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島貫真のメディア日記2(2001年10月〜2003年3月)


2003.3.7(日)映画『鉄塔武蔵野線』原作銀林みのる 主演、「がんばれ若造!」というカロリーメイトの宣伝に出ていた青年の、の若いとき(ごめんなさい、名前が分からない。伊藤淳史?ちがったかなあ) 。
 何気なくビデオ屋を覗いたら、かつて見逃していた(たぶん日比谷あたりで単館上映で終わったのではなかったか?)映画がビデオになっていて、思わず借りてきて早速観てしまった。
 原作が、ファンタジーノベル大賞を受賞していて、先に小説を読んで感激していたのだが、これをどういう感じで映像にするのか、とても興味があった。
 お話は簡単。小学校6年生の夏、所沢にある高圧電線の鉄塔「武蔵野線」に番号がついてあることに気づいた主人公が、小4の弟分を連れて、1番鉄塔まで、ずーーっと電線と鉄塔を追ってたどり着こうとする秘密の探検の物語だ。
 もう最初から引き込まれて、ずっと見入ってしまった。つまらない人はとてもつまらないと思うのかもしれない。だが、私にとっては映像がそのまま自分、といってもいいほど懐かしさに溢れたものだった。小説も悪くないが、この映像は、「郊外」という生活圏の光とにおいが充満していて、完全にやられてしまった。気弱そうな主人公も、林も、夏の日差しも、畑も田んぼも、そしてもちろん鉄塔も、すべてが既視感を催させる風景なのだ。
それは、そういう素材としての風景を撮ったから、ということもあるだろうけれど、鉄塔を順番にたどっていきたい、というほとんど意味のない、それでいて小学生を突き動かすには十分な不思議が、風景と響き合っている様子を、きちんと撮影しているから、これほど切なく楽しいのだと思われる。
私が他人に勧めたい映画の多くは、いったい誰に勧めたらいいのか分からないものがおおい。
しだいにそういう映画のリストが溜まっていくのはうれしいことでもあるのだけれど。

2003.3.2(日)ミュージカル『ミー&マイガール』唐沢寿明・木村佳乃・村井国夫・初風醇・涼風真世らの出演。演出:山田和也、於:帝劇
『エリザベート』の時に宝塚の方がよいと思ったように、今回の帝劇のこの演目も、宝塚の方がいいのではないか?そんなことを思ってしまうような初日だった、といったらバランスを失した感想になるだろうか。今回の『ミー&マイガール』は、『エリザベート』とちがって宝塚の方を見ていない。だから一概には言えない。けれど、唐沢寿明が頑張ることにより、あるいは唐沢寿明をがんばらせる演出により、芝居の意図が不鮮明になってしまったのではないか?
そんな不安が芝居を観た翌日になっても消えなかった。
個人的なことを言ってしまえば、私は唐沢寿明ファンなので、彼が主人公の芝居で、いちばん受けていれば、基本的にはそれでよい、ようなものである。けれど、あの『ビッグ』の好演を思うと(すみません、『カノン』とか『マクベス』は私にはよく分からないところが残りました)、今回は、芝居全体が彼に追いついていない。
というか、こういった『マイフェアレディ』みたいな話は、基本的に言語差別の話だったりするわけで、主人公がしだいに洗練された言葉にを身につけていくこと、つまり儀礼的な振る舞いとか服装だけでなく、男が「貴族」を言語化=内面化してしまうからこそ、彼女が身分違いをどんどん意識していくわけで、そのギャップが意識された上で乗り越えられるならいいけれど、演出が結果としてそこをないがしろにしているため、ただ中途半端にいい人たちがいる、という印象に終わってしまっている。
 もちろん芝居は身体表現だし、ミュージカルとなれば歌、踊りがその本質だろう。
ところが、言葉が中途半端なために、ミュージカルとしての動きというか、楽しさも浮き立たなくなってしまっているような気がしてならない。初日だったら、このぐらいでスタンディングしてもいいのが都会のお作法なのか、なんて皮肉の一つもいってみたくなるというものだ。
ああ、期待が大きすぎるとつい皮肉っぽくなっていけない。ご先祖様たちが歌い踊るところなんてなかなか素敵だし、どんなときでも下町根性を陽気に持ち続ける主人公を演じた唐沢はやっぱりうまいし、木村佳乃は最初からかわいく登場したのが失敗か、とは思うけれど(最後の瞬間が引き立たないから)、一所懸命で好感が持てたし、初風、村井はもちろんベテランで安心してみていられるし、……んーやっぱり演出の意図が私に飲み込めなかったのかなあ。

でも、もちろん初日が舞台の全てではない。本当なら、千秋楽も観て、それから改めて書くべきところだろう。
残念ながら1度しか観られそうにない。たぶん、これからもっともっと良くなる舞台じゃないかな。
そういう要素がたくさんあったもの。
むしろ変化を期待して、お薦めしてみてもいいかもしれない舞台である。



2003.2.10(月)『月山の幽霊』メリーベル公演 於 いわき市文化センター

1,前置き
 2月8日は山形に出張で、いわきに帰ってくるのは午後9時過ぎ。残念ながら本公演には間に合わない。そこで、無理をいって、初めて「蔵」最終日の練習を見せてもらった。以下はその「蔵」最終日の感想になる。本公演を観てのものではないことをあらかじめ承知してください。もし本公演と印象が大きく違っている部分があれば、それは本公演を観ての感覚の方がずっと確かだと思います。
 であるなら、今回は感想を書かないでおくべきか、と、だいぶ迷いました。
 でも、「蔵」を見せてもらった部分についても、書いておきたいことがあるので、やっぱり書いてしまいます。表現したいことを、表現しないで終わることには耐えられないから(苦笑)。

2,初めての蔵
今回、メリーベルの第19回公園『月山の幽霊』の通し稽古、いわゆる「蔵」の最終日を初めて観た。
 練習の通しを観る、というのは、本番を観るというのとはまた違ったものだ。通し前、寒い蔵の中で集中力を高めていく役者たちの姿を見ていると、思わず『がんばって!』と声をかけたくなる。素敵な緊張感のゆらぎが感じられる。文化センターで開演を待つときには、こんな感じはなかった。開演が楽しみ、ではあるけれど、もっと距離感のある「待ち方」だったような気がする。同じ高さの地面で観るスタンスの違いだろうか。
 だが、芝居を見終えてみると、その緊張感を共有する感覚が、今回の芝居の必然であるような気がして仕方がない。どこまでが「蔵」の練習ゆえなのか、もよく自分の中で区分できていない。だが、役者の魂が、身振りによってあるいはせりふによってその身体から立ち上り、広がって、空間を満たしていく密度こそが、この場において求められているものだ、ということは、ひしひしと伝わってきた。

3,いいたいこと
作品の構造は、『むかしむかしの夢の夜』で分析したものと、一見大きく異なっている。
白方様の里の村人と、そこに落ち延びて来た者たちを中心として物語は展開する。いつもなら現代の部分がもっと描き込まれるはずだが、今回は、ときおり挟まれる現代の小学校の校庭に出る幽霊と、そこで幽霊を見た記憶のある女性の挿話が額縁程度にふれられるだけだ。いくつもの世界を自由に往来しながら物語が展開する今までの勝田芝居とは、かなり異なった印象を受けた人も多いかもしれない。
 しかし、メリーベルの前回公演『流砂の井戸』がその方向性を示していたように(10月のラッシュの『むかしむかし〜』は再演だったことを想起されたい)、役者の存在感、役者がその空間を満たす気配、そしてその役者と役者が切り結ぶ瞬間の関係性etc.そこに立ち上がる不可視の「結界」の多様な姿こそが真の主役になろうとしているその流れは、確実に引き継がれているように思われる。

「せりふが発せられると、そこから空間が広がっていく。」

東京からやってきて昼公演を観たファンの一人は、そういって東京に帰っていった。

芝居のスタンダードは劇団によって異なる、と演出の勝田氏は常々語っている。その通りだと思う。
そしてこのメリーベルという演劇集団のスタンダードは、役者たちが、舞台という空虚な空間を自らの気配で満たそうとする意志の密度、になろうとしているのではないか。

プロの芝居だと、演出の力量とか、役者の技術や存在感とか、できあがった実力に支えられて興業はなされていくのかもしれない。だが、ラッシュ=メリーベル=勝田的世界は、そういったプロの演劇とは異なるものだ。
この蔵における空間=結界の密度へのこだわりは、役者とか台本とか、演出とか音とかせりふとか、殺陣とか、ひとつひとつの要素を越え出て(照明は蔵では分かりませんでした!残念!!)、ひたすらに気配が濃密に立ち上がることを繰り返し繰り返し求めている。私たちはそこに、普通のプロの舞台とは違った、ある種の敬虔な姿勢(といったらとんちんかんな形容になってしまうのだろうか)、あるいはあきらめをしらない演劇空間=結界への欲望を観ることになるだろう。

4,具体的なこと
たとえば、たかねと月子のやりとりでもいい。いつもなら物語の枠組みとして提示されるものが、さりげない二人のやりとりによって、3層(かつての経験→今の平穏→来るべき悲劇)が無駄なく示される。しかも、説明するのではなく、月子とたかねの、互いを思いやり、触れようとしない部分と、それでもそれを越え出て思いが溢れる部分との対比の中で、役者通しがせりふを交換する瞬間に、3層構造がそこに立ち上がるのだ。語られるのではなく、互いへの思いやりと、なおもそれによってにじみ出てくる思いによって、そこに示されていく空間の多層性。

あるいは、月子と甚大でもよい。
現代の月子と甚大(幽霊)、過去の甚大と月子という二重性が、最後の瞬間、現代の月子が過去の月子に取り憑かれたかのようにように(あるいは幽霊のため、敢えて古代の月子を演じているかのように)甚大をいたわるせりふ(その全てを肯定し、支えようとする「愛」)によって、乗り越えられていく。

過去の戦い→白方様の里での平穏→再び起こる戦

とどまる甚大→→→思いをとどめた幽霊→→→解放される魂

幽霊と出会う現代の月子→物語(この作品世界)を読む→→幽霊の魂をねぎらう月子


さらに、
舞台最初の戦い部分→村の若者の剣術の練習→再度の戦いの部分
についていえば、敵が一切(間者のしんごは別として)現れず、虚空に向かって刀を振って戦い続ける特異な殺陣が最初と最後に配置され、その間に満吉(畠山)を中心とした村の若者の練習が対置される。
刀とことば。どちらも空間に放たれることによってそこを満たしていこうとするものだが、最初の殺陣にはことばがなく、最後の殺陣には叫びがある。間におかれた村の若者の剣術修行のもつ「村」の「気配」が、この二つの殺陣の間を微妙に違ったものにしているといっていいだろう。その、村の気配をくぐり抜けることによって多層化する空間の濃度こそが、この芝居の主題とさえいえるかもしれない。


ここには、かつて作品の構造として明示的に語られていた多層性が、もっとシンプルな形で結実している、といえるのではないだろうか。

深谷センセ=鬼=甚大=おんじは、頑固で情に厚く、境界線上にあって苦悩する存在として生きられてきた。だが、勝田芝居はその役者のキャラクタの停滞を許そうとしない。畠山=てこ=木地の主人公キャラクタに変質を迫った勝田芝居は、今回、深谷センセ=鬼=甚大=おんじに大きな変質を迫る。
命をかけて戦う苛烈な体験と、その体験に意味を与える「愛」によって。


5,さいごに
『月山の幽霊』という題名は、まるで「舞台上の役者」の比喩になってでもいるかのように、場所=舞台空間=結界と、人物=役者の気配の関係を表しているような気さえしてくる。

結局、本公演を観ていない私にとっては、この芝居のいちばん大切なところは、手が届かないままだろう。
だが、芝居はそこがいいところだ。上演されるそのときに、役者の肉体の演じる空間まで、我が身を携えて必ず移動して行かなければ出会えない。役者がその空間を、どんな気配で満たすのか、を自分の五感で受け止めなければならない。
その芝居の当たり前、と、この劇団はまっすぐに向き合っていると思う。そうだ。いいたいのは結局、そのことなのだ。
芝居はいかに空間を濃密な気配で満たすか、だろう。それが出来たら、人は必ず引き込まれ、ともに芝居を生きることになるはずだ。ここには、それがたしかな手応えとして存在する。

地元の劇団への贔屓のしすぎ、だと人は言うだろうか。
けれど、<ラッシューメリーベルー勝田>的世界のオリジナルを続けて観ている人なら、これが必ずしも過褒でないことを、認めてくれるのではないだろうか。
毎回高いお金を払って東京まで行って、お金のかかった舞台と役者を観て帰ってくる、いくつかの芝居と比較して、自信を持ってこの芝居の方が観たい、と言える。
いつも繰り返すことだけれど、それだけの空間媒質濃度を、この<ラッシューメリーベルー勝田>芝居は持っていると思う。これを読まれた方は、ぜひ福島県いわき市の文化センターで年2回行われる公演をみにきてください。もし、納得がいかない場合、ぜひぜひ芝居を観た後で、たっぷり語りましょう!




2003.2.4(月)『流星ワゴン』重松清
 ああ、重松清は、ずるい。どこかいつも、寸止めをしているような居心地の悪い小説ばかり書く。私自身の好みとしては、もっとだめになるならだめになってもいいから、世界のリミットを経験させてほしいと思う。
だが、その中途半端な居心地の悪さと私が感じるものこそ、重松清をして、時代の中心的作家に据えている特徴なのだろうと思う。事実、私はこの『流星ワゴン』を読みながら、なんどもなんども泣いていた。浅田次郎の『角筈にて』以来の泣き方だったと自分でも思う。
『からくりからくさ』が、おばあさんと母と娘の「血」がモチーフになっていて、それを娘の側から見ていたとすれば、こちらは父と自分と息子の「血」がモチーフになっていて、それを真ん中の中年の男の側から見ている。どちらも優れて時代的な作品だ。重松清は梨木香歩の4年下。重松清は40歳になったところだろう。
作品は、38歳の中年の主人公が、家庭もうまくいかず、父親も和解しないまま癌で失いそうになり、リストラになったことを誰にも打ち明けられず、「死んでもいいかな」と思ったところから始まる。5年前に自動車事故で死んだはずの親子の車に、なぜか乗ることになり、主人公のは自分の人生をもう一度見つめ直すことになるのだが......。
といった形で始まる。
とにかく、泣ける。なぜかといえば、中年ぐらいになると、自分の力や努力、そして運といったものだけで人生が動いているわけではないということに気づき、自分にはどうすることもできない現実と向き合いながら、人生の後半戦を生きていかなければならないことに気づく瞬間があるけれど、その瞬間を実に的確に捉えているからだろう。
もちろん、人生が思い通りにならないことぐらい、小学校4年生から上の女の子なら、誰だって知っている(男の子はそれに気づくまでもうちょっとかかるかもしれないけど)。だが、誰だって知っているはずのそのことを、肩に背負った現実の重さとして知るのは、自分が子供であるのを止めて、子供の成長や、親の死と向き合うときになって初めて、なのだ。そしてこの作品は、その瞬間を3つ重ねて読者に提示している。
従って中年のおじさんはこの作品の前ではひとたまりもないって確率が高いのだ。
とりあえず、読み終わってさっそく「ワゴン車」を買って車検を一度通したばかりの同僚に貸してみた。感想が楽しみだ。
でも、個人的には、中年のおばさんの感想を聞いてみたい。そして「甘いな、中年男」ってコメントを期待したい(笑)。じゃあ、どんな作品がいいの?ってさらにつっこんでみたい(^^)。
もちろん、10代の少年少女の感想も、教えてもらえたらありがたいと思う。

ともあれ、これはやはり『本の雑誌』2002年1位だけのことはある。好き嫌いをひとまず措いて、今すぐインターネットで注文すべき1冊。読んで全く損をした、と思う方はご一報ください。ゆっくり感想戦をしてみたいところです(笑)。


2003.2.4(月)『西の善き魔女』1〜3荻原規子
 この1ヶ月に読んだ本の中から面白かった本を何冊かまとめて書いている。
 去年購入し、読もう読もうと思っていながら読めなかったシリーズを、インフルエンザで寝込んだのを幸い、一気に読了することができた。荻原規子はなんといっても『空色勾玉』の3部作が有名だが、この西の善き魔女シリーズも、なかなか悪くない。「魔女」といっても超能力を操るいわゆる魔法の物語ではない。だが、貴族と剣と龍退治、王女の血を引く娘と拾われた孤児の少年、禁じられた闇の知識と関わりを持って失踪する天文学者の父親、その「知」を巡って闇の組織が動き出す。女子校のような修道院生活に宮中の勢力争いの暗闘……と、楽しいモチーフには事欠かない。個人的には、この3倍か4倍ぐらいの長さの物語であってしかるべきだと思うのだが、作者はこの先を書くつもりにはならないのだろう。結論が結論だし(苦笑)。しかし、物語の全体的バランスは今ひとつだけれど、読んで損のないおもしろさがあることは請け合い。
まあ、あれだけ素晴らしい仕掛け人梅安シリーズだって鬼平シリーズだって、作者(池波正太郎)死去のため最後の作品は途中で終わってるわけだしねえ。
大事なのは物語の結末じゃあない。むしろ決着なんて、最後につけなくちゃいけないだけのことかもしれない。名作サザンアイズ(高田裕三作。マンガです)だって、終わりどころが最後には分からなくなってしまったような印象を受ける ともあれ、物語は終わり方ではない、というお話でした。そのことが分かっていれば、安心して読める作品。
もちろん『空色勾玉』シリーズがまだの方はそちらもぜひ!



『T.R.Y.』井上尚登
 下手を打って捕まった詐欺師は、同時に殺し屋に命を狙われることになり、その窮地から逃げ出すため、否応なくふたたび革命にかかわる大きなヤマを踏むことになる。
中国革命の志士、大陸で勢力を拡大しようとする軍部の中での勢力争い、朝鮮半島での抵抗勢力、そしてさまざまな国の詐欺師、殺し屋たちが入り乱れて騙し合う、いわゆるコン・ゲーム小説の典型だ。楽しめる出来に仕上がっているので、映画を見る前に読むのも悪くないのではないだろうか(映画も織田裕二主演で上映中。10位以内で健闘中のようすだね)。

2003.2.3(日)『青の炎』貴志祐介
 この作品は、10代前半からお薦めかもしれない。
母のかつての再婚相手が、弱みにつけ込んで主人公と妹、母の3人暮らしの家に闖入してくる。母ばかりか妹にまで手を出そうとする曽根という男。高校生の主人公は警察、弁護士ともに救いにならないことを知り、完全犯罪を計画する。愛する母、そして妹を守るために。
細かく綿密に殺人計画を練り上げていく主人公に、感情移入せずにはいられない。
短絡的だけれど、純粋で、繊細で賢いのだけれど愚かな行為をしてしまう高校生を、ほんとうに臨場感ある筆致で書いてくれている。
映画ではどう蜷川が撮ってくれているのか。そのあたりも興味があるところだ。
貴志祐介の本を読むのは『天使の囀り』に続いて2作目。この人も、目の離せない作家だ。
ちなみに彼も、梨木香歩も、横山秀夫も、昭和30年代前半の生まれ。全共闘以後のマイナー(文化的にも人数的にも)なところに属する(私と一緒)。
(ひょっこりひょうたん島を、小学生としてリアルタイムで見た世代)
そのマイナーさというか、文脈を虚構化してそれぞれがぞれぞれの形で提示する姿勢は、ここの世代から始まった、といっていいのではないかと思う。この作品に限らず、お勧めの作家だ。

2003.2.3(日)『からくりからくさ』梨木香歩 新潮社
 たぶん今はもう文庫になっていると思う。
 ご存じの人も多いと思うが、梨木香歩はあの『西の魔女が死んだ』(小学館児童文学賞受賞)の作者。他に『裏庭』などの名作もあり。この2作が未読の人は、ぜひ読むべき。そして、この『からくりからくさ』は前2冊より読者を選ぶと思うけれど、大人の10代後半から20代の女性で、手仕事に興味のある人は、絶対に注文しても買って読むべき1冊だと思う。
主人公の祖母がなくなって50日、小さい頃祖母からもらった人形を抱え、祖母が一人で住んでいた古くて静かな、庭のある二階家に、主人公がその家の鍵を持ってやってくるところから物語は始まる。祖母の長年住んでいたその家は、今はもう住む人がいなくなっている。そこを、染め物を勉強している主人公が、工房を兼ねて実家から離れて住もうとするが、一人ではもったいないということもあり同年代の女性を下宿人として入れようと家族で話がまとまる。
やってきたのは、織物に関心のある若い女性3人。主人公も含めた4人と、彼女の人形「りかさん」を含めた5人の女性の、不思議な共同生活が始まる……。
もう、これは読むしかないでしょう。とくに、小さいときおばあさんとよく遊んだ、育ててもらった、おばあさん子だった女性は、まず読んでみることをお勧めする。
手仕事を大切にする者たちのの成長物語でもあるし、女性の生き方の物語でもあるし、何より家系の中で、過去の女性たちとの不思議な縁を再発見していく物語でもある。
読了前と後では、世界が違って見えてくる1冊。

2003.2.3(日)『半落ち』横山秀夫 作 講談社
 「このミス〜」03年版、「週刊文春'02年ミステリーベストテン」1位二冠達成、という腰巻き惹句に惹かれて(本の雑誌でもたしか書評になってたのも記憶していたし)、インターネットで衝動買い。この土日は本を読もうと思い立って、読みやすそうな1冊ということで、この本を携えつつラーメン屋さんに入ったら、ラーメンを食べるのももどかしく(ラーメン屋さんごめんなさい!)、ぐぐーっと引込まれてしまいました。ちなみにラーメン屋さんは千葉の有名なマルバラーメンの流れを引く、マルルラーメン(いわき市平)。好みは分かれると思うけれど、それだけに本物。マルルラーメンもお勧めしておきます。
 閑話休題、『半落ち』は、この作者が短編の名手であるだろうことを予想させる。中年のおじさんたちの悲哀と頑張り、絶望と癒しが、ある仕事の1日の、一瞬の出来事の中にめちゃめちゃ濃密に凝集されていく瞬間があることを、ほんとうに上手にすくい取ってくれている。上手すぎるぐらい上手だ、というのは、浅田次郎以降、別に悪いことではなくなった(苦笑)。あまり手さばきがうますぎると、ケレンというか嫌みというか、立ち止まりたくなるけれど、この作品は4/5までは完全に成功していると思います。最後1/5の謎ときはもう、これでもありだな、と思って私は本をやさしく閉じました。異論があるとしたら、前半で感じるかもしれないうますぎ感覚と、謎の結論かもしれません。
でも、そんなことを気にしてこの本を読まないのは、中年のおじさんにとってはとんでもない損失だと思います。
週末、読む本に困ったら、ぜひ。40分以内に本屋がさんがあるなら、このためにでかけてもいい1冊。


2003.1.7(火)G2『人間風車』永作博美主演
 これはあの『子供の一生』(中島らも原作、G2プロデュースだと思う)のビデオを観て、びっくりたまげたホラーだったことから、そのG2の再演ものとなれば観なければ、と思って忙しいさなかをかいくぐって観てきた。
 三時間半の舞台を緊密に構成して、飽きさせないのはさすが。
 永作博美も、入江雅人も、なかなかいい感じの力演でしたねえ。
 ただ、
  1,永作の演じる女が、なぜいきなり心を翻すのか
  2,「魔王」が乗り移る?という二番目の設定は必要なのか?
  3,最後にその女が叫ぶ内容は、それでいいのか?
  
 この3点は気になった。
 童話がホラーになっていく、というお話の流れは、前回上演されたときの時代的な雰囲気もあったのかもしれない、と、勝手に思ったりもした。十分に面白かったので、まだの方はお勧めですけど。

2002.12.25(火)『モーツァルト!』井上芳雄、西田ひかるバージョン
 ミュージカル『モーツァルト!』は、名作『エリザベート』の作者ミヒャエル・クンツェの作品を、やはり日本で『エリザベート』を演出して本国をも驚かせた小池修一郎が演出。
もうこれはほんとに楽しく、ミュージカルの楽しさを感じさせてくれるものでした。
断然お勧めです。きっとこの作品は再演されるんじゃないかな。
主人公は中川バージョンもあるので、そちらも評判はよかったようですが。
奥さんも西田ひかると松たか子のダブルキャスト。今回は西田バージョンで、かわいい奥さんだったけれど、冒頭墓堀の場面あたりの感じからいうと、これはパワフルなキャラクタを示した松たか子の方が、残念ながら(西田ひかるは好きだけどね)適役だったと、CDを聴いても思います。
松たか子は、舞台もあなどれないとおそまきながら知りました。2003年はちょっとチェックしなくちゃ。
TVと舞台では、役者さんでも歌手でも、まったく違った相貌を見せることが少なくないですねえ。
ストレートプレイとミュージカルとでもそうかな。
そういう意味では一度みた芝居でも、再演されるときとか、キャストが違うときとか、また見に行きたくなってしまいます。
最近思うけれど、最初、芝居をみたいけれどなにがいいかな、と思う人は、再演されているものを勧めたい感じがしますね。また今年も『レ・ミゼラブル』が帝劇で夏にあるけれど、これなんて、何度もみてもいいもんなあ。ちなみに『ライオンキング』はようやく四月に見に行くつもりです。


2002.12.14(土)新感線『七芒星』
 新感線の本公演は初めてだったが、とても楽しく芝居を観ることができた。
 『アテルイ』とはまた違って、劇団の芝居という雰囲気があって、これはこれでなかなか悪くない。どこか中国のチャンバラ香りのする世界で、鏡の魔女(これは『白雪姫と七人の小人』)の野望を阻止しようとしての物語が進行する、といえば早わかりになるだろうか。同時に、その魔女との戦いで残された「虹の滴」という宝物を巡って不思議な縁があきらかにされ、七宝星という7人の伝説ヒーローに対して、七芒星というその弟子や子供のちんぴら(実に弱い)が、かつての師匠や父たち相手に戦いを挑まなくてはならなくなるという。
んー、あまりちゃんとした説明になっていませんねえ。
とにかく、輝かない者たちが、かつての尊敬していた(そして今は悪となってしまった)ヒーローに無力ながら戦いを挑み続ける、ある意味では劇団の俳優の実状も重なっていたりする(笑)ストーリー。
まあ、ストーリーはストーリーとして、なんだろう、ほっとする雰囲気が良かったなあ。ギャグ一つでも安心して観ていられるし。『天保十二年のシェイクスピア』は、音楽は確かによかったけれど、こういう芝居の安心感はなかったなあ。
阿修羅城〜とか野獣郎〜とかを観ていないので、これからそのあたりを観てみないとなんともいえないけれど、楽しんで観ることのできた芝居でした。今年も新感線、見に行かねば。


2002.11.16(土)『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
 シリーズもの、しかもファンタジーものの2作目なんて、先行上映をわざわざ見に行くほどのことはない、と思いつつ、最近あまり映画も芝居も観ていないさびしさに耐えかねて、たまたま映画館の前を通り過ぎて時間が合ったとなれば観ないわけにはいかなかった。
 子供向けの映画にしてははっきりいって「長すぎる」というのが常識的な反応だろうと思う。2時間50分ちかい長い映画である。だが、私は眠くはならなかった。土曜日の深夜だったが、十分に楽しく観ることができた。
クィディッチの場面が迫力があってとても楽しかったし、出てくる怪物もなかなか迫力があったし。作品を丁寧に追いかけていくこの映画の作り方は、たぶん作者との契約の中にあらかじめふくまれているのだろうから、映画の映画的魅力とは違ったところでお話が進行していく部分があるのはやむをえないところだ。
でも、それにしては頑張っていると思った。第1作は、本当に映像としてこなれきれていない感じがあったのに、今回はこちらがこの世界に慣れてしまったせいもあるのかもしれないけれど、映像として楽しめるように作り手の姿勢がこなれてきているように思った。あるいはスタッフが違うのかなあ。たぶん前者だと思うけれど。
たとえば、事件の起こる廊下の撮り方一つでも、主人公だけを人形のように撮るのではなく、その空間を大切に撮影しているような感じがした。トイレの花子さんならぬトイレの幽霊も出てくるのだが、そのトイレの造作と撮り方も、どちらかというと童話的=説話的な絵としてではなく、『薔薇の名前』ほどではないにしても、建物の空間がきちんと動く映像として撮られていたような気がする。作者の要求する説話的枠組みを保ちながら、なおかつあれだけの映像を並べていくと、きっとあの長さは避けられない選択だったのだ。
内容、まだの人にはちょっとネタバラ気味になりますが(それほどでもないけど)、魔法使いと人間という「血」の対比の物語が妙に強調されていたが、これは4巻目を読んだ直後だから余計にそう思うのかもしれない。
ロンはうまい役者になったと思う(笑)。しかし、ハーマイオニーの顔が縦長(顎がとがってきた)になってきたし、ハリーの顔も青年に近くなってきたし、ダンブルドア校長先生役の方が亡くなられたとも。これからのシリーズ、配役はどうなるのだろうか。
ちなみに、ロックハート先生の配役&演技は、これなのだろうか。もうちょっと最初かっこよくても良かったのじゃないかしらん。これでハーマイオニーが最初ちょっとだまされ顔になるのは、納得いかないな(笑)。
結論としては、前作よりお薦め。でも、前を見ていないで2作目だけ観るっていうひとは、そんなに多くいるのだろうか?
たぶんたくさんの人が観るには違いないから、1作目と2作目を比較しての感想を聞いてみたいところである。

2002.10.26(土)『エレファントマン』宮田慶子演出 藤原竜也出演 翻訳山崎正和
 あまり期待しないでいったときの芝居の方が、いい出会いがある、そんな体験の典型だったかもしれない。
 チケットが取れたから、というどちらかというと消極的な理由で、芝居を見に行った。
 が、パンフレットにある山崎正和のコメントに納得。手元に文章がないのでうろ覚えだが、19世紀から20世紀にかけてのイギリスにおける「近代的」な視線のせめぎあい(見る見られるの関係)が、この芝居には鮮やかに現れているという指摘がぐっときた。その通りだと思った。
見るものは実は見られるものであり、人は見ることの権力性から身を引きはがすことが何より困難である。しかし、本当は、人は「見ている」と思っているだけではないのか?見られている存在としての「エレファントマン」の「無垢」な存在と、それを救おうとする医師、そして良識ある人士達。
ぼそぼそとつまづくようにしかしゃべれない「エレファントマン」が舞台奥の装置上で雄弁に語るその語りは、まずなによりも「えれふぁんとまん」を観にきてしまった観客に向けて「オマエは何を観ているつもりなのだ」と迫ってくるようにさえ思われた。
この切り替えの一瞬はやはり鮮やかであり、藤原竜也という役者の魅力をきちんと示していた。
藤原竜也と小島聖が舞台で(ホリゾントに向かって、ですけどね。というかホリゾントに向かって、というところもまた必然性があるんだろうな)自らの裸体を曝す演出は、そのホリゾント以外の舞台装置がほんとうにかっちり緊密な形で仕上げられていただけに、ある種の厳しい「寒さ」の感覚を出すことに成功していたと思います。
この芝居も、「後から効いてくる芝居」だと思った。あとからたくさん思い当たることが出てくる。
決して柄の大きな芝居ではない。あっけなく終わってしまうその幕切れは、サービスの欠如とさえ一見見える。
事実、芝居の筋やドラマ性を客席に提供するような、「見られる」芝居ではないのだ。
「見ている」つもりの観客が、実は「見ている」この権力性を持っていることを暴かれ、ある種の異和をつきつけられてしまったことに気づくべき静謐としての終わりなのではないか。
厄介な芝居を観たものだ。
藤原竜也ファンのひとたちとは、意見がちょっと違うかも、しれないけれど。


2002.9.27(土)『むかしむかしのゆめの夜』(再演) ラッシュカンパニー 作・演出:勝田博之 
 勝田作品はけっこう観ているような気がしていたが、この作品は見逃していた。
そういう意味で、とても楽しみにしながら昼の公演を観た。後で両方を観た人の感想も聞いてみたい気がする。
とりあえず、芝居を観てまもなくの感想を、走り書き的に。

この芝居には、勝田博之という作者の持っているかなりの本質的部分が埋め込まれているような気がする。

その1、3層に重ねられたキャストと作品の地層。

人間→鬼と化身たち→天(桃太郎)
現代→物語の本体→100年前の桃太郎伝説
木地→キジ仙人→(     )
さとみ→(    )→(二代目桃太郎)
これは『あめふらし〜』の時も感じたことだし、『流砂の井戸』にも通じているように思うが、勝田芝居の基本はこの3層に分かれた世界像を自在に行き来する点にある。
そして、その細かい照応と整合によって作品世界を完成させようとするのではなく、むしろそれらが響き合い、ある時ある瞬間、一瞬だけある種の磁気のようなものが一斉に励起し、本来響き合わないようなところに磁界が成立することを欲望しつづけているかのようだ。

その2、「正義の味方」に観る殺陣の倫理学
 もちろん、殺陣の美学がその前提としてあることは、この劇団の常識かもしれない。
 だが、勝田芝居の殺陣には、美学だけではなく、倫理学とでもいうべき主題が孕まれているように思われてならない。
この劇団たち(ラッシュとメリーベルの区別が私にはあまりできないのですが)がこだわりつづける殺陣の意味が、この作品にはとてもよく現れているような気がした。そのポイントが倫理学。
石神(鬼)の最大の武器は、その鬼という境界存在のもつ言説である。人間でもなければ神でもない。
ものいわぬ自然の代弁者、人間に抑圧され、神には排除された、いきどころのない憤怒の象徴。
そういうった「間」の存在が語ることばは、繰り返し変化のものの心を惑わし続ける。それは、変化のものたちもまた、境界存在だからだ。
では、桃太郎と人間は「境界存在ではないのか?」
そうではあるまい。勝田芝居は、誰もが実は時に「鬼」であったり、時に「ひと」であったり、時に「桃太郎」であったり、時には「変化」であったりもする、そういうスタンスで進行していく。
それぞれが分け持つ、それぞれの正義。
しかし、正義民主主義とでもいう平等を語ろうとしているわけではない、とすれば、それらは互いに相手を否定しつづけようとするだろう。
となれば、それは絶対に、殺陣を介在させなければ乗り越えられることはない、とこの劇団は信じようとしているかのようだ。
殺陣が単なるチャンバラではないことの意味が、ここにある。
石神のキジ仙人を惑わせた言説も、二代目桃太郎がいう「刀振り回して殺し合ってるのよ、どっちが正義もないでしょ?」
も、単に語られてしまえば虚構でしかない。
この虚構を支え、乗り越えるための肉体的な接触。殺陣は、それぞれが「正義」たらんとしてたどりつく一つの結節点に他ならないのだ。

その3,「正義」の物語ではなく、その先へ。
けれど、当たり前のことだが、芝居の中でも外でも、絶対的な正義など存在するはずもない。
芝居の中の物語は、とりあえずの虚構として、ある種の一貫性を持って芝居内存在としての必然性を観客に提示する。そのとき、勝田芝居の魅力は、その虚構の一貫性が、あくまで芝居空間の充実に奉仕していて、たかだか一つの物語を押しつけるために奉仕しているのではない、という点だろう。
芝居によっては、一つの正義を提示し、芝居の中ではそれを徹底して示す作品もないではない。物語的には安定し、観客も紋切り型になることさえ怖れなければ、水戸黄門の話のように(あるいは昔話としての桃太郎のように)安心して話しを享受できる。だが、この芝居は、そういう物語が終わったところから語り始められている。
だからこそ、勝田芝居は、決して間違えない。
それは芝居の質とか傾向とかいうこととは全く別の話だ。彼の芝居がある種の徹底性をきちんと保持している、ということに他ならない。私たちは芝居が芝居として徹底していることを喜びとせずに、他に何を観るというのだろう。
全く種類の違う石原哲也の芝居と勝田博之の芝居だが、どちらも私が敬愛するものだ。そこには、芝居の空間に対する敬虔なまでの謙虚さ(=執着)が満ちている。

その4、日常性へのこだわり
ファンタジーの手法としてではなく、勝田芝居には、日常性へのこだわり、日常を生きる生活者へのメッセージ性が大きな特徴になっている。いわゆる「長ゼリ」と呼ばれるセリフは、勝田芝居の場合は、状況説明のために使用されることはまずない。状況説明なら軽いギャグを入れながらスマートに済ませるだろう。
メッセージ性の高いその「長ゼリ」の言説は、作者が敢えて観客に直接提示したい思いを示す、象徴的な言葉の役割を背負っている。
桃太郎→キジ仙人→主人公木地と手渡される、「大切なものを守れなかった無力さ」の負の聖なる傷もまた、女達の「長ゼリ」と響き合い、あくまで日常の中に生きている「生活者」の視点を、一見、正義の活劇チャンバラに見える舞台上の物語に、細かい網の目のようにかぶせ、あるいは細い糸のように忍び込ませる。
その1で指摘した多層性は、この日常性を手放さないという勝田芝居の特徴が、一役買っている。
ああ、そうか。

現実のやりとり→(日常世界)
チャンバラ→正義の闘争(想像世界)
女たち(神)の「長ゼリ」→伝えたい思い(象徴世界)
という構造になっていたんだ!んー面白い。3層でないと勝田芝居は発動しないんだなあ、やっぱり。

その5、精神分析的な蛇足として
木地→キジ仙人の場合、対応する天の存在が空位になっている。
さとみ→(        )←2代目桃太郎の場合は、想像の世界の存在が空位になっている。
さとみは現実世界では書き手として神様的存在だし、2代目桃太郎は、100年もの間解決しなかった物語に決着を与えるために天界から降りてきた存在だ。

他方、木地もキジ仙人も、自分の無力・ふがいなさから大切な人を見殺しにした存在であり、背中に傷を書き込まれた主体である。
内面が傷ついた男達を、神の視点で見る女達。しかしこの神は、絶対的宗教的な神ではなく、なにかもっと別の、フラットな存在といった感触がある。
だが、この女達について語るためには、この作品はふさわしくないような気がする。なぜなら、この話は、おとこの話、やはり「桃太郎」の話だから。二代目が女性であることの意義について語り得るためには、勝田作品の別の女性達について、もうすこし観ていかなければならないだろう。
その題名は、『勝田芝居の魅力---境界存在と女神たち---』とでもなるのだろうか。
(この項後日再論とします)

その6,最後にひとこと。
走り書きというか、単なるメモになってしまった。すみません。もうちょっとましに書けたらまた書きます!
しかしとにかく、『むかしむかしのゆめの夜』は、かなりの作品です。
今回の公演は、ほんとうに丁寧に作られていて、再演らしい安定感が感じられた。
演出はソワレの後、観客を見送りながら「殺陣が決まらなかった」とくやしげにつぶやいていた。
そのくやしそうな表情があるうちは、もう一度また見に来ようという気持ちになる。
できるなら、ぜひ、他の作品も再演を考えてほしい。
再演と新作を交互に打つことで、勝田芝居を今の倍(年間4回とか5回とか)観たい。
それは法外な望み、というべきだろうか?
いや、決してそうではない、と思う。
つまらない学校周りの芝居を中高生に見せるぐらいなら(比較するのが最初から間違ってますけど)、ラッシュ(orメリーベル)の芝居を、若い人たちにもっと観て貰いたいと思う。いわき市に住んでいる大人たちが、お前達の心にまで響く芝居をこうしてやってるじゃないか、と、ただの観客にすぎない私が、誇りたい、と思う。そんな気持にさせる芝居だ。
今回観られなかった人は、2003年2月に次の公演がある。詳細は劇団のページを参照されたい。
芝居が好きな人も、芝居を観たことがない人も、ぜひ、福島県いわき市に住んでいる人と来られる人は、機会があったら観て欲しい。少なくても、中央でやっている5000円以上の舞台より、コストパフォーマンスは高いと思う。
私の中の換算では、今月観た『おかしな二人』男編初日と、女編23日の間ぐらいには位置づけられる舞台だった。



2002.9.26(金)『海辺のカフカ』(上下)村上春樹
 あの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の続き的な位置づけになるのであろうことは、読み始めるとすぐに分かる。この本は買いだ。村上春樹的な希薄さが嫌いではない人は、今すぐ本屋に行きましょう。
 例によって、今の時代、この文体で小説を書こうとしたら、ほとんどこの30倍ぐらいの文章量がないと、お腹がいっぱいになった、という気にはならない。そういう意味ではきわめて村上春樹的な希薄さを持った文章だ。
昔、『1973年のピンボール』を読んだ頃なら、この希薄さは、時代の空気と極めてぴったり寄り添っていたような気がする。だが、今はこの、ほそくて長い中空のマカロニのようなスパゲティを食べているような感触は、必ずしも時代の雰囲気に合っているとは直ちには言えないような気がする。
けれど、私は敢えて村上春樹がこれを書いてくれたことに感謝したいと思う。『ねじまき鳥〜』でも『ノルウェイの森』でも『スプートニクの恋人』でも『アンダーグラウンド』でもなく、この本を私はずっと待っていた。

私(島貫)の中の「子供」が、少年が何かを探す物語をいまだに愛好しているから。
物語ファンとしては、『1973年〜』や『羊〜』、『世界の〜』の「物語」の続きが読みたかったから。
私(島貫)自身にその歓迎の理由を還元してしまうことは簡単だ。

でも、それだけでは(いくらなんでも)ないだろうと思う。
村上春樹の村上春樹的なところが、物語の進行速度および展開角度とぴったり合った、っていう爽快感がある。
想像的世界での父殺し、母・姉との姦通、自分と自分を取り巻くものから抜け出そうとする少年の成長などなど、パターン的な印はたくさんある。
でも、ナカタさん、運転手のにいちゃん、大島さん、佐伯さん(3人)、猫たち、カーネル・サンダース、そして主人公、そのいずれもが、んなわきゃないだろう、とも思うし、なにかつるんとしたテフロン加工されたものたりなさ(中空のマカロニのような細麺的感覚)を持ちつつ、それでも愛に溢れているのを読者として感じるから、いとしくこの物語を読めたのではないか。
 私にとっては、『遠い太鼓』から続いていた村上春樹の休暇が終わった、という気がしている。
 村上春樹は絶対だめ、という人でなければ、本屋さんに行ったとき、手にとってみて損のない一冊。


2002.9.26(金)『おかしな二人』女編 小林聡美・小泉今日子 出演 鈴木裕美演出
 女編(23日ソワレ)も見てきてしまった(笑)。
 男編が初日だったことを割り引く必要があるかもしれないけれど、私にとっては圧倒的に女編の方がおもしろかった。
 それはなぜだろう?
 1,鈴木裕美の演出が、女編向きだった?
 2,「女」の方がこの台本のコンセプトに実は合っていた?
 3,小泉今日子の雰囲気と、小林聡美の達者さがぴったりとあっていた?
 4,八嶋智人・高橋克実のスペイン人兄弟が、男編の女兄弟よりも「凄かった」から?
 5,男編の方がベタ(虚構性が不足している。その分を陣内のキャラクタで補っている)なのに対して、女編はそもそも女性達が生きることの虚構性について自覚的なので、この芝居の演出の男女編の差とも相まって虚構性のグレードがアップしていたから。
6,単に初日と3週間後との違い。
理由はたくさん考えられるけれど、それは実はよく分からない。
 とにかく、こちらの方がずっと面白かった。きっとさまざまな理由があるのだろう。
 だが、芝居がつまらない理由なら星の数ほど考えられるし、あげつらってもっと「良く」することも可能かもしれないけれど、いい芝居は、「面白かった」だけで足りてしまうので、ちょっとそれはもうしょうがないのかもしれない。
鈴木裕美という演出家は、菅野美穂と大竹しのぶの『奇蹟の人』を演出した人じゃなかったかしら?たぶんそうだよね。この人の演出は、たぶん好きかも知れない。
パンフレットだろうか、男の芝居は「再生」、女の芝居は「新生」って言葉があったような気もする(勘違いかな)。
この芝居は、私の中では女編の勝ち。私の中での理由は、たぶん、主役の小泉今日子を舞台上で吹き出させてしまい、芝居を止めてしまうほどであった八嶋智人の爆発的な演技のせい、かもしれない(笑)。
でも、小泉今日子さん、やっぱりプロだったら我慢してねっ(小林聡美先輩に、最後怒られてたみたいだった。)

2002.9.17(火)福島県立小名浜高校演劇部上演作品『チェンジ・ザ・ワールド』
(高校演劇コンクール最優秀受賞によせて、もしくは石原哲也の演出術のこと)

ニ今年の夏、神奈川県で開催された全国高校演劇コンクールで最優秀となったのは、福島県立小名浜高等学校の上演した作品だった。作者は前顧問の石原哲也(2022年3月で定年退職。全国大会の指導のみ継続していた)。私の師匠でもある。生徒の演出も立ててあるが、石原哲也の演出の力によるところは少なくない。
 石原哲也は、小名浜高校と湯本高校で都合5回全国大会出場を果たし、2度全国1になっている。この作品はそのうちの一つ。彼が退職の年に書き上げた、いわば集大成ともいうべきものだ。
 先週、そのお祝いの会で、彼の話を聞く機会を得た。
 周囲(副顧問や長い付き合いの友人たち)の評も交えて、興味深かった。

以下、石原哲也本人の言を聞き書きしたメモである。
memo開始--------------------------------------------------------
 もともと高校生演劇は、生徒とともに作り上げる「旬」のものだ。毎年メンバーは変わる。完成などあり得ない年度ごとの勝負である。ただ、その中で唯一変わらないのが顧問だとすれば、顧問は部活動の遺伝子のような役割も果たす。そうでなければならない。「生徒に任せているから」という顧問がいるとすれば、それは怠惰の言い訳に過ぎないだろう。特にさまざまな要素がある演劇の場合は、それが不可欠だ。

 うまくいかないからといって、1つのシーンだけ根を詰めても成果は上がらない。部活動の時間は限りがある。1シーンにこだわっている間、他の役者はただじっと待つしかない。1日2時間しかない練習だとしたら、うまくいかないときは、そこをその日は切り上げて、次ぎにいくことが必要。大切なのは本番なのだから、そこまでに何ができるか、どれだけ進歩していくか、をいつも考えながら、できるだけ多くのシーンをやるようにしている。

 しかし、絶対に諦めないで最後まで必要な演技を探し続けること。
 役者も分かっていない。演出だって、自分のイメージを追ってそれを役者にやらせるのはまだまだ初期の段階だろう。
 地区大会までは、あらけずりな演出のイメージの骨組みで、芝居を上演することもある。
 だが、それでは単に演出のイメージが目立っているだけで、自然な芝居からはほどとおい。
 むしろあざといところ、だめなところが目立つ。
 次の舞台までには、その「だめ」な演出の意図があざとい部分、無理矢理やらせている部分をいかに自然に見せるか、に心を砕いていく。役者が役を理解しても、演出が芝居を理解しても、その最後の詰めには、役に立たない。分かっていればできる、というのは芝居とはちがう話だ。あくまで、完成をもたらすのは、「自然に見せる技術」だ。手の挙げ方、角度、セリフとのタイミング。どう見せたら自然に見えるかを、徹底的にこだわる以外に何があるだろう。
もちろん、役者は分かっているに越したことはない。事実、役が分からずに演出通りやっているだけでは芝居は完成しない。だが、芝居は、一度分かれば繰り返せる。ということは、1度は役が「分かる」ことは大切だが、それでコツをつかめば、あとは技術で同じことができるという意味で「分かること」が重要なのだ。
そうやって「自然さ」をどれだけ保てるか、芝居が始まってから終わるまでいかに観客を引かせないか、はその虚構の「自然さ」を支える技術にかかっている。
リアリズムということに関しては、オレは映画が好きだからね、より強く必要を感じるのかもしれない。

 衣装を合わせてみて、どうしても違う場合は、何着でも買ってくる。今回登場人物の帽子は、本番の前日、相模原のデパートでイメージに近いものをやっと見つけた。主人公のトレーナーは7着部室に転がっている。
登場人物がベッドで手を挙げるシーンは、手の角度を出すために、ホテルの部屋で何度も何度も、最後まで繰り返した。あと1週間時間が足りなかったら、間に合わなかっただろう。
演出をするときは、役者が今できなくてもいい。本番までにどう近づけていけるか、そのビジョンが見えているかどうか。それが見えていれば、その進歩が感じられれば、その日の演出は切り上げることができる。
そういう意味では、役者と演出が稽古場でせめぎあっているときに、完成までの流れを冷静に観ているもう一人の俯瞰的な自分が絶対に必要だ。自分の演出術のポイントの一つはそこかもしれない。
 時間に遅れる部員が一人でもいたら、その日の練習は観ない。そのぐらい徹底してやらないと、積み重ねて完成していくことはできない。
 また、絶対にあきらめずに本番まで持続して、24時間、芝居が良くなることを考え続けること。風呂でも、寝床でも、トイレでも、どうやったら「自然」に見えるか、を常に考えるのだ。


memo終了---------------------------------------------------------
 
 周囲が口をそろえていう「石原哲也のマジック」は、元副顧問の言を借りれば「執念深い」の一言に尽きているかもしれない。性格的には全くおごらず、物わかりのよいふつうのおじさんだが、演出に関しては一歩も譲らない。うまくいかないときでも、「役者ができないから演出をかえよう」と提案することは絶対にないのだという。
そうではなく、演出の意図を実現するために、どんなアプローチが可能か?を常に考え続けていくのだ。
 もちろん、それだけの努力を続けても、地区大会で終わってしまうこともある。審査員に理解されないこともある。
 だが、コンクールはそれでいいのだ、といいながら、それでもなお悔しがって
「そういう審査員をも納得する芝居はできないか」
と日々演出のアイディアを追求しつづける。
その姿勢は、芝居だけではなく、生きることそのものへのひたむきさ、「執着」でさえあるように思われた。
 一口に演劇といっても、さまざまな形がある。
 師匠ではあるが、芝居の好みは同じではない。だが、彼の演出した舞台を観ていると、そんな好みの違いを超えて、ただひたすらいつのまにか「芝居」を観ている自分にふと気が付いて驚かされる。
 今年3月に退職した彼が、新しい出発をして、舞台の演出をする日が、待ち遠しくてならない。
 弟子でありファンの一人として、期待を込めて願っておく。


2002.9.17(火)『おかしな二人』男編 主演:段田安則・陣内孝則
ニール・サイモンのコメディである。男編、女編を同じ演出家が同時に手がけ、同時に公演する、というのがうり。
つい両方のチケットを買ってしまった(比較してみたいとつい思っちゃうんですよねえ)。
まだ男編(初日)しか観ていないのだが、頑張っていて、よく出来た舞台だと感じた。段田安則の舞台を初めて(ごめんなさい!)観たけれど、さすがうまいなあ。陣内も、きちんと見せてくれているし。
八嶋智人、高橋克実、手塚とおる、浅野和之らの友人達も、達者だ。
こういう芝居は、安心して観ていられるから、ときどきはあってもいい。
ただ、こんなことをいっていいのかどうか、少し躊躇われもし、逆にある意味ではいまさら、なのかもしれないけれど、三谷幸喜の芝居をいくつか観てきた後では、台本がいささか単純すぎる印象は否めない。
役者が一所懸命舞台を作っている。そしてそれは十分成り立っている。プロだから当たり前、ともいえる。だがでは、私たちは何をそこに観るのだろう?
芝居を楽しく観劇する?なるほど。
だが、芝居はやはり「本」なのだと思う。ニール・サイモンの『おかしな二人』は良い作品だと思うけれど、圧倒的に私たちを叩きのめしたり引きずり込んだり怖れたり喜んだりするようなものではない。役者がどんな風に演じたとしても。
限定された空間で、懸命に生きる登場人物がそれゆえにおかしくて仕方がない、という意味では近い方向かもしれないけれど、いくつかの三谷作品には、圧倒的なものがあると思う。いくら切り口が小さくても、決定的な世界の痕跡がそこに残る。
よくできた芝居をみたと、だまって満足すればいいのかしら?
この続きは女編を観たら、また。

2002.8.18(日)『恋愛中毒』山本文緒角川文庫
電車の中で読み出したら一気にぐぐっとはまってしまった1冊。「恋愛」の臨場感に溢れすぎていて怖くなるぐらいの本だった。私の中では下に書いた『寝ながら〜』という構造主義漫談の本としっかりリンクしてしまう1冊でもあったし、んー、これは私が他人に勧めるまでもなく、読むべき人は読むでしょう。
面白い本です。ぜひどうぞ!
中年の目立たず冴えない小さい会社の女性の事務員が、若い男の痴情沙汰(別れた彼女が職場に押し掛けたこと)の面倒を見てくれる。若い男(最初はこの男が主人公なのかと読み違えるんだけど)は、その中年女性にちょっと興味を抱くが、同僚に止められる。ところがある機会にその中年女性の恋愛譚を聞くことになり......、という設定です。
山本文緒、侮れないなあ。

2002.8.18(日)『寝ながら学べる構造主義』内田樹 文春新書
仙台に出かける用事(10年ぶりに友人3人と酒飲みするという遊び)があって出かけたとき、待ち合わせまでの時間つぶしに本屋に入ってふと手に取った1冊。あっという間に面白く読み終えました。市民講座の内容を新書化したものです。
私にとってはとっても感慨深い本でした。

個人的に新しい知見は1カ所だけ。レヴィ・ストロースがサルトルを批判したのに対して、サルトルが
P150「構造主義は『ブルジョワジーがマルクスに対抗して築いた最後のイデオロギー的障壁』である」
っていったという部分。この反論(感覚的になんかそういう面もあるかも、とは思うけれど、マルクス主義のイデオロギー支配が終わってしまうと、こういう言い方は雑だなあとしか感じられなくなってしまうものなのですね)は以前から知っていたけれど、、レヴィ・ストロースに対抗しようとしたサルトルの言葉だとは知らなかったです。

......んー、当時は「おまえふざけてんのか?!」なんて教授にいじめられたなあ、そういえば。
一所懸命小説のことばと向き合いながら、ない知恵を絞りつつ論文を書いていた20年前のころ(『佳人小論』など)をも、懐かしく想い出していました。
自分がなぜ、バルトやラカン、フーコー、およびその注釈書を夢中になって読んでいたのか、丸山圭三郎のソシュール研究に、なぜあれほどワクワクしたのか、蓮實重彦の本が、どうしてあんなに気になってしかたがなかったのか、なんていう若い頃のことが、溢れてきて、とっても懐かしかったです。
どうしてあんなに夢中になったんだろう?当時、マルクス主義的イデオロギーを信じて語る友人もまだ近くにいて、自分は実存主義の本の方がとりあえずは面白そうで、でも、自分の感じたり考えたり見たり触ったりしている世界の感触と、自分自身のありようとを十分に納得させてくれることばが見つからずにいたところに、いわゆる構造主義的(実際はポスト構造主義、という触れ込みと同時に)な言葉を浴びて、どうもそちらの方が自分の身につけたい言葉だった、ということがあるのだろうか。

ああ、本の話でした。
結局、ちょうどミニ同級会の前フリとしては、個人的にぴったりしすぎていた、ということもあるかもしれません。
そういう本との出会い方もあるのですね。
この10年から15年ぐらい、高校の授業で話をしてきたのも、結局はこういうようなことだったんだろうなあと、そんな風にしみじみしてみたりもしました。
本の内容は、構造主義、というものの見方の枠組みについて、マルクス、ニーチェ、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ・ストロース、ラカンらの思想を早わかりの簡潔な説明(横町のご隠居さん的に、と筆者は言っています)をしながら解説していくもの。興味のある方には上手に整理されていて、楽しいネタになる1冊かと思います。

誤解のないように一言。
もちろん、そういう物語として、この新書は書かれている、ということです。
あまり本気で学ぼうという人には向いていないですので、念のため。



2002.8.11(日)『チョコレート』ハル・ベリー主演(アカデミー賞主演女優賞受賞) マーク・フォスター監督
評判がいいので、観てきました。良くできた小品、佳品、といった感触です。製作関係のこととか、興業のこととか、ましてアカデミー賞がどうして決まるのか、どの程度の映画が、どんな形でどういう配給がなされていくのか、全く分からないけれど、時間を忘れてのめり込んでいく力を、前半は持っていると思います。もうちょっと長くてもいいと思う。このカットは、力のない配給というか小品としてリリースされた宿命みたいなものを感じます。ぶった切れてるところがあるもん。
でも最後はこれでいいのかな。考えさせられるところでいいのでしょうね。
ハル・ベリーは間違いなく美人!演技もなかなかステキだったと思います。
彼女を見に行くという目的で映画館を訪れても期待は裏切られないと思う。
ちなみに、カップルか、女性の複数のお客さんが圧倒的でした。一人で見に行くともやもやして結論なく出てきてしまうかも。そういう意味でも大人の映画かもしれませんね。子供には難しかった......。
セックスのスタンスも、ティーンエージャーのアプローチとは全く違った、互いさ固さ、重さをもった思いを抱えつつ、せめてその孤独をひととき癒されたい、癒してあげたいという大人の感じで、ここはとても好感が持てました。
人種差別主義者のおじいちゃんも好演していたし、対称的にナイーブな看守3代目の息子もなかなか。

もちろん、よく考えるとこんな偶然、狭い街だからといってしまえばそれまでかもしれないけれど、ちょっとなあ、というところはあるわけです。また、ディープ・サウスの人種差別主義者の親子っていう感じも私(たち)には分からない部分があるので、なんともいえないところがあります。最後は、どうなんだろう。???というところもあった。
紋切り型の展開と、ことばにできない思い。
二つのものがぱちっとかみ合うちょっと前の感じがしました。
これぞ傑作、というには躊躇われる。でもかなりいい作品であることは間違いないでしょう。
人種差別に関わるなにかコードみたいな限界でもあるのかなあ。

たぶんいちばんの問題は、主演の男の人(ビリー・ボブ・ソーントン)の変化の曖昧さをどう捉えるか、あたりになりそうな気が、自分の中ではしています。
これ、とっても難しいから、贅沢をいってはいけないと思うけれど、自分と同世代だからこそ、これじゃまだ甘い、と思わずにはいられない(近いだけに点が辛くなる)ところがあります。
だいたいあんなマッチョな父親とナイーブな息子の場合、もっともっと確執が必要だし、息子の死でころっと全てが変わるぐらいだったら、最初からあんなに息子いじめるなよ、あるいはいじめるときの内面の葛藤みたいなものを演技しろよ、ってことになる。
あるいは、死ぬまで全然気が付かなかったとしたなら、息子の死後の「放心状態」「虚脱状態」が物語展開の肝、のはずで、そこが主演男優賞にならなかった理由だろうな、ちょっと甘い。でもそれは俳優の問題じゃなくて、本が甘いんだろうね。

ああ、でも、観た方がいいか、観ない方がいいかといえば、絶対観た方がいいと思います。とくに中高年は必見。
我々の世代のど真ん中に直球を投げ込んでくれる映画は、正直いってそんなに多くない(『アメリカン・ビューティー』は貴重だったなあ。あの緊密さはこの映画にはありませんね。でも、その代わり、曖昧な、解決の付かない感じはちょっとあるでも、十分意図してコントロールされてはいないな、きっと)ですからね。
というわけで、微妙な点は多々あるけれど、お薦めの1本でした。
ちなみに私のとなりは熟年カップル。反対側の隣は、若夫婦(奥さん7〜8ヶ月ぐらい)でした。
(日比谷シャンテ・シネにて)

2002.8.8(木)『アテルイ』市川染五郎、堤真一 競演 「Inouekabuki―Shochiku-mix」第二弾
中島かずき作、いのうえひでのり演出
新橋演舞場http://www.shochiku.co.jp/aterui/#
 これは、三月に観たいのうえひでのりの芝居『天保十二年のシェイクスピア』とは比較にならないぐらい面白かったです。
『天保〜』の方は大がかりな意図だけが先行していってしまい、観客は壮大な空虚の中に取り残された(それが<意図>だったってのはこのさいなしとすれば、です)感じがあったのに対し、今回は陰謀とチャンバラのバランスが良く、たとえばちゃんばら&陰謀もののでも野田秀樹の『カノン』よりずっと良くできていた(同じく並べて観るのが間違ってるといえばそのとおりだけど)。鈴木京香と水野美紀の比較をしても、水野美紀はその役どころを弁えていたように思う(それは比べるのが間違っているかも、だけど)。
やっぱ日本の芝居はチャンバラ(殺陣)が有った方が絶対いいなあ。現代だとおっかけ、になるのかな。でもチャンバラはぜったいいい。

今日、私の大好きな『ゼイラム2』雨宮慶太(ファンサイトはこちら)監督作品という映画をまた見直していたのだけれど、森山祐子がゼイラムと闘う殺陣のシーンなんて、よく作ってあると思う。セリフを決めるところなんて、やっぱり歌舞伎の見得の伝統でしょう。
予算の問題じゃない!と改めて思った。
そう、もしレンタル屋さんにあったら『ゼイラム2』はぜひぜひぜひ!B級の低予算映画の中で、こんな風に楽しいことができるんだってことまで含めて、元気が出る作品だと思います。

閑話休題。
あとはスターシステムがきちんと働く「歌舞伎」的要素が、両袖花道という舞台にも支えられていたことが大きいのではないか。そこに市川染五郎と堤真一である。
いのうえひでのりは今回が三作目だが、『大江戸ロケット』『天保〜』と観てきた中ではこれが一番良かった。
彼の芝居の本流、なのかな。もちろん、「『阿修羅城の瞳』と『野獣郎見参』という中島かずき・いのうえひでのりコンビの傑作」(松竹のホームページより引用)を観ていないのでそのあたりはなんともいえませんが。
それにしても歌舞伎役者は空間の立ち上げ方が根本的に違う。勧善懲悪、花道、ちゃんばら、見得を切る、見立て、怨霊、ときたら、やっぱり歌舞伎のおもしろさを抜きにこういう芝居は語れないような気がします。
日本のミュージカルシーンがタカラヅカを抜きに語れないのと同様に(劇団四季はスターシステムじゃないのでこの際は除外。いくら儲かってたって、劇団四季は当たり狂言<たとえば『ライオン・キング』>以外はあまりそそられない。商売にはなるんだろうけれどね。周りの芝居好きは同意見の人が多いけど、一般的にはどうなんだろうなあ、そのあたり。しかしさらにいえば、タカラヅカもトップの襲名即引退興行というスターシステムの形骸化というか安売り化を覚悟で営業中心に回し始めているけれど、これもどうなんだろう?どなたかそのあたりを分かりやすく図解でもして教えてほしいものです。そんなに芝居はスター依存じゃやってけないわけなんでしょうか。んー、むずかしい)。
そういう意味でいえば、粟根まことの眼鏡はいつみてもいいね、たしかに。
チケットが手に入ったら、これは時間を割いても観て損のない、見所のあるよい作品だと思います。大傑作かどうかは、また別の話としても。
物語の内容は、省略です(笑)。
でも、京都の盗賊・貴族の奸計・まつろわぬ(ふくじゅうしない)ものたちと体制とのせめぎ合いなど、同じ系統の素材・主題ではあるけれど野田秀樹の『カノン』より分かりやすくて、私には良かったです。
野田秀樹のように、前半言葉をちらかせられるだけ散らかして、後半ぐぐっとまとめて響き合って、重さはないのに緊密な空間を現出させる、という天才的なことはしていないけれど、教育効果があるっていう意味でも歌舞伎的だったりするし。
もっともこの芝居に啓蒙効果なんてものを考えたりする必要はないのかもしれないけど。
二人の競演者の顎からしたたりおちる汗のしぶきがライトに光っているのを観ているだけでも幸せを感じるってものでしょう。二人の声もまたいいんだなあ。
以上、とりとめなく。

2002.8.8(木)『ダスト』マンチェフスキー監督 イギリス=ドイツ=イタリア=マケドニア作品
不思議なお話。物語のための物語というか、語りの欲望と、それを受け止めようとするヒト、そして語られる物語が交錯しながらうねるように進んでいく。

枠組みは以下の通り(ちょっと例外的に最初の20分分ぐらいを書きます。普通は最初10分ぐらいしか内容は書かないようにしてるんだけど、これはどうしても書いておきたいので。気になるヒトは☆から☆までを飛ばして読んでください。)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆枠組み説明開始☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ある麻薬の売人(扱っているヤクちょっとつまんでしまい、仲買人に指を折られたりするチンピラ)が、しけたアパートに盗みに入る。が、金目のものはない。そのとき、住人と出くわして、男はいったん殴り倒して逃げようとする。
が、その住人は高齢の老女で、気が付くと銃を構えていた。
老女に銃で殴り返され鼻柱を折られた男は、結局、逆に、銃を突きつけられたまま、ばあさんの昔話を聞かされるはめになるのである。
その話とは、19世紀末に、アメリカ西部のガンマンが、事情があってトルコに流れ着き、そこの内戦に巻き込まれていく話だった。だが、老女は話をしている最中に発作を起こして倒れてしまう。
こそどろの男はこれ幸いと一端逃げにかかるが、老女を見殺しにはできず、救急車を呼ぶはめに。
結局その老女の世話というか見舞いをしながら、彼女の昔語りを聞く役になってしまう。
他方、男は密売したヤクの横流しがばれ、大金が必要になる。
老女は、自分の話を最後まで聞いてくれたら、葬儀代として金貨を上げる、と男を誘う。
金と物語の二つのエンジンに押されて、男は老婆の物語の聴き手の地位を獲得していってしまうことになるのだ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆枠組み説明終了☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

と、ここまでが冒頭の額縁としての物語の語りの構造部分。
物語の中身は中身で波乱に満ちた西部の男の話で、このギャップがまた面白い。
たぶん不本意だったと思うけれど『ザ・メキシカン』の監督に、こっちの監督の爪の垢でも煎じて飲んでほしいと、切実に思った。同じ昔話と現代の話を交互に切り替えながら、語りの虚構性と誘惑性を軸に展開していくのに、あまりに魅力の差が大きいのだ。恵比寿ガーデンシネマで8月9日まで、だから、上映はもう間に合わないかもしれないけれど、ビデオになったら是非みてほしい1作。期待しないで入ったら、大当たり、の典型でした。

2002.8.8(木)『ピンポン』窪塚洋介・ARATA主演
松本大洋原作のマンガに、劇団『大人計画』の宮藤官九郎が脚本を担当。『タイタニック』のSFXに関わった曽利文彦というヒトの初監督作品、ということだ。
この映画は、TVの映画批評番組で井筒監督がいみじくも偏見に満ちた形で言っていたように「映画じゃない!」要素が沢山入っている。それを映画を拒絶している映画以前と観るのか、豊かさというか面白がれる要素なり現象として観るのか、によってこの映画の受け止め方はかなり変わってくるのだろうと思う。私にとってはとても面白かった。ただ、上記のような理由からいって、面白かった、という話をする相手を選ぶ映画かもしれない。
宮藤官九郎の脚本とマンガの原作は、場面場面で決めていく歌舞伎みたいな(っていうのは雑な形容かなあ、でもそんな感じ)この映画のノリに、見合っていると思った。というか、フィルムそれ自体は、押しとどめることもできずによどみなく流れていってしまうものだけれど、SFXとかマンガとか芝居は、そのまっすぐな線を止めたり遅くしたり、息を止めて間を取ったりしながら進んでいくもので、そういうことって、この素材の卓球っていうものと、結構フィットしているような気がした。
卓球オババはいなかったけれど、まいラケットを自転車の籠に放り込んで、子供の頃市営の体育館の卓球場に通い詰めた経験のある私(シマヌキ)としては、観て良かったなあ、と思う1作でした。
同じレイトショーで観たのですが、エピソード2はガラガラで、こっちは席がけっこう埋まっていました。上映館数も違うから一概には言えないけど、観る側の気合いというか、思い入れの差は感じましたね。
芝居か、マンガか、卓球か、そのどれかが好きなら観て置いた方がいい一作。ちなみに、この前酒飲みをした友人は、『ウォーター・ボーイズ』を超えたね、といってましたが、それは竹中直人の使い方に限って賛成、としておきます。作品全体は、ジェンダー問題を真正面から見据えた柄本明の存在があるので、私としては『ウォーター〜』の方かなあ、くらべれば。でも、比べるまでもなく両方観ていいものだと思いますよ。
ああ、そうそう最後に。荒川良良(あらかわよしよし<大人計画>。ピンポンではキャプテン大田で出演。)は私のひいきなので、ぜひみなさん観てやってください。んー、いいなあ。大好き!


2002.6.4(火)『初恋の来た道』 チャン・イーモウ監督作品

(原題は「我的父親母親(私の父親と母親)」だそうだから、日本の題名がいかにいいかは、映画を見終えたヒトなら分かるはず。
もうなんていうんだろう、こんなに余計なものが撮影されていない映像で、こんなにもストレートに感動が伝わるものか、とあきれてしまうような美しい初恋の物語。『少林サッカー』がこの上半期のベストかも、と思ったばかりなのに、このビデオを観たら、自分のベストはこっちかも、とぐらつくぐらいステキな映画でした。
 一人の教師が、中国の田舎で死を迎える。町の病院で息を引き取った彼の遺体を、その老いた妻は、歩いて担ぎながら村まで行列で連れてこなければならない、と村長に言い張る。都会で事業に成功した息子が訃報を聞いて村に戻り、村長から母親を説得するように言われるが、母親はがんとして聞き入れない。父親は絶対に歩いて、町から行列で村まで来なければならないのだという。雪の降る高地の山道は、ヒトを雇っても大変だ。意地になってその葬式行列のときに棺にかける布を夜中に織り出す母親。
息子は、父と母がこの村で出会い、恋に落ちた、二人の物語(おそらくは父や母から何度となく聞かされた断片)を想い出しながら、語り始めるのだった......。
ね、いいでしょ?ここまで10分ぐらいかなあ。それで現在がモノクロで、過去になると鮮やかなカラーになるの。
もーなんだろう、その時点で泣けてしまった。
 とにかくとにかくこれは観て損のない映画だと思います。ビデオレンタルショップで、借りるモノに迷ったら、迷わずこれ!
ぜひ、ぜひ、ぜひ。

2002.6.1(土)『少林サッカー』チャウ・シンチー監督 香港映画
この映画は、オバカで、めちゃくちゃで、テンポが速くて、楽しめる映画だ。
香港のお笑い系映画というと、ちょっとコテコテで困ったなあ、というイメージが先行していたけれど、少林寺拳法とサッカーの二つを出会わせたアイディアが既に「勝ち」だし、それをこういう形で軽快にまとめ上げた力も○。
とにかくある程度の大きさの画面で観るべきだと思う。そうじゃないと勿体ないんじゃないかな。解説不要のおもしろさです。こういう映画を観ると、何がなぜ面白いのか、なんて映画について何か喋ることが、いかに余計なことか、というのが分かる。とにかく観るべきお薦め映画です。上半期のベスト3には入りそうですね。

2002.5.12(日)『スパイダーマン』サム・ライミ監督 主演;トビー・マグワイア、キルスティン・ダンスト
(友人J.B.に送ったメールをそのままアップします)
これは、観に行って損のない映画だと思います。
ただ、すかっとした活劇ヒーロー、ではなく、繊細な葛藤が続く弱者の物語だと思いました。超能力が得られたからといって、正義や彼女が直ちに手に入るわけではない。とりあえずは毀誉褒貶ありながら正義の味方をやっていて、それが満足でもあり、自分の責任だとも思うんだけれども、世界は一人の超能力で救えるほど単純ではない......って感じもあって、悩み始めた鉄腕アトムという30年前のところを想い出しました。考えてみれば『スパイダーマン』も40年ちかい歴史があるんだよね。
 日本は最初からアメリカの抑圧がかかっていたから、アニメはそういう意味でチープな先端産業になっていかざるをえなかったわけだけれど、アメリカはベトナム、湾岸戦争を経て、自分たちの場所、NYで回の対テロ=(「戦争」?)と、初めて向き合ったわけで、9.11以後っていってもいいけれど、みずからのマッチョさに、一方では困惑もしているんじゃないか。
そういう意味で、悩める「普通の」ヒーロー『スパイダーマン』が、決して力があっても愛されるとはかぎらず、正義として賞賛も与えられないというアメリカ人の自己同一性に訴えて当たったんだろうな、なんても思ったりした。

でも、もちろん「よくできた」映画ですから。『スーパーマン』、『バットマン』(古いところでは『グリーンホーネット』なんかも)といったアメリカンコミックのヒーローたちの中で、最後に映画化されたのがスパイダーマンだっていうのは、この作品のためには良かったのかもしれません。ある意味では時代とシンクロしたね。

9.11以降のことについては、もう少しアメリカに詳しい人の話を聴く必要がありそう。そうでなければ、ある意味では地味な芝居=繊細な文芸映画みたいな(たぶん監督がそうなんだろうね)感じのこれが、こんなに大ヒットするのは意外なこと、かもしれないから。

ウィレム・デフォーは、この人やっぱり上手い。勿体ない使い方だな、とは思うけれど、二面性をきちんと演じて分裂したものを抱えて一つの肉体で生きるってこの映画の大きな主題の一つを支えていると思うよ。ウィレム・デフォーに限らないけれど、ヒーローモノは、どれだけ敵役が存在感を示すか、が重要。
アンジェリーナ・ジョリーの『トゥーム・レイダー』は主役は申し分なかったけれど、敵役がダメだったからねえ。
そういう意味ではウィレム・デフォーを見に行く意味はあると思う。ただ一つあの「顔」はどうだろう?たぶんコミックに忠実なデザインなのかな。でも敵役はもっとかっこよくてもいいと、現代の文法的には思うけどなあ。彼にあのお面をかぶせて本当にそれでいいのか?と、一応疑問を呈しておきます。
トビー・マグワイアとウィレム・デフォーとのからみなんてヒーローものじゃなくてやらせてみたかったなあ、と思うのは私だけだろうか?

それから、トビー・マグワイア(スパイダーマン役)の相手MJ役のキルスティン・ダンストっていう女優も、なんかその辺りにいそうなねえちゃんって感じで、地味な感じに合っていたかも。
MJ役は後半、もう少しキレイに撮れたらもっと良かったかなあとも思うけれど、ただキレイなだけっていうマスコットじゃないところは買えるんじゃないだろうか。
どこかでマイナーなトーンが通奏低音のように感じられる映画でした。
ちなみに、ツインタワーは注意深く削られて、撮り直しされたらしい。
華が足りない、といえば足りないかなあ。でも『スパイダー・マン』という物語そのものがある意味ではマイナーなトーンを抱えているから、それに忠実、とはいえるんじゃないかな。

実のところ、アメコミの主人公で、私自身が一番興奮して入れ込んだのは(日本で別の漫画家によってリライトされて連載もされていた時期があるはず)『スパイダーマン』だったなあ。たしか池上遼一だったはず。そういう意味ではマニアックな映画なのかもしれない。
日本でどれだけヒットするか、興味深いところではあります。

2002.5.10(金)
天明屋尚の絵(たけしの「だれでもピカソ」5/10お買いあげ作品)と東山魁夷
 
今TVを観ていてびっくりびっくり。とっても面白い絵が紹介されていた。なんていったらいいのだろう、金箔とか日本の襖絵の派手さと、戦闘員描写イラストの融合みたいな不思議な感じがした。
びっくりするほど違和感がないことを絵のどんな手柄と観ればいいのかが、少し難しいと思った。
「繊細だ」TVの評者がいうのもたぶん、そのところだろう。繊細さが何を探り、何を求めているのか。微妙なポイントだ。
連休中、東山魁夷の絵を見る機会があった。この親しみやすさ、この静かさは一体なんだろう、とやはり思わずにはいられなかった。天明屋の絵は「武闘派」と自称しているけれど、やはり静かで繊細な緊張感がある。
この時代に、静謐を観ると、安心する、というのは分かりやすいが、同時にそれは緊張感がなければ長くは観ていられまい。弛緩したものは、また別席で、ということだろうか。
結論のないまま、メモ代わりに。


2002.5.6(月)
ゴールデンウィーク映画3本+1本『ビューティフル・マインド』『モンスターズ・インク』にコナン、そして『スパイダーマン』のこと
 
このゴールデンウィーク中は、3本しか観なかった。どれもこれはっ!というほどの吸引力を持たないまま、なんとなく観客になって、なんとなく終わってしまったような気がする。
1,コナンくん
コナンは、バーチャルな部分はさておき、現実部分にどうしても動きが乏しく(工夫も乏しい?難しいけど、夢落ち的世界像があらかじめ見えていて、それでそれをやろうとするときに、中心核がこき使われたIT少年というのじゃちょっと弱くないか?:あ、ネタバレってほどのこともないでしょう。最初の10分ぐらいで触れられることだから)、途中で体調不良もあってか、眠ってしまいました。瞬間的にセンチメンタルになるのは悪いことじゃないと思うけれど、4月にTV放映されたクレヨンしんちゃんの、両親が万博の頃の夢に囚われてしまうのを、あくまで徹底的に「今」を生きるしんちゃんが現実に引き戻して救い出すあの作品(題名忘れてごめんなさい!)の方がずっとずっと良かった。なにしろテンポがいい。
枠組みが嵌められた作品は、枠組みそのもののゆらぎと作品内部のゆらぎがせめぎあって初めて額縁の効果が出るんだと思う。押井守がうる☆やつらを使って作った『ビューティフル・ドリーマー』が20年前にあるということを考えると、今回のコナンは今ひとつ、といわざるを得ないんだろうなあ。こういう定番映画には頑張ってもらいたいんですけどね。
2,『ビューティフル・マインド』
これはラッセル・クロウっていうのかな?数学者を演じた俳優さん。これは名演、だったのではないでしょうか。こういうオムニバス形式で一代記ものを描くのは、個人的には画面がキャラクターに奉仕する形になりやすいんじゃないかって思うと、どうも「よかった!」って感想が出にくいのですが、比較的よくできていると思いました。
ネタバレになりかねないからあまり言及できないけれど、数学者の内面の事件と現実の事件とのせめぎあいについては、これでいいのでしょうかね。これはこれであり、なのかな、とも思いました。脚本、よく頑張っているというべきかもしれません。
でも、欲をいえば、主演のがんばりと撮り方でなんとか凌いだっていう印象がある。奥さんとか、その他の脇役とかが、定型的であるところを超え出ていった方が、この主人公の内面と外部世界とのせめぎあいはよく見えたのじゃないかしら。
奥さんの内面的な葛藤をもっと描いちゃうと別な映画になっちゃうのかな。でも、もう1カ所か2カ所、奥さんがもっと切れたらどうなのかしら?ありふれてる?じゃあ切れなくてもいいけれど、どう踏みとどまっているのか、その「動かない力」がもう少し見えてもいいのじゃないかしら?
贅沢のいいすぎかな。

3,『モンスターズ・インク』(吹き替え版)
これは3つの中では文句無しに楽しめました。どこでもドアみたいなものがあんなにいっぱいある倉庫、一度でいいから覗いてみたい、と思うし、その扱い方がとってもフィジカル(あくまで木ののドアってところがいい。開けば向こう側の空間とつながるけれど、閉じているうちはただの木の板っていう対比がすばらしい。アイディアがそこに映像&扱い方として結晶してる印象がありました)で、そうそう声の扱いもね、そのファンタジックなところを目に見えるモノで表現したのが、子供的世界を立ち上げる工夫として徹底していてすごくステキだと思いました。
アラジンと魔法のランプだったらランプをこすると、ってのがあるし、ウルトラセブンだったらモロボシ・ダンがあのメガネをつけなくちゃいけないってのがある。そういう具体的な身振りや物質的なものと、幻とが響き合ってるのがよかった。
モンスターも、すぐれて物質的に描かれていて、(表面的、というべきだろうか、もちろん語の最良の意味で!)、毛のふわふわさ加減、カメレオン的に切り替わる肌の表面、一つ目玉野郎ののっぺりとした感じなどなど、CGであることをきちんと武器にして優れた映画が作れるんだなあ、と実感しています。
3本のうちではこれがお薦め。人によっては『ビューティフル・マインド』の方がいいのかもしれませんね。
この辺りは見た人の感想をうかがいたいところです。




2002.4.23(火)
『流砂の井戸』劇団メリーベル 勝田博之作・演出 4月13日(土)いわき市文化センター
 この芝居を観てから10日間、ずっと考えていた(っていうのはウソです。でも折に触れて想い出しながら、ふと考えていたりした、というのは本当です)。
芝居ってなんだろう、目的と手段ってどんな関係にあるんだろう、いい映画やいい芝居と、これは間違ってる頑張りだって感じる映画や芝居との間にある差異はなんなのだろうって、そのことをずっと、考えることになった。
今日、『フィールド・オブ・ドリームズ』と『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の2本の映画、そして三島と谷崎の話を職場でちょっとしてみる機会があった。少し考えが進んだような気がした。いや、そう思うのはいつも気のせいで、気が付くと同じところを回っているのかもしれない。回っているのでも構わないから、できれば高く、あるいは低く、スパイラス状、になにかを穿っていたい。いや、虚空に向かってでも、せめて動いていたい。

いや、ここでしたいのは『流砂の井戸』の感想の話だ。
大切なのは、舞台を満たしている気配だと思う。勝田芝居には、他の芝居にはない気配が満ちている。

今回の芝居は、何かを変えようとしたのだろうか、と、芝居を観た次の月曜日、プロレスラーの同僚と話し合った。
いつもならメインになるチャンバラ(殺陣)が、添え物のように置かれている。
いつもならメインになる果たされなかった思い(この場合物語としてはエアーの、というのことになるのだろう)は、一人の内面のみにではなく、登場人物全てに分け持たれている。
いつもなら主役になるはずの勝田が、まるで脇役のように「見る人」になっている。

だから、おそらく、物語を期待した人には、消化しきれないものが残ったのかもしれない。
事実私も、もっと響き合わせて欲しい、と願う部分がある。
だから、そういう部分をもっとリファインして再演してほしい、と思わないでもない。
しかし、求めたいと願うのは、決しておしゃれなおもしろさや、日常性、ストーリー展開の統一感、といったものではではない。

@エアーの長ぜりふで説明される過去(今から見ると未来)は、これだけの男達を集めるだけの魅力を持っていたとするなら、あの二人のことも含めて、その魅力が舞台で示されるものであってほしいような気がした。
聖なる杯を探す旅の物語であるなら、その聖なる杯は、求める者それぞれがまちまちに像を勝手に分有するところと、にもかかわらず「聖なる」誘惑をしつづけるところとがあってほしい、と思うのは物語好きの宿命だ。それぞれがぞれぞれに求めるものと、それがクライマックスの一点に向かって動き出すこととは、矛盾しないだろう。だとするなら、てこの繰り返しは労働の歌だから、いい。だが一方エアの長ぜりふには、「聖なる」響き(たとえそれが錯誤であっても狂気であっても)があってしかるべきではないか。エアの長ぜりふに込められた思いが、芝居全体と響き合っていないような気がした。聖なる杯を求める物語の体裁を取る以上、エアが単なる登場人物の一人、であってはならないのではないか?そのあたり、聞いてみたい気がする。

Aチャンバラが単なる関門になっている。そうではなく、せっかく寓話的に見える三者三様の入り口のくぐり方も、エアの思いの屈折の深さと響き合う要素があるのだから、そういうところの整合と照応をきちっと(物語的に一本道にするのではなく、バラバラでありながら響き合っていくという意味です)したら、それだけでも大傑作になるのではないか。


けれど、私はいつのまにか、砂漠のじゃりっとした砂の味を、舞台から感じ始めてはいなかっただろうか。
どちらかというと進行役兼説明ギャグの受け持ちという印象の深かった畠山の、てこ役の造型の奥行きにおどろかされなかったか。
また、深谷おんじの「おれは違う」にトロ(勝田)がこたえる「おれもだ」は、劇場の時間を追い越した瞬間を持ち得ていたのではないか。
物語はそれぞれが分有すべきものだ、という声を、勝田芝居は発動しはじめたような気がする。いや、もともとそうだったものがより鮮明になっただけだろうか。いや、さらにいえば、物語の統御に収まらない「人」の気配そのものを、描こうとしはじめた、というべきだろうか。

とするなら、中途半端な物語による統一はもとより不要だろう。求めたいのは、徹底して孤独な魂が、舞台の最後で響き合う、交響空間の共有だ。
トロもてこも、この地を離れた。かれらはまたここで出会うことがあるだろうか。そのとき、求められるのはもはや、物語の力強さではなく、魂の孤独な響きが、共鳴し、バラバラであったものが一斉に別々の方向を向きながら、しかしあるつかの間共振してしまうような瞬間なのではないか。





2002.4.22(月)
『倫理という力』前田英樹 著 講談社現代新書
倫理学とは?なぜ人は人を殺してはいけないのか?「売春はなぜいけない?」「とんかつ屋のおやじさん、の持つ確固とした何か、それこそが『倫理』というものの源泉を私たちに示しているのではないか?」
身近なとんかつ屋の主人からカント、和辻哲郎まで自由に論じながら、「倫理」について論じていく。
なかなか説得力のある例と説明もあって、楽しく読むことができた。
道徳的な言説はそれ自体では無力であり、社会に開かれた自己の自由な意志的選択として自分に課された義務であって初めて、「道徳」は倫理の源泉から力をくみ出すことができるのだ、なんてところも納得。人を手段として扱う限り幸福になれない。自分自身を手段として扱い、他者を手段として扱うことへの畏れが必要だなんてのも使えるフレーズ。
だが、本の後半、突然面白くなくなるのはどうしたことか。
丁寧に読んでからコメントしたいけれど、前半の「倫理」を巡ってさまざまに説明をしていく過程ほどには、魅力的ではない。西岡常一あたりになると、説教集的な感じが前面に出てくる。
小著ではあっても、この本を語り続けていくエンジンのありかについての「触れ」「開かれ」が必要だ。
後半それが乏しくなってくるのじゃないか?「倫理」について語ることはとても難しい。
でも、かなり有用なフレーズがあるので、読んでも損はありません。よろしかったらどうぞ。小田中直樹さんの書評でも☆がいくつかついていたはず。

2002.4.7(日)
2001年新書の旅 −素人書評にもほどがある−』小田中直樹 著
review-japanという書評サイトから生まれた2001年新書120冊に関する書評集である。
このwebsiteで、かなりの部分が読めるので、ぜひ一度飛んでみることをお薦めする。
これはとっても大変な仕事だと感心させられた。
私はこのメディア日記のサイトでは、自分の興味があり、かつ、論じる価値のあると思われる好きなものだけを(あるいは論じる価値のある嫌いなものだけを)書いてきている。
だが、120冊を統一のとれたスタイルで書評しきってしまう小田中さんには、心底頭がさがる。☆ゼロから☆5つまでのランクがあって、なかなか分かりやすい(本はまだ届いていないので、webの形式と本の評価形式は違うかもしれません)。
なにより、メリット・デメリットを明確に並べる書評形式には好感が持て、かつこちらが読もうとするときのポイントを分かりやすく伝えてくれる。ジャンルも幅広く、書評子の見る目の確かさも感じられた。
一度覗いてごらんになるといいのではないだろうか。私が既読の本についてしか分からないが、評価はかなり確かだとの印象も受けた。
ただし、100冊読んでいくと、そのスタイルで一貫していることが、しだいにしんどくなってくる。
これは全てを読むものではない、と個人的には思った。しかし小田中さんは、現在進行形でこの形のブックレビューを続けているのだろう。大変な仕事だと思う。
ああ、こうやって書いているうちに、小田中さんの魅力と、私にとっての疑問の両方が見えてきたような気がする。
彼は、書評時の評価軸として、「軸がぶれない」ことを強調する。たしかに叙述の中で主張しようとしていることが、評価軸がぶれてしまうとはっきりしなくなる。
新書という形式からいっても、それはまずい。
小田中さんは、彼自身の書評の中で、なにより軸がぶれないように注意を払っている様子がうかがえる。
信頼できる評価軸(評価それ自体は同意したり不同意だったり、反発したり共感したりがありえるだろうけど、そういうことではなくて、ね)だと思う。
けれど、そういうバランスは、敢えて決めて書いているからそうなるだけのこと、でもあるだろう。
私自身が文章を読むとき、その評価軸がぐらぐら動く瞬間をこそ、求めるってことだってある。
もちろん小説じゃないんだから、しょっちゅう物語的なものを批評に求めるのはお門違いだし、結果として詰めが甘いだけの文章は評価できない。だが、あまりに一貫性のある言説を続けて読んでいると、実はそのスタイルの仮構性がすけて見えてくる、という面もあるのではないか。
肝心なところだからこそ評価軸がゆらぐ。そしてそのゆらぎが単なる論理の甘さや馬鹿な展開とばかりはいえない、というような文章と、本当は出会いたいのじゃないだろうか?
もし新書がそういうスリルと縁遠いジャンルだったり、そういう本が少ないのだったら、あまり丁寧に評を続けてもしょうがないんじゃないかしら?
余計なお世話、でもあり、ないものねだり、なのかもしれない。
しかし、誰に読まれているか分からないwebsitoの片隅で、それでもなお批評を書こうとする自分のことを考えてみると、難しい問題だなあ、と思わずにいられない。
だいたい小田中さんのように、簡潔&的確に書くことは、容易ではない。その手さばきの見事さだけでも、価値がある。
それを分かった上で、スタイルが安定しすぎていることに注文をつけるのは、文章が下手な自分(島貫)自身への言い訳に過ぎないだろうか。あながちそれだけ、でもないと思うのだが。


2002.3.22(金)
『彦馬が行く』ル テアトル 銀座 三谷幸喜作 小日向文世主演でいいと思う。一応。 筒井道隆主演?そうじゃないよね? でも、とにかく芸達者というか素敵な俳優が揃っていて、誰が主役かなんて考えもせずにすんでしまいそうな芝居だった。
 
90年93年と上演された三谷作品の再演。
 三谷幸喜と同時代に生きることができた至福を、今日ほど味わったことはなかった。
 日本で初めての職業写真家というか写真館を始めた男彦馬(フィクションだけれど、モデルとなる人や状況は幕末に十分あったようだ)とその家族をファインダーにして、幕末の志士たちが写真を撮りに来るというシチュエーションを設定。
 こういう小さな状況限定の中での喜劇とくれば、三谷幸喜の右にでる人はいないですよねえ。
 期待に違わない傑作でした。もうチケットは取れないかもしれないけれど、また再演される可能性もあるから、その時には万難を排して観劇→感激すべきでしょう。
 手放しで面白い。こんなに笑ったのは久しぶりだって言う感想を抱くのは、ここ数年三谷作品以外にはないもの。
 『竜馬〜』を去年演劇鑑賞会で観たけれど、『彦馬〜』は脚本としてやっぱり傑作!昔の本を読んでいないけれど、とにかくいい。『笑いの大学』(近藤芳正&西村雅彦)『アパッチ砦の攻防』(東京ボードビルショー)以来、また私のリストに傑作が加わった、という感じがする。一度でも三谷幸喜の芝居を観たことがあれば、納得してもらえると思います。
 小日向彦馬の、テンションの低いナチュラルな芝居には、こちらがとろけてしまいそうになるし、梶原善の桂小五郎には、もう美味しすぎて腹の皮がよじれそうだった。
 一つだけ。彦馬が写真を撮るときに必ず言うせりふ「それでは人生で一番楽しかったことを想い出してください」に答えて桂小五郎が「村田が、ぐふぐふ、村田の額」と村田を連発。しかしその中身は最後まであかされない。このギャグには、観客がもう次を待ちきれないほどはまっていた。
筒井道隆の狂言回し(ナレーター的)も、ナチュラル系で良かった。昔TVなどでは周りにこづかれながらおどおどして、それから筒井の味が出てくるという役どころが多かったような気がするが、この芝居ではそういう感じではなく、もっと小日向彦馬に近いナチュラルな低いテンションを自然に演じてくれていた。
その二人のスーパーナチュラルな感じと、梶原(桂)や松重豊の坂本竜馬、それに本間憲一のいやらしい高杉晋作、大倉孝二の伊藤俊輔(この役はとってもヘンなハズなんだけれど、梶原や本間それに温水洋一(西郷さん)の<怪演>があったせいか、意外に普通に観てしまったような気もする。楽しかったですけど)。
泣くところ、しみじみというかぐさっとくるところは、ほとんど無かった(1カ所か2カ所ぐらい。でも松金よね子のセリフに象徴されるように「無節操でなけりゃこのうちの家族はやってられないよ」「そのへんにしておきな」「世の中のことは知らないけれど、里芋の美味しい煮方なら知ってるよ」というバランス感覚に支えられて、過剰なほどの笑いが安定感を持って差し出されていた、というべきなのでしょう)。
とにかく、また再演してほしい作品の一つ。こういう舞台は、もっともっと観られるべきだと思う。他の芝居と比較してどうこう言うつもりはないけれど、とっても良質なこういう作品を、もっともっとたくさんの人にみてほしい。劇場に足を運んでほしいし、地方公演もしてほしい。
機会があったらぜひ!

2002.3.18(月)
『琥珀の望遠鏡』フィリップ・プルマン 新潮社
 (ライラの冒険シリーズ3部作 完結編)
 イギリスでは、ハリーポッターを読んだ人がその後で読む本、みたいなことも言われているという、90年代のイギリスが生んだ大人と子供のための童話の傑作である。
 『黄金の羅針盤』『神秘の短剣』に続く3部目であり、完結編でもある。
 これは、ぜひ1作目から読んで欲しい本です。
 ハリー・ポッターが、魔法を題材にしているということで教会側の人たちから批判されているみたいだけれど、より哲学的には、こちらの作品の方がもっと「危ない」物語になっていると思う。次から次ぎと起こる活劇は、読者をぐいぐい引っ張っていくので、子供も大人もワクワクして読んでしまうが、そこには極めて観念的・哲学的な思索が、ある意味でファンタジーとしてのバランスを壊しかねないほどに惜しみなく投入されていて、リーダビリティの高さと同時に、神とは何か、世界とつながっているという宗教的な感覚を抜きに、私たちは開かれた存在である人間のまま、果たして幸福になれるのだろうか、とか、愛する人とと出会って別れること、死とは、生とは、魂とは、とさまざまなことを考えさせてくれるおもしろさにもまた満ち溢れているのだ。
ファンタジーが好きな人には絶対にお薦め。また、宗教について、神について、愛について考えながら物語を読むのが嫌いじゃない人にもお薦め。
天界を終われ、堕落の道を開いたイヴではない、地上の楽園を「愛」によって開いていく新しいイヴの創造、みたいなことを訳者の解説では書いていたように記憶しているけれど、それも当たっていなくもないような。
 先日TVで『ジャンヌ・ダルク』を観たけれど、あれは映像化という意味ではヨーロッパの人(キリスト教的基盤のある人)でないと、しょっちゅう後半に出てくるイエス?がうざったく感じたかもしれないと思うけれど、この物語は、そういうことなくお話のおもしろさの中で、そういうことをいろいろ考えさせてくれるから、楽しめるのではないだろうか。

正直なところ、3巻目はジェットコースター的ストーリー展開よりは、冥界巡りの沈潜した感じが主調音になっているので、3部作全体でバランスが取れている、と観るべきかもしれない。
なにはともあれ、大人のための童話としても読める本です。よかったらぜひ。『指輪物語』の映画よりは観客(読者)を選ぶかもしれないけれど。


2002.3.17(日)
『日本科学未来館』毛利さんが館長を務めるお台場の学習型科学博物館的なるもの
 お台場で一日遊んできた。午前中、映画のチケット予約を取ってから、上記のところに入館。アイボが就職した場所、といえば最近ニュースで知っている人も多いだろう。
 ここがとても面白かった。残念ながら3月25日までは生命科学のフロア(5F)が改装中で見られない恨みがあったけれど、1F3Fをわまっていると、スタッフおよびボランティアの解説員の人がかく展示に貼り付いていて、丁寧に分かりやすく、かつ面白く説明してくれて、いろいろ興味をそそられる内容を楽しく学習することができた。
 小中学生向けの春休み特別企画があったり、劇場ではオーロラや隕石衝突の映像の上映もあったり、ミュージアムショップではまた楽しいグッズ(ロボットを2体うちでも買ってきてしまった)があったりと特に科学に興味のない人でも半日、興味がある人なら一日中楽しめるつくりになっている。お台場に来るとデックス東京ビーチ、アクアシティお台場、フジテレビ、ヴィーナスポートなどなど、ショッピングをしなければならない場所が山ほどあって、実際はまった雑貨屋もあったのだが、ゆっくり科学未来館で時間を過ごすのも悪くない選択だ。おじさん、お年寄り、子供など、ショッピングに無縁の人にはいい場所かもしれない。
友の会ファミリー会員は2000円で入館無料なので、早速入会してしまった。
かなり楽しめる場所である。

2002.3.17(日)
『ザ・ロード・オブ・ザ・リング』(指輪物語 J.R.R.トールキンのハリウッド映画化)
 凄い凄い!こんなに圧倒的な映像化(とくに人物像の鮮やかな造形化)はかつてのファンタジー映画で体験したことがないレベルだった。
 この映画は、今すぐチケットを手配して、上映中に観るべき映画だと思います。こんな凄い映画は久しぶりにみました。
読むべき本としての物語を考えた場合、トールキンのそれよりは、ローリングのハリー・ポッターシリーズの方がリーダビリティーは上だと思うし、今の時代にはフィットしている、とも思います。
 ただ、映画としての完成度は、もう比較すべきものがないほどの差がありますね。
 『千と千尋の神隠し』も敵わないと思う。
 今すぐ、字幕スーパーの映画館に走るべきです。観た人は、納得してくれるでしょう。
 もうそれだけで十分。私の中では、上半期のベストはこれで決定かも。
 もっとも最近映画をあまり見ていないので、もっと素敵な作品が隠れているかもしれませんけれど。
 できれば大きなスクリーンで観ましょう!
 なぜこんなに感動するかっていうと、お話に対してではなく、その映像化、なかんづくそのカメラワーク(SFXと実写のシームレスな感覚は当然として)と、特殊効果が作品の中で占める役割の的確さに対する感嘆がベースにあります。
スター・ウォーズエピソード1も、ハムナプトラ2も、SFXはほんとにステキだったけれど、見世物、みたいな雰囲気も多分にそこにはあったと思う。
でもこの作品は、技術が全て映像の緊密な響き合いに奉仕していて、私たちはあの『指輪物語』が映像化されるなら、これしかない、という圧倒的な説得力のもとに映像をシャワーのように浴びていくことができるのですね。
3時間のうちにはちょっと花粉症の薬が効いて眠くなったところもあるけれど、一人一人が丁寧に撮られていて(描写されているというのともちょっと違う。一人一人が丁寧に映像化されているとでもいうべきだろうか。技術と表現すべきもの距離を感じさせないというか)ハリウッド映画じゃないみたいな感じがちょっとした。
また、これは映像の方の独自な表現かもしれないけれど、主人公のホビットが指輪を嵌めた瞬間、闇の世界に身を移し、冥王に向かって闇に吹き込む烈風が吹き荒れる様子を目の当たりにするところなど、原作を自分で読んだだけでは出てこないような感じが映像化されていて、やられたっ!
さらに、ゲーム世代の先頭であり、ファンタジーを大人になっても読み続けるようになった世代としては、その源流というかその大本の世界のオリジナリティが圧倒的な映像(人間というか内面が鮮やかに映像化されているんですよ)によって提示されていることに対して、オリジナルの力を感じるといったこともあったかもしれない。
とにかく、ぜひ映画館へ!全然面白くなくて、かつ私がそれに説得されたら鑑賞料金をお返ししたいぐらいです。

 ただし、もちろん当然のことだけれど、物語(とくにこの場合はファンタジーノベル)の映像化という意味での究極であって、人間を徹底的に見つめる瞳の側からいえば、おのずと別な評価もありえます。しかし、お話好きには絶対に見逃すべきではない1作。3時間を超える長さも、さほど苦にはならないでしょう。
 そして、最終的な結末は数年後の3部作完成まで待たねばならないということも、苦痛ではなく、むしろこの物語が完成するまでにはそれだけの時間が必要だ、「待ちます!」という気持で映画館を出てこれるのではないかしら?
 少なくても私はそうでした。
 ぜひ、ぜひ、ぜひ!

ちなみに、観たのはお台場のシネコン、メディアージュのシアター1。これはもう大きなスクリーンで快適そのものだった。
ミニシアターでみるB級な映画も捨てがたいが、こういう映画ならハリウッドだろうがなんだろうが、「あり」。
アルマゲドンの時に悪口を書いたけれど、余計なセリフでうんざりするような説明がなく、「絵」をきちんと見せてくれる映画なら大歓迎である。
たぶん、小さい映画と大きい映画、どちらか徹底的に追求していけば、どっちもステキなんだろうと思う。
時代は良くも悪くも、合併して会社規模を大きくするとか、シェアがダントツになっているとか、超有名大学だけは偏差値が下がらないとか、1:9で何か徹底的に優れているものしか残れない、といった雰囲気が出てきているように思う。
のこりの9が1に岡惚れして、奴隷になるのでなければ、それもまた「アリ」だとは思う。
多様さと独自性、他者の文化をどう受け止めるか、ということと、階層化から階級化、地理的棲み分け、階層的棲み分け、ジャンル的棲み分け、など、この手のことはさまざまなことを考えさせずにはおかない。
福島市のミニシアター系フォーラムと、シネコン、ワーナーマイカルの関係もそうだ。
私の中には一色に染まるだけでは、世界は保てないだろうという確信めいたものがある。だから、どんな強烈な物語が語られ、どんなに資本を投入してすばらしい映像ができても(指輪物語はそういうもののひとつだと正直思う)、創られるものが、それだけに収斂していくわけでもないだろう。
デジタル配信まで秒読みになってくると、今度は低コストでつくることができるというので、さまざまな種類の作家が、映像が、溢れるように私たちの前に現れるかもしれないのだ。
瞳を鍛えながら、ワクワクして待ちかまえるスタンスだけは、子供も大人も忘れたくないものである。

2002.2.28(木)
『バッテリーT・U』あさのあつこ 教育画劇
 2巻目で第35回野間児童文芸賞を受賞している。
 主人公、巧は、大人も打てないような速球を投げる中学生のピッチャー。その子供離れした力を持った少年が、そのずば抜けた才能を掌に持ち、どんなもの(大人や子供、家族やチーム、社会etc.)がやってきても、そのボールを投げるピッチャーそのものとして生きていこうとする「人間離れ」した少年の感覚が、実によく描かれている。
一途とかまっすぐとか傲慢とか、そういうことではない。そういう「少年」が説明されている物語、ではない。
「ヤな感じだけどカッコいい」(うちの息子評)ところがうまいのだ。
大人には、この、そのものになりきる、ことができなくなっている。それは『クレヨン王国』シリーズのようなファンタジックなものではない。ここで描かれているのは具体的に日本一を目指す少年野球チームのピッチャーである。
でも、スポ根もの、というのもどこかためらわれる。
こどもが、傲慢かつ完全に、そのものであってしまう瞬間の強さともろさを軸にしながら、何かになろうとして、何かであることにいらだつ大人達(実はその大人は十分に子供でもあるのだが)を巻き込んでいく。

こういうものはこの作者の世代から後でなければやはり書けない種類のものだったのだろう。1954年生まれ、ということは、大島弓子あたりとかとも近いのかな?1958年生まれの私にとってはちょっと年上の年代。1970年には中学1年だった自分と高校生だったこの作者との違いは、ずっとあるんだろうけれど。世代論はどうでもいいね。
この作品は、最近縁あって読んだ天才新井素子の『ひとめあなたに』なんかもそうなんだけれど(世代的にもまたこれが近いんだろうなあ)、子供の時に感じていた、あの奇妙に完成度の高い抽象的な感覚を想い出させてくれる。
今読んでいて、もうすぐここに書く予定の、フィリップ・ブルマンのライラの冒険シリーズ第3巻『琥珀の望遠鏡』などにも通じる硬質な完成度の高い、抽象的な子供の存在感覚が、ほんとうに具体的に感じられる表現のある共通する特質、が感じられるのだ。固いか柔らかいか、といえばそれは明らかに硬い。
自分中心に世界が回ってでもいるかのように自己中心的に見えるその他をよせつけない「個」的な感覚は、しかし、多くの人が一度は手にしたことのある、ナイフのようなものだろう。他人を傷つけ、自分ももちろん傷つけたりもするのだろうが、その傷つけたり傷つけられたりすることが、けっして勘定や感情、感傷として主題になることは決してない、感覚。主題にはならないが、無限に続くような感覚。
そういうものの存在を想い出させてくれる。
川上健一『翼はいつまでも』が、少年の感傷がいっぱいつまった秘密基地の瓶だとすれば、こちらはどちらかというと2B弾やナイフに近いかもしれない。
もちろんフィリップ・ブルマンになると、イギリスの、ほんとうにきつい空間の中で織り上げられている物語、という感じがしてくるから、そうひとからげには論じられない。
読んでいる途中なので印象が絞れていないけれど、良かったらぜひどうぞ、という1冊。


2002.2.16(土)
『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ 朝日新聞社
 あいまいな場所、灰色の領域について、レーヴィは慎重に言葉を選びながら、書き続けていく。
 私(島貫)は、この本を閉じることができない。この本を読み始めてから読了までの間、心の中でずっとこの本は開かれ続けていた。そして読み終わった今も、この本は私の心の中で、読み終えられることなく開かれ続けている。
 この本は、アウシュヴィッツ収容所に流刑となった著者が戦後、自らの体験をまとめ続けた仕事の、最後の時期に書かれたものである。
 彼自身が本の執筆動機に触れ、ものごとを単純な二元論で物事を判断しようとする傾向(それは時が経ち、記憶が風化すればするほど大きくなる傾向なのだが)その傾向を批判して、次のように述べている。「人類は二種類に分けられると考える。つまり迫害者と被害者で、前者は怪物であり後者は無垢なのである。まさにこうしたこと(そのような二種類に分ける単純化をしてしまう若い読者に対して、という意味:島貫注)のために、この本の『灰色の領域』という章が核心的な重要性を持つと思う。……抑圧されるものが抑圧する側になることもあり得る。それはしばしば起こる……」と語っている。

 この本に書かれていることは、単なるファシズムによる残虐な行為について、人間の悪についての考察ではない。
 人が集団を持ち、その集団がなんらかの意味で閉じられた権力性に基づいて組織立てられているとき、抑圧されるものと抑圧する側とは、容易に灰色の領域構成していくのだという絶望的でありながら、今まで繰り返し起こり、かつこれからも起こり得る、そして今も起こっている人間の行為についての考察である。

囚人の中の一部のモノを特別部隊として、囚人の「処理」の仕事をさせ、ごくごくわずかな特権をその特別部隊に与える、ということをナチのSSは行ったのだという。そしてSSは、その特別部隊とともに、休憩時間にサッカーに打ち興じたりさえしたのだそうだ。特別部隊もまた、少しの間命を多く長らえて、ガス室に送られていくというのに、特別部隊とSSの間には、ねじまげられた仲間意識さえもが醸成されてくるのだという。
それは、全てのことは、上からの権力や暴力によって単一的に支配されているのではない、ということ、灰色の領域が必ずそこに繰り返し生み出され、囚人は(でさえ?)決して一枚岩ではあり得ないということを示している。

 それは、私たち一人一人の心の中に、抑圧するモノと抑圧されるモノが同時に存在している、ということではない。
 レーヴィは、そういう「心理学的」な「解釈」に、静かにいらだつ。
 レーヴィが、別のところで善玉−悪玉の二元論的「解釈」にいらだつのと同じように静かに、しかし深く。


 そしてまた、収容所から解放された直後にこそ多くの自殺の例があることについて、淡々としかしある種の抗いがたい力を持ってレーヴィは書き進める。解放されたときに、「恥辱」が襲ってくるのだということ。
 私は、この本について正確にコメントすることができない。この本は私にとって開かれたままだ。

 レーヴィは、1987年、アウシュヴィッツから解放後40年以上の時が過ぎて、この本を書き上げた翌年、自死している。
 今年(2002年)上半期に読むであろう本の中で、この本ほど重要な意味を持った本は、私にとって他にない。
 ある種の読み終わらない本として、私は繰り返しこの本を読み続ける。
 一度開いてしまったからには、レーヴィと共に、人間の営みの中のあいまいな場所、灰色の領域について、瞳を凝らし続けることを止められない。
 およそ本を読む、という行為ができる人は、この本を手にとって開いてみることを強く勧めたい。
 この本は、人間が人間であることの根源、人間が人間であることを止めるということの根本に立ち返って、繰り返し思考していくことの不可避であることを、指し示しつづける。
 大げさな身振りや、何かを単純に糾弾したり、人間や世界に単純な希望や絶望を抱こうとする精神の怠惰を、静かに、けれど実に厳しく、説得的に拒否しつづける。

 そして、この本を開き続けることは、私たちが集団の中で何かの決意をするとき、その決意の瞬間に訪れる「死」とでも呼ぶべきもの、何かを失い、何かを得るという微細な権力の微分のような感触に、自覚的であることを要求するだろう。
その小さな「死」の自覚の連続が「生きること」だとレトリックを用いるのは容易だが、その延長線上にレーヴィの死があるという本のそとの事実を考えると、私たちは立ちすくむ以外に何ができるのだろう、という畏れをも抱く。

 ただ、今は、とりあえずここに、私はレーヴィを読み始めた、と書くことで、閉じられない本を読む行為の徴を書き付ける以外にない。

2002.2.9
『オーシャンズ11』
 話題の映画だからといって見ればいいというものではない、と改めて。
 本当に面白いかつてのさまざまなTVシリーズの犯罪モノと比べてどうか、っていったら、×、でしょう。
 もちろん、全く面白くないわけではないけれど、テンポが悪くて途中で眠くなった。
 11人がだいたい多すぎる。
 それから、口の大きいヒロインが貧相にしか撮れていない。
 まあ男を簡単に取り替える程度の女っていう設定なんだから、それでもいいのかもしれないけれど。男が犯罪者でかつウソを付いていたから、ってセリフで説明させる女との別れは、どう考えてもマイナス。ジュリア・ロバーツとか言う人なのかな?役者として勿体ないと思うけれど、本人はこれで楽しいのかしら。仕事は楽だろうけどね、この程度の演技なら。
 ブラッド・ピットなんかも、もっともっとできる人なのにー。残念。
 武器商人のフリをする詐欺師がまあ良かったかなあ。大滝秀治とか、ああいうフラのお年寄り、大好きなんですよ。
 悪役の兄さんの筋書きも、ちょっと相手にとって不足。あの程度じゃTVシリーズのありふれた悪役止まり。これはシナリオの問題かな。役者さんはいい顔してるから、勿体ないかな、これも。
これだったら、今TVでやっている『木更津キャッツアイ』を観た方がずっといいのではないだろうかしら?え?作者が大人計画の宮藤官九郎なんだから当然だろうって?ま、そりゃそうだ。
ああ、いいたいことが分かった。『オーシャンズ11』みたいなのは、若気の至り的ストーリーの方がずっといいのよね結局。
とうの立ったおじさんの復讐話はどうもぱっとしない。もちろん、作り手もそれを意識してるから、劇中のセリフでそれに対する批評は入るんだけど、けっきょくそれはジュリア・ロバーツの別れた理由といっしょで、セリフによるアリバイ工作にしかなっていない。
映画も芝居も、セリフで説明したらお仕舞いだよね。それでも敢えて必要ならクオリティが下がってもしゃべらせる、っていうのがハリウッドの流儀なんだろうけど。ビジネスとしては正しいかもしれないけれど、面白くないものは面白くない。
口直しに何か別のものを観てこなくちゃ。

2002.2.2(土)
『売り言葉』大竹しのぶの一人芝居 作・演出は野田秀樹 青山・スパイラルホールで上演中。
 大竹しのぶの芝居はこれで4回目ぐらいだろうか。『奇蹟の人』(サリバン先生役の最近の方)、『パンドラの鐘』蜷川バージョン、『マクベス』(これは唐沢との共演。唐沢マクベスはんー、だったけど、マクベス夫人は凄かった)。
 そんなに数多く観ているわけではないが、彼女が舞台に登場するだけで、空間はぎゅーっと彼女に収斂し、彼女の中を通った空気は劇場全体に還元されて芝居をぐんぐん動かしていくことにおいては共通している。
今回の『売り言葉』は高村光太郎の妻長沼智恵子の一生を、大竹しのぶが一人芝居で演じるというもの。
シェイクスピアは予習が足りなくて一瞬寝てしまったけど、今回は福島県人としてはとてもなじみ深い題材で、その面でも楽しく観ることができた。
パンフでの二人(野田と大竹)の対話でも野田が言ってたけれど、枠組みとしては史実に忠実な、おとなしい展開。おおボラが重なって何かが見えてくるというやり方ではない、長沼智恵子という小さい窓から観た、高村光太郎=世界を描くって感じかな。狂気それ自体を描くのは野田にとっては「反則」と語っていたとおり、狂気そのものを描くという芝居ではなかった。ネタばれになるから書けないけれど、「間(あいだ)」を描くという芝居なのかなあ、と思った。
2月2日は初日かそれに近い日程だったと思う。それを考えるとかなりいい舞台だったといえるでしょう。
その間(あいだ)を描く部分は、舞台が繰り返される間に強化されていくのではないだろうか?
そのメリハリがついたら、この芝居は傑作になると思う(もう一度観てみたいんだけど、チケットがなかなか手に入りにくくて。オークションだと高いしなあ)。
光太郎に尽くして狂気の淵に沈んでいった智恵子にとっての『売り言葉』とは?
芝居が終わってからいろいろ後で効いてくる感じだった。
これは『奇蹟の人』の後味にも似ている。大竹しのぶ、恐るべし。みなさんもぜひ。今同時代を生きる上で、大竹しのぶの芝居は旬です(断言!)。



2002.1.27
『構築主義とは何か』上野千鶴子編
 「構築主義」という言葉自体、あまり耳慣れないのだが、ざっと一読したところでは、ものごとを見て、考えるときのスタイルというか方法意識のお話のようだ。一見「当たり前」に見えることも、実は社会的文化的言語的に「構成されたもの
」「構築された枠組みによって支えられた虚構」であるということは、今では常識の部類に属するだろう。
だが、実際に全ては虚構だ、といえば話が済むか、といえばそういうわけにはいかない。
社会学的な学問の対象、歴史学的な学問の対象一つをきちんと定めて、それについて何か研究し、発言しようとすると、なかなか厄介なことが起こる、という意識が学者さんの中には出てくるようだ。
気持は分かる、といったところかな。
ただし、素人には、たとえばホーキンスの言う「膜理論」も、宮部みゆきの夢を退治するコンビも、同じ地平に立っているようにも見える。そして、この執筆者の文章は、あきらかにそういう優れたフィクションから比べると見劣りする。
上野千鶴子自身がかつて書いた文章をフィクションとして楽しめたレベル、からしても、見劣りがする。
しかし、もちろん、「戦争当時は慰安婦という概念はなかったから、事実は存在しなかった」なんてできの悪い開き直りのような言説を見ると、んー、やっぱ学者さん、頑張って!という気持にはなるんですよ。それはね。
で、結局「知」の権力闘争みたいな状況ってうのは状況定義力こそが権力だっていったフーコーの言説の切り開いた地平に立って、いろいろみなさんが頑張っているんだろう、ということも分かってはくる。

書かれてある通り、「全ては構築されたものだ」って言ってしまうと、ある種の相対主義の循環に陥るし、かといって、他人の言説だけを批判するために「構築されたものの虚構性」を暴けば足りるってもんでもないだろう。下手をすると「身体」は、「構築されざるもの」として「根源的な存在の基盤」みたいに、本質主義に回収されてしまいかねない。

そうそう、ここでは本質主義と構築主義という対立項が、どうもあるらしいということも分かってくる。

でもねえ。

いろいろ分かってはくるんだけれど、なんだか一冊を読了してももどかしい感じが残る。
このもどかしさは、なんだろう?
かつてよく読んだポスト構造主義のスタイルを、大学の先生たちが学問の文脈の中で、苦労して内面化しようとしている道筋の本、でしかないような気が、する。
そういう学問のスタイルチェックの身振りは、どこかもどかしいとどうじにいらだたしい。ない方がいいとは思わないが、一緒に歩いていて、楽しくはない。
もっとその先に、とせかしたいのではないと思う。
私(島貫)が表現と向き合うスタンスが、彼ら・彼女らの書いているものとはどこか違ってきているのだな、という実感が、そう感じさせるのだろう。楽しくない、と思うってことは、受け手であるこちらがわの位置を明らかにするってことでもあるから。
「南京大虐殺は証明されていない」とか、「数が二桁も少なかったから「大」ではない、ありふれた戦争の些事だ」なんてことを懸命に「学問」している人たちから比べたら、『構築主義〜』に書いている人たちの方が友達になりたいことは明らかだ。

でも。

ちゃんと楽しんでる様子が活字に今ひとつ出ていないんだよね。
人生を、こんな文章たちを書くために過ごしていて、楽しいのかな?っていうところがある。
書くな、というのではない。書くならもうちょっと技術とセンスが要るんじゃないかってことだ。
じゃあ、おまえは何をどう表現するんだ?ってことになるわけだけれど。
ふーっ。きちんと表現する場所に立つ必要がありそうだなあ。

2002.1.4
『愛と青春の宝塚〜恋よりも生命よりも〜』
フジテレビ2002年1月3日(木) 夜9時〜11時半 前編4日(金) 夜9時〜11時半 後編

 すごいすごい。今まで宝塚を知らなかった人も、これでファンになる人は多いんじゃないかなあ。
 大石静脚本(オフィシャルサイトはこちらhttp://www.shizuka014.com/)も正解!
 最初「藤原紀香はどうだろう???視聴率のためか?」なんて思ってたけれど、それも杞憂。
『愛と青春の〜』という主題をお正月にこの形で宝塚を舞台としてやるのに、決しておかしくはない(もちろん宝塚のキャラそのものではないんだけど)、とだんだん思えてきたのは、作品の勝利でしょう。
何がいいか分からないって?戦争と宝塚っていう対比がだいたいいい。
男と女が出会ったり別れたりするだけのものではなく、人々の様々な相が、宝塚と戦争という緊張感のある舞台だからこそ、多様に描かれていてしかもただの羅列になっていない(ここが重要!)。
そして実は、戦争ゆえに結ばれない悲恋なんてエピソードも、すぐれて宝塚的(白の大階段!死によって初めて結ばれる二人!舞台で見た源氏物語と、ビデオで見たエリザベートを想い出してしまった)。
藤原紀香がトップの役っていうのは、ディープな宝塚ファンには納得いかないかもしれないですね。
でも、彼女が主役っていうだけでもなく、後半奇妙な姉御肌の切なさが、沁みてくる感じで、見終わった感じは極めて良かった、といっていいのではないでしょうか。
これは再放送などあったら、時間を空けてでも見てよい作品だと思います。んー、TVドラマもときどきいいのがあるんだなあ。



2001.12.30(日)
江藤淳と少女フェミニズム的戦後』大塚英志 筑摩書房

 福島で、戦後文学を読む会の例会をしてきた。そこで今回題材として取り上げたのが大塚英志の江藤淳論。
『江藤淳という人』福田和也の次に読んだ江藤淳論、ということになるのだろうか。しかし、正直なところ、もう少し江藤淳論として「文学」の側からきちんとした評論が書かれなければならない、と思う
 大塚英志は本人がいうように「サブ・カルチャー」の側の人間として、江藤淳のサブ・カルチャーに対する関心という切り口で、江藤淳の女性(母、妻、少女?)に対する姿勢を読み解いていく。それはそれで面白くなくはない。同世代として、なぜあのとき江藤淳が村上龍の『限りなく透明に近いブルー』をけなして、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を持ち上げたのかは、私もずっと疑問に思っていたことだ。
 んー、でも、同じ1958年生まれの、それも「文学」についてものを書いたりしたことがないでもない私(=島貫)の立場からすると、大塚英志の関心はそれでいいとして、それとは別に、江藤淳についてきちんと彼の夏目漱石論、安岡章太郎論、小島信夫論、それに小林秀雄論についての批評をふまえた上で論じてほしいという思いがむしろ強まってくる。
 たとえば江藤淳が「戦後と私」で書いている、自分の「階層」とか「私情」とかいったキーワード一つにしても、屈折した自己の言説についての仮構性の自覚と、にもかかわらずそれに耐えようとするスタイルへのこだわりが、あくまで「文学者」として表出されている、とみるのは、見当違いではないだろう。
 「文学者」などという言葉は2001年の年末にあたって唐突すぎるだろうか。
 だが、江藤淳について語ろうとするとき、江藤淳という「文学者」の仮構性と、仮構性によって彼が何に耐え、何を守ろうとしたのかには、やはり答えておかねばならないのではないか。江藤淳のまったく良い読者ではない私には荷が重い。
 しかし、福田和也の語る江藤淳のエピソードやその賞揚の仕方、大塚英志の視点だけでは、あまりにも貧しい、と言ってみたくもなろうというものだ。
 『作家は行動する』や『成熟と喪失』の江藤淳と、私が10年ほど前に講演会で聞いた「言霊」「大和魂」の話の間には、どう考えてもあまりに大きな断絶がある。
 父の不在や母の喪失には耐えられても、祖父(伝統)の不在には耐えられなかった江藤淳、なんて言い方をしてはいけないのかもしれないが、「喪失」の文脈一つとっても、一筋縄ではいかないだろう。
 どんなに江藤淳が政治的な言説を繰り返していた時期があったとしても、それはあくまで「文学者」の「私情」というところに根ざした発話ではあったはずだ。とするなら、江藤淳はどうして祖父の物語を選び取っていったのか(『小林秀雄』の物語、との関連も気になるところだが)。
 誰かぜひ、江藤淳についてきちんと書いてください!
 とりあえず1958年生まれではなく、江藤淳と同年代の人にお願いしておきたい。



2001.12.28(金)
DVD版『踊る大捜査線』君塚良一・作、織田裕二主演 と 『ハリー・ポッターと賢者の石』映画版
 去年出たころからずっと欲しかったDVD版『踊る大捜査線』6巻を先日インターネットで購入。ネットショッピングは、こういう時に強い。なかなか店に出向くまでの手間暇が......というのが常であるのに、ネットだといとも簡単に買えてしまうから、これはむしろ「弱い」というべきなのだろうか。
 本編は、最初の放送時はたぶん途中の1話しか見ていない。その後再放送で数話見て、びっくりしてビデオを借りて見た、という記憶がある。DVDは安価で買いやすい。保存性も高いから、これならVHSと違って自分で持っていよう、という気持になれる。
 作品は今繰り返してみても、気持良い。
 これだけ真剣に、一気にドラマを通しで見たのは、『男女7人夏物語』以来だろう。これも最近DVD化されたと聞く。
 どんなドラマを見ていたか、を言うとほとんど世代論になってしまうのだろうか。
 (しかしとにかく、大竹しのぶはやはり、あのときから画面を飛び出しそうな「凄み」があった。)
 それはさておき、二つに共通するのは「約束事」の中の「群像」を描いている点だ。
いや、そういう言い方は不正確だろう。「約束事」という文法と「群像」という実態とが、ともに虚構であることがあらわになるような作り方の現場において、多層的に世界が立ち上がるように仕掛けられている、とでも言った方がいいのかな。
 一方は刑事ものの、他方は恋愛ものの。
 約束事は、男女二人だけが主人公だと退屈な枠組みになりかねない。
 そういう枠組みとそこからの逃走とか、対決とかいったドラマは、もう勘弁してほしいと思う。
 約束事が虚構化していることのおかしさが、さまざまな個性のずれやこすれあいの中から生まれてくる。
 それは、現実の中に生まれてくる「ウソ」のはらむばかばかしさ、やうしろめたさ、せつなさ、おもしろさと、どこかで響き合っているような気がする。
 正直なところ、今更大まじめに愛や犯罪を描写されても挨拶に困る。
(もし敢えておおまじめにやるとしたら、またそれはそれでいろいろ大変な覚悟や仕掛けや工夫や幸運が要るだろうなあ......)
 システムの中であるいはその境界にいて、自前で世界を立ち上げようとしながらしそこねつつ、うろうろしている人間たち。
 映画『ハリー・ポッター』がどこかもう一つ足りないと思わせられてしまうのは、制作費や製作期間だけの問題ではなく、世界の秩序がなぜ、どのようにして立ち上がるのか、ということに、作り手が無自覚であることを装って魔術の話を描いているから、だろう。だからあの映画には不思議の感覚が足りない。そしてそれが制作費や製作期間だけの問題ではないことが(それもあると思うけれど)重要なんだと思う。これだけ売れた本だと、本のストーリーに忠実にっていうのは、一つの選択肢としてはあり得ないことでもないわけで、でもそうなるとさらに難しいんだよね。
本ならば、もともと想像力の側にあるというか虚構の側にある。魔術と本はとても親しい間柄だ。だから魔術が描写されても少しもおかしくない。でも映像は違う。いくらSFXを駆使して当たり前に見えるようでも、そこに不思議さがなければただのホームドラマ(奥様は魔女的?)になってしまうだろう。
ただし、クディッチの空を飛ぶ対戦場面は、フィールドと観客席が今ひとつだったけれど、それなりにスポーツの映像らしくなってはいたと思う。でも、全体としては、魔法が当たり前、という感じを出すにはウソの厚みが足りず、魔法がとっても凄いことだってするためには、ホントウらしさの凄みがないといったところに収束していってしまったような気がするのは私だけだろうか。

『踊る〜』が面白かったのは、刑事物の文法と、実際の警察の現状と、そのシステムというか多層な文法の境界線上で虚構の人物=世界が、さまざまな響き合いやゆらぎの中でもう一度立ち上がってくるから、なんだなあ、と思う。
ウソとホントウの関係でいえば、むしろこっちのDVDの方が、湾岸署という異空間を描ききっているかもしれない。
君塚良一は、43才。私と同年だ。
これはやはりそういう世代論、にもなってしまうのかな。
でも、この世代だけに受けたドラマ、というわけでもなかっただろう。
むしろ我々の世代が、時代の中頃にいつのまにか立ってしまっている、という方が当たっているかもしれないな。
こうなったらとりあえずファンタジー好きとしては『指輪物語』に期待するしかないでしょう。
でも、『千と千尋の神隠し』が今年は収穫としてあったんだから、贅沢はいえないのでした。



2001.12.5(土)
フレッツADSL(1.6M)&ぷららの使い心地
 パソコン通信を初めて行ったときは、1200bpsだった。今回ADSLに切り替えて、約1000倍の速度になった、という計算になるのだろうか。なんだか途方もない数字だ。
 パソコン通信(BBS)のホストに初めてアクセスしてつながり、チャットでシスオペとやりとりしたときの興奮を、今少し思い出した。もう15年も前のことになる。福島県いわき市でTHE NETというBBSが開設されていた(シスオペは高橋さんという方だった)。当時、それ以前から比べると4倍早いといわれた1200bpsのモデムをつかってそこにアクセスしたのだ。画面に表示される速度は、黙読速度よりも遅く、ちょうどチャットにちょうど良い(今は誰でもタッチタイピングをするから、もうタイプの速度よりも遅い、というぐらいかもしれないが)感じだった。
 今は、インターネットの表示用に圧縮された画像なら、ほとんど瞬間的に表示されてしまう。1Mbyteのファイルが7秒程度でダウンロードされてしまうのだから......。
 料金も、4000円弱で24時間つなぎ放題(プロバイダ料が半年無料のため。他に電話の基本料金はかかります)。なんだかとても不思議な気分だ。普段は昔のことなんて思い出さない。まして、1週間ぐらい経ったら、ADSLの速度にも全然驚かなくなってしまったような気がする。
 量は質を確実に変える。また質はその量を規定しかえしもするだろう。
速ければ速いほどいい、という信仰から抜け出すことなく、一生を終えるのだろう、という思いはもちろんある。
 けれど、同時に、累乗的に速度が増していく快感とは別に、遅速度(今村仁司)、敢えて遅く生きること(まったり、といえば現代語に近いのかな)への渇望もまた自分の中にある。
 超高速の乗り物から、素手・素足で降りたら、それだけで飛び降り自殺、ということになるのだろうか。
 降りたからといってそこがシャンバラヤではないことは、かつての「脱サラ」(25年以上も前の言葉だろう)から「リストラ」に代わったから、というだけでなく、分かっているつもりだ。

ふっと休日、家族が出かけて誰もいない家の中、高速接続されたインターネットの表示画面の前でキーボードを叩きあぐねている自分は、さて、ではこれからどうするのだろう?


2001.12.1(Sat.)
「あめふらしの樹」むかしむかしのゆめの夜2 劇団ラッシュ&カンパニー

福島県いわき市で活動を続けている劇団の第9回公演だった。演劇部のみんなと、昼食を取った後、昼の公演を観た。
ラストのシーンで、なぜか涙が流れてきた。傑作なのか?分からない。大傑作、ではないのだろうと思う。
でも、こういう不思議な芝居がいわきにいて観ることのできる幸せ。みんなに分けてあげてたくなります。友達を誘って見に行きたくなる芝居って、意外にそう多くないんじゃないかな、しかも地元の劇団でそういうものを知っているっていうのは。いわき市に移住して良かった、と思うことの一つ。
作品は、
「あめふらしの樹」が神社の下にある。主人公の女性はゼネコンに勤めていて、その樹を切って開発するのが仕事だ。けれど、彼女が現場に立ち会うと、いつも雨が降り、なぜか作業の中断を余儀なくさせる事情が生じる。今度の工事が着工できないと、彼女の受け持ったプロジェクトは宙に浮く。「あめふらしの樹」はまるで何かに守られてでもいるかのように倒されずに残り続けていた。

彼女の、昔の恋人はその場所が好きだった。その場所でデートすると、彼はいつも上の神社に行こうと誘う。登るのが大変だわ、と彼女はいつも断った。

一方、彼女の部屋に突然、エンマ団と正義の味方ネムインダーが現れて......。

というような設定で話しが始まる。(正確じゃなくてごめんなさい、10日たったら少し忘れてしまったかも)

 昔の恋人         主人公(昔の恋人の思い出)
あめふらしの樹   ゼネコン開発部(主人公の仕事)
エンマ団         ネムインダー(友人が書いたヨーカドー屋上でのイベント脚本)

と、三重構造になっていて話しが進行するところがポイント。
個人的には、ネムインダー=「正義の味方」と主人公の葛藤との重なりがよく見えないところが唯一の不満。
昔の恋人すなわちあめふらしの樹の精?すなわちエンマ団の長(おさ)という形で一方は三重構造がすべて
響き合っているのに対して、主人公とネムインダーの関係が、昔の恋人ほど明確でないんですね。
それでいいといえばいいのかもしれないけれど、作品全体の均整からいえば、もうちょっと仕事と恋人の葛藤とか、そのあたりをネムインダーがらみでやる手はなかったかなあ......。
ああ、贅沢を書きました。ごめんなさいね。
舞台は、セリフの間がもう少し詰まったら、ほんとにほんとにステキだと思う!
でも、芝居の批評って、結局技術とか本の話は絶対部分的なものに終わると思う。
芝居って、志(こころざし)の響き合いなんだよね。響いていれば、下手でも(あんまり下手だとそりゃこまるけれど)全然いいんだと思う。
演技が上手くてくだらない芝居とか、プロがやっているのに退屈きわまりない芝居が溢れている。
オレの中では、ラッシュの芝居は『大江戸ロケット』にそんなに負けていないよ。ある部分では超えてしまっていると思う。それは、もちろん、プロとしての技術と比較とかし得るのかどうかは分からない。
でも、芝居ってそういうことじゃないな、ってのが、舞台を観ていると分かる。自分にそういうことを分からせてくれて、共感性こそが芝居のおもしろさの核なんだなあ、ってことを教えてくれる。
作者で演出の勝田博之の作品はいつも、
現実世界−幻想世界−回想世界
の3相が響き合っていて、そのどの世界の登場人物達もが、ある瞬間に出会い、響き合っていく。
自分に出会い、他者に出会い、時に出会い、愛に出会い、そしてその出会うときが物語り空間が、崩壊という終わっていってしまう瞬間でもある。
んー、勝田芝居をやっぱり人は、もっと見るべきなんじゃないかなあ。来年前半にはまた芝居があるはず。
ぜひ、福島県いわき市の文化センターまで!

2001.10.9(火)
『哲学クロニクル』ホームページ(http://nakayama.org/polylogos/chronique/index.html)
 今回の「戦争」について考えるとき、とっても参考になる引用がたくさんあるページです。サイード、ジジェク、デリダ、グリュックスマンなど。
考えることを徹底的にやるべきときだ、という思いがあります。それはもちろん、今だけの問題じゃないんだけれど。考えを巡らし、徹底化・多重化・総合化していこうとするときには、他者の思考と必ず響き合わせなければならない。そのとき助けになるページです。よろしかったらいちど訪問されてはいかがでしょう?これも友人に紹介してもらった場所です。

2001.10.9(火)
『リリィシュシュのすべて』岩井俊二監督作品
 栃木県の田舎の中学生が、画面いっぱいに広がる(遠景には建物があるけれど)稲の中で、CDを聞いている画面が繰り返し現れる。クラシックの響きと、極私的な女性ボーカルのJ-popが主人公とともに鳴っている。主人公はそのリリィシュシュというミュージシャンのファンサイトに、熱心に書き込みをして、その歌手が聴き手に感じさせてくれる「エーテル」(別の言葉でいえば「気」、とでもいうべきもの、か)について熱く語っている。しかし、現実では、その中学校3年の男の子は、元親友で今不良の子の使い走りのようなことをさせられている。
限られた空間と限られた意味の中で、中学生という存在は、極小的な内的宇宙と極大的な世界に分裂して、危ういバランスを辛うじて保っている側面があるだろう。
その意味と無意味の臨界面を、鮮やかな映像で、意味が過剰にならぬよう注意深く撮りきっていく姿勢は、2時間20分を越える長さもそれほど苦にならないものを与えてくれた。
しかし、沖縄の手持ちビデオでとり続けた旅のエピソードは、どうだろう?作品全体の中で、冗漫なイメージをぬぐい去れない。敢えてやっているのは分かる。しかし、それが十分に構造化されておらず、きちんこちらに届かないもどかしさを感じさせる。その旅行で、主人公の親友の中で何かが壊れ、何かが生まれた(もちろんそれだけではなく、あとで付け足しのようにセリフで説明される家業の倒産、ということもあるのだが、それは映画の中でもついでのエピソードのように語られているにすぎない。とすればやはりこの沖縄が分岐点になるのだろう)、その<魔>のようなもの(エヴァ、のようなもの、といってもいいのだろうか?)について、もう少し、示されてしかるべきだったのではないだろうか。
メール(もしくはチャット)の画面表示(もうこれは映画の画面ではなくコンピュータの表示画面のようだ)のテクニックは、演劇でTV画面をずらりと舞台に並べていたりスクリーンで映画的なものを取り入れた手法を考えれても、誰かがやるものではあっただろう。ただ、思いの外違和感なく溶け込めた。その辺りはうまい。
沖縄のシーンもただ冗漫なだけではない。というのは、観た後で、シーン一つ一つが観客の中で反芻されだす現象を考えると、それも「あり」かな、と思わせる部分があるのだ。そういう意味では、観ても損のない話題作。見終えた人の感想を聞きたいところである。
ただし、中学生の不良(不良っていわないか、最近はもう)って、美しいけど観てられない、ってところがあるから、これは観客を選ぶ作品、というべきでしょう。楽しくない人は、もう5分でイヤになるかも。少なくても好みじゃないと、2時間20分はつらいに違いない。私も時計は何回か見ました。
よろしかったら、いかがですか。

2001.10.7(日)
『蝶の舌』
 スペインの第二次大戦前、主人公は小学校に入学する。喘息で気弱だった彼を、退職直前のベテランの教師が、優しく受け止め、導いていく。大人たちは王党派(これ、思い違いかも、保守派とリベラルのせめぎあいがあることは確かなんだけど)?か共和派かで政治論争をしている。主人公はそのセンセイの元で元気にたくましくそだっていき、その兄の淡い初恋などもからんで、ヨーロッパ映画はいいなあ、ということになっていくのだが、やがて戦争が......。
というお話。主人公の夫婦は、妻がカトリック(保守派)で旦那が共和派。そのあたりの描写もなかなか微妙に良かった。
どれか1本というのなら、『ウォーター・ボーイズ』でしょうが、『蝶の舌』も、観て損のない1作。気になるのはむしろ『リリイ・シュシュの全て』だったりもするんですけどね。でも、『リリィ〜』はちょっと長いかなあ。その冗長さも結果的には悪くないいといえばいえる......。岩井俊二のことはまたあとで。
センセイの様子の描写、それから自然の描写、少年たちの描写など、いいなあ、という感じはあります。よろしかったらこれもどうぞ。



2001.10.7(日)(9日に加筆)

『ウォーター・ボーイズ』矢口史靖監督作品
 今一番観たい映画はこれだった!と思わせるだけの良さが今ここの劇場にあって、とってもそれは幸せなことだと思う。つくづく思う。この『ウォーター・ボーイズ』を、映画館の大きな画面で観ることは、幸せなことです。
日本版『フル・モンティ』といってもいいこの映画は、全然『フル・モンティ』に負けてない。むしろ追う者の強みというかさえ感じるテンポの良さ。とにかく、これは見に行くべきです。上映の時期がもう限られてるかもしれないけれど、可能な限り映画館に行ってほしいです。物語が楽しいからって、肉体をないがしろにしてるわけじゃない。
ギャグって、妙な物語から私たちを身体的にすくい上げる力があるのだなあと思う。
もちろん男の子のシンクロだからジェンダーの問題は底流にあって、それがギャグの底に流れる海流のように作品を押し流していく。もちろんそんなに深くは、ない。だってふつうのプールだから(シンクロ用じゃない)。
大人たちも子供たちも最後まで責任なんてとりゃしない。
でも、それゆえにあっけなく全てが結末に収斂していく、というお芝居の面白さみたいなものが、ここにはある。ぜひ観てほしい映画です。んー、こんなに笑って泣けるっていうのは久しぶり。
この夏から秋にかけての映画では、一押し。『蝶の舌』もいいけど、アンジェリーナ・ジョリーもいいけど、やっぱ『ウォーター・ボーイズ』でしょう。
最初、客が暖まるまではギャグがつらいってところまで含めて、愛すべき映画になってると思う。
ぜひ、ぜひ、ぜひ!
加筆→考えてみたらこの『ウォーター・ボーイズ』は、『しこふんじゃった!』周防正行監督作品の系譜でもあるんだと思う。竹中直人のサポートもあるし。竹中直人って、やっぱいいなあ。

2001.10.7(日)
『ヤマカシ』リュック・ベンソン作品
 yamakasiというのはアフリカの言葉かなんからしい。映画の中のヤマカシは、空中を自在に飛び、ビルを何十階も素手で登り、屋根を伝う、神出鬼没の「チーム」のことだ。彼らは卓越した運動能力を、そういう形で自己顕示したい若者のグループで、犯罪は起こさないが、警察にとっては目障り、少年たちにとってはヒーロー。
ある時、ヤマカシごっこをしていて、心臓病の子供が発作を起こし、登っていた木から落ちるというアクシデントが起こる。いろいろなかかわりがあって、その子供を、ヤマカシのチームが助けることに......。
これは主人公の身体運動の卓越した映像(ノリのよい)をまず何よりも楽しむべきだろう。卓越した物語は、別の映画で楽しめばいい。そういう意味で、アンジェリーナ・ジョリー主演の「トゥーム・レイダー」も同様かもしれない。彼女もまた実によく、空中を飛ぶ。「ヤマカシ」がチームの魅力「トゥーム・レイダー」が主演女優の魅力、という違いはあるけどね。個人的には同じリュック・ベンソンを観るなら「キス・オブ・ザ・ドラゴン」の方がいいかなあ。映画全体が主人公に奉仕している快感が「キス〜」の方が強いから。
でも、気持ちよいですよ、飛ぶ映像は理屈抜きで。


2001.10.7(日)
『トーゥム・レイダー』アンジェリーナ・ジョリー主演
 初日、観てきました。これは主演のアンジェリーナ・ジョリーの魅力を見に行く映画です。彼女が好きなら、絶対すぐ見に行くべきでしょう。彼女が特別好きではない人も、見に行ってファンになる可能性は十分にあると思います。
この手の冒険物語の展開としては、圧倒的な先行者インディ・ジョーンズシリーズがあります。
お話としてあれと同程度、もしくはそれを超えるスピード感覚、頭痛を覚えそうな眩暈を求めると、ちょっと違ってしまうのではないかなあ。相手役(元恋人とか、敵役とか黒幕とか)が、相手にとって不足って感じてしまうのは、キャストだけじゃなくてやっぱり台本の問題だろうなあ。キャストも不足、なんだけどね(笑)。
でも、この女優は、初めてみたんですが、やっぱ凄いわ。これからもう少し観てみたいな。