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  「猫見酒」

 小学校の頃の記憶、といえば、もう四半世紀も前の勘定になる。
 四半世紀!
 25年といえば途方もなく大量な時間だ。
 僕自身は決して思い出を大切にするタイプの人間ではないし、かといって抑圧しなければならないほどドラマチックな過去を持っているわけではないと思う。どちらかといえば過ぎ去ったことは終わったこと、として忘れてしまい、新たに展開されていく現在と近未来にリアリティの中心を置こうとする気持ちが強い。だから、思い出話とか、あの頃のこんなこと知ってる?的な会話には正直苦痛を感じる方だと思う。いや、だった、というべきかもしれない。
 考えてみると、いつもは過去のことなどすっかり忘れていられるからこそ、日常の生活を無事に送っていられるけれど、いったん蛇口をひねるように、思い出の栓を開けてしまったら、これはもう収拾がつかなくだろう。
 たぶん記憶というものは、決して失われることがないのだ、と、今はそう考えるようになった。変形し、ゆがめられ、傷つき、あるいは美化されながらも、記憶は深く暗い淵にひとつひとつ封印されたまま沈められているだけのことなのではないか。そしてそれらは記憶の淵の奥底で互に響き合いながら、一つの確かな世界を作り上げているのではないか?そしてさらにその淵が記憶の珠で満たされた時、一斉に虚空に向って花火のように弾け飛び、現実に生活している僕たちに向って反攻を開始するのではないか?
 三十代も半ばになり、少なくても今までの前半生のように前だけを見て歩いていくことはできないのではないか?誕生した時から限りなく遠い地点まで来て、そこを折返しとしてちょうど閉じた宇宙モデルが時間を逆行させてビッグクランチに向うように、記憶の原点に向って後半生はあるいていくことになるのではないか?
 そんな疑問に初めて出会ったのは、連休明け、五月の中旬のある日の夕方のことだった。

              ☆☆

 小さな鳥居を通り越したところで車を止めてもらう。「飲み過ぎないで下さいよ」という同僚の声に手を上げて答え、ドアを湿る。手が離れると同時にタイヤを軽く軋ませて発進し、勢いよくガードの下へ滑り下りてゆく同僚のピックアップトラックをしばらく目で追ってから、ゆっくりと鳥居の奥に目を凝らすと、もう夕暮の空気は参道の石畳と半ば溶け合って、ゆっくりと柔らかい闇を産み出そうとしていた。この道は参道であると同時に、生活道路にもなっているようなのだが、一段高くなったその道の両側には背の高い杉が並んでいて、傾いた陽光を遮りながら、湿った空気の通路を守っている。
 一方、路地の東側、杉並木の向う、緑白色に塗られた金網フェンスの先に広がっている小学校の校庭は、まだ大きなオレンジ色の暖気を名残惜しそうに抱え込んだままだ。その校庭の東南の角、鳥居のあるのが西南だから、表通りに面した反対側、ということになるのだが、そこにとんでもなく大きな欅の木が、枝の上半分に夕陽を受けて光っているのに気がついた。
 なんとはなしにその欅の木の根元に行ってみたくなり、トラックの走り去った方に向って歩き始める。すぐに生徒の通用門があったのでそこから校庭の中に足を踏み入れた。不思議なもので、いつもフェンスの向う側から見ていたこの小学校は、ついこの間引越してきたばかりの町の、見慣れない風景の一つにすぎなかったのだが、一旦校庭の中に入ってみると、なぜか懐かしい気分になってくる。敷地の北側に校舎があって、南側のフェンス沿いには半分土に埋った飛び馬用のタイヤや鉄棒、それにジャングルジムや砂場が並んでいる。まるで二十年前の自分が通っていた学校のような錯覚に陥りそうだ。もちろん、あの頃の校舎は木造2階建てで、こんなきれいな鉄筋三階建てとは似ても似つかぬものだったし、プールもこの学校のような循環式のものではなく、場所も東側の丁度今欅の木のあるあたりのところにあったはずだ。運動が全般に苦手だった僕は、水泳だけは人並みにできたせいか、プールの時間が楽しみだった……。
 ふと目を凝らすと、東端の欅の木の下近くに、白い雪でできたカマクラのような半球状のものが見えてきた。そう、例のあれ、である。最近は昔ほど見なくなったが、それでも小学校の校庭にはかなりの確率で存在していた白いオブジェのようなコンクリートの遊具が、この小学校にもまだ存在していたのだ。
 その滑り台つきの白いカマクラ的オブジェに向って歩き出しながら、ふと後ろを振り向くと、杉並木囲まれた参道は、もうすっかり闇に隠れようとしている。街灯がもう点灯しているのだが、いかにも頼りない。その参道を奥まで行き、神社に突き当ったところを左折してしばらくいくと、今日飲み会に誘われた長谷部さんの家があるはずだったが、これもまた奇妙な酒飲みになりそうな気配だった。


           ☆☆☆

 「猫見酒、ですかあ?」
 「そ、面白いでしょ、ねエ」
 「猫を見ながらって、花見とか月見とか、そういうノリで猫見で一杯……」
 「そうそう、理解が早いわねえ、真島さんは」
 「それってまさか化け猫、とか」
 「フォッフォッ、うちの隣はお墓なんだけどね、実際。でも今回は違うの。アメリカンショートヘア、クラシックシルバードビーって知ってる?」
 「……」
 「知らないか、やっぱり。でも今流行りの猫の種類なのヨ」
 僕と長谷部さんの会話に呆れたのか、平河さんがまぜっかえした。
 「猫に流行りなんてあるのかい」
 「ま、失礼しちゃうねえ。これだから素人さんは困るんですよ。あの犬だってシベリアン・ハスキーって今すごく人気があるでしょ?あれと同じ」
 長谷部さんは営業なんだけれど、よく総務に来て、こうしてお茶を飲んで行く。ちょっと話し方はオカマっぽい。でも、若いころはヤクザとも渡り合ったという噂もあるし、女の子にはかなりもてたらしい。なんだか奇妙な話術で場をへんに盛り上げてしまうオーラがある人だ。
 そんな話をしている間に、ひやかしていた平河さん、それに黙って聞き流していたはずの本山次長まで猫見酒につきあうはめになっていたのだ。
 「高いのよオ、ホント。一匹十三万円はするんだから」
 「十三万?!」
 「で、ほら、一匹だけじゃかわいそうでしょう」
 「でも手術しちゃうんじゃないんですか?」
 「んなばかなあ。血統書付きなんだからそんなことしませんよ。つがいで買って恋人同士にしてあげないと。」
 「じゃあ13かける2で二十六万。本当ですかあ?」
 「そーゆーこと。どう?見てみたい気持ちになったでしょう?」

           ☆☆☆☆

 校庭には、もう小学生は一人も残っていない。用務員さんも宿直の先生もいなくなって久しい夜の校舎は、ひっそりと静まりかえったまま暗い鏡のような窓を張り巡らして、校庭に残っている子供たちの気配を押戻そうとしているかのようだ。
 僕が小学生の頃は、丁度今頃の時間帯、校庭の上空を舞うこうもりを捉えようと帽子を空に投げ上げていたものだ。こうもりを二つ三つと捕まえていくうちに、友達が一人二人と帰って行く。淋しいような、ほっとして自分も家に帰れるといったような、複雑な空気の味がしたような記憶がある。もっとも、今はまた違った子供たちの生活のサイクルがあるに違いなかった。塾や剣道、空手に習字、ピアノにそろばん、スイミングと、かつて学校に集まっていた子供たちの濃密なエナジーは、今はさまざまな場所にきっちりと配分されてしまっている。学校が面白くない場所になってしまっているのも当然かもしれなかった。この白いカマクラオブジェだって、昔はもう少し……。

いた。

 たった一人、自転車をカマクラに立てかけて、滑り台になっている象の鼻のような部分の陰に腰を下ろして、ぼんやりと欅の木も見上げている古風な小学生が。たぶん4、5年生ぐらいだろう。イモくさい制服やお仕着せのジャージなど着ていない、普通の半ズボンとTシャツの、やせた、目の大きな少年だった。
「こんばんは」
「……」
「一人?」
「……」
「ここの学校の子?」
「……」
 少年は黙ったまま答えようともしない。というか、僕の方に目を向けてさえいないようだった。少年の視線を追って欅の木を見上げると、梢が風に揺れているのがかろうじてわかる。だが、さわさわという葉ずれの音はカマクラオブジェと少年、それに僕を確実にしかも豊かに包み込んで響いていた。今はもうかすかに残っているにすぎない校庭のオレンジ色の暖かさの球体と、その葉ずれの音は、響き合いながら互いに上下に揺れているかのようにも思われる。僕は少年の横にしゃがみこんでもう一度声をかけた。
「何を見てるの?」
「木と☆」
「え」
 そう言われてみると、もう空には☆が見え始めている。
「星は好きかい?」
「天文クラブなんだ。」
「そうか。おじさんも昔はそうだったんだよ。今日は夜まで観測かい?」
「……」
 少年はまた黙る。
 横顔を見ると、なんだか幼い頃の自分に似ているようでもあり、小2の息子が少し大きくなったようでもある。もう一度少年の見上げている方向を見ようと立上がりながら首を上に向けると、急に辺りが暗転したようにすっと闇が視界を襲い、何も見えなくなってしまった。

           ☆☆☆☆☆

「僕はね」
 と少年は突然堰を切ったように喋りはじめた。
「おじさんみたいな人をよく知ってるよ。僕はおじさんみたいには絶対なりたくなかったんだよ。嘘ばかりついて、互いに嘘付きだからってお互いの嘘を認め合って、あいまいに頷き合うだけの毎日を送って。それはさ、おじさんたちが弱いからだよ。弱い者同士がさ、なんか馴れ合ってるだけじゃないか。」
「おじさん、か。僕もたぶん君のことをよく知ってるよ。体育が苦手で、野球が嫌いで、でも友達に誘われると断れなくて9番ライトで出場したりして。試合の時には仮病を使って休んだりしたこともあるかもしれない。好きな子がいるのに、いつも素直になれなくて結局軽蔑されてばかりで」
「おじさん、それ僕のことじゃなくて自分のことを言ってるんだろう?たまんないなあ。それ。僕はさ、理科が得意なんだ。この前月が自転してるかしてないか、っていうので天体クラブの六年生と言い争いになったんだよ。六年生は「月は自転していない。なぜなら地球に同じ面を向けてるから」っていうんだ。少なくても地球に対しては自転してないって。でもさ、考えてみてよ、その月自体が地球の回りを回っているわけでしょう?月が公転しているその中心である地球に対して同じ面を向けるっていうのは、絶対自転してなきゃいけないよね。うまく説明できないけどさ。向うは説明がうまいから、言い負かされそうになったけど、泣かなかった。だけど、同じクラブに好きな同級生の女の子がいてね、その子に慰められた時には泣いちゃったんだ。その子は先輩の方が正しいと思ってるわけ。でも、僕が必死に抗弁しているのがいじらしいっていうか、かわいそうになったんだろうね、”そのうち分かるようになるわ、だいじょうぶ”とかいわれたわけ。わかる?おじさん。自分が正しいと思ってるのに慰められちゃったりすると、もうこれはどうしようもないんだよね。”それでも月は回る”とかさ、妙に孤独に盛り上がっちゃう辛い闘いになっちゃうわけ。女の子相手にしてね。でもそれはさ、おじさんみたいになるために頑張ってたんじゃないと思うんだなあ」
「”それでも月は回る”か。なるほどねえ。でもさあ、その正しさっていうのがくせ者なんじゃない?小学生の君にこんなことをいうのはヘンかもしらんけど、正しくったってしょーがねーや、ってことが世の中には沢山あるっていうかさ」
「それ、どういう意味?」
「たとえばさ、君がお母さんに”勉強しなさい”とか”宿題をやらないと”とか言われた時にさ、いくらそれが正しくたって心に入っていかなきゃ何にもならないってことが実際あるわけじゃない?まあこの場合お母さんにも半分責任はあるわけだけど、とにかく正しさっていうのはさ、人の心を動かすとは限らないでしょう。君はさ、その正しさから身を引き起こして、もっと間違ってもいいから自由にやったほうが幸せになれるんじゃないかなあ。」
「嘘つき!」
「え?」
「それはね、もともと”勉強しなさい”がそもそも正しくないから駄目なの。大人はさ
、すぐそういう間違ったことを前提にして話を進めるからヤなんだよ。お互いにルールを勝手に決めておいて、利益を配分できるとなるとすぐに正しいことんてどこかに捨ててしまうんだもの。」
「じゃあさ、おじさんも本気でいわせてもらうよ。そんな風に正しくばっかり生きていけると思う?もしいつも自分は正しい道を歩いていられる、なんて思ったらそりゃもう偽善、なんじゃないかな。何が正しいのか?何が最良なのか?っていう問の立て方そのものが、最良の選択行為を排除する場合だってあるんじゃないか、ってこと。君はきっと不安だから、淋しいから正しさにしがみついているだけのことじゃないのかい?わがままが言えなくておびえているから、正解を探して必死に立回っているんじゃないのかい?不安を押し隠すために”それでも月は回る”ってさ、呪文のように唱えてさ。」
「冗談じゃないよ!」
「じゃ、君、好きな子はいる?」
「……ああ」
「名前は?」
「……」
「そうか、まあいいや。好きだってちゃんと言ったかい?」
「そんなこと言えるわけないじゃない」
「どうして」
「恥かしいもん」
「違うな。自分をかばって守ろうとしてるだけだよ」
「ふん、小学生相手に分かったようなことをいってりゃいいよ。僕はさ、小学生なりに今リアルタイムで生きて悩んでるんだよ。おじさんみたいにもう厚顔無恥になってるわけじゃないんだから」
「おじさんだってリアルタイムで生きて悩んでるさ」
「だったら余計にそんな人のこと言えないでしょうが」
「うん、そりゃそうだ」
「あれ、もう妥協するんだ。やっぱりその程度なんだねえ」
「……。かわいくないガキだなあ。でも、ごまかしじゃなくてさ、いろいろあるなあってこと。とにかくさ、人が物事を考え、感じ、成し遂げていく基準ていうのはさ、正しさや恥かしさだけじゃなくて沢山あるんだってことだよ。」
「なにそれ」
「たとえばさ、”それでも地球は回る”っていうガリレオジュニアがさ、普通の女の子に好きだって一言いえないのもまた楽しいってこと」
「他人事だと思って……」
「いやいや他人事じゃないよ。正しいことと正直なことって、一度に両方はなかなか言えないもんさ」
「……。なぜ女の子なんか好きになるんだろうね。」
「そうだなあ。難しくておじさんも未だに分からないなあ。でもさ、騙されたって恥をかいたって、遠いお月様に対して正直になるよりは、目の前の女の子と自分自身の気持ちに正直になることの方が大切だってことを勉強するために神様がそうさせるのかもしれない。怖いけどさ、目を開いたままで飛び込む」
「飛び込む?」
「うん、スキーのジャンブなんかと一緒かもしれない。踏切りで躊躇ったら風にあおられてバランスを崩してしまう。場合によっては命にかかわるかもしれない」
「スポーツってだから僕嫌いなんだ」
「可愛くないガキだなあ、お前はとことん。人が真剣に話をしてるのに」
「だってそれ、結局おじさんの為のおじさん自身のことでしょう?」
「そうでもないさ。若い子がきちんとジャンプできりゃ、おじさんみたいな人間はいなくなるかもしれないわけ、だろう?」
「それって……」
「なんだかわからないけどね。とにかく、僕は君が好きだって。いろいろあったけどそう思うって。それを伝えたかったんだと思う」
「僕はたぶん、おじさんを好きになれないと思う。悪いけど」
「うん、それでいいんだ。いや………………」

         ☆☆☆☆☆☆

 気がつくと、僕はカマクラオブジェを背中にしながら、欅と向き合う形で地べたに座込んでいた。今度はそうっと首を回して辺りを見回してみたが、少年の姿はもうどこにも見えなかった。
 時計を見ると、まだ七時を少し回ったところである。猫見酒には充分間に合う時間だ。
 少年は、好きなものを好きだ、と正直に言えるようになるんだろうか。
 僕はまるで少年の未来が自分の過去に繋がっているかのような気持ちになりながら注意深く立上がった。首を左右に振り、カマクラオブ ジェに手を添えて体を支えながら改めて欅の大木を見上げる。
 校庭の東側ではなかったけれど、25年前の故郷の小学校にも、正門の東側に大きな欅の木があったはずだ。
 今年の夏、実家に帰ったら小学校の校庭に行ってみよう。
 僕は、もうほとんど闇に近くなった校庭に向って照れ笑いをして、それから校庭を横切って神社の参道に向って戻り始めた。

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