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『群棲』論   空間分割と空間媒質の身振りについて

島貫 真    




  作品『群棲』は、雑誌『群像』の1981年8月号から84年2月号にかけて、連作短編として断続的に掲載され、84年4月に講談社から単行本として出版された。同年度谷崎賞受賞。作者黒井千次の代表作と呼ぶにふさわしい傑作である。日常生活の枠からはみ出そうとしない抑制された展開・内面描写とは対照的に、充実した空間描写の手触りが全編に溢れている。短編連作という自覚的に選択された方法、建築家の発想とも似た空間構成、創作ノートやエッセイにあらわれた家族論・文体論など論じられるべきポイントは多いが、本論では<作品空間を満たすモノ>に焦点を絞り、『群棲』における空間描写の特質について考えてみたい。



 黒井千次のエッセイの中にこんな文章がある。

「たとえ困難であろうとも、『会社員』は会社の中でなんとかして自分の職業を探すべく努めなければならない。職業は名刺の肩書きの上にのっているのではない。部屋のドアに書かれているのでもない。日々の具体的な仕事の中にしかありようはないのである。二年、三年という短期間で担当業務が変わってしまうとしても、それを通り過ぎねばならなぬ通路や階段のように考えるのではなく、その時現在の仕事のうちに職業を求めるべきだろう。求めれば与えられるという保証をどこにもない。しかし、求めて得られないのと、求めずに得られないのとでは何かが違う。求めても得られなかった失望や諦めの底には、彼の希求したものの影がネガフィルムの像のように眠っているはずである。そのネガがある限り、彼は人間であることまでも諦めてしまったという事態に陥る危険は免れるのだといえよう」(注1)

「小説においては、何かの欠陥を描くとき、それがないことを書くことはできない。いかなるものが、いかにしてないかを、あるべきものとの関係をとおしてまざまざと描き出さなければならない。その場合、小説の言葉は、なにかがある側の高みから、ない側を見下していることは出来ない筈だ。それでは、ない側を這いまわって生きている人間の内部にはいりこむことが不可能だからである。
 だが一方で、なにかがないという状態に埋没している限り、その欠落の様相そのものを描き出すことは難しい。どうすればよいか−−−。
 おそらく、なにかがある側に立って、そのない状態に批評の目を向けるのではなく、小説はまず、なにかの失われたその廃墟へ向けて下りて行かねばならないのだ、とぼくは思う。廃墟の底辺ぎりぎりに目を据え、そこにいささかも沈むことなく、廃墟の全体を仰ぎ見続けることこそが求められるべきなのではあるまいか。」(注2)

 前者は彼の労働観、後者は小説観の一端が述べられたものだ。どちらにも共通しているのは、現実に身を置いた空間の内部にとどまることから始めようとする態度である。絶えず再生産しなければ崩れていく世界(=空間)像のゆらぎを、外部の視点を安易に想定することなくふみとどまって凝視しようとするその姿勢は、小説において、もっとも感動的だろう。エッセイでは単に語られてしまうにすぎないその反動的な力学が、小説においては唯一存在しえる救いの力として作用することになるからだ。
 『群棲』に展開される生活は確かに現代の都市近郊生活者の一典型として傑出した描写でもある。だが、読者は、ここに描かれている現代的な問題を「読む」ことによって共有することを喜ぶのではあるまい。むしろ問題を共有しえないまま存在しつづけてしまうモノたちと出会うこと、そういうモノたちが見てしまう世界像のゆらぎ、それらを提示するために前述の「内部にとどまって凝視しようとする」力が働いているというべきではないか。
 だから、ここでの中心は、登場人物の内面や問題ではなく、現にそこに存在し、あるいは人物の視線によって成立・変質・崩壊していく空間の接触感および境界線についてのドラマなのである。もうすでに存在しなくなった家を想像したり、見えないものにおびえたり、妄想にちかい空想をめぐらせる登場人物たちに共通しているのは、そこに繰り広げられた空間が他者には了解不可能なことを知悉していながら、なおかつこだわるほかないところに立ち続けている点だ。殆ど壊れ尽くしたその内的空間に作品の言葉が耐え得るのは、あくまでそこに踏みとどまろうとする理不尽な作品のことばの努力の存在があるからだろう。あくまでそこに存在する空間の多層性をことばがなぞりつづけて已まないのだ。「通り過ぎねばならぬ通路や階段のように考えるのではなく」「身じろぎする対象を凝視しつづけ」るのだ。小島信夫が『群棲』の連載終了直後、対談で、

「書きようによってはもっとぐっと入り込む書き方もできますね。」
「ただ黒井さんは興味ないでしょうね。」
「この家に興味があるんですよ。だから、つくづく思ったんだけれども、作家というものは一色しか興味がないんだな。」(注3)

 と指摘しているのは興味深い。だが、この対談ではその黒井千次の興味を、作品形式維持のための努力への還元してしまうため、「家」への興味と「幻想」への興味とが別のものとして扱われてしまっている。しかし『群棲』の中にたびたび登場する幻視空間は、「空間」の像である限りにおいて、あくまで作品空間の力学の内の事象なのだ。幻視を「幻」として処理すればあとに残るのは普遍的均質空間のみだろうし、逆に幻視空間を実体化すれば想像力という主観的な観念世界がそこに広がるばかりだろう。この『群棲』は、そのどちらも回避しつつ、現実の空間分割を再生産しつづける「家」と、幻想の空間分割を繰り返す登場人物の内的空間との重なりやズレをなぞりつづけていく。そしてそれを可能にしているのは、作品に溢れている空間描の質感の感触の確かさだ。一点から透視するような外部の点に支えられた空間ではなく、ヒトを包み込み、あらがいがたい存在感を持った空間がそこに息づいている。
 ここでは、人物たちについてでなく、空間のその気配がどのように立ち上がり、重なりやズレを持ちつつ「今」を満たしていくのか考えていきたい。



 『群棲』における家は、人間の生活を支えていく力を持っていない。

「家は闇緑色の苔をつけた井戸のような存在から、透明な水槽に似たなにかに変わって来ている。」(注4)

 と作者も述べているように、家はここでは核家族を辛うじて支える「透明な水槽」でしかない。とりあえずすべてが明るみにだされていて時間軸の会うtみもない、交換可能なカプセルのようなものだ。

「どうして帰らなければいけないの」美知子(130)  (注5)
「外にはこんない爽やかな夜風が通っているというのに、なぜ水を張った小さな箱の中にはいっていかねばならぬのか。」房夫(203)
「本当はどこへいくところもないのに」紀代子(94)
「捨てていくのがですよ」静子(61)

 家はその意味を問われているが、答えをもっていない。 勿論街に出てみても、海に車を飛ばしても、浮気をしてみたところで、溶け出しそうな自己は回復しえないにきまっている。家=空間と、身に纏う気配との間に乖離を持たないのは子どもたちばかりだ。

「子供達が寝静まると家の中は急にひっそりとする。自分達の動きまわっていた領分をふとんの中に引きずりこんで一緒に眠りについてしまったかのように、うちのあちらこちらに空洞が生まれている」(25)
「住み慣れた家の中に安心しきっている身のこなしだ。それはソファーをずり落ちてテレビの前の床に寝転がっている耕一についてもいえた。そしてその同じ家が、紀代子には身動きができない狭い囲いのようにかんじられてならなかった」(201)

大人達はみな、自己の輪郭を家によって自明なものと確定することができず、ただ「結婚したこともない若い女性」のように「いやだわ、そんなの」「違いますよ、と突然叫びだしたい気持ちを抑えて雅代はコンクリートのたたきに立って」振り払う身振りをしながら立ちすくむほかない。

「人間の生においては、家は偶然性をしめだし、連続性にいっそうの考慮をはらわせる。もしも家がなかったならば、人間は散乱した存在となるだろう」『空間の詩学』

というバシュラールの言葉に従えば、登場人物は殆ど家を失いかけていると見ることができるかもしれない。
 たとえば第1話「おもちゃの部屋」で、房夫が何十年も前に壊された筈の古い家の間取りを想い出すとき、

「房夫は自分の座っている場所の左右を見廻した。そのあたりの空気がじわりと身じろぎをしたようだった。」(11)
「房夫は眼を閉じた。息子も娘も妻もいない明るいオモチャの部屋が身のまわりにじわじわと広がり始める。」(22)

といったように、昔の家は単なる回想や幻視ではなく身に纏う気配として立ち現れる。田辺老人が井戸の位置を房夫に教える時も同様で、まるで昔あった井戸そのものを抱え込み、それを置くかのような老人の身振りなのだ。
 今の家に昔の家を重ねようとする二人の男の振る舞いは、いってみれば空間を重層化させたフィクションのうちに歴史的な連続性を生きようとすることだろう。井戸おいう縦軸の「水」、「オモチャの部屋」を中心とした横に広がるかつての間取り(それは祖父や祖母の生と死をはらんだ空間でもある)がその空間を支えている。原広司との対談でも指摘されているように、それはきわめて建築的発想であり、空間を身に纏った人間の性がそこに展開されている。(注6)
 しかし、その空間は田辺老人と房夫の二人にしか共有しえないものであり、妻や子供、その他の隣人とはこの気配を分け持つことは不可能である。事実、子供達は先に引用したとおり今の「家の中に安心しきって」いるし、紀代子はそれを「狭い囲い」としか考えない。まして昔の家などは「別世界」でしかない。
 紀代子が身に纏うのは井戸の水ではなく
「雨の滴を身体中に光らせた紀代子が立っている。」(27)
「水に溶けた声が流れてくる」(29)

 といったように雨や水道の水だ。紀代子に限らず、登場する女性達にとって「水」は自由の象徴であると同時に恐怖の対象でもある

「あるいは、こちらが勤めを止めて家に入ってしまったせいもあるのかもしれない。まだ会社勤めをしていた頃、おそくまでかかった仕事を終えて同僚達と出た夜の街の空気が、未だに海のうねりのように肌に蘇って消えなかった。それを求めていくら街に出ても今は手応えのない水にしか出会えない。身体を掴み、引攫ってくれるような自由で力強いうねりは紀代子をよけて通り過ぎ、いつでも彼女は薄い氷の中に一人置き去りにされている。それが重なれば重なるほど、いっそう紀代子は用を作っては街に出向かずにはいられなかった。」(101)

 というように外部に空想された水は「自由」を思わせもするが、それは欠如としてしか語られることがない。美知子が車で「海」に行く、と語るのも実は行くべき場所がないということでしかないのだ。実際に存在するのは開かれた水道の蛇口、わき上がってくる井戸の水など彼女たちを脅かし、恐怖させる「水」である。

「自分の神経そのものが流れ出しているかのようだった。」(191)
「その様は女の身体の奥に見も知らぬ暗い井戸が突然口を開いてしまったかのような不気味な印象で雅代を脅かした。
『井戸がどうしたんですか。』
自分の不安を叱りつける乾いた声を雅代は放った。
『井戸から水が湧き出して、もう、家の下がびしょびしょ。』(273)

 自己を組織しえない者たちが感じている開かれた水への恐怖とは、必死に保とうとしている閉じた世界が解放されてしまうという恐怖だろう。実際ここに登場する女たちは閉じていくことしかできない存在である。それに対して男たちは、無自覚、自覚の区別を問わず失語するしかない。その失語を越え出た「ヌータ、行くな」「俺もここに住む」といった男たちの悲鳴に近い発話は確かに感動的ではある。しかしそれは静子の針千本の幻視、紀代子の井戸へのおびえ、雅代のいらだちと見合った強度であって、それ以上のものではない。身に纏いあるいはまとわりつく空間は共有されることができないのに、現実の空間分割ばかりが共有されているという矛盾はどちらにせよ抱え込まれたままだ。人物達が抽象的に作り出そうとしている家の連続性・同一性・意味という点から見る限り、ここにあるのは徹底した喪失の物語なのである。


 さてしかし、自己の同一性・連続性を家という空間に重ねることができず散乱しかけてもいる人物達のポテンシャルの低下とは逆に(あるいはそれゆえに)、空間を満たすものの気配は濃密になっていく。その作品空間を満たすものを仮に空間媒質と呼ぶとすれば、それは作品空間全体を覆い尽くしているといってもいいほどに溢れている。光、水(雨、井戸、水道の水、コップの水、湿気)、音(電話、越え、消防車、救急車)、におい、夜気、冷気、空気、気配、空想された身体や家ETC.。物理的な実体としての実在感に勝るもの、より心理的実在感に優れるものという違いはあるが、むしろそれら異質なものが一様に空間媒質として機能し、作品を満たしているのだ。

「眼の前の電話が鳴り出した。
黙って見詰められるのに耐え切れずおもわず動き出した、といった生物めいた鳴り方だった。」(99)

「角を曲がるとまた街燈の列だ。(中略)一つの明かりがようやく力を失った道に落ちようとする時、先の明りが慌てて駆け寄って弱った友達を地面から救い上げにかかる。」(33)

「先刻の激しい音はいつか消えてせせらぎに似た微かな水の気配が窓から伝わってくるだけだった。」(180)

「細く開けられた窓の間から雨を通して裏のテレビの音が洩れて来る。」(7)

「耕一の抗議に答えるかわりに、房夫は自分の座っている場所の左右を見廻した。そのあたりの空気がじわりと身じろぎしたようだった。」(11)

「陽気な火事場見物の空気が俄かに陰惨なものに変わるのを紀代子は感じた」(107)

「そこを目がけて、もう一つの家が床の下からゆっくりと滲み出して来る。」(25)

例を出し始めると全編を抜き出すよりほかなくなってしまうほど空間媒質は作品中に溢れている。そしてそれらは人物たちの空疎な感触とは対照的に、まるでその空間媒質そのものの密度が問題なのだとでもいうように充実している。たとえば1,2,5,7などの擬人的表現について見れば、電話(とその音)、街燈の光、身の廻りの空気、想像された家などがあたかも世紀をもっているかのように描かれてりう。6などで、紀代子が陰惨さを感じるのではなく、空間媒質の存在及びその変化を紀代子が感じるという表現になっていることからも媒質の濃さがうかがえよう。空間は実質を持たない空虚などではなく、濃度を持ち、生気を持った媒質に満たされているのだ(3,4なども単なる音ではなく、水の気配・雨といった空間媒質を印象づける表現がとられている)。さらに本来は空間に定位されないものまで取り込んだ表現もある。

「耕一の声に微かないたわりの匂うのに気付いて房夫は苦笑する。」(10)

「来た、と身体の中を声にならない声が走った。」(183)
10
「自分の神経そのものが流れ出しているかのようだった。」(191)

 いたわりや期待、いらだちは安堵といった内面的なものさえ、空間媒質に置換しようとしている。これはもう量の問題ではない。内面的なもの、連続的なものの重さや質感が希薄になればなるほど、空間媒質はまるで生きてでもいるかのように生気を帯び、濃度を増してくるのだ。さらにいえば、媒質は静止したまま空間を満たす実体としてあるのではない。実は、作品空間を積極的に満たすのはなによりも媒質の動きや身振りなのである。
 光や音、匂い、雨は、もとより空間を渡ることによってそこを満たす。じっとそこに静止して動かない光や音などはありえないし、その動きを擬人的な比喩が支え、円滑にしている。水も、ここで描かれているのは何よりも開かれた水、気配や幻想をあたりに成立させ、積極的にあふれでてくる井戸の水であり、水道の水だ。動かない水は「水槽の水」「薄い水」という希薄な印象しか持たされていない。幻想にしても、幻想の「家」は7のように「滲み出して来る」のであり、田辺老人が腕の輪を作ってそこに置き、あるいは投げ出す身振りによって昔の井戸や祖母の身体が空間を満たすのだ。同様に空気は5「身じろぎし」あるいは「異様な空気が伝わ」(66)るのである。消極的に「漂う」という形態も多く見られるが、それは動きを内在させていると見ることもできる。事実、ひっそり息づいている建てかけの田辺家の中の気配もまり子によって吸い込まれようとするし、「夜気」や「湿気」は人物にまとわりついて家の中に入り込み、声を湿らせて響いていくことになる。ここでの空間媒質はたんなる「モノ」「幻想」「気配」のいずれでもなく、それらが身じろぎをし、その動きや身振りによって活性化され、あたかも生気を持つ実体であるかのように振る舞い始め、単なる比喩や作品の素材というレベルを越えて、『群棲』の空間を満たし続けているのである。



 とはいえ、空間媒質は決して無限定な場所を漂い、あるいは響きわたっているわけではない。明確な輪郭を持ち、濃密に空間を満たすその動きを支えているのは、なんといっても建築物としての「家」である。「家」は現実の空間分割として機能し、不断に外から内を切り取って閉じ続けようとする働きを持つ。

「風は自由に外部と通い合っている筈なのに、屋根の下にはいかにも家の中らしい木の香を含んだ闇がひっそり住みついている」(42)

「いつ焔が上がるかもしれぬ、という恐れが消えたわけではなかったが、外が騒がしいだけにそこから遮断された家の中の空気が俄かに濃密な肌触りで身を包むのが感じられた。「(104)

「外はこんなに爽やかな夜風が通っているというのに、なぜ水を張った小さな箱の中に入っていかねばならなぬのか。」(203)
 「家」は外からの風や音を遮断して内の媒質を封じ込める。だが、よく見ると「家」は必ずしも媒質を画然と内−外に分割し、その動きを封じる機能を十分果たしているとは言い難い。夜気・湿気・雨は人間にまとわりついて家に入り込み、音は進入し、さらに「家」そのものさえ4の7のように幻想の家を孕み、その幻想の家に支えられた井戸の水は、あふれ出て家自体を飲み込もうとさえするのである。家は、単に空間媒質を切り取るものではなく、響きわたる場を与え、むしろその交換・流通を積極的に準備する役割も同時に果たしているのだ。1,2と3の空間媒質の濃度の差はそこに係わる。1と2では闇(香り)や空気が外から遮断されて家の内
にあるとはいいながら、外と内の気配は通い合い、あるいは内に向かって境界線を踏み越そうとするエネルギーが存在する。それに対し、3ではただ切り取られるという意識でしか捉えられていないため、1,2に比べて薄い印象を持たされてしまう。
 概して登場人物(とくに女たち)は、家を閉じていくものとしてしか捉え得ない存在として書かれている。したがって彼らは作品中に満ちあふれた空間媒質の濃密さとついに出逢うことなく、立ちすくむほかないのだ。団地の夫婦の気配を断とうと鍵をかける雅代。木内家の扉をわざわざ締めに出、あるいは開かれた蛇口におびえる静子。家を「狭い囲い」としてしか考えられず、わき出る井戸(開かれた水)に静子同様おびえる紀代子。「海」に向かって車を走らせ、「どうして帰らなければならないの」と電話で語る美知子。彼らは皆「家」を、空間分割の閉じる側面で捉えているため、その空間は欠如としてしか見えず、その内部は決して満たされることがない。しかし、作品は
登場人物たちの希薄さとは裏腹に、内部を満たしさらに境界を踏み越して動いていく空間媒質で溢れている。
 「家」以外に、空間を内と外に分割しつつ媒質の動きを支えているのは登場人物の身体である。
4の8,4の9、4の10もそうだが、

「台所の下に井戸がある、と気付かせた田辺家の老人の言葉は房雄の中から消えなかった。」(22)

「べたくつ女の声が肌に滲み込み、別れた後になってそれが腋の下や膝の裏側にじくじくとにじみでて来るような気がしてならなかった。」(165)

「水が増してくるのは床下にではなく、貴女の中にではないの」(276)

「紀代子には、夫の肩のあたりに夜気と一緒に竹藪の重い湿気がこびりついているように感じられたならなかった。」(121)

 といったように、「身体」は夜気や雨を身に纏い、内に声を取り込み、感情を滲み出させ、幻想の水を溢れ出させる。「身体」もまた自己と外界の境界線であるにとどまらず、「家」と同様空間媒質の動きを招き寄せ、円滑にする役割を果たしているのだ。
 このように「家」や「身体」は、空間媒質を閉じこめるどころか逆にその動きを支え、円滑にする働きをしているといってよい。境界線が設定されることによって空間媒質はむしろ濃密さを増し、それをまたぎ越すことで確かな身振りの輪郭を獲得するとさえ言えるだろう。分割された空間がなければ空間媒質は存在しえないといってもいいのかもしれない。
 ここには、空間分割の身振りと、それによって成立する空間媒質の濃度・感触・動きの生々しさが溢れているばかりなのだ。その「気配」その「水」と指さすことはでき、その濃密さは十分享受することができるにもかかわらず、そのことが登場人物の内面の豊かさに奉仕することはない。ただ外部の空間があたかも生き物のように生動する様子を、過剰な体験として受け止めていくことになるのだ。ちょうど登場人物の希薄さ、失語と見合った豊かさ・多様さで。



 考えてみれば、ヒトは決して均質でのっぺらぼうの空間を生きているわけではななく、空間をそれぞれの仕方で解釈し、分節化した中に身を置いて生活している。というより、世界の中に身を置き、振る舞うことそのものが空間の解釈であり、分節化であるような生を生きている、といった方が正確だろう。だから、僕たちが生活するということは、それぞれが自分の身体=精神によって分節化した空間がぶつかり、重なり合い、あるいはズレ込んだりしながら成立しつづける重層的な空間を生きることに他ならない。いわば気配を身に纏いながら、その響き合いを生きているのだ。作品『群棲』はそういう重層的な気配の響き合うくん館の場をなぞることで成立している。そこでは人物たちは空間を鳥瞰する特権的な存在=主体としては存在しない。ちょうど役者の身振りがその内面を満たすのではなく、身振りによってそこを気配で充満させていくように、人物は空間によって創り出された結節点のように機能しているのだ。
 この作品の人物像が読者に希薄な印象を与えるとしたらおそらくそこに係わる。自己喪失や家族の疎外的形態を発見できるほど確固とした自己像はここには存在しない。他方、家族という集団はその構成員をつなぎ止め、抑圧する力を失い、同時に外に向かって開かれた場として働くこともない。そんな真空に近い状況でエネルギー準位の低くなった個が、まるで超伝導でも起こすように空間に流れ出ていくのである。
 喪失の物語ではなく物語の喪失。おそらく現代家族論の重要な一側面でもある「内面的な物語の喪失」という主題が、欠如として語られることなく、あくまで作品空間を支えることばのレベルで豊かに生きられていることを抜きに、この作品の魅力を語ることはできまい。それは単に空間的な比喩表現の問題ではなく、作品言語が作品空間とどう向き合うか、という問題だろう。武田泰淳が日本と中国を空間的につなぐ言葉として用いた「風媒花」、安部弘法が失踪や変身の身振りによってとらえた空間の変質を、黒井千次は空間媒質というエーテル仮説のようなものによって捉えた、と言ってもいいだろう。(注7)「なぜ」と理由を問うのではなく、無生物・無機質・無意味なものがあたかも意味を持っているかのように、あるいはまるで生きてでもいるかのように振る舞うこの空間媒質の成立は、「対象の曖昧さを形式の曖昧さによって掴む」(注8)という作者自身の言葉を遙かに超えて、豊かで且つ明確な達成を示している。その成果の射程距離についてはさらに論じられなければならないが、冒頭に記した論点とともに後日を期したい。
注1『働くということ』黒井千次 P121 講談社新書
注2創作論ノート『空の地図』黒井千次 P26 筑摩書房
注3『群像』1985年3月号
注4『空の地図』P25
注5『群棲』講談社刊の単行本ページを示す。以下、ページ数のみの表記の場合は同様。登場 人物の名前は、作品中の発話者を示す。
注6『ヒト、空間を構想する』原広司・黒井千次 朝日出版社刊
注7黒井千次自身『空の地図』P60〜70で、武田泰淳と安部公房について「空間的な作家」として論じている。

注8『中央公論』1984年11月号、谷崎潤一郎賞の受賞時エッセイ「眼と鏡」より。
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