島貫真のメディア日記3
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2004.7.25(日) NHK杯全国高等学校放送コンテスト全国大会決勝』について
 今日、NHKホールで、高校の放送コンテスト全国大会の決勝を観てきた。そのことについて、忘れないうちに書いておきたい。
 今回、たまたまラジオドキュメントの準決勝審査員を務めた。
 朝9時から16時まで、40本のラジオドキュメント(1本7分ぐらい?)を2度の休憩と昼食を挟んで連続で審査するのは、いささかつらい。だが、めったにできない体験でもあった。
 そこで今回一つ強く感じたのは、タブーというか、今まで存在していた見えない境界線をまたぎこそう、という発想の作品が、いくつかおもしろいところを示してくれていたことだ。残念ながら決勝進出には至らなかったが、北海道小樽潮陵高校の作品『愛のカタチ』は、同性愛や性同一障害など、ヘテロセクシャルが正常だ、と決めつけた場合に抑圧を受けてしまう立場の人が実際には多数(全体の5%という統計が示されているが、抑圧の度合いを考えるともっと多いと思われる)いる、ということを追っていたし、日本大学三島高校では、女子高生のスカートが短いのは、実は『制服』だからこそ、である可能性もあるのでは、という逆説にまで届いていたし。
また、これは決勝の4本に選ばれたうちの一つだけれど、東京桐朋女子高校では、教師と生徒(正確には卒業生、と柔らかく提示して話題としていたけれど)の恋愛→結婚を取り上げ、ドラマなどで取り上げられている「禁じられた」といったタブーイメージにとどまらず、経験者の教師に次々とテンポよくインタビューしていく『恋愛結婚のススメ?』という作品で、なかなか今までにないところをついていた。
ちょっと前ならば、高校生らしいのか?なんて声も聞こえてきそうな題材だけれど、バランス感覚(公平な、とか客観的な、という意味ではありません。むしろ動的平衡感覚、といった方がいいのかな)のあるしっかりした視点に裏打ちされた確かなディテイルで、おもしろいアプローチを見せてくれていたと思う(これは全国2位でした)。
ラジオドキュメントで日本一になったのは、高校一年生で急逝した同じ高校の生徒について、その彼のエピソードを番組にまとめた『いちばん星』という作品(兵庫の龍野高校制作)だった。
若くして亡くなった同級生を題材にするのは、表現としては「反則」に近いけれど、表現としてその白石君という人物が放送局のインタビューに応えて夢を語った肉声を作品として止めたいという思いに支えられていて、しかもそれが表現として必然を感じさせると同時に普遍的なところまで届いている、という判断での最優秀だったのだろう。

死について、師弟の恋愛について、性について、などなど、境界を跨ぎ越して表現を模索する「今」の若い人の動きが見えてきて、とても興味深かった。

そんな中で、阿部夏丸という川に魅せられた児童文学作家に密着して、川遊びを指南してもらう一日をドキュメントに仕上げた愛知光ヶ丘女子高校制作の『川に魅せられて』は、人物が浮き彫りになると同時に、高校生も小学生も、40歳近い作家自身も年齢を超えて川と出会い、自分の中の子供と具体的に出会っていく様子が川縁の「音」によって鮮やかに立ち上がっていた、という意味では、もっともラジオ的な、ともいえる成果になっていたように思う。

これらの作品に共通している二つめの点は、身近な、自分たちの周囲にある日常の出来事や人、空気の個別的なにおいや肌触りと、他方どこであってもいつであっても変わらない普遍的な事柄とが、ドキュメンタリーの中で結びつけられ、響き合い、あるいは火花を散らしているということだろう。
力を感じる作品は、たった10分足らずの中でも、そのこれしかないという個別→普遍、抽象→具体の道が、どちらからたどっていくかは別として、気がつくと一本の道筋となって立ち上がってくる。
そういう体験をたくさん持てたことを、参加された作品全部に感謝しておきたい気持ちになった。

人が死んだから悲しいとか、ふつうでないからおかしい(あるいはふつうでないから守られるべきだ)とか、タブーを避けるからうまくまとまるとか、そういうあらかじめ筋書きを用意されすぎた「物語」ではなく、具体的なものに触れることに支えられた普遍というか、きちんと両極の磁場の間でどちらだけにも収斂せずに動的平衡感覚をもってドライブしていく姿勢というか、そういう確かな「姿勢」「視点」を高校生たちの作品に感じることができたのは、望外の幸せだった。

また、今日見聞きした中での最高は、テレビのドキュメンタリー番組『帰らなくちゃ』という北海道旭川北高校制作の作品だった。
高校から二時間半ももかかるため実家からからは通える、高校生になって下宿しはじめた放送局員の、下宿のおばさんがターゲットなのだが、そのおばさんは頑として夕方5時から6時までという食事の時間を変えようとしない。部活動ができない、と苦情をいうと、「昔からこうやっている」とか「決めたことは動かさない」とか「部活動がいちばん大事ではない」とかいって、取り合ってくれない。
本当は下宿の子供を愛しているんでしょう、と水を向けても「そんなことはない」と「一筋縄ではいかない」。取材を一日させてくれ、と頼んでいたのに、途中で黙って買い出しにいってしまう……など、なかなかのおばさんぶりである。
そして、そのおばさんを追っていくと、ある瞬間に、きちんとした大人の「他者」の姿、外部の視点を私たちは不意に発見することになるのだ。

 外側から観ているうちに不意に内側をのぞいてしまったり、中でだけ物語を語ろうとしているのに、不意に外側のざらりとしたものに出会ってしまったり、という経験こそが、ドキュメンタリーの醍醐味なのかもしれない、と思いはじめた。

 もちろん、それらはいったん語られてしまえば、「了解済み」のこと、となっていくのだろう。
 下宿のおばさんはやっぱりいい人、という結論で番組はたしかに終わっていく。終わりはそういう終わりにならざるをえない。
 そしてそれが間違っている、という訳でもない。
 だが、私たちがドキュメンタリーを観ていて驚き、喜ぶのは、自分で想定していた物語が立ちゆかなくなったり、不意打ちを食らったりする瞬間があるからこそ、なのだろう。あらかじめ設定された境界線をなぞるだけのものを楽しんでばかりいるわけにはいかない…というよりそういうものではしだいに楽しめなくなってきているのではないか。
設定された境界線を明らかにすることが、そのまま見ることである場合だって皆無ではないだろう。
でも、メディアを通して表現を考えたばあい、そういうあらかじめの筋書きを流布させることに憂き身をやつしてばかりはいられないのではないだろうか。
おもしろい!と思う作品は例外なく、起こった出来事をまっすぐに見つめて、従来の境界線をむしろかき消し書き換えて、自分の手で世界をつかみ直そうとする元気を持っている。

そんなことを感じて帰ってきた。力の内在する表現に出会うと、自分も力を十分に出せるようでありたい、と切に思う。




2004.5.2(日) 『Casshern』紀里谷和明監督、伊勢谷友介、麻生久美子出演。宇多田ヒカルエンディングテーマ
 見終わったあと、つっこみどころの多い映画だった。けれど、2時間半近くの時間、長いとは思わなかった。むしろ、もっともっとディテイルが欲しい、と思うような、つまりは魅力的な映像だった。
 アニメがアンドロイドの反乱だったのに対して、新造人間という、人間の原初細胞?と宇宙生命体?(神?)による強化されてしまった人間(唐沢寿明、要潤らが演じる。主人公伊勢谷もその一人)たち同士の戦いになっている分、話の設定がわかりにくくなった面があるように思う。そのあたりは「オレに本書かせてほしい」と思いたくなるような無理というか飛躍というか、イメージで乗り切っているところがあった。
 でも、そういうことが重要だとは思えない。映像と音楽とテンポがあれば、物語的な説明は、多少荒くても大丈夫ってことだろう。映像的な試みは、随所に見られて、それだけでも楽しみがある。
 肝心なところは「超美的」映像や「超スロー映像」で見せ、内面と現実を同じ役者が異なった映像で二重化して提示したりと見応え十分。人物の画面配置からカメラの動かし方、角度一つとっても、画面の表面の処理にしても、音楽にしても、迫ってくるものがたくさんあった。
個人的にはエンディングテーマが一番好きだけれど、作られた映画に込められた気持ちの姿勢は、「オレも何かしなくちゃ」と思わせる何かがあった。それはチープな予算で作られ、一見マニア向けに見えてしまうけれど、その実B級の中でも魅力を放ち続けているたとえば『ゼイラム2』のような作り手の魂というか、姿勢が見えてきて、楽しかった。それは『鮫肌男と桃尻女』なんかもそうだし、『バッファロー'66』や『スナッチ』などにも共通する「まじめさ」と、通じる底のものを感じないではいられなかった。
「匹夫を立たしめる」(石川淳)のが芸術だとするなら、この作品は「芸術」と呼ぶべき作品だ。そういう意味では、見る人間の姿勢を選ぶ(分かる人には分かる、という意味ではなく)作品かもしれない。これからが楽しみである。

2004.5.2(日)
 4月28日(水)『綾戸智絵コンサートツアー(水戸)』

 (いざとなったらひとに譲ってもいいかな、と思って)何の気なしに取ったチケットだったが、多少無理しても行って正解だった。本人もいうように、瀬戸内寂聴のような「人生訓話」の趣きさえあるMCが楽しみで来ている年配の人あり、オールドジャズファンとおぼしきおじいさん?あり、たぶんスタンダードなジャズさえ聴いたこともないような10代の女の子あり(男の子の若い人はあまり目立たなかったなあ)、しかしどちらにしても初めてのライブ(私も含めて)という人が圧倒的に多かったようだ。
 しかしとにかく、パワフルな歌声、歌に対する「愛」のありよう、は、ホール全体を瞬く間に彼女の空間に変えてしまう。それは、魂に対する態度(だれか批評家がそんなことばをどこかで使っていたような気がする、拝借しちゃいます!)が、私たち聴き手を動かしてしまうのだと思う。すごいのは、それが彼女の音楽と地続きになっている点だろう。MCがおもしろいから、歌が実力派だから、とか、区別することにあまり意味がないような魅力。40歳から始まったキャリア、という年齢にあまり意味を持たせすぎるのはどうかと思うけれど、鷺沢萌の自殺、宮部みゆきの冗漫な最近の作品への疑問、梨木香歩の『家守綺譚』での虚構としての男性の語り手の設定、川上弘美の中年から始まった「枯れた」かたちで境界線をまたぎこしていく魅力などなど、女性としての「若さ」とその先にあるものの<間>の問題を、さまざまに考えさせられるライブでもあったような気がする。それは、彼女(綾戸智絵)の関西漫才もかくやと思われるような(しかし、ジャズ的な即興の天才肌のステップは、凡百のパフォーマーを超えた洒脱さがあるんだけどね)笑いの要素が、どんな闇に裏打ちされているか、を想像させるし、彼女のパフォーマンスは、むずかしいことを意識してはいないかもしれないけれど、それだけの戦略なり構造に支えられてもいることに、しだいしだいに気づかされ、ていくことでもあったかもしれない。でも、それはあざとい「受け」を狙った種類の戦術や罠、ではなく、元気が出る種類の強度が感じられる、つまりは信頼に値するパフォーマンスだ、ということだ。

3月22日『素手でワニをつかまえる方法』タ・マニネ公演(岩松了・小林薫・片桐はいり、荒川良々ら出演)
 岩松了の作品を初めて舞台で見る機会を得た。何やら不思議な手触りの作品だった。だが、間違いなくこれはおもしろい。後からじわじわ効いてくる種類の作品だった。荒川良々の怪演は、何よりの「つなぎ」であった(後からじわじわくるまでの)。元々私は荒川良々を一目見たときから大好きで(大人計画『ウーマンリブ発射』)、いつか別の舞台でもみたいとずっと思っていたのだが、今回その願いも叶ったことになる。
 筋の説明など無意味で、それぞれがそれぞれに全く別の思惑で語り続けるのだが、その微妙なズレ具合の感触を、とりあえずはじみに楽しむ作品、と感じた。微妙に合わないめがねをかけたような違和感。
しかし、そのズレぐあいはかなり繊細で、それらある種の構造を予兆的に示しているようでもある。
 ダイナミックにそれが動き出して後半ドラマが展開、という風にはいかず、じわじわ、じりじりとずれが収拾つかなくなって、身も蓋もなく幕切れるだけなのだ。しかし、全く「眠くならない」。単なる不条理でもなく、単なるどたばたでもない。ほんとに意図しているとしたら(そうなんだけど、そういってみたくなる)かなり難しい技だろう。同じ岩松了作品を蜷川が演出した『シブヤから遠く離れて』(二宮和也主演、小泉今日子も出演)は、どうにもこうにも蜷川が岩松作品を誤解しているとしか思われない(もっとも、私には蜷川演出が全然腑に落ちた試しがないので、私が単にその演出が分からないだけかもしれない。でも、岩松演出作品はおもしろくて、蜷川演出はだめ、となると、とりあえずは蜷川演出を疑ってみたくもなろうというものではないだろうか。ちなみに野田の『パンドラの鐘』のときもそうだったもんなあ…だれか、蜷川幸雄が、現代の作家の演出をやったときに、決定的におもしろいポイントというのがあったら説明してほしいです。決定的におもしろくない経験ばかりなんだもの…)。二宮和也の柔軟な、微細な差異を体現したような岩松的演技と、小泉のTVCM用のような叫んでいるばかりの蜷川的演技の差異は、すでに岩松的ではなかったような気が、する。
 この問題は、しばらく宿題かな…。そうそう、『シブヤ〜』の杉本哲太っていうのはどう考えてもミスキャストだったんじゃないでしょうか。同じような役回り(変身していく勘違い野郎)の荒川良々の名演=怪演と比較してはいけないのかもしれないけれど。

2004.1.25(土) 『Dr.コトー診療所』脚本:吉田紀子 出演吉岡秀隆・柴咲コウ・小林薫・泉谷しげる・時任三郎・大塚寧々・筧利彦ら(フジテレビより)
 去年放映されたこの作品がDVDで発売されるというのでアマゾンで予約をしておき、今日、朝から晩まで一気に11回を通しで、ようやく観ることができた。知り合いに聞いたら、去年よっぽど話題になったじゃない、ということだった。いやいや、己の不明を恥じるべきことでした。
 これはもうほぼ傑作。ここ最近こういう体験はあまりなかったような気がする。
 実は人気ドラマをリアルタイムで見ていることっていうのは、正直ほとんどなくて、放映が終了してからその評判を聞き、ビデオや再放送などで初めて出会うことの方が多い。
 昔でいえば『男女七人夏物語』もそうだったし、最近でいえば『踊る大捜査線』に『トリック』もそうだ。放映中は1,2度観た程度で、おもしろいな、とは思いつつ、時間をTVに合わせることができずじまいで、その後VTRやDVDで通しで見始めると、すべてを忘れて徹夜で見るはめになる。作品鑑賞に没頭して徹夜するっていうのは、いつだって望むところ、なんだけれど、最近正直なところ、徹夜はつらい。というわけで、この作品も週の半ばには届いていたのだが、週末まで待ち、満を持して1日がかり、となった次第。
いや、それだけのことはありました。
物語の筋は、孤島に優秀で誠実で、気が弱そうな外科医がなんの間違いか赴任してきて、最初は島のヒトに受けいられないでいるけれど、しだいに掛け替えのない存在となり、交流も深まったところで事件が起こり、彼が島を離れなければならないような深刻な問題に発展して……という、観なくても要約できるような流れだ。
当然、先端医療ドラマというよりは、人間ドラマ(登場人物もそんなことをいっていた)。
そういう意味では大学内の描写中心の『ブラックジャックによろしく』とは正反対だ(しかしむろん、漫画原作の、若い純粋な医師が主人公、ということではほとんど同一ジャンルと観ることもできる)。
この作品は、とにかく映像を見るべきです。役者の様子ができあがっていく、そういう感触が味わえる。11回のドラマは、1〜3回ぐらいまでが設定と登場人物の紹介をかねた事件一巡。4、5回あたりはダレ場をつくり、6回7回と伏線を張ったりしながら、9、10、11回の本筋のクライマックスに向かうというのが一般的な流れだけれど、そういうことを踏襲しつつ、その繰り返しが「島」の日常として私たち視聴者にも共有されていく。
そのできあがり方が、他の多くの放映されっぱなしドラマと違っている。
風景の美しさ。診療所のセットのリアルな感触。船の上、魚市場や断崖、海辺、港、山などなどのふんだんなロケ。そのカメラの中に飛び込んでくる空の青、海の青、魚たち、緑、太陽、波頭、かぜなどなど。
もう、とにかく、いいです。
吉岡秀隆という『北の国から』のイメージを背負った役者が、南の島で見せてくれるドラマは、とってもすてきでした。すてきなのは、記号として物語を安易に消費していない点です。
そこに風景や、表情や、葛藤、すれ違いがきちんと描写されている。
ドラマだからむろん嘘なんだけれど虚構としてそれがきちんと成立し、たんなる物語の枠の範囲にほどよくおさまるということだけを最初から意図せずに描かれている。
最終的には連続ドラマの物語なんだから、とてもにているけれど、最初から枠の中で演技されたり演出されたり、せりふを割り当てられてしまうのと、枠を作る作業がきちんと見える描き方とは、違うと思う。そういう意味で、傑作、なのではないか。
一人一人の物語がちゃんと画面に表示されているし、だから物語と物語の齟齬やすれ違いがきちんと描ける。
後半、大きな「医師」の物語が暴かれるところ以後は、「お話」になってしまうけれど、それは悪いことではないと思う。始まりのぎこちなさ、の方が個人的にはより、好きですけれど。
たぶん、レンタルにもなるのでしょう。ぜひまず、第1話を手にとってみてください。
ぎこちないところのある第1話は、それゆえにこそ、いい、のじゃないかしら?



2004.1.25(土) 『裸でスキップ』ラッパ屋 シアタートップスにて
 えー久しぶりにふつうの芝居を観たような気がする。
 小劇場、というのかな、こういう演劇は。
 でも小か大かっていうのは劇場のキャパだけの問題でもないんだろうなあ。
 とにかく、おもしろかったです。お話は、下町にある、家具制作をしている町工場の社員寮で起こった数ヶ月の出来事。その家具職人や事務員、社長と専務(兄弟)たちの小さな日常を、その寮の談話室だけを切り取って(セットの変換はなし。暗転のみ)見せてくれる。恋愛や結婚、離婚、会社の不当たり、恋いのさや当てや転職などなど、小さな職場(会社が大きいかどうかは別)ならどこにでもあるような匂いの題材を、リアルに、本当にリアルに(なにせ舞台でカレーをみんなで食べ始めたりするんだから<笑>)、笑ったり泣いたりしながら味わわせてもらいました。でも、それは古い人情話って感じともちょっと違うんだな。虚構化がきちんとなされているから、その手応えが確かで心地よい。円環的に閉じていく物語ではなく、年代記、というほどの広がりでもなく、むしろ小さい窓から生きることを一緒にのぞいているような、そんな感じ、とでもいえばいいのだろうか。そういう意味で「小さい」芝居でした。そして、だから、良かった。『ジョゼと…』もそういう種類だと思う。こうして日記をつけていると、自分が何に反応するか、がだんだん見えてくる。興味の広さと感受する限界、みたいなものも同時に見えてくるかもしれない。
そしてそれはたぶん、こう、と決まったものでもないのだろう。そこがおもしろい。
昨日には分からなかった境界が、今日は見える。あるいは、今日感じられなかったおもしろさの高みが、明日には見える。そういうことがあるから、作品と出会うことは止められない。
今日、Webのニュースで、
>1年を通じてホールや劇場、映画館などで公演や作品を直接鑑賞した人は
>50.9%で、前回調査(1996年11月)より3.5ポイント減った。
と報道されていた。劇場に行くだけが娯楽じゃないってことなんだろうと思う。ビデオレンタルの量はどんどん増えているような気もするし。
ただ、手軽なだけがいいってわけでもないのも事実。小さくても、「生」の芝居はやはり手間暇かけて見に行くだけの価値があることも(ない芝居ももちろんあるけどさ…)少なくない。
今日観たDVDの作品についてきたおまけインタビューで千石規子という役者さんが、
「戦争中、有楽町の劇場で芝居をやっていた。そのとき、東京はイラクのように戦争でヒトが死ぬ状態だった。でも、劇場で私たちは芝居をやり、それをたくさんのヒトが見に来ていた。どんなときでもドラマはヒトにとって必要なんだ」
ってスタッフに語っていた。
劇場に足を運べるヒトばかりが世の中にいるわけじゃないけど、ときどきはできるなら「生」の演劇を見続けてから死にたい、と改めて思った。


2004.1.21(水) 『幸福の鐘』SABU監督作品 寺島進主演
 えー、こちらの方がこの監督の新作。これは、どうなんだろう。近い時期に『MONDAY』を観た感じからいうと、『MONDAY』の方が衝撃力は上のような気がする。最後の五分間は、とってもいい。その感じは捨てがたいけれど、『MONDAY』の突き放され方の方が癖になるかも。
 でももちろん、悪くない感じでした。
 ただ、せっかく寺島進さんが主演なんだったら、その声をもっと聞きたかった、というのは、この映画のコンセプトから言って無理な注文なのでしょうねえ。

2004.1.21(水) 『MONDAY』SABU監督作品 
 3年前ぐらいの作品だろうか。ビデオで観た。しょっぱなから展開の予想を裏切られ、つぎつぎに横滑りのドライブがかかったまま、とても意外なところでエンドロール。んな馬鹿な、と思いつつ、後を引く感じがなんともいえない。『ジョゼと虎と魚たち』の良くできた感じとは全く違った、でもとても気になる一作だった。これはとにかく、観てください、としか言えない。一緒に観た人間は、土俗的な「神」なり「悪魔」なりを呼ぶ儀式みたいだ、と言っていた。なんとなく納得。
しかし、あまり作品の説明にはなっていない。
横滑り具合、躓き具合の感じからすると、これはかなり「いい」感じかもしれない。まだ、観たばかりではなんとも言えないけれど、後から効いてくる作品のような気がする。


2004.1.21(水) 『ジョゼと虎と魚たち』犬童一心監督作品 妻夫木聡・池脇千鶴主演
 先日『青の炎』をすてきな青春映画といったばかりなのに、これもまたすてきな青春恋愛映画として紹介しなければならない幸せをどうしよう、といった感じだ。
 ちょっとゆったりとしたテンポの映画かもしれないけれど、ジョゼ(クミコ)の住む家のロケーションと室内セットの微妙な陰影がいい。監督が、照明に気を遣ったというコメントをパンフで書いていたが、納得がいく話だ。これ、別の光だったら、全然違った作品になってしまったと思う。下肢の不自由な主人公ジョゼを演じる池脇が生きている。個人的な話で恐縮だが、たぶん、この脚本が好きなんだと思う。だが、この脚本だけでは「良い」ということにはたぶんならない。この脚本のせりふを、このテンポで、この照明で、こんな感じのふつうの妻夫木聡で撮った感じが、トータルで「青春恋愛映画」になっている。

もし、ファンタジーとして、つまりは「自分」の映画として観てしまうと、すごくいいってヒトとまあまあ、ってヒトとに分かれた評価で終わってしまうかもしれない。「間」が合わないとそれまで、みたいな。でもそれはちょっともったいないんじゃないかしら。
これも監督が言っていたことだけれど、脚本ありき、脚本をどう撮るかが主題だったっていうコメントが、すごく納得がいった。
傑作!と言い切るには少しだけためらわれるとしたら、そのバランスを超えたむちゃくちゃな感じはしないかな、という一点だけ。上手に虚構化されているなあ。ほれぼれ。



2004.1.2(金) 『青の炎』蜷川幸雄監督作品 二宮和也・松浦亜弥
 これはとってもすてきな青春映画に仕上がっている。
 未見の人はぜひ、お勧めしたい1本である。
 蜷川は、映像とキャスティングの人なのか、と改めて感心。蜷川のシェイクスピア劇を観てがくがく居眠りをこいた私としては、意外にも「おもしろい」映画になっていて、びっくりした。
原作だと主人公がもしかすると完全犯罪をしそう?!って感じがあるんだけれど、この映画では、若くて思慮も十分ではないけれど、純粋で思いに突き動かされていく少年と、それをただ固まって観ている少女とのぎこちない、しかしそれゆえに切ない感じを、きれいなきれいな映像で撮っていく。これ以上何が必要?って感じの青春映画でした。
切り通しの風が吹き抜けそうな様子とか、トンネルの映像、自転車と海岸通り、電車と恋人たち、「絵」を描く生徒たち、などなど思い出してもきちんと「映像」がきれいに残っている。
妹の言葉に「なんだよ〜」とへたりこむ少年の呆気ない様子も。秘密基地のようながれーじと、シャッターを開けたとたん目に飛び込む輝く夏の庭。
へたくそなあややが、そのキャスティングでいいんだ、と納得できたのも切り通しのシーンだった。
物語としては、小説の方がいいのかもしれない。物足りないところなんてたくさんある。
でも、これは、買いです。石坂洋次郎『若い人』から始まって、黒井千次の『春の道標』、村上龍の『69』(一緒にならんか?)、あさのあつこの『バッテリーT〜X』(これも全然ちがうか?)など青春もののお話はいろいろあるけれど、これはその歴史に1つ加わった気がする。過褒だと思います?
ちょっとレンタルしてみてくださいませんか(^^)?


2004.1.2(金) 『アメリカン・ディストピア』宮台真司×神保哲生 ○激トーク・オン・デマンドU
 videonews.comというインターネット上での対論を基にして加筆して成立した本。春秋社から出版。
 副題にある「21世紀の戦争とジャーナリズム」というテーマで自由に二人が語り合っているそのやりとりを観ているだけで楽しい。もちろん主題はまずもって「アメリカの戦争」。ブッシュジュニアがやってしまった戦争の意味・無意味と、それに対して「日本」の人たちはどういう問題を抱えているのか。
 今年後半対イラク戦争の本を数冊読んだけれど、この本が一番具体的でわかりやすく、かつ問題点をいくつも指摘してくれていて、おもしろかった。今、丸山真男を読んでいるところなので、そのあたりも興味が湧いた(対論で触れられているのはちょっとだけで、そんなに深い話ではなかったけどね)。
ネオコン、ネオコンと最近のアメリカウォッチャーからしょっちゅう指摘される人たちの様子も、ふーん、へえ、そうなんだと理解でした。産経新聞で、「ネオコンの中心にいる人たちはたしか民主党左派だった理論派が転向して、真面目に政治を考えてる人物なんだ!」と論説していた人がいたけど、その「真面目さ」が怖い、と思った。そのあたりのポイントを、きちんと説明してくれていたのが助かった。宮台は大塚英志や浅田彰と同じく私の年齢に近く(1950年代終わりごろの生まれ)、そのせいか、ときに方向は違ってもそのスタンスというか、方法感覚が分かりやすい。
お勧めの1冊である。

2004.1.2(金) 『ボウリング・フォー・コロンバイン』マイケル・ムーア監督作品
 ご案内の人も多いと思う。マイケル・ムーア監督が突撃取材で、アメリカでなぜ銃犯罪がかくも多いか、を、コロンバイン高校で銃乱射をしたあと命を絶った二人の高校生の事件を中心としつつ、さまざまな切り口から描いていったドキュメント作品。監督はジャーナリストの経歴が長く、またドキュメンタリー監督としてTVでも活躍。『アホでマヌケなアメリカ白人』(原題:「Stupid White Men」)は去年日本でも話題になった。
もう、ドキュメンタリーなんだけど、全然飽きさせない。片時も目を離せないインタの連続。ホンモノの「生」の感じがよく伝わってくる。単純に全米ライフル協会(チャールトン・ヘストン会長)が悪いなんて話に納まらないのがすてき!
途中、コロンバイン高校銃乱射事件の犯人である高校生が心酔していたとされ、その後アメリカで反社会的歌手として規制の対象とすることまで検討されたロック歌手「マリリン・マンソン」のインタビューが、超かっこいい。クールっていうのかな。
以下、http://www.gaga.ne.jp/bowling/top.htmlより引用開始
(「なぜアメリカは銃を捨てられないのか?その問いに対し、マンソンはメディアについて言及する。「……洪水、エイズ、殺人……メディアは恐怖と消費の一大キャンペーンをつくりだす。そしてこのキャンペーンは、人々を恐がらせることによって消費へと向かわせようとする発想に基づいている。その恐怖心が人を銃に向かわせるのだ。」 )
引用終了
ネタばれになるから後半の展開は書かないけれど、組織や国家の問題を鋭く追及しつつ、しかし、同時に『人間」の問題でもあることが浮き彫りになっていくところは、もうドキュメントにしておくのが惜しいぐらいドラマチック。予想された物語を裏切って現実が立ち上がる快感、っていうのかな。
どきどきします。ビデオ屋さんにぜひ行きましょう!
ブッシュだけについて行くっていう小泉首相に、あめりかは一筋縄ではいかないんだから、どこかでフリーハンドも持っていないとさって、素人ながら忠告したくなったりもする映画。小さく具体的な映像の積み重ねによって、世界を観る視点を立ち上げること。小津のシンポにあった言葉は、ここにも当てはまる。


2004.1.1(木)小津安二郎生誕100年記念国際シンポジウム「OZU2003」
12月10日11日と有楽町マリオンビルの朝日ホールで開催されたシンポジウムにいってきた、その報告を少し。
なにせシンポジウムなので一人で簡単に全てを紹介することは至難の業。ここではその全体的な印象を書いておきます。詳しくはいずれ学生さん(たとえば成城トランスカレッジ!)が報告してくれるでしょう。


☆全体的な印象
 学生時代に蓮實重彦の評論を初めて読み、衝撃を受けてから四半世紀。45才になってこんな形で初めて「生」蓮實を最前列で観ることになるとは感慨深い。
 小津安二郎についての文章を初めて読んだ時には、蓮實重彦独特の、いいたいことを打ち付けに言わず、言わないのに違和感だけが増殖するような、それでいて今まで無自覚に感じていたことを自覚させられているような、覚醒とも陶酔とも付かない居心地の悪さを感じた記憶がある。
 こんな形で小津安二郎について、その居心地の悪さについて気持ちよく語れ、聞くことができる(語ることの困難さがいささかも乗り越えられているわけではないけれど)なんて、もう長生きして良かった、というべきだろう。

蓮實重彦はシンポジウムを開催するにあたって、3つの態度を示していた。
1,古くも新しくもない現在として小津の映画を観る
2,一般に信じられ流通し、知られたものとしてではなく、知られざるものとして小津の映画を観る
3,日本に閉じこめない、世界に開かれたものとして小津の映画を観る
その3つの視点を持ってシンポジウムを開催する、とのことだった。
蓮實重彦というのは、話をしていても、文章化されたレトリックを感じさせる人だ。いちばん話が分かりやすくて説得力があったのも彼ではあった。蓮實重彦がいるからこそ、このシンポが成立した、といっても過言ではないのだろうな、と根拠なく感じた。蓮實→小津映画への愛ってやつかなあ。

 小津の映画は、一見どこにでもあるような家族の描写であるかに見え、晩年には、「古い」と決めつけられてしまったりもしたが、その映像の撮り方についての徹底性は、今も(というより今こそ)小津の映画の現在性を支えている。特に現役の映画監督たちが、映画を撮ろうとするときに、小津の映像に勇気づけられあるいは、その影響力の絶大さにゼツボウする、と語るその語りたちには、圧倒的な説得力があった。以下、メモを頼りにいくつかを書き留めておく(間違いがあるかもしれません)。
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たとえば、ペドロ・コスタ監督。
20代にパンクをやっていた時に小津を観て「これだ」と思った。今は村に何年も生活しながら、人の日常を撮ろうとしている。そういう時に小津の映画は勇気を与えてくれる。小津はアルチザンだ。自分を消すように仕事をする。映画は使命として、人々のまなざしを世界に集中させるためにある(世界を見せるためではなくてね)。小津はアルチザンとして、自分を消すように日々仕事をしたのではないか。小さな仕草、小さな儀式を描いた。視線を一点に集中させようとしていた。小さなことを表現することこそが偉大な監督なのだ。

黒沢清監督
強烈な徹底した作為。しかも何を意図したかは全く不明。演出とは何か、映画を撮るとは?そういう疑問を抱いていた自分は、小津作品を観て直感的に反応した。
真似はできるが、「小津が何者なのかわからない」
ある時期から小津のまねを止めた。

青山真治監督
名画座で初めて小津をみて「なんだこれは、変だ、変だけれどおもしろい」というので小津を観まくった。小津の登場人物の物まねもうまくなった。小津中毒となる。ひときわきわだった個性として小津がいた。どうして小津が好きかというと、「なんなんだこれは?」という驚きだった。「映画」はこれ(驚き:島貫注)だと思うから。
「人間合格」のとき、外国で「OZU」だと言われた。しかし、僕も日本人だが小津の映画は変に見える。小津が日本ぽいというのは単純すぎる。
また、海外の人は「小津は遅い」というがこれは理解できない。小津の映画は、動きはないがすべてのことがあっというまに進んでいく印象がある。ジョナサン・ローゼンバーグに「OZUは緩慢か」、という論文がある。

ホウ・シャオシェン監督
(小さなディテールの撮り方の特徴について言及して)、娘が友人をちょっとなじる。今日は娘が口をきいてくれない。なぜだろうと思う……そういった些末な出来事こそが人の心を動かしていく。映画の中では、ピュアな抑制がなければ持続する日常の感情は描けない。小津はその繰り返しの中に、それを描ききった。僕(ホウ・シャオシェン)のカットは長すぎる。だから言いたいことがいえないうちに終わってしまう。

吉田喜重監督
初めて観た小津映画は、9才のとき。『父ありき』だった。その映画の中で、父と子とが川の流し釣りを並んでやるシーンが印象的だったのを記憶している。
(シーン説明開始)
最初は父も子供も同じペースで上流に浮きを投げ、下流まで流すとまた上流に投げる、という行為を反復している。
そのうち、中学生を事故で死なせてしまい仕事を辞することになった父は息子に、おまえが中学に行くには寄宿舎での生活をしなければならないこと、これからは離ればなれに生活しなければならないこと、を話す。それを黙って聞く息子は次第に流し釣りのペースがずれ、しまいに息子の釣り糸は川下に流されたままぴーんとはってしまう。父は最後まで流し釣りのペースを変えない。
(シーン説明終了)
この父と子の同じ動作による反復と、その反復が次第に崩れて子供が父を模倣できなくなっていくところに小津の特長がある。反復動作に思わぬ差異が起こるとき、父と子供が一個の人間として他人になっていくことを予感させる。
それは有名な『東京物語』で、笠智衆が妻に、「なおるよ……。なおるさ」と4回つぶやくように語るせりふにも現れている。1度目は病気の妻を励ますように、2度目は自分にいいきかせるように、3度目はもう助からない、というゼツボウがこめられ、4度目は、妻の死を受け入れるしかない悲しみを表していく、そういう表現とも共通している。
日常の中で、小さな仕草や言葉が反復されていくうちに、いつかそれが微細なずれをかかえこんでいく、そういう映画として小津映画は撮られているのだ。

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こういった監督たちの言葉のシャワーを浴びていると、小津映画をどうしても見直してみずにはいられなくなってきた。DVDボックス第1集を注文したので、お正月のうちにはゆっくり観てみたい。
映画そのものへの感想はそれから。



☆シンポジウムのプログラムは以下の通り

12月11日(木)

1,座談会「生きている小津」 
  蓮實重彦、吉田喜重、山根貞男
2,海外の評論家が観た小津 司会:蓮實重彦 
 シャルル・テッソン、ジャン=ミッシェル・フロドン、ノエル・シムソロ、クリス・フジワラ、イム・ジョチュル
3,女優に聞く 岡田茉莉子、井上雪子 聞き手:蓮實重彦
4,世界の監督たちが観た小津 司会:蓮實重彦
アッバス・キアロスタミ、マノエル・デ・オリヴィエラ、ホウ・シャオシェン、ペドロ・コスタ、吉田喜重


12月12日(金)

1,日本の監督が観た小津 司会:山根貞男
  青山真治、黒沢清、是枝裕和、崔洋一、澤井信一郎

2,女優に聞く 聞き手:山根貞男
  香川京子、淡島千景

3,全体討議まとめ 海外及び国内の参加者たちを交えて 
  司会:蓮實重彦、吉田喜重、山根貞男
   マノエル・デ・オリヴィエラ、ホウ・シャオシェン、ペドロ・コスタ、
   青山真治、黒沢清、是枝裕和、崔洋一、澤井信一郎

(以上http://www.ozu100.jp/ozu2003.htmlより)



2004.1.1(木) 『マトリックス・レヴォリューションズ』キアヌ・リーブス主演 ウォシャウスキー兄弟脚本監督
 観てきました。なんか完結編は、はっきり3部作全部を¥みないとよく分からない内容だから、2よりは興行成績が上がらなくて当たり前って感じはする。というより、もし前2作を観ていたとしても決してわかりやすい話ではなく、ちょっと前ならこんな大々的に全世界を席巻するような映画にはなっていない種類のもののような気がした。
 最初の1編で示される救世主が登場した!というヒーロー誕生ものの話は2で「それもまたプログラムに仕組まれたこと」って設定によってひっくり返され、じゃあどうなんだってなった3では、機械と人間のドンパチが中心になるという、話としてはきちんとした流れにはなっていない構成。
こういうのはどうなんだろうなあ…。
高いお金をだしてすっきりしたいと思って見に行く人にとっては、ドンパチだけが分かりやすいっていうことになりかねないわけで、商売として不誠実だというべきなんじゃないだろうか。

 ただし、単純なヒーローものになっていないのは、個人的にはとりあえず納得。辛うじて結論にたどりついたって感じがはするけど。
ここからネタバレっぽくなってしまうけれど、あの少女(機械の世界→マトリックス世界)にもう少し世界を担う論理を託してストーリー展開すれば、とネオ(現実世界→マトリックス世界)も世界保持のための論理を背負ってるわけだから、その二つをすれ違いながら出会わせればもう少しおもしろくなったんじゃないか?
スミス(自己増殖するバグプログラム)とネオ(あらかじめ計画された攪乱因子としてのプログラム=救世主)の戦いっていうより、少女に、「私も生きてる」ってきちんと示させてはどうだったんだろう。それは『風の谷のナウシカ(漫画版)』になっちゃう?

全然分からないけれど、この人たちは日本アニメをいっぱい観てるんじゃないかってしか思えないところがあるね。

あるいは、面倒でも、救世主としての苦悩(プログラムされてるだけ?オレの選択に意味はあるの?)っていう悩みを、主人公の葛藤としてもっと観客に提示して、それをどうずらしていくかっていう「物語」にしても良かったんじゃないかしら。
物語としてそれが消費されるのは不本意?
あるいは、ネオが歴史を敢えてなぞる反復の身振りをしつつ、どこかでそれがずれていくとか。

お勧めはしないけれど、けっこういろいろつっこめる材料のある映画ではあると思う。

1,2を観てしまった方以外は、そんなにお勧めでもない1作。
いろいろ気になる人、文句がいいたい人は観るべきでしょう。
はっきりしないけど、もうすこしゆっくり考えてみなくちゃ。
個人的にはDVD3枚揃えて、ホームシアターで続けて観たいなあ。

2004.1.1(木) 『座頭市』北野武監督・主演
 昨年書き忘れていた作品やイベントを、いくつか書いておきます。まずはこれ。
 北野武の作品はいくつか観ていて、でもそんなに丁寧なフォローはしていないという程度だった。
 自分では観るけれど、人に薦めるのはどうかな、と思うところがあったりもしたけれど、この作品は「意外にも?」いいエンタテインメントに仕上がっていました。勝新太郎の『座頭市』という先行する本歌があって、そこを小さいところでいじっていく今回の作品は、北野武とビートたけしが合わさったような、腑に落ちる楽しいタッチになっています。
この人は、間口を狭く狭くしていく人なのかな。そうすると、時にエンタテインメントであることが見えなくなってしまう。今回は、役者ビートたけしが「盲目」の主人公だから、あの「テレ」た演技をしなくてもいいというか、「テレ」た演劇がおかしく見えないみたいなところがあって、今までビートたけしを映画で観なかった人たちもokって感じだと思います。
劇場でどれだけヒットしたのか分からないけれど、レンタルでもいいからぜひ、とお勧めしたい1作。

2003.12.28(日) 『ラストサムライ』トム・クルーズ主演、渡辺謙、小雪出演
 昨日、劇場にこれを観に行ったら、田舎の小さい劇場がかなりの入りで、最前列の鑑賞になった。
 期待しないで観に行ったところ、これがもう「やられた!」状態でした。もう号泣!!!普段なら絶対に考えられないほどの泣きぶりで、なんだか情緒的に自分がだいぶ抑圧されていた(要は疲れてた?)のかなあ、と映画を観るのにはふさわしくない自己省察にまでおよんでしまった一本。とにかく、よく観るお正月映画の中ではなかなか良く出来ていて、おもしろい作品だと思います。
 話は単純で、南北戦争やアメリカ先住民との戦いで武勲を立てて英雄になってはみたものの、心に傷を負ってアメリカの現在に適応できていない大尉をトム・クルーズ、江戸から明治になって国が近代化を急ぎ、武士の存在がじゃまになったってきたのに、サムライを続けようとして開明派(すなわち利権派)から疎まれている武将に渡辺謙という配置。近代化軍隊の教育係としてトム・クルーズが日本に引き抜かれ、「反乱軍」討伐をついでに命ぜられたものの、まだ兵隊として訓練不十分の農民からの徴用兵が武士たちにかなうはずもなく、その「反乱軍」の将渡辺謙に捕虜としてとらえられ、不思議な山中の村に連れて行かれていき、そこで本当のサムライ・スピリットと出会っていく……
とまあそんなお話。時代考証は、部分部分きちんとしているところもあり、そりゃ村っていうか室町時代の「惣」だろう、江戸末から明治期にそんな村落はありえない、なんてつっこみたくなるところもあり、忍者が出てくるところなんかご愛嬌だけれど、たぶんわざとこんな感じにしたのかもって思うぐらい、アメリカ映画としては日本がちゃんと使われている(でも日本が描かれていると思っちゃいけないね、これは。ファンタジーのネバーランドだから、この村は)。
 私たちも、このどこにも存在しない中世の日本の村のような「桃源郷」に、トム・クルーズと一緒に入っていくって感じになるところがこの映画のポイントかな。
 これを、小泉首相のコメントのようにアメリカが日本を好意的に描いてくれているなんてことを言うとするなら、ちょっと違うんじゃないかって感じがする。

たぶん、ここには、アメリカの多文化主義とか、文化的多元主義とか、いろいろ微妙に思想が意識されてて、映画的マーケットとして日本が使われててそれも意外にちゃんと使われてて、それでいながらアメリカ的反戦映画にもなってて、でも、戦争好きな人は金輪際観ないっていう風にもなってなくて、割とドラマ的には小さい切り口なんだけれど、それなりに見せてくれている……といったところかな。

実際には、江戸時代後半の武士はもうすでにある意味では、官僚化された近代的なマネージャーだったって見方もできるかもしれなくて、そういうところをふまえて敢えて室町あたりの村を守る武士っていうイメージを持ってきて、その中世の武士概念と、明治の近代化とを対比させているのはこの映画のむしろ手柄だと思う。
反乱武士を不平士族にしなかったという意味で。だから現実の日本じゃなくてネバーランド、なんだけどね。
アメリカのヒーローは最近、この中間管理職が多い、という指摘を友人がしていたことがあって、それ以来気を付けてみていると、確かにそういうことはある。尉官だよね、たいてい主人公は。
お上のいい気な自己保身に振り回されつつ、現場で部下や無辜の人が死んでいくのを見なければならない。
ティム・オブライエンの小説とかで、ベトナム戦争に主人公が徴用されたときに出会った中尉の話なんかがあったような気がする。『プライベート・ライアン』のトム・ハンクスがやった役も同様。
仕事づかれの中年のおじさんにとっては泣けるツボだったのかなあ。
「死」に場所を探しているスタンス、自ら「戦士」のルールを模索しつつ、それを内面化しようとしている努力、そのあたりの二人の共鳴が、泣けるポイントでもあるかな。よけいな理屈をこかずに、画面もその努力に焦点を当てているところも好感度が高い。圧倒的な正義としてその内面化を誇示しているのでもないところが「今」らしくもあるね。
『ロード・オブ・ザ・リング』のホビットも、絶対的正義の旗印のもとに悪と戦っているわけじゃない。『スパイダーマン』もそうだった。
その「小ささ」が、この映画の魅力のはず。
大きな話題、つまり「戦争」「日本」「武士道」としてこの映画の話を進める人がいたら、ちょっとどうだろう?と思う。
そのあたりのところ、他に見た人に意見をきいてみたいところです。

2003.12.28(日) 『アメリ』(原題「LE FABULEUX DESTIN D'AMELIE POULAIN」)監督ジャン・ピエール・ジュネ
これも封切り時に見た人にはもういまさら、なんでしょうが、今更ながらDVDで観て「幸せに」なりました!
フランスのモンマルトルのカフェのウェイトレスをする主人公が、空想と現実がないまぜになってさまざまな悪戯をすると、それが不思議な形で人々を(観る人も)幸せにしていく……っていう映画。なんというか、絵がきれいだった。
これはもうファンタジーなわけで、生活の中の小さな小さな普段みすごしているようなところにあるきっかけにもならないようなもので人は幸せになったり不幸になったりする、そんなことを登場人物も観客も一緒になって納得するためには、「絵」がかちっと作られていることはとても大切だと思う。そういう意味で、フィジカルがちゃんとしてるファンタジーって、すてきになるんだ、と改めて納得した映画でした。それはなんていうんだろう、記号的な話だからこそ、具体的な描写が大事、みたいなことになるのかな。
小さいことから空想をふくらませてみたりすることはほとんど誰にでもあることで、そういう経験が一度でもある人は、「これは私の映画」だわ(よ)っって思ってしまう、そんな映画です(と断言してもいいでしょう)。
未見の人は、池波正太郎をまだ読んだことがないのと同じぐらい幸せ(これから観る幸せがあるって言う意味の最高級の賛辞)です。世界が堅固に立ち上がるっていうのは、やっぱりいいことですよねえ。
未見の人は明日すぐにレンタル屋さんへいくべき映画でした。
追伸
映画にとって大切なのは映像として虚構化することであって、物語の「窓」ではない。そういう映像の水準でも楽しめる映画だってことがすてきです。

2003.12.28(日) 『ユリイカ』青山真治監督
 長い!しかし、これは今年後半観たビデオの中では出色でした。時間のある時(とくに年末年始、エアポケットのように空いた半日や深夜などありましたら是非是非!
 これは傑作、というに近い作品だと思います。冒頭、バスジャック事件が起こりますが、それは10分足らずで犯人が狙撃されて死亡し、幕を下ろします。そのとき、次々にバスの乗客が殺され、最後には犯人も殺されてしまうのだけれど、結局生き残ったバスの運転手と、兄妹(中学生と小学生?)の二人が、その事件の記憶を抱えて苦悩していく姿を残り3時間以上、ドキュメントタッチで描いていくのです。
 冒頭のあっけない、しかし究極の恐怖を突きつけられた「死」を、自分の中で、あるいは外との関係の中で、どうやって受け止めればよいのか?
 そう考えたとたん、彼らの日常のむしろ淡々とした描写は、描かれるものと描かれていないものが同時に私たちにとって重要な意味を持って迫ってくることになります。映像が淡々としているセピアだけに、ぎゃくにぐーっと凝集されて心の中に溜まっていく日常の中の虚無、生きにくさ、絶望の感覚が、切なくなります。
 一カ所泣いたところがあるのですが、全くドラマチックに泣くのではなく、解放されて涙が自然と漏れにじんでくるような泣き方をしました。やはり、これはぜひたくさんの人に観てもらいたい映画だと思います。観るまでに決心が必要ですけどね、上下二巻だから。

2003.12.28(日) 『ワンダフル・ライフ』是枝裕和監督
12月11日12日と小津安二郎国際シンポジウム2003に行ってきた。そのときにパネラーだった人の映画を、その後でビデオで3本観た。それについて書いておきたい。まず『ワンダフル・ライフ』是枝裕和、黒沢清、青山真治の3氏が共通して言っていたことは、気づかないうちに「小津安二郎」を反復してしまっている(場合によって、多くは小津になっていないただの模倣として)という「危険」を冗談半分に語っていた。ローポジションカメラとか、不自然なカットバックといった分かりやすい部分としてだけではなく、映画を撮ろうとするとき、徹底的に自分のスタイルについて、語ることなくこだわり続けた「小津」という監督の、「監督業」をする人間にとっての存在の大きさを改めて感じさせられる。
それはさておき、『ワンダフル・ライフ』である。この監督は、ドキュメントを撮っていた、と言っていたが、この映画もインタビューの形を基本として進行していく。前半、素人が素人のまま出ているようなとこころと、本物の役者に素人のような演技をさせているような感じのところと、役者が役を演じているところとが、いろいろなインタの中で出てきて、おもしろかった。淡々と進んでいく感じと、<死んだ人がみなその場所にきて、全員インタビューを受け、生きていたときに最も印象深かったシーンを一週間のうちに決めてから天国に行く>……という枠組みともマッチしていて、グッドだった。長さとは別に、すてきな「小品」といった印象を受けた。大きなドラマにしてしまうと、「死んだ」ってことの意味がなくなってしまうものね。その紗がかかったような「薄い」感じも、生と死の中間地帯の合宿所というか、事務所というかその雰囲気が上手に作られていて、それ自体はなんでもないちょっと古い昭和はじめごろの建物なんだけれど、ちょっと非現実的でちょっと現実的っていう中陰の雰囲気「らしく」て楽しめた。主人公が、とか誰のエピソードが、とかいう話は、どうか実際にビデオを観てください、といった方がいい、そんな感じだ。そういう意味でもドキュメントに近いかもしれない。『ディスタンス』という映画も一緒に観たけれど、こちらよりは『ワンダフル〜』の方が作り物らしくて良かったです、個人的には。『ディスタンス』はカルト宗教に入信して、その中で命を落とした信者の遺族とか、生き残った信者とかがもう一度その場所に来てみるというお話で、まとまりのないインタビューと自然な撮影が全編続いていく。
けれど、取り返しのつかないものを見つめ直す、というのなら、青山真治の『ユリイカ』が勝っている。
『ディスタンス』の中では浅野忠信の演じた信者がちょっと印象に残ったけれど、同じ浅野忠信の演技ならば、はむしろ黒沢清の『アカルイミライ』の方がおもしろかったような気がする。
というわけで、私にとっては『ディスタンス』より『ワンダフル・ライフ』のこぢんまりした「薄い明るさ」がお好みでした。


2003.12.8(月)HDD&DVDレコーダーのこと 
 
最近、HDD&DVDレコーダーがほしくて、カタログを眺めている。これだけのスペックのものが、10万円前後5万円ぐらいの幅で購入可能になったのは、すばらしいことだと思う。概ねパソコンで実現できていたことが多いのかもしれないけれど、パソコンでこれを始めたら、他のことができなくなってしまう。専用の家電として買っていい時期になってきたのだろう。
 でも、BSとスカパー!の両方を、地上波同様にチューナー内蔵でどんどん取ってくれるというわけにはまだいかないようだ。Sonyのコクーンは、自社の専用スカパーチューナーと合わせて地上波のように自由に撮れるようだけれど、DVDに焼くのはVAIOのみ。それ以外はスカパー!はスカパー!でコントロールが必要。難しいところだ。
 東芝、パナソニックともになかなか便利になってきていて、迷うところだ。でも、もう少し待てば、各社いっぱいいっぱいの機能を並べて、どれでも大丈夫というところまでたどり着くのだろう。HDDの容量も、高画質で30時間〜40時間ではちょっと短い。パソコンのHDDの単価なぞを考えても、もっと搭載可能ではないか。HDDカートリッジにしたっていいような気がするけれど、そういうのはコンピュータの発想なんだろうなあ。なんにしても、カタログを見ているうちが一番楽しいかも……。


2003.11.27(土)ミュージカル『天使は瞳を閉じて』佐藤アツヒロ、辺見えみり、純名りさ、天野ひろゆき、風花舞など 作・演出鴻上尚史 
 
なんだか、考えさせられる「ミュージカル」だった。芝居はもうちょっと、理屈抜きに(フィリップ・ジャンティとか、理屈だらけ、みたいな感じだけど、それでも理屈抜きに楽しめちゃったりするわけで)楽しめていいんじゃないかなと思う。こんなに一所懸命にしなくてもいいのに……。何か今までと別のものを作ろうみたいな意図があるのかなあ…。
 ミュージカルの文法みたいなものがこちらの中にあって、他方、鴻上の『天使は瞳を閉じて』のストレートプレイがイメージにあって、現実の芝居はその間にすとんと挟まったまま、カタカタ音を立てて空転しているような感じを受けた。もし、そうでない人がいたら、感想をぜひ聞きたいと思う。自分の先入観からだけ、「空転」を感じてしまっているのだとすれば、自分自身もそこから解放されたいと思うから。
 個別的には、いろいろ頑張ってるなって思って楽しく見られる瞬間はあったと思う。純名りさと天野の天使は頑張ってたなあと思うし。歌も悪くない。「瞳を閉じて」音楽をCDのように聞いていたくなる瞬間もあったし。
 でも、残念だけれど、この前にみた『シンデレラ』もそうだったように、何かが足りない。敢えてここで目指されているものが、見えない。たぶんもう、鴻上尚史の芝居はしばらく見に行けないと思う。
 分からなくなったら、別れるしかないもんね。ふーっ。


2003.11.3.フィリップ・ジャンティ・カンパニー「ジクムント・フォーリーズ」出演 エリック・ドゥ・サリ・ルドルフ・セール
 もーこれはいったいなんといえばいいのか分からない、不思議な不思議な指人形の世界だった。
 びっくり仰天。だいたい、指人形の一座だとは知らずに予習なしのぶっつけで、公演を見に行った私も私だ。
 主人公が内的世界にトリップしてさまざまなキャラと出会いながら、出口を探していくお話……みたいな感じがするけれど、別に上のことが中心の主題とかいうまとめかたになるわけではなくて、だいたいフランス語で進行する舞台は、半分以上意味は不明。概略はステージ上のスクリーンに表示されるし、言葉が分かる分からないとは全く別の次元で、めちゃめちゃテンポが良く、びんびんこちらに響いてくる不思議なリアリティがあった。
20年前から公演してきた最終公演日(今後再演の予定なし)で、公演終了後ちょっとしたセレモニーがあった。
ステージセットや小道具などを全部見せてもらったのも興味深かった。2人でめまぐるしく変化する舞台を支えるのは大変なのに、かつてはこれを一人でやっていたとのこと。ありえない!
作者のフィリップ・ジャンティは文楽も学んだとか。20年前作者夫妻が初演。その後このメンバーで世界公演をやって、この日が最終ということだった。
ドタバタの極致なのに、思索性に富み、哲学的なのに下世話な展開。嫌味たっぷりなのに叙情的でもある。
指人形なのに!(って、もちろん間違った感想なんだけれど、「なのに!」っていってしまいたくなるのです)
もう見られないこの舞台だけれど、来年また新作がやってくるとか。ぜひ、ぜひ、ぜひ。

2003.8.23(土)『阿修羅城の瞳』市川染五郎・天海祐希・橋本淳・近藤芳正・高田聖子・井原剛志ら出演
演出 いのうえひでのり 作 中島かずき
 
もう、この舞台をどれだけ待ったことか。前作を観ていないので比較はできないが、これはもう本年度最高の舞台の一つといっても過言ではない。去年はこの時期『アテルイ』に感激していたが、それに劣らない感激だった。
 チャンバラから言えば去年のアテルイの方がだぶる主役的で感激度は高い。
 しかし、美男美女が繰り広げる愛憎劇が、みごとなSF的チャンバラと一体化している今回の作品は、エンタテインメントとしては台本として一枚上といっていいだろう。なにせ出門(市川染五郎)と椿(天海祐希)ですよ。その二人が惹かれあい、反発しあいながら、物語の糸をつむいでいく。他方、チャンバラ的にはライバル邪空(井原剛志)がかなり頑張って、流麗な殺陣の染五郎に対して、力感溢れるライバルを演じきっている。鬼の力を得たあとの殺陣で「腕をあげたな」と出門にいわせる邪空(井原)の剣さばきの速度は、これはかなりのものではなかったでしょうか。
それに新感線の橋本淳、高田聖子、それに近藤芳正が絡むのだから、面白くないはずがないでしょう。
これから公演を観る機会がある人は、絶対的に迷わず観るべきです。こういう芝居と同時代をを生きられるのは、至福の時、というべきでしょう。『オイル』『茄子アンダルシアの夏』につづいてそれを感じました。8月までのベスト3はその3作かな。というわけで、夏休み中の報告でした。



2003.8.23(土)『デブラ・ウィンガーを探して』ロザンナ・アークェット監督作品。
 
みずからも映画女優であるロザンナ・アークェットが監督となり、百数十時間にもわたって友人知人である有名女優たちにカメラを向けてインタビューやディナーを続け、そこから2時間弱、34人の女優のコメントを抜き出してまとめた作品。1958年生まれの45才(島貫と同年)になる監督が、40代を中心とした女優たちの本音を引き出す。
シャロン・ストーン1958、メグ・ライアン1961、グウィネス・ランプリング1945、ウーピー・ゴールドバーグ1955、ダイアン・レイン1965、デヴラ・ウィンガー1958、ジェーン・フォンダ1937などなど、40代を中心としながら、自己表現という特殊な場にありながら、一人の人間として、女性として、母親として、仕事人としての現実・悩み・決意・情熱・困難・覚悟などなどをストレートに語っていくドキュメンタリー作品。
有名女優の生の声が聞けるのがとっても魅力。社会的にも、自分の内面に対しても頑張っている人間たちの姿は、やっぱりかっこいいというべきだろう。男の話題がほとんどないのは、ゴシップになることを嫌った編集方針だろうか。もちろんそれは正解だと思う。非対称な対概念として主人公の「彼女」か「母親」か「娘」以外には、アメリカの映画には役がないんじゃないの?!って中で誰かが叫んでいたけれど、その通りだと思う。
まあ、女優っていうのは他者の視線に観られることを自ら選んだ職業なので、そのあたり難しいところだけれど、その想定された他者がアメリカの10代の少年(男の子)でしかない、非対称な現実を、きちんともっと多様にしていく必要は大きいと改めて思う。
こんなカッコいい女たちを、きちんと描く映画がもっともっとあるべきだろう。男についてはたくさん性格俳優がいるのに、と不満がる彼女たちの声に賛成の一票。
それよりなにより、真剣勝負で仕事と子供(あるいは家庭。しかし男はまあなんとかなるにしても、子供は待ったなしだから)の両立の難しさに悩む彼女たちは、本当に素敵だ。その事件の現場は、どこの家庭にもある。
ただ違うのは、彼女たちが女優という、他者の視線に自らの精神と肉体をさらすことによる仮構された自己表現の現場にいる、ということだ。有名だということは、常に他者の視線にさらされる、ということがポイントであって、お金持ちかどうかは、この映画ではそう重要な主題にはなっていない(まあもちろん「食っていかなくちゃ」というコメントはあるけれど)。
DVDが出たらぜひ買って、何度も観たいと思う作品。見終わって、とても元気が出てきた。こういう映画が観られる環境は、幸福、というべきなんだろうなあ。
ぜひぜひ、お薦めの1本でした。

2003.8.23(土)『ゲロッパ!』西田敏行・常盤貴子・岸部一徳 出演 井筒和幸監督作品 
 『ゲットアップ』というBJ(ミュージシャン)好きのやくざの親分(西田敏行)が捕まることになり組は解散。だが、組の連中は、なんとかBJを拉致して親分に見せて感激させ、組の解散を思いとどまらせようとする。しかし実際に拉致したのはものまね芸人で、密輸をバイトにしているろくでもない奴。
他方、幼くしてやくざの父親と別れ、たった一人で人生を切り開いてきたプロモーター(常盤貴子)は、娘一人と二人暮らしで、そのBJのものまね芸人をアメリカからイベントを計画していた。
他方、その密輸品をめぐって内閣情報室が動き出し……
というあとはおなじみのどたばたが展開していく趣向。
これもあり、だと思う。二時間、そう飽きさせないで見せてくれるのはさすが、といってもいい。
しかし、すべてのものが結末に向かって収斂していくダイナミズムは、ここには存在しない。
どたばたと人情劇がからむこういう作品は、スピード感や緊張感がないと、作品としては辛い。
からみかけては終わっていく不発弾(そうおもしろくないわけではない断片)も、あまりに続くと正直困る。
たとえば、人情話を単なる落ちにするつもりがないのであれば、常盤貴子が、今会わないと父親と和解できない、と組の奴らに必死に説得されて父親を捜すシーンは、断固父親を探そうとして娘が必死に慌てる様子が画像として描かれなければならないいのに、あのロケーションやあの動きでは一本道で父親(西田敏行)の姿が簡単に見えてしまう。それでは娘の葛藤は本当に映像としてちゃちいものになってしまうだろう。
この監督がみせるこういう瞬間のぞんざいさを、どう評価してよいのか、理解に苦しむのだが。
セリフが先行してしまうところが他にもあって、どうも残念でならない。
もっとよくできるのじゃないかって、つい思ってしまうのだ。岸部一徳の使い方も、せっかく出番が多いのだから、もう少しつくってほしかった。藤山直美とともに、無駄遣いは勘弁してほしいと。
娘だけがひとりで正気を保っているシナリオも弱い。娘一人の批評性だけでは、作品全体は保たないだろう。
浪花節をもっと魅せよう、という気はないのだろうか。この程度でいい、というのであれば、石原哲也の高校演劇でも観て勉強してみては、といいたくなってしまうのだがいかがなものだろう。
ちなみに、同じような系列の作品『のど自慢』は、フィクションであることが前提となっているNHKののど自慢大会だからこそ、そのフィクションに支えられた真実がぐぐっと来た傑作たりえていたと思う。
親子の情愛や「ものまね」なりの心意気、なんて、「セリフ」だけでは、十分ではないと思う。画像でそれをきちんと見せてくれないと。そういう意味で、西田敏行はミスキャストなのではないか?この人はまだ、映画的画像で何かを語り得る形を示していないと思う。もっともっとおいつめていくことが必要なのではないか。

それから、上演前にサウンドトラックを歌っているミュージシャンのプロモーションビデオを見せられるのは幻滅。歌は悪くないが、被写体としてこのミュージシャンは成立していない。藤山直美や岸部一徳の踊りとは全然違う。海とか、沖縄の路地を撮る目は悪くないのに、このミュージシャンをどうして映像で見せなければならないのか?営業以外の意味を感じられなかった。
そういう意味で、私はお薦めできない一作になってしまった。
みなくても損はないでしょう。それでも好きな人(井筒と西田と常盤)はどうぞ。



2003.8.23(土)『名もなきアフリカの地でカロリーヌ・リンク(監督・脚本)
ユリアーネ・ケーラー(イエッテル・レドリッヒ)  メラーブ・ミニッゼ(ヴァルター・レドリッヒ)  
レア・クルカ(幼い頃のレギーナ)
 カロリーネ・エケルツ(10代のレギーナ)  
シデーデ・オンユーロ(オウア)
マティアス・ハービッヒ(ジュスキント)
 

 1938年、ドイツでは、ユダヤ人への迫害が厳しさを増していた頃、弁護士をしていた父は一足先にケニアに出ていた。再三の手紙によってケニヤ行きを決心する母とともに、娘はドイツからケニアに渡航する。全く違った環境になじめない母とは異なり、娘はケニアの自然と人々になじんでいく。農場主に井戸掘りを命じられるがうまくいかない父。ケニアの生活になじめず出て行こうとする母。そんなとき、英領であるケニアでは、ドイツ国籍を持つ彼らは、迫害されたユダヤ人であるにも関わらず敵性国家の移民として収容所に入れられてしまう。妻を愛するがゆえに苦しみ、みずからのアイデンティティに悩む父、反発しながらも、現状を夫とは違った形で受け入れていく母。離れていく二人の気持ちを感じながら、ケニアの大地で自由に育つ主人公。
その主人公は調理人のオウアに「小さな奥さん」と呼ばれ、ケニアの全てを教わりながら、心の交流を深めていく……。
そんな話が淡々と描かれていきます。
この両親というか夫婦が危機に直面したとき、互いに大切にするものの違いが、生活のはしばしや頑張ろうとすることの中身の違いにあらわれ、その描写の中で、夫の愛に応えられない妻の屈折していく心情が非常によく微妙なタッチで表現されていくのですね。監督は女性かなあ。そんなことを思わせるところがあります。
男が単純な感じに描かれてるからちょっとそう感じたところもありますね。
主人公の娘とケニアの調理人オウアの心の交流は、もうほんとに異文化理解のお手本みたいなことになっていて、素敵!
このオンユーロという役者の作品は、もしかするともう二度と見られないのかもしれないけれど、無駄がなく、ものごとの本質を寡黙な演技で提示する力量は、おどろくべきものがある。彼の演技を観るためだけでも、映画館に足を運ぶ価値があるのではないだろうか。
映画そのものはそんなに波瀾万丈な描き方をしておらず、戦争が終わって、ドイツに帰るかケニアに残るかの選択が、登場人物それぞれに突きつけられるところがクライマックス、になっている。
このそれぞれの小さな選択も、観ていて気持ちが良かった。
全体に、繊細な感覚で撮られた、静かな映画だ。夫婦のすれ違いの中に過酷な現実と向き合う人間の姿もきちんと描かれているが、それだけでなく、少女とオウアの交流がそれに対置されていることで、作品の構造が豊かになった。
観る機会があったら、お薦めしたい映画。活劇とは正反対の、しかしスケールの大きなケニアの大地(南アフリカと違って大規模なロケが難しい状況、とWebには書いてありました)が観られる数少ない映画、でもありましょう。
良かったです。


2003.7.31(木)『デッドエンドの思い出』よしもとばなな 文藝春秋社刊
よしもとばななの書き下ろし短編集。
 幽霊の家、「おかあさーん!」、あったかくなんかない、ともちゃんの幸せ、デッドエンドの思い出
の5編が収められている。
この人の短編集を読むのは『とかげ』以来だが、この短編集は、女の子(女性というよりはやっぱり女の子、なんだろうな)の、(恋)愛のような感情を中心にした作品が並んでいる。幽霊の家は、下町の洋食屋の娘とロールケーキ屋(お菓子屋)さんの息子の恋愛と、かわいい老夫婦の幽霊の話。おかあさーんは、職場で毒入りカレーを食べて中毒になって倒れる事件に巻き込まれた女の子をめぐる、恋人と仕事場の人と、おじいさんおばあさん、そして母親の話。
デッドエンドの思い出は、離れたところに住んでいた婚約者に振られる女の子のお話。この3編が50ページから60ページのボリュームがある。のこりの二編は掌編。
書き始めてみると、よしもとばばなの作品について語るのは、思いの外難しい気がしてきた。
説明するほどのことは、何もないのだ。読めば、それでいい。

「デッドエンドの思い出」など、作者自身があとがきで、この作品がいままでで一番好きな小説だ、これをかけたから、小説家になって良かった、とまで書いている思い入れの深い?作品のようだ。
読んでみると、ただのぼんやりした気の良い女の子が、それゆえに振られたことにも気付かず、気付かないでいたいと思い、しかしやはり振られていて、しかしその振った男も極悪というわけでは決してなくて、また慰めてくれる男の子もいい男の子で、しかしそれも新しい恋愛に移行するわけでもなくて、まあなんというか、微温すぎてどうしたらいいのかわからないお話の進行である。
では、この作品は読むに耐えないのか、というと、決してそうではない。たぶん、こんな間抜けな部分が、そしてその自分の間抜けさをどこかで大切にしてしまっている部分が、人の心にはあるかもしれないよなっていう、許される範囲のナルシシズム(だれがその範囲を決めているのか、っていうのは、じつはよしもとばななを読むときに重要なポイントになりそうな気がするが)が、かなり正確な(こういう書き方でなければ表現できない、というほどの意味)筆致で、ぼんやりと描かれているのだ。
自分の幻想にだけ生きているのだが、それを「心配して」もらえる程度に良い人の範囲をまもれる「ぼけ」感覚の女の子主人公は、男を殺してまで何かを手にしようとする『シカゴ』とは対極的であり、また『エデンより彼方へ』とも異なった、女の子自己愛テリトリー願望小説として、確立された価値を提示しているというべきだろう。そうなると、『茄子 アンダルシアの夏』が明らかに男の子自己愛(ってことは脱テリトリー願望って感じ?)願望映画ってことになるのかな。
それでも、並べてみると、同時代性は感じられる。
それをきちんと論じるためには、まずファンタジーについて、少し考えてみなければならないのだろう。
と、それは宿題かな。
よしもとばななのこの短編集についていえば、女の子のまったりした感じが伝わってきて、ほっとすると同時に、本を閉じたあとは少しいらいらした。このほっとするところを味わえばそれでいいのだろうと思う。
だが、『シカゴ』を観たあとの微妙な感じ、『エデンより彼方へ』を観たあとの物足りなさ、『デッドエンドの思い出』のあとの、おい、それでいいんかいとつっこみたくなる感じ、は、やっぱり女の人のファンタジーが多様になってきたってことなんだろうなと思う。
それぞれに夢をきちんと観ようとする彼女たちはいとおしい。「女性的」なるものという、どこにも規範はないのだけれど、国境を越えて成立してしまいもするある種の内面化された枠組みを、十分に意識しながら闘いを組織していく彼女たち(その技が、仕事に生きる女性だったり、つまらん男を殺す!だったり、理想的妻演技とそれからの脱皮成長だったり、ぼけぼけ女の子だったり、と技は多様だけれど)は、やっぱり元気を感じる。ただ、それゆえのもどかしさも感じないわけではないけれど。
もっと若ければ、性別なんて関係ない!面白い映画だけが映画だ、面白い小説だけが小説だ、といって終われたのかな。でももう、そういう言説で終わりにすることはできなくなってしまった。
これも宿題かな…。

2003.7.27(日)『現代政治学入門』バーナード・クリック(講談社学術文庫刊)
あまり期待しないで、ただひたすら薄い文庫本だ、ということで手に取った一冊。ところがどっこい、これはもうすぐ書店に注文ものの、傑作(2つも続けてそういう言葉を使うのもどうかと思うが、傑作です)な政治学入門書です。
「良心的な入門書というものは、ある種のひとびとにたいしては勧誘であるが、ほかのひとびとにたいしては十分にフェアーな退去勧告でもあるのだ」
なんて、「フェアー」に序文に書いてあるのがまず素敵だし、「(現在のイギリスの大学には)、むこうが喜んで入学を許可するというオファーを断ってまで、諸君の学科志望を変更したほうがよいと(自信をもって)忠告したくなるほど劣悪な学部があるとは、とうてい思えない」あたりのレトリックも気持ちがいい(ある種の人にとっては気持ちが悪いんでしょうねえ<笑)>)。
政治とは何か、政治学とは何かっていうのを、こんなに「簡明」に表現できるのは、もうオシャレというか、かっこいいというか、素人の私にとってはとても魅力的な本でした。っていうか、政治はやっぱり言説だよなって納得できる作品なわけ。政治を語っているのに、ちっとも「説得的」でない入門書なんて、どんなに正しくても、「ゴミ」同然でしょう。
そういう意味で「傑作」なのです。



2003.7.27(日)『茄子 アンダルシアの夏高坂希太郎監督作品 マッドハウス制作。
これは、傑作!
明日にでも映画館に行って観てきましょう。47分1000円はお買い得です。
スタジオジブリ『千と千尋の神隠し』の作画監督を務めた監督の高坂希太郎は、『オネアミスの翼』(良かったねえ、これも)あたりから作画に参加していた「圧倒的な」キャリアの持ち主。
マッドハウスでは『YAWARA!』『MASTER KEATON』など浦沢直樹作品の作画監督も務めている。
絵柄は沢浦作品の感じに近いかな(『MASTER〜』ではキャラクタデザインも担当しているとのこと)。
『茄子』(黒田硫黄)というマンガ短編集の中の1つ、アンダルシア地方で展開される自転車レースのお話が原作なんだけど、この話がまたいいし。
自転車レースの描写と、兄の結婚式(新婦は主人公のかつての恋人。)描写を交互に挟みながら、主人公のどこまでも「遠くにいきたい」という思いがぐっと迫ってくる。
自転車を競い合い、恋人を競い合った兄弟のエピソード、アンダルシア地方での茄子の浅塩漬けの話、自転車レースの監督とスポンサー、レーサー同士の会話や駆け引き、レース中継のリアリティなどが47分の中に凝縮されている。ここ一週間に出会った中では、『現代政治学入門』バーナード・クリック(講談社学術文庫刊)と並んで、文句なしにお薦めできる作品です。ぜひ、ぜひ、ぜひ!


2003.7.27(日)『エデンより彼方へ』ジュリアン・ムーア主演、
「究極のメロドラマ」という映画評があったようだけれど、それにふさわしいアメリカ50年代がそこに現前したかのような、「凝った仕上がり」の映画でした。主演のジュリアン・ムーアは、理想的な成功した中流家庭の主婦を演じている。現代的、といえばその主婦を演じるという「演じ方」に、現代の女性たちが賞賛を送るという構図がとても現代的、なのだろう。パロディ、というのではない。その見事なまでの「ファッションの再現性」「秋の紅葉の美しさ」は、「メロドラマ」を「今」見ることの意味を考えさせられます。
GINZA DIANA 、ル・グラン・ソシエ・ビューティーアベニュー有楽町西武店、ホテル西洋銀座、ル・グラン・ソシエ恵比寿アトレ店などなどで女性の方向けの『エデンを〜』にちなんだキャンペーンを展開、なんて、なんだか不思議な(そうでもないのかなあ)展開。
夫役のデニス・クウェイド(社会的に成功した会社の重役で、美人の妻と二人の子供をもちつつも、ホモセクシュアルであることに悩む)と、ジュリアン・ムーア主演の妻と淡い心の交流を持つ庭師の息子役のデニス・ヘイスパートもいい味を出していた。
でもさ、どうなんだろう。女性用の映画って感じはするよなあ。それは『シカゴ』を観たあとだから余計なのかなあ。
50年代の理想的な主婦を演じる主人公が、夫のホモ、偏見の中の黒人との人間的交流の困難の中で、翻弄されながらも強く生きていく姿は、「感動的」ではあったと思います。今時の話じゃないってエクスキューズもあるしね。
ただ、それは上にも述べたように、昔の話って事には必ずしもならない。演技的である演技、という、そう、たとえば最近のことでいうと、『ふたたびの恋』の永作博美の役が本当なら示し得たかもしれない可能性を、ここではジュリアン・ムーアが堅固な映像的サポートの中で演じきっている輝きを、指摘しておく必要はあるだろう。
好みの映画か、といわれればかならずしもそうではないけれど、観ておくべきか?と聞かれたら、Yes。
黒人の知的な雰囲気を漂わせた(カッコいい!)庭師役のデニス・ヘイスパートって言う人、ファンになっちゃいそうでした。ホモに悩む夫役のデニス・クウェイドもうまいし、そうそう、主人公の友人役のパトリシア・クラークソンも雰囲気出てたし。

2003.7.27(日)『デッド・コースター』
B級ホラーというか、スプラッターというか次々にぽんぽん人が死んでいく映画。
ある飛行機事故で予知能力を発揮した女性によって何人かが死を免れる。しかし、生き残った人たちに対して死神は、予定された死のリスト通り「死」を実現すべく、執拗に不可解な死をもたらそうとしていく。
この映画では死神は人格化されているわけではなく、あまりにあり得ない死が生還者に次々襲いかかってくるため、どう考えてもこれは死に神がリストにこだわっているとしか思われない、という生存者の読み取りによって作品の枠組みが成立していくのである。その推測がなければ、あまりにおばかな死体製造シーンの連続になってしまうところが、むしろこの手の映画のミソ、なのかもしれない。えぐい死亡シーンが次々に繰り広げられるのだけれど、一瞬もとどまることなく次の<死>への映画が移動していくので、ぐちゃぐちゃな映像をまったりを観賞させられることは全くない、文字通り「コースター」的な映画だ。
間違って踏み込んでしまった映画かな、とも思ったが、意外にさっぱりとした観後感ではあった。
そういうのが好きな人にしか勧められないかな、とは思うけれど(苦笑)、人間の死がドミノ倒しのように映像化されるのは、ある種のカタルシスがあるのかもしれないですね。『シカゴ』だって次々に男を殺す女の話だし(そうまとめるのは違うか……)。


2003.7.25(金)『シカゴ』
新宿で上映している映画館を見つけ、たまたま入ったが、これが実によかった。いや、男としてはなかなか微妙というべきかもしれない。
犯罪・刑務所・裁判の物語軸→ミュージカル仕立てで主観的心情の表現→その中で夢想される女たちの夢としてのショーの主役という3つの層を往復しながら進行して行くスタイルが、きわめて映画的に自然な行き来になっている。男たちを殺した女たちが皆美しく、元気がいいのもなかなかぞっとして素敵だ。とにかうk女たちが実に元気のいい映画である。主人公の女たちはみな男を殺して刑務所に入れられた者たち。その中で残っているのは、お人よしか、三百代言、そしてショーの司会だけである。一人の男などは、フーセンガムを噛むな、膨らますな、パチンとするなっていう女の言葉を聴かなかったために銃で撃たれて死んでしまうのだ。
こりゃ浮かばれない、と男の子なら思うだろう。男の人なら、そういうんもんさ、と微妙な笑みを浮かべる(しかない)だろう。女性なら、わが意を得たり、と元気がでるだろう。
そういうタイプの作品である。
ぜひ劇場の大きい画面で見ることをお勧めしたい1作。
繰り返しますが、男にとっては微妙、です(苦笑)。

2003.7.25(金)『ネバーランド』恩田陸
『シカゴ』が女たちが大きくうなずく作品だったとすれば、こちらは少年たち(とかつて少年だった人たち)を深くうなずかせる高校生の男の子たちの微妙な心の動きが描かれている作品。全てのものを拒否せずにはいられない感情、それでいて未来に向かって心細いながら、歩いていかなければならないしんどさ、自分でも自分をもてあましてしまう自意識……。もちろん、男の子というだけでない、高校生の学生寮の中で過ごす密室の中の濃密な人間関係の微妙な光と影も描かれていて、それは男女を問わず面白く読めるものになっていると思う。
日本の高校生の物語の始まり(状況設定)を書かせたら、恩田陸ほど魅力的な書き出しの50ページを書ける人はいないのじゃないか?
いつものとおり、物語の結末があるようなないような恩田陸的終結は、好みの分かれるところだろう。
 でも、今はもう、たったいっぺんの小説の終わりなど、とうてい誰にとっても正当化され得るといった種類のものでないことぐらい、作者も読者も十分に承知しているといっていいのではないか。だからこそ、恩田陸は読まれ続けるのだろう。「あらゆる終わりは、正当化されることのない終わりでなければならない」っていうのは誰の言葉だったか。
(それにしても『月の裏側』の終わり方はどうなんだろう?最後のページ数数えて、あらあら、と思ったらそのまま丸投げだったもんなあ。結末はきちんとつけるのが創作者の責任、って芝居では先生に教わったんだけどねえ……)


2003.7.21(日)踊る大捜査線THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ! 織田裕二、いかりや長介、深津絵里、ユースケ・サンタマリア、柳葉敏郎、真矢みき、筧利彦、小野武彦ら出演
 面白い映画でした!理屈は要らない、そのまま観ればokです(^^)。
 TVシリーズを見た人は、絶対見ておくべき映画でしょう。
 新味がある、というより、なじみ深いお話。
 登場人物たちが、4年後(5年後?ぐらいかな)に、どう生きているかってことを考えたりしているファンのためには、もう最高の映画、というべきではないでしょうか。
 個人的には、真矢みき扮する沖田捜査官(だったかな?殺人事件の捜査本部長に抜擢された女性キャリア)の役を、もう少し内面描写してほしかったところです。敵役が深くてこそ、青島や恩田の現場的バカ性が生きると思うから。
 でも、シナリオの表には全く現れていないけれど、さすが真矢みき(そう演出させた手柄もあるかな)、絶対この女性はただ偉くなりたくて利己的にだけ頑張ろうとしているだけではないっていうバックグラウンドを感じさせる演技になっていたように思う。見た人は、そこをもうちょっと描いてもらってもいいのに、と思った人もいるのではないかなあ。
まあ、それはメインの話ではないんですけどね。でもこのドラマは元々、犯罪者の内面を描くというよりは、風俗的な新しい街と、それにふさわしい犯罪を描きつつ、湾岸署群像が浮き上がってくるのがミソの作品だから。
 2時間半で全部を満たすのは難しいんだけどね。
 その割にはほんと、頑張っていたんじゃないかなあ。
 公務員でありかつ、現場作業員でもある自分にとっては、身につまされて泣けるシーンがいくつかありました。
 だいたいこのシリーズはそういうところも新しかったし。
 嫌いでなかったら、ぜひ劇場で観てもよい一作。
 ただ、スペクタクル巨編、ってわけじゃないので、DVDまで待ってもそう困ったことにはならないかな(苦笑)。
 でも、ぜひ劇場にいって、日本映画のエンタテインメントを楽しみましょう!
 同じフロアで上映されている『ターミネーター3』よりは大きい方の劇場で上映されてましたし。



2003.7.15(火)『ふたたびの恋』パルコプロデュース 出演:役所広司、永作博美、國村隼 作:野沢尚 演出:宮田慶子
 パルコの芝居は、『おかしな二人』以来。二つに共通しているのは大人の楽しいお芝居、という枠組みの中でどう腕をふるうか、というのが演出家の勝負所といった感触だった。鈴木裕美、宮田慶子という面白い演出をしてくれる人二人を同じ劇場で、良くできた大人向け(大人向けってでもなんだろうね<苦笑>バカにしているつもりはないけれど、どっか軽んじた、でもエンタテインメントとしての水準は高いみたいな……でもそういうつもりでもないのかなあ)の芝居を観られるのは、観客としては贅沢、というべきなのだろうか。
 どちらの芝居も、基本的にはあまり多くを期待しないスタンスで座席に座って、結果としては満足して帰ってきた、というところで共通している。
 今回は『ふたたびの恋』の方のお話。
かつての売れっ子で、どちらかというと今は文芸路線系で視聴率はあまり上がらないと評判の定まったベテラン脚本家(役所広司)が、休暇を取りに沖縄のリゾートホテルにやってくる。ホテルのバーには、かつて高級シティホテルで主任バーテンダーをしていたが、女でしくじって沖縄に流れ着いた腕のいいバーテンダー(國村隼)が、店を閉めるというオーナーと厳しい電話のやりとりをしている。
ふきだまった実力派のバーテンダーと脚本家、そこに、かつての脚本家の弟子で元恋人、今は人気上昇中のシナリオライター(永作博美)がやはり休暇のためにやってくる……という設定で物語の幕が開く。
二人の脚本家が「終わった恋愛」の苦さと向き合う現実と、新しく注文を受けた「純愛不倫(NHKドラマで、セックスを伴わない設定の不倫)」の筋を二人で考えるという仕事上の虚構構築とが、夜な夜なホテルのバーで、バーテンダー(國村)の作るいかにも美味しそうなカクテルを肴に織りなされていくという仕組みになっている。
 結論からいうと、楽しかったし最後は泣けた。前半終了間際は野沢尚かっこいい、とも一瞬思った。役所広司も國村隼も手練れである。
 唯一不満なのは、永作博美がどう考えても売れっ子シナリオライターではなく、売れっ子女優にしか見えないという、キャストミスに近いポイントだったろうか。
 永作博美は、表情によって微妙なグラデーションを作るのがあまりうまくない。『人間風車』の時も、頑張っているキャリアウーマンから弟思いの姉に変化する演出が、唐突だった。そのときは演出の問題かと思ったが、役者の資質もしくは資質の欠如が、同じような演出をもたらすものだと今回知った。宮田慶子は永作の魅力と弱さを知った上で、比較的単純な二面性を永作に演じさせるにとどめ、あとは男二人で陰影をつくっていったように、私には思われた。
まあ、3人旅は一人乞食ともいうので、ヒロインはあまり手練れに見せない方がいいという文法も働いているのかもしれないが。こういうとき戸田恵子だったら、大竹しのぶだったら、高田さん(新感線)だったらって考えてしまうのはいけない癖か。
 ただ、本当は純愛ものなんだよねっていうこの作品全体が支える大人の恋愛(不倫)→実は純愛へというテーマからいうと、手練れのシナリオライターの女性ではダメなわけで、永作博美のキャストは、そういう意味では正解だったのかもしれなくて。
 でも、でもそれにしてはやはり永作の演技が唐突。G2プロデュースを見ていなければ、演出のせいか、と思ったところだ。まだ好きな思いはありながら……っていうものを飲み込みつつ、ちょっとつっぱりながら、優しくしたい、されたい、という葛藤を演じるには、永作はもう少しじかんが必要なのだろう。
 その分、男たちを3時間見続けると、ちょっとだけもたれるような感じもあった。男二人がもう少し抑えられるためにも、女性の役がもう少しゆらいでいるその表情がぱちっと心の鍵穴にはまる、そういうところを求めたいところだった。
 ほんの数カ所、ほんの少しだけ、もうちょっと何かがあれば、と欲張りたくなる芝居だった。
 ほぼ、かなりお薦めです。
 個人的には、現実の恋愛や人生と、創作=虚構を紡ぎ出す人間の精神のありよう、せめぎあいが描かれているメタフィクション、それもそれをモノローグではなくダイアローグでさらりと枠組みにし、その上しゃれた酒のうんちくを聞かせつつ、大人の恋愛にしたてあげた本と演出には拍手。違う役者で再演をいまから望んでおきたい。
前半の現実とフィクションのせめぎあいを、たとえば石川淳の初期作品のようにモノローグで表現するのではなく、二人のシナリオライターの劇中のフィクション作成のための語り合い、にしたのは、アイディアとしてものすごく素敵だと思った。たぶんメタフィクションって、好みも別れるから、素敵だと思わない人も多いはず。
 もちろん、それでいい。べたばかりが芝居じゃないと私は思っているけれど。


2003.6.18(水)『シグマリオン3』NTTDOCOMO 49,800円
 これは本ではなく、PDAの話。先週買ったばかりのキーボード付き携帯用の情報端末である。
 これは使える。横長二つ折りなのはノートパソコンと同様だが、大きさはノートパソコンの1/4ぐらい。重さも500グラムぐらいだから、1/4〜1/5ぐらいだろうか。バッテリーは6時間ぐらいは持つ(大容量だと12時間)ので、どこへでも持って行ける。PHSのカード@FreeDも購入したので、どこでもいつでもどんな時間でもインターネットやメール送受信が自由。FEPにはATOKが用意され、表計算もEXCEL互換。エディタもメーラーもWIndows上のものとほぼ同じ機能を持ったモノが使える。液晶もカラーで明るく、Webブラウジングも快適、それで5万円を切る値段である。
これは久しぶりに「買い」と断言できる情報関係の機械である。メディアはSDカードとCF(コンパクトフラッシュ)なので、デジカメがどちらかに対応している人はさらに便利である。
以前小型のノートパソコンを持ち歩いていたが、充電池が2時間しか保たない。別売り大容量でも4時間。これでは泊まりがけの出張などでは電池充電の仕事ばかりがいそがしくなってしまう。
しかしシグマリオン3は、いままでの課題をほとんど解決してくれるマシンである。キーボードで文書を大量に打つ、メールのやりとりも必要な人は、これを選んで間違いないだろう。量販店よりドコモショップが安いのが特徴。
よろしかったらぜひ。下手なパソコンよりは、街に出て行くとき、頼りになります。


2003.6.18(水)『レヴォリューションNo.3』金城一紀
 知り合いが面白い本があって、いそがしいのに(から?)はまった〜、と言っているので、どれかしてみてよ、といったら持ってきたのがこれだった。奇妙な符合である。新しい(青春)小説の書き手なんだなあ、と改めて思った次第。どうにもしょうがないこと、切ないことを、だからこそ楽しみながら戦っていく主人公たちのカッコ良さは、21世紀初めの日本にとても必要なものだろう。私も2冊続けて元気をもらった。


2003.6.9(月)『GO』金城一紀
 2000年に出た小説を、初版で買っていながら、ようやく昨日読み終えた。どうしてもイメージ的にもっと重いものを想像する気持ちが先行していたのは否定できない。だが、なんというテンポの良さ!人物像もそれぞれ一つの典型になっていて、それが爽快感を増している。旬をちょっと逃したかな、という思いがあったけれど、そんなことはない、まだまだ有効期限の切れていない小説だった。
在日で、中学まで民族学校に通っていた主人公は、高校から日本の学校に通うことにする。
その主人公の高校3年生が、日本人の女の子と出会うところから話はスタートするのだが、無駄なく書かれていて飽きさせない。若者がただ若者としてそこにいることの難しさと、しかしその難しさをものともしないすがすがしさ。
有効期限が切れないうちに、まだの方はぜひ!といってももう、みんな読んでるのかもねえ。


2003.5.3(土)『ライオンキング』劇団四季
 5年も上演を続けている芝居だが、今まで観たことがなかった。ようやく受験を終えた息子たちと一緒に、家族で観に行ってみた。正直なところ、私は劇団四季と相性が悪い。かつて日生劇場だったかで観た『クレイジー・フォー・ユー』も、いわきで観た『李香蘭』も、仙台で観た『オペラ座の怪人』も、いつも何かが足りない、と思わずにはいられなかった。所詮、私には、劇団四季は縁がないのだろうと諦めていた。しかし、今回の『ライオンキング』は良かった!さすがに5年も続くだけのことはある。
 なぜそんなにいいのだろう、と考えてみると、『ライオンキング』は、私が足りないと思っていることを、はじめから必要としないたぐいの芝居であるらしい。アニメの原作でかつ動物の話だから、生身の人間の感覚は不要だ。そういえばこの劇団の当たり狂言はむかしから、猫だったり神様だったりライオンだったり、普通の生身の人間ではないものも多い。
 それでいて、妙に様式的というか、約束事で進行していく。
 劇団四季の芝居に不足していると私が感じる、そのものとは、人間らしいリアリティとかいうものではなく、その約束事を、誰が作っているのか?というつきつめの姿勢ではないだろうか。私にはまったく趣味が重ならない蜷川の芝居はしかし、そういう約束事を一から立ち上げる峻烈さを感じる。野田や三谷もしかり。
 劇団四季には、そういった世界を立ち上げる根本的な厳しさを、芝居以外のところに依拠しているような気がしてならないのだ。たとえば劇場。たとえば営業システム。たしかに旧来の(宝塚に観られるような)スターシステムを排除し、劇団四季ブランドとして芝居を打ち続けられることは素晴らしい。常設の小屋を次々に造らせ、入る芝居をロングランしつづける。
 営業としては全く問題ないその姿勢はしかし、芝居としてはいつもどこか何かが足りないような感覚を私に抱かせ続けている。私がそんな感覚を持つことは、必ずしも批評に成り得ているわけでもない。
『ライオンキング』に関して言えば、誰にでも勧められる良質のエンタテインメントだ、と言い切れる。
 とすれば、私は何か芝居以外のものについてもどかしさを感じているのだろうか。
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。
 ただ言えることは、『ライオンキング』は薦めたいけれど、劇団四季の芝居を薦めたいとはあまり今後も思わないだろう、ということである。私が薦めなくても、十分に人は見に行くだろう。そしてこの劇団四季に抱くもどかしさは、今後もなくならないに違いない。


2003.5.3(土)『オイル』野田秀樹作・演出 松たか子、藤原竜也、小林聡美、橋本じゅん、片桐はいり、野田秀樹らの出演 シアターコクーン
 山この前に観たNODA・MAPの『カノン』が、舞台には小さすぎる鈴木京香の芝居で、どうにも感情がついていけなかったのに比して、松たか子と藤原竜也、そして小林聡美、橋本じゅん、片桐はいりといった芝居の空間を人間のエネルギーで充溢させる術を十二分に心得た役者たちが動き回るこの舞台は、本当に素晴らしいものだった。
 神様と電話で交信ができる第二次世界大戦中の出雲に住む電話交換手の富士(松たか子)を中心に、特攻隊くずれのヤマト(藤原竜也)とヤミイチ(橋本じゅん)、出雲に進駐したマッサーカー軍曹と、出雲に天孫降臨したまさか神の二役を小林聡美が演じていく。野田秀樹は出雲(イズモ)がもと(イズラモ)と呼ばれ、イスラム神話の聖地だったという怪しげな学説を唱える教授として登場。
 国譲りの神話の持つ外来王の征服と、アメリカの進駐を重ね、出雲を舞台としてそこにオイル(石油)が出たら?というアイディアによってイスラムを重ね、神話と、第二次世界大戦と、今の戦争を響き合わせながら、日本の決定的な戦争体験である原爆投下の問題を、負の中心としつつ物語が進行していく。
変わり身早く過去を忘れていつも「今から」と機会主義的にしかものごとを観ようとしない「日本人」の心性に対して、戦争を「忘れてしまっていいの?」「あなたのことなのよ、あなたのことなのよ、あなたのことなのよ」と呪文のように繰り返す富士(松たか子)のセリフは、舞台を観る「日本人」たちの胸に鋭く響き渡ってくる。このセリフを聞くためだけでも、この芝居に足を運ぶ価値があると思う。
 野田の芝居は『パンドラの鐘』『カノン』『オイル』と3作品しか見ていないのでそうはっきりしたことは言えないが、野田の溢れるような才能に支えられてイメージと言葉が充溢していく前半と、散乱し、世界の限界まで広がったモノたちが、後半ふりしぼられるように中心を求めて磁場の中にどんどん飛び込んでくる、その散乱と収斂の往還が大きな魅力の一つになっていると思う。
 そういう意味で、散乱はある程度才能によって保証されているものの、磁場の励起と収斂は、時代の空気や受け手(観客)の能力、役者の演技、にも大きく依存するような気がする。
 『オイル』は、決して大きな芝居ではないかもしれない。しかし、野田秀樹の芝居らしい、イメージの充溢がありながら、同時に野田芝居初体験の「実力派」たちによって、気の充実と収斂の力が拮抗し、いいバランスで芝居を見終えることができたように思う。



2003.5.3(土)『オケピ!』三谷幸喜作・演出 白井晃、天海祐希、瀬戸カトリーヌ、小日向文世、戸田恵子、布施明、川平慈英らの出演 山劇場
 今芝居を観るなら三谷幸喜。そのことを実感する舞台だった。B列(オケピすぐ前)での観劇も気持ち良かったが、コメディであることを徹底し、ミュージカルのパロディにもなっている和製オリジナルミュージカルとして魅力ある舞台にしたい、ということだったが(公演パンフにそんなことが書いてあった)、十分その意図は達成されているというべきだろう。休憩を含めると3時間半を超える大作であることを感じさせない。オーケストラピットのセット(黒を基調として抽象的な作りではあるけれど、譜面台と楽器はそのままなので、場面は全く変わらないにもかかわらず、飽きさせることなく繰り出されるキャラの個性、おかしな事件、ギャグの連発、そして不思議な歌たち。
 もちろん布施明の歌など、圧倒的な歌唱力を聞かせてくれるところもある。
 個人的にはあまりに美味しすぎる小日向文世のとぼけた味が、身震いするほどうれしかった。
 再演ということだが、初演は未見なので比較はできないけれど、こんなに早く再演、ということはさらに再々演も期待できそうで、ということはどんどん洗練されて三谷ミュージカルの定番になっていくのではないか、と今から楽しみである。
 もし、このチケットを入手する機会があったら、絶対にその機会を逃してはいけないと確信できる作品。
 昨年の春に観た、小日向文世主演の『彦馬が行く』以来の三谷作品だったけれど、どちらを取ればいいのか難しくなるほどの出来である。もう今は愛知に公演が移ってしまったが、ぜひ再演される時には見て損のない(ミュージカル好きも、そうでない人も、芝居好きも、そうでない人も、というコピーに、偽りはなかった)舞台だった。


2003.4.27(日)『黄色い目の魚』佐藤多佳子 新潮社刊
 山田詠美とは全く異なったテイストの、でも青春小説の傑作という意味では共通する素敵な作品。
 一章ごとに男の子と女の子が語り手になって進行する形をとっています。小学生から高校生まで、<絵>と<サッカー>を中心に生活していくなかでいろいろな思いや事件が起こっていくその成長の姿を、互いに外から見たり、中から観たり、佐藤多佳子ならではの繊細で清潔な文体で描いていきます。本の雑誌2002年度1位の実力十分。中学生から中高年まで、ぜひ本屋にいってなければ注文すべき1冊。
このクリアな世界像は、徹底的に何かを飲み込もうとする現代の空気が持つ邪悪さとは無縁の、自分の動き続ける欲望の輪郭を、自分の手で描こうとする潔さとでもいうべき手応えを持っています。
それは、単に自分の物語を自分で語ることではない。また、あらかじめ与えられたオプションからチョイスすることだけが欲望の実現だ、と取り違えることでもない。
まだそれと名指されていない中間領域の持つ豊かさ、とでもいいのでしょうか。『PAY DAY!』と一緒に読んで、ゆっくりそのあたりを考えてみたいと思います。

2003.4.27(日)「PAY DAY!」山田詠美 新潮社刊行
腰巻きに「『僕は勉強ができない』から10年」とある。山田詠美の久しぶりの書き下ろし青春小説、となればまずは読んでみなければなるまい。で、ようやく今日読了。良かった!これは、やっぱり即本屋さんに問い合わせ、品切れだったらただちにインターネットで注文をして間違いない一冊です。
 イタリア系アメリカ人の母とアフリカ系アメリカ人の父の間に生まれた双子の兄姉ハーモニーとロビンを主人公にしながら、離婚した両親との距離の取り方。ワールドトレードセンターのあの「事件」で失われた大切な人。17歳の二人がそれぞれに経験する出会い、愛、別れ。親と子、双子の男の子と女の子、恋人と友人、伯父、祖母たち......。
もうほんとにさまざまな敬愛、友愛、嫉妬、恋、喪失、怒り、悲しみ、喜び、遠慮、いらだちが入っています。
山田詠美の小説が好きな人も、山田詠美の小説を読んだことがない人も、ぜひ読んでみて下さい。