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  「坂」<短編>

     ☆

 初めて幽霊の噂を聞いたのは、自転車屋のおにいちゃんからだった。
 この町に越してきて半年。坂が多いせいか自転車を使う気になれずにいたのだが、成人病検診の結果肥満の警告ゾーンを大きく上回ってしまったせいもあって、何か体に良いことをしようと思い立った。春になって、風が温かくなったせいもあったかもしれない。
 駅前の自転車屋のお兄ちゃんは私の腹を見ると、人なつこそうな笑いを浮かべて(ケイベツがそこに少しでも含まれていたら私は敢然と席を蹴って別の自転車屋に行こうかと思ったが、私よりも人品が上等なのだろう、そんな雰囲気は感じられなかった)
「お客さん、減量と直接結び付けるとなるとチャリも結構大変っすよ」
 とこちらの腹を見透かしたようなことを言う。
「この辺りはアップダウンがあるから一概にはいえないけど、自転車(チャリ)で痩せようと思ったら一回に30キロは走らないとねえ。」
「30、キロ、ですか?」
「うん、2時間はかからないでしょ」
二時間とはまた。
「まあせっかく空気もいいところに越してきたから、のんびり坂を上ったり降りたりしながら、暖かい間だけでも乗ろうと思って」
「そうそう、のんびりとね。それがいいんすよ。最近レースとか流行りみたいに言うけど、車なんて乗らないで町内(マチウチ、と彼は発音した)はチャリがいちばんっすよねえ」
「で、やっぱり、坂を上ったり下ったりするのはマウンテンバイクって奴がいちばんいいんですか」
「あーそう思うお客さんが多いんすけどね、実際マウンテンバイクっていうのは、オフロードの下り用なんです。普通の人が坂を上るにはもっと車体が軽くてタイヤの細いツーリング車のドロップハンドル、これがいいんすよ。」
「ドロップハンドル、ですか」
「そうそう、つまりね……」
どうも私はすっかり自転車屋のお兄ちゃんお勘どころ、というかツボにはまってしまったようであった。
 ところで、お化けの話である。小一時間ほど自転車の講義を拝聴して、フジとかいうメーカーのなんとかというノーマルチューブの機種が、専門的すぎずにまあまあ軽くて素人の私向きだ、ということになり、私は近いうちに同居人のokを取るべく奮闘することをお兄ちゃんに確約して帰ろうとした時、お兄ちゃんが何気ない様子でこういったのである。
「お客さんは駅から電車に乗って通勤してるんすか」
「ああ、そうだけど」
「あの駅の陸橋を渡って崖沿いに、線路と並行に上っていく坂道が有るでしょう」
「ああ、 毎日そこを上り下りしてますよ」
「あそこに幽霊が出るって噂、 知ってます?」
「え」
「どうも出るらしいんですよ。いえね、あの崖の上はご承知の通りちょっとしたマンジュウ型の丘になってますよね。もともとこれ全体が丘陵っていうか大きな森だったんでしょうね。線路と駅が端っこを削ったからあんな崖になってるけど。丘の上は住宅地に整備されちまって。あ、お客さんもあそこの分譲でしたね。あの崖の上にはその森が少し残ってるんですけどね、そこからあの崖沿いの坂道にかけてね、女の若い幽霊が出るんですって」
「まさか」
「いや本当らしいっすよ。なんでも坂を上っていくと、途中の所に森の方へ上っていく細い道があるらしいんですが、その小道の根っきしあたりだっていいうんですけどね」
「おどかさないでほしいな。弱いんだよ、そういうの」
「いやいや、そういうつもりじゃないっすけど。」
「で、そのお化けはかなり大きいのかい」
「え?」
「あ、いや、そのお化けはもの凄くでかいってちょっと聞いたものだからねある人に」
「なんだあ、お客さんも聞いてたんですか?でも大きいってのは初耳だなあ。大きいっていってもジャイアント馬場みたいな女の幽霊じゃ困るよなあ」
「困るって何が?」
「あ、いえ」
自転車屋のお兄ちゃん相手にお化けの話をつっこんでみても始まらない。そのまま店を出た。

      ☆☆

 坂に幽霊が出るらしい、と次に噂を運んできたのは浩一だった。小三の長男が熱心に、だがまだいささかたどたどしく語る幽霊の噂話は、もどかしくもあり、それだけに奇妙な現実感も感じさせた。
「コウイチ、それはどんな幽霊なんだい」
「子供のユーレイなんだ。でもね、子供なんだけどこーんなにデッカイの」
「えーじゃこの前の飛行船みたいにデッカイの」
「ばかだなあパパ、ユーレイがそんなに大きいわけないじゃないか」
「じゃどのぐらい」
「10メートルぐらいかな」
「それじゃあ坂道いっぱいになってはみ出しちゃうぞお」
「うん、そうだよ。クボタくんも言ってたよ。ヨシマサくんもそう言ってた」
「ほーら、何馬鹿なこと言ってるのよ、二人とも。だんなさん、早く子供たちをお風呂に入れて下さい」
「はいはい」
 なぜかもっと詳しく聞きたい気がしてお風呂に入ってからも水を向けてみたが、浩一はもう話すことは話して満足したといった風情で、ユーレイのことはそれ以上語ろうとしなかった。

       ☆☆☆

 三度目にお化けの話を聞いたのが昨日の夜、駅前のやきとり屋で飲んだ友人からである。
「お化けっていうのはね、だいたい境界線上に発生するものなんだ。日常的な世界と非日常的な世界との間の。だからお化けは場所を選ぶ。たとえばさ、こうやってお前と飲んでるこのやきとり屋な、こういう所にお化けは出ると思うか?」
「思わないね」
「バーカ、やきとり屋は去年からお化けが出てもいいことになったのよ。分かる?」
「分かるわけないだろう、そんなの」
「あ、怒ったな。馬鹿だなお前は。そんなことでよく人事なんて勤まってるな」
「大きなお世話だよ」
「ま、いい。許す。しかし勉強が足りんな。いいか、お化けは境界線上の産物なんだぞ。やきとり屋っていうのはさ、うらぶれた汚さ(マスターごめん、「いやいいっすよ(笑)」)煙に満ちたところで酒を飲んで正気を失うところなわけじゃない。静かすぎる焼き取り屋ってのは困るし、ギャルが騒いでいるような居酒屋じゃこれも困る。ちょうどこの店ぐらいの(あ、マスターこの店なんていうの?鳥正?いい名前だね、いやほんと)一人で飲んでる客がいて、TVが低く掛かっていて、2、3人で喋ってる客もいくつかあって、っていうこういう場所には一人ぐらいお化けがいてもいいわけよ。」
「ふーん」
「ただし男の、な。あ、見ろよ、向うのカウンターの端で飲んでる中年の、おれたちぐらいか?ああいうのはもしかすると幽霊かもしんない」
「ま、女の幽霊がやきとり屋で飲んでるんじゃしょうがないわな」
「だいたいな、今どき化けて出るなんざ女がそんなまどろっこしいことすると思うか?生きてるうちに男をしぼりとっちゃうね。もう女子供は化けて出る必要なんてなくなったわけよ。おれたち中年のとっつあんが思いを屈託させてその揚げ句ストレスがたまって胃を壊してバッタリ往くとするよな、そうするとそのあとひっそりお化けにでもなって、こういう大衆酒場のしょんべん臭いところにきて塩辛で一杯やるわけですよ。けなげで可愛いもんじゃないの……」
どうも話が愚痴に流れていくようであった。
 そのままお化けのように正体不明になった友人Tの肩を担いで店を出る。件の森を見上げると、花見の電飾か?森の奥に光がほの見えている。残された小山の上は公園になっていて、先週あたりから花見でそれなりににぎわっているらしい。
 大学時代の友人であるTは、卒業後すぐ郷里に帰って小学校の教員をしている、と聞いていたが、互いの結婚式に呼んだきり、あとはずっと会わずに過していた。それが再会することになったのは、偶然私が彼の郷里の隣町に家を買うことになり、こちらに越してきてからである。こうして時々酒を飲む習慣が復活したのだが、彼は会うたびに教師はバカだ、以外のことを仕事について語ったことがない。だが、それ以外の役に立たない蘊蓄は意外におもしろかったりもする。この夜はなぜかお化けの話ばかりしていた。
「なあ」「うん?」「起きてるか」「ああ、一応な」
駅前のタクシー乗場のポストの、コンクリートで固めた台座に腰を降ろしたTは、酒のさめぎわからか、青白く細い顔を少し震えさせているようだった。
「おい、T。お前お化けにも詳しいみたいだから聞くけど、お化けに寿命ってあると思うか」
「……」
「有効期限っていうかさ。桜だったらせいぜい三日から一週間ぐらいだろ?」
「そ、それはだな。日本人っていうのはだいたい100年以上前のことは身近な人間のことなど誰も覚えてない国民なんだ。だいたいお前ひいおじいさんの名前なんて知ってるか、知らないだろう。そういうもんよ。お化けだって、いくらたたっても誰も覚えてくれなかったら商売にならんだろうが。その国のお化けの寿命は、その国民の歴史意識の持続に依存するって折口信夫も言ってるよ」
(嘘だろ……)
「最大もって100年ってところかな」
「そうか、100年、か」

    ☆☆☆☆

 タクシーにTを押込み、私は駅の跨線橋を渡って、坂を上りはじめる。見上げると、桜がほとんど坂道におおいかぶさるように咲いている。まるで綿か雲、あるいは雪のようにな量感だ。左側の土手には散った花びらが、これはつつましく鹿の子模様のようにあしらわれていて、いつもなら甲子園大会のような花見のから騒ぎにうんざりしている私も、なにやら心を動かされてしまいそうである。
 その圧倒的なボリュームは、綿菓子が道路の天蓋にでもなっているような風情であった。
 ヨタヨタしながら坂の中腹まで来ると、下界の音がもう不分明にワーンという響きになって、逆に妙な静けさを感じさせた。例の小道の入り口はすぐそこだ。少し催してきたのでその小道に入って用を足そうとすると、先客がいた。隣に立って用を足すのも気が引けるが、我慢できそうにもない。構わず他人と連れしょんをはじめてしまう。だが、始めた途端、しまった、と思った。今日は給料日である。相手はもう立ち小便を終えて(もしかすると元々していなかったのかもしれない)いる。それに対して私は今始めたばかりだ。もし隣の男がバッグをひったくって逃げたとしたら、私はお手上げである。まさか止らない小便を流したまま追いかけるわけにもいかぬ。もし構わず坂道にでて走り出したら、下半身はずぶ濡れになる。通行人から見られたら、どちらが疑われるかは火を見るよりも明らかだ……。
 などと思っているうちに隣の男はおもむろに私に声を掛けてきた。どうもひったくりではないらしい。だが抱き付きスリの線はまだ残っている……
「あの、失礼ですが……」
「……」
小便をしている最中に見知らぬ人から声を掛けられるというのは具合の悪いものである。返事のしようがなく私は黙ったままうなずいた。こういう時に限ってなかなか終わらない。「この辺りにお化けが出るっていうんですが、御存知ですか」
「は?あ、いや」
男は私が用を足し終わらないのを意に介さずタバコに火をつけだした。何て奴だ。
「もしかするとそれってここの町内会の陰謀かもしれませんね」
「はあ?」
「いや、この小道の上に何軒か家がありましてね。そこの人たちがこの小道で立ち小便をする酔漢が多過ぎて困ると苦情を言ってるらしいんですわ。私も実は一度ここで犬をけしかけられたことがありましてねえ、アハハ」
犬!?冗談ごとではない。ようやく仕事が終わったのでそそくさと身支度をととのえ、やっと目を上げて男の顔を覗きこんだ。が、小道の奥にいるためか、表情がよく見えなかった。年の頃は私よりも少し上かもしれない。やはりただの酔っ払いらしかった。
「まあ、気を付けた方がいいですわ。ほら、そこに看板が立っておるでしょう」
そういうと男はタバコを土の地面に落として踏み付けた。柔らかい土の地面に思いの外足が深く沈んだようにも見えたが、男は、つ、と身を翻すと小道をすっと上っていった。
 私はなんだかほっとすると同時に、そそくさと坂道の方に引き返した。なるほど小道の入り口にま新しい木の立て札が立ててあった。
「立ち小便するべからず」
あ。
思い直して小道を見つめ直す。この道の上の住人が怒っていた、と言っていたのに、この小道を上っていくというのはおかしい。もしかして彼は当の上の住人だったのだろうか。考えてみると立ち小便をしているところを見たわけではなかった。仲間だと思ったのも早とちりかもしれない。とするとこれはかなりの冷や汗ものである。あまり堂々と始めてしまったので面と向って注意することもできず、あんなお化けの話を持ち出して仄めかしたということも十分考えられる。私は慌ててまた坂を上りはじめた。 ふと駅の側に目をやると、電気のまぶしい駅のプラットホームの向う側、これは町の方から森に向って、巨大な白いものが向ってきそうだった。イトーヨーカドーのハトの看板である。桜の花の天蓋の雪のような白さと、イトーヨーカドーのハトの白さがせめぎあっている夜空は、その二つが白く輝いている分だけ、闇を深く宿しているようでもあった。それはまた私自身のばつの悪さをも写していただろうか。
 印画紙の夜空 桜の天蓋とハトの白さを映す
 我ながらひどい句である。職場報にも載せられないな、と突然仕事のことを思いだした。

      ☆☆☆☆☆

 次の日、すなわち今朝のことだが、珍しく早起きした同居人が飯の支度をしながら、
「ねえゆうべは駅から歩いてきたの」
「あ、ああ。」
「お化け、出なかった?」
「お化けはもう沢山だよ」
「あのね、隣の奥さんが見たんだって、幽霊。さっき新聞取りに出たら玄関先で会ってさ、 言ってた」
「ばかばかしいって言ってたのはあなたでしょうに。」
「それがね、中年のおばさんの幽霊なんだって。駅からずっと横並びぐらいに坂の途中まで一緒に歩いてきて、坂の途中でぱっといなくなっちゃったんだってよ」
「ふーん」
「ま、そんなことあるわけないわよね」
「うん、まあね」
 昨日の様子では今日あたり桜が満開である。風が少しあるから、花吹雪の中を出勤できるかもしれない。家を出ると、同じように区切られた分譲住宅地に同じ様な住宅がこれでもかというぐらい縦横に並んでいて眩暈がしそうだ。他人事ではない自分もその中の一人なのだが。
 考えてみると、自宅から職場まで、あの桜の咲いた土手ぐらいしか、本当の地面に出会わないのだ。お化けの噂があの坂道に集中するのも無理はないのかもしれない。あとは人工物ばかりで、境界線があそこしか残っていないのだから。
 住宅地の緩い上りを終えると、今度は同じような傾斜の下りになる。この道が線路とぶつかったところを右に折れて下るとあの坂に出る。そういえば坂の名前は何というのだろう。坂は坂。名前などないのかもしれない。ちなみにこの団地の名前は「スパ青山台」といる。このセンスで名前を付けられるぐらいなら、坂も無名であることを選ぶだろう。
 駅が近くなると、スーツ姿が次第に群れをなすように集まってくる。同じ電車で長い通勤をこなす同志たち、なのだが、互いに顔は見知っていても、話をすることはめったになかった。そう考えてみると、昨夜の男はとぼけていたが、憎めないようにも思えてくる。 右折して急な坂を下り始めると、はなびらが一斉にオジサンたちの上にふりそそいできた。桜ふぶきはうら若い女性にふさわしいと思っていたが、平等にふりそそいでくれるようだ。
 「風が吹いて桜のはなびらが舞うだけで、私はなにものかに感謝したくなります」とは大手託児の詩の一節だったか。
 例の小道のところにさしかかったのでちょっと足を緩めてみる。小道は確かにあったが、下草に蔽われていて昨夜の記憶とは大分異なる。立ち小便禁止の立て札も見えなかった。
 中年のお化け。
 まさか。
 確かめて見ようとも思ったが、電車の時間に押されて通り過ぎる。
 昨夜の夜空の印画紙は、桜とヨーカドーのハトの外に中年の男とお化けの連れションもちゃんと映してくれていただろうか。

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