊
 20年以上も音信不通だった父が死んだ、と、最後に父と連れ添っていたらしい女性から電話があった。ところがその直後から、不審な人物や動きが、「僕」の周りに立て続けに現れる。その父の息子である自分が、何か秘密を握っている、と思われているらしい。最初は気軽に考えていた父の死が、しだいに大きな波紋を広げてい。ついには人までが殺害され……、と続いていくおなじみのハードボイルド小説。喫茶店で3時間、一気に読了。
午後の一時、本を読んでつぶしたい人で、ハードボイルドが嫌いじゃない人にはお勧めの一冊。そんなに凄い傑作を期待しなければ、大沢節で読ませてくれます。宮部みゆきと大沢在昌はやっぱり凄いよねえ。とりあえずは、読んでも損はしないと思いますよ。



2001.8.10(火)
『神戸という街について』島貫
 8月上旬に、神戸に行って来た。震災から6年ほど経った神戸は、表面上その傷跡は、観光客にはちょっと分からないほど元気な街だった。最近東京に遊びにいくことが多いけれど、芝居や絵を見に行くのではなく、純粋に街を楽しむなら、神戸の方がずっと上質な街を楽しめる、と思った。
たしかに東京にはなんでもある。映画も、芝居も、絵画も、ブランドの店も、小物類の店も、(新・古)本屋も、ブティックも、得体の知れない代物たちの並ぶ店も。だが、一人でそのすべてをカバーすることはとうていできないし、無意味でもある。東京の人はチョイスして生きるスタイルが身についているようにも見える。とくに田舎から遊びにいくとなると、今度はあそこの店に行こうとか、今度はあの芝居を見ようとか、チョイスしなければちょっと大変だろう。
神戸は、そういう街ではない。(なんのナビゲーションもなく楽しめるかどうかは分からないが)とにかく、街をゆっくり歩いて、何かを見つけてそれと遊ぶ、というのに手頃な大きさなのだ。
もちろん街というものはは、自分の頭の中でいくらでも変形分割ができる。だから、東京だって仙台だって、いわきだってそれは使いよう、といえばいえるかもしれない。でも、そうではなく、街そのものをゆっくり楽しめる空間が、そこにあるのだ。
都会でありながら、夜景が綺麗だ、というのも大きいかもしれない。函館、長崎、神戸、共に夜景が綺麗だ。だが、神戸は生きている街(函館、長崎が生きていないわけではありませんけれど)でありながら、綺麗だし、そのことを露骨に(しかし旨く)利用もしている。そういうことができる街、でもある。
人の速度は渋谷よりも2割から3割ゆっくりだ。その速さは田舎に似ている。しかし、ずっと歩いていて街がとぎれず、楽しめるのは、東京以上だろう。東京は下手をすると、点在する核の都市以外は、田舎の町が数珠繋ぎになっているだけの部分が多い。
神戸は、核となる街が重なって、それでいてどこか緩い。
どの街がよくどの街が悪いということはもちろんありはしない。
だが、最近東京ばかり遊びに行っていた身の上で神戸を訪ねたら、妙にぴったりくるのだ。
京都よりも、大阪よりも。

もちろん、地元の人に尋ねると、町並みがすっかりかわっちゃってね、とか、再建したお店はほとんどがその分のよけいな借金を背負って踏ん張ってるんじゃないの、とか、震災のお話は聞けば尽きない。灘の酒蔵では、蔵を止めたら誰も引き受け手はないとの話も聞いた。蔵元の数は減るばかりだ、とも。こんな設備を投資して、見合う仕事じゃない、とも。そして、100年ぐらいの蔵は全然新しい新参者だ、という。お金が見合わないから止めるという仕事でもないのだ、とも言う。
見合わない、という現実と、見合わないから止める、というのでもない、という気持ちと。
きっとどちらも真実なのだろう。
時代が動くときは、システムの中に安住していると滅びていくばかりだ。だからといって逃げ足が早いことを自慢するにも及ぶまい(そういう人もいていいけどね)。では、そのシビアな現実の中でどうするか。踏みとどまってその隘路をくぐり抜けた者だけが、本当に伝統を支えていく、ということになるのだろう。そうまでして老舗の跡継ぎや嫁をやる価値があるか?といわれたら、やめておいた方がいい、とアドバイスするところだろう。でも、それでもやる、という奴がいたら、応援したい。
人生に正しさなんてきっとないんだよね。
神戸の震災の痛みは、きっと100年経たなければ、歴史にはならないのだろう。
たとえば、隣に寝ていた人の命が突然亡くなってしまった、という現実。その理不尽さから、逃れる術はきっとないのだろうし。
その切なさまでを含めて、もう少し神戸を見ていきたい。


2001.8.7(火)
『ルイス・C・ティファニー庭園美術館』松江ウォーターヴィレッジ
 『2001年4月に開館したばかりの美術館に行って来た。島根県の松江市、宍道湖のほとりにあるおしゃれな美術館である。最初はガイドブックにもなかったので通り過ぎようと思ったが、あまりに新しい建物で、大げさといえば大げさな造りだったため、ものは試し、と入ってみた。するとこれがとんでもなく充実した美術館だったのである。今年になって上野の東京都美術館でアール・ヌーボー展が開かれたのが記憶に新しいが、そのアール・ヌーボーのアメリカにおけるもっとも大きな役割を果たしたガラス工芸家ティファニーの個人を対象とした美術館である。宝石店で有名なティファニー創設者の息子なのだという。そのあたりのことも初めて知った。
ちょっと乱暴かもしれないけれど、20世紀における私たちのそれ「カワイー」「ステキじゃない?」「おしゃれ」というおなじみの感覚。そのかなりの部分はこのアール・ヌーボー的な感性が支えている、といっていいのではないか。純粋芸術(ファインアート)と対置された装飾芸術は、工芸とかデザインとかいった「道具」がちょっとおしゃれになったという意匠のイメージを超えて、私たちの世界における「美」を支えている、というのが実感だと思う。むしろ言葉の伝統的な意味での「美しさ」は、いわゆる芸術よりも、こういうものの中に見いだされるとさえいっていいのかもしれない。
ジャポニズムと親近性がある、といわれるアール・ヌーボー。その様式性というか装飾性というか、そのあたりのことを考えるのにもとても役に立つ美術館である。出雲空港から船が出て、その船が直接美術館の船着き場に接岸し、そこから美術館と庭園を見ることができるようになる予定だとか。
せっかく作るならこういう美術館がいい。大昔のものと違って収蔵される作品1点自体のコストは、絵よりはよほどリーズナブルだろうし。お宝としての価値というより、私たちの日常の中での<美>について改めて考えたり感じたりさせてくれるのは貴重な体験だった。
那須の「エミール・ガレ美術館」よりも充実しています。機会があったらぜひ行ってみてほしいところである。
ここに書いたつもりで落としてしまったが、今年の前半に上野の東京都美術館で行われた『アール・ヌーボー展』(ルネ・ラリックのトンボの飾りがポスターになっているのを見た人もいると思いますが)
と響き合わせて、考えさせられることが多かった。

2001.7.31(火)
『いつも何度でも』歌 木村弓 歌詞 筧和歌子
 『千と千尋の神隠し』の主題歌です。歌詞を引用しすると著作権を侵犯することになるので、引用できませんが、これは、理想や夢と現実の悲しみや過ちや別れとの間で、繰り返し引き裂かれようとする心を、そのまま肯定しながら受け止めようとする<魂の童謡>になっていると思います。夢とか、出会いは、思いを遂げ理想を実現する満足することのうちにだけあるのではなく、むしろ、青い空の高みを見つめつつ、それを見つめる自分が今ここに生きている、ということそのものの中にあるっていうメッセージに溢れています。
心を非現実に奪われるのではなく、あるいは失われた夢の数を数えてうちひしがれるのでもなく、今ここで夢を歌としてくちずさみ、自分の手で描いていくこと、それが本当に夢見ることなんだということ。生きることと死ぬこと、光と悲しみの闇を併せて豊かに生きること、それが本当に生きることなんだ、ということ。
癒し系って括弧に括るのは勿体ない、豊かな響きがここにあります。
癒しって言うのは、どこかでスタンダードに治癒され、葛藤が解消されていく言葉の響きの弱さが残る。
癒されるぐらいだったら、傷ついていた方がいいと思う。たとえ無力であっても、夢と現実のギャップにみもだえしながら、その上で生きることを肯定したい。
痛くなくなる麻薬みたいなものを求めて癒されるのはイヤだなあ......。
そういえば、痛みを伴う改革、ってのも最近流行っているけど、その痛みも他人からぶすっと刺されるんじゃ我慢できない。自分で選び取り、自分のこととして不可避的に受け止めるんじゃないとね。その国民の尊厳を支える努力を、政治家はスタイルとして持ってくれるだろうか。そういうスタイルを保持することを、私たちはきちんと支持できるだろうか。
ことは、目先の我慢と将来の景気の取引ではないと思う
癒されたり癒したり、するだけじゃ傷ついたり傷つけたりすることの裏返しでしかない。
自分を、将来のプラスと引き替えにではなく、今、マイナスを背負っていることをも含めて、自分の姿勢を肯定すること。それがやせ我慢とか自己にしか還元されないナルシシズムとかではなく、提示できたらいいのに。
自己愛ではなく、自己尊敬とか自己尊厳とか。
無力であることはそのままでみじめな自己愛にしか生きられないことを、必ずしも意味しない。
少なくてもそうではないのだ、どんなに無力であっても尊敬とか尊厳はあり得るのだ、と私たちは自分自身にも、子供たちにも、きちんと信号を発し続けなければならないだろう。
欺瞞や取引としてでなく。
いろいろ考えさせてくれる歌です。

2001.7.27(金)
『A.I』
 んー、どうだろう。これは、アトムを知らないアメリカ人には、ロボットの愛はまだ受け入れがたく、アトムの子供の世代である日本の我々にとっては、もうこれは天馬博士とアトムの誕生時のやりとりから青騎士シリーズ(ああ、このシリーズはやっぱり傑作だよねー)で済んでいる話じゃん、って感じで、スピルバーグは観客のいない層に向けて作品を作ってしまったのではないか、という思いが消えない。
最後の30分なんてどうしたらいいのか。
これはいろいろ意見はあるだろうけれど、私(島貫)としては失敗作というべきなんだろうなあ、と思う。
冷凍保存の子供の代わりにっていう冒頭のシーンから、よけいな説明ばかりが先行しているような気がする。
これはロボットモノに関するアメリカ市場の限界なのかな。えーと、題名忘れたけど(『激突?』)スピルバーグの初期の得体の知れない怖さとか、『E.T』の皺皺なのに「かわいい!」って感じとかから比べるとねえ。
カワイイのにロボットだから、っていうのは、カワイイの使い方を間違えてしまう危険性があるわけで、それが作品の中で葛藤を拡大するのではなく、作品が一所懸命主人公を説明する側にまわっているような。
やっぱりそれが結果として<甘い>作りというか意味不明の展開になっているのだろうと思う。
せっかく世界的に興行するんだから、なんとかもうちょっと頑張ってほしかったなあ。これで満足なのかしら、スタッフも監督も、プロデューサーも。んんん。どうでしょう?我慢できるなら映画館に行かないで済ませた方がいい1作。
でもみんなそれなりに行くんだろうなあ、もしくはもう行っちゃったか。

2001.7.21(土)
『千と千尋の神隠し』宮崎駿監督作品 スタジオジブリ
 朝一番8:10〜の上映というので慌てて飛び込んだら、意外に席が空いていてびっくり。
さて、映画は、と言えば、これは文句無しに勧められる映画だと思った。『もののけ姫』のように難しく考えることもいらないだろう。『風の谷のナウシカ』以来、ずっと劇場でこの監督の作品を見てきたけれど、本当に同時代に生きていて良かったと思う。主題歌がまた、いい。
 何が凄いって、できることとできないことが分かっていて、そのできることをとにかく磨いていく職人のスタイルが映画から感じられて、かつメッセージ性もある。CGだからCGだから、という押しつけもない。大きな壺はよく描けているからてっきりCGではなから作ったのかと思ったら、パンフレットに描き込みの苦労が書いてあってびっくり。
 ストーリーは不思議の国のアリスみたいなものだろうか。不思議な世界に入ってしまった少女が現世に戻ってくるまでのお話。このお話をきちんと子供にも通用するエンタテインメントとして魅せきってくれるヒトが、世界に今どれだけいるだろう。J.K.ローリング、フィリップ・ブルマン。スピルバーグについては『A.I.』で別に。
 日本の映画興行成績を塗り替えつつある、というのも当然だろう。傑作か傑作でないか、ではなく、今日本にいて宮崎駿男のアニメ映画を見ることもしくは見ないこと、というジャンルで考えていいところまで来ている。
 でももちろんそれは1作1作とんでもない、それこそとんでもない瞳と感覚に支えられている(労力はプロだから当然なんだけどね)と思う。ふーっ。個人的に宮崎作品で好きなものは他にもあるけれど、アニメの画面を劇場でまた見たい、と思わせる力はなかなか。テイスト的には『オネアミスの翼』のことをフッと思い出した。ある種のあっさりした観後感というか。別にそう何かを主張したいわけではない、あっけらかんとしたような主人公のスタイルというか。
ぜひ、劇場に行ってみてください。そして感想を聞かせてほしいものです。


2001.6.23(土)
『ハムナプトラ2』
実は、『A.I.』を見に行こう(先行オールナイトがあった日だった)と思っていたのだが、状況が許さずにやむなく『ハムナプトラ2』となった。だが、これは意外なほど面白い映画だった。
『インディ・ジョーンズ』なきあと、SFXのアドベンチャーはこのシリーズなんだなあ、とつくづく実感した。
もう上映していないかな、まだやっているなら見て置いて損のない1作。説明は不用。ただシートに座って楽しめばよい。もちろんできるなら、なるべくいい映画館でゆったりと楽しんだ方がいいね!理屈抜きの作品です。

2001.6.12(火)
『源氏物語主役の女性たち』鈴木一雄(十文字学園女子大学学長)いわき地区高校国語教育研究会総会講演
 79歳の高齢とは信じられないほどパワフルな講演だった。90分質疑30分の予定がの予定が、講演だけで120分を超え、しかもその内容が午後の講演だというのに眠る人ががほとんどいない面白い内容。本当にすごい人はいるものだ。
鈴木先生は、自身の女流日記文学の研究を踏まえた上で
、源氏物語を平安女流作家が描いた女性の生き方という視点で全体像を提示している。普通だと、源氏物語を貫く思想とか生き方とかいった話はなかなかできない。
トリヴィアルな学説の比較検討、もしくはテキストの伝承本の照合など、素人が聞いていると皆殺しにしてもかまわないのではないかと思ってしまうほど理解しがたい議論をするのが学者というものだが、彼は、源氏物語全体と、具体的詳細な本文読解、それに加えて先行する平安時代の女流日記の作者たちの作品を踏まえ、さらに源氏物語に続く物語群についての考察もした上で、源氏物語に現れた女性の生き方を、「諸相」というアラカルト的な形で並置するのではなく、統合して論じていく。
人文系の研究は、長生きしないとだめかも、とつくづく思う。若いうちに成果を出そうとおもったら超人的に勤勉でないと無理だね。
というか、本当に説得力のある話で、聞き入ってしまったのだ。
以前フェリスの三田村雅子氏の源氏物語絵巻の論を福島大学の学会で聞いたことがあったが、この時は政治的な思惑、男たちの物語としての図像解析だった。これも面白かったが、それは典型的な男の物語であった。
また一方、女性像を並べて、女性のさまざまなタイプとして「雨夜の品定め」的は女性論も多くみられる。
しかしまたこれも男性からみた女性像にすぎず、たとえ論者が女であっても、男性的視点の内面化がなされてしまった論にすぎない。
ところが今回は、女性像の、しかも色好みなスーパーヒーローの遍歴の対象にすぎない女性像ではなく、それぞれが女性の生き方という視点で響き合い、深化していく様子を藤壺→紫の上→大君→浮舟とたどっていくのだ。ポイントは紫の上と浮舟。
当時女性という存在は、自己表現が十分に許される立場にはなかった。妻問い婚でもあり、女性は<待つ>ことしかできない。
しかし、その<女性>のありようをを内面化するだけではなく、女性自身の生き方を自己表現せずにはいられない、そういうタイプの人間たちが(女性たちが)いた。それが蜻蛉日記の作者であり、枕の作者であり、源氏の作者であったのではないか、という女流文学の流れを踏まえて、語れば、主張すれば、考えれば、かならず不幸を招く女たちのありようを、それでも表現しつづけていったその女性の生き方に対する視線の鍛え上げ方に、論者は注目していくのである。
近代的な視点ではなく、しかし表現者としての女性の視点を探っていくその柔軟で強靱な79歳には、元気を分けてもらったような気がする。
平凡なフェミニズムよりもよほどフェミニスティックな講演、という感じがした。内面化しながら限界づけるというのは、言説の研究における基本なのだなあ、と、その点は意を強くした、ということもある。

2001・6・9(土)
『みんなのいえ』三谷孝喜作・監督 八木亜希子、唐沢寿明、田中邦衛出演
 んー、どうだろう?家を建てたことがある人間にとっては、本当に思い当たることばかりのエピソードが満載だし、誰も悪人はいないのに事態がどんどん悪い方向に転がっていくのもコメディとして基本だし、それでいて最後はなんとなくほのぼの、というのもそのとおり。でも三谷の作品は、もっと<悪>に近いものがうごめくような(悪そのものではなあく、あくまで「近いもの」なのだが)ところがあった方が傑作に近くなるのではないか、と思った。『アパッチ砦の攻防』っていう題名だったか、東京ボードヴィルショーの名演、それから『笑いの大学』の追いつめられたところから出るねじれた可笑しさ。
 そういうものがもちろん無くなってはいないし、芝居と映画は違うけれど、なんだかちょっと......という気がした。
 たとえば中井貴一の主演する、ココリコの一人が書いているドラマの挿入なども、あれだけで終わらせるのは勿体なくないだろうか?贅沢に使っているからいい、のかなあ。
 でも、コメディ系ばかりではなく、無関係な映像要素のすべてが、ある磁場に触れて一瞬ある方向性を獲得するという幻みたいなことを求めるのは、決して理不尽ではないと思う。それは同時に、より深い過酷な散乱を迎えることになるのだけれど。
 物語は成功の一歩手前で成就してから壊れていくためにこそ、あるのだと思うんだけどなあ。
 こう作ったんだからこれで見るしかないんだろうけれど、いいえればこのノスタルジックな色が、何か映画以外のものに奉仕しているような気がする、ということでもある。それは気のせい、というか大きなお世話、というか、勘違い、なのだろうか?
 1800円しか払っていなくてすべてを自分のものみたいにいうつもりはないけれど。
 まあ、楽しかったです。お暇ならどうぞ、ってところかな。



2001.5.12(土)
『東京マリーゴールド』市川準監督 田中麗奈主演 渋谷の西武のビルの7Fの映画館で上映初日。
 恋人のいる異性と、その恋人がアメリカに留学している間だけでいいから、と1年間だけの約束でつきあい始めた主人公(田中麗奈)の日常と、その主人公を見守る母親(樹木希林)のお話。タコなダメ男(小澤征悦)とその中途半端な恋愛をしていくなかで主人公は自分とようやく向き合いはじめる......。
と紹介してみたけれど、私にとっては不満。何も起こってないじゃないか!って感じ。いや、何も起こらないことを描くっっていうのはあってもいいんだけど、たとえばCM撮影の話とかその中のCMとか、市川準だからってだけのことじゃないの?と思わず言ってみたくなる。そんなにみそ汁飲まないと資金がでないのか?とかね。いや、それはどうでもいいとしよう。二人はきちんと出会わない。だからきちんと別れていない。主人公の中だけで男は整理されていってしまう。そういう物語の需要があるのかあ(渋谷で土曜日初日の2回目上映だったが余裕で座れた......)というのは分からないでもないが、同じダメとか愚かなら、やっぱり「スナッチ」のブラピ(断じて「ザ・メキシカン」のそれではなく!)やヴィンセント・ギャロのようであってほしい。あるいは「アメリカン・ビューティー」の主人公でもいいし、「シックス・センス」のおじさんでもいい。分かってるつもりじゃなくていいんだけど(分かってるつもりって最低だから)、ダメとか愚かとかが、人を元気づけるってのが絶対欲しいと思うんだなあ、表現としては。
私は小澤征悦の(タムラ)には、馬鹿になれない情けなさをよく演じたのかな、という票を投じたいけれど、これは観たい映画、にはカウントできない、とも同時に感じた。
おなじ愚かな情けなさを描くのであれば、パーティー7みたいなやり方だってあるのに。
だいたい、日付だけが主人公を動かすのかい?ってのもあるしね。ドラマを動かすのが設定としての1年間以外になくて、なんか進行役もどきとしてCM撮りと演劇パフォーマンスの話がちりばめられているだけ。
どうしてこれが全国ロードショーになるんだろう?本を書く人が他にいないの、とも思った。
どうなんだろう?これについては他の人に感想を聞きたい気持ちです。共感性が高い、としたら、けっこうショックかもしれない......。



2001.5.5
福島県いわき市郷ヶ丘在住の高橋彰というクラフト作家の個展に行って来た(福島県いわき市の勿来にある四時ダムのトンネルを抜けてすぐにあるギャラリー「昨明」で開催)。
私がシロナガスクジラを2頭持ってる、その作者の人だ。
他に障子紙でつくった飛行船の照明器具とか、ミニチュアのカヌーとか、手作りの木椅子とか、複葉機のおもちゃとか、子供の頭ほどもあるクルミ実の木彫りとか。楽しいものがたくさんあった。
シロナガスクジラの写真(あまりきれいじゃないのでそのうち撮り直ししなくちゃ......)
手作りのものは、ほっとする。今はもう手作りのものは、普通の流通に乗った実用品としては成立しなくなっている。いわば贅沢品だ。でも、身近に人の気配のするものが一つあるだけで、私たちの心はなごむ。そういう意味では具体的な身体の動きの痕跡が残るハンドクラフト(手工芸、というのかな)の作品は、心の表現形である<ゲージツ>以上に、身近に寄り添ってくれる普遍的価値があるのかもしれない。

2001.5.5『世界の中心で、愛をさけぶ』片山恭一 小学館 1470円
 青春恋愛小説、というべきだろうか。佐藤正午は腰巻き惹句で「これほど印象的なキスシーンを描いた小説はかつてなかった」と書いている。たしかにこれは初めて恋人とキスをする時の、そして最後に恋人とキスをする時の、そういう切なさが詰まっている作品だと感じた。
 その前後、恋人の両親とのやりとり、祖父と孫とのやりとりなどは、ヤングアダルト本系の雰囲気もあって(癒し系)、これはこれで悪くなかった。結末に不満がないといえば嘘になるが、こういくしかないのかなあ。
 結ばれない愛のかたち(結ばれないからこそそれに形を与えなければならないんだろうね)の切なさは、繰り返し繰り返し永遠に人は語り続けるものなのかもしれないですね。取り返しのつかないことってたくさんあると思う。口にしなければ良かったと思う真実や嘘もたくさんあるに違いない。でも、選び直すことはいつだってできる。存在しないものであろうと、どんなに愚かしい形であろうと、人はやり直すことはできないけれど、選び直し、出会い直すことはできるだろう。
真っ白なキャンバスにしか絵の具をのせられない書き手は、絵を描くことよりもキャンバスを作ることに熱心になった方がいいのかもしれない。絵を描かなければいつまでたってもきれいでいられるんだから。
 小説としてはやはりあっけない、という気持ちが拭えなかった。でも読んで良かったと思います。青春もの、純愛ものが嫌いでなければ、お暇なときにいかがでしょうか、レベルの1冊。☆☆☆★★かな。



2001.5.4『夏の丘、石のことば』ケヴィン・ヘンクス作 多賀京子訳 BFC(Books For Childrenシリーズ) 徳間書店 1300円
 ゴールデンウィークは児童書週間になったようで、午前中ホームページを更新してからまた手にとったのも児童文学だった。
 休みの昼間、癒されたい中年のおじさんにとっても、児童文学(実はヤングアダルト、すなわち若い女の人たちむけ)は味方になってくれる。
 というわけで、この作品。下に3つ上げた絵本は、ジャンルの話とか政治の話とかになってしまったけれど、この本は小説読み、物語好きの私にとって今日触れた中では一番読み応えがあった。
 家庭の不幸という少年や少女にはどうすることもできない与えられた過酷な環境。その中で彼らは唯一自由になるファンタジーエンジンを使って、現実となんとか折り合いをつけていこうとする。そんな中で初めて少年は少女に、少女は少年に出会う。ファンタジーと現実が交錯する中、自分の弱さと虚勢をはる強さと、相手に惹かれていく心と、さびしい現実が、彼女と彼を振り回しだす。ようやく二人がお互いに相手を大切だと思い始めたとき、自分を救うためだった思い込みや空想がもたらした嘘が相手を傷つけ、一番大切な人の気持ちを傷つけてしまうことになる......。
 これは児童文学好きなら絶対お勧めです。そうでない人も、実用品としてでなく、繰り返しテキストとして読み続けえるものだと思います。☆☆☆☆★


2001.5.4『On Holiday』 Minako Minagawa 地上の休暇 Gakken
 さいきんよくある大人の絵本。第1章は休暇を取った天使、第2章は休暇を取った悪魔が、それぞれ地上で何をし、何を考えるかというもの。
 作者があとがきで触れているように、 Inbetweener としての<人間>の半分づつを、天使と悪魔に投影して書いてみたってことでしょう。ほしいのはその先っていうもどかしさはあるけれど、その先なんてたぶん、ないのだろう。「間に立つしかない者」としての人間を、こういう風に分かりやすく、特に本好きや芝居好きでない人も手にとって容易に読める絵本が出てくるというのは、ある部分で日本も成熟してきたよなあ(それが幼児的、って見えてしまう部分もあるのかもしれないけれど、はっきりとそれは違うといっておきましょう。人を単純にカテゴライズする者、のほうがよほどやっかいであることは、歴史が証明するところ)と思います。
 天使は休暇中、いいことをしない。休暇中だからね。悪魔は休暇中ボランティアに精を出す。一度やってみたかったからね。
 じゃああなたは?んー、休暇中、キャンプの計画がフイになった私は本&映画&仕事(休み中の持ち帰り残業なんて、趣味の域だよね、どう見ても)に首まで漬かって、残った時間はメールのやりとりとホームページの更新に充てるのでした(苦笑)。☆☆☆★★


2001.5.4『デューク』文:江國香織 画:山本容子 講談社 1000円
 んー、これも大人の絵本(この場合大人、とはなぜか主として比較的若い女性を指すことが多い)。
 クリスマス・ソングが流れる12月の街、愛犬を喪った「私」の一日が描かれている。 これを先日、職場の同僚の女性に白昼堂々と読ませて泣かせて怒られた。手のひらに載る小さいサイズの本。11月に発行されているから、プレゼント企画みたいな部分もあったのかなあ。山本容子の絵は以前、中沢新一が「音楽のつつましい願い」という本(これは作曲家の肖像画<エッチング>)で見てからファンになった。
 この手の本は、使用してみると分かるが、優れた実用品である。泣きたいとき、悲しくなりたいとき、もしくは悲しみに浸った上でそこから自由になりたいときには手近に2,3冊こういう種類の物語があると良い。泣きビデオと同じようなものだが、携帯性もある。この作家が若い女性に支持されている(たぶんね)理由が分かる。短編に1000円(税別)は少々高い、ともいえるが。読めば5分で読めてしまえます。☆☆☆★★


2001.5.4『考え、売ります。』ダグラス・ラミス著 知念ウシ訳 村上勝美絵 1200円
 紹介ついでに絵本をもうひとつ。これは大人のとか子供の、とかいわなくていい「絵本」だと思う。だいたい児童文学論なんかではもう何十年も前から、「児童」って誰とか、ただの「文学」でなぜいけない?とかそういうジャンル論はあったわけだろうし、いまどきそんな心配をする人も実はあまりいないはず。面白ければそれでいいし、面白がったところにその人の輪郭(あえて限界とはいうまい)が立ち上がるというだけのことだから。子供向けのもので感動してはいられない、という限界を選ぶか、子供と同じように感動できるか、あるいはとてもよく似ているけれど大人−子供という二項対立から身を翻して楽しいものを楽しいというのか。絵本は、啓蒙的だと思うととってもつまらなくなる。そういう意味では「大人」が考える「子供」の本はつまらない。
境界線が見えなくなったり、越境してしまったり、もう一度めがねをはずしたりする楽しさが、「大人」の側の道具に少ない。
結局はそれだけのことなのだと思う。子供が面白いと思うものの中には、子供っぽいだけのステロタイプなものがあるけれど、それは大人のパチンコやポルノだって同じだろう。そうやって両方とも貧しいままじゃ、結局つまらないんじゃないかしら。今日書いている3つ『On Holiday』『デューク』『考え、売ります。』は、渋谷のBook1stの児童書コーナーにあった本だ。児童書コーナーでも、八重洲ブックセンターと渋谷book1stでは品揃えがぜんぜん違う。渋谷で児童書を買う人は、自分で読むために買う人の方が多いのじゃないか?そうでなければ自分の感覚で子供の本も選ぶ、そういうラインアップだった。八重洲ブックセンターは、「児童書」って感じがぐぐっとくる感じ。親も本好きで、家族で子供の本を買いにくるキョーヨー派が多かった。顧客のセグメントが違うんだから当然だけれど(新宿と神田の本屋にいけばまたこれが違うんだろうね、きっと)。インターネットで本を注文するようにはなっても、やっぱり本屋が薦める本のラインアップをときどき眺める必要はあると思う(ヒコ・田中の月刊メールマガジン児童文学評論、本の雑誌、週間読書人と3つのアンテナだけじゃとても足りないし。)
 そうそう、『考え、売ります』の話だった。あるお寺の縁日に、どこの国の人だか分からない、そして何を売っているのか分からないおじさんがいた。少女が近寄って聞いてみると、考えを売る、のだという。そして対価はお金では受け取らない。その不思議な男の人に考えを売ってもらった少女は、しだいに自分の中で何かがほんの少しだけ変わっていくのを感じる......。って感じです。きわめて短い、10分で読めば読めてしまう本です。でも、これも悪くない。この考え売りの男と少女の関係は、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の主人公や宮沢賢治の『雨ニモマケズ』なんかにも共通している部分があるのじゃないかしら。
 となると、今度はその成熟とか豊かさの中で、かつてもっていた二項対立や進歩主義・合理主義ではなく、世界を支える膂力を誰が発動しなければならないのか、ということが主題になってくるような気がする。憲法を改正して自衛隊を軍隊と呼ぶことか?歴史教科書を書き直して国家・国民としてのプライドをとりもどすことか?首相を国民の人気投票の手に取り戻すことか?
 そういう主張を抑圧するよりは、その主張もなされていい。80%の世論調査の支持が改憲首相に集まるまで、一緒に護憲集会を開くことさえできなかった社会党(今は社民党)と共産党は、確実に補完勢力としての役割さえ閉じようとしているのだから。
 だが、メディアに浮上しつづけている「愚かさ」へのこだわりは、1割の勝ち組みに対する9割の負け組をクールダウンさせるための「物語」として消費されて終わるわけにはいかないだろう。
 だって、靖国神社への敬意や国を守る軍隊への敬意は、それだけでは片務的な二項対立の残影に過ぎない。完成した理想市民とか、国を守ることしかしない理想的な軍隊とかが存在しないのと同じように、宗教的な存在が政治に利用されないはずもないのだから。片方だけ有難がるわけにもいかないでしょう。日本人としてのプライドも同様。プライドのないやつも付き合いたくないけれど、そのプライドが金看板みたいになっちゃうと、さらに付き合いきれない。

 構造主義は確かにものの見方の中に人間の精神を支え、同時に縛り付ける<権力>を見出した。だがその文脈だけをたどっていくと、ものの見方というファンタジーエンジンこそが、すべての源泉である、かのような錯覚を、招きかねないのではないか。
 通俗的な意味での心理学や脳学、早分かりとしての遺伝子工学など、その手の<権力>探しの「物語」には事欠かない。
しかし、そういった部分的な(神や力、あるいは死んだ犬への思慕や敬意といった)ファンタジーばかりでは、分散化された<権力>を世界像全体と取り違える中途半端な「愚かさ」しか生まれてこないのではないか、というきもする。
それは小泉首相が「タカ派」である、とか逆にヤングアダルトを好むオタクとは付き合いきれない、とかいう単純な批判と同様、もうこりごり。

 力とみえるものの中にも無力さをみ、無力さそれ自体の持つ力を感じるる視線の強靭さが必要だ。
 それは強く見えるものも実は弱い(弱く見えるものも実は頑張れる)、といった(実はつまらない二項対立に支えられ続けている)対立の解消の物語であってはなるまい。
そういう単純な物語に帰っていこうとする私を、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』も『バッファロー'66』も、ひきとめつづける。
 この違い。強いものも実は弱い(弱いものも実は強い)という「物語」と、それらを相対的に交換可能な分量として考えない「愚かさ」の違い。
この「物語」と「愚かさ」の差異を見続けていくかどうかが、取り返しのつかない戦争やいじめに対抗しつづけることができるかどうか、にもかかわっているような気がする。

宮沢賢治にしても、日蓮正宗国柱会の熱烈な信者だったから、あるいはボランティア農業指導者だったから、というだけではなく、どう切り取っても切り取りきれない愚かしい強靭さこそが尽きない魅力の源泉であったはずなのだし。

結局『考え、売ります。』の話にはならずじまいでした......。でもあっても悪くない1冊ですよ。

2001.4.18『バッファロー'66』ヴィンセント・ギャロの作品
 んー、これはもうどうしようもなくだめな中年にさしかかった男と、なんでお前馬鹿なんじゃないの?って感じの10代終わりぐらいのねーちゃんとの純愛映画だと思う。中身は要約するほどのこともない。チンケな賭けの借金から身代わり犯人に仕立て上げられて刑務所に入った男が出所する。
 親には見栄をはって(親に好かれたい、親を傷つけたくないという思いもある)仕事で遠くにいっていたことにしておこうとし、たまたますれ違った若い娘に強制して(強制といっても間抜けな脅迫の仕方だから、ねーちゃんがまともならすぐ逃げられる。誘拐強要されているみたいだけれど、実はどうもねーちゃんが男のゆうことをすすんで聞いているみたいな雰囲気もある)妻のふりをしろ、というところから映画がはじまる。
 んー、この映画はとっても素敵だった。この10日後に見た『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんかとも響きあう「愚かさ」が主題になってたりして。人はそんなに相対的な聡明さを求めてもしょーがないんだってのが瞬間的に心に響いてくる映画だと思う。どうバカになるか、が現代の主題なのかしら、と思いたくなる1作。ビデオ屋で借りる映画に迷ったら、ぜったい選んでほしい作品。物語派にはお勧めできないけれど。☆☆☆☆☆(最近見た中ではベスト)


2001.4.28『ダンサ・イン・ザ・ダーク』デンマーク映画 ラース・フォン・トリアー監督
 観終わったあとで、とっても腹が立った。いくら主人公がチェコからの移民で、遺伝の病いだとはいっても、こんなに主人公をいじめて何が楽しいんだよって感じがしたからだ。目が不自由だってのに、ミュージカルの主演しようとしてるし(アマチュアの劇団)、仕事はプレス作業だし、その病気が子供にも遺伝してるし、身よりはないし。もうこれでもか状態。しかも息子の目の手術のために溜めておいたお金が盗まれてしまうという......。勘弁してくれって感じである。カメラワークは、なんかドキュメンタリーっぽい感じもある。
 他方、この主人公は不幸の大看板を背負いつつも(あるいはそれゆえにこそ)、しょっちゅうミュージカルの主人公になって、どんなつらい現実でも夢想の中で楽しく世界を書き換えていく。せつなさがある閾値を超えると、素敵なミュージカルが始まるのだ。もちろん現実は、ぼーっと夢想するだけの主人公をさらに過酷なほうに導いていくのだからその夢想は現実的には無力どころか有害でさえあるのだが。
 というわけで、主人公は後半、さらにとんでもない災厄に巻き込まれていく。
 もう周りの人間も正気だったらなんとかしろよ!というかいくらなんでもそりゃないだろう、と何度も席を立ちたくなるほど不幸の連射が観客を襲う。
 先に見た知り合いの一人が、「私は初めて映画で泣いた」といっていたほど、どんな鈍い人でも泣くか、怒るかはするだろうと思う。私はどうにも腹が立った。何に腹がたったのだろう?主人公のおろかさ?周囲の無理解?ストーリーの強引なおろかさ?
 しかし、観終わった次の日に、『ザ・メキシカン』を見たさらにそのあとでは、断然『ダンサー〜』の印象が深く残っていた。
 人はその愚かさからたやすく自由にはなれないのだ。そういわれているような気がした。善や悪の役割が整然と与えられていればむしろ話は簡単だろう。ただ、無知や貧乏や、夢や愛、すれちがいや祈るような願い、それらの中で人は、相対的な聡明さなど役に立たない形で生き、そして死んでいくのではないか?ただ最後の歌を歌う寂しさから逃れるために、いつもこれは最後から二番目の歌なんだ、と自分にいいきかせながら。
 突然、そういう意味で北野武の『Brother』を思い出した。あの映画もそういう意味では愚かさの映画だったのだろう。
 しかし、同じ愚かさを撮るのであれば、『パーティー7』や『スナッチ』のようでありたい。そんな気がする。んー、語ってしまった。チンピラの美学から自由じゃない自分も逆照射されてしまいそうだなあ。★★★★★(見ると腹が立つけど、見たほうが絶対いい)


2001.4.29『ザ・メキシカン』ブラッド・ピット、ジュリア・ロバーツ主演
 同じブラピ主演の映画とはいえ、この『ザ・メキシカン』は、どこかテンポが悪く、趣向が生きていないと思った。たぶん理由はわかるような気がする。
ジュリア・ロバーツとブラッド・ピットの二人を出しているのに、それをきちんと使いきっていない。もしくはシナリオの物語性が二人と合わないのだ。
 途中で大仰に挿入される伝説の銃のモノクロシネマ的(というより中南米小説にあるような重層化された物語のにおいをねらった的)なシーンも、追っかけて主人公たちを追い詰めるべきテンポを壊す役割の方が大きくなってしまっている。こういう物語を挿入するなら、現実の方は現状の3倍以上シビアなテンポで刻んでいかなければ。『スナッチ』は最初の5分間ぐらいは、客がついてこれないぐらい場面展開を飛ばしている。もしかすると上映時間を切るための苦肉の策だったのかもしれないけれど、その初速は、観客に匕首を突きつけるような効果があった。それに対して、こちら『ザ・〜』の弛緩した立ち上がりはどうだろう?もう勘弁してほしい。
見に行ったお前がおろかだ、といわれればなるほどそうだろう。まだ見ていない人は、ぜひ別の映画をみるべきだと思う。いや、それでもブラピを見る、という人は、もちろん見に行くべきでしょうけれど。でも『スナッチ』がまだの人は、なんとかしてそちらを見てほしいものです。これは絶対に。
営業妨害にならないなら、絶対見るなといいたいタイプ

2001.4.23『スナッチ』ブラッド・ピット主演 監督名ガイ・リッチー
 なんというか、ロンドンを舞台として、宝石泥棒の話と、アンダーグラウンドの八百長ボクシング賭博の話が交錯し、ギャングとチンピラが入り乱れていくお話。ブラッド・ピットが主演とはいえ、前編ブラッド・ピットが出てきてその二枚目の魅力で見せる映画ではない。
 アイルランド系の設定なのだろう、ブラッド・ピットは流れ者のファミリーの一員で、しゃべる言葉自体アイルランド訛り(だと思う)がひどくて何をいっているのかわからない。私たちがわからないだけでなく、登場人物もブラッド・ピットの英語が聞き取れないのだ。その文化ギャップが一方でのエンジンにもなっているところが面白かった。メジャーの映画で、こういうことを小道具的(
物語の中心ではなく、状況エンジンとして)にきちんと使った映画はあまりみたことがなかった。しかも主役のブラッド・ピットのせりふが観客によくわからないというのは楽しいことじゃないだろうか。これは、パーティ7や鮫肌にも近いオフビートのノリがあるし、しかもイギリス映画っぽい階級性というか文化ギャップみたいなものもあるし、もちろんお話としても面白いし、なかなか良い映画でした。すくなくても同じブラッド・ピット主演の「ザ・メキシカン」よりはずっとできの良い映画だったと思います。
☆☆☆☆★

2001.3.22『マクベス』蜷川幸雄演出、 唐沢寿明・大竹しのぶ出演
 予習不足で第2幕の最初、貴族たちがいろいろやる場面で寝てしまった。シェイクスピアについてほとんど何も知らないのでコメントできないが、唐沢寿明のマクベスより、大竹しのぶのマクベス夫人の方が面白かったことだけは疑えない。『マクベス』じゃなくて『マクベス夫人』だったらよかったのに、と思った。そりゃむちゃな話かな?でも、大竹しのぶが舞台に出ているだけで、全然違うの。これは素人にも明らかに分かる。ある特別な舞台の俳優ってそういうことが絶対、あると思う。今の大竹しのぶは無敵だ、と思った。唐沢寿明は、彼のために書かれた『カノン』(野田秀樹作)の方がキャラの成長・変化が役者とぴったりしていて良かったような気がする。個人的には『Big』あたりがとっても好きだけれど。鈴木京香は逆に『カノン』は辛かった。
結論としては、野田秀樹演出、唐沢&大竹っていう芝居が観たいんだけどなあ。『パンドラの鐘』の時も思った。野田と大竹ってどうして離婚したんだろう......残念。

2001.3.22『Brother』北野武監督作品
 予芝居まで時間があるので、時間の合った映画館に入った。
 北野武の映画は、ビートたけしの暴力シーンにおける存在感がなんといっても大きい。それでいて無音の感じ。なぜかシーンが記憶に残るっていうこともある。物語じゃなくて絵というかシーンというか。ただ当然だろうけれど、イタリア系のマフィア(とくに前半)の描写は、どうだろう?いくらなんでもそりゃどう?チャチくない?って感じはあった。
そう驚かずに、眠くもならずに観ることのできる作品。時間があったら、どうぞ。☆☆☆★★


2001.3.20『パーティー7』石井克人監督 浅野忠信 主演
 地元でこの映画をやっていないので、高速をとばして福島まで行って見た。
 んー、面白かった。前回の『鮫肌男と桃尻女』の方が自分にとってはインパクトが大きかったけれど、これもなかなか。これは田舎のホテルからほとんど視点が動かずにそこだけでお話が展開する。そういえば前回も田舎のホテル+おっかけだった。追っかけの部分がさらにホテルに吹き溜まったのが本作。個人的には追っかけの部分のテンポの良さは前回の方が買える。
 一緒にいった演劇部の部長はこちらの方を推してましたが。☆☆☆★★

2001.3.20『サトラレ』
 『パーティー7』のついででこの映画を梯子。しかし、思ったよりは面白かった。「『サトラレ』だって人間です!」っていうどこかパロディっぽい鈴木京香のセリフも悪くない。無人島の場面で一緒にいった奴はケイゾクの映画の話しをしていた。見ていないので不明。八千草薫が出ていたのも個人的に良かった(笑)。祖母八千草薫をクライマックスのところでもっと使っても良かったのではないか。そのベクトルが鈴木京香と寺尾聡の3人に分割されてしまった恨みが残る。こういうばかばかしい話は、最後の収斂度がすべて。収斂度が無限大になるかゼロになるかは別として、ね。そういう意味では今日みた二つの映画は共通している面があるかもしれない。エンタテインメントとしても(観るのが)切なくならずに済むレベルに仕上がっていると思います。クロス・ファイアとかはちょっとなあ、ってかんじあったからねえ。ホワイト・アウトあたりが境界線かなあ。でもこの感じは、ミュージカルのシーンと同じような気もします。昔劇団四季のミュージカルを観たとき、どうしても恥ずかしいなあという感じが残ったのに、今は『レ・ミゼ』でも『ライオン・キング』でも本当にすてきな感じがするようになった。成熟してきたってことかもしれない。興業として未来が明るいのかどうかは全然分からないけれど、日本の映画も良くなってると思う。ガメラ3あたりもちょっと感じたけれどね。期待したいものです。がんばれ、日本映画!



2001.3.19
『デルフィニア戦記シリーズ1〜18』茅田砂胡 
 本の雑誌で最近のおもしろい本の紹介で一押しだったので買ってみました。おもしろい!!!これはほんとにお勧めです。王国ファンタジー剣士もの。とにかく読んでみるといいです。三国志とかにも近いかな。まだ3巻目ですが、いや、次を注文せねば!

2001.2.24
『ミトコンドリアと生きる』瀬名秀明・太田成男 角川oneテーマ21(新書です)
 今読んでいるところです。丁寧に書いてあるので、専門的な記述もあるけれど自然とついていけます。瀬名秀明の『八月の博物館』はまだ読み始めたばかりでコメントできるところまで進んでいません。そちらはとりあえず中断してこれをぼちぼち読んでいます。というか『八月〜』は時間のあるときに読まないと勿体なくて。☆☆☆★★ぐらいかな。細胞の中でミトコンドリアと核が共生している様子がよく分かるし、それを軸にしながら細胞やDNAの話もすんなり入ってきます。


2001.2.14
『悪問だらけの大学入試』丹羽健夫(河合塾教育本部長)集英社新書 
 河合塾が大学入試問題の作成を請け負います、という新聞記事が出て驚いたことがある。この本は、そういうことになった経緯というか、前提となる分析を中心に据えて、大学入試を予備校から観たときに開けてくる教育への視点を示したもの。
 おもしろいです。次に触れる『ついていく父親』とは違った意味で、おもしろい。今、大学が出す問題を、面と向かって批判・批評できるのは、私は代ゼミ・ベネッセではなく河合塾だと感じています(センター問題などの分析速報などをウォッチしていると、模擬試験の問題も、現状追認というのではなく、どう教えていくか、その過程で生徒に問いかけるべきことは何か、という視点が感じられます(いずれも国語に関してだけのことですが)。
 現況報告的で、深め方には不満も残るけれど、どうしようかな、と迷ったら読んでも損のない1冊。☆☆☆★★ぐらいでしょうか。


2001.2.13
『ついていく父親』芹沢俊介 新潮社
 教育問題を扱った本です。
 重松清の小説と芹沢俊介の批評が、子供と親との関係では、ここしばらく読んだ本の中ではもっとも印象に残っています。重松清については他の本の紹介でも書いているのでまた別に。
 芹沢俊介という人は、私は高校の教科書で改めて出会いました。「イノセントが壊れるとき」というエッセイです。このエッセイについては、京都大の大澤真幸も、河合出版の「MD現代文」の中の講演で触れていましたので、とりあえずはそちらを観てもらった方が分かるかもしれません。
 とっても早わかりでいうと、人は自分がイノセントであることを認めて欲しい。そして逆説的なことに、自分のイノセンスが承認されて初めて、そのイノセントワールド(=子供であること)を壊すことができるっていう話なんです。まず、人(子供)は、イノセントであることを他者から承認される。そのことによって逆に、不自由な、現実に囚われた自分(大人の自己)というものを<選び直す>ことができるっていうのです。
 このあたりがいいんだなあ。ポイントを実によくついていると思う。いくら他者に「おまえの責任だ」って言われても責任はとれないっていうんですよ。逆に、自分自身のイノセンスを承認されて初めて、自分からその子供であること=イノセントであることを手放せる。そして目の前の現実に自ら囚われていることを、自分自身の手で選び直すことができる。大人になれる。
つまり、まずはじめにイノセンスの承認があると、その後で初めて選べないことを、人は選び直すことができるようになるっていう話なんですけどね。
んー、そういうことが書いてあるのは「イノセントが壊れるとき」で、そういった考え方の上に立って、父は子供に「ついていく」という話が展開されていくのです。ついていくというより、その場にきちんと立ちつづけるって感じの方が近いでしょうか。
子供から親へ。

直接関係ないけど(でも関わりはあるとおもうんですけど)そういえば私(島貫)自身、子供が小さいころよく彼に言って聞かせたことがあります。
「父親っていうのは、子供より後に生まれてくるんだ。おまえが生まれるまでは、お父さんが子供だったんだよ。おまえが生まれたことによって、はじめてお父さんは「お父さん」になった。おまえはおれの産みの子供なんだ」って。
そのあたりのことを本当に丁寧に書いてくれています。凡百の教育書より沁みます。よろしかったらぜひ。店頭に並んでいなければ注文してみる価値はあると思います。でも教育書も小説と同じで好みがありますから(^^;)、あわなかったらあしからず。お勧め☆☆☆☆☆本であります。
今は国公立の二次小論文対策の真っ最中なので、生徒に貸し出し中のため、本文についてあまり書けないのですが。

2001.2.12
『不平等社会日本』さよなら総中流 佐藤俊樹 中公新書
 以前
『大衆教育社会のゆくえ』刈谷剛彦 中公新書
『日本のメリトクラシー』竹内洋 東大出版会
の2冊を紹介したことがあります旧メディア日記にありますのでよろしかったらみてください)。
 この本はそれと一緒に読むとさらにいいような気がします。参考文献リスト(P204〜P208)も手に入りやすい本を中心に充実しています。(上の2冊ももちろん紹介されています)
特徴的なのは、SSM調査という、「社会階層と社会移動全国調査」継続的なデータ蓄積に基づいて、それについての説明や統計に関わる解説をふまえて論じてくれているところでしょう。これはいけます。素人にとってもおもしろい本でした。
よろしかったらいかがでしょう?全く新しい知見だらけ、というわけではありませんけれど。

2001.2.11
『レ・ミゼラブル』加賀丈史、村井国男、岩崎宏美、吉田美奈子、大浦みずきの組み合わせで
 3度目のレ・ミゼ(ソワレは2度目)でした。んー、すごい。誰がすごいというより、完成度というか密度が高まっているのが実感できます。芝居は普通なかなか最近再演を観ることが難しいのが実状(とくにストレートプレイは)。でもミュージカル、とくにこのレ・ミゼはもう日本でも10年以上続いている名作中の名作ですよね。前回よりずっと深まっている感じがしました。村井国男のジャベールがまた熱演だったし、加賀丈史のジャン・バルジャンもセリフが今ひとつ不鮮明だった以外は良かったし(やっぱりジャン・バルジャンは痩せていた方がいいですよねえ)。岩崎宏美さんは、声の良さ以上にむしろ抑制の利いた演技の方により惹かれました。うまくなってる!(ってプロにそれは失礼なんだろうけれど、こちらも繰り返し観ているからそれが見えるわけで)
 千秋楽もすでに終わって今回の公演は終了済みですが、また上演されたら行くんだろうなあ。
 でも来月はとりあえずマクベス!その前に「パーティーセブン」だけは見逃せない......。

2001.2.07
『ジャンプ』佐藤正午 光文社 1700円+税
 佐藤正午は、恋愛小説の語り口がうまい。どうにもならない、しょうもない男の心情を描くのがうまい。小説だから好き嫌いはもちろん出てくるわけだけれど、私はこの語り口なら、ずっと聞いていたい方である。以前は村上春樹もそうだったのだが......。
 最後に謎が解けたときには、謎自体はもう重要でさえなくなっている、という感じもまた、いい。そう。分かったときにはもう終わってるんじゃん。恋愛ってそーゆーもんじゃん、っていう感じがいい。わかりゃしないし、わかったときはどうにもならないし、わかっていたからどうにかなったかといわれれば、どうだろう?そのどうにもならなさをなぞっていきる以外に生きることってありえるの?......
 という人生における比較的しょうもない部分の感覚がうまい。

 というわけで、個人的には、そんなに大傑作とは思わないけれど、んーやっぱり次も出たら買うだろうな的にはよかったです。

************************************************************************************************************
12月と1月はセンター試験&二次対策などでばたばたしていました。尚文出版・ベネッセ・青本・黒本・Z会本・学研のセンター直前問題集、各社模擬試験&トレーニング問題などなど、活字を追ってはいても、まとまった作品はほとんど読まずじまい。その後の二次対策では、慶応大法の3年分に金沢大の2年分、岩手県立大の総合政策に福島大の行政社会学部の3年分(前後期併せて)、横浜国立の学校教育系と共生社会系、千葉大、兵庫教育大、山形大医学部&人文などなど、小論文の課題文(今の小論文はほとんどが文章を読ませて読解&意見という形です)と生徒の小論文を日々読み続けていました。ふう〜〜っ。
佐江衆一と重松清が小説の中では印象に残りました。いずれも駿台予備校のセンター用問題集(いわゆる青本)の中にあった小説です。
重松清は『逆上がりの神様』がとられていました。これは絶対高校入試にも大学入試にも出そうな本です(『日曜日の夕刊』という短編集に入っています)。昨年どこかの高校入試には出たそうですね。今年も出そうな感じだなあ。
ただし大学入試は小説を出すところ自体が本当に少ないんですけどね。
そんなこんなでやくざな生活を過ごしていました。
************************************************************************************************************


2000.11.30
『ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像』−学者の冒険− 岩田昌征 御茶ノ水書房 2800円
 欧米メディアに偏った情報像を糺す、と腰巻き惹句にもあるように、悪玉セルビア勢力という欧米メディアのラベリングの」偏向を再検証する形になっている本だ。NHKが先日特集で報道したボスニア・ヘルツェゴビナの情報戦略と呼応して、ヨーロッパが何を求めて明石康を担ぎ出そうとしたかといったところにもふれている。当初のスケジュールでいえばNATOの空爆決定(今はその妥当性がかなり批判的に検証されはじめているようだが)は、明石康が国連事務総長特別代表が代表である時期になされるはずだった。ところが、明石代表がYesをどうしても言わないため、空爆承認権限を奪われ、その直後空爆開始となったのである。果たして「民族浄化」がセルビア勢力の悪行としてだけ喧伝されたことが妥当だったのか、といえばはなはだ疑問であると言わねばならない。ところが、イラクの代わりに今度は悪の帝国が情報戦で作られたという側面がどうもありそうだ。
 それはNHKの特集でも述べられていた。
 しかし、岩田はさらにその先を問題にする。欧米のタブルスタンダードは、中学生でも説明すれば分かる。問題はヨーロッパが、たとえばセルビア空爆という決断によって、何を守り、どんなことを実現しようとしているのか、だ、というのである。多民族国家内部の民族紛争に片方だけが持つ絶対的正義などありそうもない。にもかかわらず一方を排し、他方を持ち上げるカトリック・プロテスタント文明の目指す普遍価値の行方にもっと注目すべきだろう、と。
 単純にことの当否を決めつけることはできない。考え抜いていく必要がある。そのためには、情報がどうしても必要だ。情報とその情報価値の判断を同時に手にしながらねばり強く考え続けていくこと。
 この本は『異文化理解の倫理に向けて』名古屋大学出版会の中の参考文献から見つけて注文した本である。
 んー、やっぱり『異文化理解〜』は名著だ。

2000.11.30
『フェミニズムのパラドックス』江原由美子
 久しぶりにフェミニズムの本を読みました。『東大で上野にケンカを学ぶ』がフェミニズム本といえるなら今年2冊目ってことになるでしょうか。
 今年度で終了する女子高教員の島貫(来年度から勤務校が共学になるのです)としてはいろいろ感慨深い作品でした。これも風邪で寝ている勢いで読了。久しぶりにフェミニズムの本を読みました。80年代半ばは、上野千鶴子がわたしにとってのヒーローじゃないヒロイン?んー違うなあ、とにかくカッコイー対象だったので、江原の目配りがきいた説明(昔からそういう感じもあったけれど)の落ち着きぶりが逆に印象的でした。でもこのジェンダー論のまとめは、さまざまな日常のなかで議論がなぜすれ違っていくか、ということを考える上では大変重要な視点だと思う。
 丸山真男論については、授業で参考資料として使ってもいい感じ。こっちの方が丸山真男本人の文章よりも、生徒の腑に落ちるんじゃないか、とも感じた。
 まだ人は自由と不自由の取り違えをし続けていると思うし、それは日本人だからとかアメリカ人だからとかいったことでは(当然のことながら男だから女だからといったことでも)終われないちょっとややこしい問題設定を要求すると思う。
しかし、避けては通れない。自己定義力と状況定義力の関係(個人と権力といった単語を使うとそれがとたんに実体化するからなあ。男と女もそうだけどさ。)っていろいろややこしいところをくぐり抜けて思考を鍛えないとどうしようもないと思う。『ユーゴスラヴィア 多民族戦争の情報像』で岩田昌征がふれていること(明石という日本人が、ユーゴのNATO空爆になかなかOKを出さなかったことの意義の大きさ)とも響き合ってきそうだ。
 簡単な二項対立やその二重化程度では現状は見えてこない。
 自分の姿も、相手の姿も。
 情報公開と情報戦略、その速度・量・質・幅...etc...語られ方自体のうちに
孕まれている視点。
 他者と出会う痛みや別れの悲しみさえが、喜びになりえるという「演劇」や「小説」の幸福をあらためて感じたりもした。

 人は存在しないものしか欲望できない。あるものはほしがれないのだ。欠如を埋めてしまえばただ何もない埋め立て地が残るだけだろう。しかし、欠如を欠如のまま、それを存在(過剰)として指し示し、他者に差し出すことは容易なことではない。高校演劇の感想に書いたことが、ここにも当てはまるような気がする。フェミニズムの困難は、どこかでそのような表現者の困難とつながっているのではないか?そんなことも考えさせられた。

2000.11.30
『龍馬の妻とその夫とその愛人』東京ボードヴィルショー 三谷幸喜作 於平市民会館
 佐藤B作が平田満を招いて三谷幸喜の上演となれば、観なければなりません。退会して久しい演劇鑑賞会に再入会。
 思い出してみると、前回演劇鑑賞会に入会したのは井上ひさしの『国語元年』を観るためでした。おもしろい芝居はとにかくおもしろいですから。
で、感想です。前回東京ボードヴィルショーを観たのもおなじ三谷作品の『アパッチ砦の攻防』でした。この芝居は、劇場であんなに笑ったことはないというぐらい膝を叩いて体を折って笑いました。
 今回の『龍馬〜』は『アパッチ〜』に比べると柄の小さい(三谷本人も言っていますが)芝居でした。場面転換もなし。暗転が間に1回だけかな?でも役者と本の力で2時間を魅せる、とっても大変なものだと思います。爆発的なおかしさは感じませんでしたが、観てよかったあ〜と感じられるものでした。わけても平田満の「たよりない」演技は本当に凄い。さわやかな頼りなさが見事に演出されていてメチャメチャ軟弱な「夫」なのにその純愛がしみてくるものでした。佐藤B作は体を張っていつものように舞台を飛び回って座長らしい汗をかいていました。これも凄いなあ。
あめくみちこのおりょう役は、とっても難しいものだと思います。これは演出の課題なのか本の課題なのか分かりませんし、佐渡稔とのバランスなのかもしれませんが、存在しない龍馬を愛しているということは十分伝わってきたのに比して、存在しない龍馬が彼女をとらえ続けている理由、もしくは存在しない龍馬が彼女の虜になっていた理由が十分伝わって来ませんでした。坂本龍馬という史実を超えてしまった龍馬像が出てこないため、全体が坂本龍馬という額縁の中のエピソードになってしまっているような気がします。
今ここにいる松兵衛(おりょうと結婚した軟弱夫、平田満の役です)が、龍馬と出会う瞬間をきちんと出せたら良かったのになあ、という思いが残りました。
 役者として登場しない人物をめぐる芝居の場合、その不在の人物の磁場と現実に登場する役者たちがどう係わるかは、とっても大きなポイントですよね。この芝居はとってもおもしろい要素を含んでいると思うから、ぜひ再演してほしいです。再演によってもっと可能性がいろいろ出てくるような気が、します。
逆に、もっと短くするという手もあるかもしれません。あめくみちこが崩れ落ちる一瞬、そして夫が彼女を逃がす一瞬は、二時間の芝居を支えるほどの逆転にはなっていない。芝居的カタルシスを背負いきれるものになっていない。そういう意図ではない、とするなら、くずれおちる演出に疑問が残ります。崩れ落ちるならカタルシスを与えてほしいし、ずらす演出を取るならあっさりとおりすぎてほしい。
そういう意味で、今年初めにみた『奇跡の人』のクライマックスで、サリバン先生(大竹しのぶ)が、ヘレン・ケラー(菅野美穂)が言語を「発見」した瞬間、抱き合って喜ぶのではなく、舞台袖に取り残されてライトからさえはずされてしまう演出は良かったなあ、と思いました。
取り残されるならきちんと取り残されていいのだと思う。出会うならきちんと出会えばいいのだし。
どこかで人は出会いたい。
芝居はやはり、その出会い(相互理解とは対極であってかまわないから)と別れを魅せてほしい。
いろいろ書いたけれど、おもしろかったです。さすがプロ、ですね。平田満の松兵衛は、忘れられない役になりそうです。


2000.11.30
『福島県のいわき地区大会&県大会高校演劇コンクールを見て』
 学校体育の限界→社会体育への移行が叫ばれて久しいが、私たちの生活の中でスポーツがどれだけ非学校的に定着しているのか?ということが課題となるだろう。すべてのオプションが社会に受け入れられ、残っていくわけでもないのだから。
 演劇もまた、同様の課題を抱えているのかもしれない。芝居は私たちの生活の中にどれだけ根を下ろしているのか?
 正直なところ、高校生がメディアに支払える金額はたかがしれている。一流の音楽家のS席や芝居の席などは手が届かない。
 映画の1500円、PHSの数千円、数百円の文庫本とレンタルCD、ただのTVぐらいがいいところだろう。
 と、いろいろ愚痴みたいなことを書いたが、にもかかわらず、高校演劇はびっくりするほどおもしろいものが中にある。
 いろいろ考えさせられることがあった。
 顧問が作・演出をしているところは破綻がなく、うまい。
(たとえば福島県立小名浜高校「シャドー・ボクシング」福島県立石川高校「無伴奏のセロ」。いずれも県大会を抜けて12月の東北大会に出場)
 プロが作・演出をしている場合、うまいのは当たり前だ。そしての当たり前がどれだけ緻密に演出・構成され、訓練されているのかを前二つと比較すると卒倒しそうになる。
 けれど、最後に人の心の扉を押すのは、必ずしも顧問やプロの芝居とは限らない。どうにもめちゃめちゃな筋の芝居の1シーンだったりもする。
 その高校生の劇団に「それでいい」とは誰も言えないだろう。もうちょっとなんとかしてくれよ、といいたくなる。1時間座って見ているのは苦痛だ。
 うまい芝居の方がいいに決まっている。でも、その下手な芝居の中にあるあるキャラクターあるせりふ、ある身振りの破天荒さを保ちつづけるのは、うまくなることよりも難しい。
 先々週、山形大の文芸学の先生(たぶん同級生ぐらい)と話す機会があったとき、彼も同じようなことを言っていた。おもしろくて形にならない論文を書く学生はけっこういる。でもそのままじゃ学会に出せない。形を整えようと指導すると、ほとんど必ずおもしろさが逃げていく……というのだ。
 その説明しようとすると逃げていくおもしろさのようなものを、語るのではなく作品において示す力がほしい、とけっこう切実に思った。
 下手な高校演劇に欠けているものはもちろん役者の技量だったり演出術だったりするのだけれど、どうにも格好のつかないえらいものを舞台に上げてしまった、という格好のつかなさは、あまり簡単に卒業してほしくはない。
 人は存在しないものしか欲望できない。あるものはほしがれないのだ。欠如を埋めてしまえばただ何もない埋め立て地が残るだけだろう。しかし、欠如を欠如のまま、それを存在(過剰)として指し示し、他者に差し出すことは容易なことではない。
 
 たぶん芝居はとっても壊れやすいものだと思う。でも、それだけにそこに芝居が成立したときの魅力はあらがいがたいものがあるとも思う。
 もう少し、高校演劇とつきあってみたい。

2000.11.3
『NHKスペシャル』(ボスニアの情報戦について
 先週、NHKの特集番組で、ボスニア・ヘルツェゴビナが、セルビアを情報戦で制し、セルビアを国連から追放してしまうまでの経緯をドキュメンタリーとして描いていた。
ボスニアの外相が単身アメリカに入国し、ルーダー・フィン社という情報コンサルタント企業にセルビアの窮状を世界に、なかんずくアメリカ政府に説得的に訴えるための契約を結ぶ。
その結果、ボスニアは「民族浄化」という新しい言葉によって終始情報戦をリードしてセルビアを追いつめていったのだ。
 いろいろと考えさせられる番組だった。おそらく、内戦というか戦争である以上、どちらの陣営にも残虐な行為、報道されれば許されない類の行為はあったにちがいない。その後の調査でもそれらしい証拠は出てきている。
しかし、1990年代前半においてボスニアが勝利してしまった現実の中で世界は動いていく。
 情報戦略の重要性は、ますます強まっているとしたら?
 私たちの生活とは無縁のことだ、とはとうてい思えない。
 このことについてはずっと考えていかなければ、と思う。

2000.10.20
『五条霊戦記』浅野忠信 隆大介 主演映画
 殺陣が長い!浅野と隆の顔は一生忘れないかもしれない!
 ただ、お話としては<寝て>しまいました。いささか長い。
 でも、映画は<寝て>しまったから面白くないということでもなかったりする。
 つまらなくて寝る映画もあるけれど、これは必ずしもそうでもないような気がする。


2000.9.27(Wed.)
『あやし 怪』宮部みゆき 角川書店
 出張で電車往復4時間載っていたので、本を二冊やっつけてしまいました。宮部みゆきの『あやし』。
 んー、宮部みゆきが嫌いでない人は、今すぐ夜でも朝でも本屋さんにGo!もしくはクリック!
 『本所深川〜』も良かったけれど、これも傑作です。宮部みゆきはまあおもしろいね、ってだけ言う人もいるけれど、私にとっては他人事ではないおもしろさです。これは世界の見方がたぶん「まあおもしろい」という人とは根本的に違うのだろうと思っています。私にとっては宮部みゆきと同時代を生きていることは、池波正太郎の本が文庫でたくさん読めるのと同じぐらいに大切な事実です。怪談というにはあまりに悲しく優しく、切ない物語です。甘いといえば甘い。浅田次郎や東野圭吾、天童荒太ほど徹底的な感じはしないかもしれない。でも。
 『天狗風』の後半の失速を補ってあまりある緊張感。ぜひ!
 私にとっての小説的エンタテインメントはこれです、と言えるのが目下のところ宮部みゆきです。

2000.9.27(Wed.)
『川の深さは』福井晴敏 講談社
 『亡国のイージス』の前に書かれた国家戦略もの。『亡国のイージス』の圧倒的世界に比べると、と書こうとして、しかしそれは間違っていると思った。『亡国のイージス』はやはり90年代後半の日本が誇る戦略ものの大傑作である。そういうものと比べてはいけない。十分面白かったです。もっと書き込めるなあ、というところはたくさんあります。甘くなく書き得るのに......とちょっと勿体ない感じもします。贅沢といえば贅沢かもしれません。
 でも、そんな評論家めいたことを言いたくなるのは、『亡国〜』が良すぎるからです。この作品もそんなに悪くはありません。
 読む本に迷ったら、買ってもよい一冊だと思います。


2000.9.24(Sun.)
『ハリーポッターと秘密の部屋』J・K・ローリング 静山社
 読みました。やはり十分楽しませてもらいました。唯一心残りがあるとするなら、今年の早い時期に英語本を買っていたのに1/4も読まないうちに訳が出て、そちらで読み終えてしまったということでしょうか。
 「選ぶこと」の意味を校長せんせが語る結末近くの部分はやっぱりいいですねえ。
 物語の展開そのものはまだまだ序の口だったりします。スターウォーズのエピソード1ほどやらずぶったくりじゃありませんからまだの方は安心してどうぞ。本当の評価は7巻通してから、だと私は思っています。
 とりあえず面白いのは間違いない!まだの方はぜひ。
 それから、アメリカ版、イギリス版と購入していますが、日本の表紙はもしかするとこのシリーズの中で世界一かもしれません。一巻目も二巻目も米英版とは全く比較にならない美しさです!静山社という小さな出版社からの本だけあって、大切にされているなあ、とそういう意味でも幸せな気分になれました。


2000.9.20(Wed.)
『悪の対話術』福田和也 講談社現代新書
『江藤淳という人』福田和也 新潮社
 江藤淳が亡くなってもう1年近くになるのだろうか。その弟子を自認する福田和也が追悼文集を出した(題名失念「江藤淳と私」かな?)。その本をまず読み終えたのだが、切なくなるかな、と思って同じ書き手の軽い本を1冊一緒に購入。どちらも意外に面白かった。思ったより上品な人だった、と感想を言ったら、同僚にそりゃ貴方がガキ過ぎるとでも言いたげに大笑いされた。もっとわざとめちゃくちゃを言う書き手なのかと思っていたのでちょっと意外だった。
 花田清輝とか小林秀雄とかの文章は、読んでいてちゃんとこちらがよく分からない時がある。読解力の問題もあるのだろう。吉本隆明の文章も、どこから発話されているのかちっともぴんとこないことも少なくない(分かるときもないではないけれど、ね。つまり柄谷行人を読んでいるときのようにはいかない、ということです)。
 福田和也もそうかなあ、と思ったら、そうではなかった。江藤淳の文章も、どこから発話されているのかよく見えないところがあったけれど、福田の文章を読んで目からうろこの部分がかなりあった。私はたぶん江藤淳とは遠いところにいるので、言っていることは分かっても、どうしてそういわなければならないのか、が時々分からないことがあった。それを間近なところから見ていた人が書いてくれると、ちょっとほっとする。
 それを読んで気軽に分かったつもりになるのは慎むべき、とも思う。とりわけ亡くなってまだ間もないのに、勝手に決めつけるのはためらわれる。それだけに、ありがたかった。
 『悪の〜』はこんな風によく書けるなあと感心した。読者を選ぶ身振りから始めるのも楽しい。ただ切り捨てるのではなく、相手にそれとわかるように上手に、品よく侮辱する感じは悪くない。
 ただ、こんな風に書いてしまうのかあ、というのはもちろん残る。それは江藤淳について書かれたものについても同様に感じる。まだ十分に整理できていないが、私はこういう風には書けないし、書かないだろうとも思った。表現することの困難、対話の底にある孤独の共有について著者と響き合うものを感じつつも。
でも、二冊、とても読みやすく一気に読了しました。ただし他人に薦めるほど自分の趣味に近い本ではないです。

2000.9.19(Tue.)
『風化水脈』大沢在昌
 新宿鮫シリーズの最新刊です。出版社は同僚に本を貸し出してしまったので不明。でも本屋さんにはだいたい平積みで置いてあるでしょう。新宿鮫を最初に手に取って読み始めたときの衝撃は、今でも容易に思い出すことができます。そしてその二作目(題名忘れたけれど外国からきた殺し屋が出てくるやつです)がさらに高速ノベルになって戻ってきたときの驚き。それからとにかく新宿鮫は身銭を切って買うシリーズになりました。今回はわりと地味に話しが展開していきます。そんなにはらはらどきどきするわけでもない。でも、地味目の感じが必ずしも悪くなかったです。鮫の活躍というところから見ようとすると物足りないかな。でもこういう作品は、一緒に年を取っていくのが楽しみみたいな部分ももう出てきているから。
 でも、まだ未読の読者の人にとっても、読んで損はないシリーズの1冊だと思います。読む本に迷ったら、ぜひ。


2000.9.10(Sun.)
『思考の臨界』齋藤慶典 勁草書房
 週刊『読書人』で永井均が推薦していたので注文してみました。
 今まで考えていたこと、読んでいたことを、こんな風に明快に整理してくれる本が現れるとは!
 世代的に近い書き手がどんどん出てきた、と思うべきなのかもしれないですね。
 最近それをとても強く感じるようになりました。ここ数年はこういう感覚が続くのかなあ。
 内容は、超越論的自己について、それについてだけ徹底的に思考しつづけている本です。
 フッサールとデリダとメルロ・ポンティを並べて、現象学的還元と差延を間主観性を響き合わせてくれるなんて、なんて楽しい本でしょうか。ヴィトゲンシュタインとニーチェは永井均に任せるとしても。
 それが、私のような素人にも、とっても楽しく読めるように書いていてくれるのです。
 ぜひお勧めしたいのですが、お勧めするべき人がどこにいるのかちょっと分からないのが切ないです。
 小説とか物語なら誰にでも勧められるのでしょうけれど。
 でも、絶対お勧め本です。
 こういう本は、久しぶりかも。本はやっぱり買ってみないと分かりません。



2000.8.30(Wed.)
『教育における経済合理性』JMMVol.8 村上龍編集長
 村上龍が編集長になって日刊配信されているメールマガジンのムック。
 メールは取ってあるのですが、本の方が閲覧性がいいので買ってしまいました。
 教育を「経済合理性」という切り口で見直そうというその視点、賛成に1票。
 ここに答えがあるわけではなく、今までの文脈ではなく教育(つまりは日本の現実)を語ろうというスタイルが気に入っています。
 教育に関心のある人にはぜひお勧めしたい1冊。
 教育は教育の内部からだけ「愛」を語るみたいに語られていては見えてこないことが多すぎると思う。そういう意味では、旧メディア日記に紹介した刈谷という人の『大衆教育社会の行方』という中公新書も魅力的な視点を与えてくれます。


2000.8.30(Wed.)
『TAXI2』現在上映中のフランスコメディ映画。
 これは友人に勧められて劇場に見に行った映画なのですが、どうにも可笑しい映画でした。
 今日も思い出して笑ってしまいました。タクシードライバーと地元の警察署が主人公となり、フランスに訪問してきた日本の高官を護衛することになった彼らのドタバタが描かれる話しという程度の筋しかありません。
 でもなんだか可笑しいのです。最新鋭の(プジョーかなああれは)護衛のための車が音声認識システムを搭載していて、始動のかけ声が『ニンジャー』で、ストップが長官という意味の『ニヤック』、そこに忍者姿の日本のやくざが長官を襲ってきて、車が動いたり止まったりするなんていう小さなギャグも、それがとっても可笑しいというより、不思議なオフビートのテンポがじわじわ面白くなってくるという感じなのです。

 でも、不思議なものをみた満足感を味わって映画館を出ました。だんだん面白くなる映画ですね。
 最近、最初はへんだと思っているのに、あとから聞いてくるっていうものが気に入っています。
 時間が1時間40分程度っていうのもいい。
 結末が尻窄みなのはとっても残念。傑作になるチャンスを逃したような気がします。
 でも、これでいいのかなあ。

2000.8.30(Wed.)
『バトル・ロワイヤル』
 この秋、深作欣二監督作品として映画化される予定の問題本。
 日本が成功したファシズムの準鎖国国家として現代も存在しつづけている、という設定。その国では毎年、全国の中学3年のうち、1クラスを任意に選び、その40人のクラス全員を島に移動させ、最後の1人になるまで殺し合いをさせ、それを全国に報道するというイベントが続けられていた……。と、そこまで聞いただけで39人も中学生が殺し合った結果死んでしまう作品なんてゲテモノ、誰が読むか!と言いたくなりませんか?
 私は去年出版されたとき、そう思って本棚から取ったこの本を、ぱらぱらめくって戻してしまった記憶があります。
 けれど、今回高校3年生に薦められて読んでみたら、これが、いかにして人は孤独を超えて出逢い得るか、という主題に支えられた「愛」=「出会い」が主題だったのですね。とても切ない話しだったけれど、グロテスクではありませんでした。死んでいく30数名のキャラクターが、きちんと描かれている。説明ではなく、描写で1300枚が進行する、そのパワーは否定できないものでした。類型から典型へ、と完全に全ての登場人物が昇華されているわけではないけれど、日本の小説ではあまり感じないような、ターミネーターを観ているドキドキみたいなものもありましたし。
 個人的にはこの本をたくさんの人に読んでもらいたいと思います。私は<愛>について描かれた作品(物語ではなく)だと思って読みましたが、感想を聞かせてほしいなあ、と感じています。
学校に勤めているということが自分にとって他人事でなく感じられた、ってこともあるのかもしれません。
 秋の夜長、刺激を厭わない人にはぜひ。スプラッターやホラー、あるいはサディスティックな話し(設定から予想されるほど)ではありません。


2000.8.22(Tue.)
『教養としての大学受験国語』石原千秋 ちくま新書
 ちくま新書では西研が書いた小論文の本が面白かった記憶がある。この漱石研究者(成城大学文芸学部の教授らしい)の書いた参考書というか国語の受験問題評論というべきか、が面白かった。
 ただし、このおもしろさは、現在進学校で3年の現代文を受け持っている40代の高校教師だから面白かった、という面があるかもしれない。そうでないのかもしれない。とりあえず、それを客観的に観ている暇がない、というのが実状でもあったりする。
 ともあれ、この同世代の主題者側から見た受験問題についての認識と、問題を解く生徒たちを教える側からみた受験問題についての認識がきちんと出会った、という喜びが大きかった。私としてはこの夏「ハマッた」本の一つに数えられる。
 大学受験問題を解いていると、明らかな傾向性が感じられる。それは近代という枠組みを前提として、それを批判しつつ現代の構造を解析しようとする文章がたくさん出ているという点だ。小論文の課題文でも事情は変わらない。
 そのあたりの見取り図を入試問題を批評しながら一緒に遊んでくれる本としては、自分が授業をやっている視点にとても近いものを感じた。たぶん予備校の授業なども、このあたりでやっているのだろうな、なんても思わせられる。
 共犯者のよろこびってところもあるかもしれない。
 ともあれ、これは売れる本だと思う。課外で生徒に一押しした「異文化理解の倫理にむけて」とは全く違った意味で、これもまた現代を受け止めてフィールドワークしている本には違いないから。大学の受験問題という徒花(あだばな)の分析であり、関心のない人にとってはばかげた話しに過ぎないのだけれど(^^;)。

2000.8.20(Sun.)
『ホワイトアウト』織田裕二主演 日本ヘラルド・東宝作品
 初日に見に行ってきました。日本映画としてはよくやっているのではないかしら、というのは誉め言葉にならないかなあ。
 真保裕一の原作をこの冬に読んだのは以前ここにも書きました。おもしろかった!夏はこの映画の出来をみなくちゃ、とも思いました。
 で、期待していったのですが、私としてはけっこう楽しめました。
ただし、描写じゃなく説明が続くので(これは監督のせいでなければ誰のせいだろう?)、それがイヤになっちゃうともうダメかもしれません。同じことは『クロスファイア』の映画版にも感じました。
 ストーリーをちゃんとなぞるにしてもなぞらないにしても、ストーリーの持つアクションと、映画の画面のもつ動きとは文法がたぶん違うはずなんですよね。それがストーリーの説明のために映画の動きが使われるのは納得いかない。もっと訳が分からなくたっていいのに、と思う。
たとえば松嶋菜々子の「あの人は来ない」というせりふ(事件が始まるとすぐつぶやく)一つにしても、織田裕二の最初逃げ回る姿にしても、役者のフィクションが立ち上がらなくているのに、そのセリフや身振りでフィクションの代用をしてしまっているような気がしてしょーがない。
 とにかく、主人公が嫌いだっていう彼女自身の渦巻き、びびっている普通の電力社員が立ち上がるようになんとかしてほしい。表現にするには、単に普通じゃない「普通」が必要なんだけどなあ。10倍ぐらいパワフルな(もしくは10倍ぐらい空虚な)普通じゃないと「普通」に映らない。どちらも普通が力不足。普通が力不足だと異常が空絵事になっちゃう。当たり前の話しですが、今演劇でそれが悩みなので、ついついそういうことを重ねて感じてしまいました。
……というような不満は随所にあるけれど、『アルマゲドン』のワッペンと同じ程度には最後ちょっと泣かせてもらったので、いいことにします。
夏の暑い時に雪山のダムの映像は絶対お勧めですし。
 それにしても、『交渉人』の中盤みたいな緊張感だって、『踊る大捜査線』(もちろんTVシリーズ)のように作れないわけじゃないんだから、もうちょっと頑張ってもらえたらいいなあ、と思うのは私だけだろうか......。贅沢かな?
ところで織田裕二って舞台はやってるの?やってないの?もしあまりやってないなら、ぜひやってほしい。
MI−2を観るならこっちを観てもいいと思うんだけれど、それはひいきでしょうか。

2000.8.20(Sun.)
『トムは真夜中の庭で』岩波少年少女文庫
 児童文学の今では古典に属するものなのかもしれないです(岩波のシリーズに入っているのですし)。以前から10代の人間に「小学校の時読んで感動した」と勧められていて、やっと読んだ1冊。
 庭の描写、建物の描写、凍った川の描写、子どもたちの会話の描写など、余計な説明をせず、描くことの意味を私にとっては考えさせてくれる作品でした。お話も泣けました。そんなに意外だとか、ツボを押されたとかいうのではなく、たとえばしっかり抱きしめるという肉体的行為が記号としてでなく感じられるのは、庭が本当に生きていたからなのかもしれません。そういうことって大事だよなあ。
 とにかく、未読の方にはお勧めの1冊。

2000.8.12(Fri.)
『また逢おうと龍馬は言った』上川隆也、西川浩幸出演 キャラメルボックス1995年公演(スカパch.262)
上川隆也の出世作。最近スカイパーフェクTVのシアターチャンネル(ch.262)でキャラメルボックスの作品を何本か立て続けに見ている中では、これが出色。92年が初演、とのこと。キャラメルボックスの芝居は基本的にファンタジーである。夢を現実の中にどう出現させるか、がポイントだから。SFであってもそうでなくても。お芝居の場合、夢と現実の関係はけっこう微妙で、どんな設定でも設定されれば「あり」なわけで、問題はその設定のリアリティを確保するために芝居が窮屈になってしまったり、その設定の破綻のために芝居に入り込めなかったりすることがある(というか多い)点だ。
でも、あまり説明しすぎるのは一般的にいってよくない。嘘は大きくいっぺんにずばっとつくに限る。あとはその設定が一貫して一分の隙もなく緊張感が保たれることの方が大事なんだよね、きっと。
そういう意味ではここに登場する龍馬はとっても素敵な存在に仕上がっていると思う。
ファンタジーは基本的にナルシシズムを満足させる底のものだろう。それはどこまで遠くへいったとしても、その中で実現する思いは所詮自分の中のものでしかない。
本当のドラマはそのファンタジーの限界の向こう側にある。
チョット逆説的だけれど、きちんと夢を作り、しっかりと夢を見たものだけが、夢の中に囚われることなくもう一度「生」の側に帰還できるのではないか。帰還なのか宇宙の果ての向こう側に行ってしまうのか、はいろいろあるだろうけれど(^^)。
自己と他者の間の深い裂け目はしかし、どんな人間でも一瞬垣間見ることができるだけだろう。瞳を凝らしてみようとしても、それは一瞬の後には自分自身の中に回収されて意味づけされなおしてしまうに違いない。
現実はいつもファンタジーの外側にあるくせに、その現実を振りかざすものもまた、フィクションの内部で叫んでいるに過ぎないとしたら。
舞台でフィクションを作り上げていく作業は、その夢と夢の裂け目を同時に成立させようとする困難な営みなのだろう。
役者という内面を持った素材どうしが出会うその役者と役者、身振りと身振り、声と声の間、演劇空間ととりあえずは呼ぶしかないそこに満たされた気(しかしそれは劇団のカラーといったような毎度お馴染みの気安い「気」であってはしょうがないのだけれど)が、空気のようでありながら一瞬裂け目をみせてくれる、その裂け目に惹かれて芝居を観ているのだと今は、思っている。
それもまたエンタテインメントのうち、とすれば、芝居を観るというのはやはり庶民のささやかな贅沢、なのだろうか。庶民なんて言葉はもう使えないのかな?でもTVを観るのと劇場とではちょっと違うよね?やっぱり。
とりとめなく。


2000.8.4(Fri.)
『異文化理解の倫理にむけて』稲賀繁美編 名古屋大学出版会
異文化理解のための大学生用テキスト、といった趣のある本です。東大出版会から 船曳健夫が編集して出した「知の〜」シリーズがありましたよね?あの感じに近いかな。でも、その具体的に取り上げられたものは、異文化衝突の現場の研究者が、自分の主題として向き合っている現実と格闘している報告ばかりで、そういう意味では「知の〜」シリーズの「教養的」な感じだけではなく、異文化衝突の現実を現場から報告するレポートにもなっていて、そういう意味で大人が読んでも「お勉強」に止まらない意義のある本になっています。
2900円は安いと思います。読む本に少しでも迷ったら、ぜひ読んでみてください。ここ1年の中ではわかりやすくてためになって、高校生にも勧められて自分も感動したという意味では数少ない本のなかの1冊になりました。よろしかったらぜひ!


2000.8.3(Thu.)
『分身』(入院した友人に貸したので題名に自信がない...)東野圭吾
『秘密』を書いた、といえばもう有名な東野圭吾。この人も1958年生まれだと知ってびっくり。
女性ファンタジー作家 荻原規子・湯本香樹実・梨木香歩の三人衆(私が決めただけ)もたしか1958年生まれ。年に意味を感じるのは私自身が1958年生まれだから、というだけかもしれないけれど、この辺りの年代から、フィクションに対する意識があきらかに変わってきているのかもしれない、とも思う。ちなみにキャラメルボックスの成井豊も30代後半ぐらいかなあ、近いものを感じます。
ところでこれは、二人の若い女性が、それぞれ別々に自分の出生に秘密を感じ、それを確かめようと「探偵」を始めていくと、思いも掛けない事実につきあたる……というお話です。二人の女性がいつ出会うのか、とわくわくしながら読みました。
傑作、とは思わないけれど、東野圭吾という作家を楽しむには十分の作品です。
読む本に迷ったら、買って損のない1冊。

2000.7.31(Mon.)
『創造された古典(カノン)』ハルオ・シラネ 鈴木登美 新曜社刊行
これは1997年3月にコロンビア大学で開催された国際シンポジウム学会(「カノン形成……ジェンダー・ナショナルアイデンティティー・日本文学」)の成果に基づいて編集されたもの。
柄谷行人などがかつて『近代文学の起源』で近代になって風景が発見された、と論じたけれど、私の中ではその延長線上に位置づけられる論文集です。
近代における国民国家の形成と、文学における古典の創出の関係を日本文学について徹底して検証した論文が
並んでいて、とても面白いものでした。江戸の「古典」と明治の「古典」がどう違っているのか?またその違いの中に近代はどう深く係わっているのか?そして戦後は?
4000円は確かに高いけれど、ちょっと眺めてみる価値はありそうな本です。

2000.7.28(fri.)
永平寺と『福井恐竜博覧会』
金沢に家族で旅行にいったついでに、永平寺と福井の恐竜博覧会に寄った。
永平寺は、禅宗のお寺で修行僧の間を縫って見学ができる。やはり「気」が満ちているというべきだろうか、うちの息子(次男)は、なんか元気が出た、といっていた。スポンサーとのつき合い方が難しいという面はあるのだろう、永平寺はなかなかその辺りがきちんとマネージメントされてきたから残っているのかな、と思われた。現代におけるスポンサーの一つは観光客だろうから、それをどう受け入れるかというのも重要なポイントだろう。鎌倉の仏教革命の流れは、もう一度きちんとたどっておきたいところだ。

恐竜博覧会は、なんだか村おこし的な田舎イベントの雰囲気と、意外に本格的な博物館やイベントとが併存していて、不思議な感じだった。この博物館はしかし、なかなかのものだと思う。家族みな感動して帰ってきた。恐竜のミニチュアの人形を3体買って帰ってきた。机の脇に飾ってある。結構気に入っていたりする。


2000.7.25(Tue.)
『エリザベート』一路真輝主演(エリザベート)、内野聖陽(トート)、帝劇公演
 東京まで行ってみたものの、んー、これはトートの比較(内野と一路)になってしまい、そうなると明らかに一路真輝のトートは別格で、内野の歌が下手(彼は歌手ではないのだから、やむをえない部分もあるのだろうが、キャスティングとしてどうしても疑問がのこる。やはり山口トートで観るべきか?)なのが最後まで響き、作品に入っていけなかった。
群衆の踊りはレ・ミゼなども彷彿とさせる部分があったり、一路真輝のエリザベートの美しさは文句なしだったり、宝塚演出の本も悪くない、のだが、プロデュース公演のせいだろうか(劇団公演ではないという意味)、寄せ集めの限界が出ているような気がした。演劇は空間創出の芸術だ。緊密な空間を生み出すためには、この公演は何かが足りない。
内野の歌の下手さ(下手でもいいんだけれど、声が安定しないのですね。別に歌手の力量を求めているわけではないのです)のせいだけではないような気がする。

2000.7.19(Wed.)
『エリザベート』一路真輝主演(トート)、花房まり(エリザベート)、宝塚公演
帝劇の『エリザベート』を観劇する予習として、宝塚のビデオを鑑賞。
これが素晴らしかった。
死神トートを演じる一路真輝が、この世のものではない美しさを十二分に発揮していて、宝塚の演出がヨーロッパでも逆に取り入れられたというのがうなずける内容となっている。娘役の花房まりも、宝塚の娘役らしい美しさで、さらに透明な声の質も素晴らしかった。
宝塚、おそるべし、である。


2000.6.25(Sun.)
『小森陽一、日本語に出会う』小森陽一 大修館書店
帰国子女の走りだった(チェコから小6の時日本に戻ってきた)小森少年が、書き言葉で話す変な子であることから始まって、国語や文学を教えるようになってしまうまでの自伝的エッセイ。
『我が輩は猫である』を初めて読んで、この猫は僕じゃないか!?と思って泣けた、というエピソードを読んで、私も泣きそうになった。
なんだ、小森陽一は自分と同じじゃないか、とも思った。私は42才。小森陽一は、世代的には少し上かもしれない。
しかし、全共闘世代以後の時代を確実に同時代として生きてきた実感において共通している。亀井秀雄(元?北海道教授)によって救われたっていうあたりもとても他人とは思えない。
この言語的不自由を他人事として読んでしまう人とは所詮話しは合わないんだろうな、なんて少数派を気取りたくなる危険もある本だけれど、とりあえず共感できる本でした。ぜひ、お勧めの1冊。
子供の言語習得を振り返った部分なども、あの子供のころのつかみどころのないよるべなさ、がきちんとなぞられていて、けっこう感動しました。


2000.6.24(Sat.)
『さよならノーチラス号』キャラメルボックス(スカイパーフェクTVch.262シアターテレビジョンより)
スカパーチューナーを買いました。もちろん芝居の中継・録画を観るためです。ここではキャラメルボックスが定期的に放映されています。中島らもの「お正月」も観られそうだ。
それでさよならノーチラス号。スピード感はやはり学ぶべき所が大ですね。
ただどうなんだろう、同じところをいつも回っているような気がしはじめています。余計なお世話、かな。
「取り返しの付かないことなんてないんだ」
「本当にやりたいことはなんですか?」
キャラメルは優しいねえ。そして劇場にくるお客さんもキャラメルに優しい。お互いにそれでいいなら、それでいいのだろう。
自分だって時にはその優しさを求めたくもなるわけだし、夏の「カレッジ・オブ・ザ・ウィンド」は見に行くつもりだし。
でも、どうだろう。
その「本当に大切な夢」でさえぐしゃっと壊れてしまうかもしれない、そんな闇もまた、描かずにはいられないのではないか?
深い闇の裂け目をのぞき込んで、胸が張り裂けそうになって、だからこそ、敢えの「夢」がリアリティを持つのじゃないか?
もちろんやりすぎないことは大切かもしれない。ファンタジーのリアリティが壊れるから。お客さんの欲望もあるわけだし。
でも、どうだろう?


2000.6.16(Fri.)
『化☆Show』大和田真子原作 磐城女子高校
私の勤務する職場の演劇部の芝居です。高校生作家が「性小説」の書き手として売れっ子になってしまい、その作品と自分のギャップの中で悩みつつ観た夢が「化粧」の話しだった。
夢の世界の中でただ一人の男=思い人であるジル様への愛を、女たちは化粧や整形で、あるいは知性で競い合う。
女の子にしか分からない化粧への切ない思い。美しさと向き合う狂気。
んー、結局男の人には全分からん話しで終わってしまったようでした。でも、女の子や女の人には「わかる、わかる」との評もいただいたんですがね。
秋のコンクールにはもうちょっと広いお客をつかめる芝居がしたいものです。
この芝居の準備で、6月の半分は終わってしまいました。
でも芝居はいいなあ。


2000.5.22(Mon.)
『プロパガンダ・デイ・ドリーム』鴻上尚史
新大久保駅のあたりも、路地を入ると駐車場がけっこうあることを初めて知った。しかも1時間400円。都会のわりにはそう高くない。
これからは安心してこれそうだ。
いや、そうそう芝居のことである。これは面白かった。平日のこととて、満席というわけには行かなかったが、芝居には結構素直に入っていけた。わかりやすい芝居だ、とも思った。「倫理21」柄谷行人を思い出したりもした。当然意識しているんだろうなあ。
殺人事件を起こした犯人の父とその娘たちを一方の軸に、それを報道し、あるいはドキュメンタリーとして書いていくジャーナリストたちを他方の軸にしながら話しは進行していく。
大画面にTVカメラの映像を同時的に映しながら、画面と舞台とで芝居が同時に進行したりするのも面白かった。
娘の書いた小説と現実とが出会い、その登場人物と現実の人間とが交錯していく結末部分も、これはお馴染みなのかな?面白かった。
芝居ってでも、不思議に自分でやってみたくなるものでもある。
野田秀樹のようなイメージが沸騰しながら響き合う舞台とは違う。普通の?芝居に近い感じもあった。
しかし、どこかかっちりしたところが足りない。贅沢か?
もちろんそうだ。
しかし、鴻上や野田といった間違いなくとんでもない才能のある人たちが、次々に公演を打たなくてはならない状況は、端的に貧しいのかもしれない。もっとじっくりやる、というのはどうだろう?

今井雅之の「THE WINDS OF GOD」を6月になってからスカパーch.750演劇レストラン(6月22日)で観ることになるのだが、10年かけて作り上げてきた芝居は、NY公演の時の劇評「長すぎる」に同意するものの、やはりじっくりかちっと作ったものはいい。ブロードウェイの芝居のシナリオ(ハリウッドの映画だってそうかもね)など、プロデューサーが納得できるまで何年でも作者を食わせながら書き直させるみたいなことだってあるのだろう。
どうしてこんなにたくさん芝居を打たなくちゃならない?
そしてこんなに芝居が打たれているように見えるのに、地方では巡業がろくにできないのはなぜ?
もちろん、公演をゆっくり作ればいいのではないのかもしれない。演劇は生ものだし。だがそれにしても。


2000.5.22(Mon.)
『アメリカン・ビューティー』
アカデミー賞受賞の映画ということで、グリーン・マイルを観たらこちらも観なくては、と映画好きに勧められてやっと観ました。
面白かったです。フランス映画をハリウッドが撮ったって感じかな。
主人公が40才過ぎのさえない中年(ケビン・スペイシー。「交渉人」の片方。なかなかいい役者ですね)も他人事とは思えないし。
夫婦の会話もありそうだし。子供とのすれ違いもありがちだし。なんか身につまされる感じでした。
なんか宣伝では、18才の子供の同級生の薔薇の中の裸体が強調されすぎていて損をしているような気もしました。
モノローグで始まり、遡るパターンはアメリカでは基本なのかなあ?ちょっとそれは疑問でした。
観ても悪くない映画だと思いました。

2000.4.29(Sat.)
『俺たちは志士じゃない』成井豊・真柴あずき(キャラメルボックス)
読んだのは、シナリオです。新撰組に入ったものの、すぐ逃げ出そうとした根性なしの隊員二人が、ひょんなことから坂本龍馬たちと間違えられ、幕末の志士の振りをしなければならなくなって......と取り違えやなりすましと、それをめぐる策謀やどんでんがえしがあるお話です。最後は「志士」じゃない主人公たちが、自分のこころざしを見つけるってことになるのでしょうか。
よくできている台本を読んでいるみたいでしたって感じかなあ。アイディア、良し。せりふ、悪くない。どんでんがえしはあっても安心できるストーリー、悪くない。勉強になります。芝居はこうするといいのかあって。
私はキャラメルボックスの芝居を観ると、自分たちのファンタジーの在処(ありか)をまっすぐ指さされたように感じて、どこかむずむずします。彼ら、というか加藤&成井&真柴的世界は、そのファンタジーを強く願っていいのだ、という、(敢えてする)肯定の波動で舞台を満たそうとする。それって、とっても大事なことのような気が、します。もう10年以上そうやって走ってきたのですよね。共鳴するお客さんたちと共に。その歴史の価値も感じます。事実私のお客さん(生徒たち)は、キャラメルボックスの芝居が大好きで、この2000年の夏も2本また見に行くっていってます。
彼女たちと一緒に『ミラージュ』も『キャンドルは燃えているか』も観ました。夏の竜馬も見逃せないと思います。
悲劇とか裏切りとか、不条理とか、舞台はなんでも作れるけれど、キャラメルボックスの芝居がそこにありつづけることは、とっても大事だなあと改めて思いました。それでも、「しかし」、とやはり自分で舞台を作るものは思わなければならないのでしょう。真似することもようできないのに、「しかし」だなんてね。
でも、自分たちの芝居を作りたいなあ。劇中劇もせず、SFの道具も使わず、現代の自分たちの生きる場所で。
キャラメルボックスも頑張ってほしいなあ。

2000.4.28(Fri.)
『グリーン・マイル』トム・ハンクス主演
済みません、この項は、映画を観てからの方がいいかもしれません。ネタはばらしていないつもりですが、んー、ちょっと心配なのであらかじめ一言添えておきます。
では、行きます。
3時間を超える映画は普通私の場合途中で寝てしまうのですが、これは全く退屈することなく、死刑囚の起こす奇蹟をそのまま受け止めてとても面白く時間を過ごすことができました。
Eブロックは死刑囚がその執行を待つ監房。トム・ハンクスはそのE棟の主任看守(この中間管理職がこの人とっても板についていますね。プライベート・ライアンの中隊長もぴったりの役だったし。今回の看守は44才の役?これはちょっと本人が若すぎるような気もちょっとしました)で、死にゆく者たちを日々見つめながら過ごしている。あるとき、黒人の大男が、幼女二人をレイプ殺人した罪で、死刑囚としてやって来る。ところがその大男は奇蹟を起こす力を持っていた......。その奇蹟を前にして、人はどんな態度を取り得るのか?
たぶん、宗教(この場合あきらかにキリスト教でしょうが)に対する姿勢が根本的に違うから、後半のある部分、私(島貫)は無宗教のチンピラとして違った方向を示してほしいと思う部分がどうしても出てきてしまったのですが、後から考えると、トム・ハンクスというかアメリカの今の映画としては、やっぱりこうなのかな、とも思いました。
でも、一番若い看守には、「主人公を逃がそう」と一言まず言ってもらって、それを受けてトム・ハンクスが死刑囚に聞き直すぐらいのことはしても良かったのでは?と思います。(意味不明の方、済みません。ネタばれにならないように書くのは難しいです)
だってさ、一度目は完全に自分たちの都合でしょ?ってチンピラはどうしても思ってしまうからなあ。キリストに救って貰えないタイプなんでしょうかね、チンピラっていうのは。
そこ以外はいい映画だった、と言っていいのではないでしょうか。
E棟のグリーンの床の監房の風景は、たぶん忘れないと思う。美術としてよくできていた、と個人的には思いました。
さらに個人的には、期待しないでいった「トイストーリー2」の方が泣けました(へんかなあ、女子高生は「グリーン〜」でがんがん泣いてきたって言ってました)。
これは、涙の量の映画ではなく、キリスト的奇蹟を前にして、現代の人間はそれを果たして受け入れうるのか?みたいな話でもあるのじゃないかしら?なんても思いました。そうであるなら、トム・ハンクスの苦悩は分かる。我々は皆、ユダではないのか?みたいなね。
とにかく、奇蹟のシーンはこういうものとしては結構説得力がある画面だったと私は思います。
これは見に行っていい映画だと思います。間違いなく。


2000.4.27(Thu)
『ウォッチャーズ』(上下)D・R・クーンツ
 軍事機密の研究によってとてつもなく高度な知性を身につけた犬。その犬と出会った主人公は、妻の死後堅く閉ざされていた心をしだいにそのレトリバーに向かって開いていく。しかしその犬を憎悪し、つけねらう得体の知れない魔物がいた。また軍の機密を守るために国の組織もその犬を探し出して確保しようとする。機密をかぎつけた殺し屋もまた......。もうノンストップノベルといえばクーンツ、という面目躍如の一気読みでした。犬好きはただちに読むべし!
闘いのクライマックスは、彼の別の作品の方が上、というものもありますが、読んで満足すること間違いなし、です。
冒頭から読者がハリウッド映画の監督になったみたいな気分になる、といえばわかりやすいかな。暇な半日があって、ペットを飼った経験のある人にはぜひお勧めです。


2000.4.25(Tue)
『映画狂人日記』蓮實重彦と『個人主義』小田和正
 んー、前者はいわずと知れた映画評論家(東大総長、でもある)蓮實重彦の映画評。読んでいるだけで幸せになれます。でも、時代が動いたなあ、という実感も併せて持ちました。蓮實重彦の文章を始めて読んだのは1970年代の後半だったと思います。「小説論=批評論」の中に収録されることになる石川淳論を「国文学」解釈と教材の研究だかで読んだのは始めだったか。あれから23年ぐらい経って、あそこからどれだけ隔たっているのかいないのか。
 26年前、二人組だったオフコースのファーストアルバムを初めて聴いてから四半世紀、小田和正のニューアルバムを聴いていると、これもまた感慨深いというか。何をやっているのか分からない、独りよがりの、ナルシスティックな歌にすぎない、と言われていて、そういう意味ではポップスとしては解放されきらないものを抱えていたに違いない小田の作品が、オリコン初登場アルバムランキング4位とは。
 それがいいとか悪いとかいう話はもうしなくてもいいのだろう。まあ凄い、ということは確か。

2000.4.25(Tue.)
『アメリカ人はなぜ明るいのか』宝島新書
 宝島社で新書を出しているのをはじめて知りました。で、試しに買ったのがこの1冊。なかなか面白い。日商岩井につとめていた日本人の人が、現地の法人勤務になって、都合10年以上アメリカ(カリフォルニア)に滞在しているその体験(生活もビジネスも)から感じたことを書いたエッセイ。でも、かなり面白いです。商売柄もあるのでしょう、シリコンバレーの逸話が秀逸。ストックオプションの実際とか(急成長した会社の社員がストックオプションを持っていると、ただの事務員が2億円とか持っていることも全然まれではない)、日本とシリコンバレーの企業の違い、教育の違いなど、いろいろなことが見えてきます。筆者の名前を失念しましたが、私と同じ40代前半。世代的な関心のスタイルに共通性があるのかもしれない、とも思いました。
ちなみに、島貫の生まれた1958年は、梨木香歩、湯本香樹実、荻原規子のファンタジー3人衆が生まれた年でもあります。人数は少ない世代だけれど、自前でフィクションを立てる、ということを始めた世代でもあると思います。そんなことも考えさせられました。
理屈抜きにお茶のみ話をしているように楽しい1冊。お暇でしたらぜひ。

2000.4.23(Sun.)
『亡国のイージス』
 自衛艦のイージス化、沖縄でのBC兵器の暴発事件、北朝鮮工作員の暗躍、それらが別々の思惑を抱えながら出会っていく時、日本という国を舞台にしてとんでもない事件が勃発していく......というとアメリカの謀略サスペンスを思い出す人も多いかも。でも、これは海上自衛隊の中の人間のドラマをかなり充実した形で魅せてくれる作品です。二段組600ページもの大部の小説を一気に読ませるその迫力は、日本の小説ではないみたいです。トム・クランシー、フォーサイスばかりではないよって感じかな。そうそう、そういえばこの巻措く能わざる感じは「ジャッカルの日」と似ていたかもしれません。あれも傑作でしたねえ。

2000.4.22(Sat.)
『カノン』野田秀樹作・演出 出演 唐沢寿明、鈴木京香
 初めての野田秀樹の舞台ですから、とっても期待しかつ緊張して行きました。
 結果は、たぶん『パンドラの鐘』の方が良かったって感じです。
 4月22日の演技の限りにおいて、ですが、鈴木京香が出演するにはどう考えても舞台が広すぎるという印象を持ちました。大竹しのぶとか、天海祐希なら、シアターコクーンでもいいかもしれない。でも鈴木京香じゃあ、紀伊国屋サザンシアターぐらいの場所がせいぜい、では?
 それと、盗賊の集団の横のドラマがないため、「自由」という言葉が空転してしまうように思います。
 野田秀樹演じる天麩羅判官も、泥酔時と素面時の対比が今ひとつその落差、対比が観客と共有できず、唐沢や野田、それに脇役のところどころで出すギャグも、点のまま終わって線から面へ面から演劇空間の立ち上げへ、と奉仕することなくあぶくのように消えてしまっているようです。
 後半になってぐぐっと全ての要素が一点に集中していくあのパワーがないまま、どこか不発の感じを抱かせられたまま、観客は席を立ったのではないでしょうか。
 もう一度、別の機会に野田秀樹の舞台を観てから、もう一度考えてみなければいけませんね。
 本歌取りし、物語のかけらをそこここにちりばめながら物語を解体し、しかしそれが濃密な演劇空間の多層化に奉仕していく、そういう舞台を観たいと思うのは、的はずれではない、と思うのですが。
 他の人にも感想を聞きたいものです。

2000.4.20(THU.)
『おかしな男』小林信彦
 渥美清と、当時放送作家などもしていた小説家小林信彦の親交の話を中心にしながら、役者渥美清がどんな男だったか、を不思議なほどの説得力を持って書いていきます。巻措く能わざる、といった印象がある本です。一気に読了。ある意味では当然「イヤな奴」でもある喜劇俳優渥美清の、独特の雰囲気がとってもよく伝わってきます。
それにしてもなぜ、あんな風に寅さんだけを演じることになってしまったのかなあ。私の演劇の師匠は山田洋次が大好きなんですが、私は寅さんはほとんど(少数の例外を除いて)嫌いです。いしだあゆみの出演した奴は良かったと思うけれど。どうしてあんな風に同じものがやり続けられるのかが第一分からない。もうああなると表現とは別のモノ、と思えます。でも、そのあたりをも含めて説得力のある本でした。寅さんが好きな人と嫌いな人、にはお勧めの1冊。無関心な人には時間の無駄、だろうか。でも文章それ自体がなかなか面白い、と私は思います。

2000.4.16(Sun.)
『トイ・ストーリー2』
 あまり期待しないで見に行ったのですが、これが意外に良かった。ちゃんと魅せてくれるものですねえ。
まだ観ていない人には勧めていいのではないかと思います。前回はトンチンカンなヒーローだったバズが、今回はとってもカッコ良いんですよね。ヒーローのウッディよりもかっこいい。新型のバズライトイヤーも登場して、相変わらず楽しませてくれます。ちょっと泣けるし。それよりなにより、劇場に溢れている子供たちが、固唾をのんで画面に食い入っている様子が見物(みもの)でした。本当は『グリーン・マイル』を見に行ったのですが、時間が合わなくて。間に合えば『グリーン・マイル』も観たいですね。

2000.3.26(Sun.)
『ミラージュ』キャラメルボックス
 池袋サンシャイン劇場で観てきました。一緒にいった生徒たちは、昨年末の『キャンドルは燃えているか』の方が良かった、といっていました。私はメタ物語が好きだし、キャンドルは「タイムマシン」という反則技があったから、それに比べると良くできている部分があるかなあ、とも思いました。でもまあとにかく動きが今ひとつですからねえ。キャンドルの方が役者の動きはたしかにあって、絶対舞台としては楽しいものだったようには思います。
 平日の入りの差はそのあたりにあるのかな。でも、台本を読み物として観たとしたら、私はこちらの方が好きかもしれない。演劇って難しいな。

2000.3.22(Wed.)
『<じぶん>を愛するということ−私探しと自己愛』香山リカ
 田口ランディ(msnで配信されているインターネットコラムの筆者です)のことばを借りれば「自我インフレ−ション」ということになるのでしょうか。80年代に固定的な自己などないのだとしてサブカルチャーに自己像を拡散させていったところから、90年を過ぎると一転、「私探し」が始まっていく。
「今ある自己を否定し、<本当の私>というものを「発見」したい」。そんなインフレを起こしたフィクショナルな自己像への欲望を、クールダウンさせることがこの本の目的だ、ととりあえず言い切ってしまっていいでしょう。
 等身大の自己をちょっとだけ改善していく。ゆったりと自己を認めていくこと。
 普通でない自分を自分の中に「発見」したり、自己を越えた自己(それが超能力であっても病気であっても!)を「発見」してしまったりする「自我インフレーション」は、過剰な自己愛の発現であり、それを止めることはできないけれど、自分にも他人にも迷惑のかからない形での自己愛の蕩尽をすることだってできないわけじゃないだろう、といったところが落としどころでしょうか。
 結局、自己が自己を見つめると言うこと、自己が自己自身の手によって自己自身の輪郭を画定しきろうということ、そういうこと自体が矛盾を孕んでいる、と観るべきなのでしょうね。
 もちろんだからといって他者の言説の内面化をむやみにやってみても、カルトにだまされるのがオチだとすれば......。
 外部的思考を夢想する立場も、外部などない、といいきってルーズに内部を生きる立場も、なにか正しさの言説に囚われることだけは注意深くさけたいものだ、そんな気持ちにさせてくれる本です。


2000.3.22(Wed.)
『奇跡の人』大竹しのぶ、菅野美穂の主演。渋谷文化村シアターコクーンにて
 ようやく観てきました。3時間、1秒も眠くなることなく芝居が見られるのは、やっぱり幸せです。お話はすっかりお馴染み、ヘレン・ケラーが、新米の家庭教師サリバンと正面から向き合うことで、ことばの世界の扉を開いていく感動的なストーリーです。
 この舞台では、ヘレンは負の中心であり、サリバンや両親、そして兄が内面に傷や葛藤を抱えながら絶対的な負の中心としてのヘレンとどう向き合うかが問われていく、そんなお話になっています。
 だから、なのでしょうか。ヘレンがことばを獲得した瞬間、舞台のエナジーは瞬間的にゼロになります。
アンチクライマックスの極致、といってもいいのでしょうか。
演出が、あるいは役者がそう意図したのでしょうか?
いわゆる感動の涙涙涙、というのではなく、全ての人の思いが瞬間無風になる不思議な感覚。
昨日の夜は、クライマックスの盛り上がりが足りなかった、それだけが足りなかった、それがあったら世紀の大傑作の舞台だったなあ、でも十分、という気持ちで帰ってきました。
でも、あの不思議な瞬間はあれで決して足りないのではないのかもしれない、とも思いました。
少なくても、努力が感動を生む、というのではなく、ある瞬間、努力の果てではあるけれどもあまりにその結果としてではないとかんじられるほどあっけなく、過剰なことばの網の目が立ち上がってくる。
そういう目に見えないものを、あの瞬間役者たちはなぞっていたのだろうと感じました。
菅野美穂のヘレン、なかなか悪くないと思いました。
きれいな2000年の舞台、ですね。
菅野美穂はあれを意図してやっているのかなあ。演出もあれを唯一無二の選択としてやっているのか。
以前の舞台を観ていないから、そのあたりの筋書きは分かりません。
大竹しのぶがヘレンをやった時を見たかった、と思ってしまうのはしかし、止められないですよねえ。
『パンドラの鐘』の大竹と天海の比較、菅野のヘレンと大竹の想像上のヘレンの比較、それぞれしてみると、いろいろ考えさせられることがありそうです。


2000.3.22(Wed.)
『青空・もんしろちょう』別役実作 木山事務所プロデュース 紀伊国屋サザンシアターにて。
 新宿の紀伊国屋に本を買いにいったら、当日券があるというのでふらっと入ってみました。
いやー参った。どこが面白いのか、まったく分からないのです。あっけに取られたままの2時間弱でした。不条理劇のつもりなのかなあ。もしそうだとしたら(そうでないとするとさらに意図が不明なんですけどね)、それは不条理ではなく、不出来なファンタジーの残骸にしかなっていないというべきです。三木のり平のために書き下ろされたものをそのまま上演したから追悼公演なのだ、とチラシにありました。三木のり平だったらちょっと違ったかなあ、という思いはあります。
でも、それはやっぱり大竹しのぶが出れば大丈夫っていうのと一緒で、ひいきが見に来る芝居なんだろうね。
そのひいきの役者が不在となった残骸を見せられたのだろうか?そうだとしたら5000円は高い。
もしかして年輩の役者が不真面目なの?若い人たち(息子と看護婦、それに警官たち)は普通で楽しめるのに、それ以外の演技が煮え切らない。不条理を2時間持たせる緊張感がまるで不足しているような気がする。これは体力(肉体的&精神的)の問題でもあるのかなあ。
別の文法が支配しているのだろうことは分かる。誰かおもしろさを教えてほしい、と思う面もだから、全くないわけではない。しかし、そんな説明を聞いている暇もないよな、という気もする。
もし、どなたかこの舞台のおもしろさが分かったら教えてください。
三木のり平がとっても大好きだった人間としては、これが追悼というのは下手な舞台が逆説的に彼の存在感を示しているとしか感じられなかった。
俺たちのやっている舞台の方が、短くてただな分罪が軽い、とも思った。
テンポか緊張感か、せめてどちらかを与えてほしい。弛緩してるよなあ、絶対。


2000.3.7(Tue.)
『パンドラの鐘』野田秀樹作 野田版 天海祐希、堤真二 
 年末に観ることができたのは蜷川版だけでした。ようやく野田版をビデオでながら観ることができました。
野田版『「パンドラの鐘』は、やはりことばの劇という印象を受けました。蜷川版も野田版も役者はだいたい同じせりふをしゃべっているのに、後半鐘に物語のエナジーが収斂していくところの分かりやすさからいうと、どうしても野田版の方が腑に落ちる感じがするのです。蜷川版では、大竹しのぶの情念に満ちたキャラクター、雰囲気に満ちたセット、など、前半の力強さが、後半パチンとはまっていかない感じがするのですね。
それに対して、野田版の方は、繰り出される言葉の軽さが(セットに紙が使われていること、教授=兄が茶髪のにいちゃんぽい感じであること、天海祐希のほわほわした感じなど、前半の浮遊感ゆえに、後半の収斂が違和感なくなされていく。
前半穴に死体を入れるパフォーマンスが印象的な蜷川の感じ、大竹の存在感など、野田版より印象的な部分があるのだけれど、見終わっては野田版の方が分かったって感じはあります。でも、どちらかだけがいいとか悪いとかいうことではないです。
でも、両方舞台で観たかったなあ。


2000.3.7(Tue.)
『黄金の羅針盤』フィリップ・プルマン作 
 イギリスのファンタジーです。下に書いたハリー・ポッターとはほとんど正反対の感触を持った本でした。もちろんどちらも面白かったけれど。この世界では、人間とダイモンとが分かちがたく結びついて生きている。ダイモンとは守護精霊とでもいうべきものだろうか。その人間とダイモンとの関係に、ダストという不思議な素粒子が関わっているという研究報告が、教会を揺るがして......。何の説明もなく不思議な前提を当然のものとして話が展開していく、ハイファンタジーっていうのでしょうか。
途中で泣きたくなりました。涙腺指数が高いから、ではなく、恐怖で泣きたくなった、というべきでしょう。
でも、ハリー・ポッターとは全く別だけれど、これもあり、だと思いました。3巻まで続くとか。
翻訳が待たれる作品です。ちなみに、ハリ・ポタはUK版を買って次が読みたくなりましたが、この『黄金の羅針盤』の第2巻は、日本語でなければちょっと読む気がしませんでした。きつい話ですね。これもイギリスらしい。
親子でも分かり合えないようなきつさ。離れがたいものとも離れなければならない絶望。ふーっ。
最後(第3巻)まで読む勇気があるだろうか?

2000.2.27(Sun.)
『東山魁夷展』三越日本橋 
 初めて東山魁夷を見ました。
「雪原譜」「晩鐘」「凍池」「雪野」の4つが特に印象に残りました。境界線がぼんやりとした作品が多いんですね、結構。とくに早い時期のものは。というか、境界線にこだわっているというべきなのかなあ。光、雪、空と海面、水面、地面、建物・木立が、はっきりした輪郭としてでなく重なり合い響き合いながら描かれているような感じがしました。
でも、好きな人が多いんですね。さすがだなあ、とは思ったけれど、私にとっては切実な感じのしないきれいな絵、たちでした。好きですけれど、ぎりぎりのところで向き合うような作品ではないのでしょう。そういう下品な見方はしないものなのかしら。絵はよく分からないけれども。

2000.1.15(Sat.)
『ハリー・ポッターと賢者の石』 J.K.ローリング作 静山社刊行
 12月初めごろに新宿の紀伊国屋でレジ前平積みになっていたと思ったら、地元いわき市の本屋でも年末にはどかっと置いてあった。読み始めたら同居人に本を途中で奪われ(読みさしの本を奪うという暴挙!)、仕方なくもう1冊を購入。1999年のベスト3ぐらいには入る作品ですね。
魔法物語の小公子というのが1巻目の内容。でも、それはたぶん物語の始まりにすぎない。
間違いなく売れる本です。そしてしかもいい。
世界を書き込みすぎるゲームやファンタジーが最近の日本には結構ある。裏設定バリバリみたいなね。それはそれで面白い。でも、表現って本来そういうものではないと思う。いやもちろん表現されるのは氷山の一角で、そのバックグラウンドを感じさせるっていうのは作品の奥行きという意味でとっても大切ではある。
でも、裏技的にその設定を楽しむだけじゃ、コミック同人誌的了解にしかたどりつかない。
『ハリー・ポッターと賢者の石』は、魔法世界という異世界を十分楽しみつつ、しかもとんがり帽子とか、トロールとかクィディッチとかの具体的なディテールとストーリーがちゃんと登場人物の中で響き合い、出会っている。
ドリトル先生、ムーミン(トーベ・ヤンソン)、童話物語(向山貴彦)、ゲド戦記(ル・グィン)、果てしない物語(エンデ)
、ナルニア国物語(C.S.ルイス)などと共に、私にとってファンタジーの大切な引き出しの一つになりそうです。
こういうのなら原書でもなんとか読めそう。UKでは3巻まで出ているそうなので、さっそく注文しなければ。
どうしても今すぐ本屋さんに走って読むべし、とは思いません。ファンタジーは好き嫌いもある。でも、ファンタジーが好きなら今すぐ!嫌いでなければ休みの日に本屋を梯子して探すぐらいの値打ちはあると思います。

2000.1.4(Tue.)
『ワイルド・ワイルド・ウェスト』 
 んー、これは宣伝の仕方が間違っているのではないだろうか。お正月にこういうなんていうんだろう、万人向けでない映画をエンタテインメントとして宣伝してどうするつもりだったのだろう?この主人公を演じている黒人シンガーは、別に映画でなくてもかっこいい。映画のギャグはB級映画というかカルト的というか。男の子(中高生)しか劇場にいなかったのが納得いく。面白くなかったわけではない。どうしようもないことを敢えて時間をかけてなぞるしつこめのギャグは、大々的に宣伝してまで人に見せるものでもないだろうというだけのことだ。
最初から好きだ、という人以外は見ない方がいい作品ではないか。


2000.1.4(Tue.)
『御法度』 大島渚監督
 大島渚の作品。新撰組内での衆道(男色)、すなわち御法度の関係を描いたものだ。松田龍平(松田優作の子)の唇がそそる。客にそう思わせたらこの作品は勝ち、なのかもしれない。浅野忠信にもうチョット出てもらいたかったけれど。内面描写やストーリー展開が重要な映画ではないので、そういう形での露出は不要なのだろう。どこかぎこちなく、ぎくしゃくした演技が積み重ねられて、その不自然さが最後にいきなり終わる終わりの中で、不思議なカタルシスにつながっていなくもない。内面の問題ではないのだなあ、ということが鈍い(大島渚のよい観客ではない)私にも腑に落ちてくる、といえばいいだろうか。
ずるい、といいたいが、言わせない力を持ってもいる、とでもいおうか。こういうの(別に素材の男色ではない)が好きな人は映画館で見て置いていいのかも。興味のない人にはなんじゃこりゃの映画かな。
私は面白かったです。




2000.1.2(Sun.)
『ホワイト・アウト』 真保裕一 作 新潮文庫
今年の読み初め。冬の休みに読むには最適の1冊でした。
奥只見(作品では奥遠和)のコンピュータ制御されている水力発電のための巨大ダムがテロリストに乗っ取られた。
唯一の蓋道は爆破され、雪がすべてのアクセスを拒む。巨大ダムの水が放水されたら下流はひとたまりもない。捉えられた人質の中には、かつて自分のミスで命を落とした親友の婚約者が。二度と自分があきらめることで人の命を落とすわけにはいかない、。ダムの技術者であることと登山のエキスパートである経験だけを頼りに敢然と挑戦していく主人公富樫......。
映画の脚本にするために創られたようなとっても素敵な作品です。冒険小説はこうでなくちゃ!
今年の夏には織田裕二主演で映画化が決定。その前にぜひ。エンタテインメントがお嫌いでなければ、冬のうちにぜひぜひ読んでほしい1冊。この本のために本やさんに足を向ける価値有り、でしょう。真保裕一の作品としては、取材しすぎという煩わしさがなく、ダムの知識がそのままスリルを盛り上げるのに役立っているいい作品です。偽金づくりの『奪取』とともに、記憶にのこるものだと思います。どちらもぜひ!

99.12.29(Wed.)
『首塚の上のアドバルーン』 後藤明生作 講談社文芸文庫
後藤明生、江藤淳、桂枝雀の死が、私にとっては大きなものだった。その中の一人。『首塚の上の〜』は、1980年代後半の短編連作。1980年代は『群棲』黒井千次、『黄色い河口』井上光晴と、連作短編の傑作がいろいろある。
これらは、さまざまな今の「空間」を切り取りながら、「時間」の縦軸をそこに同時に立ち上がらせ、そのことによって生きた現実のリアルを現出させていこうとするという共通性があるように思う。
後藤明生のこの作品も千葉の幕張(幕張メッセができる前の)にある首塚を、高層アパートから俯瞰しつつ、その歴史を文献でさまざまになぞり、同時に街を歩き、自分の肉体的な手術の経験なども含めて、全体として一つに掴み得ない現実を、多層的差異的にずらしながら響き合わせていく。
『吉野太夫』『しんとく問答』の傑作2編に比べるとちょっと平板(というのは、なぜそれを追っていくのか、のエンジンがよく働いていない)だけれど、後藤明生の読むことを読むという方法はよく見えてくる学習編として悪くないのではないだろうか。


99.12.28(Thu.)
『魔法使いが落ちてきた夏』 タカシ トシコ作 理論社刊
作者があとがきで書いているようにゲーム「ウィザードリー」のような作品が書きたかったというコメント通りの作品。
別世界から助けを呼ぶ声が主人公の少女の耳に届く。彼女が助けたのは「阿修羅」という黒魔術師だった。彼は回復していない体にむち打ち、白魔術師たちの待ちかまえる新宿に一人で行こうとする。
「そんなことしたら死んじゃうよ!」主人公は「阿修羅」を助けようとその後を追いかける。
新宿には、阿修羅をしとめ損ねた白魔術師の親玉が3000人もの兵士を従えて「阿修羅」の息の根を止めようとしていた......。
ゲームの戦闘シーンをノベライズしたような、といえばわかりやすいかも。
昔の物語じゃなくて、今の子供にとっての魔法物語。
ファンタジーとしては破綻なく、とっても楽しく読ませてくれます。
1999年の傑作『童話物語』を読んだあとで、また魔法の話を軽く読みたかったら。
もっと読み応えあるこの人の作品が読みたいですね。頑張って!


99.12.23(Thu.)
『てのひらの闇』 藤原伊織作 文芸春秋社
こちらは『キャンドルは燃えているか』とは違った中年会社員のファンタジー。ずっと営業をやってきた飲料会社の課長が、実はかつて広告のプロで、しかも闇の世界の経験もありそうで、しかし今はくたびれた中年サラリーマンになっていた彼が、リストラに会う。と同時に不可思議な事件に巻き込まれて、死んだフリをしていた魂が否応なく呼び覚まされる......。
中年のサラリーマンがひとときすっきりするためにはちょうどいいハードボイルド。暇だったら読んでがっかりしない1冊。いそがしいときには別にあとでもいいでしょう。良くできているとは思います。処女作の方がすきだけど(『テロリストのパラソル』)。


99.12.23(Thu.)
『エイジ』 重松清 作 朝日新聞社
朝日新聞に1998年連載された新聞小説。重松清は本当に旬の作家ですね。
『ナイフ』もそうだったけれど、今の中学生ぐらいの少年少女を描かせたら重松清が文句なく最高でしょう。
魂についての表現をするときに、次に書く成井豊もそうだけれど、魂は現実に見えないから、どうしても描くときになんでもありになってしまう。表現者がいかようにも表現できるぶんだけ、リアリティは確保しにくい。
その表現形をどう掴むかという主題と、少年少女たちがどう生きるかという主題は、実はかなり響き合っているはずでもある。
森絵都や成井豊、梨木香歩たちのように児童文学やSF、ファンタジーの世界で自己の表現形を探るのは、ある意味で典型的ではあるけれど、都合の良い「リアル」に終わる危険もはらむだろう。
それに対して、重松清の最近の作品は、そのどうにもならなさ、わからないままそうあってしまう自分に向けられた視線がキーンと貫かれている。簡単に自分など手にすることができるわけではない。そこにある自分が本当の自分。ファンタジーとは全く別の場所から、しかし爽快に魂を手渡そうとしてくれる。これは読んでいて損のない1冊だと思います。とりわけ中学生に関心のある人は。

99.12.22(Wed.)
『キャンドルは燃えているか』 成井 豊作 キャラメルボックス サンシャイン劇場
成井豊は、高橋勲とともに、福島のいわき市の高校生の演劇好きに人気がある作家だ。
台本は見たことがあったけれど、舞台がどんなものか興味があった。
で、『キャンドル〜』である。テンポはいい。役者も楽しい。夢もある。傑作だとは思わないが、4300円で楽しめる舞台を見せてくれる。中身は他の台本と同様SFファンタジーだ。
生徒たちが児童文学を楽しみ、SFアニメを楽しむように、「If」の世界を楽しみながら、自分自身と出会おうとする物語。今、うちの生徒たちがやりたい芝居のひとつのリミットがこれなのだと思う。私も好きだ。
ただひとつ。タイムマシンというなんでもありの道具を使う場合(ファンタジーには現実の約束を跨ぎ越す装置が不可欠なのだ。魔法でも超能力でもタイムマシンでもいい。それはそれでいいのだ。)、そのなんでもありというファンタジックな全能感覚を、どう切実に制約づけるかということが問題になるだろう。
夢を求めつつ、現実に帰還し、現実の中で勇気を持って生きる力が湧くためには、きちんとした断念が描かれねばならないだろう。それはないものねだりではないと思う。ファンタジーの持つ背理というか宿命というか。優しいのはいい。暖かいのもいい。切ないのはもっと好き。
でも、それは夢ではない、自分自身の魂の孤独を経由した優しさでなければ、遠くまで響いていくことはできないだろう。もちろんそれは5本に1本でいいのかもしれない。長島だって3割がやっとなんだものね。

あと一つ。キャラメルボックスはチケットを自前でコントロールする。だから、キャンセルや日にちの変更、座席の相談などがぴあなどとは比較にならないほど親切だ。客を大切にする親切さがそこには溢れている。
だから、お客も優しい。そして、そのキャラメルボックスのファミリー感は、東京でだけ500ちょっとぐらいの席が埋まれば、というところであっというまに終わってしまう今風の舞台より、ずっと頼りになる。それは実は大切なことなのではないか。いつも傑作ばかり上演するわけではない演劇の当たり前の現実の中で食べていきながら演劇を続ける環境を自分たちの手で整えていこうという姿勢は、エールを送るべきなのではないか、と思う。

9.12.22(Wed.)
『The Winds Of God』 エルカンパニー 今井雅之主演
映画にもなったのではなしとしては知っている人が多いと思う。オフブロードウェイに英語で上演し、ニューヨークの劇評でかなりいい評価を得た、ということでの凱旋公演?。
現代の売れない漫才師二人が交通事故に遭ったと思ったら、タイムスリップしてしまい、自分の前世とおぼしき肉体に精神が宿ってしまう。それがなんと1945年8月1日、敗戦直前の特攻基地の、出撃命令を待つパイロットの肉体だった......。特攻などばからしい、信じられないとしか思えない二人とすれ違い、ぶつかりあう兵隊たち。しかし、その中で死を目前にした特攻隊の若者たちの真情がしだいに心に沁みてくる。自分も出撃する、としまいに言い出す弟分と、「ふざけるな!」といいつづけるアニキ(主演:今井)。
これはとにかくSF的な設定の中で、ワープした現実の中では極めてリアリティ溢れる芝居が重ねられていく。キャラメルボックスには悪いけれど、こっちの方がやはり10年も上演されつづけている「こだわり」が感じられる名作というべきでしょう。
来年もまた上演されるはずなので、これは一度見る価値のある芝居だと思います。ちょっと遠出しても見る価値ある1作。お勧めです。
99.12.2(Thu.)
『パンドラの鐘』 野田秀樹作 蜷川幸雄演出 大竹しのぶ主演
世の中のメジャーな商業演劇をほとんど初めて観ましたが、さすがだなあ、と思うことしきり。
お金をかけられず、役者もいないところで演劇をやっている者としては恨み言の一つもいいたくならないでもないのですが、とにかくおもしろかったです。大竹しのぶという人はもうやっぱり凄いと感じました。舞台装置、その縦横高さを自由自在に使うやり方。午後から車を飛ばして渋谷まででたかいはありました。
傑作か、といったらそうではない、と思います。
もっと女王と葬式王がきちんと出会ってほしい。古代の国に落ちる火玉と昭和20年の日本に落ちる火玉の関係、彼らが戦いを挑む「未来」と現在(過去)の関係がせりふの説明だけになっている印象がある。
1回ではよく分からないという部分も含めて、希望したいことはあります。
でも、やっぱりすごい。
前半さまざまな要素をちりばめて、後半に向けてそれをひっくり返し、収斂させていくパワー(大竹しのぶの変化が大きい役割を果たしているんですけどね、そこにも)は、本当に楽しめました。
んー、野田演出もみたかった......。野田作はもっと泣けたんじゃないだろうか?

99.11.29(Mon.)
『シックス・センス』ブルース・ウィリス主演の映画です
 それほど期待していなかったけれど、これは良かったです。
 期待していないって、意外と大事なことかもしれない(皮肉でなく)。
 十分驚かされて、十分泣いて映画館を出てきました。
 もし迷っている人がいたら、観て損はないよ、とぜひ勧めたいです。
 TVの宣伝を観てホラー映画だと思ってしまう人がいるのではないか、と心配です。
 中身については話せないので、ぜひ観て下さい。

99.11.29(Mon.)
『梟の城』篠田正浩監督作品 中井貴一主演
見に行った私が勘違いしていたのかもしれないけれど、忍者のちゃんばらものでは全然なかったです。
忍者が人殺しの意味なんかを考えちゃううちにどんどん仲間が殺されていくという不思議が映画。
こんな頭領はいくらなんでもいないだろうって感じ。見方が悪いのかなあ......。
その上、というかだからというか、重要な忍者同士は「甘い」とかばっかりいい合ったりしているわりには戦わないのです。
紅葉はきれいだった。屋根の特撮?も大きい印象はあった。城壁を上ったり下りたりするのも結構ちゃんと観ることができたなどはいちおう言えますが、女優の使い方もなんだかさっぱりぴんとこない。
どなたかおもしろさを教えてほしい、ときつねにつままれたような気持ちででてきました。
でも、かつてみた衝撃の二本立て天海祐希の「クリスマス黙示録」とマイクダカスコス「クライング・フリーマン」よりはさすがにちゃんとはしてました。最後まで、さして長いとも退屈せずにいられたのですから。

99.11.12(Fri.)
『天使の名前』島貫真 作 福島県いわき地区高等学校演劇コンクール優良賞 上演団体 磐城女子高校
約3ヶ月日記を放り出したままやっていたのは上記演劇の台本書きと稽古でした。そのためメディアにはほとんど接触しない生活が続きました。で、11月12日ようやく上演し、ほっと一段落といったところです。
で、これはその舞台の報告その1。
自分たちのもくろみとしては7,8割はいけたかな、と思って上演したものの、審査員の評は
「少女マンガみたいで、重さ深さが感じられない」
というものでした。
女子高校生の「現実」から隔てられた現実、その中で必然的にナルシシズムに支えられた感傷性がどんどん横に滑っていく。そういう彼女たちの記号的リアルさは出せたような気がするのだけれど、島貫が書いたために、その閉じた中で展開する感傷性がどんどん空転していった、そういう風に見えたのかもしれないな、とちょっとだけ反省しました。
でも、その共有しえない深さを欠いたナルシシズムを抜きに、今を見ることはできない、という思いはあります。
演劇のドラマの作り方を全然知らないまま力づくで綿菓子をモルタル塗りしたような世界を立ち上げようとしてしまったのかもしれないけれど(苦笑)。
師匠には、「出会わない者は別れることができない。だからこの芝居は泣けない」と指摘を受けました。
とすれば、出会えない切なさ、出会うという錯覚からの自由を、どうやったら空間として立ち上げられるのか、あといくつかは演劇で遊びながら考えていきたいと思います。
だって、たとえば今の学級崩壊だって、不登校だって、母子関係の問題だって、ことの本質は、「出会えないから別れられない」ことにあるんだと思うから。泣ける人はそこで泣けるはず。
ドラマの文法問題だけではなく、現実把握の問題でもあると思う。
作られたお上手さ、少女趣味ではなく、現実を持たない少女的世界の延長線上の「今」を描くってこと、なんだけれど、ただそれを演劇空間に立ち上げようとするなら、きわめて緊密なものが要求されることも事実。
台詞をもっともっと構造的に緊密な響き合いのあるものにしていかなければならないのかな......。
「間違った方向」という評価を覆すには、勇気ある撤退をするか、その間違いを徹底化して、正しさを問い直させるか、しかない。やるなら、後者、だろうなあ。ああ、だから表現行為はしんどい。感想や批評を書いている方がずっと楽だ。
でも、舞台を作っていくことってやっぱりとてつもない快感ではあるのでした。
評なんてその快感の前では二義的なものになるんだな、結局。
ただ楽しい舞台を、観客の人にも一緒に楽しんでもらえるための努力が必要ですね。
途は遠いなあ......。

上演台本はこちら。

99.10.31(Sun.)
『ウーマンリブ発射』大人計画 紀伊国屋サザンシアター7F
本屋に行こうとしたら、当日券のために並んでいる人が数名。思わず1時間半並んで見てしまった。
伊勢志摩、猫背椿、阿部サダヲ、宮藤官九郎、川原雅彦、大堀こういち、荒川良々ら
んー、なんだろう?とにかくそのパワーは凄い。舞台を笑いというかナンセンスというか、満たし続けるにはこれほどのパワーが必要だとは。架空のTV局の新春番組をめぐる争い、なんだけど、筋はよく分からないけれど、役者の馬鹿すぎる姿は確実に網膜に焼き付いて離れない。三宅裕司らのよく練られたコントとは全く別の世界だ。どちらも好きだが。
面白いというよりはヘン、なんだろうけどね。

99.10.31(Sun.)
『スーパーエキセントリックシアター ザ・タイトルマッチ〜笑いのガッツファイティング』
三宅裕司&小倉久寛のコントライブ 新宿コマ地下、シアター・アプル
笑いの研究のため(笑)、修学旅行終了の翌日上京。大人計画とSETの二本をはしごした。
コント6本+ビッグバンドショー、その間の着替えも楽屋落ちコントとして間に5本入れるという念の入れよう。
作り方の確かさは、頭が下がる。楽しい2時間だった。エンタテインメントですね。
演劇にはそのままは使えないのかもしれないけれど。


99.9.28(Tue.)
『あの金で何が買えたか』村上龍(談・構成) 、はまのゆか(画)小学館
バブルのあとの債権処理に出てくる何千億、何兆というオーダーの金額。
私たちの想像力が届かないその数字の羅列に、その金でいったい何が買えたのか?というコメントをつけ、絵でそのファンタジーを表現した時節ものの絵本。
とってもおかしくて、面白くて、腹が立って、そして大事なのは元気が出てくるということだろう。
この本は立ち読みでもいいから眺めてみることをお薦めしたい一冊です。
だから銀行なんていらない、とか公的資金投入は無駄だとかはいくらなんでも単純に思わないけれど(焼け跡闇市的開き直りはできないもんなあ。失うものがまだありそうな気がしてしまうから。)、気合いをいれてお金について考えなければいかん、と思わせる本。
これは老若男女にお勧めですね。

99.9.24(Fri.)
『プラトンの哲学』藤沢令夫 岩波新書 と 『デリダ』講談社 現代思想の冒険者たち 高橋哲哉
突然偶然に同時に読んだ本がプラトンの話でした。まあ前者はプラトンの解説を読もうと思って買ったのですから当然ですが、そのある意味で対極のものを読もうとおもったらそこに引用されていたのがデリダのプラトンについての論。形而上学って何?とか分からないことはたくさんあるけれど、これはけっこう面白かったです。ああ、ソクラテスとプラトンってこーゆー関係だったのか、とかかつて用語としてうまく理解できなかった差異と差延ってこういう使われ方だったのか、とか、東っていう人の書いていた『幽霊』『散種』ってこういうことだったのか、とかけっこう目から鱗がぼろぼろでした。

99.9.18(Sat.)
『夢紡ぐ人 朝を待つ人』演劇 ラッシュ・カンパニー 於:福島県いわき市文化センター
地元の劇団の公演でした。友人を失った原因が自分にあると感じた青年が心を閉ざし、内面の夢を紡ぎながら現実を拒否し続ける。彼の心の中で繰り広げられ、永遠に繰り返される殺戮と滅びの夢。
夢の中に生きる人間たちがその繰り返しに気づいたとき、自分たちの世界の外部にいる存在=青年の心に呼びかけようとしていく。その声は届くのか?河原に座って川面を眺め続けるだけの彼に、もう一度時間は流れ始めるのか?
いわき市で活動をつづけるラッシュ・カンパニーの自前の台本による舞台でした。
言いたいこと、演じたいことを舞台で発し続けるパワー(もちろん水準の演技力はあるわけですが)に、生きる元気をもらってきました。商業公演の、見せるために注ぐ力とは別の、同じ地平で同じ空気の中で生きるものが演じる劇の意味が、少し分かったような気がします。
自然とか、地域とか、市民とか、カテゴリーはどうでもいいから、自分の生きている場所について、考えてみたい、きちんと地方小都市なりの空間を感じながら生きたい、と思います。
すてきな舞台をありがとう。
本のわかりにくさは、必ずしも傷ではないのですね。勇気が出てきます。
作間さんの『総統』が一番好き、かな。


99.9.15(Wed.)『白夜行』東野圭吾
『秘密』の作者の新刊。どうにも暗い。暗すぎる。しかし、ノンストップで読み切ってしまった。
推理小説というべきではないのだろうか?
んーしかし、なんともはや。怖い、というのとも違う。なんだかとても不思議な読後感。
『秘密』の書かれたスタンスが少し分かったような気もする。でもまだコメントできない。
というか『白夜行』は本の雑誌9月号で書評子が書いていたように、説明するのがとても難しい作品なのです。昔昔から説き起こして現代に重なってくる感じは、んー中年の読者としてはまたやられてしまったという感じもあります。読む本に迷ったら読んで損はない1冊。『秘密』とは違うけれど、同じ作家のものをというのなら間違いなく勧めてよい本だと思います。


99.8.31(Tue.)
『BIG』ミュージカル 唐沢寿明・真矢みき・宝田明
と、
『レ・ミゼラブル』ミュージカル 加賀丈史、川崎真世、早見優、島田歌穂、大浦みずき、岩崎宏美
8月20日(土)に見に行ってきました。ミュージカルなんてほとんど見たことがなかったけれど、面白い!病みつきになりそうです。初演は唐沢&酒井法子コンビで昨年上演されました。
真矢みき(宝塚トップだったんですねえ。外のミュージカルはこれがはじめてとか。さすが!まるで宝塚出身じゃないみたいっていったら、ディープなファンと一緒に見に行ったので、蹴られそうでした)の方が大人の女性ってかんじで良いのではないか、と思いました。でも去年も見てみたかった。そう思わせるよい出来でした。12歳(13歳だっけ?)の少年が、早く大人になりたい!と思ったら、ある朝大人になってしまっていて、母親には誘拐犯(息子を誘拐した)と間違えられ、友達も信じてくれずに困ってしまうというところから始まって、困った少年=大人が玩具屋に行くと、大人なのに子供の気持ちが分かる、というので玩具メーカーに就職することになって……という風に進んでいきます。
ブロードウェイミュージカル、なんですよね、たぶん。パンフレットも買っていないのでよく知らないけど。でも、どこのミュージカルかなんて関係なく、今は日本のものでも十分楽しめるレベルになったんだなあ、とつくづく感じます。そんなことを感じるのは遅れてるのかな?
あるいは、本場のは全然違うよっていう人もいるのかな。
でもとにかく、かつてのミュージカルは一生懸命頑張ってるっていうノリが辛かったけれど、そういうところは切り抜けたのだなあとつくづく思います。一緒に行った高校生たちがとにかく良かったって感激していたのが、なんだかうれしかったです。
ちなみにこの日は『Big』を東京国際フォーラムCで観た後、今度は帝劇で『レ・ミゼラブル』のソワレに行きました。ミュージカルの梯子をしたのは初めて。
でもどちらも楽しかったです。『レ・ミゼ』は加賀丈史、川崎麻世、島田歌穂、早見優、大浦みずき、岩崎宏美バージョン。前回とは違ったおもしろさがまたありました。
どちらも二階席前列中央から観ました。
舞台は下の前で観る楽しみと、上の前で観る楽しみとでは違うのだなあと思いました。
役者を観るならやっぱりかぶりつきでしょうが、舞台全体を楽しむには二階前も捨てがたい。
んー、だんだんはまってしまいそうです。
どちらも8月29日が千秋楽。もう終わってしまいました。来年再演があるといいですが。

99.8.31(Tue.)
『イントゥルーダー』高嶋哲夫 文芸春秋社 
これも、『王妃の離婚』と同じく夏休み中に読了していたもの。サントリーミステリー大賞受賞、かな?
材料と道具立てはもう十分。それで楽しめたので文句はありません。でも、よくを言えば説明的になっている部分が気になる。まるで企業立志伝のゴーストライター版を読んでいるような気持ちになる瞬間がありました。不満といえばそのぐらいかな。野沢尚と同じく、他に読む本がない時には十分応えてくれる一冊だと思います。

99.8.31(Tue.)
『王妃の離婚』佐藤賢一 集英社 
1999年上半期直木賞受賞。直木賞の受賞作を、それと意識して読んだのは今回がはじめて。しかもそれを二冊とも読むのは当然はじめて。宮部みゆきが取ってから、直木賞を多少自分の中で意識するようになった。今回は『永遠の仔』が受賞しなかったことを、『本の雑誌』の書評子(名前忘れた)が怒っていたので、逆に二冊を読んでみる気になった。
結果、んー、おもしろかった。直木賞は作品として結構が成り立っていて、面白いものを選ぶのかなあ、と。王妃の離婚は受賞していいような気がした。『柔らかな頬』と『永遠の仔』だったら私は天童荒太の方を選びたいが。3作受賞だって良かったと思う。
そういう意味では最近面白い本に不自由しない。幸せなことだ。その幾分かは、『本の雑誌』に負っている。感謝。

99.7.21(Wed.)
『柔らかな頬』桐野夏生 講談社 
1999年上半期、直木賞受賞作品だという。
以前買ってツンドクしていたものを今日の夕方、速読気味に読了。
力のある書き手であることは間違いないと思う。
でも、直木賞って、本人のもっともいい本では受賞しないって傾向もあるような。
宮部みゆきの時もそうだった。受賞作が『理由』である必然性はなかったと思う。
私が担任している生徒は、「どうして『永遠の仔』じゃないの!?」っていって泣いていた。
同感。
『王妃の離婚』は面白そう。この夏の楽しみかな。
そうそう、『柔らかな頬』の話。エンタテインメントとしては話の設定の強さと、ストーリー展開の弱さのアンバランスが明らかだ。人物を設定する丁寧さを、それを動かそうとしてうまくうごかないもどかしさが、後半の発話のなし崩し的転移につながっているような気がする。意図した叙述ならちょっと読者の水準を見間違えているのではないか?主人公カスミへや石山への共感性は高いと思う。でも、それで終わりだ。話の柄の大きさや徹底性ではレディ・ジョーカーに遠く及ばない。情の圧倒的パワーでは『永遠の仔』の敵ではない。ストーリーの展開では大沢在昌や宮部みゆきに及ばない。
前半の夫と愛人と子供とカスミの関係の微妙さが十分展開しないうちに内海が登場してしまい、多層化というより煮え切らない分裂化が起こってしまったような気がしてならない。
どうしてこの作品で受賞しなければならないのか?
桐野夏生という書き手にとってプラスなら、それでもいいとは思う。嫌いな作品ではないから。
でも、これは完成度は低い。エンタテインメントで完成度が低いのは、やっぱりどこか居心地が悪いのではないか。重松清の『エイジ』を未読なので、それとの比較はできない......。
作品の圧倒的な力によって受賞するわけではないのかな?というのが素朴な印象。
まあ、エンタテインメントだから絶対的基準はなくて、なにが面白いかということだといろいろ好みもでてきていいんだろうけれど。


99.7.19(Mon.)
『ナイフ』重松清 新潮社 
第14回坪田譲治文学賞受賞の短編集。初版は1997年末。
98年にはだいぶ話題になった本ですね。
ようやく全部読み終えました。
んー、すごい。あの、教室の中の寒い雰囲気をとってもよく描いている。
こういう形で自分の外部を表現し得ることばを読むことの手応えを、しばらく忘れていた。
昔は読むのが嫌な本があった。そういえば。しんどいというか。
子供の頃の自分だったら、この『ナイフ』をどう読んだだろうか。
でも、もっともっと書かれるべき世界でもあると思う。
思えば、山田詠美の描く世界もそうだけれど、ファンタジックな自分の物語に惹かれる自分もいたけれど、他方では山田や重松の描く世界に生きている感覚も確かにあったのだ。
どうして忘れてしまっていたのだろう、と思うような。
必読、の一冊だと思う。ぜひ、多くの人に読んでもらいたい。
注文した重松清の近作『エイジ』が届かないのは売れているせいか。

99.7.05(Mon.)
『スキップ』北村薫(文庫版発売) 
北村薫の代表作の一つです。これはお薦め。私は東野圭吾の『秘密』と同様、これは泣けました。今ここに「ある」ことから生きることを始めていく潔さ。誰かが解説でそう書いていたのに同感です。
どんなにとてつもない現実でも、それを拒否していくのではなく、俯かずに、きちんと前を見つめて生きていくこと。んー、いいなあ。
今晩、読む本に迷ったらぜひ。

99.7.05(Mon.)
『交渉人(ネゴシエイター)』 
昔同じ題名の小説があったような気がするけれど、覚えていない。これは3日封切られた映画の方。人質を取って立てこもる誘拐犯を説得するプロ=ネゴシエイターの主人公が、警察内部の罠にはめられてしまう。絶体絶命の立場に立った彼は、内務捜査官で汚職と関係あると目された男を人質にして、そのオフィスに立てこもる。
対人質誘拐犯罪のプロが、逆に人質を取って立てこもらざるを得ない、そしてそれを包囲する警察のメンバの中に犯罪者が隠れている!
んー、映画の出だしの設定としては、とてもよく出来ていますよね。この映画はこのアイディアだけでももう見る価値があります。途中まではとっても素敵なシーンがいっぱいあります。
もうちょっとお金と時間とアイディアが最後まで続いたら、これはとてつもない傑作になったんじゃないかなあ。でも、いい映画だと思います。お金を出すならこういう映画で楽しみたい、と私は思いました。
『ヒート』(ロバート・デニーロ&アル・パチーノ)以来のわくわくでした。
ダイ・ハードみたいなアクションじゃないから、最後はもうちょっとひとひねりほしかったかな、とも思います。奥さんをもう少し最後で使えなかったか?
ま、でもそれは自分で考えるべきところかもしれません。
ファントム・メナスよりは単品ならお薦めですね。

99.7.05(Mon.)
『ファントム・メナス』 ジョージ・ルーカス
ご存じ、スター・ウォーズのエピソード1。まだ何も起こっていない全作品の序章といった趣きだ。
SFXも、当たり前のように使われていて、殊更な感じはしない。むしろ地味に淡々と表現されている、といった印象を受ける。もちろん最新技術がふんだんに投入されているのだろう。だが、むしろ今回は、何も特別なことはない、といった印象を受ける。なじみ深いというか。この20年は、スター・ウォーズが、私たちの中でエンタテインメントの常識として定着する時間だったのかもしれない、なんてことまで思ってしまった。
それはもう確固とした一つの「世界」なのだ。私はまた次回作が来たら見に行くだろう。ビデオになるのを待たずに、必ず劇場に行くと思う。スター・ウォーズフリークでは決してないけれど。
特別な感動も期待せずに。おもしろいとかおもしろくないとかあまり声高に騒がずに。
宇宙人がヘンテコな格好であって、それがリアルであるすごさみたいなものはもうないんだ。
壁面スレスレを高速で飛ぶように移動するスリルも、もうおなじみだ。
アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに引き込まれてダースベイダーになってしまうその哀しい話を、どうこれから作ってくれるか、だけが興味の中心だと、個人的には思っている。
宇宙共和国的大団円は、もうどうでもよくなっちゃったみたいだ。
ルーカスがあと2つでおしまいっていってたみたいだけど、納得がいくなあ。



99.5.25(Tue.)
『レ・ミゼラブル』 5月23日(日)於帝劇 滝田栄、村井国夫、岩崎宏美、本田美奈子
世界15言語28カ国で10年以上も上演され続けている理由が分かるような気がした。
革命前夜のフランスものだけれど、ブルジョアや貴族は主要な主人公には一人もなっていない。
学生でも、娼婦でも、子供でも、ジャン・バルジャン、ジャベール、酒屋の親父、誰をとっても周縁的な存在だ。そして互いに分かり合えない隔たり、人と人との間に流れる深い河の存在を痛いほど意識しつつ、それでも人は出会いを求め続ける......そこには、たしかな「愛と祈り」が析出してくるといっていいでしょう。洋ものの浪花節。でもそれが語られるのではなく、孤独な歌声として観客の胸に届き、私たちの心の中で、その歌の響きが初めて共鳴しあうのだとすれば、これは原作以上にミュージカルというメディアにふさわしい作品といえるのではないか。
分かりやすすぎてて物足りなかったんじゃない?と知り合いに言われたけれど、決してそんなことはない。もう一度行こうという気になる舞台だった。何度も見ている人にとっても、23日のこの舞台はなかなかいいものだったそうだ。
個人的には岩崎宏美がひいきなので、その魅力が十分発揮されていることにも満足だった。
舞台はひいきがあって見に行くのが歌舞伎ばかりではなく正しい観劇の作法だ、と石川淳も言っていた(かどうかは知らない)。今度は岩崎宏美以外、別のキャストの時を選んで見に行くつもり。

99.5.25(Tue.)
『リズム』森絵都(もりえと) 講談社刊
森絵都の三つ目。これは事実上のデビュー作。なにが起こるわけではないかもしれないけれど、これを書いておきたかったという作者の言葉に納得。作品としてのどきどきや切なさは『つきのふね』の方が上。児童文学としての結構は、『カラフル』の方がわかりいい。でも、『リズム』は、上手い下手とは別のこそばゆさがあるように思う。
こういうものをきちんと形にするかしないか、で人生は大きく変わると思う。
こちらを書き手の気持ちにさせるような、そんな一冊。
下手といえば下手。でもそういう問題じゃない、というのはもうすでにファン心理?
この人はこれを書いていくのかなあって感じがする。

99.5.16(Sun.)
『つきのふね』森絵都(もりえと) 講談社刊
森絵都の作品を2つ、続けて読みました。
うまい、と思う。
たぶん、重松清と同様、<今>の少年少女の捉え方がいい。
もちろん小説だから、類型化する力が必要。でもそれがたんなる平均じゃなくて、
典型的な面(サーフェイス)を持っていなければダメ。それが、感じられる。
「カラフル」は小学生から、「つきのふね」は中高生から、と対象はちょっと違うけれど、どちらも自己回復の物語です。
ファンタジーとしての自己回復物語なんだけれど、河合某のようなご高説じゃなくて、小説として具体的な部分がある。これは東野圭吾の「秘密」なんかにも言えるかな。
だから、主題としてはいくら陳腐でも、単なる消費される物語ではなく、どこかで元気を与えてくれる。
宮部みゆきの小説もそうでしょう。
エンタテインメントだけれど、時代の空気や、そのなかで持て余している自分の手触りを改めて感じさせてくれる。
そのことでなにが変わるわけでもない。でも、自分の手触りを再確認することで、人は初めてそれを対象化し、部分化された自分から、その自分の弱いところを部分として、逆に自己の全体像を回復する出発点にできる。
どんなに幻想的でも、どんなにバイオレントでも、どんなにセクシャルでも、どんなに不条理でも、どんなに陳腐でも、具体的な自分(抽象的な夢ではなく)の手触りを感じられるものを、私たちは作品としてきちんと向き合おうとするし、そうせずにはいられないのではないか?
「セントラル・ステーション」や「鮫肌男と桃尻女」といった映画も同様に、どうしようもなくひどい自分でも、どんなに現実感が希薄であっても、それが自分であるなら、その自分の手触りを感じることから始めようという、フィクション本来のスタンスがあると思う。
それが現代的ってことの意味じゃないだろうか。
というわけで、おすすめです。

99.5.15(Sat.)
『童話物語』向山貴彦 幻冬舎刊
『童話物語』向山貴彦著 幻冬舎刊 2100円(税込み)
もう、文句なしに今世紀最後で最上。
1200枚の枚数をものともせず、あっけなく読み切ってしまうジェットコースターファンタジーの誕生です。

「天空の城ラピュタ」、「ゲド戦記」、「モモ」、「果てしない物語」、「空色勾玉」、「ナルニア国物語」、「指輪物語」とさまざまにおもしろい児童文学、SFファンタジーはあるけれど、上のうちのどれかがとっても好きな人には、今すぐこれを読んだら本屋さんに走って購入することをお勧めします。
そうそう、「ゼルダの伝説」と「ファイナルファンタジー」のちょっと昔のやつを好きな人にもおすすめかな。
こんなゲームができたら絶対買ってプレイしてみたいと思うような1冊。
とにかくノンストップのジェットコースター伝奇物語です。
ただし、小説ではないので、念のため。お話として楽しむことが大前提。
でも、そんな分類や限界はどうでもよいのです。
これをいい映画で楽しみたい。いいゲームで遊びたい。
出会えて幸せです。ぜひ!

99.5.4(Tue.)
『カラフル』森絵都(もりえと) 理論社刊
気がつくと、ぼくは小林真だった。というお話。罪を犯して死んでしまった<ぼく>は、天使の世界の抽選によってもう一度別の肉体にホームステイするチャンスを与えられる。そこで成果を上げれば新しく生まれ変わるチャンスがもらえるけれど、失敗すれば輪廻から外され、二度と生まれ変わることができないのだ、という。ところがこの一度死んだ<ぼく>のホームステイ先になった小林真は、あこがれの女の子の援助交際、母親の不倫、友達のいない孤独、兄弟の嫌味などなど、苦悩の末に自殺したくらーいやつだった。その続編を<ぼく>にがんばれっていったって無理な話......。
とにかく楽しい児童文学。ノンストップノベルです。難しいことを考えずに1冊読もうか、というときにお勧め。
十分面白かったですよ。


99.5.3(Mon.)
『エーミール・ガレ美術館』
那須高原のガラス工芸(ガレの作品を展示)美術館に行って来ました。連休中でめちゃめちゃ渋滞だったけれど、行って良かったです。目の保養ってやつでしょうか。
ガラス工芸品の価値なんて全然知らないし、正直いってそんなに興味もないけれど、いいなあ、と思って見てきました。レプリカでもいいから身近に欲しいなあ、と感じるものがいくつかありました。本物のお値段はとてつもなく高いのでしょうけれど、デザインだけ同じ、ガラスの感じが同じならやすくて全然かまわないからほしい。やすくてといってもそれなりにしてしまうでしょうけれど。
中でも青と緑が混じったような細長い花瓶がとてもすてきでした。名前も覚えていないけれど。



99.5.4(Tue.)
『恋におちたシェイクスピア』
劇中劇となる「ロミオとジュリエット」と、シェイクスピア自身の恋愛とを合わせ鏡のように配置しながらドタバタしながら恋愛劇を見せていくのは、イギリス的かな、やっぱり。脚本はアメリカの人なんだろうか。
なんとなくやっぱりイギリスっぽいかんじがするけれど、それはシェイクスピアの題材のせいだけなのか、それとも役者のせいなのか。でも、こういうのは映画じゃなくてもいいのかなあ。
劇中劇で好きだったのはトリフォーの「アメリカの夜」。パッフェルベルのカノンをたしかこの映画で初めて聞いた記憶がある。『Wの悲劇』(薬師丸ひろ子主演)も好きだったけど。
あ、それはさておき、『恋におちたシェイクスピア』は、アカデミー賞はいっぱいとったみたいだけれど、どうなんだろう、そんなに一般的に大受けするような映画でもないように思うけどねえ。でも、演劇としての悲劇を楽しみ、響き合いつつもそれをまたぎこしていく作り手=享受者を描くっていうのは、「のど自慢」がいいな、と思う部分とどこかでそれこそ響きあっているようにも思う。
「ロミオとジュリエット」を直前に観ていたから、それと響き合っていっそう面白さが増したっていうのもあるかもしれない。シェイクスピアを知っているとさらに楽しい作品かも。でもそれはついでの楽しみだけどね。
観ても損はしない1本だと思う。
私には面白かった。一緒に観たやつは、泣かせるか笑わせるかどっちかにしてくれ、と言っていたが。

99.5.1(Sun.)
『シン・レッド・ライン』
中一の息子と一緒に『シン・レッド・ライン』という映画を見てきた。
2時間50分ぐらいの映画。これはちょっと長い。戦争映画は基本的に長いものかな、というのは、『ディア・ハンター』以来自分の中での常識になっているので、途中でちょっと寝たけれど、それ自体はOK。
部分的には、南太平洋の島の人が歌うゴスペル風の合唱が最高だったとか、水の絵がとっても表情豊かで、それから丈の高い草が風になびいたりその上を太陽の光と雲の陰が交互に舐めていく様子なんかも素敵だったとか、見てよかった、とは思う。
それから、これはアメリカの戦争映画の常識というか向こうの軍隊の常識なのかもしれないけれど、
歩兵−軍曹クラス−中隊長−その上のえらい人−画面に出てこない師団長など
という階級ごとの持たされている問題の質の違いみたいなものが、そう、たとえば
ティム・オブライエン「ぼくが戦争で死んだら」
などでも示されているように、この映画でも、もちろんプライベート・ライアンでも、非常に明確に出ていて、ああそうなのか、と妙に納得してしまった。
インテリ中隊長の苦悩、と、時に共感しときに反発しながらそれをみているほかない兵卒たち。手柄を立てたい左官以上の人たち。命知らずの戦闘のプロ、しかしそれに徹する以外にない軍曹たち。
そういうところはきちんとまるで<風景のように>描かれていた。
直接は全然関係ないけど、ヴィッツっていうトヨタのヨーロッパ戦略車(小型車の)のデザイナーがギリシャ人だと聞いた。
去年観た「遠い帰郷」という映画はイタリア系のユダヤ人が収容所から故郷に帰る話だったか。
この映画の主人公の顔も、アメリカって感じじゃかならずしもなくて、むしろそういった大陸的な雰囲気がどこかあったような気がする。全然根拠はないけれど。ただアメリカ人が観ている映画っていう感じがしないっていうところはある。どこか受動的なカメラの視線。カメラマンが違うのか、監督なのか、それとも売り方なのか。
興行的には絶対『プライベート・ライアン』の方が売れるんだろうけれど、絵としてはこちらの方が好きだ。
それにしても、もう少し短くならないか。退屈はしないけれど、終わりの方はちょっと長い。
最後に海と子供が出てくると、まるで南太平洋の島が<楽園>の記号みたいになってしまう危険はないだろうか。
もうひとつ別の世界なんてない、というリアリズムで徹底する必要はないし、別の世界が幻であってもそれを想像することの自由までは奪えないわけだから、それはそれでいいのだけれど。
ともあれ、いちおうお勧め。
時間があったらこの連休中、「逮捕しちゃうぞ」と「シェイクスピアの恋人」、それに「エネミー・オブ・アメリカ」の3本見られたらいいなあ。
でもまあ無理か。

99.4.22(Thu.)
『スプートニクの恋人』『レキシントンの幽霊』村上春樹
ここ2,3日の間に、村上春樹の小説を久しぶりにいくつかまとめて読みました。
『スプートニクの恋人』という新刊の長編と、『レキシントンの幽霊』という短編集です。
人と人とが、正面から向き合って相手を受け止めようとしつつ、しかしそれがかなわないまますれちがい、あるいは決定的な異質性(あるいは抱えている時間・空間の違い)と向き合うことになる。
そんなお話とたくさん出会ったような気がします。
一人の人間の中に、こちら側と向こう側があって、しかしそれは心の中の幻想で終わるのではなく、「現実」として隔てられており、鏡の中だったり南極だったり地面の中だったりする向こう側の世界のリアリティが、一瞬現実を幻想のようにやせほそらせてしまう。そんな瞬間の話、とでもいえばいいのでしょうか。
その仕組みは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や「羊をめぐる冒険」から変わっていないともいえるし、ずいぶん遠い難しいところまできたのかな、ともいえそうです。
とにかくもう20年ちかく読みつづけている作家ですから。

河合隼雄との対談や、聞き書きよりはやはり小説の方が私にとっては大切なものに感じられます。
でも、『スプートニクの恋人』は、始まり方の吸引力に比して、後半は短編をいくつか合成したような、いささか唐突な感じを受けました。
もっとも、読者にとっては(少なくても私にとっては)始まりの意外さを納得するほうが、たったひとつの結論を内面化するよりはたやすいことですから、それは作者のせいではないかもしれません。
1つだけよむと納得しがたいものも、いくつかの世界が響き合うとどこか腑に落ちていく。そんな感じも少し味わいました。
99.4.8(Thu.)
『哲学の味わい方』竹田青嗣 対談 西研  現代書館
 どちらも私の感じでは若い人向けの啓蒙的な文章を書く人です。
 この二人のスタンスは、半分賛成で半分反対。
 小難しいことをきちんと注釈していたら人生それだけで終わっちゃう。生きるために本当に必要な哲学を自前でしようぜっていうのはとっても賛成。敢えて肯定的に語ろうとするその姿勢も多、とすべきだと考えます。
 ただし、作品としてはこの対談は弱い。つまり二人の間に同意しえることしか語られていない。
 それがただちに悪いということでもない。そういう共有も必要だ。
 でも、一冊全部「わかるわかる」で対談されては時間が勿体ない、というものだろう。
 竹田と西の世界了解のズレや響き合い、せめぎ合いがみたい。
 別に二人が仲間かどうか、という問題ではなくて、問題を共有するプロセスを、対話において生きてほしい、ということだ。昔話とか時代の話ではなくて。
 お金を払って損をしたとは思わない一冊ではありましたが。
 どちらかというと生徒に読ませたいな。



99.4.4(Sun.)
『ガメラ3』金子修介監督作品 大映株式会社制作(『リング2』についても少し)
 あまり期待しないで見に行ったら、これが良かったです。
 怪獣ものじゃないみたいなお話でしたね。
 民俗学屋さん?とゲーム屋さんの解説の饒舌には参ったけれど。
 材料はけっこう並べてあったと思う。
 それに、渋谷と京都を舞台にしたイリスとガメラの闘い(壊し方)もなかなか見せてくれました。
 もっともっと切ない物語にできるんじゃないかな。
 何が不足しているのだろう?
 伝わらなさ、とそのもどかしさかな。ドラマはそれがやっぱり基本だと思う。
 出会えない、ときめかぬ者たちが、最後に出会うこと。そのインパクトは残念ながら、弱い。
 『のど自慢』や『セントラル・ステーション』、『鮫肌男と桃尻女』、『フルモンティ』に敵わない理由でしょうね。
 ただし、傷ついたガメラがなお闘いに向かおうとするエンディングは良かった。
 昨日観た『リング2』よりは良かったと思う。これは人気の映画だから私が観損ねている面があるのかもしれないけれど、私は『リング』の方がずっと良かったです。
 少女の手を握った瞬間に、主人公の女性の心の中に映像が逆流してくるあのシーンは良かった。
 理屈ではなく、映像で見せているから。
 映画がセリフで理屈を言うようになったらおしまい。
 刑事や医者が無力なのは分かり切ったことなので、医師や刑事に狂言回しをさせるのも工夫が足りない。
 『リング』は映像で見せてくれたじゃないですか。映画なんだから見せ物であってほしい。

999.4.2(Fri.)
『永遠の仔』天童荒太 幻冬舎刊行 上・下
 最後の1/5を失速と観るのは間違っているだろうか。それでも読み応え十分の力作であることは間違いない。子どもの頃に経験した闇をそれぞれ心の奥にしまいながら、その闇の深さにおびえるかのように、懸命に生きる3人の男女。30才を過ぎ、17年ぶりに再開を果たした彼らの前に、その葬り去ったはずの過去が、ある殺人事件の発生と共に、避けがたく蘇ってくる。
 幼児虐待と親殺しの渦巻く闇を、読者は3人の過去を振り返るその身振りとともに追体験していくことになります。2300枚を長いと思わずに一気読みしてしまう魅力のある上下二冊。
 人は誰でも無条件に存在を認められたいのだ、と、愛されて初めて人生を本当に歩き始められるのだと、当たり前だけれど、実は誰もが手にすることができず淋しい思いをしているその心の孤独な部分を、圧倒的な力で描き出してくれます。
 物語に身を委ねたいときにはお勧めの一冊。
 それにしてもこういう物語は終わり方が難しいですね。映画『愛を乞う人』の時も思ったことです。

999.3.21(Sun.)
『漢詩をたのしむ』林田慎之助 講談社現代新書
漢詩100を手軽に楽しめる1冊です。
生徒にも勧められそうだし、自分も楽しい。
これ、けっこういいかもしれません。

999.3.21(Sun.)
『遺された黒板絵』ルドルフ・シュタイナー ワタリウム美術館 監修 筑摩書房
カンディンスキー、パウル・クレー、モンドリアン、フランク・ロイド・ライト、ボルヘスなど、20世紀の芸術家たちに大きな影響を与えたシュタイナーの講義における黒板の絵が、保存されていた。
それが最近、一個の完成された抽象画として評価されている、とか。
私は抽象画云々より、黒板の絵、として魅力を感じました。
こんな黒板で授業が受けられたらきっと幸せだろうな、と実感できる美しい、誘惑的なものです。
4700円とお高いですが、覗いてみて損はしませんでした。


1999.3.21(Sun.)
『リミット』野沢尚 講談社
誘拐事件が頻発する中、その一つの事件の捜査に参加していた女刑事の息子がさらわれる。誘拐犯から警察の裏をかいて身代金を受け渡せ、との指示が来る。上司を裏切り、金も奪われ、自らも追われる身になりながら、息子を奪還するために彼女は敢然と反撃を開始した!
この設定がまずヒット、でしょう。
描写ではなく説明になってしまっているところはあるものの、楽しく読める一冊。
お暇だったら読んでも悪くない本です。

1999.3.21(Sun.)
『大衆教育社会批判序説』すが(いとへんに圭)秀実
専門学校の教師だった文芸批評家の著者が、大学批判を軸に線ご教育を考えている本。
大学の推薦枠5割へ増加。短大の推薦枠撤廃など、最近の少子化にあわてふためく大学の現実と、風前の灯火になりかねない専門学校の厳しさを踏まえつつ、戦後教育の問題点を指摘。
『大衆教育社会のゆくえ』苅谷剛彦 中公新書とペアで読むとさらに面白い1冊。
教育の中身ではなく、戦後教育の枠組みについて考えるのに好適な本です。よろしかったらぜひ。

1999.3.9(Tue.)
『Vitz』GOLD MOOK RVシリーズ23 
 トヨタが世界に問う新世代リッターカー
 新型リッターカー『Vitz(ヴィッツ)』の特集本です。
 試乗してみて一目惚れ。そのあと、この本をみてから、私はヴィッツを購入しました。
 可愛い車ですね、とにかく。納車が四月になるかも、とのこと。待ち遠しい。
 車もある種のメディアだと思う。

1999.3.9(Tue.)
『TOKYO BOOK MAP』書籍情報社
 東京で本を探すための本です。
 書店街のマップ/大書店のフロアマップ/専門書店ガイド/図書館ガイド専門図書館ガイド
 など、本探しの手助けに格好。
 たまにしか東京にいかない私には、とりわけ助かる一冊。
1999.3.9(Tue.)
『日蝕』平野啓一郎 文芸春秋
 最初は、なんか失敗してるんじゃないの?と思った。前半の部分と、後半がなんだかつながらず、クライマックスに位置している「日蝕」の場面がどうしても唐突に思われて。
 読み終わってからしばらくして、なんか面白いかもしれないと、少しずつ感じています。これはこの一作ではまだ分からない。「主人公の学僧は作者の分身ではない。そればかりかこの作品には主人公はいないともいえる。学僧は、海苔を干す時に使われる小簾のようなもので、干し上がれば用のないものである。」という河野多恵子の選評は、そうなのかなと思った。
もう少し見てみないとこの作者の見ているものがよく見えてこない。
まさか「奇跡との遭遇願望」ではないと思う。
でも、付き合ってみようか、という気にならないわけでもない。
惹かれるものはあるけれど、なんだかよく分からないというところでしょうか。
もう少ししてからまた。

1999.2.24(Wed.)
『わるい本』アランジアロンゾ ベネッセ
えーっと、これは説明するのが難しい本です。
絵本といえば絵本。わるもの、という独自キャラクターのぬいぐるみの写真とイラストで構成された、23の短い挿話で成立している。アランジアロンゾ独自のキャラがいろいろ、間抜けでせこい悪さをする話。
でも、これは小6の息子にめちゃめちゃ受けました。
たまごくらぶ・ひよこくらぶのキャラデザインもしているユニット「アランジアロンゾ」の<大人の絵本>です。

1999.2.24(Wed.)
『究極の質問100』ディスカヴァー21 ディスカヴァー21
【書名】 究極の質問100
【著者】 ディスカヴァー21
【出版社】 明治図書
【定価】 1000円+税
【ISBN】 4-924751-86-3
【発行年】 1999.1.25初版刊
こういうのは心の治療本というのでしょうか。伊藤守というこのディスカヴァー21の代表の本も他にたくさん出ています。心を癒すやり方は、ひとそれぞれにさまざま。また時、ところ、場合によって違うのでしょうから、それについてのコメントは控えます。
 その中で、この本はHRなどに「使えそうだ」ということで昨夜買ってきました。
自分の輪郭を確かめ直すための質問が100並んでいます。その質問そのものが著作の内容なので、あまり紹介するわけにはいきませんが、少し説明します。

 あと24時間しか命がなかったら?
 人生のうちで選び直せるものが1つあったとしたら?
 ○○年後のあなたはどうなっていると思いますか?
 男もしくは女としての自分に点数をつけるとしたら?

といった問いがもう少しだけ具体的な状況説明とともになされていて、しましば、またそれはなぜですか?とたずねます。
 正直、1問10円が高いか安いかむずかしいところですが、身自分でもいくつかは思いつきますが、100考えるのは結構大変なので身銭を切りました。

1999.2.23(Tue.)
『セントラル・ステーション』ブラジル映画
 これも恵比寿で単館上映。ベルリン映画祭でグランプリ、とか。
 ブラジル映画です。
 ロードムービーってヤツかな。駅で代書屋をやっている中年の嫌味な独身女性が、ある時偶然独りの少年と知り合う。少年の抱えた不幸と中年女性の人生への絶望。気持ちの通じ合わないまま旅に出ていく二人。そこで体験していくさまざまな出会いと別れ。
 これは重いです。でも、最後はとっても爽やかに泣けます!
 うーむ、『のど自慢』、『鮫肌男と桃尻女』と、今年は春から良い映画に当たりますねえ。
 絶対お勧めだな。
 でもこういう映画って、ビデオで観たりすると結構ぐーぐー寝ちゃったりして(笑)。
 鮫肌の方は絶対寝ないからビデオで観るなら鮫肌かな。

1999.2.22(Mon.)
『鮫肌男と桃尻女』浅井忠信主演
 渋谷で単館上映ですが、テンポよし、音よし、映像面白い、行動に深い理由なし、キャラクター変態、という前提での純愛ものがたりとでもいうべき今年度の収穫です。
 私は、今年の日本映画はこの鮫肌を基準に観ていくことになりそう。
 組の金1億円をぱくって逃亡する若いヤクザと、家出したOLが偶然出会い、奇妙な逃避行を共にすることになる......なんて書くと重そうだけれど、ナンセンスに近いキャラクター(主人公の二人と、兄貴分のヤクザを除く)の言動が、重力を拒み、不思議な浮遊感覚をもたらしている。
岸部一徳も鶴見辰吾もいい味出している。オカマの殺し屋はB&Bの片割れか?
 濃いけれど、間違いなく動く映像と音にこだわっている楽しさが伝わってきます。。

1999.2.20(Sat.)
『パパ ユーア クレイジー』サローヤン 新潮文庫
悲しくて切なくて辛くて、世界の意味が失われたと感じられるそんな時に贈り物のように届けられた本です。

45才の作家の父親と10才の息子との会話。その様子をきわめて短いシーンを切り取りながら、生きることの意味を学んでいく詩的小説。
まず45才の作家が子供に向けて語ることばは、40才の私と12才の息子との関係を重ねてみることができました。
と同時に、自分自身の中でずっと守り続けてきた子供の心を、死をどこかで意識しはじめた年齢になって、改めて世界に送り出そうとするという思いをそこに感じます。
私にとってはどちらかといえば後者の意味合いが強い。自分の中の子供、自分の中の、まだ世界の意味と出会っていない少年少女たち。考えてみれば、私たちは現実に本当の死を迎える直前まで、何度でも何度でも過酷な世界との出会いを繰り返していくのではないでしょうか。そのたびに、私たちの中には小さな死が生
まれる。
それでも、世界と出会うことを求める<愛>のエンジンを持ち続けること。その意味を、自分の中の少年少女に言って聞かせていくって感じかな。
もう一度自分の中の子供を導きなおして、世界の果てから、人々のいるこの世界につれて戻ってくるための旅。
それは、もう一度生きるために、もう一度闘うために、全てを失って、何も持たない子供に戻った自分が、それでも世界の意味をまた掴み直すために自分の足で歩き出す、そのための旅の描写、でもあるのではないか?

海ぞいの小説家の家。淡々と続く海岸。子供と同居するようになって、月賦で買った11年もののフォード。小説家がつくるシンプルな料理の描写。子供との水泳。かけっこ。フットボール遊び。クリスマス・イヴ。小旅行。そんな生活の一こまの中で、下のような言葉がさりげなく挟み込まれているのです。
よろしかったらぜひ手にとってみてください。

(引用開始)
引用1
「父さん、世界を理解するって、どんなことなの?」
「そう。私はお前に教えてやりたいと思うよ。だけどね、実をいうとね、それは
誰も他の人に教えることのできないようなことなんだ。父親が息子に教えること
さえできないんだ。自分でそれを見つけた時にお前にも判るだろうよ。必ずお前
には判るよ。それはこの世で一番素晴らしいことなんだ。」

引用2
「世界中で学校が終わったあとの時間ぐらいいい時間はない。そして、丘をめぐ
る道くらいいい道はない」

引用3
「作家というものはこの世界に恋をしていなきゃならないんだ。さもなければ彼
は書くことができないんだ。」
「どうして書けないの?」
「それはね、善いものはすべて愛から発するからさ。作家がこの世界に恋をして
いる時、彼はすべての人に恋をしているわけだ。そこのところを本気で追求して
ゆけば彼は書くことができるのさ。」
僕は遙かな星を見つめた。
「僕はこの世界に恋をしている?」
「もちろんさ。もしかすると、自分が恋をしていないんじゃないか、なんて考え
がお前に浮かぶ理由でもあるのかね?」
「いいや別に。ただ、僕がこの世界を憎んでること以外にはね。」
「ウン。お前がどれだけこの世界を憎んでいるか、私はよく知っている。」

引用4
「もしお前が愛することができるとするなら    」彼はいった「お前は憎む
こともできるんだ。もちろん、大部分の時間、お前は愛しているわけだが、しか
し全く憎まないということは不可能なんだ。憎しみというのは、そのことさえ理
解していればなかなか役に立つ感情なんだよ」
(引用終了)

1999.2.6(Sat.)
『のど自慢』井筒和幸監督作品。出演、室井滋、大友康平、小林念持、伊藤歩、竹中直人
 これは、ほんとに映画でなければ観られないおもしろさですね。
 とっても日本的なNHKのど自慢。私はこれがTVで日曜日にオンエアされる時は、ほとんど観ているのが恥ずかしくてチャンネルを変えてしまうことが多いのですが、それをこういう形で映画にしてくれると、とっても素敵にみえてくる。
 映画のおもしろさが本当に分かる、私にとっては映画的映画です。面白いのは、主人公たちが全然<出会わない>こと。それぞればらばらに、のど自慢に向かって思いを募らせていく。
 人生の中で辛いこと、切ないこと、悲しいことがたくさんそれぞれにあって、その中で、そののど自慢出場で人生の何が変わるわけでもないと知りつつ、でもそこで自分の思いを込めて歌おうとする登場人物たち。
 登場人物のドラマはそれぞれ孤立しているし、そのシーケンスの中でも人と人とが出会うというより、それぞれの思いがすれ違うことの方が多い。
 にもかかわらず、切り取られた断片を見続けていく観客の私たちは、その<生きていること>の響き合いを感じていくわけです。
 物語ではなく、映画です。ぜひお勧め!

1999.1.28(Thu.)
『知政学のすすめ』米本昌平

 三菱化学生命科学研究所室長の米本昌平が、久しぶりにその仕事をまとまった形で提示した一冊。『地球環境問題とは何か』という新書は範囲が限定されていたが、今回の本は米本昌平の思考の空間の全体像が見えてとても魅力的な仕上がりになっている。
 今日付けの朝日新聞の「論壇時評」も米本昌平が書いているが、現代について考えるときに、彼の視点を抜きに思考を進めることは、私にとっては難しい。そういう形で頼りになる本である。
 大学入試の小論文対策のために買わせたいな、と一瞬思ってしまう。
 それだけ現代の課題を構造化するのに役立つ1冊。
 去年の収穫のベスト5には入れていいかも。
 昨年は見田宗介の『現代社会の理論』岩波新書がお勧めだったが、今年はわかりやすい世の中の解説が欲しいと思ったら、迷わずこれ。
 出版社を失念。あとで書きます。

1999.1.21(Thu.)
『キッドナップ・ツアー』角田光代 理論社
 貧乏で甲斐性なしで、妻(つまり娘の母)と別居した父が、夏休みが始まったばかりのハルの前に突然現れ、「おれはあんたをユウカイする」と宣言した。それから父と娘のユウカイな逃避行?が始まる......。ってお話です。


「私きっとろくでもない大人になる。あんたみたいな、勝手な親に連れまわされて、きちんと面倒もみてもらえないで、こんなふうに、いいにおいのするおいしそうなものを鼻先におしつけられて、ぱっと取りあげられて、はいおわりって言われて、こんなことされてたら私は本当にろくでもない大人になる。自分たちの都合で勝手に私のことを連れまわして。おとうさんのせいだ。おとうさんたちのせいだからね。」
という娘に、黙って何も答えずじっと見下ろすばかりだったおとうさんが
「お、おれはろくでもない大人だよ」
「だけどおれがろくでもない大人になったのはだれのせいでもない、だれのせいだとも思わない。だ、だからあんたがろくでもない大人になったとしても、それはあんたのせいだ。おれやおかあさんのせいじゃない。おれはあんたの言うとおり勝手だけど、い、いくら勝手で無責任でどうしようもなくても、あんたがろくでもなくなるのはそのせいじゃない。そ、そんな考えかたは、お、お、おれはきらいだ」
「きらいだし、かっこ悪い」
「責任のがれしたいんじゃない。これからずっと先、思いどおりにいかないことがあるたんびに、な、何かのせいにしてたら、ハルのまわりの全部のことが思いどおりにいかなくてもしょうがなくなっちゃうんだ。」
と最後に答える。この、無力で弁解がましく、何も持たず、何も示し得ない、そういう形でしか父たりえない「おとうさん」を描くことで終わるこの小説を、私(島貫)は嫌いじゃなく読了した。
読んで損はない、と思う。

1999.1.17(Sun.)
『秘密』東野圭吾 
 以前、広瀬隆『マイナス・ゼロ』、ハインライン『夏への扉』宮部みゆき『霧越邸事件』、作者忘れた『リプレイ』北村薫『スキップ』、佐藤正午『Y』、とタイムスリップものの傑作秀作を挙げましたが、この『秘密』も、それとは少々位相が異なっていながら(あまり言うと別のもののネタバレになってしまう危険があるので言えませんが)、失われた人ともう一度出会うことの幸福と絶望、そして愛を描いて、とても魅力的な作品に仕上がっています。『スキップ』・『Y』系ですね。
冒頭の設定なので書いてもいいと思いますが、主人公は39才の男。妻と一人娘が交通事故に会い、残ったのが小5の娘の体と30代半ばの妻の心という設定で物語が始まります。
基本的には、夫・父という役割、妻・娘という役割を、単なる役割として演じることを超えて捉え直すことを通じながら、人は「愛」という象徴秩序をいかにして手にするかっていうお話。
12時ごろ読み出したら3時過ぎまでかかって一気に読了。
結末を誰かに話したくなるって誰か書評子が言っていたけれど、同感。
誰か読んだら感想を教えてください!

1999.1.12(Tue.)
『セヴェンヌの蛇女』A.S.バイアット(「すばる」99年2月号
 バイアットと丸谷才一の対談が掲載されていたので、普通は追悼号しか買わない雑誌を購入。
 おまけでバイアットの短編が1つ。
 部分的にはいいな、と思うところがあります。
 絵描きの表現行為とその欲望に言及している部分はさすが。
 でも、この人のは長編を読みたいですね。

1999.1.8(Fri.)
『マイ・フレンド・メモリー』
 現在お正月映画で上映されている少年2人の友情ものです。
 これは、少年らしいファンタジックな面が映画に嫌みなく取り込まれていて、シリアスなお涙ものとならずに済んでいるように思いました。体が弱く、しかし物知りで賢い少年と、体は人一倍大きく力持ちだけれど、2回も中1を落第しているもう一人の少年。互いに苦悩を抱えながらも、絶妙のコンビになっていく。しかしその友情にも悲しい別れが......。
 気軽に泣けて、テンポはグッド。悪役のスケールの小ささ、助けにくる大人のあまりのタイミングの良さ、少年達の勇気を示す行為の厚み不足など、細部の展開に安易さはあるけれど、少年の心の中のファンタジックな世界を記述しているという枠組みが、それをまあさほど不自然でなく受け止められるようにし向けてくれます。
 この手の作品としてはけっこう軽いバランスが取れているんじゃないかな。
 ひとつひとつファンタジックなエピソードとしてはまあまあ。
 全体を響き合わせる工夫がもう一つあると、こういうタッチでも傑作に近くなったかもしれないのに。作っている側の楽しさ(手軽さ?)を感じます。

1999.1.8(Fri.)
『天使はこの森で、バスを降りた』
 ビデオで観ました。田舎町に若い女性がやってくる。うさんくさげに詮索する町の住人。
 偏屈な食堂の女主人のところになんとか住み込みで職を見つけた彼女は、しだいに町の人ともうち解けていくが......。といった感じで始まるお話です。
 しだいに町にとけ込んでいく彼女と、彼女自身が背負っている過去の重さとの隙間が主題になっていくわけです。
 切ないけれど、悪くない映画ではありました。
 ちょっと結末が安易かな。
 観る映画に迷ったら観てもいい、という程度の作品でしょうか。

1999.1.7(Thu.)
『時間と自己』木村敏 中公新書
 10年以上前に読んだ本ですが、時間について論じる時に、主体と対象の関係について書かれたものとしては私にとってスタンダードになっているので、もう一度読み返しました。
 時間と自己の関係を、これほど明確に論じた新書をほかに知りません。
 新しい知見、というよりは、考えを進める上での前提をもう一度確かめるのに良い本でした。
未読の方はぜひお勧めの1冊。岩波新書からも1冊数年前に木村敏は出していますね。
『心の病理を考える』、だったかな?

1998.12.27(Sun.)
野矢茂樹『無限論の教室』講談社現代新書
これ、可能無限と実無限の話から始まって、カントールの集合論(無限論として
の)、対角線論法、ラッセル、ヒルベルト、ゲーデル、という流れを追っていく
んですが、とにかく楽しい本です。
日曜日の朝、軽く哲学しようかな(誰も思わない?)、と思ったら絶対にお勧め
の1冊。読み始めたことを後悔する(止められなくて)哲学の本って、私にとっ
ては永井均とヴィトゲンシュタイン以外にはありませんでした。その中の1冊に
加えなければならない本です。
ああもちろんこの本もヴィトゲンシュタイン的地平で書かれているのかもしれな
いのですが(本人が解説で書いている)、ということは好みが偏っている?
いえいえ、この本はおもしろいですよ、やっぱり。


1998.12.25(Fri.)
『Y』佐藤正午(角川春樹事務所)
風邪で発熱したため、病院で点滴をされながら読みました(^^;)。
 これは、『リプレイ』(グリムウッド)『マイナス・ゼロ』(広瀬正)『スキップ』(北村薫)
『霧越邸事件』(宮部みゆき)
(えっとほかにブラッドベリのもっと基本的なネコの出てくる作品があり
ましたよね?山下達郎の曲、というか吉田美奈子の詩、にもなっている。
でも題名忘れてしまいました。)
など「過去にさかのぼりパターン」のジャンルに属する新作です。
これはこれで中年のおじさんにはしみるなあ、と思って読みました。35
歳すぎから45歳ぐらいまでって、ほんとにこの人生そのままいくの?って
いう思いが出てくる年頃と言われていますよね(別にんなことないか?)。
映画でいえば『フィールド・オブ・ドリームズ』でも『 Shall We Dance?』
でもそうなんだけれど、もう一度やりなおせたら?っていうファンタジーは
誰でも抱く。小説としてそれをどう描くかってことになるんでしょう。
私は、この『Y』は叙述のしかたの工夫としては、上に挙げた他の作品より
も買える、と思います。一番おもしろいか?ときかれれば、そりゃちょっと
無理というものですが(苦笑)。なにせ『リプレイ』も『マイナス・ゼロ』
も『スキップ』も、これはもうエンタテインメントとして大作であり傑作に
近いものですから、比べちゃだめ。でも物語としてではなく、書かれたもの
としての興味はこちらの方が惹かれます。

1998.12.23(Wed.)
『知性のために』蓮實重彦(岩波書店)
 東大総長、蓮實重彦の式辞集です(なんとなく笑っちゃいますけど)。私たちには
文芸批評、映画批評でなじみ深い。その蓮實が公務として入学式や卒業式に何を
語ったのか、を見るだけでも興味を惹かれます。
「知性とは、何よりもまず、知性そのもの限界をみきわめる力にほかなりません。
言葉は、自分に何が語りえて、何が語りえないのかというその限界に近づこうと
するとき、初めてその力を発揮するものなのです」
 と、序にあります。
 中身はたとえば、近代はすぐれて模倣の時代であったのは明らかなのに、大正時代か
ら「個性化」などという紋切り型しかいえない「貧しさ」こそが問われるべきだ
し、その「貧しさ」に無頓着である鈍感さこそが、反知性である、みたいな感じ
の話が基調です。教育という行為にあふれるべき<愛>とその困難さの自覚なん
て話もありますね。困難さの自覚の方にウェイトがあるんだろうけど。また模倣
の時代っていうのもきわめて皮肉な意味でもあるのでしょうけれど。
 おもしろくて、このヒトの本としては例外的に読みやすい本でした(苦笑)。

1998.12.22(Tue.)
『クロス・ファイア』上・下 宮部みゆき(カッパノベルス)
 宮部みゆきは現代を代表する推理作家、なわけでしょうし、今年もっとも話題になったのは『理由』の方でもあるのでしょうが、私はこちらの方を推したい気持ちです。モノやヒトを一瞬にして超高温で焼き尽くす超能力を持ってしまった女性。SF的な意匠を借りながらも、人間が自分の抱えた固有の困難をどう受け止め、どう生きていかなければならないかというその典型として<超能力>が用いられているのを感じます。ヒトは、どんな固有性であれその種類や性質を問わず、自分自身の固有の問題と向き合い、自分が自分であることから逃げられずに生きまた死んでいくしかない。そういう現代の<個>の生きる切なさを、宮部みゆきは鮮やかに描ききっています。おそらく、その主題そのものは、万人に共通する凡庸な結論しか生まないのかもしれない。でも、数としての結論だけ語れば、ヒトはみなたった一人の死という結論にたどり着くしかないのですから。
 あ、もちろんエンタテインメントとして一級品です。ノンストップノベルの保証付き。

1998.12.22(Tue.)

ビデオを5本一気に観た感想を。

『バタフライ キス』
これはイギリス映画らしいビターな味。
ちょっと狂気じみた展開ですね。
モノクロで挿入される片割れの女性の淡々とした語りから、逆に観客はあらかじめ破滅を予告されている。したがって、観る側の関心はその過程、ディテイルに
集中していくことになります。むしろ平穏な獄中での語りは、その破滅がユーニスにとっての救いであったかのようにも感じられます。
ユーニス、魅力的な人物像ですね。
羊が牧草の海に漂うようにうずくまっているラスト近くの描写と、前半の高速道路の車の群とが対比的に感じられました。
救いってなんだろう?求めることってなんだろう?いきるってなんだろう?
愛するってなんだろう?
様々な問いがこちら側の心の中に湧いてきます。
しかし、もちろん答えは、ない。
辛い映画でした。でも手応えは本物。

『ゼイラム2』
 雨宮慶太郎監督、森山祐子主演のSF映画。
 これはやはりおもしろかったです。もう5年ぐらい前の作品かな?でも、おもしろかったです。映画そのものよりも、それを作っているヒトの楽しさが見えるような映画ですね。嘘っぽいというかお金がかかっていないんだけど、楽しめるよねっていう信号が出ていて、思わずうなずいてしまうような。
『薔薇の名前』
  これはもう見応え十分。中世の修道院で不思議な殺人が連続する。隠された秘密を探るうちに明らかになる「本」の存在。異端審問の苛烈さ。
 さまざまな要素が響き合いながらラストに向けて高まっていく。傑作だと思います。

『恋いにおぼれて』
 メグ・ライアン主演のラブコメディ
 お互いに恋人に振られた同士が、振った同士のカップルを壊そうとするうちに
恋に落ちるというお話。暇だったら観てもいい、という程度でしょう。

『パウダー』
 特殊な能力を持って生まれてきたジェレミーという少年。天才的で電気をあや
つり、心を読む力もある。しかしアルビノ(白子)で周囲からは奇異の目でみら
れ、生まれた時の記憶さえもっているのだが、父親に恐れられたのが最初の記憶、
という不幸な生い立ち。面倒を観ていた祖父が死んで、施設にいれられるのだが周
囲の注目も同時に浴びることになり......。
 エピソードは悪くないと思います。
 『グッド・ウィルハンティング』
 と同じような種類かな。
 でも、物語のエンジンが主人公のキャラクター中心で、周辺が脇役的人物造形
を越えていない、というのがこの手のちょっと泣ける話が抱えがちな弱点でしょ
う。
 もっともっと主人公と対決する存在(悪でなくてもいいが)が必要です。
 女たちがみんな理解者じゃあ、ちょっと甘い。

1998.12.17(THU.)
『鳩笛草』 宮部みゆき カッパノベルス
 宮部みゆきの超能力ものの中編が3編。
 これが凄い!その中の『燔祭(はんさい)』という作品は、今年になって1200枚の長編「クロスファイア」上下という続編も出ています。『鳩笛草』そのものは数年前の作品が入っているものです。
 でもとにかく宮部みゆきの、ストーリーテラーとしての魅力は群を抜いています。
 絶対お勧めの1冊。時間を割いてでも今は宮部みゆきを読む価値がありそう。
 私は今『クロスファイア』の真っ最中です。

1998.12.13(Sun.)
『フルモンティ』イギリス映画
 いかにも最近のイギリスらしい、鉄鋼不況で失業者のあふれる町が舞台。『ブラス!』はたしか炭坑閉鎖の町だったかな?『トレイン・スポッティング』や『普通じゃない』などもそうだけれど、最近のイギリス映画はいいものが多いですね。『フルモンティ』はその中でも光っています。ビデオ屋さんで借りるものに迷ったら、これを選んで間違いなし、でしょう。男性のストリップの映画というと、へんだけど、女性相手にストリップでもやるよりほかになくなってしまった失業者の男たちと、その男たちをはがゆく思いながらもあるいは元気に、あるいは厳しく、あるいは優しく生きていく女たち、そしてそんな中でなんとか切り抜けていく子供。それらのエピソードが、結末に向かって収斂し、響き合って立ち上がっていくのが快感ですね。
 傑作ってそういうのを言うんじゃないかな。
 必見です。『Shall We Dance?』や『フィールド・オブ・ドリームズ』を観たときと共通するものがあります。

1998.12.12(Sat.)
『ラブ・レター』 岩井俊二 角川文庫
 岩井俊二監督、中山美穂主演映画を、監督自身が小説化した。
 愛していた人の過去に出会うということ。
 過去に出会って、愛していたことに気づくこと。
 その二つが奇跡のように出会ったら、という物語。
 それらは失われた人をめぐって螺旋状に深まっていく。
 想い出は、どんなに見つめたところで新しいことは生まない。
 でもそれを見つめる人の心には新しい発見や勇気や、<愛>をもたらす
ことさえある。
 うーむ、私は昨夜、映画と小説を同時に読み、かつ観るという経験をしました。
とてもせつなく<楽しみました>。
 スワロウテイルは近未来みたいな設定だったけど、岩井俊二の作品は、今ここにあることと、いまここにないことを同時に観ることのできる魅力がありますね。


1998.12.8(Tue.)
『翼』 村山由佳 集英社
 これと前後して、『モンタナの風に抱かれて』の映画を観たせいかもしれないが、大都会で傷つき、孤独に生きる女性が、アメリカの大自然のふところに抱かれて再生していく物語、という意味では共通しているな、と思った。そういえば、ちょっと前に読んだ山田太一の小説も、失恋した女性がアメリカの大地を車で走るところから始まっていた。牧童たち、あるいはネイティブアメリカンの持つ大地との共生感覚。
 癒されることによって<生>の実感を取り戻そうとするには、こういう物語が必需品なのだろう。
 愛することで失うことの方が多い、と思って沈んでいる人にはお勧めの物語、というところ。
 傑作というよりは物語としての実用品的力、かな。。
 決して悪いという意味ではない。

1998.11.29
『パリ・オランジュリー展』 bunkamuraのギャラリーで開催中。
 セザンヌ・ルノアール・ピカソ・モジリアーニなどの有名な絵がまとまった形で見られる数少ない機会。
観てきたよ、と職場で自慢したら、隣の女の子が「私はパリに行った時に観てきました」って言われてがっかり(笑)。
 とにかく、セザンヌやルノアールが、ああ、こんななのかと素人にもなんか納得できました。
『ギャラリートム』 渋谷の坂を登っていった、閑静な住宅街の中の、触るための美術館。
 小さな小さな美術館です。私が行った時は、沖縄の盲学校の美術教育の中で歴代の生徒たちが作成した素焼きの作品を展示していました。<瞳>に不要な圧力をかけてこない、そこに<在る>ことを感じる不思議な作品が多かったです。

1998.11.20
『なぜ、これがアートなの?』アメリア・アレナス 淡交社 福のり子訳
 これは、長くMOMAの学芸員をしていて、美術鑑賞のための教育プログラムにたずさわっていた著者が、初めて日本の読者のために出版した本です。
 日本でも、川村記念美術館、水戸芸術館などで、アメリアの企画による「なぜ、これがアートなの?」という展覧会が98年から99年にかけて開催中。
 アートは、専門家のためのものでなく、作品と向き合った人の心が感じるそのこと、そのためにアートはあるのだから、どんどん感じてそれを互いに表現し、対話しながら響き合わせていこうじゃないか、というところで、ギャラリートーク(絵を前にして、アメリアが鑑賞者たちの印象を引き出し、響き合わせ、広げ、深めていくイベント)などもたくさんやっているようだ。
 現代芸術の入門書、なんだけれど、私は今自分がやっている<詩の授業>と同期する、教育プログラムの魅力をそこに感じた。
 12月20日には水戸芸術館でアメリア自身によるギャラリートークが開催されるので、参加する予定。
 お勧めの1冊。

1998.11.16
『モンタナの風に抱かれて』 ロバートレッドフォード監督
 事故で友達を失い、自らも傷ついた娘とその馬。娘と馬の心の恢復を願うあまり、やり手の編集者だった母は、いやがる娘と馬を連れて無理矢理モンタナに来てしまった。遠くNYに残されてしまった夫。馬と娘の心を癒していくホースウィスパラーの男。
 母と男のロマンスは後半40分程度で、主題はむしろ傷ついた馬とその乗り手のリレーションシップを、西部の男がどう回復させていくか、の方にあるのかな。
 なみだがぐちょぐちょと感動するというほどではありません。
 ちょっとしみじみするならいい、という映画。
 ハートウォーミングな、っていうのはどこか退屈な、に通じかねない。そこは上手に乗り切っていると主負います。馬に乗った直後だったこともあって、共感度は大きかったです。

1998.11.14
『ファンタジア』 那須高原の乗馬牧場。
 初めて馬に乗るという経験をした。馬も犬も群れで生きる動物だから、コミュニケーションが生きる基本にあるのだろう。人馬一体、とは古くさい言葉だが、馬と気持ちを通わせることが肝心だ、という話に説得力を感じる。乗った後、ホースウィスパラーの話を読む(映画『モンタナの風に抱かれて』の原作)。映画も観ようと思う。

1998.11.5
『夷齋筆談』 石川淳 冨山房百科文庫(最近ちくま文庫で再刊された)
 精神の建て直しのために、ほこりを払って再読。
 「日暮れて途遠し。道中重いつづらを願はない。」とは石川淳の自選選集刊行の辞だったが、その軽いつづらの中にぜひ入れておきたい1冊がこの本。
 今回は、「恋愛について」が沁みた......。
 石川淳の魅力がぎっしり詰まった随筆。
 「散文とは精神の運動の軌跡である」なんてあやしいかけ声のようなキャッチフレーズが、にもかかわらず完全に納得できてしまうかっこよさです。これもお勧めの1冊。

1998.9.23
『ニキ美術館』 那須高原にある、ニキの美術館

 ニキ・ド・サンファルというフランスの芸術家の個人美術館。館主がニキと個人的にも親しく、長年の夢を結実させて、リッカー社長の別荘地?を使って美術館を完成させたという。
 ニキのオブジェは、豊満すぎるほどのフォルムが極彩色の色をまとっていて、しエネルギーに満ちた女性の、おもわず笑ってしまうようなパワーを感じさせられる。
 本人はモデル出身で仏ファッション雑誌の表紙を飾るほどの、、めちゃめちゃきれいな人だった。
 これは那須高原に来たら一度寄る価値あり。
 那須ハイランドパークに行くちょっと手前を右に曲がったところにある。

1998.8.30
『「在日」としてのコリアン』 原尻英樹 講談社現代新書
 日本社会の中で何十年も生活していながら、日本社会の成員としてみなされてこなかった「在日」の現在を、タブーを超えて見つめ直し、日本社会の戦後を問い直す、といった惹句が表紙にあります。
 文化人類学者の「在日」フィールドワークの大きな成果。
 フットワークの軽い文章が、逆に全体像を私たちに示してくれているように思う。
 是非読んでほしいお勧めの1冊。

1998.8.13
『銀河鉄道の夜』ますむらひろし賢治シリーズVol.1 扶桑社文庫
 『銀河鉄道の夜』の<猫>版の漫画といえば、りんたろう監督の映画を想い出す人は多いだろう。その原画がますむらひろしのもの。
 そのますむらひろしが『銀河鉄道〜』の初期形と最終形を両方漫画にしている。ますむらとしては初期形にこだわって書き直したということらしい。
 こういう原作ものの漫画化は、書く方も読む側も難しいものだ。
 だが、この作品は大丈夫だった。
 賢治の原作にも感じられる、書き込みきっていない空白の空間がそこにある感じ、とでもいおうか、描ききれない闇の描写がきちんとなされている、というべきか。
 たぶん賢治ファンはいやがる人が多いのだろう、ってのも分かるけどね。


1998.7.30
『あなたの素顔は見たくない』 文春文庫
 超有名なTVスターが実は偏執的家庭内暴力の常習者だった。
 子どもを守るために夫から逃げようとする外科医の妻に対して、夫はメディアと裏の力を駆使して自分の地位と名誉を守るため、妻を陥れ、捉えようとする。夫の真実を暴き、訴えようとする妻。その間で揺れる息子。設定からして面白わくわくはらはら、が保証されています。
 このアイディアで、もう少し小説の手練れが書いたら良かったのに、と思うのはほんの一瞬。ほとんどそのままノンストップで読了してしまうサスペンスミステリーの快作だと思います。はらはら好きの人にはぜひお勧め。

1998.7.10
『蓬莱』 今野敏 講談社文庫
 徐福伝説の現代のの世界に蘇らせたエンタテインメント。今野敏ですから面白いのは間違いないところ。シムシティ・ポピュラス的な世界構築のゲームが、現実世界と響き合ったとしたら?誰もが考えて、しかしばかばかしいと終わってしまうようなところから、とてもわくわくするSFが立ち上がるのは、さすがだと思う。アイディアもさることながら、アイディアを作品として立ち上げる力に惹かれる。

1998.6.27
『家族という歪んだ宇宙』 ちくま文庫
 ベテラン親子問題カウンセラーの問題作、と裏表紙にあるとおり、もういかに困った親が子どもを苦しめているか、という実例に満ちた本。
 親を脅かすつもりはないが、仕事柄子どもをみていると、子どもは親の構築したフィクションを、好むと好まざるとに係わらず内面化して生きねばならない。それ以外に子どもの生きる道は全くない!
 とすれば、親が作りあげる生活の中の虚構世界の意味を、せめて親自身が自覚しなければ、子どもはそこから自由になる術はない。
 かなりきつい例が描かれているので、悩んでいる人は読むのは考えものかもしれない。
 私もそうだ、と脅迫的にこの本を読むのではなく、親子はそういうシステムを生きているのだ、という一般的な自覚を持つという形で読むべき本かもしれない。
 思いこみがなければ家族なんて成立しないのだろうけれど、今は夫や妻が片手間でやる<父>や<母>的フィクション以外に、家庭を支える柱がどこにも存在しないのも事実。
 昔は上げ底というか下駄を履かせてもらって社会的に<親>がやれたのに、今は何も分からないまま、ただ子どもを持つことによってだけ<親>というフィクションを生きねばならなくなって途方にくれ、その結果アンバランスな思いこみしか持てないまま不幸になっていく親子が多すぎるような気がする。
1998.6.24(Wed.)
『がんばれ、セリーヌ!』 徳間書店
 私久しぶりに元気のでる青春小説に出会いました。
 絵が得意で、イタリアに行きたいと願っているセリーヌ。両親は離婚し、再婚した父と同居。でも父の再婚相手は自分と6才しか違わない大学院生。それなのに父親は「年が離れていないからお互いに理解し合えるだろう」という言葉を残してヨーロッパへ講演旅行へ出かけたまま。まったく信じられないぐらい楽観的なんだから......。
 好きな絵は風にあおられたぼろぼろ。国語の先生にはレポートの再提出を迫られ、サボった授業を追及されて診断書は必要になるし、果ては向かいに住むバーガー夫人(彼女も夫と別居中)の小2の少年になつかれ、二人で人生の複雑さを嘆く羽目に。それでも元気に困難を乗り切っていくパワフルな少女、セリーヌ。物語の魅力はたくさんの人生を体験し、その中で成長していけることです。楽しいですよ。お勧め。
1998.6.20(Sat.)
『Shall we ダンス? アメリカを行く』周防正行 太田出版
 私の尊敬する映画監督、周防正行のエッセイ。「Shall we ダンス?」という映画がアメリカで上映されることになったが、作品はめちゃくちゃに編集された上、アメリカで上映されても監督にはたったの一円も入らない契約、だというのだから驚くしかない。すったもんだの挙句に、結局アメリカ18都市を回って宣伝のためのインタビューを受けることに。アメリカと日本の映画の作り方、売り方の根本的な違いは、コミュニケーションスタイルの違い、ひいては文化の違いにも関わっていく。しかしとにかく、映画は日本とアメリカの差よりも共通性を際立たせるかのよう受けに受けていく。
 どんなトラブルでも楽しんでしまうように描く周防正行の、柔らかく粘り強い、律儀な?知性が魅力的だ。伊丹十三と蓮實重彦のお弟子さん、というのを今回初めて知って納得。映画を観ていない人はぜひ、家族でビデオを観てから読んでほしい一冊。
1998.6.10(Wed.)
『これがニーチェだ』永井均講談社現代新書
哲学者、永井均(信州大学教授、かな)の本は、以前から気になって読んでいた。
「<私>のメタフィジックス」勁草書房
「子どものための哲学」講談社現代新書
「ヴィトゲンシュタイン入門」ちくま新書
「ボクと猫のインサイトの夏休み」ナカニシヤ出版
この、「これがニーチェだ」は、本人もそう書いていて、読者もきっとそうだろうな、と思ってしまうほど、他のニーチェ本とは違うつくりになっていると思う。
なぜって、ニーチェの「語り」についてこんなに哲学的に考察している人は今までいなかったと思うもの。だって<語り方>についてこだわったヴィトゲンシュタインとかの入門書ならわかるけれど、普通ニーチェといえばその思想についてみんな書いてるのが普通だもの。
でも永井均という人は、あくまでそれが思考する人にとってどんな思考=表現としてその人自身と向き合うことになるのか、ということ抜きには一歩も進まない書き方をする人だから、そこが面白い。

1998.5.10(Sun.)
『女の小説』丸谷才一・和田誠 出版社は失念。ごく最近でた本です。
丸谷才一が、女性の小説家とその作品について書いたエッセイに、和田誠が全編カラー(ここが大事)の挿し絵を書いた、したがってこれは共著というべき本。
丸谷才一という人は読み手の好き嫌いがありそうですね。
私は石川淳の弟子というだけでOKになってますけど(苦笑)。それはさておき、和田誠の絵の色を味わうために買っても損はない1冊。1600円ぐらいだったし。
紫式部(日本の古典『源氏物語』)からバイアット(現代のイギリス小説『抱擁』)まで、バラエティに富んだ作家群も楽しみ。小説好きなら、読んだことのない人ばかりでも、一冊買うべき本でしょう。新しい出会いが1冊でもあるとしたなら(きっとあると思うけど)、それでもう十分お釣りがくる。それから和田誠の絵を切り取ってもいい(笑)。
1998.5.8(FRI.)
『天狗風』宮部みゆき 新人物往来社
 宮部みゆきの新作小説。超能力少女のお初が、江戸の町の不可思議な事件を、目明かしの兄六蔵、算学者志願の右京之介らとともに解決していくシリーズ。長編としては2作目かな?
 もう少し、前回の『震える岩』と違った趣向がほしかったというのは贅沢か?
 新味がないし、対決場面も緊張感が不足している。
 できれば、文庫になるまでは読まない方がいいかな、と思わせる1冊。

1998.5.5(TUE.)
『特選街』98年6月号 特集<デジカメ大図鑑>
100万画素以上のデジカメがたくさん出てきた。思い切って買おうと思い、『特選街』と「アサヒパソコン」が特集していたので覗いてみる。どちらも話題はFUJIのFine Pix 700 が話題の中心。記録メディアとそのコンバータを含めると10万の買い物。高いとは思ったが、お勧めのFine Pix 700を購入。
操作性も良く、デザインもグッド。過渡期商品は承知の上だが、これは使えそうだ。
1998.5.5(TUE)
『音楽のつつましい願い』中沢新一・山本容子    筑摩書房 ISBN-480-87285-X C0073 \2200E
 冒頭コダーイとバルトークの登場する小品は音楽好きだけでなく、泣けてくる。
私はしっかり心を捉えられてしまった。中沢新一だからっていって、怪しいと思わず覗いてみて正解。
読書会MLで傍士さんから紹介されたのだった。やはり、不勉強ながら、その作曲家の曲を知っている
と違うのかもしれない。さっそく12人のCDを注文せねば。
コダーイ・ゾルターン
エルネスト・ショーソン
アレクサンドル・ボロディン
アラム・ハチャトゥリアン
山田耕筰
レオシュ・ヤナーチェク
フレデリック・ディーリアス
ガブリエル・フォーレ
カルロス・チャベス
ミカロユス・チュルリョーニス
フーゴー・ボルフ

1998.5.2(SAT.)
『大阪学』       大谷晃一       新潮文庫   ISBN-10-138222-0
 大阪人は、東夷(あづまえびす)から見ると謎だらけだ。その謎をきれいになぞってくれる本が出た。
 『大阪学』・『続大阪学』の二冊の文庫本である。
 漠然とは感じていながら、よく分からなかった「大阪」が見えてくる。阪神、吉本、「大阪弁」、お好み焼き、から日清、グリコ、サントリー、ダイエーといった企業まで。とにかく楽しく、しかしまじめな本。「日本アホ・バカ分布考」も楽しかったけれど、これも楽しい本だった。類型化、分類化、博物化のおもしろさみたいなところか?
1998.4.1
『脳と記憶の謎』    山元大輔      講談社現代新書 ISBN-06-149351-5 C0245 \660E
 記憶を、きちんと分類して見せてくれた上で、現在までの研究の成果をふまえ、分子レベルから遺伝子レベルで「分かったこと」を教えてくれる1冊。ここ最近では本当に楽しかった1冊です。これを読んでから立花隆『100億年の旅』(朝日新聞社)を読んだら、これもおもしろかった。利根川進と立花隆の対談も確か文庫になっていたはず。『脳を育てる』『脳の話』という岩波新書も出ていたかな。学生のころ、<脳>を物質のレベルで解析することはできるか、なんて議論していた記憶があるが、そういう議論から見るとずいぶん遠いところまで来た、という実感も。人間の心や知性そのものが解析しきれるわけではないが、かなりのところまで分かる部分は分かってきた、という印象もある。おもしろい分野だなあ。

最新のメディア日記に戻る