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私の戦後50年 

島貫  真     


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 幼い頃父を亡くしていた少年は、満州に渡った。
 日本ではなく外地に雄飛する、というのは当時の若者の基本的な行動パターンでもあったし、商家の末子としては、家に居場所はなかったということもあるだろう。大陸に渡った後、就職先を見つけて生活をはじめる。
 しかし十五年戦争の泥沼は、その人生を大きく揺るがせていく。戦況が悪化した昭和十九年、現地召集を受ける。何ヶ月かの訓練を経て配属されたのは、ソ連国境の警備隊であった。ソ連兵のたばこの火が見える近さで警備を続けていた隊は、二十年の七月、突然隊の一部が南下を命じられる。二隊に分かれて一方は日本と朝鮮半島との間の警備のために済州島へ、他方は南方の激戦地へと送られることになった。南方の戦線に送られた隊は全滅したと伝えられ、他方ソ連国境に残留した隊も、ソ連参戦時に捕虜となりシベリアに抑留されたという。
 たまたま彼は済州島に配属され、その地で敗戦を迎える。食べ物など調達することもできない島では、最初は蛇や草、魚にねずみ、最後には浜辺でとれるひじきばかりを食べて飢えをしのぐという、兵隊というよりは漂流者のような生活であった。とても戦争などできる状態ではなかった。
 敗戦数ヶ月後、復員船で本土に戻った彼にはしかし、帰るところもない。なんとか就職・結婚をすることができたものの妻が急逝。
 昭和三十年代になって四十歳近くで再婚した彼は男の子を設け、自分の家を建てる。高度経済成長前夜、ようやく始まった分譲住宅の走りであった。
 その男子が私。彼は私の父である。
 三十七歳の私が戦後五十年を振り返ろうとすると、どうしても自分自身の父と母の人生を考えなければならない。私にとって五十年の歴史は同時に私の父と母の歴史であり、それは必然的に戦争を行った日本、戦争を始める前の日本とも地続きの歴史だ。
 母は戦争末期、女学生の勤労奉仕として松川の山から材木にひもをつけて福島まで十数キロの道を歩いて引きずる仕事をしたという。十代の娘が、荒縄で縛った丸太を牛か馬のように引いて歩くというのは、現在では想像するのも難しい。

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 そんな経験を経てきた父母から子供の頃聞かせられた話は、戦争がいかに悲惨で、繰り返してはならないものか、というものであった。日本が戦後平和憲法を持ったのは素晴らしいことであり、どんな理由があるにしても国家が武力を持って戦争をすることは許してはならない、と父からも母からも繰り返し教わったように思う。しかしまた同時に、戦争に参加した父たちの世代には、国のため家族のために戦って「英霊」となった人たちに対して、戦後日本が忘却の身振りでしか対応してこなかったことへの複雑な思いもある。国の為に命をかけて戦った名もない兵士の行為こそが、犯罪として裁かれあるいは愚かな行為として片づけられ忘れ去られていく割り切れなさ。声高には語らないものの、戦争を否定する父の言葉の中に漂っていたのではなかったか。
 おそらく戦後51年経って、本人も忘れているであろうそのことを、息子である私は、「もう一つのヒロシマ」というNHKのドキュメンタリーを見ながら思い出していた。
 ドキュメントはスミソニアン博物館の原爆展示が問題となった今年のいきさつをまとめたものなのだが、インタビュー部分でアメリカの元軍人たちは「原爆投下は、戦争終結に向けて日本を目覚めさせるために不可欠であった。そのために日米双方のたくさんの命が救われた。」と語っている。
 戦勝国はその正当性を誇り、敗戦国は口ごもり屈折するという違いはあるものの、みずからの命をかけて国を守るために行った行為が「単なる残虐非道で人類の絶対的な悪」として語られてしまいあるいは忘れさられていくことについてのやりきれなさ、においては共通している。
 またたとえば、父と同じ世代の良識ある人が、在日朝鮮人の指紋押捺問題が報道された時、「彼らは早く朝鮮半島に帰るか日本に帰化するかするべきだ」と真顔で主張するのを耳にした。歴史的な事実の持つ重さをないがしろにしたまま、過去を全く忘却した形で発せられる言葉が多すぎはしないか。それも無知な若者の口からではなく、リアルタイムで戦争と戦後を生きてきたはずの世代によってさえ語られてしまうとは。あまりにも素朴にすぎる抑圧というほかない。
 それは、日本全体の中で半分ほどの面積を占めている沖縄の基地問題でも同様だ。沖縄返還まで日本の政治を揺らし続けた沖縄問題・基地問題・日米安保問題は、50年もの間宙づりにされたまま「沖縄の問題」として括られてしまい、結局は本土の住民によって忘却され続けてきたのではなかったか。

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 戦後空間は、「平和憲法」の名のもとに閉じられ、時間を奪われた抽象的なものであった、という議論を近年よく耳にする。たしかに、戦後民主主義のことばは、社会党の掲げる理想的な非武装中立と、自民党の政策に見られるアメリカへの軍事依存に基づいた経済重視政策の現実性の間で奇妙なバランスを保ちながら、閉じられた正しさを演じ続けてきた。しかし戦後50年を経て、もはやそういった閉じられた抽象性の中に閉じこもっていることは不可能になりつつある。経済活動は完全に国家の枠を越え、データ通信は国境を無効化して広がり続け、それらの流れはさらに人の流れを加速しつづけている。元アメリカ兵の主張と日本の元兵士の屈託とが、同時に響きあって受け止められてしまう時代なのだ。私たちは、閉じられた空間の中で生きていくことはもうできなくなっている。好むと好まざるとに関わらず、流通し交通し続ける世界の流動の上に生活を考えていく以外にない。 
 一時的に民族主義的・原理主義的な動きが力を持とうとするかもしれない。事実冷戦後の地域紛争の多くは、原理主義や民族主義が歴史の仮面をかぶって登場している。だがそれはみかけの主張とは裏腹に、閉じられた非歴史的な空間を縮小再生産しようとする反動的な動きでしかないだろう。日本が普通の国家になるべきだ、という主張もまた同様のように思われる。国家や民族という枠をアプリオリに考える視点こそが、限界づけられるべき時代になっているのではないか。そしてそれは同時に、戦後民主主義の中で語られた「世界平和」や「国境を越えた人類愛」の非歴史性も問い直されるべき時代になったということでもあるだろう。
 歴史的な視点を手にするということは、抽象的な正しさの主張や断片化された実感のもつ限界をきちんと輪郭づけることだ。国を守るために命を捨てる兵士のアイデンティティへのこだわりも、ノーモアヒロシマのかけ声も、それだけでは抽象的な他者への(人間への)無関心に支えられたことばでしかない。
 そういう意味でいえば、歴史は歴史観それ自体の中には存在しない。限界づけられた歴史的言説のその臨界面に触れ、言説の限界を知ることによって初めて、歴史は向こう側に立ち現れる。それは、過酷な体験を強いられることであり、言説を他者と共有することが交流であり理解であり国際化であると勘違いしている人たちには最後まで「理解」できないことでもあるに違いない。
 私たちは、戦争か平和か、建前か本音か、理想か現実かといった二項対置的な閉じられた世界観の中で生きることが難しくなっている。方向の見えない歴史的な言説の多層性をことばの上で生きるという時代に遭遇したことを、「幸福」と錯覚することはできない。抽象と現実が取り違えられているような希薄さの中で、国家や他者に対するある種の絶望に裏打ちされた思考をつづけなければならないのだから。しかし、それを生きることの過酷な豊かさとして享受することはできるかもしれない。理解不可能な他者との出会いを繰り返し組織し続けること、繰り返し流通し交通しつづける動きの中に身を置きつづけることこそが、生きることの証に他ならないのだから。


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