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青春記 

     

 長い間、高校生の頃を思い出したいとは思わなかった。部活動に打ち込んだ記憶もなく、男子校では所詮彼女との甘いデートも遠い夢。落ち続けていく成績を横目で見ながら、それでも決して勉強をするということはなく、背中がヒリヒリ焼け付くような気持ちを抱えながら遊び続ける日々だったのだから。
 応援団の厳しい練習から逃れられるという理由で合唱部に席を置いたのがきっかけなのにそれでもなんとか止めずに三年間続いたのは、やはり歌が好きだったからだろう。遠征の帰りには、解散前に福島駅の改札口で男声合唱のクラブソングを数曲歌うのが決まりだった。自分たちの歌を街頭を歩く人に聞いてもらえるというのはとても恥ずかしく、しかしどこか誇らしいことでもあった。傍若無人な高校生の振るまいに周囲の人は迷惑したのだろうが、ホールで歌うのとは全く違ったライブ感があり、立ち止まって聞いてくれる人がいると「生きていて良かった!」と感じた。
 部活動がオフになると今度は悪友と放課後はビリヤード場通い。飲み屋のあるじたちが徹夜で賭けビリヤードをやっている陽の当たらない狭い撞球場に行っては四つ玉を教えてもらった。自分たちが賭けビリヤードをやったわけではないけれど、ちょっとした『ハスラー』気分で背伸びし、大人の遊びの雰囲気を味わったりしていた。
 そんな中で本だけはよく読んだ。面白くて何が悪い、と開き直りつつ、横溝正史からハイデガーまで分かるも分からないもなく、面白ければそれで良かった。試験中徹夜で吉川英治の『三国志演義』八冊を読み切ったときは、返却されるテストの点数の悪さの寒さとは別に、ある種爽快感を感じたものだった。
 三年時の夏課外は申し込んでおいて当然さぼりまくり。使っていない鍵のかかった教室に入り込んでコントラクトブリッジを汗だくでやっていた。ブリッジは麻雀と同様四人メンバーが揃わないとできないので簡単には抜けられないという事情もあったが、四人のうち三人はいつも固定メンバーだった。その三人はとにかくあきれるほど勉強しなかった。三人のうち一人は三浪、一人は二浪、私はかろうじて一浪で止まったが、必然の結果だろう。その固定メンバー三人の中では、私だけが部活動にかろうじて所属していたので、残りの二人に付き合いが悪いといつも責められていた。「部活なんてやってるやつは、根性なしだ」なんて脅されるのだから始末が悪い。
 さてそんな高校生活だったから、当然の帰結として浪人生活に突入した。さすがに4月から9月までは超強烈に勉強をしたのだが、所詮付け焼き刃の努力、半年でバーンアウトし、残りの半年はパチンコに惑溺状態となる。結局第一志望校は不合格。やむなく第三希望の大学に入学した時、母親に「お前もこんな大学に行くことになっちゃったんだね」と泣かれたのは今も忘れられない。たぶん言った本人はとっくに忘れているだろうが(笑)。
 風景が大きく変わったのは、大学に入学してからだった。女の子が多いからなんとか彼女ぐらいできるかも、という程度で入学したが、いつのまにか放課後は毎日自主ゼミに参加するようになっていた。心理学(発達心理)、現代文(太宰)、近世(西鶴)、中古(伊勢物語)、現代詩(吉岡実)のそれぞれを自主ゼミとして読んでいった。それぞれ教授を交えず自分たちでレポートしながら全て自前で思考を鍛えていくというやり方に、私は学問の魅力を初めて知らされた。それからの私は憑かれたようにレポートを作り、本を貪り読みはじめたのだった。
 そんな中、たしか一年生の冬だったと思う。たまたま図書館で、石川淳全集を開いた時のことを私はたぶん一生忘れない。『夷齋筆談』というエッセイに、私はとてつもない衝撃を受けた。曰く、芸術は造形ではない、文章は精神の運動の軌跡だ、精神は表現されたものを弊履の如く捨て去って、どこまでも光の速さに嫉妬するだろう、などなど。
 今考えれば、無頼派が内に抱えるアナーキズムの匂いのようなものをそこに見いだして陶酔していたにすぎなかったのかもしれない。しかし、既に形を与えられたものを潔く捨て去り(あるいは捨て去るためにこそ形を与え)、未来に向かって「ペンとともに考える」ことのみが精神の運動だと言い切る小説家の言葉に、私は励まされた。「表現」されたものを次々に振り捨て、未だこの地上に現れていない表現の可能を求めていくことが虚構のリアリティであり、小説が求めるものはそれ以外にない、と言い切る石川淳の言葉は、「自分には何もない、自分にはどんな価値もない」という焦りの果ての確信に似た袋小路から抜け出せずにいた私の魂を、確実に救ってくれたのである。私はそこから「表現」と向き合いたいと願うようになる。瞳を凝らし、耳を澄まして、誰かがどこかで語り得ない一言を発しようとしているならそれを漏らさず受け止めたいと思うようになっていった。またたとえそれがどんなに小さなことであっても語り得ることがあるのなら、それを可能な限り明確に語りたい、という思いを強くした。
 そして、本当に大切な出会いは一度あればそれで十分なのだ、ということをこのとき初めて知った。たとえ人が隣に寄り添っていても、孤独から逃れられるとは限らない。逆にインクのしみにすぎない活字の中に残された「精神の運動の軌跡」としての言葉たちに出会うことの方が、目の前の人間より頼りになることもあるのだとも。
 人は何度でも同じ事をぐるぐると迷い続ける。けれど、そのぐるぐるした悩みや苦しみに確かな構造をもった表現を一度でも与えることができれば、私たちはそこから後戻りせずに考えを先に進めることができるのだ。
 後から気づいたことだけれど、大学を出てからむしろ文章を書くことを心がけるようになったのは、このときの体験が始まりだったと思う。そのことをきちんと身にしみて感じ、文章を書くという手段を自覚的に選び取った段階で、私はようやく若さを卒業したのかもしれない。それは大学を卒業してからずっとずっと後、三〇代も終わりにさしかかろうとするときのことになるのだが、それはまた別の話だ。(H18.3.1橘高校新聞掲載)