尾花沢(鈴木清風、養泉寺)

芭蕉『おくのほそ道』 「尾花沢」
 尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども、志卑しからず。都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情をも知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。
  涼しさをわが宿にしてねまるなり
  這ひ出でよ飼屋が下の蟾の声
  眉掃きを俤にして紅粉の花
  蚕飼ひする人は古代の姿かな  曾良

曽良『随行日記』
○十七日 快晴。堺田ヲ立。
(一リ半)笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。(サゝ森、三リ)市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出。堺田より案内者ニ荷持せ越也。市野ゝ五六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。
昼過、清風ヘ着、一宿ス。
○十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。
○十九日 朝晴ル。素英(ナラ茶賞ス。)夕方小雨ス。廿日 小雨。廿一日 朝、小三良ヘ被招。同晩。沼沢所左衛門ヘ被招。此ノ夜、清風ニ宿。
廿二日 (晩)、素英ヘ被招。廿三日ノ夜、秋調ヘ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。
廿四日之晩、一橋、寺ニテ持賞ス。十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ。
○秋調 仁左衛門 ○素英 村川伊左衛門 ○一中 町岡素雲 ○一橋 田中藤十良、遊川 沼澤所左衛門、東陽 歌川平蔵
○(大石田)一栄 高野平右衛門 ○(同)川水 高桑加助 ○(上京)鈴木宗専、俳名似林、息小三良。(新庄)渋谷甚兵ヘ風流。
〇廿五日 折々小雨ス。大石田ヨリ川水入来、連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚 申待ニテ被招。廿六日 昼ヨリ於遊川ニ、東陽持賞ス。此日モ小雨ス。 
〇廿七日 天氣能。辰ノ中尅、尾花澤ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡迄被送ル。〇廿五日 折々小雨ス。大石田(1)ヨリ川水入來、連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニ テ庚申待(2)ニテ被招。
 廿六日 昼ヨリ於遊川ニ東陽持賞ス。此日モ小雨ス。


「おくのほそ道」メモ 「尾花沢と芭蕉」

 尾花沢
 場所:山形県尾花沢市。
 「おくのほそ道」の旅には、いくつかの拠点がある。それは、芭蕉の「知る人」とのめぐり会いであった。その拠点のひとつが、ここ尾花沢である。
 鈴木清風宅に着いたのは、元禄二年(一六八九)五月十七日(陽暦七月三日)昼過ぎであった。尾花沢は、当時幕府代官の陣屋町と、羽州街道の宿場町としての性格を兼ね備えた町であった。
 幕府陣屋町としては、尾花沢は最北端にあり、就任した代官は四十数人にのぼっているが、これらすべての代官の治績は多くは知られてはいない。ただ、飢饉のあった宝暦、天明、天保の各時代に代官を勤めた辻六郎左衛門、早川伊兵衛、大貫治右衛門が名代官として後世に知られ、市内の各地に徳政碑や功徳碑が建てられている。
 宿場町としての尾花沢は、交通上の要地であり、北に向っては本街道(羽州街道)、右は延沢、銀山、上の畑を通じて仙台に通じる仙台街道軽井沢越(銀山越)や新庄領に通じる山刀伐越や背坂越であり、さらに南は江戸への本街道である。
 また、宿場町としての尾花沢は、六斎市の開催が認められた市町として、尾花沢盆地の経済・文化の中心として発展していた。
 芭蕉と曽良は、ここ尾花沢に十泊十一日間滞在している。
 「曽良随行日記」によると、清風宅へは十七日、二十一日、二十三日の三泊で、あとは梺町の養泉寺に泊まっている。これは清風のはからいであり、当時の養泉寺は建立したばかりで木の香も新たらしく、清風に代わって村川素栄が随身して接待した。
 尾花沢の俳人たちは、毎日のように芭蕉と曽良を自宅に招いたり、あるいは馳走を持参して訪ね、地元の俳人と芭蕉らとのこのような交流は他所であまり見られなかった。芭蕉は、この滞在中に「すずしさを」の巻と「おきふしの」の巻の二歌仙を巻いている。
 清風のこのような配慮に対して、芭蕉は「さすがに旅の情けを知る者」と感嘆して書きとめている。ことに日待ち、庚申待ちの土俗信仰的な行事にも招待され、夜更けまで地元の人々の話に耳を傾け、「みちのく」の風俗習慣に触れたのである。
 ※参考文献:芭蕉・清風歴史資料館発行『芭蕉と清風』。

 鈴木清風宅

 場所:山形県尾花沢市中町。
 鈴木清風は、最上紅花の大規模な問屋としても知られており、つぎのようにも伝えられている。
 元禄十五年の夏のことである。例年のように紅花の荷を江戸に運んだ清風を、江戸の商人たちは不買同盟を結んで清風の荷を拒んだ これに怒った清風は、一計を案じた。紅花を品川海岸に運び、燃やしてしまったのである。実は、燃やしたのはカンナ屑を赤く染めたものであったという。江戸の商人たちは安く買い叩こうとしたのであろう。
 ところが、翌日から紅花の荷は大暴騰。江戸商人の紅花買い漁りがはじまる。清風はこれで三万両の利益をあげたという。
 ところが清風は、「尋常の商売で儲けた金ではない。いっそ吉原できれいに打ち撒いて、金で身を苦しめている遊女たちを慰めてやろう」と、三日三晩吉原の大門を閉じ、遊女たちに休養を与えた。
 吉原の高尾太夫は、その清風の意気に感じて深く愛するようになった。高尾太夫は、清風との別れを惜しみ、秘蔵の柿本人麿像と、「君は今駒形あたりほととぎす」の短冊を贈った。
 この柿本人麿像は、鈴木家に代々伝わり、屋敷内に祠を建てて祀っている。
 この伝説は、清風の人となりを伝えるものであろう。

 養泉寺

 (大きい画像が表示されます。)
 場所:山形県尾花沢市梺町。
 養泉寺には、芭蕉の詠んだ「涼しさを我が宿にしてねまる也」の凉し塚がある。長旅の疲れを癒した芭蕉を偲ばせてくれる。 山門を入ってすぐに、糸すすきがある。
 養泉寺の西側は、旧羽州街道。西方面を仰ぐと月山が見える。

 養泉寺境内、「涼し塚」

 (大きい画像が表示されます。)

 羽州街道

 (大きい画像が表示されます。)

 芭蕉・清風歴史資料館

 (大きい画像が表示されます。)
 芭蕉・清風歴史資料館は、芭蕉をもてなした鈴木清風家のそばにあり、芭蕉と清風の出会いや清風についての資料を展示している。また、地域文化の保存・発掘を行い、特別展が開かれる。
 この資料館の建物は、造り酒屋の旧丸屋・鈴木弥兵衛家であったものを、江戸時代の雪国の町家建築として復元・活用したものである。

 芭蕉・清風歴史資料館内部

 (大きい画像が表示されます。)

 芭蕉・清風歴史資料館前の芭蕉像

 (大きい画像が表示されます。)

 尾花沢の俳諧
 尾花沢の俳諧の模様については、曾良『随行日記』にも一部が出ているが、いろいろな著作があり、研究がなされている。あらましについては、芭蕉・清風歴史資料館発行の『芭蕉と清風』がある。


周辺の風景

 清風ゆかりの念通寺

 (大きい画像が表示されます。)
 鈴木清風家の近くに浄土真宗大谷派念通寺がある。念通寺は寛永七年(一六三〇)、三河の人、花邑浄願坊が創立した。
 本堂の建立は、元禄十年(一六九七)に鈴木清風が独力で寄進したと言われている。清風の法名は、釈道祐。境内にある、骨堂と呼ばれる共同墓地は念通寺檀家全ての墓で、寺の家族、鈴木清風の遺骨が一緒に納められている。
 幕末に近い安政二年、京都から尾花沢にたどり着いた入江為積卿は、念通寺で客死、骨堂のそばに納められ、墓碑が立っている。
 念通寺の歴代住職の中には、俳諧の道に造詣の深い方がいて、『尾花の系譜』という尾花沢地方の俳諧の系列を記した書物の中に名前が出ている。
 また、念通寺には寛政年間に、京都から雅楽が伝えられ、現在、「尾花沢雅楽」として市の指定文化財になっている。

 念通寺付近の人麻呂碑

 本堂のそばには、柿本人麻呂の歌碑があり、刻んだ字はもう判別しがたい。片わらの木の札に、碑面をこう書かれている。「陸奥乃尾花賀澤能人奈連波 澤潟摺り乃衣着南満志」。「むつの尾花が沢の人ならば 沢瀉摺りの衣着なまし」となろうか。「沢瀉摺り」とは、沢瀉の葉で染めた布の意。