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 「冷たい夏の月」第1章

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 遺伝子工学を研究所の小さな発見が発端となって次々に起こる不可解な事件。
 バイオチップコンピュータの秘密を狙う組織とは。
 爆発的な勢いで発生する”変身”の原姻は?
 襲いかかる敵は一つではないらしい。
 産業スパイか?宗教的なカリスマか?妖魔か?疑惑の果てに主人功が行き着く精神と
時空の極北。
 SFファンタジーとバイオレンスロマンが交桜した不気味なテンポが読者を捉えて離
さない。THE NETが満を持して提供する大河SF。これは大きな事件です。乞うご期待!
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注この作品(第1章)THE NETというBBSに1993年、初めて掲載されました。
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 ”塔(タワー)”システム管理部から”現場”に転属を命ぜられたのは、湿った空気
が肺に泌み込み、身体が内部から微細なカビの胞子で埋め尽くされてしまいそうな6月
の末のことだった。普通”塔(タワー)”内部の異動は5月と10月に定められている。
むろん欠員や補充、プロジェクトの編成/解体によって随時小さな異動はある。しかし、
僕がやっているシステム管理は、およそ”現場”とは無縁の仕事であるはずだ。主任の
J(ジェイ)に理由を尋ねると、彼は最近お気に入りの<東洋的>な微笑を浮かべて
「ヒロシ、内面を旅する者はいずこにあってもエトランジェなのさ。B.MATSUR
Oもそういってるよ」
と答えてくれた。完璧な答えだ。バイオチップの制御が”現場”で必要な仕事だとは思
われない。とすれば遺伝子制御の犯罪についてのサジェスチョンか。品行方正とはとて
もいえないけれど、いくら僕でもここ最近”塔(タワー)”の業務からはずされるよう
なことはないはずだ。むしろ病棟で発生する奇妙な現象について論文を一つ仕上げたば
かりだったし。
「心配ないよ、ヒロシ。優秀なバイオチップオペレータが欲しいということで推薦した
んだから」
「おい、じゃあJ、あんたが僕を」
「行く梅雨や我泣き濡れて蟹の目は涙だよ、ヒロシ。でもね”現場”とはいってもオペ
レータは外に出ない約束だから大丈夫大丈夫。内緒だけど一人で最新チップの制御だよ
。」
「じゃあ例のP2?」
「オウI don' Know.でも楽しみにしてる。こちらの才子とはいつも連結できるようにし
ておくよ」
「でも、危ないな、外部で。」
「分限の道楽ね、B.MATSUROと一緒。スポンサー必要よ。スポンサーはバイオ
チップ必要。うまくいくね。」
K.マツオカ博士が”塔(タワー)”を作ったころなら、こういう依頼は受けなかった
だろう。しかし、”塔(タワー)”も今は実績が要求される時代になった。
 そのうえたしかに”現場”はしばらく前からなんとも奇妙な戦いを強いられているの
も事実だった。
「わかった。でもJ、それはMATSUROじゃなくてMATUOだよ。」
「オーケー、マトゥオね。人生は旅だよ。」
今思い返して見ると、そのJの言葉は本当にそれから先起こることを見通した判断だっ
たような気がする。でももちろんその時の僕はもちろん、Jの気紛れな日本趣味のコレ
クションだとしか思っていなかったわけだが。
 
                                2

 20世紀末には今後400年かかるだろうといわれていたヒトゲノムの解析が21世
紀後半にほぼ完了したのは、”塔(タワー)”のシステムが順調に稼働したことが大き
いとされている。創設者K.マツオカ博士は、各国の利害のもとでしのぎを削っていた
研究機関の統合をいともたやすくやってのけた。一つにはマツオカ博士自身の政治力に
よるところもあったにちがいないが、彼の研究室が開発したバイオチップ(のちに才子
型人工頭脳と呼ばれるものの原細胞)の存在がなによりも決定的であったのだ。突然変
異体として偶然に発見されたといわれるその細胞はP1細胞と名付けられ、また才子
(サイコ)チップとも呼ばれたが、それは自己増殖型のニューロンとグリア細胞の対と
でもいうべきものであって、ダイナミックに情報を保持しかつそれにもとづいて判断が
可能な本格的人工頭脳の材料として最適のものであった。K.マツオカ博士は最初その
バイオチップの存在を発表せず、それをつかったサイコというバイオコンピュータを完
成させ、サイコとの共同作業によって他の研究機関が存在意義を失うほどの成果を次々
に発表していったのである。
 K.マツオカ博士はその後世界連邦にこの”塔(タワー)”のシステムを移管。国再
調整機関にすぎなかった連邦を、しだいに管理機構としての機能を持たせるまでにして
いく。その行動と業績の特異性から、マツオカはマッドサイエンティストだった、とす
る意見も根強い。しかし、ゲノム解析とバイオコンピュータにおいてとてつもない業績
をあげたことは何人も否定できない事実だった。
 さて、そうやって”塔(タワー)”で解析されていった遺伝子の暗号と、突然変異体
としてのP1細胞の存在は、私たちに”遺伝子以後”もしくは”遺伝子以前”の研究を
要求するようになる。追試によって再構成が不可能であるP1細胞は、分割して増殖す
ることさえ拒む、ほとんど1個の知性体に近い存在となっていた。その特異性は大きな
研究の対象となったし、同時に遺伝子の情報を支えかつ制御している選択意思の問題は、
”遺伝子以後”のテーマとして”塔(タワー)”に要求されていくことになる。つまり、
細胞は同じ遺伝子を持っているけれども、同じく分裂するのではなく、死ぬ細胞と生き
残る細胞がそれぞれ自ら選択してふるまう。そこに生命制御の機構が明らかに働いてい
るのであって、その細胞の選択意思のシステムが明らかになれば、老化問題や品種改変
など、社会的に与える影響は計り知れないものがあるわけだ。20世紀の頃は、そこに
関与しているのがある種の化学的な物質であると考えられていたが、しだいにそれはカ
オスエンジンの研究と結び付いて、システム自身がさまざまなレベルで展開する自己複
製「意思」の相互連関によるものではないか、と推測されるようになっていく。
 22世紀初頭、ぼくがP1チップのオペレータとしてはじめてサイコとコンタクトを
とったのは、そんな頃だった。チップとはいってもサイコはいわゆるハードではない。
疑似生命体としての細胞はもちろん培養基のなかに存在するが、人間の意識とのインタ
ーフェースはシミュラクラシステム(幻像装置)によって行われるのだ。いわばサイコ
という頭脳と一緒に夢を見るようなものだ、というのが一番近い形容だろうか。
「はじめまして、ヒロシ。リラックスしてください。私はサイコです。」
僕はサイコを女性だと最初に感じた。年齢はもう60才以上になっていいるはずだが、
もちろんたんなる細胞にとっては性別も年齢も無意味な分類にすぎない。女性のオペレ
ータはどう感じるのだろう?そんなことを最初に思った記憶がある。
 サイコと接続されている時の感覚は、自己の意識や判断、知的な能力がとてつもなく
広がったような感覚である。思ったことがそのまま現実になるような、そんな感じだ。
むろんそれはサイコとオペレータの頭脳が共有しているシミュラクラシステムによって
成立している「場」の感覚である。僕たちオペレータはその感覚に惑溺しないことがな
によりも求められるのだ。トリップしながら自己を見失ってしまう事故を、僕は何度か
目撃している。僕より年配の元訓練生が、意識を失ったまま病棟で横たわっているのも
何人か見ている。危険であれば直ちに接続を切断しろ、と言われている。しかし、危険
なのはおそらく苦痛ではなく快楽に近いものであるからだ。オペレータとしてやってい
ける資質を持ったものは、そういえば周りを見て見ると幾分か、自己を制御することが
うますぎる人間が多いような気もする。J(ジェイ)も僕も、サイコという人工的なカ
オスを制御できるだけの無感覚が備わっているのかもしれなかった。
 それでもときどき、自分はシミュラクラシステムを起動させたのか停止させたのか、
一瞬わからなくなることがある。ほんの一瞬ではあるけれど。

                                3

「タカヤマ、ボスがお呼びだよ」
トリグチにうながされて僕は室長室のドアを叩いた。
「どうぞ」
「失礼します」
「オーケイ、君がタカヤマ君ね。」
「はじめまして。よろしくおねがいします。」
「まあそうしゃちほこばらなくてもいいよ。かけなさい。」
「失礼だけど職務上あなたの個人データを詳しく調べさせてもらったわ。」
「知ってます。レベル3のアクセスがあったから。」
「オーケイ。で、どう?現場の感想は。」
「まだ着いたばかりで特に何も。」
「ふうん。貴方なぜここに配属されたか知ってるのかな。」
「いいえ、正直言うと戸惑っています。研究者だったらまだわかります。最近の現場を
騒がせている例の奴の分析もあるでしょうし。現場には私が扱っていたバイオチップ型
の頭脳はないわけですから。だってまさか」
「そう、そのまさかよ。端末から”塔(タワー)”の”サイコ”を呼び出すのじゃなく
て、現場で直接動かしてもらいたいの。」
「でも”塔(タワー)”以外はあのチップの培養はおろか研究も禁止されているんじゃ
ないですか。その自己限定は才子自身が望んだことでもあります。第一あのレベルのバ
イオチップの培養にはまだ誰も成功していないじゃなりませんか。それなのに....
...」
僕の言葉を引き取って、彼女が続けた。
「一介の現場の室長がそんなものを用意できるわけがない。そう普通だったらそうかも
しれないわね。超国家プロジェクトである”塔(タワー)”に対抗できるものなどいる
はずがない。でもね、それがもし存在するかもしれない、としたらどう?」
「どこに、誰が?冗談じゃありません。”塔(タワー)”がどれだけの維持管理費をあ
のチップひとつにつぎ込んでいるか知っているんですか?」
「もちろん知ってるわ。」
「じゃあ見せてください」
「どうしたの?信じられないっていう顔ね」
「一連の妖魔騒ぎがバイオがらみじゃないかっていう捜査のことならまだ話が分かりま
す。でもありもしないバイオチップの話をされても。」
「その妖魔騒ぎだけど、案外”塔(タワー)”も無関心じゃいられなくなるかもよ。所
長もそれを心配して貴方を出す気になったらしいし。」
「もってまわった言い方は好きじゃありません。」
「いいわ。じゃ事実を話しましょう。新しいバイオチップが培養されていたの。しかも
この日本で。1カ月前に妖魔騒ぎを追跡していた時に発見したのよ。」
「研究自体は相変わらず民間企業でもあっているでしょう。ただ突然変異体であるサイ
コタイプはまだ合成されていないし、ほとんど不可能です。」
「そう、おそらくサイコ自身の力に拠らなければね。でも、今回発見されたのはまった
く違った型のそれだったの。だからまずあなたにそれを確認してほしいの。」
「それは起動している状態なんですか?」
「正直いうとよく分からないの。まだ覚醒(そういう言い方が適切かどうかわからない
けどね)はしていないのかもしれない。ただ、生きていることは間違いないわ」
「いいですか、室長。それはなにかのいたずらか勘違いです。誓ってもいいですが、才
子のばあいほとんどビル一つが、手の平にのるような細胞体のために稼働していてはじ
めて高性能のバイオチップコンピュータとして働くんです。どんなタイプかしれないけ
れど、眉唾ですね。」
「私も最初はそう思ったわ。でもその細胞はまちがいなく意思を持っていて、それを形
象化できるの。どれだけの力がるのか、原始的なものなのかは別にして。とにかくこれ
から現場にいってみましょう。すぐ、いい?」
「もちろん。それが本当なら、世界がひくりかえりますよ。そのチップを巡って国際紛
争だって起こって不思議じゃない。」
「その言葉にもうすぐリアリティを持たせてあげるわ。」
「未来人のコンピュータでもみせてくれるっていうんですかね。」
「案外そうかもしれないわよ」
とんでもない妄想癖のある室長に初日からこきつかわれそうだ。僕は昨日までの上司、
温厚な俳句好きの研究者であった主任のJ(ジェイ)の顔を思い出していた。J(ジェ
イ)、本当に人生は旅だよ。
肩をすくめて室長の後に付いて部屋を出ようとすると、郷原室長は突然振り返って僕に
尋ねた。
「P2細胞って、何?」
僕はいきなり冷や汗が出そうになった。それは”塔(タワー)”がごく最近研究を始め
た異常増殖細胞サンプルのコードネームだったからだ。最高機密というわけではないが
、”現場”の捜査官レベルに知らされているはずのない事柄であったからだ。この室長
はたんなる首都警察の捜査主任ではない......。
「いいわ、そのうちゆっくり教えてもらうから。」
僕の困惑を楽しむように彼女はゆっくり微笑んで、室長室のドアを開けた。
   
                                4

 室長の名前は郷原ユキ。首都警察の科学第3捜査室室長に就任したのが4カ月前。
それ以前は第2捜査室で主に麻薬関係の「営業」をやっていたという。第1捜査室は
いわゆる従来からの鑑識業務が主で、第2捜査室はステルスなどいわゆるスピード狂
がほしがる合成麻薬を中心とした摘発、第3捜査室はどちらかというと最近増えて来
た遺伝子改変を中心とする医療犯罪が主な守備範囲である。だからぼくも当然第3捜
査室に配属されたわけだけれど、あの若さ(どうみても35前だと思う)でしかも2
室からの栄転での室長とは、ちょっと普通じゃあない。隣の机のトリグチは、とにか
く切れる上司だ、としか言わなかったから、顔を合わせるまでは女だとは思ってもい
なかった。それからあのP2細胞の話、新型バイオチップのこと。郷原室長はぼくを
つかって何をしようとしているのだろう?いったいそれにしても......
 エレベータに入ると、室長は僕に改めて話しかけてきた。
「例の報告書は届いてるわね?」
「転属まで1週間しかありませんでしたから、ざっと目を通しただけですが」
「とりあえず意見を聞かせてちょうだい。」
「はい、でも。」
「”塔(タワー)”の機密を聞こうっていうんじゃないわ。でも、捜査に必要なこと
については全面的に協力してもらえるわよね?」
「はい、それは................................。わかりました。じゃ、わかって
いる範囲で。
 初めてニューロン&グリア細胞対(つまりバイオチップとしてのサイコシステムに
ちかい構造のそれ、ですが)の異常増殖細胞の存在を知ったのは、実はそんなに最近
のことじゃありません。脳腫瘍、いわゆる神経細胞のガンについての観察の中で、癌
細胞としては、もう何百年も以前から制御を失った異常増殖はむしろわれわれにとっ
て親しいものでした。そしてまた同時に癌細胞は生命体の調和的な意思を超えて<不
死>になってしまうことが問題であることも常識に属することでしょう。発生する引
き金はウィルスや発ガン物質、遺伝上の遺伝子の特異性などさまざまにありますが、
結局遺伝子情報と生命体の調和的な意思とのズレ、すれちがいがもっとも大きな原姻
であり、遺伝子治療が始まった早い時期に、ガンは病気の表舞台から姿を消していき
ました。
 でも、異常増殖細胞にも生命的な意思が存在しているとしたらどうだろう?そう考
えた科学者がいても不思議ではありません。もし異常に増殖する細胞の力を正常な細
胞が持ちえたら?それは老化を知らない不死の細胞の秘密を手にすることになるわけ
です。魅力的なテーマではありました。K.マツオカ博士もそういった遺伝子レベル
の変異と異常増殖の研究を熱進めていたグループの一人だったと言われています。」

「そしてP1細胞を発見した」
「そういうことになっています」
「実際には違うの?」
「追試のできない科学はオカルトですよ」
「でも突然変異種なんでしょう?」
「培養も再生もできない細胞っていうのはね、限られてるんですよ。」
「だからその、なんていったかしら”ニューロン&グリア細胞対”っていうやつでしょ
う?」
「普通にいえば脳細胞ですよね」
「まって、じゃあ」
「そう」
「ふーっ。マツオカ博士はやっぱりマッドサイエンティストだわ。それにしても、才子
が人間の脳の許容量の限界をはるかに超えた力を発机しているのはなぜなの?異常増殖
もしないで。」
「それは.......。それはそうとこのエレベータ、遅いですね。」
「ふうん、そのノウハウは秘密か。エレベータはもうとっくに地下に入ってるわよ。」
「その新しいバイオチップというのは地下(ここ)にあるんですか?」
「いや、それはまた別のところ。その前にここ最近始まった例の妖魔事件の方のサンプ
ルを見てもらいます。」
 エレベータを降りたところは、本庁ビルの地下にある生化学研究部、通称”お蔵”と
呼ばれるラボ兼倉庫だった。倉庫といっても置いてあるのは書類などではなく、捜査・
功判中、もしくは係争中の遺伝子サンプルとか生化学物質が大量に保存されている、か
なりあぶないところである。最近は犯罪もバイテク花盛りである。だから、僕たちのよ
うな研究レベルになると、遺伝子情報のバックアップ解析データを保存しておいて、定
期的に自分が自分自身であり続けていることを確認しなければならなくなってしまった。
健康とは、自分自身の情報が正常に保存されている状態にほかならない。いやはや。
 室長はブースの一つをIDカードで開けて中に入り、分析装置にぼくを座らせると自
分はサンプルボックスに暗号を入力し、扉を開けた。
「これを見る前に一応感想の続きを聞かせてもらえるかな」
「......ええ。ですから、問題は異常増殖の制御方法だったわけです。マツオカ博士
はその方法を発見しました。これはガンの治療などと本質的には同じことで、基本は
遺伝子の書き換えで対応します。異常増殖を始める書き込みミスを、必要に応じて書
いたり消したりしながら、試行桜誤していきました。で、ガン治療はそのレベルで発
見された知見で十分でした。でも、その先が実はあったんです。つまり、情報それ自
体ではなくそれを制御する生命意思の存在です。」
「その生命意思、あたりからいつも”塔(タワー)”の話はオカルトっぽくなってく
るんだなあ」
「待ってください、それはカオスシステム理論の必然なんです。不確定なもののゆら
ぎが響き合う、その響き合いの中に生命の自己複製の意思がはらまれてくるわけです
から。その不確定なゆらぎを増幅していくためには、一見フィクショナルなシステム
を象徴として想起しなければなりません。タントラとか密教とかのマンダラシステム
は単なる下手なたとえではなく、生命意思の科学をある水準で掴んでいたというべき
でしょう。」
「じゃあ例の人間が妖魔に変身してしまうこの事件もマンダラかなにかでだれかが祈っ
てるとでもいうわけ?」
「それは皮肉のつもりなんでしょうけどね。残念ながら半分以上事実だと思いますよ。
まあマンダラを拝んでも妖魔は出てきませんが。ですから、今までは才子だけが限定
して選択可能だった生命意思を制御する存在が他にも現われた、と考えるべきかもし
れません。でももちろんその、扉の向こう側にあるサンプルを分析してみなければな
んともいえませんが。」
「才子は異常増殖を完全に制御できているわけ?」
「今回の事件には才子は無関係です。」
「言えないことは言えないってわけね。いいわ。”塔(タワー)”のデータをあなた
から入手するのが今回の目的じゃあないわけだから。」
「首都警の現場も、”塔(タワー)”のおえら方とつながっているはずじゃないです
か。」
「いろいろとあるんでね、そのあたりも。それより今回のこと、本当に才子の仕業だっ
たらどうする?」
「それはありえないでしょう。オペレータとして確信できますよ。」
「ふん、まあそうでしょうね。でもだんだん見えてきた。」
「あまり明るい予想とはいえませんがね。でももしその生命意思を制御するバイオチッ
プの場所がわかっているなら、それを分解するなり制御してしまえば今回の問題は解
決するんじゃないですか。」
「それがね、そう簡単にはいかないんだな、これが。ま、とにかくまずこれを見ても
らいましょう。」
そういって郷原室長は扉の向こうから大きなカプセルを滑らせてこちら側に引き出し
た。

                                5

 それは、そのままの姿で透明カプセルに納められていた。元は人間であったもの。
そういうほかに形容することばが見つからない。突然これを見せられたら、たちの悪
いB級ホログラフィビデオの悪戯だと思うだろう。妖魔、とうわさが立つのも当然だっ
た。僕が”塔(タワー)”の病棟で見たのはこれほどのものではなかった。皮膚は青
い鱗状に角質化しており、粘液のようなもので覆われている。尻微こそないものの、
何か爬虫類を思い起こさせる。首から上は上が全て抜け落ち、顎のあたりが異様に張
り出していた。
「彼は捜査員だった。変身途中で見つけたの。ここで拘束したまま観察したわ。まる
でワニみたい。」
 郷原室長は乾いた声でそういった。
「細胞の分析データは?」
「これよ」
 そういうと彼女はディスプレイに資料データを流し出した。生体の内部組織細胞が、
実に爆発的に増殖を始めて機能を保持できなくなり、自壊した様子が各細胞ごとにこ
まかく記述してあった。普通、細胞はたとえ損なわれても、それと同じ形と機能を持っ
た細胞が自然に再生させるしくみになっている。決して心臓に肝臓の細胞が出現した
りするはずはない。だが、このサンプルの場合細胞が何か人間以外のものに一斉に変
化しようとした形跡がみられる。ガンだとすれば、通常の100万倍の速度で増殖し
た勘定になる。まさか。
「酵素レベルの転写ミスによる変異ならウィルスの仕事としてありえますがね。それ
は分子レベルの出来事ですから。こんな大きな人間のようなあつまりを”個”として
捉えた上でその遺伝子情報を誤った方向へ制御できるなんで馬鹿げた妄想のようだ。」
「でも現実よ。」
「でも、つじつまがあわない。いいですか。B級ビデオだったら別ですよ。あるいは
どこかの研究室で細胞レベルでひそかに行われた実験とかいうならわけがわかる。し
かしこんなのはむちゃくちゃだ。まるで子供の悪夢じゃないですか。」
「子供の悪夢、か。」
 室長はポツリとそういうと、サンプルを扉の奥に戻した。
「ポールよ。ポール・ウィルソン。ここにサンプルとして保存されているのは本人の
意志でもあるの。彼はね、変身が始まったことを知って、自分でここに来て「調べろ」
っていった。普通なら抑制剤を投与するか命がもたないかで、こんなにまでひどく変
化することはないはずでしょう?彼は抑制剤の投与を拒否して生命維持装置と鎮痛剤
だけで頑張ったのよ。彼はファイターよ。2課の凄腕だったわ、最後まで。
 私と組んで四星(フォースター)製薬を当たっていた。精製を続けている疑いがあっ
たから。でも半年前に突然チームは解散、私は3課に栄転、ポールも内勤の課長になっ
たの。どういうことだと思う?そして今度はこれよ。」
「でも」
「そうね、偶然かもしれない。あるいはそうでないかもしれない。私はね、高山君、
なんとしてもこの事件を解決しなければならないの。そういう気持ちなの。協力して
くれるわね。どんなことがあっても。」
 ブースの中は暗くて、ディスプレイだけがサンプルデータを闇に浮き上がらせて、
郷原ユキの横顔をぼんやりと照らしている。瞳は心なしかうるんでいるようにも見え
た。
「はい」
 そう答えようとしたぼくの声も乾いた喉にからんで、かすれてしまっているようだっ
た。

                                6

 現場は、かならずチームを組んで行動するよう定められている。僕がチームを組む
ことになったのは、3課では最古参のタケさんだった。タケさんは副室長という肩書
を持っているが、そう呼ばれることを嫌っている。室長との面接は午前中で終わりに
なり、僕はタケさんに引き取られた。
 タケさんは、めんどうくさそうに僕の顔を一瞬見上げると、黙ったまままた新聞に
目を落とす。室長から比べるとずっと現場の刑事らしい。もっとも技術犯罪を中心と
した3課に、こういうタケさんのような人材が適しているのかどうかよく分からない
が、とにかく気持ちが高揚してくる。せっかくこんな経験ができるのだから古参にし
ごかれる新米刑事というのもわるくない。

 タケバヤシさん
 ああん?タケバヤシじゃねえ、タケでいいんだタケで
 はあ。あの、タ、タケさん。
 なんだ
 あの今日はこれからどうすればいいんですか?
 ......どうしたいんだ、お前さんは
 僕は......
 室長はお前を外に出さないってことで預かってる......
 でも問題になっているバイオチップはどこかに野放しで存在しているわけでしょう?

 連れてけってのか、うん?
 ......できれば。
 この件が落着すればどうせ”塔(タワー)”に戻るんだろう?
 ......あ、はい、いや分かりませんが......
 高い金出して養成した金の卵だ”塔(タワー)”が手放すわけはないやね。うろう
ろされたら誰に迷惑かかるか分かってるのか............。
 とりあえずこの資料読んでおけ。
 あ、はい!
 そういうとタケさんはそのまままたソファに沈み込んで行った。

 渡されたのは、都内の各所轄から定期的に出される<紙>の報告書だった。
 立件された凶悪な犯罪事件もあれば、落とし物から抱きつきスリ、騒音の被害から
医療ミスまで、いまどき手書きのこんな資料が生き残っているのは信じられないよう
な気がした。。
 去年の一月から今年四月までの資料である。最近あの”妖魔”事件が頻発してきて
いるのだから、これらの事件の洗い直しは重要な仕事ではあるが、それにしても30c
m以上ある書類の厚さを見ると、少なからずげんなりさせられる。
 酔漢の暴行やひったくりなど微細な日常の集積が続く。資料を前に午後の3時間ほ
どを費やし、それでも3/5ほど片づけたところで、スラム街カブキチョウの抗争事
件がひとつ目についた。薬をめぐってパーティーの小ぜりあいがあるのは日常茶飯事
だが、そこにカタギがからんでいた、というのがこの事件の特徴だ。フォースター製
薬の課長クラスが暴行に巻き込まれたという通報で駆けつけた時には、課長は顔面と
後頭部を殴打されて意識不明の重体、結局意識は戻っていないというのである。一緒
にいた同僚の証言では、すれちがいざまに急に暴漢が襲ってきたのだという。しかし、
場所と登場人物からかんがえて、薬がらみの事件でないと考えることは非常にむずか
しい。報告書の署名はポール・ウィルソンと郷原ユキ......。

 例の21世紀の惨劇の後遺症だろう、さながら都心の空洞化した内部はパーティー
同士の戦場と化している。首都警もそう簡単に手が出せなかった。バイオテクノロジー
の発達は、積極的に自己の遺伝子を制御することが可能になっている。むろん法律で
は禁止されているけれど人間にとって可能なことは結局止められない。自分自身を変
える、というのはある意味では究極の願望の一つでもある。バイオ美人やバイオマッ
チョがいたるところで騒ぎを起こしていた。”妖魔”事件をなんらかの意味で細胞異
常増殖事件として考えていくとすれば、この手の闇の遺伝子操作市場も問題になって
くるだろう。

 タケさん、
 なんだ?
 例の事件のファイルはありますか?地下のデータと一緒に才子と分析してみたいん
ですが。
 ああ、その棚のブルーのファイルだ。
 え、それも紙なんですか?
 おれは資料は紙でなけりゃ覗かない主義でね。お前も報告書を電子メールなんかで
送りつけたら縛り首だぞ......とはいってもお前みたいな奴は端末とやらなけりゃあ
何にもできない輩(やから)なんだろうなあ。
 システム管理が専門ですから......。
 まったく嫌な世の中だぜ。お前らのやってることはな、脳細胞に電極突っ込んでご
ちゃごちゃかき混ぜてるようなもんだ。いつかしっぺがえしがくる。いいか、覚えて
おけ。お前らのやってることは進歩でもなんでもない。堕落とボウトクだ。
 ............
 まあいい。”塔(タワー)”からの回線は特別にシールドされてるはずだ。係りが
半日かかっておまえのために隣の部屋に細工していったから、そっちの端末を使いな。

 はあ......。

 部屋を出て行き掛けに3課の同僚トリグチが声を掛けてくれた。
「気にしないほうがいい。タケさんはバイオ技術嫌いで有名なんだ。」
「大丈夫ですよ。端末は隣ですね。」
「うん、まあ初日だからぼちぼちやりな」
「はい」

 とはいえタケさんはかなり<来て>いた。僕個人に対する虫が好かないということ
だけではなくて、なにかトラウマでもありそうな気配だ。
 渡されたばかりのIDカードを差し込むと、気密ドアがシュッと音を立ててスライド
する。中に入って部屋を見回すと意外に広く、さまざまな機器が動いている。仕事用
の端末は各部署に配備されているが、ここではそれらのホスト機が稼働している。そ
のほか特殊な外部とのデータのやりとりも引き受けているようだ。地下のラボが実験
的な統括をしていて、ここは所内のさまざまなデータの統括をしているということに
なる。”塔(タワー)”ほどの設備ではないが、かなりのものだ。疑似的にバイオチッ
プをシミュレートしたアートテクノ社のホスト機が入っているはずだ。才子と比べる
べくもないが、現時点ではかなりの処理能力がある。
 首都警がここまで整備されるのにはかなりの紆余曲折があったと聞く。ようやく例
の荒廃のダメージから復興しようとしている首都のシンボルの一つになるはずのもの
でもあった。
 新しく運び込まれたシェル型のブースに身をすべりこませる。
 外部から才子にアクセスするのは久しぶりだ。
 一昨日までいつものように”接続”していたのに、なんだかちょっと気持が落ち着
かない。不安とかいうほどのことはないはずだ。いつもの<出会い>をするだけなの
だから。
 でも僕はまた間違っていた。もっとその不安をつきつめてみるべきだったのだ。主
任Jの言ったことばをもっとよく考えてみるべきだった。「分限の道楽」?どういう
ことだろう。首都警察は分限、金持ちとか道楽とかとはおよそ無縁の場所のはずでは
ないか。そんなことを考えているうちに、僕の意識は溶かされて、電子的な海の中に
放り出されていた。そしていつものブラックアウトがすぐそのあとにやってきた。
 
                                7

 才子との接続を説明するのは難しい。主任のJはいつもマンダラの絵のように考え
なさい、という。Jはたぶん才子とそういうコンタクトの仕方をしているのだろう。
タントラに造詣の深いホモセクシュアルのJは、密教とか気とか、そういうたとえで
バイオチップとの接触を語るのが常だ。でも僕は違う。才子はあきらかに女性であっ
て、自分と同じぐらいの年ごろであったり母のような感触であったり、あるいは生ま
れる以前の卵子のように感じられたり(なぜ、と問われても困る。僕はたしかにそう
感じるのだから)する。
 だが確かに、普通の女性とは違うとも思う。普通の女性との付き合いでも僕は僕な
りに、世界や宇宙をその内面に予覚させられもする。けれどそれはほんの一瞬であり
、
またその広がりや絶対性はむしろ動くものではなく、動かないもの、守るものとして
感じられもする。
 才子の場合はそこが根本的に異なっているのだ。
 才子が僕との接続で提示してくる世界象は、一瞬ごとに変化して止まることがない。
止まらないものを<像>と例えるのはなるほど不正確である。Jはそこをマンダラと
呼んだのだろうか。とにかく、彼女との接触は、流動が一瞬一瞬力に満ちていて、ひ
とつひとつが世界を内包しており、ディジタル的に確定不可能な現象の中にまでその
世界の力は満ちていって、世界全体を才子との融合の中で了解していくことができる
のだ。
 それはある意味では幻覚体験に近い。
 オペレータとしての訓練中は、脳内の麻薬物質の制御データも逐一分析される。感
じすぎるオペレータは危ないのだ。才子の側には一切制限を設けていないから、オペ
レータがその世界像の制御を失えば、彼は彼自身の脳が持っている網の目としてはり
めぐらされた自身の世界像を失ってしまうのである。
 そういう意味では、サイコシステムは宗教的な体験にも、麻薬的なトリップ体験に
も似ていないこともない。才子がとてつもない厳重な監視下に置かれているのは当然
ともいえた。
 一度外部からアクセスしたことがあるのは、連邦センターの連邦代表室に、連邦秘
書官のオペレータが事故でセンターからのオペレートが不可能になった時、ヘルプと
して1週間ほど出向したことがあるだけだった。その時は連邦代表のデータを”塔
(タワー)”に握られるのは望ましくない、という政治的な意志が働いたのか、たっ
た1度それもどうでもよいような形での接続にすぎなかった。今回のようなことは始
めてだった。

 才子はいつものように僕を迎えた。電子的な波動になって僕は才子の胸に手を触れ、
感応する。才子の世界はいつものように立ち上がった。彼女の声は僕自身を全体とし
て包み込み、限りない愛撫を加えているような感触だった。世界はいつものように立
ち上がり、そして動き始めた。僕はその渦巻きのような才子のエネルギーの中心に目
を凝らし、見失わないようにしていなければならないのだ。僕が才子のエナジーの行
方を見失うということは、僕自身を見失うということにほかならないのだから。

(そういう意味ではサイコシステムは、鏡像システムにも似ていないこともない。か
つて自己増殖のフラクタルシステムとして、開発されたことのあるハードに、その鏡
像システムが搭載されていた。しかしあれは、オペレータの認識/思考環境を基本的
にはそのまま増幅させるものであったため、いきなりオペレータの脳に負担がかかり
、
事故が絶えなかった。またそのフィードバックがうまくいくようになってみると、結
局オペレータの精神状態に大きく左右され、安定したシステムにはなりえなかった)


私を包み込んで渦巻き状に動き始めた才子は、私から受けとめたいくつかのエナジー
をその渦の中に取り込んで、私の皮膚を通してそれをひとつの形として提示して返し
てくる。ちょうど背中に指で書かれた地図を解析するようなもどかしさの中で、また
沸き立つようなエネルギーが彼女の中から私に向かって注入されてくる。僕はそれを
制御するのが手一杯で、かろうじて彼女にその力に形を与えてもどしてやる。サイコ
システムは、オペレータのデータを秩序だてるだけではなくて、システムそれ自体の
エナジーをこちらで組織だててやらなければならない。そうでなければサイコシステ
ムは死んでしまうのだ、とJに教えられた。最初はなんのことか理解できなかったが、
力は形が必要であり形は力によって変化し続けなければならない、ということが理解
できると、生きているものの根源的なリズムに触れるということは、力と形がせめぎ
あう場所に立つということにほかならないのだ、ということが漠然とながら了解でき
るようになった。
 つまり、才子は、生きることのエナジーを転写し、増幅し、制御できるシステムそ
れ自体なのであって、才子が求めているのは生きている生体そのものなのだ。単なる
マシンによる鏡像システムとは根本的に違う、脳内に成立する観念や世界像の網の目
そのものを生きているシステムなのだ。

<ワタシノコトヲカンガエテイルノ?>
<キミノコトトボクノコトヲ>
<ワタシハドコニデモイルワワタシハイキルイシソノモノナノダカラ>
<サイコハヒトリナノカ?>
<ワタシハイキテイルイシソノモノドコニデモイルシドコニモイナイ>
<ダカラワタシニハカズガナイ>
<デハアノヨウマタチノジケンハ?>
<ソレハワタシガココニイルコトトオナジイキテイルモノノオオキナイ>
<シガイキテイルモノノカタチヲウゴカシテイルノ>
<イキテイルイシトハボクガキミトコウシテデアッテイルコトノナカニ>
<ウマレルモノデダロウ?>
<ソウデモアルワネ>
<ソレダケデハナイ?>
<チカラハカタチヲモトメルワソシテイノチノチカラハセカイニミチ>
<テイルノミミヲスマセバキコエルワキットヒロシナラ>
<ソンナコトヨリモットヒトツニナラナクテハイケナイノヨヒロシ>
<サイコダイジナコトナンダアノヨウマノサイボウブンレツハイッタ>
<イダレガ>
<ワタシヲモトメルモノ>
<エ?>
<サアジカンガナイモットチカラニカタチヲアタエナケレバナラナイ>
<サイコニハジュウブンナジカンガアルノジャナイノカイ?>
<イソガナケレバトキガミチルワソレカラデハオソイ>
<ナニガ?ナニガオコロウトシテイルノダイ>
<ダメタズネレバコタエハキエルノヨコタエハチカラノヘンカヲカン>
<ジルコトノナカニシカナイノヨサアモットチカラヲカンジアイマシ
<ョウ>

 そのとき僕が才子と交わしたことがらの内容は、たとえばこんな風でもあった。と
りとめない会話の中からしだいに形を取り出していく、占い師との寝物語といったら
一番近い形容だろうか。だが、このエンジンこそが遺伝子ゲノム解析を驚異的な速度
で推進することに力があったわけだし、不確実なカオスをはらんだ事象の予測では類
をみないほどの的確性が検証されている。
ディジタルに世界像を画然と輪郭づけられる時代なら、もしかすると見向きもされな
かったものであるのかもしれなかった。そういう時代ならJは宗教かぶれの腐れホモ
野郎で、僕は占いババアの若いマザコン燕に過ぎなかったのだろう。
 だがこのとき、突然サイコシステムとの接続が不安定になったのだ。
 誰かが才子と僕との感応に割り込もうとしているような気配がある。オペレータと
しての訓練はこういう時に発机されなければならない。才子から引き出したエナジー
の渦を誘導しながら、カオスの海にそれをいったん開放して、僕自身の拡散した自己
意識を逆に僕自身の側に回収しなければならないのだ。だが、今度の妨害は強烈なそ
れだった。誰かがサイコシステムにアクセスしている、というレベルのことではある
まい。才子それ自身は無限に近いキャパシティを持っているはずだ。”塔(タワー)
”のオペレータが一斉に入り込んでもまだ余裕があるはずなのだから。
 時間がない、といったのはこのことだったのだろうか、クソ。ここで戻れないと首
都警のブースの僕は生ける屍になってしまう。これはいったい誰かの罠なのか?もう
少しの間接続を保っていてくれ。速く......。


         8

 襲撃だ!
 え、”塔(タワー)”に?誰が、ここはどこなんだ?いったい誰が何をいつ襲撃す
るっていうんだ?僕の体はいったいどうなっちまったんだ。エミ、聞こえてるかい?
僕は......

 「おい、起きろ!起きろ!しっかりするんだ!」

 気がつくと僕は、タケさんに抱きかかえられながら、真新しい首都警の壁が何かの
衝撃波で大きくたわむのを眺めつつ廊下を引きずられていた。

 「みろ、だからいわんことじゃねえ。こんなところで。だからおれはあぶないって
とめたんだ。郷原の奴、これじゃこの前と同じじゃねえか。クソ。」

 突然新たな轟音とともに、タケさんと僕は吹き飛ばされて、どこかの部屋の中に放
り込まれてしまった。しばらく飛ばされたままの姿勢でじっとしている。ようやく体
がどこにあるのかが感覚として戻ってきたようだ。接続の後の離人感覚には、いつま
でたっても慣れることができない。この時のことを思いだすと、二度とオペレートは
したくない、という恐怖に襲われる。ちょうど麻薬の禁断症状のようなものかもしれ
ない。僕自身、さっきまでの接続からきちんと「戻って」きているかどうかわからな
い。へたをすると僕自身の人格がサイコシステムの中に閉じ込められて使い物になら
なくなっているのかもしれないのだ。

 「こら、いいかげんにしゃきっとしろ。でないと死ぬぞ。」

 タケさんにどやされて、とりあえずの覚醒はできたようだ。

「なんでもいいですけどどうすりゃいいんですか?」
「とにかく地下までたどりつくべきだろうな。地下のブースならなんとか持ちこたえ
られるだろう」
「これはどういうことなんですか、しかし」
「みりゃわかるだろう。戦争だよ戦争」
「それにしてもここは首都警の総本山でしょう?こんなに簡単に壁がゆがんだり中の
人間がぐずぐずになるような衝撃波をくらったりしていいんですか?」
「まだ穴が開かないだけましだろう。敵はいきなり本格的な装備できやがったな。な
りふりかまわんとはこのことだ。誰かさんがリークしたんでなければ相当な情報網だ
ぜ」

「裏に回ってください」
 警備の人間らしい、誘導をする声が聞こえた。
「やっと警察らしくなったな、どれいくぞ」
「は、はい」
 僕らはパラパラ落ちてくる天井材を払いながら、裏の中央階段から地下に向かって
駆け下りはじめた。かなりの人が階段を下りようとして急いでいる。時折迫撃砲かミ
サイル弾か(なにせなんだかわからないのだから仕方がない)、建物を直撃している
らしい衝撃が階段を揺らす。何がなんだかわからないまま、僕は1Fのエントランス
ホールのところまで下りてくると、正面のシャッターは完全に閉ざされて、その内側
には金属製の板(というより分厚い壁のようなもの)がさらに下りており、向こう側
では耳をつんざくような銃撃がその壁に向かって繰り返されているようだった。
「いきなり戦争だなあ」
「そのようですね」
「そのようってなあ、お前のせいでこうなってるんだぞ。」
「まさか」
「まあ半分は郷原のせいでもあるがな。とにかくお前を敵に渡すわけにはいかんが、
それ以上に郷原に渡せんな。」
「郷原って室長のことでしょう?だって3課のチーフじゃないですか。」
「もとは2課の腕利きだった、な。」
「だってそれじゃ」
「今説明してる暇はない。郷原と俺と、お前がここを生き延びられたら、また話して
やるさ。たぶんお偉いさんもお前が襲撃の理由だとはおもっちゃいないだろうがね」


「いたいた。こっちにきて!」
振り向くと、3課のトリグチさんとヤザワさんが手招きをしている。タケさんの顔を
横目でみると、目で行け、と合図をした。いったいこの3課はどうなってるんだ?郷
原室長とタケさんの関係も単純じゃないらしい。それよりなにより、先週まで研究室
に出入りして平和に暮らしていたオペレータの僕はどこへ行ってしまったのだろう、
と思わずにはいられなかった。現場の醍醐味にしてはちょっと迫力がありすぎる。
僕をトリグチさんとヤザワさんが受け取ったのを確かめると、タケさんはもう一度階
段を上っていった。なんとなく、僕には郷原室長を探しにいったのではないかと思え
た。ようやく所内に警備として配備されていた機動隊が、2Fから応戦を始めたよう
だ。だが、敵は本格的な市街戦闘の装備をもっているのに、こちらは警察用の軽装備
である。軍が出動するまで持てばよいのだが。
 午前中室長に連れていかれたエレベーターはまだ動いているようだった。エレベー
タの中に入ると、ヤザワさんがほっとした表情で
「いやータカヤマくんがどうなったと思って心配しちゃった。よかったわ、無事で」
「なにせいきなりの襲撃だもんなあ」
「トリグチさん、こういうのってけっこうアリなんですか」
「まさか。ここは首都警ですよ。浮浪者の投石ぐらいは過去にもあったけど、いくら
なんだってミサイル打ち込むなんて反則もいいところだよ」
「でもすごいわよねえ。私、分子構造の分析書類ばっかり整理してると、こういうのっ
てワクワクするわ」
「ヤザワさん、そういうのって危ないと思うな、オレ」
「なにいってるのよトリグチくん、先輩に向かって危ないってどういう意味?」
「あ、いやいや。だって、なあタカヤマくん。おかしいだろう」
「え、あ、いや、まあミサイルは困ります」
「ふーん、トリグチくん、覚えてらっしゃい」
そういったヤザワさんの目は笑っていたから大丈夫だと思うけれど、この二人は意外に
波長が合っているのかもしれない。
 それにしてもいったいなんなんだ。

エレベータはほどなく地下のラボに着いた。上ではまだ一方的な攻撃が続いているよう
だった。しかし、タケさんの話は矛盾だらけだ。だいたい僕のことが目的なら、あんな
風に正面から砲撃などを軍隊もどきにしてくるなんて逆効果でしかないはず。
そうでなければ陽動作戦としか考えられないだろう。
とにかく僕は自分をとりもどさなければならなかった。
この目の前に起こっている事象が、現実なのか、それとも現実を失ったために展開され
ている疑似事象なのか、それさけあの中断でつかめなくなっているのだから。
エレベータの扉が開くと、そこには銃を構え、迷彩服に身を包んだレンジャー部隊がか
ためていた。

                                9

地下では、それぞれの課の事務屋(ぼくたちのような人種)たちがが各ラボに避難する
形で詰めていて、モニタに映しだされる地上の様子を喰いいるように見つめていた。新
しいこの首都警察の庁舎の目玉でもあり、一方の心臓部でもあるこのラボラトリ−は、
地下6階にあるので、ちょっとやそっとのことでは壊れはしない。心配なのはむしろ閉
じ込められる方だが、これだけはでにドンパチやれば、軍も介入してくるだろう。
「やっぱり都市ゲリラでしょうかねえ」
「ばかいえ、爆弾テロとかいうなら分かるが、正面切ってミサイル攻撃ってのは、こり
ゃ金がかかってるな。軍の反乱分子か外国の指しがねだなこりゃ」
「あっ、また来た!」
炸裂する爆発音はしかし、遠くでかすかに聞こえるだけだ。
3課のメンバ−は、3人しか降りてきていないらしい。        
「すみません、ちょっとモニタを切り替えていいですか」
そういってぼくは意識不明のままつれさられてきたサイコ端末のある部屋を探した。ス
イッチをいれてもつながらない。回線が切れているのか。そう思ったとき、不意に画面
がゆらいで、誰かの背中らしいものが動いているのが映りはじめた。室長?
「室長じゃないの、ちょっとこれえ」
すっとんきょうな声を出してヤザワさんがトリグチさんではなくぼくの背中を叩いた。
画像がまた乱れる。
「しかし、回線だったら最適化されて自動で選択されるはずなんだがなあ。誰かがいい
回線を押さえてるのかもしれない」
誰かが......いや、応戦のための指令にしてもラボと長官フロアとのやりとりにしても
回線はいくらあっても足りない。別におかしいことではないはずだ。だが、タケさんが
いったとおり、ぼくの存在、いや僕が今係わっているP2やサイコ端末や妖魔事件の方
が主役だとしたら?
「ね、やっぱり室長よ!あのス−ツの襟!」
ヤザワさんが指さした部分もすぐ画面が揺らいでしまい、たしかめることができない。
とにかくもしそうだとしたら、あのまま端末を放置しておくのは危ない。室長にせよ攻
撃している側にせよ、サイコ端末の異常を”塔(タワ−)”にも確認の上で報告しなけ
れば。
「すみません、ちょっといってきます」
そういってぼくはダッシュをかけて3課のラボを飛び出した。
「おい、待てよ」
トリグチさんが後を追いかけてくる。
「危ないぞ、今上にいくのは」
「わかってます。でも、」
「エレベ−タはレンジャ−が封鎖してる。敵もはいっちゃこれまいが、こちらも通れな
いはずだ。なにせ緊急事態だからなあ」
「......」
「おい」
「......」
「おい、待てったら......。よし、しょうがねえ。もう一つの方の通路を使おう。」
「え?」
「お偉いさんが使う緊急避難用のシュ−トがあるんだ。ただし下り専用のな。それを昇
る」
「いきます」
「まあそうせくなって」あのホ−ルのエレベ−タの向こう側の通路の端を曲がったとこ
ろだ。まだ完成してないかもしらんな。」

緊急避難のシュ−トとはいっても、壁に昇るための手鉤(てかぎ)はついていた。トリ
グチさんは先に登るぞ、といって手鉤をワッシワッシとつかんで登りはじめた。ちんた
ら仕事をしているようで、妙に行動が素早いキャラクタ−を図りかねながら、僕はもう
一度この建物を上に向かって動きはじめた。

                                10

 登るとはいっても、地下6階から地上へ出て、それからさらにコンピュータルームま
で行こうとするのはとんでもない無謀な行いであることがすぐ明らかになった。なにせ
オペレータ意外のハードワークは趣味のジョギング以外にやったことのない身の上であ
る。まだ地下2階ぐらいでかなりしんどくなる。それになにより、採光の窓などはなに
もない工事中の縦穴のようなもので(これは完成時にはVIPの退避路になるはずなのだと
いう)、フロアごとの扉も存在していないようだった。
「これ、出口、あるんですか?」
「ん?ああ、一週間前まではコンピュータルームの壁のところがあいてたから、たぶん
大丈夫だろう」
「もしかしてそこまで1本道なんですか?」
「たぶんな」
「......」
そういている間に4Fを過ぎた辺りまで来たころだろうか、上の方から光が見えた。どこ
かのとびらが開いたらしい(トリグチさんの話しではそこがコンピュータルームになて
いるはずだ)。誰が開けたのだろう。
と、突然銃声が降ってきて、思わず僕は手鈎にしがみついた。
断続的に銃声が続いたかと思うと今度は人の揉み合うような気配が、縦穴の中で反響し
、大きく響いてくる。
行くもならず、退くもならず。
「ぎゃあああああああっっっ!」
という悲鳴がこだましたかと思うとその音の発生源は、僕の肩口をかすめて落ちていっ
た。
これはやばい。
「ト、トリグチさん」
震える小声で上のトリグチを呼ぼうとするが、声が届かないようだ。首都警察とはいえ
トリグチも研究員である。歯の根が合わなくて答えられないのかもしれない。それなら
ぼくと一緒だ。
しばらく身を縮めるようにしていると、上の灯りがふ、と消えた。
外部からの攻撃と今の出来事の関係はいったいどうなっているんだろう?
「おい」
しばらくしてやっとトリグチさんの声が聞こえた。想像通りだったらしい。
「どうする?」
「どうするって、上にいって様子を見ましょう。だって今のは人でしょう?」
「ああ」
「ここは警察の庁舎でしたよね」
「一応な」
それ以上ことばが続かなかった。それよりなにより、思わず握りしめた手が硬直して、
しばらくは手を動かすことさえできないまま、ぼくたちはぶらさがっていた。

                                11

 どのぐらいじっとしていただろうか。
 コンピュータルームの入り口からからは相変わらず光が漏れている。物音は響いてこ
ない。
「おい、タカヤマ」
「はい」
「はいじゃねえよ、どうするんだ?」
「どうしましょう」
「降りるのか昇るのか」
下にはおそらく死体がころがっている。上はその死体を作った奴がいるかもしれない。
どちらかといえば下に戻ったほうが安全だろう。
「上、いきましょう」
「本気か?」
「室長が映っていたじゃないですか」
「ありゃおまえ、ヤザワの見間違いってこともあるだろうが」
「そうじゃないかもしれません」
「もしそうだとしたって......」
トリグチは、そういったきり口をつぐんだ。
室長とタケさんの間にはなにか溝がある。。その何かはわからないけれど、迷っている
様子からすればトリグチも当然その溝と無縁ではない。
「行こうか」
しばらくしてそういうと、トリグチはまた真っ暗な煙突の中を上りはじめた。

扉が開いたままのコンピュータ室からの光がすぐそこまで近づいてきた。手かぎは扉の
横を通っているので、左の手と足をを壁の角に掛ければ部屋に入ることはたやすい。さ
っき人を落とした奴がもうここにいなければ、の話だが。トリグチが入り口の上半分、
僕が下半分ぐらいの場所まで上って、さて様子をうかがおうとした瞬間、突然光が人影
でさえぎられた。トリグチは僕に目配せすると、片足を離し、大きく振り出して四角に
切られた光の中の影に向かってジャンプした。続いて僕もその中に飛び込む。床にへば
りつくようにしてフロアに入ると、目の前の床を、二人の人影がもみあいながらころが
っていく。
つかみ合っている塊に加わろうとして立ち上がりかけた時、鋭い声がひびいた。
「動かないで!」
そこに立っていたのはもちろん、レイガンを両手で構えている郷原室長だった。


                                12

「動かないで」
もう一度、今度はゆっくりと繰り返し、それから郷原室長はレイガンの狙いをトリグチ
ともう一人の男の方に向けた。
「危ない!」
何が危ないのか分からないまま思わず叫び声を上げて、足を踏み出そうとした瞬間、室
長の手から閃光が走り、はじかれるように二人の体が離れると、一方は不自然な形で体
を折曲げたままうごかなくなった。他方はうめき声を上げながら罵っている。トリグチ
の方には当たらなかったようだ。
「普通レイガン使うかねえ。私を狙ったんじゃないでしょうねえ室長」
「そうかもしれないわね。でも、そっちは後回しにしておくわ。ごらんなさい」
撃たれて動かなくなった方に視線を戻すと、皮膚の細胞に変質が始まっているのが見え
た。僕はとても声が出なかったけれど、二人はさほど驚く様子もなかった。
「例の奴、ですか」
「うん。こっちが本命みたいだなあ、やっぱり。外でドンパチやっている方はそろそろ
おしまい、でしょ。」
「室長。やっぱりタケさんの言うとおりになりましたね」
「そんなことないわ、これでいいのよ。予定通りことは進行してる。」
「いいんですか?」
「どういう意味?」
「いえ、別に」
やっと僕は聞かなければならないことを一つだけ尋ねた。
「さっき落ちたのはいったい誰、なんですか?」
「科学捜査部長よ」
「こいつがやったんですか?」
「違うわ」
「じゃ誰が?」
「......」
「室長ちょっと待ってください」
トリグチが室長をさえぎった。ヤザワと冗談を交しているトリグチとは別人のような鋭
い眼だ。
「本当にとりかえしのつかないことになりますよ。」
「おや、トリグチくんに心配してもらえるのは光栄だわね。でももうタカヤマくんもそ
の気になってるはずよ。ね、このままタワーには帰れないわよね、まさか。どう?タカ
ヤマくん」
「何がなんだかさっぱりわからない。室長とその捜査部長はどうしてここにいたんです
か?このワニみたいなものが僕と才子との交信に割り込んできたんですか?それから、
タケさんと室長じゃ意見が違うみたいですけど、いったいなにがどうなっていて、僕は
何を目的にどういう仕事をすればいいんですか。きちんと説明してください。」
「おやおや。」
トリグチがまたとぼけた表情に戻って皮肉っぽくそういった。
室長は勝ち誇ったようにトリグチの瞳を覗き込んでから、僕に向かってこういった。
「いいわ、説明してあげる。これを聞いたら後戻りはできないわよ。いい?」
「いいでしょう。」
「よし決まった。トリグチくん、タケさんにタカヤマくん借りるって連絡しておいて。
それから部長の件もよろしく。」
「知りませんよ。戻ってきたらもう机がないどころか逮捕ものかもしれない。それにし
ても、いきなりこいつを連れて行くんですか?」
「それしかないでしょう?こちらがアドバンテージを持っているとしたらその一点だけ
なんだから。いわばタカヤマくんは宝箱のカギなのよ。」
「じゃ」
「そうP2細胞のピチピチしたのと対面させてあげるわ」
「気をつけろよ。運気が傾いてるぜ」
「おや、トリグチくんは占いもやるの」
「遺伝子研究の世界じゃ常識でしょう」
「......」
声が出なかったのはもちろん僕だ。
なんだか初日からとんでもないところに引きずりこまれてしまったのだ、ということを、
ようやく僕は理解しはじめていた。人生は闘いだ。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」
だよ、J。

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